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「 飛ばない」ファウス ト、または理性の時代のファウス ト像

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「 飛ばない」ファウス ト、または理性の時代のファウス ト像

‑ レッシングの 『ファウス ト断片』 ‑ *

田 中 岩 男

ゲーテの 『ファウス ト』を論 じた講演の中で トーマス ・マ ンは、「空を飛ぶ こと‑ これはあ らゆ る魔術 と、悪魔に とりつかれた者のきわめて古い主要 目的であ り、人類の最 も早 くか らの憧れの夢で ある。人類はその実現を、はるかな後にそれが現実のもの となるまで魔術に託 したのだ」 i)と述べて いる。符節を合わせたように、例えば 「グレー トヒェン悲劇」の終盤、破局を前に して、恋人の悲惨 な運命を隠 してきたメフィス トを難詰するファウス トに、悪魔はこう答える。‑ なぜ、あんたは われわれ と手を結んだんです、しまいまでや りとおす ことができない くらいな ら? 空は飛びたいが、

め ま い

乾草は怖い とい うわけか」 (曇 り日)2)

空を飛ぶ こと 飛行 (期)」 (Flug)の観念はおよそ、魔術の歴史その もの と同 じほ ど古い と言わねばな らない。 ファウス ト伝説にも素材を提供 した とされる初期キ リス ト教世界の悪名高い魔 術師シモン (サマ リアのシモン」)は、皇帝ネロの前で史上初の飛行実験を試み、失敗 して横死 した とも伝え られる。 16世紀に成立 したファウス ト伝説は、その形成過程において過去のさまざまな魔 術師伝説を吸収 し、 しか も宗教改革期におけるル ター派の特異な悪魔観のもと、魔術 と悪魔の観念が この伝説において必然的に結びつ く とすれば、おのれの魂 とひきかえに、呼びだ した悪魔 と契約す る魔術師の伝説において 「飛行」が重要な役を演 じることになるのは当然である。生前いつ も二匹の 犬を連れていたと言われ、非業の最期を遂げた とされる歴史上のファウス トも、一説には、ヴェネチ アで悪魔の力によって空高 く舞い上がったが墜落、半死半生の 目に遭 った とい う 悪魔そのものが

わば著 しく内面化 ・精神化されているゲーテの場合、「飛行」はすでに深い象徴性の域に達 している。

スト

これは例外的なケース としても、伝説を 「物語」(Historia)としてまとめた最初の民衆本 V=ヨーハ ン・

ファウス ト博士の物語ゴ (1587)か らマンの小説 Fファウス トウス博士二 (1947)にいたるまで、「 ァウス ト文学」の中に (飛行)のモチーフは、さまざまなニ ュアンス と意味の レヴェルにおいて、繰 り返 しあ らわれることになる。そ してそ うであれば逆に、ファウス ト文学にあ らわれた く飛行)のモ チーフを考察することによって、その作品を生みだ したそれぞれの時代の意識、例えば魔術の観念や 悪魔 (悪」)についての考え方 も浮かび上がって くるはずである

1587年、フランクフル ト・アム ・マインの吉雄 シュピースか ら出た最初の 「民衆本」の中に、す でに (飛行)のモチーフはほぼ出揃 っている0 7ヒス ト‑ リア=Iには、呪文によって呼びだ した 「

(2)

飛ぶ霊」 メフォス トフィレスの力を借 りたファウス トの 「三大飛行 」、すなわち地獄 と天空 と世界を め ぐるそれぞれの旅が語 られている(24‑ 26章)0魔術師」ファウス ト自身の術 による飛行 も( わいないもの とはいえ)ないわけではない。 しか し、『ヒス ト‑ リア』 におけるすべての (飛行)の モチーフをいわば集約 し、象徴的な表現にまで達 しているのは、フ ァウス トの悪魔への接近を動機づ ける箇所にあ らわれる 「鷲の翼」の比職である。

=‑フ ァウス ト博士の意欲は好むべか らざるものを好む ことに向かい、 日夜それを追い求めて鷲 の翼を身につけ、天地の奥の奥を窮め尽 くそ うとしていた。そ してあるとき、軽挑不時な好奇心に せきたて られて、悪魔を呼びだす魔法の文言、図形、記号、呪文を実地に使お うとしたのである。

