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越境する日中文化・思想交流史の序

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特別寄稿

越境する日中文化・思想交流史の序

徐 興慶(Shyu shing ching)

十七世紀に入って,海洋大国のイギリスは東インド会社を拠点としてインドへ の進出を始めた。そしてオランダは,インドネシア,ジャワのバタビア(Bata-via)において台湾及び日本への進出を企てていた。それ以後,西洋諸国の勢力 が東アジア海域に介入するという現象が出現した。中国では明清の戦いによっ て,満族が中国を統治するようになり,1644 年に明朝が滅ぼされたが,東アジ ア海域においては鄭芝龍,鄭成功の一族や魯王は南明政権を掲げ,その勢力をふ るい,満清政権に抵抗を続けていた。十七世紀の中日文化交流の歴史を振りか えってみると,二つの特殊な空間がみられる。一つは中国の明清交替の戦乱の 際,一部の中国文人は「満清の米は食さず」とし,次から次へと海をさまよい日 本へ渡り避難した。これら棄国の遺民の多くは姓名を隠して,政治を捨て仏門に 入り,また儒学者も少数ながら日本へ避難し,その結果儒教も伝わり広まるな ど,一人一人が悲愴な歴史を背負うことになったことである。一方,徳川幕府は 儒教を広めようとし,一方で仏教を重視しつつ,明清の中国の学問としての儒教 を取り入れることにより,徳川社会は,まるで「域外の漢学」の大本営となって いた。この二つの時代背景は日中文化,思想交流の特殊性を織りなしたのであ る。 明清の戦乱および日本の鎖国の時代背景の中において,1654 年,六十三歳で 長崎の唐寺興福寺の招きにより日本に渡航し,のちに京都宇治の萬福寺を開いて 日本の黄檗宗の開祖となった隱元隆琦(1592-1673)は臨済禅の布教に努めた。 同じ時期に浙江餘姚出身の朱舜水(1600-82)は明朝再興のため,貿易活動を営 みながら軍事資金の調達を図り,舟山群島,長崎,安南を行き来していた。朱舜 水は一時的にアモイ,台湾に拠った鄭成功を支援し,1659 年 7 月の南京攻略戦 にも参加している。 他方,徳川幕府は長崎を唯一の窓口として対外に開放し,中国及びオランダと 交易を行ない,東西両洋の世界の外来文化に間接的に接触するようになった。日 本は中国船を招致するため,朱印状を発行し,長崎に来航した唐船は年間七十か

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ら八十隻に及んだ。十九世紀までに長崎は,日中の貿易活動と文化交流の場とし て人的往来の活気を呈していた。近世の日中両国は,それぞれ閉鎖された社会を 形成しており,長崎の貿易,文化活動において,両国の人物往来の実態がどのよ うなものであったのか重要視されつつある。本稿は日中人物の思想交流史を軸に し,十七世紀から二十世紀の東アジア社会の越境した知識人を取り上げる。(一) アジア海域のアモイ,台湾,金門で行き来した鄭成功(1624-62),そして舟山群 島,ベトナム,長崎,江戸,水戸などを舞台に活躍した朱舜水,さらに黄檗宗の 仏教を日本に移植した隱元,獨立性易(1596-1672),曹洞禅宗を水戸に根付かせ た心越禅師(1639-96)をめぐる東アジア文明発展史の実態を分析する。(二)徳 川幕末から近代への黎明期の日中知識人の思想交流とその「自他認識」を明らか にすることを目的とする。 一,日本,中国と台湾の英雄/鄭成功 近世日中貿易関係史を語るには,日本とゆかりの深い日中混血で東アジアの国 民的英雄,鄭成功を無視することはできない。鄭成功の父は,明朝の福建省泉州 南安県石井郷の豪族,鄭氏の第十一代に当たる鄭芝龍(1604-61)で,1608 年 十八歳の時,私貿易に従事するため初めて日本へ渡り,のちに日明貿易の主役と なった。九州平戸の松浦隆信(1529-1599)は,従来日中貿易を営む関係で鄭芝 龍と親しく交遊していた。鄭芝龍はその後,平戸川内浦千里ヶ浜に移り住み, 1623 年平戸藩士の田川七左衛門の娘マツと結婚し,1624 年 9 月に鄭成功が平戸 の千里ヶ浜で誕生した。現在,当地は「鄭成功児誕石」の歴史名所として知られ ている。

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1.鄭氏一族と「日本乞師」 鄭成功の幼名は福松といい,六歳まで学問と剣術を平戸で学んだが,1631 年 に七歳の幼さで母と二歳の弟田川七左衛門に別れを告げ,単身で中国大陸にいる 父鄭芝龍のもとに帰り,名を森と改めた。そして,南京儒者の銭謙益(1582-1664)に学び,厳しい教育もあって,文武に優れた青年となった。1644 年に中 国政権の明清交代後,華中・華南では,明の皇族を擁立して「反清復明」を唱え て清への抵抗と明の再興を目指す南明勢力が形成された。一方,西洋の勢力が 徐々に東洋に力を及ぼすなか,日本では,織田信長(1534-82)や豊臣秀吉(1536-98)が相次いで政権を握って栄えた安土桃山時代が終わりを告げたばかりの時 期であった。それにかわって政権を得た徳川幕府は,西洋勢力の侵入を恐れて, キリスト教の禁止や鎖国の政策を採った。そのため徳川幕府は長崎を唯一の対外 窓口として開放し,中国およびオランダの船舶の来航を認め,貿易活動の進行を 統制しながらも,東西の二つの世界と間接的に接触していた。 (鄭成功児誕石 https://www.google.co.jp/searchsafe)

