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一中国と日本の思想 ・文化を中心にして-

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環 シ ナ 海 地 域 の 文 化 形 態 一中国と日本の思想 ・文化を中心にして‑

CulturalappearanceinaroundtheChinaSea

Ching‑jyiLien

‑、問題提起

二十世紀八十年代後半か ら、東アジアの新興工 業経済地域 (NIES)、台湾、 シンガポール、

香港、韓国が急にめざましく経済的成長を果 た し て、「アジア経済四小龍」 と呼ばれている 大 き い龍は日本である。二十一世紀になると、東 アジ アの経済力がさらに勃興 してきて、世界の資本を 集め、貿易を盛んに行われる経済拠点になろ うと する地域 は、巨龍 (恐龍)というべ き中国① を中 心 とずる環 シナ海地域であろう。環 シナ海地域 と は、中国の大連 ・青島 ・天津を中心 とする潮海 ・ 黄海区域、上海を中心とする華東沿海地区、広州 ・ 香港 ・台北を中心 とする華南沿海地区、韓国南部 の慶尚南道、日本の九州及び東南アジア諸国の こ とである この地域の国々や地域ではいままでに 貿易や開発など経済活動が盛んに行われてきた。

国際化の促進を続けなが ら、今後世界の注 目を浴 びる地域になろうとすれば、環 シナ海経済組織 の ような共同連盟の設立、そ してそれを支える新 し い理念 と文化素質の探求 は、重要な課題 となるの ではなかろうか。

二、理論構造

文化がいかにして形成 されるかを、内藤湖南 は 土 と時をあげて説明 した②。つまり文化を生み出 すのは土地であり時代であり、そ して時代が経 と な り、風土が緯 となり、入 り乱れて変化 し、文化 集合の中心を築 き上げ、ついに文化の歴史が燦然 としてその美を完成 させるのである。やがて文化

は時代 とともにその気風が変化する 文化 と時代 との関係については、内藤湖南はまず日本近世 の 文化を取 り上げて、次のように述べている

寛閥なる寛文 ・延宝風、伊達なる元禄 ・宝永 風、渋味ある安永 ・天明風、派手なる文化 ・文 政風。③

江戸時代 は近世の文化に乗 じて、二百五、六 十 年の気運を移 し変えたという 。 そのようにしてま た中国の文化 も時代に応 じて栄えたのである の初期には礼儀制度が完備 し、春秋時代には外交 辞令が巧妙を極め、戦国時代には遊説が盛んになっ

た。漢代には文献学 ・訓話学が精密化 され、魂晋 南北朝には清談が流行 し、唐代には詩が秀麗 の粋 を極め、学問は経典注疏を‑尊 した。そ して末代 ・ 明代においで性と理の奥義を探究する儒学が頂点 に到達 したのに対 して、宿代 は大規模な書籍編纂 及び考証学の時代 となったのである。

文化の栄華はその時代に応 じて開花 したといえ る。中国文化の発展の経緯 はまさに 「沈潜と飛程、

集約 と絢欄」のような形態の循環そのもので はな いか。かつて周は夏、商の文化を因襲 し、封建社 会の安定をはかるために礼制を整えてきた。やが て春秋時代に入 り、封建制度の解体が進むにつれ、

支配者の血縁以外か ら有能な人材が登用されるよ うになり、その結果血縁尊重主義か ら実力本位主 義への変化 という社会情勢が活発になった。 また 一方では孔子をはじめ、老荘楊墨孟萄韓などの諸 子百家が現れて、各々一家言をかかげての論弁を 争われた。これを諸子時代 と呼び、同時に文化 の 絢欄の頂点を極めた時期で もある しか し前漢の

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武帝が董仲野の意見により儒教を尊崇 し諸子を抑 圧 し始めると、諸子 は衰退 し、儒教が当時の思想 の代表格になり、儒教の経典である五経の研究が 学問の中心 となって、文献解樺が詳細綿密を極 め るようになった。 この時代 は経学時代 と呼ばれ る が、思想文化が集約 された時代で もあった。六朝 時代に入 ると、当時を支配する思潮 は儒教か ら老 荘の哲学 に替わった。当時の経注には老荘思想 に よって儒教の経典を注釈 したと思われるものが数 多 くある。またこれと同時に仏教の勢力が増 し当 時の学者の殆んどは三玄、 いわゆる 『老子

周易』、それに仏教経典に基づ く、深遠 の哲 学で清談の玄妙 さを極めた。儒教の尊崇か らのが れて老荘思想に走 るとともに、外来思想である仏 教の影響 により、経典主義の束縛か ら解放 され、

思想的に自由無碍の境地に飛揚することができた のである。 このようにして訓話学の文字の意義及 び筆法の末節に拘泥する余弊を超え、学問や思想 を自由に奔騰できるようになったのである。南北 朝の分立 とともに経学 も商学 と北軍とに分かれた。

北方には訓話を重んずる旧い経学が残 されたのに 対 し、老荘の哲学を取 り入れた新 しい経学 は晋 の 南下 とともに江南に移ていった。そ して階が天下 を統一 したため経学 も自然に折衷的傾向になり、

唐の時代に入 って孔穎達等が勅令を奉 じて経義 の 統一をはかろうとする意図があらわれ、商学中心 の経学 と華厳宗の理事無碍の思想が取 り入れられ、

五経正義が編纂 されるに及び経学 は統一 されるこ とになった。 この時代 は経学統一時代 と呼ばれ る が、儒悌道三教を集約 し、新 しい儒教が樹立 され る時代で もあった④。未明の性理学では儒経 典、

とくに四書の研究により、煩墳な訓話の因襲 を排 除 し、天 と人 との微妙な相関を探究 し、深潜綾密 な人性の本質や物事の道理をきわめた。朱子学 は 名教倫理 という道徳的理念によって貫かれていた。

それに対 し、陽明学 は儒教路線に沿 って発展 しな が ら、心の原点に帰 るものであった⑤。 しか しい ずれにせよ彼 らの儒学 は性 と理の奥義を発見 し、

精密 ・専一な本質を把握することに到達 した。 こ の時代 は儒教復興の時代 と呼ばれるが、儒家思想 をきわめ、中国の周辺にかなりの影響を与えた こ ともあって、同時に儒教の絢欄時代であるともい える。清朝 はその初めに於いて 『四庫全書』 と

