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翻 訳
ヴィクター・ブロムバート
ボヴ︒リー夫人論
−−夢想の悲劇1 0
中 條 屋 進 訳
凡 例
一︑本稿はVictorBrombert。Flaubert。coll.((ecrivainsdetouiours))。Seuil。1971の内、「ボヴァリー夫人」に関する部分
︵五一〜七三ページ︑標題L'InsuffisanceduReve)の翻訳の前半である。後半は﹁経済研究﹂次号に掲載の予定︒
一︑原注は総じて簡略であり︑フローベールの書簡についてコナール版書簡集における巻数とページ数だけを記したものが過
半を占めるので︑それを若干補って訳注に組み入れ︑書簡以外についての原注がある場合は訳注にその旨を記した︒
一︑著者プロムパートには母国語で書いたフローベール研究書TheNovelsofFlaubert。PrincetonUniversityPress。1966
があり︑五年後に入水遠の作家︾叢書に収められたこの﹁フローベール論﹂と内容的に重複する部分が多い︒翻訳にあた
ってはこの英語の著書を参照し︑訳者の責任において適宜意訳した箇所もある︒尚︑副題・︒夢想の悲劇﹂ぺその第二章
の標題TheTragedyofDreamsの方を採ったものである︒
一︑﹁ボヴァリー夫人﹂からの引用箇所の指摘は︑原著に記されているもの以外は省略した︒
︽未曾有の力業⁝⁝︾
﹁ボヴァリー夫人﹂はどの程度に作家の︽個人的な︾作品︑隠れた告白なのであろうか︒この小説が博してき
た名声の上にはある疑問が漂っている︒その優れた構成︑技巧上の名人芸︑そしてロマン派的世紀病を捉える仮
借なきその臨床医的見地ゆえに讃美されるこの小説はまた︑作者フローベー・ルが自分自身のロマンチスムを癒す
ために自ら課した︑一種の︽罰課︾ともみなされているのである︒フローベール自身︑幾度とかくこの小説の主
題との連帯関係を否定した︒﹁ボヴァリー﹂は・⁝:︽未曽有の力業となるでしょう︒ただそのことはこの私にしか
分らないでしょう︒主題︑登場人物︑効果等︑すべて私とは無縁のものなのでる︒︾時には彼の言葉はさらには
っきりしている︒あたかもモデル詮索者︑自叙伝愛好家たちの意図を何としても決定的に挫いてやろうとでもい
うように⁝⁝︽﹁ボヴァリー夫人﹂は実際にあったことは何ひとつ含んでいません︒これは完全な作り話です︒
私はこの中に自分の感情も体験も一切入れませんでした︒︾ところがその一方に︑誰ひとり知らぬ者とてないあ
の有名な言葉−とれもまたおそらくは︑不謹慎な読者たちの目をくらますためのものだったのだろうがl
︽ボヴァリー夫人は私だ!︾という叫びがあるのだ︒
― no ―
−n1−
フローベールは単に自分のプライヴェート・ゾーンを読者の目から守ろうとしただけなのではない︒事はひと
つの美学的原理に関わっているのである︒彼はルイーズ・コレに︑自分の喜怒哀楽で文学作品を作ってはならな
いということ︑ある事を感ずる度合が少なければ少ない程︑それをよく描けるものなのだということを繰り返し
説いている︒ところで︑フローベールが真実と創造との関係について述べる時︑我々は彼独得の曖昧性に驚嘆せ
ざるを得ない︒︽私たちが頭で考えだしたことはすべて真実なのです︑間違いありません︾フ゛1べIル書簡
集の中でも︑これ程意味深長な言葉は少ない︒
この小説の主題は本当に︽私とは無縁のもの︾だったのだろうか︒作品と自己との関係のこう・した否定は何を
意味しているのか︒なるほど彼は意気阻喪をとのよう・に吐露している︒︽﹁ボヴァリー﹂はさっぱり進みません︒
