関係側面の教育学的優位性
一 システム的 一構成主義的教育学 の視点か ら一
Pedagogical Priority of the lRelational Aspect
一
Fron■the Perspectives of the Systematic‐ Constructivistic Pedagogy一
高 橋 洸 治 Kohii TAKAHASHI
(平成
9年
10月 6日 受理)
は じめに
「現在 の教育学 は発展途上 にある、 とい うのは教育学 は今 日に至 るまで関係次元 を過小評価 しているか らである」 (1)。 K.ラ イヒ
(ケル ン大学教授 )に よるこの指摘 は、 システム的 コミュニ ケーションの理論 を取 り込んだ構成主義的な視点か らなされた ものである。その意図は、教育 における「内容側面」 と「関係側面」 との区分 を再考 し、それに基づいて両者の関係 を改めて 解明することによって、教育活動お よび学習活動 を真 に活性化 させ ることにある。
いわゆる伝統的な教育学 における教師 と生徒 との教育的な関係 は、教育内容 を優先 させそこ か ら導出された く内容指向モデル〉である。その際、生徒の能動的な学習 に工夫 と配慮がなさ れた として も、一方向的な内容伝達の成否が成果基準 とされているのである。〈方法〉に対する
〈内容〉の優位性 を前提 とした種類 の教授学 はそ うしたモデルを支持 してきた と言 えるのであ る。
知識の教授 に焦点 を置いた内容優位性 という教授学の原則 は、科学
(学問 )を 重視す る立場 か ら設定 された ものである。 この原則 を今後 も保守 し続 けることは困難であるのみな らず、適 切 さを欠 くものである。その ことは人間の知性や科学 に関する新たな研究動向、そして学校教 育の改革動向か ら見て も明 らかである。だが他方 において、教育 の「関係側面」 に関する理論 が在 るのか どうかが問われるのである。 この面での研究 はそれな りに積 み重ね られてお り、 さ
らに深 め られることが期待 される。
ここで取 り上 げているライヒの研究 は「関係側面の教育学的な優位性」 を論証 しているもの である。 この研究 は単 に「関係側面」 を追究するので はな く、それ と「内容側面」 との連関を も解明 している。その意味おいて教育学的に重要な意味 をもっていると思われるのである。そ の点 に注 目す るとい う観点か ら、彼の理論内容 を解説的に考察す ることが本稿の課題 とされて いる。なお、その考察 に入 る前 に、教育 を社会的文脈 と関連づけて捉 える見解 に触れ、教育 に おける関係次元 を別の角度か ら究明 している最近 の動向を押 さえてお くことにする。
1.教 育・ 学習 と社会的な文脈
教育 ない し学校教育 を改革 しようとす る場合 に立ち戻 って参照 され るのはル ソーの教育論で
高 橋 洸 治
ある。幾度かの くル ソー・ リバイバル〉がそれを示 している。 しか し、教育的関係での内容 ― 関係側面の区分か ら見 ると、彼の教育論 は関係側面が貧弱である。エ ミールは、15歳 になるま で主 として内容側面である自然 と事物 による教育 を受 けている。15歳 を過 ぎて初 めて人 と対話 で きるほどに成長するか らである。教師 は自然 と事物 をアレンジし、それ らによって生徒が規 律 を獲得で きるように別 の高い次元か ら見守 っているのである。 自然 と事物 は、人間によって 作 られた ものではな く、理性 の規準 を充たす内容 として重視 されたのである。 こうした考 え方 が、教育 における内容 レベルの過度の強調 をもた らしたのである。言 うまで もな く彼 は当時の 書物 ―知識学校 を批判 し、11歳迄 は読書 を認 めてはいないが、その真意 は理性的な内容 を優先 させ ることであった。それにより、教師 と生徒 との社会的
(人間的 )な 関係 は第二次的なもの とされているのである。。
)ここで、「教育的関係 Jと 「出会い Jに ついて押 さえてお こう。それによって、 ドイツの
(精神科学的 )教 育学 における内容次元 と関係次元 とのいわば典型的なジレンマを読 み とることが できるか らである。林忠幸氏
