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デューイの初期道徳教育思想 一Moral Principles in Educationを中心として一

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デューイの初期道徳教育思想

一Moral Principles in Educationを中心として一

教育学研究室 関        勤

目   次 1.序

2.学校の道徳的目的 3.学校社会による道徳的訓練 4.教授法による道徳的訓練 5.カリキユラムの社会的性質 6.結 語

1.序

(1)

デューイの道徳教育の思想は倉沢剛教授によれば,教育思想が一般に三時期を画して発 展したといわれるのとほぼ対応して,三つの段階を画して発展したとされている。第一期 は1894年シカゴ大学教授に任じてから,1904年ここを去ってコロンビヤ大学へ転ずるまで の10年間で,道徳教育論としては「学校と社会」,「興味と意志の関係」Interest as Rel一 ated to will,1895.「教育を貫く倫理原則」Ethical Principles Underlying Education,

1897.の三つが代表作とされ,そこでは旧教育の徳育的無力さを批判し,真の人間形成の 過程を探求したユニークな徳育的洞察が展開されている。第二期はコロンビヤ大学教授と して活躍し,1930年に退職するまでの26年間で,道徳教育論として「民主主義と教育」「倫 理学」「思考の方法」「人間性と行為」等が著され,徳育の理論が一段と深められ体系的に 整備された。しかしこの期の徳育論は,すてに初期に直観的にとらえられたものを確認し たまでであつて,この期に独自の発展をしたと見られるものは少いとされるのが特色であ る。第三期は1930年コロンビヤの名誉教授に退いてから1952年永眠するまでの22年間で,

1929年に始まる経済的社会的危機を通じて新教育の反省と前進のための理論を切り開く時 代で,徳育論としては「経験と教育」が著され,生活主義の近代徳育に再検討が加えられ 誤った児童中心が正されることになる。

従ってデューイの道徳教育思想は第一一・期と第三期が重要であるから,この二期の思想の 本質を明確にとらえ,その転換の真髄を明かにすることが彼の徳育思想解明の鍵であると 思われる。ここでは研究の第一段階として初期の思想をとりあげるが,それは研究段階

として当然だし,またこの期の思想が他の二時期に比較して歴史的に最も重要であり,

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最もユニークと思われるからである。第一期の著作の中「教育を貫く倫理原則」は学校に おける徳育の目的と内審と方法を体系的に論じ,道徳教育の問題を具体的に説いたもの で,デューイの全著作のうちで最もよくまとまった徳育論であることはデューイ研究諸家 の定説となっているところである。これは1906年に「教育におる道徳原則lMoral Princi一 Ples in Educationと改題刊行されているので・これを一つの拠り所として彼の初期道徳 教育思想を探求することとした。これは「生活原理乃至生活態度を身につけさせる教育は,

特殊な教科を設けることなく,被教育者を直接生活そのものに取り組ませ,生活の中で実

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践を媒介として行わなければならない。道徳教育がそのよき例である」と説かれ,またか ように実践されて来た戦後の道徳教育に,昭和33年学習指導要領改正により特設道徳が持 ち込まれ,特設か否かの理論的対立が統一されないままに現場を混乱させている現在,教 育学の大先達としてのデューイの意見を聞くことは大きな意味があると思うからである.

(1) 東京学芸大学教育研究所 道徳教育,pp.22−24.

(2) 小 川 太 郎     戦後教育問題論争,p.257

2.学校の道徳的目的

(1) 道徳的観念と道徳についての観念

デューイは「道徳的観念」Moral ideasと「道徳についての観念」Ideas about mor一

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alityとの相違を強調し,これを区別することが道徳教育の論議において基本的なことと する。道徳的観念は行為とその改善に影響を与え,行為を前よりもよりよいものとする観 念である、道徳についての観念は道徳的に無関心であったり,不道徳的であったり,道徳 的であったりする観念である。「道徳についての観念の性質には,即ち正直・純潔・親切 等についての知識の性質には,かかる観念を良い品性に或いは良い行為に変質してゆくも

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のは何も存在していない」。道徳的観念は品性の一部したがって行為の動機の一部となっ ている観念であるが,道徳的行為についての観念は行動についての自動力のない,役に立 たない,行動を律するに無力である観念である。そこでデューイは「教育者の亦分は青少 年の習得する出来るだけ多くの観念が,生きて働らく観念,行為を導く原動力となるよう

