• 検索結果がありません。

幸田露伴の石橋忍月あて書翰二通 付 : 田村松魚の こと

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "幸田露伴の石橋忍月あて書翰二通 付 : 田村松魚の こと"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

幸田露伴の石橋忍月あて書翰二通 付 : 田村松魚の こと

著者 藤田 福夫

雑誌名 金沢大学語学・文学研究

巻 8

ページ 11‑14

発行年 1978‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/23714

(2)

筆者は先に「文学・語学」(全国大学国語国文学会編)第二十四 号(昭三七、六)誌上において「石橋忍月の金沢時代」について記 すところがあった。その際金沢の雑誌「噴火山」第四、五号に掲載 された、忍月あて幸田露伴書翰二通の各一部を紹介し、露伴忍月の 交友に言及するとともに露伴入門前在沢中の田村松魚に露伴が言及

まざ

している}」と、当時の松魚は第四高等学校教授の秋山正議方に寄寓 していたことなどを指摘しておいた。 しかし『「文学・語学」誌上の拙稿は忍月を中心としたため露伴 書翰の全文を紹介し得なかった。以来早くも十五年が過ぎたが、こ こに改めて露伴書翰の全文を紹介し、露伴、忍月の交友をしのび、 かたわら田村松魚の在沢中の動静をも顧みることにした。 これを思い立ったについては最近田村松魚の出身地高知県宿毛市 の津金松生氏から上記拙稿についてご照会を受けた際、松魚が晩年 雑誌「好古」(昭一三、五、一○)に連載した「骨董講座」記事の 恵与にあずかったことが契機となった。 同文章の金沢関係部分は松魚が七、八歳の頃(明治十四、五年頃 にあたる。)官史であった父に伴われて母も共に土佐から金沢に移 幸田露伴の石橋忍月あて書翰二通

付.l田村松魚のことI

ったこと、一種の数寄者であった父に連れられてよく古道具屋に行 き骨董に対する関心が養なわれていったこと、父が郷里に戻ったあ とも十九歳まで金沢に居たこと、粟が崎の木屋の息子が学校(中学 校の模様である。)の友人であったこと、中学生時代に「北陸新報」 (注、「北陸新聞」でないかと思う。松魚は明治三十年四月四日の 「北陸新聞」付録「北陸文学」第一輯に「あはれ彼女」を書いてい る。)に恋愛小説を書いたこと、大樋の窯場の女性に心惹かれたこ と、後年大樋長左衛門作の香合を旧学友で加賀藩士の次男であった 人物から譲られたことを記している。出京時には忍月の露伴あて紹 介状を携え、その土産には仙石町の店で九谷焼の酒盃を買って行っ たという。また秋山正議の紹介状を持ってその大学同級生増島六一 郎を訪れ、彼の法律事務所の横浜支社に暫く勤めたという。そして 金沢の土地については「百万石の加賀、あの骨董の街、金沢は私に とって思い出の都である。」と述べている。露伴については出京後 約一年、横浜を去って鍛治町の露伴宅に起臥するようになり、「露門 に入ってからの私の生活は本当に幸福であった」と述べ、「物の見 方感じ方を、実際に触れて刻々に教へて頂いた。」という。この露 藤田福夫

-11-

(3)

文士の書翰 忍露生

左の一文は去る廿九年十二月一日にて幸

田露伴より石橋忍月に送りたる手翰なり 久しぶりにて御書を得御なつかしぐ拝見仕候責は四ヶ月ほと前 一書差出し候虚何共御たより無之に付人傳に聞き候番地の事ゆゑか と存し居候ひしに今日貴書を眼にし得てそ、ろ往事をおもひうかめ 申候 小西湖畔に柳散りて敗荷の間に鴨の寒げなるが浮寝する此頃の景 色先日も既に其むかしをおもひて清水堂下の嵯際なる石欄によりか 、り辨才天祠湖心亭なとを眼にしつ、人知らぬ感に胸をうたれ候ひ しが知らず貴堂の夢もまた時に廣小路の燈影あざやかに上野の森黒 (マ、) きあたりに迷ふ一」とありや否やを鳴呼おたがひに年をとり申侯」 きくの濱松後篇ひとり寝、雲の袖ともに雨三日中書騨より必す進 呈いたきしむへく候 初陣揃評語御示し被下難有右は柳浪子の評と共に一寸新小説へ抄 俳人門の因縁で佐藤(田村)俊子と結ばれるに至ったことは言うま でもない。 忍月あて露伴書翰の「貴地に松魚郎といふ若き小説家これあり御 存知なきや発達のほど望ましく存候」という叙述と表裏関・係に立ち つつこの「骨董講座」の文章を見る時、露伴、忍月、松魚三人の関 係を知る上で貴重な文献であり、またそれは維新後ほど無い金沢に は如何に骨董類が豊富であったかを示すものとしても有意義である。 津金氏のご教示を謝しつつ「好古」の「骨董講座」全文を読了した。 さて「噴火山」誌上に掲載された露伴書翰は次の通りである。こ れは岩波書店の「露伴全集」に収録されていないものである。前文 とともに紹介する。

