ぷ相 撲朗 一部 集﹄ 所牧唐詩注稼補訂
序 こ こ 二
︑ の に 仏 は め る 謄 詩 を と り あ げ た む そ し て 川 口
﹃ 和 諜 朗 詠
築h
ハ岩
波・
日本
古典
文準
大系
︑一
九七
六年
十一
一剤
︑弘
下︑
川口
述
などと略構﹀をテキスト広︑一首ずつγ寧に譲みすすんだ︒よ
り新しい課注書である大曾課章介・堀内秀晃句和漢朗詠集h
(新
潮関
本古
典集
成︑
一九
八一
一一
︑漢
詩文
の捨
嘗者
にち
なみ
︑大
雪援
活栓どと略鴇﹀も同時に参照したが︑唐詩の典擦の全文は来
牧載なため︑岩山川町演習のテキストとしては不充分に感じられ
た︒また︑私見によれば︑その頭注や﹁典接一一環﹂の諜には︑
約十八年前に成る川口詑の誤りをそのまま踏襲している場合
が案外少なくないようである︒ちなみに︑指稿の
﹃和諜郎一議集﹄照攻唐詩盟締補訂パ付ハ植木)
(一)
植 木
千子 久
のなかから︑一に共通する誤譲・誤解と思われる接
を任意にとりあげ︑その一端を塩間見てみたい︒詩歌番強は
川口本に譲る︒
‑呂コ一車番﹁水麗風駈琵悲波﹂の﹁悲翠﹂の解糟:::川口誌
に﹁設だっ脅の形容﹂ハ大曾根注も詩乙)とするが︑ここ江一習
ではなくて︑慈悲︿碧珠や群音色の青金石ウフピス・ラズl
リ ︺
の類︺のごとき青い波の意で︑色彩を表す用例と考えるべき
であろう︒つまり︑吉居易の﹁暮江吟﹂詩ハ務時)のご道 の幾陽水中広錨き︑半江は憲懇宇江は紅なり﹂と向例で
ある9
舎四五六番﹁舟夜内に贈る﹂詩に費して︑川口症は﹁家の
妻乙贈る﹂︑大曾根注は﹁舟放の扶況を家に書き︑逢った作﹂
と 説 明 す る
︒ し か し
︑ こ の ハ 八 一 志
﹀
︑ 江 卦 ハ 江
2
中額詩文論叢
第七集
西 省 九 江 市
﹀ へ れ の 作 で あ り
︑ 易は妻を同行していた(﹁舟行﹂︹脊6
︑器
7︺
しか
も︑
この
とき
︑
﹁設
商州
﹂(
巻目
︺
た人に詩をおくる場合は︑﹁賠﹂
で は な く 用 い る の が 原 則 的
︒ 大 曾 根 症 は 諜 り で あ り ︑
m m 日誌も大曾根注と同意とすれば︑誤りとなろう0
.五百二番﹁一同諸客︺題子家公主藤宅﹂という詩題の謀議;
:・
川口
誌は
﹁家
公主
の奮
宅に
題す
﹂と
譲み
(大
曾根
本も
同じ
﹀︑
﹁陳の家公主という皇女の嘗宅を詠ずる﹂と説明するが︑詩
題の訓謹は﹁子家公主の盤宅に題す﹂と譲むべきところ︒子
家公主とは︑子挙友に嫌いだ憲宗の長女︿永昌公主)を指す
(宋
の彰
叔一
度﹃
文苑
英華
解読
﹄議
九参
照﹀
c
公主
は一
克和
年間
︿八
む
ム ハ
J八 一 一
O﹀
浪︒
詩は
大和
七年
︿八
一一
二一
一﹀
に成
るの
で﹁
蓄宅
﹂ という申川川口症の﹁陳の家公主﹂云々は全く理解しがたい0
.五
八九
番﹁
鉢塔
院の
如大
師﹂
(家
法:
・蔀
年八
十一
点︑
一広
々﹀
の
﹁知
大師
﹂
j e ‑ ‑
二人とも如痛大師を指すとするが︑智如大師