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鄭氏一族は相当の軍事力を保有していた徳川幕府に軍事支援を求め,連合して 清軍を駆逐する事によって明朝再興を果たそうとした。石原道博の研究による と,1645 年に鄭芝龍は相次いで日本に軍隊派遣を要請する「日本乞師」の書簡 や使者を送ったという。鄭芝龍が日本に送った「乞師状」は計八通がある。その 内訳は日本の「正京天皇」宛てが二通,「上将軍」宛てが三通,「長崎王(長崎奉 行)」宛てが三通で,五千の兵を借りたいと申し出ている。この「乞師状」は幕 府が外国情報を記録した『華夷變態』に収録されている。鄭芝龍の「乞師状」に 接し,幕府は,まず大学頭林羅山(1583-1675)にそれを読ませ,老中たちは「数 日評議あり,尾張紀伊の両大納言水戸中納言(頼房)も登場,右之書簡春齋これ を読む」と記している。すでに鎖国体制に入っていた徳川幕府は数日に亘り,真 剣に「評議」を重ねたすえ,最後に二十二条の「此度難問」の「上意答覆書」を 作成し,九州の大名を通じて南明の「乞師」依頼を断っている。しかし,軍事的 な支援には否定的とはいうものの,貿易などの形式で日本刀などの武器や物資の 調達を許すことはあった。 鄭成功は,南明政権の代表者として,1662 年台湾で病逝するまで,長い間清 朝と戦っていた。1645 年 8 月,鄭氏父子は福州で明太祖の九世の孫である唐王 隆武帝を擁立した。鄭成功は唐王から忠孝伯という栄を受け,御営中軍都督,招 討大将軍に任ぜられ,明の国姓の朱を賜った上,成功と改名した。国姓爺の呼名 はこれにもとづくものである。当時二十二歳でこの栄誉に浴した鄭成功は大いに 感激し,一生を明朝に捧げることにした。1646 年,鄭成功は父芝龍の変節降清 及び明君主への忠義保全のため自殺した母翁氏(田川氏は 1645 年 10 月に日本か ら福州に渡った)の二重のショックに耐えながら,新たに反清復明の決意を誓っ

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た。当時,明朝の遺臣が数多く日本に渡航し,江戸幕府の支援を求め続けた。鄭 成功も使臣の張光啓を日本借兵に赴かせたり,明末渡日儒者の朱舜水にその依頼 書翰を送ったりしたこともあった。 1661 年 4 月 29 日,鄭成功の軍隊は福建のアモイから澎湖島を経て,台湾の台 南の鹿耳門(今の安平)に上陸し,オランダ軍との七カ月間の交戦で,要塞のプ ロビデンシャ城(今の赤嵌樓)とゼーランディア城を落とし,台湾の三十八年間 (1624-62)に亙るオランダ統治時代に終止符を打った。鄭成功は台湾を東都と改 称し,台南を承天府として政治の中心とし,天興(現在の嘉義県),万年(現在 の高雄県)両県を設け,はじめて施政につとめた。一方,満清政権は鄭氏一族の 東アジア海域における勢力拡大を阻むため,1661 年 8 月から山東以南の沿海居 民に内陸の二十五キロの遷移を命じる「遷海(界)令」を頒布したが,これは 二十三年後の 1683 年南明政権が完全に滅亡し,台湾を中国の帰属とするまで続 いた。「遷海令」の目的は反清勢力を封鎖するためであったが,その効果はあま りなく,むしろ中国沿海各省,特に福建,広東の経済成長に大きな被害をもたら すばかりであった。鄭成功は反清復明の志が叶わないままに,惜しくも 1662 年 6 月 8 日に三十九歳の若さで世を去った。2012 年,鄭成功去逝三五〇周年を迎 えた今日でも,台,日,中,韓の学界においては,彼を政治的,歴史的重要人物 と据え,南明史,オランダと清領をめぐる台湾史における位置づけや日中貿易関 係史の役割,さらに文学の視野から「国姓爺」を読むなど,さまざまな視野から 研究がなされている。 2.隱元隆崎禅師と鄭成功 隱元隆崎は明末清初の黄檗禅宗の僧。福建省福清県の生まれで,その俗姓は林 である。江戸時代初期,長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたこと から,先に渡日していた興福寺住持の逸然性融(1601-68)が,隱元を日本に招 請した。渡日当時,中国は明末清初の交替期であったことから,この騒乱を避け て来日したとされているが,黄檗山萬福寺の文華殿に残されている隱元と鄭成功 の往来書簡や記録等によると,二人の間柄はとても深いものと判明している。そ の事実として,隱元は 1654 年 6 月 21 日にアモイで鄭成功が仕立てた船に随従者 三十人とともに乗り込み,7 月 5 日に長崎に着岸し,唐寺の興福寺に入った。隱 元が入った興福寺には,明朝禅学の新風と隱元の高徳を慕う具眼の僧や学者たち が雲集し,僧俗数千とも謂われる活況を呈した。1655 年,妙心寺元住持の龍渓

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性潜(1602-70)の懇請により,摂津(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山す るが,隱元の影響力を恐れた幕府によって,寺外に出る事を禁じられ,また寺内 の会衆も 200 人以内に制限された。隱元の渡日は,当初三年間の約束であり,中 国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが,龍渓らが引き止め禅学の普 及に奔走し,1658 年には,独立性易は書記として隱元とともに江戸幕府四代将 軍・徳川家綱(1641-80)と会見した。その結果,隱元は 1660 年,京都の宇治に 寺地を賜り,翌年,新寺を開創し,故郷の中国福清と同名の「黄檗山萬福寺」と 名付けた。これによって,隱元は日本禅界の一派の開祖となり,臨済正宗黄檗派 を名乗り,その『黄檗清規』により自ら一派を形成する方向に発展していった。 ちなみに,黄檗寺院は全国各地に開設され,その数は 1745 年には 897 ケ寺で, 全国 51 ケ国に存在した。隱元には,後水尾法皇を始めとする皇族,幕府要人, 各地の大名,多くの商人たちが競って帰依した。黄檗禅風の弘法を日本に伝播し て,優れた業績を残した。彼は萬福寺の住職の地位にあったのは三年間で, 1664 年 9 月に後席は弟子の木庵性瑫(1611-84)に移譲し,82 歳で松隠堂に退い た。1673 年 4 月 2 日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。 1917 年には大正天皇より「真空大師」が,1972 年昭和天皇より「光華大師」が それぞれ下賜されている。 3.隱元と黄檗僧の「唐様」 江戸時代の書は,平安時代以来伝統的な書の流れをひく「和様」と,中国の明 代を主に各時代の書法の影響を受けた「唐様」とに大別される。和様の書は朝廷 で用いられたほか,幕府の公式書体としても用いられ,それは庶民にも及び江戸 (黄檗山萬福寺 京都宇治 http://kamogawa35.exblog.jp/16540324/)