う彪大な書物が編纂 され、集約的な学問を重んず る方針を示 してきた。そのため考証学的に経書 を

攻究する人々が次々とあらわれ、清朝一代の新 し い学風を巻 き起 こしたのである。清朝の学者か ら 学び得たものはその研究法だけだといわれるが、

中国思想の変遷の跡をたどりえるのも清朝考証学 者の多大な研究成果があればこそである。 この時 代 は学術の集大成の時代だといってよい。

中国文化の発展 は沈潜 と飛躍、集約 と絢欄 の循 環だが、決 して単なる同一 ものの再生ではな く、

前のものに基づきっっ、その特色を取捨 して、新 たに展開する形態を開いている まず沈潜 ・集約 の時代について、周 は夏、商の文化を因襲 し、礼 制を整えた。漢代には儒教の経典の研究が学問の 中心 となり、経伝の解釈が精害に行われた。 その ため思想文化 は極めて集約 されたのである。唐代 になって孔穎達等が勅令を奉 じて、五経正義が編 纂 され、経義の統一がはか られた。そこに商学 中 心の経学 と華厳宗の理事無碍の思想を取 り入れ、

儒価道三教を集約 し、新 しい儒教を確立 させた。

清朝は考証学の時代であり、集約的な学問の集大 成の時代であったいいかえれば中国思想文化 の 発展経緯を清朝考証学者の研究成果によって明 ら かにした時代だったのである。そ して飛躍 ・絢欄 の時代気風に関 し、春秋戦国時代の社会では個人 実力主義が時代の主流になり、諸子百家が現れ、

盛んに自分の主張を立て自身の存在を証明 しよ う とした。 こうした思潮によって、文化が絢欄 の頂 点に立 った。六朝になり、経典主義の束縛か ら解 放 され、老荘の玄妙な哲学 におおわれたにもかか わ らず、外来思想である仏教の思想 もうけいれ ら れ、学問や思想 は自由に奔騰 していった。未明の 儒学 は儒家経典、とくに四書の研究が進む。性 と 理の奥義を発見 し、深潜績密に人性の本質や物事 の道理をきわめ、さらにそれが周辺の地域に影響 を与えたことを考えると、儒教の絢欄時代だ とい えるのではないか。

文化 は風土によって、その形態が成 り立 ったの である。続いて文化 と土地の関係を内藤湖南 は次 のようにいう。

その土を以てすれば、則ち山東相を出 し、山 西将を出す、儒雅の風、沫酒に通 り、武健の俗、

甘涼に存す、憲章儀文、経緯制作の美 は華夏 の 誇 る所に して、箕子の洪範、周公の礼楽、実 に 集めて之を成 し、鈎玄遠恩、娩言微辞の妙 は、

呉楚の貝ふる所にして、老荘の論著、屈末の文

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章、又其の草に抜 く者なり、抹消徐准、南北 の 間に介まり、而 して子恩孟阿、英を含み華 を岨 ひて、斯に其の物を備‑て、而 して井せて其 の 性を蓋 し、准南の諸儒に至 りて、又斉東 の怪誕 を該ぬ、南北の際、晋 は玄言を尚び、末 は文章 を尚び、斉梁の君、其の子孫 と、亦嘗詩文 に於 いて長を見 る、二陸張左、院陶飽謝、豊 に時の 選 に非ずや、而 して元魂斉周は、則ち猶 は馬郭 の流風を受け、通経績学を以て業 と為す、徐遵 明、劉煙、劉舷の徒、実に東京に嗣で、而 して 隔唐を開けり、唐秦漢の故地に据 し、其盛時の 学者、専 ら三礼を以て重 しとし、漢書文選之 に 次 ぐ、凡そ音義註疏の書、此時に至て大成せり、

北末 も亦頗 る考古の学を雅尚す、商人の国 に用 いられ Lより、乃ち唐の太宗を誤て末の太宗 と 為す者あり、朝章典故の講ぜ られざるを見 る、

故に南末に至 りて、鄭樵、李藁、王鷹勝、馬貴 輿等、其精博を極むと雑 も、一世の趨 く所 は、

則ち此に在 らず、凍洛の学、北の気運を牽て、

而 して之を南に渡 し、朱陸の義、務め精微 に在 り、以て朱明に及で徐桃の直裁一派を出す に至 る。⑥

古代中国では、山東は宰相を出 し、山西 は将軍 を出す、といわれるように、正統的な儒学 の気風 は山東に残 り、剛健の風俗 は山西に存在していた。

南北でいえば、法制 ・儀礼を美 しく整えて仕上 げ るのは華夏の誇 りであり、経書研究に業績を積む のも黄河流域の学問の主体であったのに対 して、

玄妙な思いに心を馳せ、微妙な言辞を娩曲に表現 する手腕は呉 ・楚に備わっていた。湖光山色 とい う自然の美 しさに恵 まれ、秀麗の粋や雄偉の気塊 を集める詩文を得意 とするのは長江流域の学問の 特質である。か くして中国文化論に南北相違論が あったというわけである それは華北 と華南 の地 理や風土の相違が、質朴重厚な北方文化 と、華美 軽快な南方文化 とを生み出 したということにはか な らない。風土 と文化 との関係 は密接不可分であ るといってよい。⑦

文化 は時代 と風土によって形成 されるのみな ら ず、同時に時代 と風土 とに交わって文化の中心 も 生み出 してゆ くのだという 「文化湊合中心の説」

を内藤湖南は主張 していた。文化の中心 は歴史の 推移 とともに移動 してゆ くのである 内藤湖南は、

江戸時代において文化の中心が京都から江戸に移っ

たかに見えるが、実 は大阪の富力を背景にして京 阪地方が学者、とくに独創的な思想家を生み出す 力を失わなかったのだということを述べている

つまり江戸を中心 とした関東 と京都 ・大阪を中心 とした関西、この二つが 日本近世の文化を発達 さ せた地域があって、一方が栄えたときには他方 は 衰える。清朝の学者趨翼によると、中国文化 の中 心移動については、 これが長 く長安にあったのだ が、金 ・元以後、東北の勢力にひかれて、北京 に 移 ったのだということのである。内藤湖南はこれ を批判 して、次のようにいう。