の諜り︒出居易の﹁東都十禅大徳長翠善寺鉢塔腕主智知和俗
茶枇憧記﹂(巻的)に︑﹁大和八年ハ人君臨)十ニ月二十三日︑
移於本院︑報年八十六﹂とある︒これによれば︑詩の作られ
た大
和五
年︿
入一
一一
二首
時︑
智如
和俗
は八
十一
一一
歳と
なり
︑ 症 の 一 致 す る
︒ 他 方
︑ 知 識
︿ 部 光 ) 和 向 辻
︑
易の﹁梯光和向呉賛﹂(巻丹﹀によれば︑八十歳である
0
.七五四番﹁人間柄幅愚難料︑世上風波老不禁﹂の
の解稗:::別日本は﹁老いて
風
︿ 態 難
﹀ は に な っ た か ら と て 容 赦 し な い
﹂
ゃ
禁 を
﹁ 止 む
﹂ 什 す る ら し い や 大 曾 椴 注 も ほ ぼ 同 じ
︒ し か し
︑ こ の 禁 は と の 意
︒ 年 を と っ た の で 禁 え ら れ な い
ことをいい︑かくて﹁人間の禍福は愚かにして料りがたし﹂
の上旬とスムーズにつな︑がることになる︒しかもこの孟ど
は韻
字で
︑⁝
午聾
ML
謹むべきところである︒禁字は耐える意味
では卒盤︑止める意味では去撃に一議むのが原期Q
慶韻
﹄参
照﹀
︒
ななめ.七七四番﹁江甫の物を問ふ﹂詩の﹁王芦橋鶴いて雁禽斜な
り﹂という句の﹁王弔ア播﹂の解樟:::川口注に﹁姑蘇︹蘇州
のこ
と
i引現者連)にある播の名﹂とあり︑大曾根症も同じで
あるが︑いずれも誤り︒これは︑費麿元年(八二五)︑審友の
河南予・王程が︑自宅を購入して資金をほとんど使いはたし
た自居易のために︑港陽の襲道監内の新造ってあげた矯 を い う
︒ そ れ で ハ 河 南 予 の 王 鵡
﹀ の と 稀 し た の で あ る ︒ 原
﹂れ
らの
詳紹
な考
謹は
︑
の拙
稿に
ゆず
る︒
今日︑唐詩に訴する研究はめざましい︒しかし日本文皐の
研究者にとって︑近年の薪しい研究成果を虞く疲設すること
は︑時間的にも資料的にも︑かなり困難である︒
ぴ〉
ものも多い︒
H唐詩
uであるc
し た が っ て
︑ わ が た め ら れ る 作 品 で 忘 る と は い え
︑ 一 度
︑ 本 来 の 藷 詩 の に も
どして理解しなおしてみることも︑品何回然必要な作業であろ
う︒本来の意味が境確になりさえすれば︑わが欝における長
にひそむ種々の問題艶もおの︑ずから顕在化
い な い む そ の た
ー め
白岩易詩の作成年代については︑ も
︒花房芙揺﹁白長文集の批剣的研究﹄︿罰友書庖︑
一 丹 原 ﹀
一九
七四
年
九八
一一
年﹀
お
ハ鶴
木﹀
︒王拾遺﹃白居易生活系年﹄(寧夏人民出版社︑一九人一年)
などを参照し︑それぞれ花房・朱・王と略稽した(京の笛所で
は︑花房﹁批判門的研究で朱・王﹃系年﹄などと略韓三
また
︑
ハ細
川家
︑氷
育文
鰭叢
刊第
十王
者︑
O注者未詳
院︑一九八五)
︿六
地臓
寺普
本叢
刊第
四器
︑設
古書
︒永済・季吟﹃和漢期一詠集註﹄(高野辰之編﹃E本歌謡集成﹄第
一一
一巻
︑春
紋註
︑一
九二
八)
︿照
明治
議院