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に,生き生きとしたやり方で習得されるよう注意すること」だと警告する。このことは必 然的に道徳的目的をすべての教科の教授の全体的かつ支配的な目的とする。もしもこの可 能性がないとすれば,一切の教育の究極の目的は人格の形成であるという万人周知の宣言 は偽善的口実になりおわる。というのは教師と生徒との直接の注意は,その大部分が知識 の問題にそそがれるからである。

(2)直接の道徳教育

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ここでデューイが攻撃している「道徳についての観念」を養うものは所謂直接の道徳教 育Direct moral instruction,よりよくは道徳についての教授Instruction about morals

とよぶべきものであって,倫理学の教授Instruction in ethicsや狭義の道徳教育Moral teachingがこれにあたり,これは教育による道徳的成長の全分野を考えた場合,その最 善の場合でも,量的に比較的小さく,質的に弱いものであるから,これは学校教育の全領 域で人格の形成にあたる所謂問接の道徳教育Indirect moral educationに転換すること が必要とされる。但しこの間接の道徳教育を行う場合の留意点としては教師自身の人格,

学校の雰囲気や目標,その教授法や教材等が改革されて,学んだ知的成果が行動の生き生 きとした原動力となるように,動的に人格と結合されるようにすることがあげられてい

る。

(1)John Dewcy, Moral Principles in Education,1909, P・22.

(2)OP・cit・, P・2・水野常吉,デユイ教育思想の手引,1959, P.104.

(3)OP. cit., P,2.

3.学校社会による道徳的訓練

(1)学校の倫理原則と社会の倫理原則

デューイは倫理原則に学校生活のためのものと学校外の生活のためのものと二組のもの がありえないことを行為が一つであるということから理由づけ,学校の道徳が行為の一般 原則から無関係に考えうるかのように論議することの誤りを正している。学校は基本的に は社会生活を維持し,社会の福祉を前進させるという社会的人格を訓練するために,社会 によって建てられた制度であるから,学校の道徳的責任,したがってまた学校を運営する 入々の道徳的責任は社会に対して負うぺきものであることを強調し「全体として,公教育 制度の道徳的作用と価値とは,それがもつ社会的価値によって評価せられるぺきであると

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いうことは周知の意見である」と説いている。

(2)多くの社会的諸関係のための訓練

このような観点からみると,過去の学校の社会的作用は「市民資質の訓練」Training

for citizenshipという狭く形式的なものになっていた。これは賢明に投票する能力とか       }

@律に従う性質とかを訓練することを意味するもので,人間の社会的諸関係のうちの一部 分にすぎない。子供が関係する多くの社会的諸関係のうちどれか一つをとりだし,それの みに学校の作用を限定しようとするのは,丁度他の器官や機能と無関係に肺と呼吸の力の 発達のみを目標として大きく復雑な体育の体系をつくると同じく無益なことにすぎない。

子供は肉体的にも知的にも社会的にも道徳的にも有機的な統一体であり,学校の道徳的要 求は子供に聡明に凡ての彼の社会的諸関係を認識させたり,それらの社会的諸関係を維持

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するために彼の役割を果たさせたりすることになければならない。このように子供が自分 の役割を正しく果たすためには,科学。芸術・歴史に関する訓練,研究調査の基本的方法 や交通・通信の基本的手段についての力,訓練された健全な体・巧みな眼と手,勤勉忍耐 の習慣等が重要になる。われわれはここに,学校の道徳的教育が特設された一教科によっ ては根本的に不可能であって,全教科全教育活動により行われなければならぬ根拠を見出 すことができる。

(3) 自己指導的地位のための訓練

次にデューイは子供が将来その一員となる社会は(合衆国の場合)民主的で進歩的な社 会であるから,子供は自己指導力,他人への指導力,管理的能力,責任ある地位を引受け る能力を持たねばならぬとして,これを道徳教育の重要な目標として据いる。若しも教育 が意識的にも無意識的にも子供をある固定した身分のために教育したとしたら,即ち自己 指導力のない人間に教育したとしたら,その教育は将来の市民をその身分に適合させない ばかりでなく,彼を怠惰なる居候的人間,社会の前進を阻害する人間とする。というのは 新しい発明や新しい機械や輸送交通の方法がつくり出されて毎年毎年人間の行動の全面を 変更しているからである。そこで彼は「社会的側面に関する学校の倫理的責任は最も広 い,最も自由な精神で解釈されなければならない。そのことはまた自分で自分の責任がと れるように本人の力をつけてやる子供の訓練が,彼を常に変りつつある変化に適応させる