一週間になんと二ぺージが一 時には落胆のあまり自分の頭を殴りつけたくなりま犬︒︾だがこれは仕事に精出す
文学の職人があげる苛立ちの叫びだ︒もっとも︑執筆意欲を阻喪させるものが作品の素材そのもの︑ということ
があるのも事実である︒︽正直言って︑実際に吐きそうになることがよくあります︒それ程この小説の内容は下
劣なのです︒︾しかし︑ここでフローベールが言っているのは︑かの卑俗で愚劣なブルニジャン神父のことであ
って︑庇護者的愛情を込めてフローベールが︽私のかわいい女︾と呼ぶエンマ・ボヴァリーのことではない︒自
分が生み出したこの女主人公に彼が憐惘の情を抱いていたこと︑これには疑いの余地が無い︒︽私のかわいそう
なボヴァリー夫人は︑おそらく今この時にも︑フランス中の二十もの村で苦しみ︑泣いているのです︒︾
サント・ブーヴはこの作品の異常な厳密性に驚嘆した最初の批評家のひとりだ︒事実︑そこではすべてが相互
に関連し︑偶然の産物はひとつも無いように見える︒作品の隅々に作家の意志が顕現している︒しかしながら︑
技法や構成上の勲についてのみ人がいかに云々しよう・とも︑この小説への作者の感情移入はやはり行われたの
だ︒そしてそれは︑作品創造の過程で形成される作者と作品との普通の絆を通してのみ行われたのではない︒実
際の創作行為に先立つあるゆっくりとした地下運動の結果としても︑それはなされているのだ︒この小説が深く
そして真摯な響きを持っているのは︑それがある内的な生成過程の結実だからである︒ひとつ確実なことがあ
る︒フローベール自身がたとえ何と言ったとしても︑﹁ボヴァリー夫人﹂という小説は気まぐれの主題選択と相
応するものではないし︑またノルマンディのこれこれの三面記事的スキャンダルで説明できるものでもないとい
うことだ︒一八三七年︑﹁ボヴァリー夫人﹂執筆の十五年も前に︑フローベールは﹁情熱と美徳﹂と題し︑女主
人公マッツァの姦通を描く︽哲学的コント︾を書いている︒愛欲に身をまかせ︑逆上のあげく夫と子供たちを殺
し︑ついに毒を仰いで果てる女の物語である︒このようなテーマがまず︑両作品の類似性を明示している︒この
初期作品においても︑ロマン派文学の耽読が女主人公の転落に間接的役割を果たしている︒さらにマッツァの
︽限りない欲望︾についても︑それは単に感覚の充足によって満たされるものではない︒過剰・極度への志向の
背後に︑何か形而上的不安が窺われる︒﹁ボヴァリー夫人﹂におけると同様に︑肉の喜びは肉の幻滅に通じ︑マ
ッツァは不断の不充足感に悩む女となる︒事実︑フローベールは彼女を喩えて︽食物を摂れないあの飢えた人々
のひとり︾と言っている︒到達し得ぬ物︑絶対への渇望は彼女を非人間化へ︵︽彼女にはもはや女としての属性
は何ひとつ残っていなかった⁝⁝︾︶︑錯乱へ︑そして死という絶対へと導いて行く︒
ところで︑﹁ボヴァリー・夫人﹂における恒久的テーマと作者の内奥に発する深い響きに光を当てるさらに貴重
な資料がある︒コンスタンチノープルから友人ルイ・ブイエに宛てられた一通の手紙である︒フローベールはこ
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の中で三つの作品プランを打ち明けている︒それは︑ドン・ジュアンの一夜︑神に愛されたいと願う女アェュビ
スの物語︑小さな田舎町でむなしく恋を待ち望んだ末に死んでゆくフランドルの乙女の物語︑という三つのプラ
ンで︑これだけではこれら三つの作品の間には何の共通点も無いように思われる︒ところがフローベール自身が︑
この三草案の深部における類似性︑根本的同一主題の妄執的な繰り返しについて︑次のように懸念しているので
ある︒︽心配なのは︑これら三つの構想の趣旨が似かよっていることだ︒最初の作品では︑満たされ得ぬ恋を地