(第 2章)3)

鷲の翼」の背後には、おそ らくキ リス ト教世界 における比職的表現の長い伝統が横たわっている。

まず考 えられるのは、「西欧の父」アウグステイヌスの 『告 Ejj]の中の、(superbia)(たかぶ り) と (curiositas)(好奇心)を批判 した有名な くだ り (5巻第3章)である。そこでは、「宇宙をあれ こ れ詮索することはできても」「被造物をつ うじて創造主を認めることがなか った」古代の 自然哲学者 たちの倣 り「たかぶ り」が、「空飛ぶ鳥」になぞらえられて批判されている。 4)思弁の徒」(Spekulierer) ファウス トもまた、聖書が与える既成の教 えでは満足せず、「天地の奥の奥を窮め尽 くそ うと」「鷲の 翼」を身につける。‑ たかぶ り」 と対に して弾劾 されるのが 「好奇心」の罪であることも、推論 の正 しさを傍証するもののように思われる。 ファウス トが魔術に手を染めるのは、(少な くともその 動機においては)富のためでも、情欲の充足のためでもない、抑えがたい 「好奇心」を満たすためで あるとい う(ここに 『ヒス ト‑ リア』を他のすべての魔術師伝説 と分かつ決定的な契機がある。)辛 宙の秘密 に迫 ろうと、フ ァウス トは人間に定め られた限界を踏み超 えようとする。「鷲の巽」に表象 された 『ヒス ト‑ リア』の (飛行) において、フ ァウス トの (superbia)(curiositas)は正確 に 符合 し、その最高の表現を獲得 した と言えよう‑ 。 とすれば、ファウス トの破滅はおよそ最初か ら 決定づけられている

総 じて、Fヒス ト‑ リア』が世に出た1587年に先立つ1世紀は、 まさ しく(curiositas)の世紀 と いっても過言ではない。汎知学 (Pansophie)に代表 される自然認識を求める努力 とも相侯 って、 こ の時期、世界像そのものの変革を迫るような発明 ・発見が相次いでいる。天体の観測に基づいた地動 説に立つ コペルニ クスの F天球の回転について』の公刊 (1543)はそれを象徴する事件である。 ロ ーマ教皇 グ レゴ リウス13世 による暦法改革 (1575)には、暦が教会の手を離れて独立 した計測 シ ステムに堕 しかねない事態をまえに、時に対する教会の支配権を再確認 したい とい う思いが当然はた らいていた。‑ 星辰天へ昇 った」ファウス トによる 「暦作 り」は必然的に 「悪魔の業」とされる。

ま'̲ ,>= ファウス トは無惨な最期を遂げ、その死は 「すべてのキ リス ト教徒を警めん とする」「忌 まわ しき例 し/おぞましき見本」 となるFヒス ト‑ リア二において 「(ルネサ ンスの巨人) としてのファウス ト 像は、まずそのネガとして成立 した」 5)

(3)

時流に乗った Fヒス ト‑ リア』は大いに人気を博 し、外国語にもつぎつぎに翻訳されたが、なかで も特に重要なのは英語訳である。「英訳ファウス ト本 」、いわゆるEnglishFaustbookをもとに、イ ギ リスの劇作家 クリス トファー ・マ‑ ロー (1564‑ 1593)によって、最初のファウス ト劇 『フォ ースタス博士の悲劇」(TheTragicallHistoryorD.Faustus)が書かれているか らである。エ リザ ベス朝演劇を代表する一人で、シェイ クスピアの同時代人である奇才のもとで、 ドイツの魔術師は、

伝説や民衆本の世界から文学の領域へ と一気に期あがることになる。

ちがいは文学的な質だけには とどまらない。同 じ伝説を素材に しなが ら、マ‑ローのファウス ト劇 は Trヒス トー リア』 とはおよそ対照的な性格のものとなった。それはフォースタスの (飛行)を見る だけでほぼ明 らかである。主人公の生い立ちを紹介 して劇の開幕を告げる 「プロロー グ」には、つぎ のような くだ りを読むことができる。