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時代を通じて日常の場で幅広く用いられる。一方,黄檗僧や学者などによっても たらされた唐様の書は,幕府の儒学奨励政策が漢学の隆盛につながり,漢籍の内 容だけではなく書風にも関心が高まったことを背景に,文人墨客,儒者,僧,武 士階級など知識層を中心に広まった。 従来の黄檗禅林の書についての論考は,多くが隱元の渡来を始まりとして述べ る。しかも,その書風は隱元の伝法の師である費隱禅師に由来する。隱元は能書 家の唐僧としても知られ,木庵性瑫(1611-48),即非如一(1616-71)とともに黄 檗の三筆と称される。隱元の行草書の基盤は,用筆,結体,構成の分析から中国 明朝の文人文徴明(1470-1559)の書法にならっている。隱元が渡日してから示 寂までの十九年間に残した墨蹟は膨大で,その語録『隱元全集』には四千首近い 詩偈と題贊が収められている。黄檗僧や檀越らからの要請によりすべて筆で書か れていたもので,殆どの作品は日本に伝存している。 二,朱舜水の研究―長崎,柳川から水戸へ 1.長崎の華人社会 長崎は江戸と中国,朝鮮と琉球をつなぐ円の中心に位置し,ポルトガル時代, オランダ時代,中国の明,清交替の外国の文化諸相が混じり合い,東西文化交渉 史の舞台として,主に東アジア海域で,唐船,オランダ船などが渡航する九州の もっとも重要な貿易港であり,国際交流の場であった。上述したように明清交替 期に来航した人,事,物をめぐる交渉,接触した記録『華夷變態(崎港商説)』 (1674)がすでに存在している。また永禄から文化期に至る(1558-1816)対外関 係の資料を網羅的に編纂した『通航一覧』(1853)がある。琉球・朝鮮の部をは

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じめ,長崎港・平戸港の異国通商の総括部および安南・南蛮・唐の部などの資, 史料が総合的に収集されている。徳川幕府は 1630 年以来,キリシタン禁制,海 外渡航と帰国の禁止,外国船の入港や交易を長崎に限る等,厳しく監視するた め,直轄の官職「長崎奉行」を配置している。そして来航の中国船主,水夫を一 括管理するため,1689 年に唐人屋敷を設置して一時滞在をさせた。 中国の明朝から清朝への王朝交替を「明清交替」「明清革命」「華夷変態」など を称している。この中国の政局が大きく変動することによって,長崎に渡航した 中国人は華人社会として結集することとなった。この華人社会では,唐僧ら出身 毎に「唐寺」を造り,中国の貿易商人,医者ないし文人の交流の場となり,独自 なナショナリズムを生む契機になっていた。「唐寺」は,興福寺(1620),福濟寺 (1628),崇福寺(1629)の「唐三箇寺」(三福寺)と呼ばれるものである。江戸 時代,長崎に渡航した唐船は一隻に一体航海の守護神媽祖が安置されていた。 「唐寺」ができてから,各寺に菩薩堂が建てられ,先祖の供養と航海の安全祈願 の機能も果たしていた。 一方,唐僧以外に,江戸初期に長崎に渡航した華人も少なくない。例えば,陳 元贇(1587-1671)は中国浙江省の出身で,興福寺ができた翌年,1621 に長崎に 渡航したのち,長門国(現山口県)の萩や江戸に滞在した,尾張(名古屋)藩主 徳川義直(1601-50)に六十石で招聘され,書や製陶法(元贇焼)の技法を残し, 少林拳法を興した。また彼は林羅山(1583-1657)や漢詩人の石川丈山(1583-1672)らとの文化交流も深いといわれている。 陳(潁川)入徳は 1627 年に長崎に渡航した中国の医者である。彼の住宅を中 心に,当時長崎来訪の中国人,日本人が行き来した。例えば,独立性易や朱舜水 は,潁川入徳の住宅に身を寄せた関係で長崎に訪れた柳川藩儒の安東省菴(1622-1701)と出会い,日中文化交流の輪を広げたのである。以下,述べる朱舜水, 安東省菴,独立性易,東皐心越は,皆長崎,柳川,水戸の「場」からそれぞれの 才能,学識を発揮した文化人とも言うべき者である。 2.朱舜水と安東省菴,徳川光圀 日中の文化・思想交流史の研究という大きな流れの中に,筆者は特に個別・具 体的な対象へ特化した研究として,朱舜水の著述に関する書誌学的かつ文献実証 的な基礎研究がある。それを踏まえた近代日中思想交流,特に同時代の知識人の 間の自他認識に関する新たなアプローチも試みている。とりわけ,江戸時代初

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期,貝原益軒(1630-1714)と並び称され,また徳川光圀(1628-1701)の師とな る朱舜水を支えた,柳川藩の儒学者安東省菴は,長崎に朱舜水を訪ねて師事し, 彼との間で大量の書簡を交わしたことでも知られているが,これらの書簡や筆 記・筆談などを含む安東家史料が,1986 年に柳川古文書館から公開された後, これを中心に,広く日本全国の関連史料を網羅的に悉皆調査して,朱舜水研究の 深化及び普及を捉えてきた。 一方,近世日中文化交流史の歴史的存在の大きさに照らしてみれば,朱舜水は 水戸藩の徳川光圀に招聘された後,「前期水戸学」の啓蒙思想の師匠の一人とな り,かつ水戸藩の学問の本流と深いかかわりがあったため,東アジア諸国の研究 者から重大かつ継続的な関心を寄せられている。今日に至るまで朱舜水と関連す るオリジナル資料は,水戸の彰考館から続々と発見されている。朱舜水研究は新 たな史料発掘を突破口とつつ,その知識世界が再構築されつつある。言い換えれ ば,近世日本における朱舜水の知的生涯は多角的に検討され,いわゆる思想的連 鎖という視点により,朱舜水という存在はほぼ同時代の東アジアの社会と思想的 状況において,文明発展に伴う新知識体系の構築が行われているのである。 こうした営為の中は,筆者はまず『朱舜水集補遺』(台湾・学生書局,1992), 『新訂朱舜水集補遺』東亜文明研究叢書 2(台湾大学出版センター,2004)など における校勘や校合,未収史料の発掘・編纂などを学界に公開した。更にこれを 踏まえて,国際的な朱舜水研究を概観しつつ,自分の研究を基軸としながら,儒 学者のみならず,僧侶(禅僧)や文人など,同時代の日中の学術・思想交流の現 場を担った人びとの事績をはじめ,その思想的な相違や異同などを総合的に検証 した著作として,『朱舜水與東亜文化伝播的世界』東亜文明研究叢書 78(台湾大 学出版センター,2008)を改めて刊行している。本書は,日本定住以後の朱舜水 に焦点を絞り,彼の言動や思考を検証することに主眼がおかれているが,たかだ か 22 年の日本在住期間ではあるものの,朱舜水が日本に残したものは極めて大 きい。それは,徳川全期の社会を通じて日本の学術・文化界に大きな影響を与え たばかりか,幕末近代にまでも影響していたことはよく知られている。そして日 本における朱舜水の存在と影響の始まりの部分を,彼の友人・門弟たちとの具体 的な交流を通じて明らかにしたものである。さらに,世界各国の朱舜水研究者の 研究成果を網羅した『朱舜水與近世日本儒学的発展』東亜文明研究叢書 16(台 湾大学出版センター,2012)の編著も刊行している。