上的愛と神秘的愛の二つの相のもとに描く︒二番目も同じ話︒だが女主人公は相手に身を任せ︑地上の愛は描写
が細かくなるのでそれだけ高尚さが薄れることになる︒三番目のプランではこの二つの愛を同一人物が抱き︑一
方がもう一方へその女主人公を導いてゆく︒ただ彼女は官能の高揚を知った後に宗教的高揚のうちに死ぬことに
なる︒︾このような証言は︑互いに無関係に見える多くのテーマを同じひとつの感情的織物の中で結びつけてい
る絆を明らかにしてくれる︒フローベールすなわち不感無覚の文学職人なる神話を信じられない所以である︒
しかし︑サント・ブーヴの指摘にはやはり一理あった︒つまり︑﹁ボヴァリー夫人﹂における技巧はいかにも
見事である︒フローベールが︽小説家の中の小説家︾︵ヘンリー・ジェイムスの表現︶と認められているのは︑小
説の言語と作品の構成という二つの内在性に︑彼ほど徹底して賭けた作家がいないからである︒フローベールは
自ら充足する諸総体を考えるが︑それらは同時に︑さらに大きなひとつの全体に組み込まれる具合になってい
る︒そのことから︑︽ブロック︾を積み重ねてゆくような彼の小説構成法がまず生まれる︒︽作品とは子供をこ
しらえるようにしてできるものではない︒それはピラミッドを建てるように︑予め図面を引き︑大きなブロック
を運んできて︑腰をいれ︑時間をかけ︑汗だくになって︑それをひとつひとつ積み重ねて作るものだ︒︾が︑そ
−n3−
れと共に︑細部とより広範な諸構造との不断の関連もまたそこから生じてくるのだ︒劇的な視点と物語全体を見
通す視点︑この遠近法が各々の︽ブロック︾の内部に集中と拡散の二つの律動を持ち込み︑そこで描かれるでき
事の即時性と伸縮自在な時間との間の緊張を生み出す︒フローベールはいくつかの重要な場面を核にして小説を
構想した︒ヴォビエサール館の舞踏会︑司祭訪問︑農事共進会︑沼のほとりの誘惑の場面︑ルーアンでの逢引︑
エンマの死⁝⁝︒しかし︑言わば強拍の置かれた時を形成するこれらの場面︵ヴォビエサール館に招かれたことは
八何か途方もないでき事︾であり︑この夜会は︽彼女の生活にぽっかりと穴を穿ったyとある︶の傍に︑無定形の時︑眠け
を催させる日常生活の無特徴な時間が流れていることを︑フローペールはさり気なく︑見事に示している︒小説
を貫いて︑半過去のゆっくりした動きと単純過去の激動とが巧みに配合されているのだ︒
︽すべては最初の構想いかんに懸っている︾と彼はルイーズ・コレに言っている︒実際︑彼の作った建造物に
は︑無意味な細部はひとつとして存在しない︒エンマが針で突いた指を吸い︑また︑肉付きのよい唇を軽くかん
だり舌の先をチロチロと動かしてグラスの底をなめたりするのも︑すべて彼女の潜在的な官能性と︑同時に︑彼
女と初めて出会った時にシャルルの想像力に訴えたイメージとを読者に示すためである︒しかし︑そうした機能
的細部の大部分は︑個々の場面を超えたより広いテーマの場に組み込まれている︒シャルルは床に落ちた鞭を探
す時に︑前で屈んでいるエンマの背に自分の胸がかすかに触れるのを感ずる︒こうしたポーズや接触は︑この場
の状況において二人をどぎまぎさせたというだけのものではなく︑小説中に不断の性的挑発の雰囲気を植え付け
ているのだ︒同様に︑窓に額を付けてぼんやり外を眺めるエンマの常なるポーズは︑なかなか出現しようとしな
い何事かを倦まず待ち望む心に相応する︒
−n4一一
﹁ボヴァリー夫人﹂におけるエロティスムが︑登場人物のみにとどまらずこの小説の世界全体を覆う強迫観念
的なものであることは︑残されたプランや草案を読めば二目瞭然である︒そこでは︑フローベールは極めて赤裸