だがついには うぬぼれが嵩 じ、蝿でつけた巽を駆 って おのれの力を越えた天の高みへ と飛び立ちましたが、

力 ここ

その蝋は溶け、天の御心によ り彼は転落 しました。 6)

語 られている内容そのものに変わ りはない。が、それを伝える語 りが本質的に転調 している。標題の TragicallHistoryが暗示するように、劇を規定 しているのは、もはや、教訓的ない し遺徳的な調子 ではない.(superbia)の象徴たる 「鴬の翼」か ら 「おのれの力を越えた天の高みへ と」飛糊するギ リシア神話のイカロスの翼への変身 とともに、ファウス トは 「忌 まわ しき例 し/おぞましき見本」か ら悲劇の主人公へ と決定的に高め られている。

無節度 と反抗心、権力への意志、現世への信仰、美の渇仰‑ 作者マ‑ ローの気象 と時代の空気を 反映 して、あ らゆる点でフォースタスは 「ルネサンスの巨人」 と呼ばれるにふさわ しい。「悲劇」を 締め くくる 「エ ピローグ」は、あらためてこの劇の性格を くっき りと浮かび上が らせている。

天まで伸びるか と思われた枝は断ち切られ、

かつてはこの博学の士の うちに育っていた アポロの月桂樹 も焼け死んで しまいました。

フォースタスはこの世を去 り、地獄に堕ちました0 7'

「プロロー グ」のイカロスのイメージに呼応する、天 まで伸びようとした 「アポロの月桂樹」がす べてを物語 っている。『ヒス ト‑ リア』を踏 まえて最後 こそ型 どお りの警告で結ばれるものの、 これ は 「道徳的な断罪 とい うよりむ しろ、ひ とつの‑ 高きを 目指 しすぎたとはいえ‑ 高遠な精神に寄 せる挽歌のよ うに聞こえる」 8)0‑ もとよ り、肝要なのはイカロスが墜落 したことではない、天の 高みへ と 「飛び立った」 ことである。エ リザベス朝時代に生まれた最初のファウス ト劇において、「 ガとして成立 した」 ドイツのファウス ト像はまちがいな くポジへ と転 じている。

(4)

ファウス ト文学」の繋明期にあって、一気にいわばその文学的 「高み」にまで期あがった感のある

『フォースタス博士の悲劇』がその後にた どった運命は、皮肉にも、『ヒス ト‑ リア』の中でその主人 公について言われた ことばがそのまま当てはまるように思われる。‑ いわ く、「まこと、高 く昇 ろ

うとする者は、それだけ高い ところか ら落ちるものである」 (5章)

本国での初演の時期は定かではないが、この最初のファウス ト劇は、早 くも 16世紀の末にはいわ ゆる 「イギ リス劇団」‑ 16世紀半ばか らイギ リスで結成され、その数が母国だけでは多すぎるよう になったため、大陸にも巡業に出掛けるようになった10‑ 18人程度の職業的演劇団 ‑ によって ドイ ツにも紹介 された。確認できるだけで も、1608年 グラー ツ、1626年 ドレスデ ン、1661年ハ ノー ファー、1668年ダンチ ヒ‑‑ と、上演が記録 されている。 もっとも、そ こでは、外国語である ドイツ語を使わなければな らない言語上の制約 もあ り、 もともと茶番劇的な面白さをね らう傾向があ った劇団によって、英国産 ファウス ト劇のファルス的要素が ことさら拡大誇張されることになった。

演劇にもっぱ ら娯楽を求める観客の低俗な趣味に合わせて道化 ピッケルへ リングが主人公顔負けの 活躍をする一方、ファウス トの地獄堕ちの場面では、騒々 しい花火や様々なか らくりを動員 した一大 スペ クタクルが展開された。 「イギ リス劇団の ‑ むろん興行的な成功を必要 とした ‑ 手のもとで、

マ‑ ローの真剣な思想劇はひ どくどぎつい大当た りの芝居 (Publikumsschlager)になっていた」 9)