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ばかりでなく,それらの変化を形成し,また指導する力をもたせることになるのてある」

とこの訓練の重要性を指摘する。

(4、 諸能力の調和的発展

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「社会生活に参加することを離れては,学校は道徳的な目的も目標ももたない」という ことを根幹として彼は「教育目的は個人の諸能力の調和的発展にある」という定義の真の 意味をこう解明する。この定義か社会的諸関係と無関係に考えられているならば,われわ れはそこで使われている言葉の一つ一つが何を意味しているのか知りようがない。能力と は何であるか,発展とは何であるか,調和とは何であるか全く知ることができない。能力

とは,それが使われる(社会的)用途とそれが役立つべき(社会的)機能とに関連をもっ た時に始めて能力となる。古い能力心理学の原則は,知覚・記憶・推理等の多くの能力を 列挙し,それからいきなり,これらの諸能力の一つ一つが発展せられることが必要だと主 張するが,注意すべき単純な事実は鍛治屋・大工仕事・蒸気機関運用等についての生れつ きの能力がないのと同様に,観察・記憶・推理等の孤立した能力がないということであ る。能力というのは特殊な衝動や習慣がある明確な種類の仕事をなしとげることと関連し て調整され,形成されることにすぎない。したがってわれわれは知的諸能力の訓練が何を

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意味しているのかを知るためには,個人がその中で観察したり,記憶したり,想像した り,推理したりする能力を用いているその社会的場Social situationsを知ることが必要 になる。われわれが学校の諸活動を説明する場合,それが関連しているより大きな範囲の 社会的諸活動を顧慮している場合にのみ,学校の諸活動の道徳的意味を判断する基準を見 出せることになる。彼は道徳教育の性質と目標のこのような社会性の理論を後に発展させ て「道徳は品性全体に関するもので,品性全体はその人の具体的性質およびその行為的表 現の一切と同一である。だから有徳とは決して僅少の明確なる諸徳目を酒養したことでは なく,人が人生のあらゆる業務における他の人々との交渉によって十全に適当に成ること のできた所のものを意味する。結局,行為の道徳的性質と社会的性質とは同一のものであ

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る」と述べて社会的と同徳的とが一致することを理論づける。

(5) 学校の道徳的訓練の病理学的,形式的傾向

現代の学校の道徳的訓練について,デューイはそれが積極的な奉仕の習慣を形成するこ とを強調する代りに非行を嬌正することを強調するから病理学的であるとその欠陥をつ く。生徒達の道徳的生活についての教師の関与の仕方は,学校の規則に従わせることに失 敗しまいとして注意する形となってあらわれる。学校の規則はこの時期の児童の発達とい う見地から判断すると多かれ少かれ因襲的,専断的なものであり,現在の学校の学習様式 をそのまま継続してゆくために作られたものであって,その中に個有の必然性が欠除して いるために,児童の側でそれが専断的であるという感じをいだくことになる。

また学校によって強調される道徳的習慣がいわば特別につくられた習慣であるために,

その道徳的訓練が形式的になる点を指摘して彼はその改善を求める。例えば現在学校で重 視する迅速とか整頓とか勤勉とか他人の仕事を防害しないとか課された仕事に対する忠実 さとかの習慣でさえも,単に学校制度が今のような状態にあるからこそ必要な習慣である にすぎない。若しわれわれが今のままの学校制度を侵すぺからざるものとして許容するな らば,これらの習慣は恒久的・必然的な道徳的理念となろう。しかし学校制度それ自身が 社会生活から孤立し機械的なものである限り,このような道徳的習慣の主張は非現実的な ものにならざるをえない。というのはそれらの道徳的習慣のめざしている理想がそれ自体 社会的に必要なものでないからである。換言すると,これらの義務は明瞭に学校の義務で あって生活の義務ではないからである。そこでデューイはよく秩序づけられた家庭で子供 が理解せねばならぬ義務とか責任とかが,特殊化され孤立された制度としての家族に属す るものではなくて,実は家族がそれに参加しており,それに貢献している社会生活の本質 そのものから由来したものであることを,われわれが知れば改善の方策は容易に発見され ると説いている。即ちその方策は学校が典型的な社会生活になること以外何もないわけで