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三,徳川ミュージアム所蔵の資料公開とその出版の意義 1.彰考館と『大日本史』の編纂 水戸徳川家は徳川家康(1543-1616)の末の息子・頼房が分家した家で,常陸 国(現在の茨城県)を治めた。他の二人の兄の家・尾張徳川家,紀州徳川家とと もに「徳川御三家」と称され,諸侯とは別格の格式を与えられ,幕府の官職には 就かず,将軍家の次の格式を誇った。この家の特徴的なことは,「常府」と言っ て常に歴代当主が領地ではなく江戸に住む定めであった点である。尾張,紀州の 二つの徳川家は諸侯同様,「参勤交代」(江戸住まいと領地住まいを交互に繰り返 す制度)をおこなっていたが,水戸徳川家はそれを免じられていた。こうして文 化経済の中心・江戸に常駐し,代々の藩主が学問を旨とし,特に完成まで約 250 年間を費やした『大日本史』の編纂事業によって水戸徳川家は「学問の家」とし てのその名を知られている。 彰考館は 1675 年に水戸藩二代藩主徳川光圀によって設立された史局である。 世子であった光圀の私的ご学問所として四名の支局員でスタートしたが,全国か ら多くの学者を招き,彰考館と命名されてからは水戸城内にも史館を設け,江戸 を江邸,水戸を水邸と称した。「彰考」は光圀の命名で『春秋左氏伝』の杜預序 の語「彰往考来」(往事を彰らかにし,来時を考察する)に由来する。彰考館で は『大日本史』修史事業だけではなく,『神道集成』『釈万葉集』『礼儀類典』な ど著名な書を数多く世に送り出している。1871 年廃藩置県後も徳川家の個人事 業として史局は存続し,1967 年財団法人水府明徳会の設立を機に史料とともに 組織は受け継がれた。 2010 年 12 月に台湾大学で行われた「朱舜水與東亜文明発展国際学術研討会」 で各国から集まった研究者を前に,初めて徳川ミュージアムの徳川眞木館長に 「水戸徳川家蔵史料」の中から中国明代の儒学者・朱舜水関係史料を紹介してい ただいた。この発表をきっかけに多くの研究者が徳川ミュージアム所蔵の書物や 什宝類がいかに貴重な文化財であるか,口々に語り始めた。東アジア共通の漢字 という文字ツールによって漢文で記された文献は国を越えた貴重な文化遺産と思 われる。

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2.『日本徳川博物館蔵品録』の出版とその価値 2010 年 11 月に台湾大学で開催された国際シンポジウム「朱舜水と東アジア文 明発展」をきっかけとして,徳川ミュージアム所蔵の未公開文献・文物の情報が 公開された。そして,朱舜水と東アジア文明との関連性のより一層の研究と発展 をはかるため,筆者は日本,中国,台湾の「水戸徳川家旧蔵儒学関係」調査研究 チームを発足し,2012 年 7 月から史料調査を開始した。その成果として『日本 徳川博物館蔵品録Ⅰ―朱舜水文献釈解』(上海古籍出版社,2013 年 7 月)が刊行 された。同書は東アジア各国の学界で大きな反響を呼んだため,2013 年 8 月に 第二回目の史料調査を行い,『日本徳川博物館蔵品録Ⅱ―徳川光圀文献釈解』(上 海古籍出版社,2014 年 7 月)が刊行された。さらに,2015 年 7 月に『日本徳川 博物館蔵品録Ⅲ―水戸藩内外関係文献釈解』も刊行された。 また,『季刊 日本思想史』(81,2014)に収録した研究チームの論文の内容は 朱舜水,徳川光圀の学問と思想形成,その文化遺産を中心に述べられているが, 十七世紀以後に朱舜水の学問は長崎を通じて,江戸や水戸の近世社会に拡がった 中で,「前期水戸学」をどのように省察し,日中の知識人はどのように対応した のか,異なる時代背景の下で,どのような異なる役割を演じたのかという点に焦 点を当てている。いずれも,徳川ミュージアム所蔵の未公開文献の調査を駆使し た精密な考察を基盤とする研究である。とりわけ,東アジアを視野とした不偏公 正な見識と,中日間の学術・思想・文化の交流史研究が根底に据えられている。

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その目的は,東アジア文明の発展とその相互理解,共存融合を目指して,それを 促進する方法を探求することにある。 朱舜水によって日本にもたらされた明代の知識や文化は,戦乱の世から武士に よる平和な時代を築こうとしていた徳川光圀によって実際の施策に活かされるだ けでなく,光圀が設けた学問所「彰考館」で数々の文献に記録された。それらの 史料を研究し,公開する事業の重要性は,3.11 東日本大震災の被災以後,ますま す高まっている。豊かな時代も戦乱の世もいかなる状況においても真の学問への 情熱を失うことなく,言葉や国の壁を超えて惜しみなくその学問を求める者たち に与えた朱舜水の姿こそ,現代社会における価値観の多様化で様々な諸問題に揺 れ動く現代人が共感できる新しい価値を有するものと思われる。筆者は約三十年 間にわたり,一貫して朱舜水研究に携わってきたが,新史料を発見したときの興 奮がまるで昨日のことのように記憶の中に鮮明に残っている。というのも,朱舜 水研究や水戸学は長い歴史を積み重ねてきたが,いまようやくその素材と研究と が真の学問的な意味において体系化されようとしている現実を,いわば同時代的 体験として味わえたからである。 3.「魯王敕書」の発見とその研究の意義 我々の研究チームは,2013 年 9 月 2 日に徳川ミュージアムで朱舜水宛ての南 明政権の魯王(朱以海,1618–62)「敕書」を発見した。この「敕書」は,もとも と「弘道館」に所蔵していたが,朱舜水が死ぬまで懐から一刻も離さず,大切に 保管した宝物であって,彼が臨終の際に徳川光圀に預けたものと思われる。今ま で魯王が残した文物はあまり見つかっていない。「魯王監國九年」(1654)と記す 「敕書」は,おそらく彼が世に残す唯一の自筆だと推測できよう。当時,魯王は すでにアモイ,金門あたりへ南下し,鄭成功の軍隊の援護のもとで,反清復明の 活動を続いていた。朱舜水は南明の魯王の王命を受けて明の再興に奔走するが, その志を遂げられぬまま,日本九州・長崎に渡ったといわれている。今回「敕 書」の発見は朱舜水が王命を受けた忠臣であったことを再確認することができた ので,重要な歴史意義と研究価値に値する。 そもそも朱舜水は清朝と戦うため魯王に徴聘したことは事実に近いと思われる が,この「敕書」と日本天理大學圖書館所蔵の朱舜水自筆「上監國魯王謝恩奏 疏」(謝恩の返信)の内容と対照してみれば,朱舜水自らが述べている明朝に徴 聘されたこととつじつまが合う。つまり,明清交替期の南明政権および朱舜水