(教授福岡教育大 )の 論述 を要約的に示せば次のようになる。教 師 と生徒 との間の「教育的関係Jを 教育学の主要概念 として捉 えたのは H.ノ ールである。彼 は 次のように指摘 している。〈 教育活動の最後の秘密 は、正 しい教育的関係、すなわち教育者 と被 教育者 とを結びつける固有の創造関係である〉 と。そ して、そのノール を師 とす る 0.F.ボ ル ノーは、「出会い J概 念 を教育学 に導入 した。彼 によれば、く 人間 と人間 とがその究極的な核心 において出会 うやいなや、すべての内容的 に規定 し得 るものは非本質的な ものになる〉。 した がって、「出会い Jに おいては「教育的関係 Jの 本質的な属性が脱落 し、「人間的な出会い」だ
けが存在す るか ら、前者 は後者の一形態 としては認 められないのである。③
そ こでは、教育的関係 は内容 によって本質的に規定 され るとの観点が保持 されている。 しか し同時 に、
F出会い」とい う人間的な関係 を切 り捨てた教育的関係が果た して 「固有 の創造関係」
とな りうるのか、 との疑念 も潜在 させている。敢 えて言えば、内容 の教授 を本質 としていると す る教育的関係の概念 は、人間的な関係 を排除せざるをえない と結論づ ける点 に、その教育学 的思考 の精神的な脱社会性が現れているのである。
関係側面 を内容側面への従属的な位置づ けか ら解 き放つためには、学習者 についての伝統的 な根強い見方を転換する必要があると思われ る。すなわち、く単独の学習者〉とい う前提 を見直 す とい うことである。西欧の認識論 は基本的には 隔む」 と「世界」 との二元論の下で、認識主 観 ない し認識主体 の個人性イメージを定着 させてきた。だが、近年 コ ミュニケーション理論 な どに依拠 して く間主観性〉 とか く 相互主観〉が主張 されるようになってきている。心理学の領 域では
J.ブルーナーが次のような指摘 をしている。く人間の学習 は、自然 と対決 させ られた孤独 な有機体
(生物 )と いうパ ラダイムにおいて描写 されてきた〉 と。 この「孤独な有機体」のパ ラダイムは、行動主義者およびピアジェ等の認知主義者のアプローチを規定 しているのである。
それ らのアプローチの共通点 は、社会的な活動への参加 を排除 していることである。それによっ て、く分かち合 うこと〉〈 相互的に築 き上 げること〉く 他者 と調節 し合 う〉といった事柄 が軽視 さ れて、狭 い個人主義的な学習観が普及 されたのである。 0‐
そうしたアプローチでは学習の全体的なコンセプ トは得 られない との立場か ら認知への第二 のアプローチが模索 され、そ こに登場 した一つが「状況 に埋 め込 まれた学習 (situated leam‐
ing)」
理論である。
この「状況 に埋 め込 まれた学習」の基本的な主張 は、く思考 と学習 は、それ らが適切 な働 きを
す るために、行為の直接的な状況 に依存 している〉 ということである。その立場 を支持 してい る主な研究者 は、
H。ドレイファス、 L.ヴ ィゴツキーそして
J.レイヴである。彼 らおよび彼女の 見解 の要点 は次のようなものである。 0
ドレイファス
(カリフォルニア大学の哲学教授 )は 、心のコンピュタモデルの批判 を通 して、
思考 は場面 に組み込 まれた実践的な活動 にその起源 を有 していることを主張 している。その際 特 に依拠 しているのは、近代技術主義 に対するハイデ ッガーの現象学的な批判である。そのコ ンピュータモデルの問題点 は、それが有意味な ことや偶然性 を捉 えるために予 め決定 された ル‐ルを設定せざるをえない とい う点である。それゆえ、そのルール を想定 した特定の場面 に 対 してのみその機能 は需
J約され ることになる。
それに対 して人間の思考 はルールか ら引 き出され るのではない。ルール は思考類型の記述の ために有用な ものではあるが。人間 は実践的に有意味なことに対 して注意 を払 う豊かな柔軟性 をもって活動 し、そこでの予期 されなかった帰結 に対処することにを通 して思考 と学習 を遂行 す るのである。要するに、 「人間の理解 は、世界の中での自分の流儀
(仕方、生 き方 )を 見出す 方法 を知 ることと類似 のスキルであって、多 くの事実やそれ らを関係づ けるためのルールを知