略掲載御許し被下度候猶來年より坪内君其他の諸君より新小説毎 號の評をはがき評といふことにて極々簡短に品定めしたるを頂戴す ることにいたし候が願はくば貴臺もまた新小説御一讃の際たぎ一二 句にて宜敷候間御評被下度折入て願上候風葉の鎗甲鶴といふのよ り右願ひ度候 柳浪子近來大気焔勇威あたりを桃ふばかりに候宴席なとにて對 面いたし候にまた往日の陰氣なる柳浪子ならず候 いつ頃の事にか候ひけん左の狂歌を得申候 あしはやき月と日とにはおひつかす あれはシュンメも老いにけるかな 此一首を得し時の感慨貴蔓ならでは當時知るものなく候 御縁めでたく賢夫人を得玉ひし由大橋乙羽より委細傳聞いたし申 候無妻主義なりし僕また一昨年末小田古香といふもの、媒酌にて 山室善吉と申者の女を妻に賀ひうけ申候當時は兒を得ざるを憾み とし観音菩薩にも頼め奉るべきかと存じ居候段々なみの人に相成 候往事を貴臺に云ひ出されんには絶倒か却走かのほか無之此調子 にて年老い候はぎおもふに吾が兒には親父も凡骨の俗物で話せない などと蔭言云はるへきかとをかしぐ候 貴臺猶米肉十斤昔に愛り玉はい由御浦山敷存候僕一昨々年春九 (ママ) 死の病を得し後兎角身体よはく相成ブーフヒの勇気消磨し聿埜して食事 も毎日規則正しくせねばやがて不快を感ずるやうなり候 貴蔓一葉女史の「たくけらべ」を御一讃相成候ひしや僕近年該 篇を譜みたる時ほとおもしろく感じたる事無之案内いたし呉れ候人 有之候により一度訪問いたし候ひしに世に流布せる嶌真とは大に相 違あり色白からねど薄皮だちにてまる顔の小作りなるまづl~美人 に御座候ひし髪も眉も濃からねど見にくからず眼パッチリとして 如何にも才ありげに見えよるづに気のつくことこまかにして談話い

-12-

(4)

〈ママ) 國會社奮盟中末廣鐵腸死し大橋素六郎(則か)死-)申候下谷邊 の模様一向近来はわからず候高橋太華も老い候あへば篁邨不相鍵 のんきに候が大分酒のまはり早くなり候幸堂得知猶面上に柚光り 有之候は頼もしく候一一一味貯金三昧との噂有之候學海勇氣如昔日 思軒(今や亡し)鴎外無異正大夫少し衰へ紅葉猶盛に森槐南攻撃の み受居候 〈噴火山等四号より〉 。 (ママ) 文士の書幹 (其の二) 忍露生

明治二十九年十二月一一一十日露伴より忍月に寄せたもの と巧みに其聲澄みて丸みあるすべて愛らしき人にて候ひしに天は才 と壽とを與ヘずさてノー残念なることにて候ひし女史も老婆とな り我等も老夫となり密室に茶を烹て夜深く談するとも人の兎角いは ざるへきほどの頃にも相成らは風雅の交りいかにおかしからんなど 僕は打語らひ候ひしに今は一切空となりて長き交際の望みも水泡と なりし恨めしさのみ残り候貴臺か「たけくらべ」の評うかがひ度 候時雨の眞景おもしろく相見候 貴地に松魚郎といふ若き小説家これあり御存知なきや發達のほど 望ましく存候但し僕は新聞に出てたる一篇「忍露生云ふ曾て北陸 新聞に載せたる花笠のことならん」のほかは見ず候故其才如何を猶 よく存せす候御承知もあらば御洩し御噂有之度候 雪あられ一つにみぞれ時雨まで酷なる御地の厳冬僕も北海道に居 りし冬のおぼえより推し測りまゐらせ候何卒御自愛あり度候 先は是の如く御答かたノー雑事申止候勿々 二十一日 來京橋場にて幸田生 石橋忍月詞兄臺下 今日大晦日前一日に御座候何や彼やくだらぬ事に心忙しき折 柄御書を得て心長閑に相成り机によりてそ誤ろ往事の追懐に人知ら ぬひとり笑を洩らし候歌三味線の御句賞際より出たるなから句と してもをもしろく成程さる事もありしとをかくし存し申候谷中の 寒銀杏の梢ふく風あれし比のふぜい今さらなつかしぐ候 土鍋つ、き飲んた 夜もあり年の蟇 あやしく淋しき家あやしく物静かなる四園あやしき燈、あやしき鍋、 湯氣ほやノーーと立上れるに大箸飢下せる當時の光景今にしておもへ ば絶好詩材に御座候 あし早きの歌僕の泣言と御取なしにては大閉口なり、あれは人へ ンのシュンなりとおぼし玉へきてはと僕の歎息とおもひあたり玉ひ て彼詠を發せし光景を想ひ得玉ふへし はかき評早速御聞届被下難有仕合奉存候 愚妹山妻(か)寓眞僕のと共に特に来年早々撮影御贈り可申貴蔓 井に令閨のも何卒御つかはし被下度候 ひげ男出来損し歎と危み居り候御評御きかせ被下度候猶いよ いよ出来損ひならは僕時代物(奇男の短篇を除き)にはじめて筆執 りてやりそんじたる事ゆゑ盛かへして直にまた戦國時代のもの一つ 出し可申と心中二の矢をつき居候次第に候 餘はまたノー新年可申上候草々頓首 露伴