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「海外経営」抗清活動は,この「敕書」の発見によって,その歴史的事実は歴々 と裏付けられたといえる。「敕書」が光圀から代々と保管されて,幕末には藩校・ 弘道館に保管されていたという事が新たに判明した。このことは藩校・弘道館が 水戸学の本質である光圀以来の教えを守り,光圀の宿願であった学校建設の実現 であったという考えを後押しするものである。残念ながら,明治元年(1868)の 弘道館の戦いで朱舜水が誂えた勅書の箱は被弾している。 このことを幕末に混乱していく水戸藩の様子を重ねて考えると,光圀以来の水 戸学精神が戦う者たちによって壊されていった様が思い浮かぶ。しかし,今,多 くの史料とともに勅書に新たな箱を誂え,後世に伝えようと墨書を加える。まさ に今,学問を受け継ぎ,未来につなごうとした人々の志を受け継ぎ,学び,歴史 研究に現代的価値を見出す時代が来たと考えられる。 「魯王敕書」(徳川ミュージアム蔵)

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四,日本における独立性易の文化活動 独立性易は浙江杭州の出身で,隱元より一年早く 1653 年に長崎に住み着いた。 最初は日本に帰化した潁川(陳)入徳の自宅を仮住まいとしていた。その後黄檗 宗に入り,一時隱元禅師の書記として長崎,岩国,大阪,江戸などでの文化活動 を営んでいたが,彼の日本における事績は,あまり知られていない。 筆者は 1968 年から日本各地の公・私立図書館,郷土史料館で朱舜水の史料を 調査したが,その間に時折「独立性易」の史料を見出した。福岡県の柳川古文書 館での資料調査の際,安東省庵,朱舜水との手紙のやり取りの記録を発見したの である。このことは,独立は水戸藩儒の小宅生順(1638-74)が普通の学者と判 断されたことにとどまらず,筆者が独立を研究しようとする動機となるできごと であった。また 1997 年に山口県岩国市吉川史料館を見学した際,初めて膨大な 独立の真筆に触れる機会があった。そこでは,独立とは一体どこの人なのか,な ぜ至る所でその墨跡書翰・詩文などがあるのか,日本でどのような人々が接触し たことがあるのか,どのような文化活動を行ったのか,これらは徳川社会に対し て影響があるか否か,等,これら一連の疑問に関して,筆者は独立に関連してい る文献を収集し,日本の事蹟からその人物像の復元を試みることにした。 最初に筆者は独立の出自を明らかにするため,中国の杭州を実際に訪れ,その 事績に関する文献を探したが,そこからは何も得ることができなかった。杭州地 域では意外にも独立や彼が行った事柄を知る人はいなかったからである。そのた め筆者は柳川古文書館にある独立の手稿,早稲田大学図書館と東京にある静嘉堂 文庫の関係史料を内容に沿って,一つ一つその家柄と出自を明らかにした。 独立が執筆する多くの詩稿の翰墨は,日本での足跡を辿ると,九州,山口,大

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阪,京都,東京などといった各地の寺院,国公立図書館,郷土資料館に存在して いる。彼が世に遺した書簡,詩文の数は少なくなく,三百年以上,かつて何人か の独立とゆかりのあった日本人の郷土史学者によって整理・研究がなされてき た。しかし,それらの多くを刊行することは難しかったため,世に広めることが できなかった。 独立は,医術・学芸において発揮する岩国の吉川家に譲り,儒臣である宇都宮 圭斉(1677-1724)を彼の下におき,自ら書き上げた『天閒獨立書牘寫』と『獨 立詩文』,『獨立墨蹟寫』から教え諭したり書き写すことによって写本と自筆原稿 を残したが,それらは現在の岩国徴古館の公文書へと移された。その他岩国の代 表的な郷土史学者である藤田葆(1829-1921)が目録を書いた『独立遺事』,『独 立遺藻』の詩文集がある。この二冊は詩文に収められている独立自筆の原稿を記 録しており,これらの膨大な資料は岩国徴古館,吉川史料館内では未だすべてが 収蔵されていない。これは『独立遺事』,『独立遺藻』が現在のところ関連する詩 文の唯一の鎖輪となっているということがうかがえるが,いずれも出版・刊行す ることができなかったのである。 1961 年までは,宗教文化に立脚して見てみると,独立の交遊・渉猟などといっ た生涯の事蹟について,郷土史学者吉永雪堂(1881-1964)が,独立の人物像を 記述した『天閒老人獨立易公紀年』の書で世に紹介した。吉永氏はその生涯を, 日本各地を巡って黄檗に関する文献を収集し,京都の万福寺へと寄贈してきた。 万福寺では「吉永文庫」を寺内に創設し,吉永氏の数多くの直筆による原稿を書 き写して,そのすべてが寺内の文華殿に所蔵されている。2012 年 8 月,筆者は 京都万福寺の黄檗文化研究所の田中智誠和尚の許可を得ることができ,文華殿内 での吉永氏直筆の十三冊におよぶ資料を閲覧・撮影させていただいた。この中に は,大半はまだ刊行されていないもので,それらに解説を加え,独立全集の出版 により,その内容をも公開させていただいた。 また,独立が書いた『書論』はその書道を研究するうえで不可欠な史料で, 300 年以上もの間,埼玉県の金鳳山平林寺に収められていた。現在でも一部しか 公開されていない。筆者も三回ほど平林寺を訪問し,松竹寛山住持にて,全集出 版できるよう嘆願した。最後に『書論』の真筆を閲覧撮影及び出版の許可ををい ただくことができた。 上述のように筆者は長い歳月をかけて,重点的に日本各地に分散して存在する 独立の史料を筋道を立てて考察し,その系統の整理と解読を試み,日中文化交流