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ある。

要するに学校社会による道徳的訓練を達成するためのデューイの基本的原則は「学校そ

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れ自身が現在よりも,もっと力強い社会的制度となること」,そして「学校はそれ自身の 中に社会生活の典型的諸条件を再現して社会生活の準備をすること,しかも社会生活のた めに準備をする唯一の方法は社会生活に従事することである点を確認すること,そして直 i接の社会的必要や動機から離れて,現在の社会的場から離れて,社会的有用さや役に立つ

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習慣を形成しようとするのを止めること」にある。しかもそうするならば「それ自身の中 に社会的生活と社会的価値を持つ一つの社会的制度として,学校を考え学校をつくること をしなかった一つのあらわれとしての,知的訓練と道徳的訓練との,知識を獲得すること

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と品性を成長させることとの学校における嘆かわしき分離」は解消されるとするのであ

る、

(1) John Dewey, y[oral Principles in Education,1909, P・8・

(2)ibid., P.11.

(3)ib孟d., P」1.

(4)John Dewey, Democracy and Education,1916, P.416・

(5)John Dcwey・Moral PrinclPles in Education・1909, P・13・

(6)ibid., P.14.

(7)ibid。, P,15.

4.教授方法による道徳的訓練

(1) 個人主義的消極的知識の吸収から積極的社会的奉仕へ

デューイは初期の労作において「旧教育の類型的な諸点,即ち旧教育は児童の態度を受動 的ならしめていること,児童を機械的に集団化していること,教育課程と教育方法が画一

(1)

的であること」を明かにしているが,道徳教育の基本的要素としての学校の社会化の原理 が,その一般的精神において教授の方法にも適用されて,その結果単に消極的に知識を吸 収する学習が積極的に奉仕する学習に転換されなければならぬとする。従来の受身の知識 の吸収は本質的に個人主義的なものであって,しかもそれは無意識のうちに,しかも効果 的に子供の判断と行動の仕方に再現されていた。教室の子供全部が毎日同じ本を読み,同 じ課業を予習復習し,そして彼等は学習時間に何を習得したか,また暗調時間に何を復唱 できたかという立場から絶えず評価されている。そこでは社会的分業Social division of Laborの機会は殆んとない。子供は自分が何か独自の研究をしたり,また他の人の成果 をわかちあったりする機会をもたない。凡てのことは正確に同じ勉強をし,同じ結果を出 すようにきめられている。「子供は教師と友人全部が自分のもっている考え方や事実と正 確に同じものを持っているということ,即ち彼が全然何も彼等に与えるものがないことを

(7)

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完全によく知っている」からそこでは社会的精神は全く養われない。ここには知的不毛と 同時に道徳的不毛が結果する。しかし子供は表現し活動し奉仕する自然的欲求をもってい るのだから,個人主義的学習法は積極的奉仕の方法に転換されねばならない。

(2)個人主義的動機と基準

ヂューイは個人主義的方法は社会的精神の啓培が不足しているばかりでなく積極的に個 人主義的動機と基準を教えこんでいるという弊害があることを追求する。即ち子供に学習 させる動機として,学校の規則を犯さない,従って消極的に学校のために尽くしていると いう感情,又教師に対する愛情が考えられている。これは別に非難すべきものではないが 不十分なものであって,特に利己的な動機と結ばれるのが普通である。・ ・まず一方では 恐怖の念が必ず動機として働いてくる。それは必ずしも罰せられるのを恐れるのではな

く,他人の承認を失うことを恐れるのである。失敗の恐怖は甚だしく,時には病的に陥る ことさえある。他方では張り合いないし競争心か動機となって働いている。児童はすぺて 同じことを学習しており,各人の個性的貢献という見地から評価されずに,学業の比較的 成功という見地から評価されるので,他の者より出来るようにという優越感が不当に刺戟 され,弱い者は自信を失って劣等感におそわれ,強い子供は好ましくない誇りを感ずる。