︑
九五
九年
八腹
九ニ
ムハ
﹀ 九
、w〆
の各書を参照した︒それぞれ︑
﹃新種﹄﹃考謹﹄円要解﹄などと略稽する︒また︑佐久節課注
﹃由業天詩集﹄全居間(績園語漢文大成︑一九二八t
一 一
一 O
︑い
ま
日本国書センター影印﹁白柴天全詩集bに援る﹀の努作は︑佐久
な お
︑ 上 記 以 外 の 初 出 の と こ ろ
4
中関詩文論叢
第七集
とらえて障時議表し︑早期
︿詩
題の
み
殻的
な誤
譲を
する
﹀﹁
柳
東器活躍にある
の﹁府いは河南府
﹁河
留府
癖↓
内の
西
︿ 入 一 号
U﹀の十二月︑河南
品︿
皇は
坊と
もい
い︑
らここへ移り住ん
る京兆芦につぐ︑地方官中の大
官 で
︑ に な う
9
従一
一一
品︒
ただ
し︑
一ー
牛借
需と
志
向合同じくする︑宰相の李宗関の要請によって︑止むなく河
白 居 易 に と っ て は
︑ は な か っ
﹃白
居易
研究
﹄︹
世界
思想
社︑
一九
七二
一一
一
巻三八︑地理志の河南府の燥に︑夫貞観﹀
とある︒宣範
(集
英
主っ
たも
のの
︑
ハ 六 一 一
一 回 ﹀ ︑
訪の位置は︑松浦友久・撞木久行
位︑一九八七﹀二二七頁の﹁摺唐洛
は︑拙著円震詩の風土﹄︿研文出該︑ハ
7)
域闘いなど参燕G河南府解は︑立貯
める
ハ﹃
一克
河期
志﹄
巻一
︑桧
松﹃
府間
雨
活水の南のほぼ中央部に位置し︑その大きさは
さ三
百歩
﹂ハ
四回
一メ
ート
ル︑
一歩
は一
・四
七メ
ート
ル﹀
の
である︒ただし︑近年の考古調査によれば︑ほぽ五の
トル四方であり︑坊内は椙十四メートル能後の十字街によっ
て四等分されていた︒要するに︑一向調舟癖辻約五00
メー
ト
ル西方の約半分の大きさ合もつ︒昔時︑一一坊内には︑一般住
宅が少くとも千戸以上︑平均してこ千前後あるといわれるこ
とから考えると︑敷地の大きさがおのずと理解されるc
諸親友に呈ずい
︿省
出︑
後集
を詑
﹀に
は︑
これは︑なよなよとし
O
は
︑
⁝ は ぼ の 一 春
﹂ 詩
︿ 在 叫
﹀ に
︑ 一 の 杭 技 同
春﹂詩(巻目﹀に︑﹁主町内問の務枝軟かにして力無し︑
きて黄金の色を作す﹂などとある︒つまり︑一気力無し﹂と は
︑ 各 枯 れ の 時 期 と は 異 な 春 の 柳 枝 が
↓ 内 に た た え は じ め た 溺 特 の し な や か さ を 形 か す か な 春 風 に も 竿 く も ゆ れ 動 い て み せ る
︑ と 喜 ぶ の い
美しさハ梁蝦﹀そのもののh
わ け で あ ろ う
︒ 託
︑
の 一
ハ抑ノハシメテメクミタル
ハルノ風ニウチナヒキタルサマノシナヤカニヨハ
也﹂という︒ち之みに︑﹃六注﹄にいう︑一意ハ務ノ葉ノ未ダ
出デズ︒故ニ篠先ヅ動クト一広フ也﹂﹁一義ニハ︑韓ハ諸木つ一
り 性 ヨ ハ キ 故 一 一
︑ 動 ク ト 云 フ 世
﹂ と
c
格上
広︑
イヒ
︑
カ フ日ア
L'‑'リ
と O
あ る
G
り
@五番﹁今日不知誰計舎︑春風春水一時来﹂