々な言葉で︑時を追って病的な度合を強めるエンマの官能性を記している︒︽ロドルフは面倒になって彼女を娼
婦扱いにし︑死ぬ程f‑‑‑tする︒女はそれでかえって彼を愛する︒⁝⁝ひどく淫らな彼女の愛し方︒⁝⁝︵レオン
という男を︶はっきり見定める︒彼の数々の欠点︒彼女はgod‑‑‑ として彼を愛する︒︾だが︑この激しい色情は
小説の世界全体に広がっていること︑そしてそれが作者の想像力に源を発するものであることは明白である︒草
案にょれば︑エンマの死後︑シャルルは回顧的かつ病的な嫉妬に苦しむことになっているが︑それは妻が生前苦
しんだ同じ病︑つまり模倣による欲望が生んだ嫉妬である︒︽妻の不貞の発覚⁝⁝激しい恋心を抱く︹他人の
l女優などのl恋によって掻き立てられる不健全な恋︑彼女と寝たいと思う︒︺︾
力業の部分︑すなわちジュスタンの刺絡の場︑エンマとブルニジャン神父の会話︑農事共進会︑辻馬車の疾
走︑エンマの死など︑特に入念に書かれた場面についても同様のことが言える︒なるほど︑技巧にかげる名工匠
の野望はあまりにも明らかだ︒例えば農事共進会の場面などは︑作家にとって何よりもまず困難で独創的なシー
ンを作り上げる機会︑ひとつの賭げであったようである︒︽これが新しい試みであるということには自信があり
ます︒⁝⁝交響曲の持つ効果を初めて本の中に持ち込んだ︑それがまさにこの場面になるでしょう︒全体が吼え
るようなものでなくてはならず︑雄牛たちの鳴き声と恋の溜め息と知事の演説とが同時に聞こえなければならな
いのです︒︾ところがまさに︑この場面は単なる名人芸披露の場とはおよそ別物なのだ︒コミカルな並置と対照
の妙︑動物性描写の執拗さ︑無意味な言葉の波︑これらにょって︑活気溢れるこの三つ折りの絵はエンマを取り
−n5−
巻く世界の本質的な愚劣と卑俗性を強調し︑それと同時に愛というもののパロディをも提示している︒言わば︑
この小説の核心的意味が︑浮薄さと堕落とを描くこの場面に託されているのである︒
主題と関連させた︑道具立てや登場人物の使い方は︑フローベールの小説作法の顕著な特徴のひとつである︒
物体も何らかの意味を持つ要素として示されているのであって︑よく言われるように︑物のこと細かな描写が無
意味に小説を冒しているのでも︑単に社会学的観察がそこに割り込んできているのでもない︒例えば︑小説冒頭
に描かれるシャルルのあの卵形の帽子は︑この人物のたわいのない付属物以上の物だ︒つまり︑そのちぐはぐな
外観︑︽むっつり押し黙った醜さ︾︑色々な型の集積︑混淆︑それらはすべて現象界を前にした人間精神の放棄
を象徴しているのである︒物が意味作用を持つものになっている︒そしてこのシャルルの帽子の場合︑その意味
作用とは本質的不調和の認識に他ならない︒最も初期の下書きのひとつで︑フローベールは︑この帽子は醜く被
り心地の悪い帽子の︽綜合︾であり︑︽物質というもの自体が悲しいものだと思わせる︾ようなあの哀れな物の
ひとつ︑と記している︒物から物質へ︑言葉のこの自然な移行が︑シャルルの帽子が担う普遍的な︑ほとんど形
而上的な価値を充分に示唆している︒そしてこの種の例は冒頭のこの帽子に留まるものではなく︑結婚披露の食
卓に供されるデコレーション・ケーキ︵ポーチ︑柱廊︑はしげみ殼のボートを備え︑キューピッドがチョコレートのぶら
んこで揺れている︶や︑えび足矯正器︵鉄と木と革ででき︑それにボルト︑ナットをいれた目方がハポンド︶なども︑同
じ意味深い鈍重さを呈している︒
小説のこの冒頭は︑従って︑登場人物の私的世界への導入部またはある環境についての情報提供の場である以
上に︑この作家に固有のモチーフの計算された間接的開陳の場なのである︒人間相互間の断他の悲哀︵教師は最