秦中は古より帝王州たり、周秦西漢、南北 の 際、割接の大国、皆足属して都 と為す、唐 の開元 天宝に至 りて、長安の盛極 まれ り、盛極 まれば 必ず衰ふ、是の時地気将 さに西より東北に趨か んとす、安史の乱後、河朔三鋲、唐の節度を受 けず、其の末に及で、長安夷 して郡県 と為 り、

而 して契丹己に達に起 る、洛陽汁梁、気 の東北 趨する者の為に逸適潜引 して、一二 百年の後、

東北の気、積で而 して益固 く、元明に至 り、遂 に天下の全 くを有すと、趨翼の論、大旨此 に在 り。因 りて長安の前、洛あるを説 く、蓋 し武力 の強、巽州に在 り、唐虞夏商、南面 して天下 を 制するに当り、食貨の利、濠州に在 り、人文乃 ち此間に醒醸す、而 して渚は二州文物の湊合す る所の処なれば也。又長安の地気 は、洛陽 に代 りて薙州の人力を興 し、而 して其の索 くるや、

燕京の帝王都たるは、人作に出で、

人文の轡往集中する所 は、揚州に在 ることを 説 き、以て趨氏の謬を匡す。⑧

中国の古代の文化が集中するところは、 もとよ り長安にあるのではな く、洛陽にあるという 虞夏商、いわゆる尭、舜、兎、湯の時代 に都が洛 陽に置かれたのは、洛陽が巽州の軍事力 と琢州の 財貨の集中する場所であり、文物を醸成する場所 であったか らである やがて秦が天下を統一 して か ら、唐代にかけ、みな長安を都 として落 ち着 く ようになった。 したがって長安 は洛陽に代わ って 中国の文化の中心になったわけである。唐末 にな り、良 く続いた叛乱によって長安 は破壊 されて郡 県になった。元明にいたっては、燕京 (今北京) が帝王の都になった。 しか し燕京は人間の作為 に よって築 き上げられた政治の中心であって、文化

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の中心 はあ くまで も自然資源のめ ぐりを有 し、歴 史文物を保 った江南にあったと内藤湖南はいう。

さらに内藤湖南は文化湊合の中心が歴史の変遷 とともに一定 した地域に定着せずにつぎっぎと変 わったと説 く。

三代の両漢 と、唐未明清 と、文化‑たび断え て、而 して再び盛に三たび興 るに似たりと雄 も、

河洛の開化 は、関中の文明にあ らず、江北 の休 治 は、江南の人文のあらず、代 る代 る相推移 し て、必ず しも復た興 らざる也。⑨

文化は萌芽 ・開花 ・欄熟 ・落花のような盛衰循 環を繰 り返 して、最後に終蔦に至 る。中国 におい ては、時代が交替 して も漢民族の文化がたえず に 興隆 したかにみえるが、黄河流域に開花 した三代 の文化 は、漢唐の長安 と中心 とする華やかな文化 とは別物であ り、元明以後の華北文化 は、江南 の 優雅な文化を包含 したものではなか った。文化が 集合す る中心 は移動 したので、決 して再興 したと はいえないというのである。つまり文明再生不可 能 という歴史の規律 は中国文化の発展の流れの中 で現れるだけでな く、世界文明の発展の歴史 の中 で も現れているのである このことを、内藤湖南

は次のように述べている

希臓のペ リクレスの時に盛なる、後に歴山王 あ りと日ふ と難 も、固より純正の希臥 に非ず、

其の事業又攻伐に止 まる、羅馬の神聖帝国‑ た び崩壊 して、意太利の人力、復た欧州文明の中 心たるに足 らず。‑‑填及、アッシリア、印度、

波斯、フユニシャ、希膿、羅馬、相錘で迭 に興 る、亦各時を以て而 して命ぜ らる。⑲

ギ リシャ哲学の創始者たちは、殆んどェジブ ト、

ベルシアに遊学 し、ローマの学者たちはおよそギ リシャで学んで、 ヨーロッパ文明を開いた。近世 になって、ギ リシャ哲学の奥義を探究することが 始 まり、東方文明は十字軍を媒介にして、ヨーロッ パの新 しい文明、いわゆるルネサ ンスを成 し遂 げ た。 しか し時代に応 じて、文化の中心が移動 し、

そ して時代 とともに相次いで興亡 したのである。

十八世紀の末期に産業革命が起 こって、科学技術 の発達により、近代西洋文明が開花 した。十九世 紀の初め頃か ら、二十世紀初期にかけて、イギ リ

スを始め、西欧各国は先進国 としての誇 りを持 ち なが ら、科学文明によって国外へ市場を求めて植 民地獲得の競争をはじめ、アフリカ ・アジアへの 進出を開始 し、ついにその勢力は世界各地に及ん だ。 しか し二十世紀中期になって、アメ リカが豊 富な自然資源を保有 し、世界各国の優秀な人材 を よせあつめ、先端技を次々と発明することによっ て、西欧に代わって、今 日の世界の リーダシップ をとるようになった。ところが、さき述べたよ う に文化の盛衰循環や文明再生不可能の歴史発展 の 規律が真実な らば、十九世紀の欧州、二十世紀 の 米国に続 き、文明開化 してか ら百年の歴史を持ち、

科学技術や経済発展を成 し遂げてきた日本 と、 巨 大なマーケットを保有 しなが ら経済成長率を年 々 伸びている中国⑪を中心 とする環 シナ海地域、 い わゆる中国の大連 ・青島 ・天津を中心とする樹海 ・ 黄海区域、上海を中心とする華東沿海地区、広州 ・ 香港 ・台北を中心 とする華南沿海地区と、韓国の 慶尚南道 と、日本の九州 と、東南アジア諸国が、