︒四番と同一の詩︿轄・結句)
今 日
ノ自也﹂とあ
6
ハ経
木﹀
円世
相撲
類︑
融集
知
な
らし
い︒
︽出納を︺計算する︑ソロバンをはじく
︿一
義を
共有
する
一一
宇が
︑そ
の一
義を
紐帯
ハ ロ )
として結びつき︑分割できたい熟語)︒舎の義一音は︑}三位︒円抄
などに﹁カゾヘアワセテ﹂と語すのな︑この立場であ
克己
円白
築天
﹄ハ
集英
社週
間一
詩大
系︑
一九
六密
)に
は
Jl
物
きわめて考える﹂と注し︑
たことだろう﹂
も と 法 制 尾 一 語 と し て 使 用 さ れ た も の で
︑ は めくくりをつける﹂意で使用される
c震詩での使用例は︑
以下の二例のみである︒
として︑一
O四番の
の の
一「
し イ
在すること
話︒﹃物ノケツケ(結計﹀サンヨウ︿算用﹀ヲシテ︑出デ入ワ
ノツヂヲアワスル﹄ハ米津本町詩皐大成抄﹄六)﹂とする︒しか
(お )
し
︑ の 語 自 鰹 は 先 秦 の 曹 に も 見 え
︑ 詩 歌 に あ っ て は
︑
6
中倒 的詩 文一 議叢
第 七 集
( 村 民
﹀
会当
つ£
︑こ
︑
叩 一二 日
σ︐f
治
?
はいえないよ
‑九 番
柳按
低﹂
春入技保
一 五 議
‑ 越 叫 刺 史 と し て 越 川 川 て い
た︿
在在
期間
は長
費一
一一
年︹
八二
一一
一︺
八見
から
大和
八年
円八
一一
六︺
八
月まで﹀︒就任後︑はじめて連えた春の詩で為る︒このとき︑
七歳年長の親友白岩易は杭州新史であったc
杭 州 と 越 州 と
は︑話︑江︿諜塘江﹀を辻さんで西と東につらなる土地︒一一人
ほしきりに﹁詩筒﹂を住後させて唱和する︒白是易の﹁徴之
の寄せらるるに答ふ﹂詩(在お︑後集壱6﹀は︑本詩に封する
戎韻詩ハ感作の韻字なそのままの煩宰で用いた和韻詩﹀であるハ同
年︑
杭州
での
作﹀
申
︹椀
眼︺
よれ
ば︑
元和十
一瓦
棋の
一の
用例
年(八二ハ﹀の
︿吋
元撰
研究
恥所
牧)
げい
の例を含めて主つある︒
︿怠
ハ丸
﹀に
椀思の中﹂(在日﹀とあり︑また︑
大夫に寄す四首﹂(定二﹀にも﹁椀眼
らんと欲す﹂ハ巻泣﹀とあるように︑﹁柳罷一の訪れを告 げる典型的な早春の風景であった邑﹁椀限いの誌には︑従
来︑①﹁コノメハ木の芽)ノハル﹂こと令抄法b
コハ
詮﹄
﹀︑
ぬ
﹁榔ノ葉初メ出ヅルノ克︑ノ百ニ似タワ﹂︿吋私法﹄﹀
の に
﹁ 柳 の 新 芽 が 限 の 形 に
似ていること﹂とあるのは︑明らかに争の立場であるハ川口
達も閉じ)︒また︑一九八O年刊円辞源﹄惨訂本︿北京商務印書
簡﹀は︑争の立場に擦り︑﹁初生柳葉︑細長如人離眼目初展い
と説明する︒つまり︑生じたばかりの柳の若葉は細長くて︑
眠そうなEを見開いたばかりのようだ︑というのである︒唐
末・五代の韓顎撰とされる﹁歳華紀露﹄義一︑二月の擦に︑
﹁蘭芽は玉を吐き︑柳践は金を挑ぐいとあるのは︑﹁議錐﹂
や﹁梅心﹂と一緒に黒いられることともに︑①の﹁柳の新芽﹂
訟 を 補 強 す る 用 例 と い え よ う し か し