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初シャルルの名前を聞ぎ取ることさえできない︶︑強弱的な学校の日課か象徴する胸塞ぐ抑圧惑︑集団の残忍性を前に
した一個人の孤独︑失敗すべくして失敗する根本的非適応性︑これらのことが﹁ボヴァリー夫人﹂の最初の数節
からすでに浮かび上ってくる︒小説の始まりは︑無能力と非活性と忍従の空気に包まれて進行する︒シャルルの
哀れな言葉−︲︽すべて運命のいたずらです︾lで終るこの小説は︑それにふさわしく受動性と諦めの音調を
以って始まっている訳だ︒蓋し︑この小説が展開する真のドラマとは︑人生が悲劇に対して収める勝利のドラマ
でなくして何であろう︒凡庸に︑無感動に︑人生は続く︒
作者の存在は作品の技巧そのものの中に顕現している︒確かにここには︑陽気でまた韜晦的なスタンダール風
の介入も︑本題を離れたバルザック風のおしゃべりも見当たらない︒しかしながら︑言葉相手の間断なき戦い︑
文章構成の入念な操作︑様々な視点を移行させ配合するその手法などは︑不感無覚の仮面の陰に隠れているだけ
に尚更複雑な︑作家の作品への感情的な自己投入を内包しているのである︒もちろん︑作家がじかに介入するこ
とさえない訳ではない︒レオンは︽意気地なし︾のばか者だとはっきり書いてあるし︑ロドルフはエンマの︽魂
から溢れ出る心情︾を理解できないことを非難され︑オメーはその︽節操のない虚栄心︾を弾劾されている︒さ
らに︑しばしば冷酷な注釈の役割を果たす多くのアイロニーがある︒エンマが誘惑に屈するシーンの直前にオメ
ーがロドルフに与える忠告︑︽不幸は突然やってきます︒お気を付けなさい︒あなたの馬は血の気が多そうだ!︾
さらに辛辣な皮肉もある︒ルーアンヘレオンとの逢引に出掛ける妻のことを︑自分の用を足しに行ってくれるの
だと思い込んでいるシャルルの感激︑︽なんてきみは優しいんだ!︾
しかし︑フローベールにおいては︑実は言語そのものが批判の現われであり︑同時にその手段でもあることが
― 117 ―
認められる︒言語に担わされたこの二重の役割は︑決まり文句の一貫した使用に明白に現われている︒登場人物
が口にする︽意見︾なるものはすべて︑フローベールのライフワー・ク︑﹁紋切型辞典﹂に記された言葉の定義と
見まごう︑本質的愚劣さに貫かれている︒それと言うのも︑フローベールはある人物をその人物自身の空虚さと
いう重圧の下に押し拉ぐことができる度に︑ほとんど邪な喜びを味わっているからである︒個々の言葉以上に︑
文体そのものがカリカチュアとパロディの道具になっているのだ︒言語の喜劇︑それはこの作品全体の意味を照
らし出す︒つまりこれは︑嘘︑︽代用品︾︑そして幻︑が演ずる悲喜劇を描いた小説なのである︒そして︑このよ
うな間接的な介入のテクニックの背後には作者の絶えざる憤激が窺われる︒フローベールのこの︵しばしば意図的
に培われた︶無言の怒りこそ︑実は彼のインスピレーションの主要な源泉のひとつだったようである︒彼はエドモ
ン・ド・ゴンクールにこう告白しているではないか︒︽いや︑憤慨こそ唯一私を支えるものなのです︒II・III憤り
︵18︶を感じなくなったら︑私はばったり倒れてしまうでしょう︒︾こうして︑フローベールの皮肉は主要な登場人物
自身を的に発せられる︒我々はスタンダールの︑主人公に向けた保護者的な優しいほお笑みからほど遠い地点に
いる︒それは︑読者をも宿命の味方にしてしまう︑真に悲劇的な皮肉である︒
作品内に書き込まれた説明に付きまとう曖昧性はフローベールの文体の栄光と密接な関係にあるが︑事実︑文
章構成の種々の手法の徹底的な開拓と活用にょり︑作家は作中人物の︽外︾と︽内︾に同時にいることが可能に