二十一世紀の世界の注 目を浴びるのは必然的であ ろう.なぜならば、それは中国沿海l世戒のマーケッ トや日本のノウ‑ウや東南アジア諸国の資源など は世界経済を発展 させる原動力か らである。 した がってこの区域の国々と地域 は緊密な関係を結ん で、お互いに国境を越え、自分自身の利益を提供 ・ 流通 し、さらに環ナシ海経済圏の如 く共同連盟組 織を締結が可能な らば、今後の世界の動 きを左右 する区域になると思われる。

三、環 シナ海の文化形態

環 シナ海地域 は一つの国のみな らず、数多 くの 国と地域か ら構成 される共同体である。そこで共 同体であることとは、また共同体を支える理念や 共通意識 とは何者であろうか、そ してその文化形 態 はどのような形で現れているのかを探 る必要性 がありそ うだ。環 シナ海区域では、それぞれの国 と地域が、各 自の伝統思想を保有 しなが ら展開 し て、そ して独 自の文化を形成 してきたが、それ は 主 として儒教 と仏教の影響によるものが多い。 こ こでいう仏教 は印度仏教でな く、中国化 した仏教 である。ということか らも、環 シナ海区域 は儒教 文化圏であって、環 シナ海共同体の文化形態が儒 教文化によって成 り立 ったものといえるであろう。

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(‑)東洋儒教の精神一自立 ・誠実

儒教 は二千五百年 はど前 に孔子 によって首唱 さ れたもので、今 日に至 るまで中国の倫理道徳 を尊 重する思想を根強 く植え付 けただけでな く、早 く か ら周辺各国に影響を及ぼ し、社会倫理や国民道 徳の宣揚 に大 きな貢献を果た している 実に儒教 は中国及びその周辺国家の精神的結合の くさびと なっているのである。

紀元前一四〇年漢の武帝が即位 し、董仲野 の策 により、大学を立て、教育の振興をはかるため、

儒教を以て国家の正教 と定めるに及んで、一時沈 滞 していた儒教 は勃興す るようになった。そ こで 大学 に五経博士を置いて諸生 に道徳的法則を通達 する聖経賢伝、すなわち五経 によって識見を培養 せ しめん とした。つまり漢代の儒教教育 は五経 の 研究が主 となっていたのである。

唐 は晴に倣 って公務員試験制度である 「科挙」

を確立 させた。 その主 な試験 の方法 に 「進士」

明経」がある。当時 の明経 が準拠す る経書 は、

五経正義がその主たるものであった。『五経正 義』 は太宗が貞観年間に孔穎達 らに命 じて作 らせ たものであって、『五経』の注釈書及 びその 「疏」

をっけた ものであった。 これは経学史上の重要 な 事件であり、漢の武帝が諸子百家を退 け、儒家経 典である 『五経』を表彰 したことに次 ぐ、重大 な 思想統一の事業である。 しか しその準拠す る注釈 を官僚任命試験の基準 に し、 これに反する説 を全 て排斥 したことは、政府の力によって学者の学問 研究の自由を奪 い、その結果 として大いに学術 と くに経学の進歩を妨げることとなったのである。

そればか りではない。経学 は解釈学に陥ったため、

学問 としての性格を全 く失い、ただ官吏になろ う とするものの手段 として利用 されたのみであった。

漢代以後の儒教 は文献学的研究が主 となり、儒 教の思想的本質 は唆味になったにもかかわ らず、

後漢の頃に仏教が伝わってか ら、唐代にかけては、

天子の命令 によって保護 されたこともあって、仏 教 は重視 され普及 されることとなった。そのため、

末代の初期には、儒教 は必ず しも最 も有力な思想 とはいえな くなった。 しか し周凍渓 ・程明道 ・程 伊川 ・朱晦庵 らの末代の思想家たちは宇宙論、人 生論、実践哲学 と呼ばれる一貫 した原理 によ って 孔子 ・孟子の思想を説明 し、極めて整然 とした恩

想体系を築 き上げ、新 しい儒教を確立 させた。末 代の儒教 は理を尊重するところにその特徴がある が、万事万物を貫 く理を見極めることこそ、人間 はその場その場で的確な判断を下 し行動すること ができるとも説かれている箇所 は見落 とせない。

それを朱子 は格物致知 という。朱子学 は理学 と も 呼ばれるが、それは一つの安定 した価値観 によ り 組み立て られた ものである。物事の理をきわめて い くことによって究極の境地 に到達す ることがで きるのであって、たとえその過程 において気質 の 偏向混乱 による素子余曲折を免れないとして も、原 理的にすべてが一理に帰納 し得 るという安定 した 価値判断があれば、格物致知 という実践的方法 は 成 り立っ ことが可能なはずである。 もしも理 の安 定性が動揺 し、理の行 く路が定 めがた くな った と

きには、格物致知 はその基準点を失わざるを得 な い。その危険を自覚すればこそ、朱子 は敬 の緊要 性を力説 したのであろう だが敬の働 きが余 りに 強力になるな らば、絶対主体である心を合理 的 に 方向付 けるに止 まるべ き理が、かえって心 の 自由 を奪い、心を畏縮 させることになりかねない。 さ らに余 りに強烈な理意識 は、一理盲信の弊を とも ないやす く、特定教学の絶対真実性を墨守 し、 ほ かの教学や思想 に対 しては頑か ら異端邪説の悪罵 を浴びせて自己満足 し、自己の思想その ものまで 謬着 させる恐れがある 朱子学 にまつわ りつ く単 一真理観 と教学独 占意識 とは、特定の政治体制 を 維持 しようとす るもののは、誠に好都合な思想根 拠を提供す ることがで きた。だが教学独 占意識が 極端 に進めば進むほど、思想の自由が認め られな くなるのは必然の勢 いである。やがて王陽明の登 場によって、不遜な りに痛撃を与え、心 による理 の再構成へ と向か うのである。⑬

王陽明は、『大学』の 「格物致知」を、「物事 に 至 ってその知識を窮める」 と解釈する朱子の説 に 異議 を唱え、「物 を正 して良知 を致す」、つ ま り

とは朱子のいうよ うな客観 的 に対象化 され た 「物」ではな く、わが心 に発動 している場であ るといい、また 「天下万物一体の仁」(『抜本塞源 論』)の立場 に立てば、人 とわれ との対立や、物 とわれとの分け隔てなどな くなるか ら、そこにお のずか ら同感共鳴 し合 うものが湧 き出るはずであ り、それを良知 と呼ぶのだと、王陽明は主張する。