『フォースタス博士』は、1818年 にヴィルヘルム ・ミュラーによって ドイツ語に訳 されて再発見さ れるまで、本来の姿 とはおよそ似つかぬ民衆劇や人形芝居の中に辛 うじて生 きのびることになる ( ーテがマ‑ローのファウス トを知るのも、 この ミュラーの翻訳を得たねばな らない)

マ‑ ローに間接的に素材を提供 した 『ヒス ト‑ リア』のその後の運命 も、 ファウス ト劇のそれ と ほぼ軌を一に している シュ トリヒによれば、民衆本ファウス トの歴史は、ひたす らただ 「下降」の 歴史である とい う シュピース版の最初の民衆本 (1587年)が好評の うちに迎 え られた後、1599 年 にゲオル ク・R・ヴィ トマ ンによ り、 また1674年 にはニ ュル ンベル クの医師ニ コラウス ・プフ イツアーによって改作版が出されている しか し、そ こにはもはや、かつて Fヒス ト‑ リア二 には 紛れ もな く息づいていた激 しい探求精神を認める ことはできない。「フ ァウス トの精神的鷲の飛期 (Adleraug)、その認識の巨人主義は今や まった く消 えて しまった。 ファウス トは、ただ己れの官能 的欲望を充たすために悪魔を利用する月並な放蕩者になる。」 さらに1725年には匿名の 「キ リス ト 教の志をもつ者」によって新版が刊行 されるが、すでに18世紀の啓蒙の光の洗礼を受けた作者によ って、迷信的な悪魔の存在そのものがまともに信 じられていない。「フ ァウス トはここではもう、

ほ とん どただのペテン師、詐欺師、いかさま師にすぎず、教訓めいた傾向や警告は悪魔 との契約によ りは、む しろ彼の不道徳な行状に対 して向け られている」10)

啓蒙主義時代の代表的劇作家G・E・レッシング (1729‑ 1781)がファウス ト素材を劇化 しよ うとした とき、 この素材がおかれていた歴史的状況はほぼこのようであった。 レッシングの 「市民悲 劇」の くわだてを伝え聞いた友人モーゼス ・メンデルスゾー ンの反応は、当時の識者の平均的な意見 を代弁 していた と思われる 親愛なるレッシング君、きみの市民的悲劇は どうなったろう?

(5)

ぼ くは、その名が呼ばれるのをあまり聞きた くないものだね。 とい うのは、きみがファウス トとい う 名を残す ことになるか どうか、ぼ くは疑 っているのだよ。おお、ファウス トよ、ファウス トよ ! 」 の叫びを聞いただけで、桟敷全体が笑いだ して しまうかもしれないか らね(17551119日付、

レッシング宛書簡)ll)

た しかに、旅回 りの劇団や人形芝居の舞台でひ どくくずされ、民衆の噸弄の対象にされたファウス トの姿にふれた眼には、同 じ素材による 「悲劇」のた くらみが冒険 と映ったのも無理か らぬ ところで ある。 じじつ、 レッシングのつよい執着 と長期にわたる取 り組みにもかかわ らず、結局、彼のファウ ス ト劇はわずかな断章 と草案を残すだけで未完に終わっている。その意味では、メンデルスゾー ンの 懸念は敵中 した と見えるかもしれない。が、啓蒙主義作家 レッシングを とらえていたパラ ドクスは、

彼の良き理解者でもあった友の想像を超えて、はるかに深 く本質的であったと思われる。そのことが、

ついには構想 じたいを挫折させることになった と推察 されるが、そ こには 、 (以下に考察するように) およそファウス ト素材を扱お うとする近代作家にとっての固有の難 しさもうかがわれるようである。