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史研究の脈絡体系から独立の位置付けを考察して,2015 年 7 月に『天閒老人獨 立性易全集』(台湾大学出版センター)を出版することができた。全書は上下巻 2 冊に分けられ,上巻の一部には,最初に論文である「儒・釈・道・医の中日文 化交流―戴笠から独立性易へと移り変わる人生」を通して,独立の生涯の事跡を 解析し,徳川社会での身分の転換,人間関係及び果たした役目を整理した。それ と同時に独立が日本で訪れていた機関の文化活動や,そこから及ぼした影響につ いて論述した。第二部は独立の詩文集について,その草稿,関連した詩集,書跡 や写本を収録した。下巻には,実際に書かれた図録と付録が織り込まれている。 主に⑴独立に関する記録と彼個人による記述,⑵印譜ならびに解説,⑶独立の年 譜,⑷独立の作品一覧表といった四つの項目がある。現在日本,中国,台湾にお いては,独立性易の研究は徐々に注目されつつある。この全集の出版により,日 中文化交流研究が様々な方面から深めていければと考えている。 五,心越禅師の抗清活動と曹洞禅学の移植 日本の臨済宗はもとより貴族の文字禅学で,より平民化された曹洞宗は徳川初 期になって始まった。しかし終始不振で,辻善之助の研究では,この時期は禅宗 の暗黒時期であると述べている。このような布教状態の背景下,中国の黄檗及び 曹洞禅学の日本伝来は,日本の禅宗に革新的な生気と覚醒をもたらし,再度輝か しい時代を迎えることとなった。心越東皐(1639-96)は中国浙江省出身で反清 意識の色が濃い曹洞宗の禅師である。彼は 1676 年に長崎興福寺の澄一道亮 (1608-92)禅師の招請を受け,長崎に渡航した。その頃,徳川幕府は厳格な鎖国 政策を実施しているし,かつ明末遺臣の再三に渡る抗清活動の出兵要求に慎重な 態度を取っており,権力基盤が日増しに強くなる満清政権にどのように対応すべ きか苦慮していた。また徳川幕府が 1635 年に仏教寺社の管理を強化するため, 「寺社奉行」を設置し,1665 年七月に「諸宗寺院法度」の令を出した主たる目的 は「神仏習合」の排斥にあり,日本伝統の神道を振興により,神仏分離を図るも のであった。心越が日本に渡ったのは,正に江戸幕府の寺社管理が最も厳格な時 期であり,幕府は心越の日本での挙動について,隱元の渡日初期と同様に,非常 に警戒していた。当時日本の対外政策の前線基地は,対馬藩が朝鮮半島の動静監 視を担当し,長崎奉行と九州各藩は明清戦乱に関する最新情報の収集を受け持 ち,九州南部の薩摩藩は琉球と中国の動向を随時幕府に報告する任務を担ってい

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た。オランダの漢学家 R・H・ファングリックは,『明末義僧東皐禪師集刊』を 出版している。その中に収録した幕府の儒官人見竹洞(1638-96)が心越に送っ た「東渡述志」の和歌の内容によると,心越は渡日前に浙江,福建一帯で抗清活 動に関わっていた。彼は一時南明政権鄭成功の子鄭経(1642-81)らとともに明 朝復興の活動を営んでいた。しかし,朱舜水と同様に明朝復興が絶望となった後 に日本に渡り,中国に戻る事はなかった。 1.心越,徳川光圀と水戸天徳寺 中国明清期の曹洞禅林の宗教思想は,「禅淨一致」「三教一致」「禅教一致」を 主張したが,このような主張は心越が日本で唱えた壽昌禅学の基本理念でもあっ た。『東皐全集』(上巻)によると,心越は念仏を斥けなかったが,教義は日本淨 土宗の徹底した念仏を勧めて極楽淨土に往生する末法思想とは異なっている。ま た彼は 1680 年に京都へ赴き遊歴し,翌年の七月に水戸藩主徳川光圀より朱舜水 の後継者に任命された。日本東渡後十五年を経た時のことである。のちに心越は 徳川光圀の協力を得て,1691 年五月に水戸の天徳寺に居住を開始し,1692 年十 月から曹洞禅学の開堂説法を幕府から許可された。心越は如何に念仏により悟り を得るかという道理を禅,教,律の三門もの多方面から諭すのは,仏教を学ぶ者 には無形の負担となり,各種の道理を得る事があっても,その道理は非常に深い ため,悟りを得ない者も多く,聖人でなければ無理だとしている。 一方,心越は書画に優れ,篆刻をし,琴を愛し,詩作に長け,文才に富んでい た。心越は曹洞宗の出家の身であったが,その詩文や書簡内容を詳しく見ると, その心は故国と繋がっており,反清復明の忠臣意識と国家認識は隱元,朱舜水と 通ずるものがあった。各種の事跡から,当時の心越の境遇と背景は隱元や朱舜水 の東渡の状況と多くの共通点があり,三者は日中文化交流に重要な貢献を果たし た。特に心越と朱舜水は,一人は儒者,一人は禅僧として,共に前後して当時の 水戸藩の漢学教育再興と禅学の振興に車の両輪のような功績があった。 心越は明朝風の曹洞法式を日本に広めた期間は短いが,1697 年に徳川光圀は 心越のために常州(現在の茨城県常陸)清水寺と上州(現在の群馬県)達摩二寺 を開き,禅風は日本に広まった。心越は経典解釈の方面から儒釈道三教の学を融 合し,その客観論述と自己の信仰する仏教観を伝え,日本で壽昌禅学の精神を継 承した意義は非常に大きい。すなわち,心越は十四世紀後,中国曹洞禅学の日本 における三百四十余年の空白を補い,その幅広い学芸技能による仏法の研究に打

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ち込み,江戸中期の仏教思想に深遠な影響を与えたのみならず,その学芸を日本 に伝えたのである。そしてその初志を貫徹したところに,壽昌禅学の継承者とし ての貢献が認められる。 2.心越と媽祖信仰の移植 心越は 1677 年に長崎に渡った際に,中国貿易商人と交流し,また航海平安を 祈願したため,媽祖信仰をも日本に伝えた。彼が水戸天徳寺に入居した時,媽祖 神像は当時の関帝堂に合祀された。水戸藩は常に中国文化を積極的に吸収してお り,海上交通と日中文化交流は頻繁で,加えて徳川光圀が朱舜水の明朝の儒釈者 を礼遇したことで,この藩の漢学と禅学教育は普及し成功したのである。心越は 徳川光圀の宗教思想と媽祖信仰への尊重に影響を与えたのみならず,多数の沿海 住民の尊敬を集めたので,媽祖信仰が日本に伝わった。青森県の大間稻荷神社に は媽祖が祭られて,毎年「天妃祭り」が行われているのは心越から媽祖信仰の影 響を受けたからである。 六,近世,近代における日中知識人の自他認識を読む/結びに代えて 筆者の研究範疇は,東アジアの文字どおりの視野において,近世から近代の黎 明期へと敷衍していき,いわば文明の転換期を対象としつつ,広い視座や問題設 定を骨格としている。それと同時に,歴史研究の身上とも言うべき,実地での フィールドワークなどを踏まえて,日本側に所蔵する夥しい数量に上る文献の博 捜,発掘や,重要文献を渉猟する作業を行ってきた。できるだけ詳細な解読した うえ,実証に裏打ちされた,明晰な考察や論証を展開することを図った。 まず,近世の日中文化交流史の研究から敷衍した著作は,『近代中日思想交流 史の研究』(2004)を京都の朋友書店から公刊している。本書は日本語による著 作として,近世,近代日中人物と思想交流の群像を軸に,十七世紀中期の明清交 替期=江戸幕府の幕藩体制成立の鎖国期から二世紀を超えた日中知識人の思想交 流に焦点を当てた。つまり東アジアに起きた近代化が進展してゆく中,戦乱や西 洋の外圧に攻められた日中知識人における国家に対する価値観の転換および思想 観の変遷を論じたものである。とりわけ,前近代中国と鎖国,開国の日本との, 西洋文明の受容と伝統の儒家思想の堅持または放棄の矛盾現象,および人物,思 想交流を通じた歴史像について述べている。本書で取り上げた人物は明清期の思