ることではないのである」 ヽ
ブィゴツキーの研究 は、米国における文化的な関心 をもつ心理学者や人類学者 に影響 をもた らしている。彼の主張 は、 より高次の心的機能 は社会的な活動への参加 を通 して発達す る、 と い うものである。それは、学習 にとって社会的な文脈が決定的に重要であることを指摘するも のである。その具体的な意味 は次の記述で示 される。く人 と人 との過程 は、個人内の過程へ と変 換 される。子 どもの文化的な発達 におけるあらゆる機能 は二度現れ る。最初 は社会的なレベル で、そして三度 目は個人 のレベルで。すなわち、人 と人 との間で
(相互心理学的に
)、そして二 度 目は子 どもの内側で
(内面心理学的に
)〉。 これは、思考
(記号 )の 意味 は社会的相互作用に
よって生み出されることを強調 している。
最後の J。 レイヴは、人類学者の立場か ら、徒弟制のメタファーを用いて学習 にアプローナし ている。彼女 によれば、行動主義者 と認知主義者 は「受 け身的な学習者仮説」 をもっている。
とい うのは彼 らは、学習場面 は与 えられた一連 のルール によって前 もつて規定 されている、 と の考 えをもっているか らである。それに対 してレイブが注 目した リベ リアの仕立屋では、技能 は直接的な教授なしに、又 はほんの僅かな教授だけで学習 されるのである。徒弟 は専門性 と経 済的 リスクの少ない仕事か ら始 めて、 より高度の中心的な仕事へ と移行 しつつ技能 を深 めてい くのである。彼女 はこれを「実習の共同体への正統的周辺参加」理論 として まとめている。そ こにおいて、学習に関する次の知見が出された。
(1)徒弟制 としての学習 において、個人の社会 的な役割 は「学習」の一部分 として変化する。
(2)個人 は活動の「参加者」 もしくは共同創出者 である。そして
(3)何らかの重要 さをほとん どの学習 は、「共同体」の実際的な活動への参加 の帰 結 として生ず る。要す るに、学習 とは単 なる孤立 した課題 を解 くことではな く、共同体 の一人 立 ちで きる成員 になることとして捉 えられているのである。
上のような「状況 に埋 め込 まれた学習」理論の基本的な特徴 は、心の社会的な起源 を主張 し
ていることである。それゆえ、そこでは社会的な活動が重視 され、思考 を行為の形式 として捉
え、 そして学習が他者の活動 に共同的かつ有意味 に関係づけられ るもの として規定 されている
のである。 その意味で、それは社会化 の過程 を重視 しているのである。 しか し、 レイヴにおい
ては、それは専門的な共同体での社会化へ と限定 されてお り、人格全体への視野が失われてい
高 橋 洸 治
ると指摘で きる。つ まり参加 の強調 は、既存の社会ない し文化 に対する表層的で狭い関わ りに 留 まらせ るとい う問題点 を含んでいると言 えよう。
2。
内容 と関係のメタコミュニケーシ ョン
教育的な関係 における「内容側面」 と「関係側面」 についての考察 に新たな手掛か りを与 え るのは、 コ ミュニケーションに関す るシステム理論的な見方である。それは、人間同士の間の 問題 を相互作用の問題 として捉 える。 コミュニケーションにおいて、各個人 の行為 は、他の関 与す る人格 に作用 を及ぼし、そしてその行為 は再び自己の人格 に影響 を返すのである。そして、
そのコ ミュニケーションにおいて決定的に重要なのは、関与する人たちの間の関係である。
その関係側面 は、人々の間の振 る舞い、態度そして期待 に関わるものである。 これは情動の 深みにも関わる。他方、内容側面 は情報 によって特徴づ けられ、事柄 についての内容的な問題 に関わ る。それ ら両者の相互連関 は次の定式化 によって示 され る。すなわち、く内容側面 はデー タを伝 え、関係側面 はそのデータが把握 される仕方を指示 している〉。このテーゼは、人々 は内 容 を介 してのみ意思疎通するのではない とい う事実 を指摘 しているのである。
今 日では周知 されているように、 コ ミュニケーションには二つの種類がある。一つはアナロ グ的なコミュニケーションで、 ここではとりわけ身体言語なメッセージ
(身振 りによる受容、