レッシングがファウス ト劇 に取 り組んだのは、1755年か ら1775年 ころまで (H・へニ ングの推 定では1781年 まで)12)とされている。つまり、重要な市民悲劇 『ミス ・サラ ・サ ンプソン(1755) から 『賢者ナ‑ タン(1779)まで、ほ とん どすべての代表作を含む、 レッシングのほぼ全作家活動 期間にわたることになる。 (処女作 となる1747年の喜劇 『若い学者』 にすでにファウス トへの言及 が見 られることか ら、問題意識はさらにライプチ ヒの学生時代にまで遡 ると考えられる。 13')劇作家 として レッシングはこの扱いに くい題材を終生持ち回ったことになるが、それほ どまでの執着は どこ に由来するか、そ して、にもかかわ らず、それが不首尾に終わ らなければな らなかったのはなぜなの か ‑ 。 答えは通例 「パラ ドクス」そのものに求め られている。

レクラム版 『ファウス ト』の編者カール・S・グー トケは、そ もそも、 レッシングが1755年当時 にファウス トを取 り上げることができたこと自体 「すでにパラ ドキシカルである」 と述べ、14JH・マ イヤーは、「啓蒙主義的ファウス ト劇 ‑ ここにすでに自己矛盾があったよ うであった。・‑‑ファウ ス トと市民的啓蒙、 これは明 らかに互いに相容れなか った」15)と言 う すでに引いたメンデルスゾ ー ンのことばに象徴的に物語 られた当時のファウス ト劇の状況か らすれば、それ も充分 うなずかれる。

1759年の 「第十七文学書簡」の中で レッシングが、 自作の :rファウス トの‑場を匿名で紹介する のに先ん じて、ファウス ト素材が本来 もっていたシェイ クス ピア的精神 との親近性を ことさら強調 し なければならなかったのは ‑ フランス趣味に偏 したゴッ トシェ‑ トの論難 とい う 「書簡」本来の意 図をおいても ‑ 当然である。 グンタ一・E・グリムによれば、「啓蒙主義者に とってファウス トの テーマは・‑‑ほ とん どタブーになっていた」16)

よ り本質的な矛盾は、 しか し主題その ものの うちにあった。 レッシングには、抑えがたい知識へ の渇望が劫罰にあたいする罪であるとは、 どうしても承認することができない。幼い レッシングにつ いては、数冊の分厚い書物のかたわ ら、開いた一冊の本を膝にのせた姿で描かれた一枚の 肖像画 とと

(6)

もに、「大 きな、大 きな本の山 と一緒に、そ うでなければ描いてもらいた くない」 と言い張 った とい う逸話が伝えられている。 17)(『ファウス ト断片』中の残 された 「シナ リオ」草案は、第 1幕第 1場、

書斎で 「灯火の もと、書巻に埋 もれたフ ァウス ト」18)の姿をまず浮び上が らせ る。) また 『再抗弁』

(EineDuplik)の中のよ く知 られた一節は、「」(wissen)に対するレッシングの関係を象徴的に 示 している。

ある人間の価値は、その人間が所有 している、 もしくは所有 していると勝手に思い込んでいる真 理にではな く、真理に到達するためにその人が払 った誠実な努力にある。 とい うのも、人間の能力 は所有によってではな く、真理の探究によって増進するか らであ り、人間の完全性が絶えず成長す るのは、ひ とえに真理の こうした探究によってである。‑‑もし神がその右手に一切の真理を、左 手にはひたす ら真理を追求するたゆまぬ衝動を ‑ ただ しそれには永遠に迷い続けるとい う条件つ きで ‑ 握 り、「いずれかを選べ」と仰せ られるな ら、私は謙虚に神の左手にすが り、こう言 うだろう。

父よ、こちらを与え給え ! 純粋な真理は御身だけのものですか ら !」 19)

絶対者の手か ら与えられる真理そのものよ りも、た とえ迷い続けることになろうと、真理へのたゆ まぬ衝動をよ しとするとい うこの ことばには、レッシングの生涯を貫 く志向が鮮明にあらわれている。

またそこに、「ドイツ啓蒙主義者」レッシングの特異な位置を認めることもできるかもしれない。シュ トリヒは レッシングとヴオルテールを比較 して、つぎのように述べている。「フランスの啓蒙主義者 ヴオルテールを レッシングと並べてみると、 レッシングにおいて具体的になったような、 ドイツ啓蒙 主義のファウス ト的精神が認識されるであろう ヴオルテールは、いわば 自分が真理を所有 している と感 じていた。一方、レッシングは真理の探究者であった。 ヴオルテールは、真理の光の中に立 って、