なっているのである︒世に聞こえた没我の理論をますます信じ難いものに思わせるこの二重の視点の最良の例証
は︑あの自由間接文体ー作中人物の会話の要点だけを述べること︑及び人物の内的独白の等価物を示すことを
可能にする手法︱−である︒内的独白の等価物と言ったのぱ︑自由間接文体が︑作中人物の意識の表面にまだの
−n8−
ぼっていない︑または曖昧にしか意識されていないことをはっきりと表明する場合が多いからである︒この文体
は従って︑作中人物にとってはまだ感じでしかないものを作家はすでに明確に理解しているという︑この両者の
間隙を際立たせるものであり︑この間隙こそは︑作家が作品に直接的に参入している箇所をさし示しているの
だ︒
このような文体の二重性は︑小説中の多くの直喩や陰喩をも支配している︒︽未来はまっ暗な回廊だった︒そ
してその突き当たりの扉はぴたりと閉じられているのだ︒︾明らかに我々は人物の︽内部に︾いる︒このイメー
ジはエンマの心中の苦悩を表わしているからだ︒しかし︑作品の全体的規模においても隠喩は成立している︒そ
れは︑フローベールがこの小説で一貫して展開している幽閉のテーマと呼応するものなのだ︒自由間接文体が担
うこのよう・な価値の二重性は︑エンマが昔自分が育った修道院の壁を前に自分の人生の崩壊を意識する次の箇所
に︑おそらく最も明瞭に表われている︒
︽だがそれがなんだろう! 彼女は幸福ではない︑コ茨として幸福だったことはない︒人の生のこの貧しさ︑
彼女が寄り掛かろう・とする物のこのたちどころの腐敗は二体何故なのだろ沢ノ?⁝::しかし︑もしも強く美しい誰
か︑気骨逞しく激情と繊細を兼ね備え︑その心根は天に向かって哀愁帯びた祝婚歌をかなでる青銅弦の堅琴︑天
使の外貌をまとった詩人︑というような人がこの世のどこかにいるものならば︑自分にもひょっとしてめぐり会
えないものでもないのではないか? いやいや︑そんなことはとうてい起り得ない! それに︑探し求める値打
のあるものなど何ひとつありはしない︑すべてが偽りなのだ! ほお笑みの陰に必ず退屈のあくびが隠れ︑すべ
ての歓びに不運の呪いが︑あるゆる快楽に後味の悪さが付きまとい︑そして極上の接吻といえども︑手の届かな
−n9−
いより大きな愉悦への期待を我々の唇に残すだけなのだ︒︾ ︵第三部六章︶
明らかに︑この一節ではエンマの内的独白と作者の視点の融合が行われている︒だがこの作者の視点自体もそ
れ程揺ぎのないものではない︒ここにあるロマンチックな夢のカリカチュアと女主人公に寄せる作家の憐惘との
間に︑明確な境界線を引くこと程困難なととはあるまい︒さらに︑ロマンチックな紋切型の夢想のカリカチュア
そのものにも二重の意味が付加されている︒紋切型とは無論︑知的にもまた表現様式としても言わば贋金であっ
て︑それは当然軽蔑と非難に値する︒しかし︑最も愚かな紋切型が作中人物の︽無垢︾を表わす場合があるの
だ︒言葉では表現し得ないこと︑また言葉で隠蔽しなければならないことが世にはあるからだ︒極めて興味深い
くだりをひとつ挙げよう︒そこでフローベールは︑ロドルフがエンマの陳腐な恋の言葉の背後に隠れた彼女の真
情を見抜けないことをこのようにとがめている︒︽あれ程体験豊かなこの男も︑似かよった表現の下に埋もれた心
情の違いを見分けることはできなかったのだ︒︾作品の表面に二重に介入し︵︽最も空虚な比喩yの擁護はそれ自体︑
作者が作中人物に対して下したひとつの判断である︶︑フローベールは︑我々は誰も自分の欲求︑歓び︑苦悩をくあり
のままに︾表現することはできない︑所詮人間の言葉とは︽破れ鍋のようなもの︑空の星をもほろりとさせよう
と我々が躍起になってたたいても︑せいぜい熊を踊らせる程度のメ乙アィしか出てはこないのだ︾︵第二部十二