各人が工夫の全力を良知に集中することによって、

次元が人間 らしく生 きる道を無限に開いて くれ る

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のである。要するに良知の培養は、単に理 の拘束 か ら脱却すべき方向を指 し示 して くれるにとどま らず、新 しい創造的主体の存在を積極的に強調 し て くれることで もある。‑これは陽明学の特徴であ り、中国思想史上の画期的業績 といわねばな らな い。か くして良知説 は既成の学説か ら解放 され る に至 ったのであるが、それを基に してが新 しい文 化や思想を創造するためには、既に存在 している 文化に関連する問題に直面することは避 けられな い。いいかえれば、良知には自然の法則が備わ っ てはいるが、良知によってさらしあげられた文化 的素材が新 しくどのように意味付けされ組み替え られてい くは、それぞれの主体に任 されているの である。悪 くすると朱子学でいうような公共 の理 という支点を もたない良知 は、混迷 と放浪の中に その身を投げ出されることにもなりかねない。朱 子学 は名教倫理 という道徳的理念によって貫かれ ていた。一方陽明学 は、儒教路線 にそって発展 し なが ら、心の原点に帰 るに至 った。其結果 として 経書の権威や歴史の法則 は相対化 されてはいるも のの、社会の構図を明確に打ち出すほどの視点が 欠落 しているため、結局、良知説のもつ無原則 に 行動原理は、やがてその白熱的なバイタリティー だけが注 目されるようになり、ナショナ リズムや 特定の宗教信仰のマジカル ・パ ワーとして以外 は 利用 されることはなかった。⑭

清朝の学問は書物の訓話や文献の批判を中心 と する学問、いわゆる考証学であった。清朝 におけ る学問の研究 は、見事に証拠の揃 った実証主義 に 基づ いて、その科学性 は、高 く評価で きるが、

経世済民」という儒教 の本 旨とは何 ら関係がな く、過去において完結する学問研究 となるのは必 至であった。 しか も研究そのものが部分化 し、全 体 との関係が唆味になったこともあり、その結果 として、儒教経典を研究するも、儒教の最 も重要 な本質である 「全体大用」を洞察する鍛錬や眼識 はしだいに無用なものと化 していったのである。

以上、中国儒教のおおむねを述べてきたが、各 時代にはそれぞれの特色があり、漢唐の経伝解釈 学 と清朝の文献考証学 は、学問を純粋学問 として 研究する立場か らいえば、博捜による実証的科学 に基づいて真実を追求するその精神は学問的な営 みとしての貴重な役割を果た していたといえる。

しか し儒学の本旨はあ くまで も 「実学」であって、

たとえ実証的な学問を極めたとして も、実践的実

用性、いわゆる 「経世済民か らかけ離れていた のでは、無用の学 として批判 される対象で しかな か ったのである。

末代以来、学問の目的は聖人になることにあ っ た。聖人 となる、つまり 「天理を存 し、人欲 を去 る」ための方法には、二つのものがあって、一つ は、居敬であり、一つは窮理 と呼ばれるものであ る。『中庸』のことばでいえば、「尊徳性」、すな わち徳性を尊ぶ ことと、「道問学」、すなわち問学 によることであり、それぞれ道徳性を養い磨 く主 観的方法、知的学問研究を進める客観的方法を意 味する。 これをめ ぐって、理的主体 と心的主体 と によっで性理 とJL、知の奥義を論究 してきたが、 い ずれ も人間は学問によって聖人になりうるとい う 学説であり、聖人いわゆる人間の理想や生 き方の 究極の道を明白に示 したものである。

もっとも聖人 とは完壁な人格をもつ理想的な存 在であって、だれ もがなれるわけではない。未明 理学のいたず らな形而上の道徳論によって儒家思 想を解釈するのは決 して正 しい方法とはいえない。

たとえば孔子が最高の道徳 とした 「仁」 もそれは 未明の学者のいう高遠な哲理を論 じたようなもの ではな く、だれ もが固有内在 しつつ、 しか も安民 の実用の学 として活用できるように したものであ る。孔子の思想を最 も簡明平易に解釈するのが伊 藤仁斎であり、亀井南冥 ・昭陽父子である。仁斎 は 「愚、断 じて論語を もって、最上至極、宇宙第

‑の書 とす」(論語古義』綱領) と述べた。 なぜ そうであるか。それは 『論語』で語 られることは、

もとより道徳が中心であるだが、その道徳 は 「 生 としての生 き方」と言い直 したほうが適切であ るように、極めて現実的人間的であるか ら。仁斎 のことばによれば 「道」 とは 「卑近」な ことであ り、いわゆる人間の真実は日常の中にあるのであ る。より 「卑近」なほど、より重要である。反対 に 「高遠」なものは虚妄である。『論語』 の内容 はすべて平凡無奇で、日常を離れないのである。

平凡無奇のゆえに、もっとも偉大の書だと仁斎が 主張 していた。⑮

亀井南冥生涯の学問の集大成には 『論語語 由』

と呼ばれるものがあり、『論語』 は孔子 の言行録 にはかな らない、『論語』 に語 られている孔子の ことばには 「語々必ず由 るあ り(家学小言) と、それは具体的な状況を背景 にした個別的な も ので、正 しく理解するためには 「聖語の由 って出

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づる所を明 らか(同書) にす ることこそ肝要 で ある論語』の内容 につ いて は、南実 にいわせ れば 「聖人が活物を活用す る書」であ り、単 に修 身教科書で もなければ、為政者のための書物 で も な く、孔子の人格が躍動 している実景描写の書で ある。つまり、人間形成 には 『論語』だけで十分 なのである⑯。 したが って昭陽は 『論語』 の趣 旨 を次のように主張する。