かくて児童は早くから個人主義的な競争の世界におしだされる。しかも競争というような ものを入れるべきでなく,協力と参加を旨とすべき知的・芸術的な学習においてさえ蹴争

(3)

を強いられるのである……。

更にデューイは個人主義的受身の知識の吸収という方式に結びつく「遠い将来のための 準備」という動機が害悪を伴う点を「今やっていることに何の価値もなくて,何か他のた めの準備としてたけ意味があるという印象,ひるがえって,純粋に現在を超越した目的の

      (4)ために準備をするにすぎないという印象のために起こる道徳力の喪失は測り知れない」と

述べる。

要するにデューイは学校を社会化するという道徳教育の基本原理の教育方法への適用 は,個人主義的知識の吸収から社会的奉仕への転換として表現され,それは子供の能動的 な諸能力,即ち子供の建設したり,生産したり,そして創造したりする能力に訴えるとこ ろのあらゆる教育方法の導入として具体的機会を見出すとする。

(1) John Dewey,亀School and Society,1899, P.35.

(2)John Dewey, Moral Principles in Education,1909, P.22.

(3)ibid・, p・23・東京学芸大学教育研究所,道徳教育, pp.39〜40.

(4)ibid., PP.25〜26.

(8)

5.ヵリキユラムの社会的性質

(1)社会的場を理解させる手段としての教科

デューイは教材こそ多くの点で学校の一般的雰囲気と教授・訓練の方法を決定する重要 なものであって,この教材を編成したもの,即ち当時の学習指導要領(course of study)

一一。のカリキュラムーの改造が道徳教育と結びつけて考察され,生き生きとした社会 的精神を養い共感と協力を喚びおこす方法に適合させられねばならぬと提案する。

彼の示す中心原理は「教科は子供に社会的な行動の場を理解させるための手段と考える ぺきであ轟)ということで,そこから教材の選択と価値の判断の難が与えられることに なる。ところがわれわれは今日,教養・知識・訓練という三つの独立した価値を設定し,

これらの価値により教材選択をしている。所が実はこの三つの価値は教科による社会的理 解の三つの側面にすぎない。知識はそれが社会生活の文脈の中におかれている材料の明確 な姿と意味とをあらわす限りにおいて真正に教育的である。訓練はそれが知識を個人の諸 能力の中へ反応させて,個人がそれらの諸能力を社会的目的のため統制できるようにした 時にのみ真に教育的である。教養はまことは知識と訓練との生きた結合であり,個人がそ の生活に対する見識において社会化されることである。いずれも社会的理解の価値をあら

わす。

(2)教科は統一的社会生活の諸相をあらわす

学科(教科)は理科とか歴史とか地理等に分類されているが,それに対応する事実それ 自体にはこのような境界線は存在しない。このような教科の分類は教科相互の関係と,知 識全体に対する諸教科の関係について,全く誤った考え方を与える。実際にこれらの諸教 科は同じ究極の実在即ち「人間の意識的経験」Conscious expericnce of manを取扱う のである。「われわれが教材を分類し,そのある部分を理科,ある部分を歴史,また他の 部分を地理と名称をつけているのは,われわれがそこに違った興味,違った目的を持つか らにすぎな、!l).っまり_一つに分類された教科は社蝕活のある主要な鯉的な目的 又は過程に照らして配列された材料をあらわすだけである。この社会的基準は各教科相互 の特質を明らかにするためばかりでなく,各教科の存在する理由,つまり各教科が如何な