拒絶 な ど )が 送 られる。 もう一つはディジタル的なコミュニケーションで、内容的・ シンボル 的なデータが送 られ る。 このメッセージの二重性 を無視 し、内容の側面でのみ意思疎通 しよう
とすれば、それは単 に述べ るだけの ことに留 まるのである。 それに対 して、その二重性 を自覚 し、 どんなアナログ的な関与が求 められているのかについて配慮するな らば、そこにおいてい わゆるメタコミュニケーションが生ず ることになるのである。 このメタコ ミュニケーションに よって、送 り手 と受 け手 とは、身体言語的に、感情 と気持 ちにおいて表 される関係 をもってい るとい うことを、互いに認 め合う のである。
内容 について相互 にコミュニケー トされている場合、それは「通常の」 コミュニケーション である。教師が生徒 に内容教材 を伝 えることは、知識伝達の補足的 コミュニケーションと言 え る。それに対 して、教師がメタコミュニケーションの視点 を取れば、何 よりもまず生徒たち と 話 し合 う必要が出て くる。例 えば、クラスの雰囲気、授業 に対す る気持 ち とか生徒 を慣慨 させ ていることな どについて。 とい うのは、関係側面で問題 となる事柄があると、それは内容の内 に不必要 に投影 されて持 ち込 まれ、内容 の適切 な理解 に影響 をもた らすか らである。その意味 でメタコ ミュニケーションはコ ミュニケーションに対 して優先 してい るので ある。 コ ミュニ ケーション理論の観点か ら言えば、それは 〈障害 は優先する。〉 とい う教育学的な規則である。
関係 に関わ るコミュニケニションとしてのメタコミュニケーションは教育学 に とって重要な ことである。それに基づいてライ ヒは「関係側面の教育学的な優先性」 0と い う視点 を提起 して いるのである。 しか し、 ここで留意すへ き点 は、メタコミュニケーションは関係 に対 してのみ な らず、内容側面 に対 して も意味 をもっているとするライヒの指摘である。内容側面でのメタ コミユニケーションの可能性 は、 「観察者の視点」を取 り上 げることによって開かれるのである。
「観察者の視点」の採用 は近年一層普及 しつつある。実在論的な く 客観的な知識〉への疑念
を背景 にして認識お よび出来事 における 〈不確実性〉く不確定性〉そして く相対性〉の意識が浸
透 してきた。 それは同時 に、科学 さらには文化 は人間によって構成 された ものであるとの認識
を伴 つているのである。構成 された ものであれば、 自覚の有無 を問わず、何 らかの視点、観点 に基づいているのである。従 って、いわゆる学問的な内容 を理解す るためには、それが どんな 観点か ら捉 えられたかを押 さえる必要がある、 と云われるのである。
〈 現実 を把握す ること〉を理解す る場合 にも「観察者の視点」が必要である。くあらゆる知覚 に観察者 は不可欠である〉。観察者が多様であれば、その知覚 も多様である。だか らこそ、知覚 は観察者の偏見 によって適切 さを欠 くこともある。いずれにせ よ、多様 な知覚 によって現実 も 多様 に構成 されるのである。 したがって、教育や学習 において もこの「観察者の視点」 は有効 な役割 を果たす ものである。つ まり、教師や生徒 を観察者 して捉 えることか ら、教育や学習 に 関 して従来 とは異なる見方な どが生 じて くるのである。
「観察者 の視点」 を導入す ることによって、メタコミュニケーションは内容 とも結びついて
「内容的なメタコミュニケーション」 を成立 させ る。それ ともう一つの「関係 に係わるメタコ ミュニケーション」
(「関係 コミュニケーシヨン」
)の視点か らライヒは次のようなテーゼを提示 している ([]内 は筆者
)。0
(a)内
容的なメタコミュニケーシ ョンのテーゼ
・ 内容 は非常 に多様な抽象性 の度合いを示す。具体的な ことか ら抽象的な ことへの、感覚的 な ことか ら超感覚的なことへの、直接的な知覚か ら想起 された感情への間で。
・ 観察者が内容 についてメタコ ミュニケ ,シ ョンす る場合、観察者 は抽象的な体系および理 解 または説明 をする秩序
[論理 ]を 他の異なるものに変換する。 そして この異なるものか
ら、その内容が新たな光 または変更 された視点 において現れるようにする。