子日 く、「忠信を主 とす」 と 而 るに宋儒別 に主敬の説を創 る。家言なり。‑‑ (中略)普 く経籍を稽 うるに、忠信の教 は規を前聖に合す。

而れども孔門に主敬の教な し。 これを序序 に施 し、これを邦家に行わば、主敬の、忠信 を主 と す るに如かざること固なり。故 に我が門、多少 の条 目を設 けず、百事、「忠信 を主 とす」 を以 て教 と為す。唯だこの三字のみ、終身 これを用 いて余 りあり 吉凶賢頑の別 はここより出ず。

(家学小言』)⑰

宋儒が 「主敬」 こそ聖人の道であると主張 した のに対 して、亀井昭陽 は 『論語』の 「忠信」 を孔 子思想の第一義 とし、亀井一門の最 も重要な教訓 であると主張 した。「忠」 とは自分 の才能 を尽 く す ことであ り、「信」 とは真筆 で信用 あ る処世態 度のことである そ して、「忠信」 とは堅実 に働 き、誠実 に尽 くす ことであり、人 に交わ り、物 に 接す る極致である。 これ こそが亀井家に代々伝 え られて きた家訓だと亀井昭陽 は考えた。『論語』

のことばでえば、「忠」 とは 「己立「己達( 也篇)のことである。どのようにすれば自立 して その道についてゆ くことがで きるのか。それ は唯 一学ぶ ことのである。身近なことを学ぶ ことで高 遠なことに通 じてい く、いわゆる 「下学 して上達 (憲問篇)ることこそが道 なのである。隔旨語』

の冒頭 に学而篇 があ るが、伊藤仁奈 は学而篇 の

学」の一字 こそ、『論語』全書の性格 を物語 って いるいかにも冒頭にあるにふさわ しい 「小論語」

(論語古義』)であ ると注記す る。 これ は孔子思 想を説明す るには最 も妥当かっ正確な ものだと思 われる。

そ して 「信」は誠心を もって他人を信用す るこ とをいい、人間関係を最善をっ くして維持す る要 素であるという信」については、『論語』 に次 のような文がある

人に して信な くんば、其の可なることを知 ら ざるなり。(為政篇)

信、義に近づけば、言復むべ し。(学而篇) 君子、義以て質 と為 し、礼以て これを行 い、

孫以て これを出だ し、信以て これを成す。君子 なるかな。(衛霊公篇)

礼の用 は和 と蓋 しと為す。(学而篇)

人間 としての信用がなければ、 うま くや って い けるはずがない。人間が約束を守 ることは、礼義 に近 ければ、 ことば通 り履行できるし、礼義に遵 っ て、謙遜 なことばでいいあ らわ し、誠実 にふ るま えるな らば、道徳のできあが った人だということ になる。人 は孤立 した存在ではな く、人々が営 む 社会において生活 しているのだか ら、人 とつ きあ うことは人間 として欠かせないものである。礼儀 は人間行為を規制する基準で、あ くまで も抽象 的 形式的なものであるが、礼儀のはた らさとしての 人間の内実である 「信」は貴いものと思われ る

つまり社会的な調和をめざすな らば、信用のあ る 誠実な真心を有するべきなのだ。

以上を要す るに、孔子 はす こぶる人間的である。

そのことばはいずれ も 「老人には安心 されるよ う に、友だちには信用 されるように、若者には慕 わ れるようにあ りたい」(公冶長篇) のよ うな極 め て身近な日常性のなかにあった。安 らかに老 いる ことのである社会 というのは、今 日の福祉問題 と して重要な課題だと思われ る。「老人 に安心 され たい」 というのは平凡であって しか も大事な人生 の問題である。⑬

(二)道家思想一共生共存

荘子』 は道家の書物であり、孔子 ・顔回 など儒 家の人物の説話や、思想 についての寓言が数多 く あるか ら、儒家 との関わ りが深いと考え られ る

それだけではな く、思想 においての引 き継がれ る もの もあるだ。それは 「安」による思想展開か ら 考え られるものである 論語』 には 「仁者 は仁 に安 じ」(里仁篇)るというのがあって、『孟子』

の 「側隠の心 は仁の端な り」以来、仁 は、時 に感 情的に、時に抽象的に説かれることもあるが、遠 藤隆吉は 「仁 は、社会を安 じ併せ る道徳の淵源」

⑲たるものであると説 いた。つまり仁 は、道徳律

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(8)

であり同時に社会に働 きかける力で もるのだとい う。「仁に安 じ」るとは、人間 は如何 に社会全体 と緊密な関係の中で、個人や社会の発展に寄与す る道徳的行為に全力を尽 くすべきかということで ある。一方、『荘子』には、「地を択 ばず して これ に安ず、孝の至 りなり。‑‑事を択ばず して これ に安ず、忠の至 りなり。‑・‑其の奈何 ともすべか らざるを知 りて、これに安 じ命に若 うは、徳 の至 りなり」(徳充符)というのがある。「命」 とは必 然的に人間の存在を規制するさだめのであって、

人の力ではどうしょうのないもの、人 はただ随順 していくよりはかない。だか ら人力によって動か すことのできない宇宙万物の必然的な理法に因循 することこそが人間としてそうであるべきの生 き 方なのだ。親に仕える者 はいかなる場所で も喜ん で親の言い付けに従 うのが最高の孝行であり、天 子に仕える立場を守 り続 けるのが立派な忠義であ る。孔子の 「安仁」 に しろ、『荘子』 の 「安順」

(時に安 じて順に処 る) に しろ、 自己の原本原理 の確立 によって、自分の社会においての最善 のあ り方を求めるのである。 ということか らも荘子 は 孔子 の思想 を祖述 していたよ うに考え られ る。

荘子』は儒家の 「忠信」 とい うことばを使 って はいないが、自分の最善を尽 くしなが らも、他人 を信用することによって人々に最適な生活空間を 築 き上げようとする思想を唱えている。たとえば、

自ら喰みて志に適 う。(斉物論)

「自」とは、「常に自然に因 り」(徳克符)、「固 然に因る」(養生主) などに用 い られている 「自 然」や 「固然のことである。本来固有 のあ り方 であって、何物にもよらないで、自らの力で独立 して く、そのあり方がまさに 「自ら然 る」であ る。本来の有 り様、固有の性質を生か して生 きて いけば、のびのびとした快適な生活ができる。荘 子は、世俗の固定 された規制の価値体系を超越 し て生まれつきの才能で生涯を全 うしようとするこ とこそが、何事にも束縛 されることのない絶対 の 自由かつ豊かな生 き方であるというのである。 そ して、