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想界で最前線に立つ朱舜水,魏源(1794-1856),李鴻章(1823-1901),何如璋 (1838-91),黎庶昌(1837-96),楊守敬(1839-1915),黄遵憲(1848-1905),康有 為(1858-1927),孫文(1866-1925)などの思想家および幕末,明治初期の志士の 佐久間象山(1811-64),横井小楠(1809-69),吉田松陰(1830-59),高杉晋作 (1839-67),柳原前光(1850-94),井田讓(1838-89),伊藤博文(1841-1909),犬 養毅(1855-1932),後藤新平(1857-1929)など思想家,政治家との接点に焦点を 絞った。それぞれの問題意識と研究方法に基づいて,これまであまり利用されて いないオリジナル資料に拠りながら,日中の人物交流による相互影響の実態を論 ずるものである。 また,東アジアの文化交流に関わるより原理的な考察や近代の知識人における モダニティの問題などへと関心が拡がり,共編著として,『東亜文化交流與経典 詮釈』東亜文明研究叢書 79(台湾大学出版センター,2008),『東亜知識人對近 代性的思考』東亜文明研究叢書 81(台湾大学出版センター,2009)および『東 亜文化交流:空間・疆界・遷移』(上海華東師範大学出版社,2012)などの研究 成果を出している。これらで表明した問題意識を引き継いで,東アジアの近代と いう,まさに文明の転型期における,中国や台湾,日本の知識人たちの苦渋に満 ちた思想的営為や決断,模索や転身などに内在的に寄り添いつつ,より哲学的・ 原理的な問題にも考察を加えた単著は次の『東アジアの覚醒―近代日中知識人の 自他認識』(研文出版,2014)である。 越境する人々の交流を「東アジア」的視野で考える場合には,時間と対象を限 定しない限り,その意味は複雑で理解し難く,しばしば誤解を招く恐れがある。 「東アジア」の概念は,時には日中の提携を象徴する「興亜(アジア主義)」に収 斂されるが,「アジア」は「一つ」(日本)と解釈されがちで,侵略戦争の口実に もされてきた。本書は,近代日中知識人の思想交流における「自他認識」の枠組 みを,中国の他者(日本,西洋)認識と日本の他者(中国,西洋)認識の異同か ら検討し,個々の知識人の知恵,思想,主張とその思想変遷のプロセスを明らか にした。そして伝統的な儒教と近代西洋文明との「葛藤」(衝突)の中で彼らが 演じた役割を比較,解明した。第一部では,十八世紀後半から十九世紀にかけて 活躍した日中の知識人,箕作阮甫(1799-1863),塩谷宕陰(1809-67),佐久間象 山(1811-64),中村正直(1832-91),岡千仞(1833-1914),福沢諭吉(1835-1901), 岡倉天心(1836-1913),王韜(1828-97)らが「東洋」の意識を持ちつつ,西洋社 会と出会い,時世の必要に応じて,その知識(学問)を摂取する過程で,次第に

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「自我」と「他者」という異なる認識を持つに至ったことを検証する。その対外 認識が変化していくプロセスの中で,彼らは伝統的な学問と実用的な西洋の学問 に如何に対応し,如何に自らの思想を形成していったのか,この「自他認識」の 成立に焦点に当てた。 1.「自他認識」とは何か 自らを知るためには自らを映し出す鏡や他者の存在が必要となる。近代化をめ ぐる日中の歴史を辿ってみると,十九世紀半ば,魏源の『海國圖志』における地 理的な南洋(西洋)の「発見」を契機として,東アジアの知識人は「西洋」世界 についての知識を得るようになったと言えよう。1860 年代清末の中国に洋務運 動が起こってから百五十余年が経過し,また,日本において 1853-54 年のペリー 来航から数えて約百六十年が過ぎた。これまで数多くの学者,政治家が東西文化 は融合すべきであると主張してきたが,未だ「融合」の見通しが付いていないよ うに思われる。今日において,東アジアにおける近代化,そして「興亜」と「脱 亜」という複雑な関係を考えるにあたって,どのような基準によるべきかが重要 な課題となる。十九世紀の後半以降,東アジアは西洋列強の勢力に脅かされてき たが,この時期の日中両国の知識人が自らの「国家」,あるいは「国体」につい て考えた際,欧米諸国との交渉の中で,複数の天下(世界)が同時に存在するこ とを次第に認識(覚醒)していったと考えられる。中国と西洋,日本と西洋の相 互認識,または西洋文明の摂取をめぐって中国と日本とでは異なる「自我」と 「他者」の「自他認識」が浮かんでくる。