Oそ
のようなメタコミュニケーションの帰結 は、通常、内容の秩序
[論理 ]の 相対化である。
それは、く 外側か ら〉内容 を見 るために内容 の秩序
[論理 ]か ら飛び出す ことによって行わ れ る。その ようなメタコミュニケーションの観点か ら見 ると、人 はシンボル的な
(内容の
)秩序
[論理 ]に 捕 らわれた者 として受 け止められ る。 このメタコ ミュニケーションは、 ド グマ的な思考の東縛か らの解放 に寄与 するとともに、内容的な革新 を可能 にすることにも 寄与す る。そして、これは とりわけ視点の転換、創造性および批判能力 を必要 としている。
(D関 係 コミュニケーシ ョン
(関係 に係わるメタコミョニケーシ ョン )の テーゼ
・ 関係 は非常 に多様な形態 を示す。それ らの形態 は、正 しい とか間違 っている、真実 とか真 実でない というような規則 に従 つて築かれるものではない。関係 は常 に内容 にも関わ りを
もつが、内容の中に解消 されることはない。
・ 観察者が関係 を介 してメタコミュニケーションす る場合、観察者 はその知覚 に従 った展開 過程 を一時中断する。それは、理解 または説明す る秩序
[論理 ]を 獲得す るためである。
メタコミュニケーションが関係 の形 を透明にするのは、すべての関わ りをもつ観察者が意 見 を表明す る場合である。
。そのようなメタコミュニケーションの帰結 は、通常、開かれた関係である。その関係にお
いて、共通点 と隔た りとが主題化 され、そして様々な立場が明 らかにされ る。そのように
して、人 は何かに捕 らえられた り巻 き込 まれている状態か ら解 き放 され、葛藤 を処理する
ことができるようになる。 しか し、それは他者への評価 を、そしてその評価 を可能 にする
自分 自身の自己価値感 を、 そして批判 に耐 える能力 を必要 としているのである。
高 橋 洸 治
これ らのテーゼは特に目新 しいとか高度すぎるというものではない。けれども、 これらを指 針にして教育指導 と学習実践が遂行 されるならば、教育的な関係の活性化が促進されるであろ う。そして、観察者 としての生徒は、そうした実践的な関係能力を充実させて、変動ないし不 確定性を正常態 とするこれからの社会に適応 しうる人間的な力量を獲得することになるであろ
う。
3.関 係側面の展開 : く 想像的なもの〉 と くリアルなもの〉の視点から
教育的な関係において内容 と関係 とは相互に作用しあっている。内容 は基本的に記号的なも のであり、そして関係 は基本的に教師 と生徒 との人間関係である。したがって、記号的なもの と人間関係が相互作用することになる。その相互作用は、内容
(教材 )と 生徒そして教師を結 ぶいわゆる教授の三角形で示されるものである。それら三者の相互作用を通 して授業は展開さ れるのである。その作用関係 は記号を媒介にしている。しかし、実際には記号だけではなく、
感情や欲求 も深 く係わっていることを我々は承知 している。近年の教育学において、例えば認 知的なもの・情動的なもの・心理運動的なものという三つの学習次元の区分が考慮されている のである。
そうした試みから確認 しな くてならないのは、教師は認知的一記号的な仕方だけでは内容を 伝 えることはできないということである。子 どもたちがもつ他の次元の感情、体験、身体的緊 張状態、運動的な快感などを尊重する必要があるし、現に授業案などに織 り込まれている。け れども、そこではそれ ら他の次元の事柄は教育の機能的な道具ないし手掛か りとして利用され ている状態に留 まっている。
それに対 してライヒは、願望・欲求・衝動などをまとめて「想像的なもの」 とし、それをコ ミュニケーションの規定要因 として位置づけるのである。 この想像的なものが人 と人 との関係 を、そして個人 と記号的内容 との関係を仲介するのである。そしてまた教育的関係、授業を動 的に活性あるものとするのである。
ライヒは教育学が考慮すべき重要な事柄 としてこの F創 造的なもの」の他に「記号的世界」
そして「 リアルな出来事」を挙げている。それら三つの鍵概念の検討を通して「観察者の視点」
に基づ く F関 係側面」の特徴が解明されているのである。 ここでは「創造的なもの」を中心に してその特徴 を把握することにする。