章︶と記している︒陳腐な言葉が笑いものにされる一方で︑それがそのまま詩に変質しているのを感じて訳が判
らなくなる︑フローベールの読者がしばしば抱くそうした印象は︑恐らくそこから生じているのだ︒
我々はここで︑フローベールの︽写実的リリスム︾︵若しくは︑抒情的レアリスム︶の︑恐らくはその核心のひと
つに触れているのだ︒文学におけるレアリスムの根本的ジレンマ︑すなわち文体とそれが描こうとするものの間
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の緊張関係という問題さえもが︑そこに生じているのかも知れない︒レアリスムは︑言葉とその表現内容とを調
和させるどころかーそのような調和においては文体という観念自体が消え失せてしまうだろうllそれは︑
︽非・詩的な︾現実と︑描写することにょってその現実を超えようとする詩的営為とを画然と分かつ︑ひとつの
様式化の動きを必然的に内包しているのである︒レアリスムにまつわる技巧への傾向を告発したポール・ヴァレ
リーは︑夙にそのことを察していた訳だ︒ともかくも技巧とは︑ブルジョワ世界を描く﹁ボヴァリー夫人﹂の作
家フローベールと︑﹁聖アントワーヌの誘惑﹂や﹁サラムボー﹂において顕現する︑デカダン派的妄想の作家フ
ロー・べIルとを結ぶ接点のひとつではあるだろう︒
このような美的緊張は︑フローベール自身の気質を充分に物語っている︒この点でモーパッサンは過たなかっ
た︒このフローベールの愛弟子は︑師の文章がしばしば︑︽それが描く内容を超えた情熱︑高い響きと音調︾を持
っていると指摘している︒事実︑絶えざる抑制に焦れ︑描くべき事柄の低俗さに倦んだかのように︑フローベー
ルの文はくあたかも詩のモチーフを表現しているかのごとく︑あるいは厳かな︑あるいは輝くばかりの︾文章と
なる︒フローベール自身が︑自分の小説の難しさ︑その困難を乗り越えて独自の成功を収められるか否かは︑ひ
とつの賭けのようなものだと認めている︒ところでこの賭けでは︑レアリスムの企てに内在する矛盾の克服のみ
が賭けられているのではない︒それは︑次のよう・な二重の内的至上命令を表わしているのである︒︽私の本がも
しも価値あるものになり得るとすれば︑それはリリスムと卑俗性という二つの深淵の間に懸かった一本の髪の毛
の上を︑真すぐ歩き通すことができたということに尽きるでしょう
文体上での作家フローベールの︽存在︾は小説中にあまりにもコンスタントに顕現しているので︑バルベー・
ドールヴィイが悪意を込めて名付けたところのこの︽描写魔︾の仕事の出来映えはなるほど見事だが︑描写は畢
竟︑この作家の個性に深く根差したテーマや物の見方を読者に押しつけるための手段にすぎなかったのではない
かと思われる程である︒主題と密着した描写というパラドックス︑その最も良い例が﹁ボヴァリー夫人﹂におけ
る風景描写である︒次に示すのは︑レオンとの木曜日の逢引に行く途中エンマの眼前に開かれる︑ルーアンの町
の光景である︒
︽町は円型劇場のように中心に向かって下って行き︑霞の底に沈んで︑橋々の向こうにぼんやりと広がってい
た︒その先では︑広々とした田園が再び緩慢に盛り上がって行き︑遠くで︑青白い空のおぼろな裾と接してい
た︒こうして上から眺めると︑景色全体はまるで一幅の風景画のように静止して見えた︒片隅に︑大きな船が何
そうか押し合うように繋留してある︒河は緑の丘のたもとでゆったりとカーブを切り︑横長の小島は︑水面に張
り付いた黒い大魚のようだ︒工場の煙突が巨大な茶色のかたまりを吐き出し︑その端がたなびいていた︒製練所