これを和するに是非を以て して天鈎に休 う。是 れを両行 と謂 う。(斉物論)

善 し悪 しの価値的偏見を放下 し、「我是彼非」

という心知の分別を調和 し、自然のバ ランスであ る 「天鈎」(絶対唯一 の世界) に安住す る。 そ こ では、対立するもののいずれ もがその本質 とは見 なされず、それに対する執着 もな く、等 しく行わ れる。か くして自分 自身が存在 しなが らも、他人 の存在を尊重することによって調和 した社会を築 き上げることができるとい うのである。「魚 は江 湖に相い忘れ、人 は道術 に相 い忘 る」 (大宗師) ということばが示すように、魚 は広々とした湖や 河のなかで真の解放を楽 しみ、人間は万物斉同の 実在世界のなかの一切の人為的なものを忘れ去 る ことによって、とらわれなき生の自由を迫遥す る ことができるのである⑳。万物斉同の実在世界 に おいて自由自在に生活することができれば、それ が究極の社会形態なのである。

(三)日本文化の素質一文物を大事にする精神

シナか ら伝え らて釆 きた文化で、どうして も 失 ってならないものは、皇室なり公家なりが文 化の権威 として非常な難儀 しなが らも伝えてい るのであります。一条兼良などは応仁の戦乱 の ためにその邸宅はいすれ焼 けると覚悟 して、 た くさんの本を文庫にしまって避難 したのであ り ますが、はたして兵火のために第宅 は焼 けて、

文庫 は残 りましたが、兵士等 は庫になにか金 吊 などがあるだろうと思 って、庫か ら本を出 して 箱やなにかを叩 き壊 して、火をっけて焼いた と いうので、声をあげて実いたということであ り ます。そういうことで書籍の保存なども出来 な か ったことを悲 しんであります。またその当時 楽の家で笠の秘曲を伝えていた豊原統秋の書 い た 『体源抄』には、戦乱の間にその父 と叡山に 避難 して伝授を受 けたが、将来その伝を失 って は不孝になるか らとて この書を書いたことを述 べております。そういうとうにその当時朝 に夕 をはか らざる危難の間に、文化階級の人として、

そういうものをどうして も失 ってほならないと いう考えで、皇室なり公家なり、諸職の人 々が 一所懸命になって暗黒時代にも保存 して、それ だけは日本がどんなに乱れて も失わなかった も のであります。そ うして残 したところのこの文 化 は、初めはたとえシナか ら来たものであ って

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も、シナ人で も日本人のように懸命になって残 した歴史はないのでありますか ら、それに比べ ると日本人がその文化を命がけで残 したことは、

これは自分の文化 といって も宜 しいと思います。

右 は内藤湖南の 『日本文化史研究』に載せ られ ている 「日本国民の文化的素質」の一節であ る。

鎌倉時代か ら足利時代 にかけては日本の暗黒時代 とよばれるが、応仁の乱 によって、 日本人が 自分 で文化の特質を創 り出 した、いわば日本文化 は中 国文化か ら独立 したきっかけであったと、内藤湖 南 は主張する。内藤湖南 はさらに次のように述 べ ている。

騒乱の時にあたって古代文化の一端で も後 に 伝えたという考えが当時 (応仁の吉D の人にあっ たのであります。‑‑‑こういう人が骨折 って古 代の文化を残そ うという努力を した効能が現れ たのであ ります。(それ は)応仁時代 とい うも のは、今 日過 ぎ去 ったあとか ら見 ると、そ うい う風ないろいろの重大な関係を日本全体の上 に 及ぼ し、 ことに平民実力の興起 において もって も肝腎な時代で、平民のほうか らもっとも轟歌 すべ き時代であるといいのであ ります。それ と 同時に日本の帝室 というような日本を統一すべ き原動力か らいって も、大変価値のある時代 で あったということはこれを明言 してた妨 げなか ろうと思 います。㊨

暗黒時代 において、戦乱のためにせ っか く中国 か ら輸入 して多 くの ものを失 って しまったとい う 事実 は非常 に残念であったが、人か ら借 り着 を し ていた着物をみな脱いで しまって、丸裸の姿 を見

るような時代 には、その当時の貴族の学者、 た と えば一条兼良による懸命に古来相伝の文化を後世 に残そ うとする精神によって、 日本人 は文化的要 素を持 ちうる条件を備えように思 う。たとえば 日 本 は神の国で、万世一系の皇室をいただいている ことをたいへん尊 Lとするようないわゆる自分 の 文化の特質が彼 らによって新たに発見 されたので ある。 しか も古来の書物の名前を記 し、学問を総 論す る目録である 『本朝書籍 目録』や 『仁和寺書 籍 目録』の存在意義が再認識 され、足利の乱世 に おいて も日本人がその昔か ら伝えて きた文化を ど れほど大事 に して きたかを明 らかに し、また立派 な文化を持 っている文化国民 とで もいうべ き条件

を備えるともいえているのである。㊨

日本の暗黒時代 に中国か ら輸入 されて きた文化 が殆 ど喪失 した後 に、当時の文化階級の人 々は古 来の文化を大切に保存することによって、 日本 の 独特な文化を再確認 し、あるいは発明す ると同時 に、 日本人 は文化的要素を持っようになった。 い いかえれば文物を大事にする精神が 日本人の文化 を創 り出す原動力 となった。

四、結語

東洋の文化 は古来中国中心であったと思 う。 し か し中国周辺地域の文化を決 して無価値 というわ けではあるまい。世界の各民族の歴史に目をや る と、文化を立派 に形作 った民族 は国の滅亡 ととも にそこで終わ りを遂 げるが、それで もなお、彼 ら の存在を示す文化だけは後に継続 してゆ く。 ギ リ シャやローマの例がそれを如実 にあ らわ している ではないか。そこか らまた新 しく興 る国は、前 の 国の文化を吸収 して、自らの文化形態を作 って い く。東洋文化の形成の経緯 も同様である。 こう し た文化の進歩のプロセスを内藤湖南 は次のように 述べている。