いわゆる く自己 と他者 との鏡像関係〉理論によって指摘されているように、我々は他者の視 線 との関わ りで想像的に自己のアイデンティティを獲得するのである。そうしたことの考察を 経てライヒは「想像的な鏡像における主体は他の主体 と直接的にはコミュニケー トすることが できな くて、常に想像の通路によって媒介されている。」
(のということを彼のコミユニケーショ
ンモデルの基本原員
Jとするのである。
我々は他者 とコンタク トをとる場合に、まず彼についての像
(イメージ )を 作 る。その像は
我々の願望表象である。それは実際に会 うことによつて訂正され他者の現実に適合される。こ
の一定の適合性をもつ像は、やがてその他者を言語で表現する際の動因となる。 しかし、言語
での表現 と想像的な像 とは完全に一致するものではな く常に質的な隔た りをもっている。その
隔た りは両者のあらゆるコミュニケーションのフィー ドバ ックによって修正され続けるもので
ある。その意味において、純粋 に自律的な主体 または他の主体は存在 しないと言えよう。つま
り、主体 は自分の想像的な自我に媒介されて、他者の想像された自我への関係を見出すのであ
る。
ここで、想像的なものの正体 を確認 してお こう。ライヒによれば、それは「欲求 という概念 で まとめ られる自分 自身の内的衝動」である。明確 に自覚 されていない として も、我々 は常 に 自分の欲求の想像的な流れの中に居 るのである。その流れにおいて我々 は自分 の眼差 しと視点 を立 ち上が らせ、それに伴いイメージ と感情 を生み出 している。 こうした想像的な ものに促 さ れて我々 は他者 を経験 し知覚 して他者 をいわば「構成す る」のである。言語的な把握 はそれに 依拠 して構成 されるのである。
しか し、現状 においては記号的なシステムが想像的な ものを制圧 していると言 えよう。記号 システムヘの過大評価 と過大 な期待 は想像的な ものの息の根 を止 めようとさえしている。 この 状態 は教育学的には教師 と生徒 との真のコミュニケーションの不在 として現れ る。だが、その 不在 はいつ まで も続 くものではない。教師 と生徒 における「共感 と反感」が消 えてしまっては いないか らである。それ らはここで意味 されている想像的なものの現れなのである。
そうした視点か ら見 ると、教職 における適性 は専門的な記号的適性 とともに、 それ以上の重 みをもたせての想像的なもの と結びついた適性である。後者の適性 は、記号的内容の トランス ポー トに とって何 よりも重要な ものである。 ここにおいて も関係側面の優位性が現れるのであ る。
だが、想像的な ものは全面的に信頼 で きるものではない。想像的な願望 は単なる幻覚や幻想 に留 まり、現実的な生活か ら遊離 させて しまうこともあ り得 る。そして想像的な ものの流れに のみ逃避的に身 を委ねてしまうと、アイデンティティの不在化 に陥 ることになる。とい うのは、
想像的な ものは言語的なシンボル を用いて表示 されることによつてのみその存在 アイデンティ ティを自己意識おいて獲得で きるか らである。
幻覚や 自昼夢のような想像的な ものに境界線 を設定 しているのは現実性である。 自然および 社会 において生ず る出来事が現実的な ことである。 けれ ども、一般的にいわゆる現実 として受 け止 め られているのは、常 に繰 り返 され る出来事の ことである。出来事が一定 の典型
(パター ン )に 従 つて生起す るということが繰 り返 し確認 され場合 に、我々 はそれを現実 と見なすので ある。そこで見落 としてな らないのは、 その「見 なす」 は典型の特徴 を記号化 した ということ である。 それが、我々は現実 を構成する ということである。人間が構成 する限 り、観察者の視 点の多様性 によ り、同一の出来事か ら多様 な現実把握がなされるのは当然の ことである。
〈 現実 は構成 される〉 とい うことを裏返 して見れば、我々 は現実の背後 にある出来事 自体 を 直接的に く 知 る〉 ことはで きない とい うことを意味 している。ヴィーコ (18世 紀前半のナポ リ 大学修辞学教授 )が 指摘 したように、我々が く 知 る〉のは経験的な素材か ら調整的に結合 して 構成 した もの、すなわち く 知識〉だけである。その知識 は、経験 において我々の心身の内側で 生 じた素材 を組 み合わせた り、 リアンク トして生 じた要素 を加 えた りして作 られているのであ る。