︑ 白 居 易
﹁ 場 榔 枝 調 八 首
﹂ ハ 其 七
﹀ に
︑ て 時 限 の 如 し
﹂ ( 務 担
︑ 後
まる
回の
J
集各位﹀とあるのは︑
居易はまた︑別の詩
集巻
9﹀のなかで︑﹁楊眠は ところが︑白十
韻﹂
巷話
︑後
これは︑①②
というよりは︑の柳花ハ話番の容器用)をいうらしい︒社 甫の詩句絹江階鄭八丈高史飲Uの﹁黄柳の花﹂に到する清の
どんず
一の
説会
社詩
詳洋
一
h窃6
所引
﹀に
︑一
z柳始めて機蕊を生ずる
其の色辻葉︒故に八葉樹Vと臼ふ︒未だ葉あらずして先
一広々とある︒早春の﹁柳花﹂の解説として詮目す
る︒これは︑色彰的に前引の﹁柳眼は金を挑ぐ﹂
の﹁新芽L
設 と
﹁ 耕 詑 い は
︑
ものかも知れない︒
みに
︑李
商隠
﹁一
一丹
一一
日﹂
詩の
の勾をみてみよう︒王汝弼・
魯書致︑九八七﹀は︑
る︒これ
を
﹁ 柳 芽 如 誤
﹂ て
① の
て︑安鍛語範大串中文系古代文縛十数
︿人民文皐出薮社︑九七入)は︑
初生時細長船接︑稽柳張﹂
京大人文明の李義山レ
会東
方事
報恥
路︑
朝枝
詞﹂
し︑
柳
て
② の わ が
の手に成る﹁李義山七倍悼集牒
九八回)は︑本詩ゆや前掲の
の用例などをあげて︑﹁椀の若葉をいう
hk
︑ ︒
t uv
争んをし
た だ で は
︑ ハ 其 ニ
﹀ 叫 梅 心 動 日 関
﹂ の 舟
かもしれない﹂とする(荒井健執筆﹀︒た
フ
吋和
摸朗
一話
集恥
所牧
臨摘
出荷
詮響
詩訂
付ハ
鶴木
﹀
だ し
︑ 前 引 の 白 詩 の 誤
﹂ の 句 広 辻 鯖 れ て い 主
えんじ今い0・また︑捷の新叫︿うさぎの自﹀にたとえる表現ハ﹁操
之生
老︑
季春
五日
高兎
目︑
十日
出鼠
耳︑
一史
匂荷
始規
︑二
・待
問葉
成﹂
﹃本
草続
開
h程一一一五︑捷﹀も在意されてよい︒一見︑理解しゃ
﹁櫛眼﹂も︑充分吟味されるべ・きであろう︒
AY
い
@十番﹁先遣和風
﹁溝
陽の
潰数暗烏請来由い
の一
︑
︒
﹁ 一 克 和 十 の 原 が あ る
︒ つ ま り
︑
(八一七﹀︑作者四六議︑江︿溝額︑江田省九江市﹀での作︒
江刑
司馬
在任
(花
房・
朱・
王)
口
︒︹消息︺円抄注﹄に︑﹁春ノ来ルヲ客ノキタルニタト
ヘテ一広ブ批いと解説するの法一部白い︒確かに﹁消息﹂の語
は
︑ 六 朝 以 来
︑ の な か で の 常 套 語 減 量 八 兄 陸 雲 書
﹂ な ど
﹀
︒ ま た 李 自 王 漢 陽 と 未 だ る む
︹稽
烏︺
これ
は︑
るが
︑
間川円
M
‑
大曾摂本は︑ともに﹁鴬﹂
﹄ に
﹁ 鷺 ノ 鳴 ク 世 と す る 説 な ど を 蕗 襲 す し て は
︑ も ち ろ ん
︑ い
︒
︒ に
申 い と 考 え る の は
︑ の 一 種 で あ ろ う
aた
由の﹁由いは韻字である合自居易﹁感興二首﹂ハ其一﹀の﹁士口
出鍋一躍来由有り﹂も︑同じく韻字の用例会想問︑後集窓 口﹀︒壌かい風が春期衆の前ぶれ︑小島のさえずりがの護