その確かな明るい高みか ら蒙を啓 くべ く下の闇を照 らしだ した。 これはファウス ト的ではない。 レッ シングの方は、暗闇か ら真理の光へ とのぼろうとした」20)。 ‑ いずれに しろ、F再抗弁』の一節が、

まさに 「ファウス ト的精神」に して言いえたことばであるとすれば、そのような精神 と、無限の知へ の欲求ゆえに悪魔 と結び、ついには地獄堕ちに終わ らなければな らない男の悲劇が うまく反 りが合わ ないのは自明の理である。「認識を追求することの悲劇性、 これ もまた啓蒙主義の世界像にはひ とつ の自己矛盾に見えた」 (H・マイヤー)21)はずである。

(curiositas)を罪悪 として悪魔 と結びつける中世キ リス ト教的観念は、啓蒙の18世紀においてす でに過去の ものにな りつつあ る。その ことを雄弁に物語 る一枚の図像がある。1727年 (レッシン グが生 まれ る2年前) にハ ンブル クで出版 された Fキ リス トと宇宙のカ レンダーiAの表紙を飾 った

工 ンフし‑ム

寓意画がそれである [図版参照]22)

画面の左半分では、ひ とはまだ開いた聖書を前に、神の創造 した大地にひざまず き、雲の上なる 天の父にむかって 「キ リス トを愛することは/すべてを知ることにまさる善である」(Christum lieb haben/istbesserdennalleswissen.) と祈 っている。同 じ図像の右半分では、開いた書物 と天球 儀を足元 に、観測器異を手 に して立 ち上が ったひ とが、「天体は神の栄光を物語 る」(DieHimmel erzehlendieEhreGOttes.) とつぶやきなが ら空を見上げて宇宙の秘密を説 き明かそ うとしている。

(7)

しか しよ く見ると、 じつは二人は同一人であって、両者を象徴的にへだてて図像の中央には 「知恵の 木」が立 っている。「知」によって人間が古い 自分 自身か ら変身を遂げようとしていることが、 ここ には象徴的に示 されている。キ リス ト教的な寓意画では 「知恵の木」につきもののア トリビュー トで ある誘惑する 「蛇」の姿は、むろん、描かれていな。「16世紀にはまだ悪魔の熔印を押 されていた 好奇心 (Ftirwitz) 価値評価抜きに言えば、目的に とらわれない (curiositas)は、近代科学の普 遍的な原理 となった」23)

18世紀、理性と啓蒙の世紀には、「古い世界」と 「新 しい世界」とが交錯 し、入れ替わろうとしている。

ほん らい二校の絵を 「知恵の木」をあいだに して同一の画面に収めた先の図像は、そのことを象徴的 に示 している。 ‑ グー トケも指摘するとお り、「伝承がそれ までつ くり上げてきたように、知識を 渇望する者が悪魔にさらわれねばな らぬ とい うのは、 レッシングにはまった くの撞着であるにちがい ない24)。当初、伝承にな らって 「悲劇」 として構想 された 『ファウス ト』は、 じきに必然的に行き 詰 まらずにいないであろう

4

問題は これだけに とどまらない。A・ヘ ンケルのい う 「近代のあ らゆるファウス ト文学にとっての 難事 」、悪魔 との契約の問題が残 されている。ヘ ンケルによれば 、「どんな (ファウス ト)にも同時 に (相方)が ‑ 悪魔ない し悪の存在がつ きものだった」25)とい う た しかに、伝統的な民衆劇や 人形芝居のファウス トにな くてはならない地獄や悪魔を どう扱 うかは、理性の時代の作家にとってひ とつの難問にちがいない。マーラー (フ リー ドリヒ)・ミュラーの伝えるところによれば、1777年、

マ ンハイムで出会 った際に自作の 『ファウス ト』原稿を見せたミュラーに、 レッシングは 「対象を大 衆向きに、まじめに とい うよ り反語的に扱 っている」のを褒め、 こう語ったとい う