(1の要するに、我々が知 ることがで きるのは人間が構成 して作 った ものだけである。言い換 えれば、人間の知識の守備範囲は文化的に作 られた ものに限定 されているのである。
このヴィァコの洞察 は、認識論の歴史 に ,つ の区切 りをつけるものである。 そして彼 によっ
て構成主義的な視点が基礎づけられたのである。それ までのく 知 る作用 としての心〉く 鏡 として
の心〉〈 容器 としての心〉を 〈 構成す る作用 としての心〉べ と転換 させたのである。 まさに く 作
ること〉 ことこそが く 知 ること〉 を産 み出 している母胎である。 ところが、誰か他人
(研究者
な ど )に よって く 作 られた もの〉 を く 受 け入れる〉 ことが く 知 ること〉である との考 えをいま
高 橋 洸 治
だに払拭 しきれてはいない。作 ること、創 ること、そして造 ること、要するに構成す る作用 は その帰結 として知識 を構成す ることになる。 こうした見解 は、教育 における内容 と関係 につい て考察す る場合 にも軽視で きない ものである。
ここで現実の問題 に立ち返 ろう。先 に示 され ごとく、現実 は記号的に構成 されるものである。
われわれはそうした現実 に取 り囲 まれて生 きている。そして反復 される日常の現実 は次のよう な典型 をもつ ものに停滞する傾向が見 られ る。すなわち、 自分のごく身近な現実 についてのわ ずかな知識 をもつだけで私たちは、世界 とはこんな ものだ と見切 りをつけてそんな世界 に
Elll染み込 んで しまうく とい う現実 にである。そ うした情性的な傾向は、く 健全 さ〉の視点か ら構築 さ れた人工的世界である学校 においてさらに強化 され うる。記号的シンボルで構成 された教育内 容 は、それ も現実である。現実 を理解 し、理解 させ るのが学習、教育 とされる。そうい う学習・
教育 は現実 を受容することによる社会化である。そ こにおいて生徒 は、本質的には受容的な特 徴 を有す る知識学習に、いわば能動的な態度 を装 って取 り組 まざるをえない。その間に科学的 な知識体系の側か ら強要 され る形で、知識 その ものへの敬意 と愛着心 さえももつようになるの である。単なる知識学習では、最初か ら各個人の視点か らの能動的な構成力 は排除されてしまっ ている。
そ こでライ ヒが提起 しているのは、そうした現実 を構成 しているシンボル的な ものの く 脱 一 構成化〉である。生徒 と教師 は、人工的なシンボルの世界か ら抜 け出さな くてはな らない。そ のために、 「彼 らは単 に異なるシンボルの世界 を知 るのではな く、特 に彼 らのシンボル偏重 を捉 え直 させ るような リアルな出来事 を経験す る必要がある」。
D、と彼 は指摘 している。
シンボル偏重すなわち知識偏重 を克月風す るために求められている「 リアルな出来事」 とい う のは、記号的な知識 と想像 によっては予見ないし予期 されえない出来事の ことである。つまり、
ライ ヒは「現実」と「 リアルな こと
(現実的な こと
)」とを区別 しているのである。 とい うのは、
現実 とい う用語で、先 に示 した構成 された既存の現実の他 に、 シンボル的な記号では表現 した り説明で きない事柄・出来事 をも表示 されているか らである。 この「 リアルな こと」は、記号・
言語 によってではな く、何 よりもまず 自己活動 による経験 を通 して実感的・ 直観的に掴み取 ら れ、 それに基づいて構成 されな くては理解
(了解 )も 説明 もされえないのである。
自己活動 によるアプローチではその過程ないし物事の展開経過 を見つめる視点、すなわち 「観 察者 の視点」が要求 される。その視点 は、実践的な経験で得 られるもろもろの情報 を自分 自身 のコン トロールの下で構成す るために不可欠な ものである。 こうして自分 自身が構成 した知識 は、教科書での内容記述では見 えも想像 もされていなかったいわば「空 白」の相 を埋 めること になる。