生・到来の経緯や原田・情況などを語りきかせる︑
であろうa
三 歳
︑ の 作 ( 花
川亘社に﹁耳ごを﹁歌﹂に誤
植D
のこ
と(
徐松
崎登
科記
考﹄
在日
など
﹀
c
一 骨
︿お
)
好は複姓aただし︑約一﹂の名は一に﹁額﹂に作る(ヰ仲勉
﹃属
人持
第録
﹄(
上期
古籍
出競
駐︑
一九
七八
年再
販︺
寄野
大棋
の捺
な
ど勢
熊﹀
c﹁大⁝と辻︑いわゆる排行(一族問の︑同世代の男たも
の年
齢序
持︒
克弟
・従
克弟
を謹
算し
て︑
例番
めに
あた
るか
を来
す︒
﹁輩行﹂とも書く﹀の第一番めを揺す︒唐代︑親しい友人間で
︿斜
﹀
は︑この排行で呼びあうことが多い5
応 ︑
﹁ 唐 人 相 呼 ぶ に 行 次 を 以 て す
︒
・ 張
8
中鏑詩文論議
第七集
国 e
u美 十 竺 点 景 八
、 元 、 番 二 樽 十ハ前
年ち脅( 酔
入 品
♀事
告 風、 し …
るる
に掛
ゆ﹂
ヲ, ノ来ル
、‑
というの
五り類の如し︒にも事た多く此れを稽すいとある︒
この詩には︑題下に﹁去年輿寄野等八人︑同︹共)登科第︑
︹愁︺の原注があるハ一本に﹁北ハい﹁款とのこ宇な
一般に﹁去年︑寄託等八人と伺じく科第
にハ
大曾
程﹁
典譲
二買
い﹀
とな
ろう
︒
覧)cとは︑後述す
強﹀の
いわゆる進士科ではない︒樽瑛諒の勢作主席代科事
︿険四人民出稼政︑一九八六﹀の第十一章ハ20
八頁
﹀
に︑護士科及第のことと捉えるのは誤解D
ところで元棋の
﹁奇智大少府の︑同年の科第に寄するに観ゆ﹂(在日川﹀の自誌
によれば︑去年ハ貞年十九年﹀の吏部鈴濯には︑︹簿縄平︺宏詞科
に呂反・王起︑門番剣︺抜革科には︑白居易・李護職・呂穎
︿一作頻﹀・一吋野恒・喪主亮二川棋の︑合計八人の及第者が出
ているQ登科記考恥巻目参照﹀︒ちなみに︑宏語科と抜悲科は︑
一殺に進士科及第者が受ける幹部挨補生尽の別格の佳用試験
ハ吏部試可いわば︑選士科に及第した者が︑位一りにエリート・コ!ス広乗るために挑戦する採用試験であった︒宏詞科は︑遁
常︑詩賦一一一籍︑抜葦科は剣ハ帯法上・の関覇について判断
を下
す文
章)
三篇
を諜
し︑
この
に登
る白
人ザ
曾散
川口の凱黙も持じ︿出典
ハ官
人告
官試
験の
を指
し︑
を
のほうが重
んじられた§﹃逼典﹄巻目︑選事︑歴代制下や︑村上哲見﹃科
奉の
話﹄
(講
談註
現代
新書
︑一
九八
O年︑六九頁﹀︑前掲の侍醸諒
﹃岩代科翠異文事﹄第十七章など参照︒しかし︑白居易は祖
父の名﹁鍾﹂が﹁宏Lと男一音であるため︑自ら
あきらめたのである︿李高器﹁自公墓碑銘井序
bo
とこ
ろで
︑
pt
芝 ︑
fii
みホ
あろ
う︒
あ 在と つ
る 28、
o 後 れ 集 10
¥ J
‑ 十 九 番 劉 掲 揚
八の二黒子に寄すz一 東港の白二十二・楊
﹁野草芳弄紅錦地︑選結締範碧羅天﹂O写仲勉可唐人行第鋒す朱金域﹁︽白氏長慶集︾人名委設﹂
︿﹃
中華
文史
論叢
﹄一
九七
i九
一﹀
によ
れば
︑長