忍月居士 臺下 〈噴火山第五号より〉

右二書翰を「噴火山」より転載するに当ってはつとめて原形を保 つよう留意した。段落、仮名づかい、漢字、濁点の有無など原表記

-13-

(5)

のままとした。ただし異体仮名は現行のものに改めた。また候など の文末の語のあとに一宇分の空白を置き、改行の最初は一宇分下げ て表記した。 内容については特にことわるまでもないが、全体にさすがに達意 の文である。懐旧の念や妻と共に写した写真の交換を希望している 点に両者の古い友情が察せられる。忍月の評語を重んじて東京を離 れている忍月に中央文壇の状勢を鋭くしかも懇切に報じていること、 一葉訪問の際の風貌、人がらの印象が念入りであることに注目され

る。 上記書翰の前文にもあるようにこの書翰の書かれたのは忍月の在 沢中の明治二十九年十二月であるが、転載発表されたのは忍月離沢 後の同一一一十四年三月、四月刊行の雑誌「噴火山」第四号、第五号の 「詞藻」欄である。発行所の「公餘會」というのは公務の余暇とい う意味から名づけられたものらしく、会員の主要メンバーは税務関 係の役人であった。雑誌奥付によると第一号(明三一一一、’一)の発 行所は金沢の栄町九十八番地公餘會とあり、編集兼発行者は、松ヶ 枝町三十一一一番地の吉田格之進であるが、第一一号以降は「金沢税務管 理局内、公餘會」と記されている。そして第二号の会告に「自今原 稿は金沢税務管理局内公餘會編輯委員吉田格之進宛にて送付せらる くし」とあるのによっても、公餘會の性質は明らかである。同誌第 五号(明三四、四)の「想起録」(筆者名、梅何)によると、石川 県の収税部員の間に文学雑誌が出されたのは、「今の『噴火山』が二 度目であって明治十九年頃『園』と題せるものを発刊した」のが最 初であったろうという。記事には文学関係以外の税法に関するもの、 文官高等試験問題や司税官史の動静なども見られる。書翰を転載し た忍露生という人物は本名金子忠次という人であろうと思われる。 即ち「噴火山」第二、三、五号に「行餘集」という随筆を金子忠次 が書いて居り、第五号の「村田焼石に与ふ」という文の署名は金子 忍露となっているからである。なお第三号の「命名の辞」に忍露の 号のおこりはじめ逆境に忍ぶの意味から「忍逆」としていたものを、 石橋忍月に師事するに及んで「忍逆」は「残念の忍と悪逆の逆とを 結合して」いるのでよくない。今後は「忍露」とせよと言われたた めと記している。それは露を忍ぶの心、露を思ひ悲しむの意であり、 また露を讃美する意もあると言われたからだという。友人から忍月、 霧伴を兼ねたようで偕上感があるといわれたが、そんな意味でつけ たものでないということも付記されている。忍露生は「仲麿の詩歌」 「馬遷と抄翁」などの文も掲載しており、歴史、漢詩文に通じてい た人のようである。右に紹介した書翰はこの忍露生がその師事した 忍月から与えられたものであろうか。あるいは筆写を許されたもの であったろうか。 なお「噴火山」はその第六号(明三四、六)までが東大法学部の 「明治新聞雑誌文庫」に蔵されている。その後続刊されたかどうか は目下のところ不明である。第二号では全員が二百名に達しようと していることを報じているが、第一号一一一十ページ、二号四十二ペー ジ、一一一号四十六ページ、四号三十六ぺIジ、五号一一一十四ぺlジ、六 号二十三ページとなっている。六号が減ページとなっているので、 或いはそのまま廃刊したものかもしれない。 (椙山女学園大学教授)

14

参照

関連したドキュメント

二月は,ことのほか雪の日が続いた。そ んなある週末,職員十数人とスキーに行く

Utoki not only has important information about the Jodo Shin sect of Buddhism in the Edo period but also various stories that Shuko recorded that should capture the interest

︵漫 録㌧ 第十λ⁝櫓  麓伊九⁝號   二山ハご一

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

[r]

Utoki not only has important information about the Jodo Shin sect of Buddhism in the Edo period but also various stories that Shuko recorded that should capture the interest

十二 省令第八十一条の十四の表第二号及び第五号に規定する火薬類製造営業許可申請書、火 薬類販売営業許可申請書若しくは事業計画書の記載事項又は定款の写しの変更の報告

平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○