悪魔がすでにひ どく信用を失 っている今 日のような時代に、 この素材を真実 らしく表現するよう に とらえ、ダンテが 『神曲』で、 クロツブシュ トックが 『救世主』でや ったように、ま じめに説得 した り、事柄そのものへの信頼を呼び起 こそ うとするものは、きっと失敗 し目的を達することはな いだろう。 26)

この見解 とじかに関わるものか どうか、一時期、 レッシング自身 「悪魔のいない」「あ らゆる悪魔 的行為 (Teufelei)な しの 」27)ファウス トを試みた らしい。彼のファウス ト構想の第二段階である。

‑ 本人か ら聞いたとい う、同時代の人のわずかな証言を総合すると、そ こでは 「一人の大悪党が罪 のない男に対 して黒い誘惑者の役回 りをつ とめる」(ゲブラーによる)28)。悪魔は登場 しないが、た だ 「いろんな事件が じつに奇妙に相次いで起 こることになってお り、観客は どの場でも、(これはサ タンが仕組んだものだ) と叫ばずにい られなかったろう(ミュラーによる)29)とい うものである。

自明の存在ではな くなった悪魔に代わ り、極悪人が知識に飢えた学者を破滅に導 くとい う第二の構 想 も、けっきょく実行に移されぬまま放置 される。 ところで、その ときレッシングが直面 していた問 題の本質は、見かけ以上に深い ところにあった と思われる。「信用を失 っていた」のは、悪魔だけに

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限 らない。「悪」そのものの存在が危 うくなっている。第一段階の構想に属するが、『ファウス ト断片』

の中で唯一仕上げ られた形で残 された ‑ 例の 「第十七文学書簡」に発表 された ‑ ファウス トと 七人の霊」の場では、ファウス トが呼びだ した地獄の霊たちに対 し、 自分にふさわ しい相手を選ぼ う

‑ド

と、「速さテス ト」(Geschwindigkeitsprobe)を試みている。

ファウス ト 霊たち全員 ファウス ト 霊たち全員 ファウス ト 霊たち全員 ファウス ト

おまえたちか。おまえたちが地獄でもっとも速い霊なのか。

そ うだ、おれたちだ。

おまえたち七人 とも同 じように速いのか。

いや、ちが う

では、おまえたちの うち、いちばん速いのはだれだ。

それはおれだ。

こいつは奇妙だ。七人の悪魔の うち六人 までが嘘つきとは。

‑ おれは、おまえたちをもっとよ く知 らねばならない。 30)

問われるままに霊たちは、つぎつぎに自分の速 さを誇示 しようとする。いわ く、ペス トの矢の速 さ、

風の翼の速さ、光線の速 さ、人間の思いの速さ‑‑。いずれもが、十分に速い とは思えない 「満足す ることを知 らぬ人」31)によって退 け られ るのだが、霊たちの速 さを験す このモチー フ自体は、 じつ は レッシングの独創ではない。 シュピース版の 2年後に出た 1589年版 Fヒス ト‑ リア(いわゆる

CZa版)で追加 されたエルフル トの逸話にすでに原型が見 られ、32)その後人形芝居や民衆劇にも取 り 入れ られて、いわばファウス ト伝承の定番 となっているものである (レッシングもそ うした民衆劇の

しんめん =̲く

ひ とつによってこのモチーフを知 った と思われる)。‑ む しろレッシングの真面 目は、あ らたに彼 が付け加えた箇所、 このモチーフの結びにあ らわれている。そ してそこには、 レッシングが抱えてい た固有の困難 もうかが うことができる。

ファウス ト (第七の霊にむかって) ‑ おまえの速さは どうだ。

第七の霊 善か ら悪への移行ほど、それ以上でも以下でもない。

ファウス ト しめた ! おまえがおれの悪魔だ。善か ら悪への移行ほ ど速い とな。 ‑ た しか に、そいつは速い。それ以上に速いものはない。‑‑・善か ら悪への移行のように だと ! おれは、それが どんなに速いかよ く知 っている ! それな らおれは経験 ずみだ !33)