慶四
年(
八二
回﹀
︑
9
﹃和
翼朗
詠集
﹄所
設葺
詩在
韓議
一言
ハ行
(撞
木﹀
作者五一一豪州(沼山川護奉欝﹀での作Q豪州耕史在任Q
二十
一一
﹂は
白居
易︑
月︑
太子
ふ
であ
った
︒
﹁ 白
‑ ・ ・
・ ﹂
史であったこと
和川刺史に在任中である︿能年の夏︑和月新史に轄任﹀9
は賀暦元年一一一月四日︑蘇併に在ぜられて器援を離れる︒和州
は今の安徽省和鰐付近︒
︒︹野草︺一ー野﹂は吋説文﹄巻十三下に﹁郊外なり﹂と
あり︑﹁城﹂の反意語︒﹁芳弄﹂法下匂の﹁嬢寵﹂とともに双
聾(
語頭
子一
音を
同じ
くす
る熟
語﹀
c李賀の﹁少年祭﹂詩に︑
草 落 花 錦 の 如 き 地
﹂ と あ る
︒
﹁ 芳
iヨ
中犠詩文論叢
第七築
いおりてくるのであって︑大陸
に る 風 物 な の で あ る む 社 甫 の 全 集 の 欝 在 ( 九 家
注﹀応︑小とは︑糾綿糸の議散するもの記り﹂ハ﹁宣政毅退
朝︑
境出
左按
﹂の
注﹀
と占
める
のが
正し
い︒
また問書には︑山本鰭吉﹃遊糸練難いを引いていう︑
クそがたくさんの持な生むところが映り︑それが大勢の
クモの子にかえったところが︿テレビに﹀映った︒これで
はクそも︑議諮朕態で︑授らは過疎地帯を求めて引っ越しし
なければならない︑などとアナウンサiが譜諜をいい︑
?ゃれ︑ゴサマーを挟すのかな﹂と自をこらしていると︑
果してクその子たちは革の業の尖靖まで登ってゆくG行き ど ま り ま 腹 か ら 糸 者 出 す と
︑ そ れ は 上 昇 気 流 を 捕
っかまっていたクその子ほあっという関
って
しま
っ
︒︹道線)
えた
らし
く︑
に飛
び去
って
︑
して篇を成す﹂
高 揚 仰 ひ て 垂 る
﹂ と あ い用例の一つQ
文選﹄を認可木修失﹃人生有情
(東京書籍︑⁝九七七)の﹁遊糸﹂の僚にいう︑
空中にはき出されてただよう蜘妹の糸
に 誌 き 出 さ れ の 糸 が
︑ ふ わ ふ わ と
い
︒ た だ の 文 翠 者
たち誌︑糸な引いてとび出してゆくクモにはまったく症意を
捧 わ ず
︑ も っ ぱ ら 空 中 に た だ よ う 糸 の に 関 心 を い
る﹂
ハ鈴
木修
弐の
局番
の解
説﹀
︒た
だし
︑
して虫飛揚す﹂とある︒ 明F︺
争 点
︑
﹁東都留守令狐向蓄の赴任するを逸る﹂
一 年 ( 八 二 九
﹀ 作 者 五 八 歳
︑ の 作
︿ 花 毘
・
朱・
王﹀
︒粥
部侍
郎在
任︿
一一
一丹
の末
︑刑
部待
揺を
やめ
て︑
太子
賓客
東都分奇となる﹀︒﹁令猿禽書﹂は戸部尚書令獄楚ハ七六八J入三
七﹀
を指
す︒
令狐
は護
姓︒
大和
一一
一年
一一
一丹
辛巴
朔ハ
一自
﹀︑
東都
(﹃
警護
審い
笹口
上の
文宗
紀︒
同年
十一
見ま
で在
任﹀
︒
は︑東部洛陽にいて︑不在の天子に代わって留守
︿叫唐舎要﹄器軒︑留守の僚﹀であり︑宰相や寄
っ者︑もしくはこれに準ずる重百二島官
常置されたらしく︑副都を島︑ずか
﹁虞
麗﹂