「 リアルな こと」 とは、抽象的な記号的 シンボルの「空 白」であるが、単なる「空 白」では な く可能性 を秘 めた「空 白」である。「 リアルな こと」は教科書の構成 された内容 を脱 一構成化 す る契機 となるか らである。 脱 一構成化 とは、 「 リアルな こと」の追究で鍛 えられた観察者の 「今、
ここで」 とい う実際的な視点で もって、教科書の構成 された内容か らその絶対性 を帯びた性格 様相 を取 り除 き、その内容 を固有な個的存在へ と連れ戻す ことである。
この「固有な個的存在」 とは、普遍化 された形式的な認識・ 知識が取 り出されてきたその元
であるところの具体的な個々の出来事の ことである。経験科学の用語で言 えば、〈単称言明
(又は特称言明
)〉の生み出 している 〈 個別的事実〉の ことである。帰納的な方法では、その単称言
明か ら仮説ない し理論のような 〈 普遍言明〉がひ きだされ る。 しか し、
KoR。ポパーが指摘す る
ように、 「論理学的観点か らすれば、単称言明か ら普遍言明 を推論することは、どんなに多 くの 単称命題 をもってして も、 とうてい正当化 されない」。幼のである。その正当化の理論問題 は別 にして ここで言いたのは、抽象的な形式で表現 されている知識 を具体的な形で本当に理解す る ためには、 もとになっている個別な出来事 を自ら経験することが不可欠であるということであ る。
ここまでの内容 を結論的に要約すれば次のようになる。 シンボル的な こと、想像的なこと、
そして リアルな ことという三つの事柄が互いに矛盾対立 しているとい う事実 を、学習者が経験 で きるようにすること。 これが教師の課題 とされる。それを可能 にす るために重要な ことは、
それ らを見つめる観察者 としての多様 な視点 をもつように促す ことである。そして、それに伴 い教育的な関係 は明示的および示唆的に提起 されたような形で変更 をせ まられ るものである。
おわ りに
以上 の考察か ら、 システム的一構成主義的な観点 に立つ次のような教育学的な基本認識が確 認 され ることになる。
(1)教
育 は知識 ない し真理の模写、想起、再生ではな く、知識の構成 を目指 さな くてはならな
い 。
(2)教
育 は単なる啓蒙ではな く、「内容側面」 と「関係側面」 とを調整す る技法である。
(3)教
育 は形式的に確定 された現実ではな く、その過程 において生徒 と教師によってそのつ ど 構成 され、再構成 され続 ける現実である。
(4)教
育 は、単なる、生徒指向の立場 をとるものではない。生徒指向は、 システム理論 にみれ ば、片 よった ものである。教育 は「内容側面」 と「関係側面」 との相互作用 によって、そ して教師 と生徒 との交互作用 によって、それ らを包括するまとまりのある教育的な過程 を 構成 す る働 きであるか ら。
(5)教
育 は自己活動 とそれ と緊密に結びついた自己決定 を尊重する必要がある。それ らは「 リ アルなこと」 を経験 して構成的 に理解す るために不可欠であるのみな らず、 自己価値感 を 保証するものである。
(6)教
育 は、教師および生徒 において「観察者の視点」 をもつようにす ることを重要な課題 と す るものである。
(7)教
育 は、生徒が抽象的な知識 を個別的な事実の把握か ら脱 一構成することを支援す る必要 がある。 この ことによって生徒 は抽象的な知識 を本当に理解す ることが可能 になるか らで ある。
註
(1) K.Reich,Systenlisch"Konstruktivistische Paedagogiko Luchterhand 1996,S.51.
(2)Ebd。 ,S.53.参 照 。
総 )林 忠幸「ボルノーにおける く出会 い〉の教育学的構造 J福 岡教育大学紀要、第33号 第 4分
冊、
1984、118ペ ージを引用参照
.(4)E.Bredo,The Social Construction of Lean■ ingo ln G.Do Phye(Ed。 ),HandbOok of Academic Leaming,Academic Press,1993,P.5。 引用参照
.(5)同 上、 PP.32‑39引 用参照
.高 橋 洸 治