る動機をもって提示せられねばならないのかを知るためにも必要である。

(3) 教科の倫理的価値の諸例

各教科は本来的に社会性を持つぺきものであって,それは必然的に倫理的価値を持つぺ きものになるが,彼はこの点を主として地理・歴史・数学等の諸例を通じてつきとめる。

先ず第一に地理は人間生活と自然との相互作用に関係する社会生活の一切の側面を取扱う

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もの,換言すれば社会的相互作用の場としての世界を取扱うものである。したがって自然 的環境に対する人間の依存,人間の生活による自然環境の変化と関連する限り,如何なる 事実も地理的事実となる。即ち地理的事実の本質は人間の社会的結合の自覚であって,そ こに彼は倫理的価値を見出している。第二に歴史教授の倫理的価値は,過去の事件が現在 を理解するための手段,今日の社会の構造と作用とを洞察する手段とされる度合によって 測られる。今日の社会構造は非常に複雑であるから,子供がそれを全体として知ることは 実際上不可能であるが,歴史的発展の典型的諸相の選択は望遠鏡で物を見るようにはっき り現在の社会組織の本質的要素を示してくれる。歴史研究はまた社会的進歩の大きな時代 区分をもたらしたところの発見・発明・新しい生活様式等の主要な役割を明かにし,社会 進歩の主要な方向の類型を子供に示し,また進歩の途上にあった主たる困難と障害を示し てくれる。結局ヂューイは歴史の倫理的価値は歴史が社会的見地から取り扱われるか否か によると結論している。第三に数学はそれが一つの社会的道具として与えられるか否かに よりその倫理的価値が決定される。知識と品性,知識と社会的行為の分離は数学にもあら われているが,それは数学がその社会生活の中で果す用途役割から分離されて不当に抽象 的なものとなった結果である。その時数学はある目的や用途から切り離された技術的な諸 関係と定式の問題として与えられる。数学教育の誤った方法の背後には,それがある目的 を完成するための手段として利用される代りに,それが目的であるかのように数を取扱う という誤りがある。子供に数の用途は何か,それは何のために役立つかを意識させる時,

即ち数学の社会的目的を意識させる時,その倫理的価値がみたされることになる。

要するにカリキュラムの社会的性質についてデューイが強調する点は,「各教科が社会

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生盾を理解させるための一様式として教えられる時にそれは積極的な倫理的意味を持つ」

という一般原則としてあらわされる。正常な子供が絶えず必要とするものは,誠実や正直 の重要1生とか,ある愛国的行為の結果とかについての一つ一つ切り離された道徳訓ではな

くて,物事についていつも社会的な想像力を働かせ,社会的な考え方をする習慣を形成す ることである。過去の道徳教育は道徳ということを或る特殊な行為と結びっけ,その特殊 な行為に徳目という名称をつけて他の多くの行為から切り離し,従って道徳的行為とそれ を実行する子供の日常の考え方や動機とを切り離していた。道徳教育はこうして特殊な徳 目を教えること,それらの徳目に関する感情を注入することになっていた。これが誤りで あることは再三繰返されている。

(1)John Dewey, Moral Principles in Education,1909, P.3L

(2)ibid., P.33.

(3)ibid・, P.40.

(10)

6.結  語

デューイの道徳教育思想はその根本原理を「学校の社会化」ということに求めている。

その原理の展開は(1)学校制度そのものが今よりもより力強い社会的制度となるよう に,それ自身の中に社会的生活と社会的価値をもつように考えられ改造されること・(2)

教授の方法は個人主義的消極的受身の知識の吸収から積極的社会的奉仕の学習へ転換され ること,(3)カリキュラムはその社会的性質が明瞭に確認され・各教科は社会的行動の場 を理解させる手段として用いられること,に要約される。特に彼が社会的知性一種々な社 会的場をよく観察し,理解するカーと社会的能カーよく訓練された統一的能カーとが社会 的興味と目的のために生きて役立つ時に真の道徳的動機と能力が養われるとしたこと,従 ってこの能力は社会的行動の場を理解させる手段としての各教科の学習により綜合的に養 われるとして,直接の道徳教育の方法を排除した原則的提案は,われわれが我が国の道徳 教育の現状を反省するとき充分かみしめる必要があると思われる。戦後新教育がとりあげ た道徳教育のあり方は,ただ単に表面的形式的にだけ彼の提案をとりあげ,実質的には彼 の意図を充分くみ入れなかったのではあるまいか。学校社会化の原理はどう具体化された か,学校制度・教授の方法・カリキュラム等何れを見ても社会化の原理は具体的に実現さ れなかったのではないのか,これら諸点の反省として私は彼の道徳教育思想の体系が今後 我が国の道徳教育に内面的に滲透することの必要性を認めないわけにはいかない。尚彼の 初期のこの思想が後期にどう変質してゆくかの探求は次の研究の課題としたい。

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