のうなりと共に︑霧の中のそこここに聳える教会の鐘の音が聞こえた︒葉の落ちた大通りの木々は︑家並のただ
中で紫のいばらの茂みのように見え︑雨に濡れて輝く家々の屋根が︑その地区の高さに応じて強くあるいは鈍く
光っていた︒時折︑風がこのサント=カトリーヌの丘の方へ雲を運んで来る︒するとそれは断崖に音もなくくだ
け散る空の波のようだった︒︾ ︵第三部五章︶
一見したところ︑この一節はひとつの現実の地形の鳥瞰図そのものに思われる︒町に着いた人の目に実際に現
われた当時のルーアンとその近郊の風景︒ここにはすべてが描かれているII−河︑橋︑丘︑島︑工場︑船︑家々
の屋根︒これは写真でも版画でもないが︑言語を以ってしたある現実の光景の写しではある︒
‑I99 ,
しかしそれがすべてではない︒重要なのは︑このパノラマがエンマの目を通して見られ︑再創造されたものだ
ということである︒エンマは自分の見たい物︑自分に見える物だけを見る︒彼女の欲望が︑物の形︑動き︑色を
決定しているのだ︒夢と期待が︑この田舎町を約束と危険に満ちたバビロンに変えてしまっている︒空間のイメ
ージ群︵田園︑空︑煙︑雲︑船︶が膨張と飛翔の観念をめぐって働きながら︑霧のかかったおぼろな状態をも喚起
する︒ここにある動きは︑実は真の動きではないのだ︒それは芸術的結構の中で凝固してしまっている︒エンマ
においては︑思考の出発点もまた到達する先も︑常に何らかのモデル︑つまり生きた実物ではなくそれを模した
ひとつの形である︒︽⁝⁝景色全体はまるで一幅の風景画のように静止して見えた⁝⁝︾︒この一節の隠喩的構造
はさらに︑小説の中心的テーマ︑つまり幻想と挫折との関係と照応しているとさえ言うことができよう︒雲がつ
くる︽空の波︾が断崖に突き当たってくだけ散っているではないか︒
ところで︑作中人物の視点を借りたこのような描写は︑この一節が有する第三の面をますます際立たせるもの
なのだ︒作者の個性が最も明瞭に現われているこの平面に立つと︑動きと不動性というふたつの基本的イメージ
が対峙しているのが見えてくる︒︽下って行く︾1︲︱最初のこの一語が︑節全体のトーンを示している︒この隠
喩は本質的に静的な実在である都市について使われているのだ︒他にもいくつか︑動きを表わす動詞が同様に静
的パノラマを描いている︵︽広がって︾︑A再び盛り上がって行き︾︑入聳える︾︶︒風景l大部分は単調平板な風景
ーのこのような動性は︑フローベールの描写の大きな特徴である︒視覚的幻影が躍動と取返しのつかぬ固着と
いう二つの観念を投影する︒そしてこの後者は︑この一節では︑︽繋留︾︑︽風景画︾︑葉の落ちた木々といった
イメージと︑︽押し合う︾︑︽張り付く︾︑︽くだけ散る︾という重要な言葉にょってさらに強調されているのだ︒
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叶わぬ脱出︑浮薄な夢︒描かれているのは無論エンマのドラマだ︒しかしこのドラマを通して︑そしてその向
こう側に︑フローベール自身の感受性が︑小説の暗喩的な体系の中に姿を現わす︒この体系は二作毎にますます
固まってゆくだろう︒﹁サラムボー﹂における静的叙事詩︑﹁感情教育﹂の閉じられた円環︑﹁聖アントワーヌ
の誘惑﹂の懐疑から激情︑そして再び機械的な祈りへの転落という循環運動︑最後に﹁ブヴァールとペキュッシ
エ﹂における︑書見台への︑筆写行為という慢性的麻痺状態への回帰︒無定形なもの︑移ろいゆくもの︑なべて
変化するものへの偏執が一方にある︒もう一方にあるのは︑凝固したものへの妄執︑そして形による自己救済の
夢である︒ ︵次号に続く︶
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