(東洋の文化 は)黄河の沿岸か ら文化が発芽 して、それが初め西あるいは南の方に開けて、

それか らだんだん東北 に向か って開けて行 った が、最後 日本 まで到達 して来たのであります。

そういうものがだんだん方々へ拡げって、その 方々の民族を刺激 して、その刺激 したたび ごと に、その地方に多少新 しい文化を形作 らせて、

そうして最後 に日本のような所‑及んで きたの で、日本が今 日のような文化を形作 られたので あ ります。

ところで文化 というものにはまた、申 し、か ら 末端に向か って行 く運動 と、それか ら末端か ら 中心 に向か って反動する運動がある。‑‑純粋 の文化の方の関係か ら見まして も、 シナの文化 中心 はしば しば移動 しておる。最初 は黄河の沿 岸地方で起 こりましたが、今 日ではシナの文化 の中心 はやはり揚子江の下流の地方、あるいは 広東 とかいうようなよほどシナの辺土 に文化 の 中心がありまして、その地方か ら人物 も出来れ ば、また文学 とか芸術 とかいうような もの も出

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(10)

てお ります。最近になりまして日本は西洋文化 の影響を受 けたためであるとは申 しますけれ ど

も、ともか くシナの多数の学生が日本に留学 を して、そうして日本で出来たところの本を読み、

日本で受けたところの西洋の思想ではありま し て も、日本人の手を通 したところのものを取 る ようになったということは、やはりシナ各地方 に弘まった文化が、だんだんシナの申 し、に対 し て反動 して行 くと同 じ行 き方で、日本か ら文化 的反動が今 シナに向かって起 こりつつあるので あります。⑳

文化の波動 ・伝播 は決 して直線でな く、また円 形で もな く、螺旋状のような循環、いわば螺旋史 観であるという。

中国古代における文化の波動は漢民族か ら他民 族‑及んでゆ くだけでな く、漢民族の内部におい て も特別な現われかたを した。当時世間によ く知 られた学派である儒家思想が南に伝わ り、道家の 荘子 も、儒家、ことに孔子 ・顔回の思想や生 き方 に影響 されて以後、自分が最善を尽 くして、他人 を信用することで、人々に最 もふさわ しい生活空 間や、調和 した社会形態を築 き上げることがで き る。それこそが理想な人間社会なのだと唱えてい

た 。

儒家思想 は中国思想の主流であるにもかかわ ら ず、中国周辺地域の思想や文化などあ らゆる方面 にも著 しく影響を与えた。宋明のように性理 の奥 義を形而上の学問として探究するものも、漢唐 の 訓話注疏学や清朝考証学に代表 される実証的な学 問 も、それぞれが儒家思想の主要なものとして中 国及びその周辺地域において、従来数多 くの学者 によって行われてきた。 しか し儒家思想を平易簡 明に説明 し、誰 もが孔子の思想を着実に実践で き るようにする理解が必要であろうと思 う。それは

論語』は何 よりも人間的書物 だ ったか らのであ る。例えば孔子が強調 した仁の徳 は決 して高遠 な 哲理でな く、肉親の間での自然な愛情か ら発 した 一種の調和的な情感をもとに したものである。道 徳の基礎 は何よりもまず人間自身のうちにあった。

そ してこうした人間肯定の精神をもっとはっきり と発揮 したのが孟子の人間はだれで も生まれつ き に道徳的な善性を持 っているという性善説である。

要するに、孔子 ・孟子を中心 とする儒家思想では、

人間は社会的存在であることが、つねに強度 に

意識 されていたといえる 人間は一人でいるもの ではない。人間は他人 とともに存在 しているので あり、人間は人 と人の間の調和が必要である」㊨

というのである。

論語』では 「礼の用は和をもって貴 Lと為す」

ということを、礼のはたらきとしては調和が貴 い といい、秩序性のある社会的な調和が理想社会 と いうのである。『孟子』 では 「君子 は、人 を養 う 所以のものを以て、人 を害せず」 (梁恵王下篇) ということばがある。「人 を養 う所以 の もの」 と は、人間を養い育てるための土地である。食糧 と か財産 とかそうした手段的な物のために、人間そ のものを犠牲にして害を与える、そんなことを君 子はしないというのである。つまり土地 は貴重で も、人間あっての土地であり、人命を犠牲 に して それを争 うのは本末転倒 というものである⑳。 し たがって人間関係の前提 として、人々の争いがな い、民族の対立が存在 しない相互の立場を尊重す ることは 「和」の究極だと思 う。 これは協和精神 で共同社会の結合意識をはぐくんだ倫理思想であ ると同時に我 と彼 との差別を しない、人間が人間 をはぐくむ自然 と調和する思想であるともいえる。

東アジアの国々ではい くつ ものの文化 ・文明が あって、それぞれに独 自の展開によって文明化 さ れてきたので、自国の歴史文化の発展 と周辺国家 の交錯 とともに、国々の間にも文化 ・文明の衝突 を発生 した。 しか しサ ミュエル ・‑ ンチ ントンの いうように、今 日の世界では文化 ・文明の間の衝 突を阻止 し、封 じ込める必要性に対する認識が高 まっているのである。「文明間の対話」 を呼 びか け、文化 ・文明の相違を小 さくする道を探 るとと もに文化 ・文明の共通 ・融合性を増進 させようと する動 きは世界平和のための重要な課題だといわ れている⑳。 したが って儒教の 「和」の思想 に基 づいて他人 と共生 し、自然 と共存する思想が、環 シナ海共同体を築 き上げる基本理念であり、共同 意識で もあった。今後、環 シナ海区域 は国 も、人 も、緊密に結びついてい くようになり、区域全体 が一つ社会を構成するようになると考え られる。

こうなれば、この区域に於いて各国のそれぞれの 長所を生か しなが ら、お互いを尊重 しあい、「和」

の精神に基づいた共存の倫理を要請することも、

おのずか ら人々とのあいだに、共通運命をにな う 連帯感 と親和感 とを成立 させ、共同社会的な意識

を根付かせることも可能ではないか。以上が環 シ

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