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本書は「伝統と近代」の間で葛藤する思想転換という枠組みによって近代日中 知識人による「自他認識」の外面的,内面的な知識要素を明らかにすることを課 題とする。すなわち,近代日中知識人が西洋思想の受容によってなした「思想変 遷」とは何か,政治実体と文化価値は何か。さらに,東アジアの近代化におい て,これらの知識人は如何なる位相を占め,如何なる影響をもたらしたのか。言 い換えれば,この「自他認識」という視座を用いて,近代日中の知識人が西洋文 明を摂取する際に,激変した時代をめぐって東アジアにおける西洋の学問や思想 の普遍性,適宜性,実用性の是非を論争した経過を検証し,それぞれの知識人が 持つ異同の思想交流の実態を復元することである。 一概に東アジアや日中の近代と言っても,ことはさほど単純ではなく,むしろ きわめて複雑に入り組んだ様相を呈している。無論,東アジアの諸国・諸地域に おける近代を考える際には,いわば自生的・内発的な近代と,いわゆる「西洋の 衝撃」によってもたらされた,外来的な近代,すなわち,他の多くの非西欧地域 においてもそうであった如く,事実上,西洋化(ないしは西欧化,欧米化)とし ての近代に,場合によっては分けて考える必要があり,実態は,むしろその両者 が重畳した有り様を示しているものと思われる。また,通常の世界史的な意味に おける,西洋的な近代,すなわち東アジアにとっての外来的近代に対応し,対峙 する在り方にも,受容や抵抗,主体的な対抗や変革などのさまざまなパターンや 屈折があり,当該の国や地域,各々の思想家によっても,決して一様ではない。 例えば,東アジアの伝統的な知識人の共有の知的基盤であったと言い得る儒教的 な教養が果たした役割も,中国や日本,朝鮮・韓国,ベトナムなどにあって,ま た個別の思想家によっても,それぞれ時に著しい対比を示している。 総じて,東アジアにとって外来的な西洋的近代は,当時の人びとに対して,ま ずは「伝統と近代」というかたちでの矛盾や葛藤,相克の意識をもたらしたと言 えよう。これに加えて,文明論的なレべルでの自己反省を契機として,いわば 「自己」と「他者」という対比における,いわゆる「自他認識」(自己認識・自画 像・アイデンティティ/他者認識・他者像)を形成したことも,見逃すことが出 来ない。本書では,松本三之介氏など,従来の多くの研究が基軸としてきた「伝 統と近代」をめぐる思想転換,というパラダイムに加えて,近年の桂島宣弘氏や 山室信一氏らの研究などに触発されつつ,「自他認識」という視角を大幅に導入 して,同時代的な対比にも,多くの考察を費やしている。

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2.翻訳の「文化倒流」を考える 中国や日本にとっての「他者」としての西洋という視点,いわば西洋という 「鏡」のみならず,偶然にも近代日本が,中国などに比して伝統から身軽であっ たが故に,西洋化としての近代化にある一定程度先行したことから,他のアジア 諸地域にあっては,日本を「媒介」とした西洋受容という別のファクターも生ま れるに至る。具体的には,いわゆる「漢訳西書」から,それが転じて「和訳西 書」や「和書漢訳」へと転換する,「文化倒流」とも言うべき現象である。直接, 西洋の書物から学ぼうとした,翻訳家の厳復(1854-1921)のような事例もある が,張之洞,康有為,梁啓超らは,一様にかかる時流に棹さし,そうした方法を 捷径と考えたのである。 翻って日本でも,中国やアジアとの比較や対照,西洋化=近代化におけるアジ ア諸国相互の競り合い,優劣意識や自己反省など,さまざまな要素から,「興亜」 や「脱亜」の意識が入り乱れ,数多の競合や葛藤を生み出した。すなわち,東ア ジアの諸国・地域においては,相互にお互いの「鏡」となり,「他者」となるよ うな,複雑な現象も導き出されたのである。著者の表現を口実にするなら,「中 国の他者(日本,西洋)」と「日本の他者(中国,西洋)」の異同や相互認識が, まさに問題化される所以である。 伊東貴之の論説によると,西洋や欧米が「世界」を席捲し尽くした時代は,も はや終焉を迎えつつある。近代西洋の文明がもたらした価値や遺産とともに,そ の限界や否定的な側面についても,当事者である欧米自身も含めて,つとに検証 や再考の俎上に載せられて久しい。その一方で欧州に目を転ずれば,さまざまな 矛盾や綻びを内包しながらも,EU統合というかたちでナショナリズムの一定の 相対化も図られるに至っている。翻って,東アジア共同体の実現は,現実問題と しては,夢のまた夢でしかないであろう。しかるに,かつて東アジア,あるいは 日中両国は,相当程度,共有の文化的地盤を持ち,近代化の過程でも本書が示唆 したように,善かれ悪しかれ,お互いが相手の「鏡」になるような相互的な関係 の下で競合してきたことも,また事実である。無論,そこには,日本の植民地支 配やかつてのアジア蔑視感情のような,負の側面も存在する。しかしながら,東 アジアの人びとが,お互いの複雑に入り組み,絡み合った関係,そうした歴史の 襞を少しでも理解し合い,これから後の理解や共生への縁としていくならば,歴 史を鑑とするという東アジアの伝統的な歴史認識に照らしても,歴史学なり,思 想史研究という営みが,今日,益々重要な意義を帯びていることが理解されよ

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う。 参考文献: 一,単著 石原道博『日本乞師の研究』(東京:富山房,1945 年)。 山室信一『思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企―』(東京:岩波書店,2001)。 松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』(東京:ぺりかん社,2008)。 桂島宣弘『自他認識の思想史 日本ナショナリズムの生成と東アジア』(有志舎,2008 年)。 松本三之介『近代日本の中国認識―徳川期儒学から東亞協同論まで―』(東京:以文社,2011)。 徳川眞木監修・徐興慶主編『日本德川博物館藏品録Ⅲ―水戶藩內外關係文獻釋解』(上海:上海古籍 出版社,2015)。 ――『日本德川博物館藏品録Ⅲ―德川光圀文獻釋解』(上海:上海古籍出版社,2014)。 ――『日本德川博物館藏品録Ⅲ―朱舜水関係文獻釋解』(上海:上海古籍出版社,2013)。    徐興慶『天閒老人獨立性易全集』上下兩冊(台北:台大出版センター,2015)。 ――『東アジアの覚醒―近代日中知識人の自他認識』(東京 : 研文出版,2014)。 ――『季刊 日本思想史』81「特集:朱舜水と東アジア文明―水戸徳川家の学問」(東京:ぺりかん社, 2014) ――『近代東アジアのアポリア』日本学研究叢書 8,(台北:台大出版センター,2014)。 ――『朱舜水與近世日本儒學的發展』東亞文明研究叢書 16,(台北:台大出版センター,2012)。 ――『東亞知識人對近代性的思考』東亞文明研究叢書 81,(台北:台大出版センター,2009)。 ――『東亞文化交流與經典詮釋』東亞文明研究叢書 79,(台北:台大出版センター,2008)。 ――『朱舜水與東亞文化傳播的世界』東亞文明研究叢書 78,(台北:台大出版センター,2008)。 二,雑誌論文 徐興慶「東アジアの視野から見た朱舜水研究」,『日本漢文学研究』第二号,二松学舎大学・21 世紀 Center of Excellence (COE) Program,2007。

――「東亞儒教,宗教觀的轉換及其認同問題―以隱元,獨立,心越禪師與朱舜水為例―」,   『東アジア文化交渉研究』別冊 8,2012。

参照

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詳しくは東京都環境局のホームページまで 東京都地球温暖化対策総合サイト

検証の実施(第 3 章).. 東京都環境局