最後にファウス トは、人間が善か ら悪へ と移行するときほ どに速い とうそぶ く霊を選ぶ ことになる が、 ここにはモラリス トに して合理主義者 レッシングの困難な立場がはっき りあ らわれている。 とい うの も、M・フイクによれば、「いわゆる悪魔たちの (速 さテス ト)において、 レッシングは善 と悪 の近 さを主題に している 」31'。それは、R・ペ ッチュが 「同 じ行為 も異なる視点の下では善にも悪に

(9)

も見える」35)と言 うほ ど簡単な問題ではない。F賢者ナ‑ タン』のサラデ ィンは 「わ しは これで も、

どうい う欠点か ら人間の美徳が芽生えて くるか、心得ているつ もりだ」(4幕第4場)36)と述べるが、

人間の長所である (美徳)とその く欠点)とが緊密に結びついているところで、はた して絶対的な (悪) の具現である 「悪魔」は存在できるのか ‑ 同 じ見地か ら、問題の場を子細に検討 して、ヘ ンケル はつぎのように解釈する。

ファウス トが 「おまえがおれの悪魔だ !」 と叫ぶ とき、アクセン トは多分 (おれの)に と同 じく らい (おまえが)になければな らない。が、この悪魔をわがものに しようとすれば、まさに悪魔が 否定される。 この悪魔の答えが、およそ (悪魔)を可能にする条件たる道徳的二元論を廃棄 してい るとすれば、いかに してこの悪魔がフアウスの悪魔た りうるか。む しろ要諦は、伝統的な二元論は もしか した ら無意味だ、 とファウス トが考えてもおか しくない経験が確認 されたことで、悪魔の存 在が廃棄 されていることなのだ。 37)

フイクの的確な要約によれば、「レッシングにおけるように、世界 プランの中で形而上的悪がもは やまった く許容 されない とすれば、その とき悪魔の形象は不確か (problematisch)になる」38)。比倫 的に言えば、そ こではファウス トは、メフィス トな しで切 り抜けなければな らない。構想全体を規定 することになったこの最初の場面によって、 レッシングは 「古い伝説のその先の扱いを、(不可能に) とほ とん ど言 えるほ ど、ひ どく困難に した」39)。Fファウス ト断片』 にあ らわれる悪魔たちが ‑ ゲ ーテのメフィス ト‑フェレス と比べるまでもな く‑ およそ精彩を欠いた影の薄い存在であるのは決

して偶然ではない。

伝えられる打開策 も、む しろレッシングが直面 していた困難を正確に反映 したものであるように思 われる。構想の最終段階について、 レッシングのテクス トはやは り残 っていないが、同時代の三人の 友人がかな り詳 しく報告 している。その (本質的な点でほぼ一致 している)報告によれば、 レッシン グは最後にそれまでの構想か ら一転 して、「悲劇」に終わ らないファウス トを模索 している ‑ 。

舞台が古いゴシック式の教会に集 う悪魔たちの集会で幕を開けるところは、最初の構想に戻ったよ うにも見 える (この点では、残されたシナ リオの 「序曲」 と一致 している)。神の創造世界を破壊す るためにどんな悪事をはたらいてきたか、悪魔たちがおのおの頭 目のサ タンに報告するなかで、ある 悪魔が 「地上にひ とり、 どうにも手に負えない男を見つけた」 と言 う その男には 「ただひ とつの衝 動 ‑ 学問 と知識への癒 しがたい渇望 しかない」 (ブランケンブル クによる)40'。そいつが民衆の指 導者にでもなったら、われわれに とって危険きわま りない。神か らその寵児を奪 うことを思いついた が、彼には 「つけいることのできる弱点が見 当た らない」 (エ ンゲルによる)Jl'。 ‑ 男に人並みは ずれた旺盛な知識欲 (wi肋egierde)があることを確かめると、サ タンは叫ぶ。「しめた、そいつは もうおれのものだ。永久におれのものだ。ほかの どんな情熱をもっているやつよ り確実におれの もの

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だ」 (ブランケンブル クによる)42)

神の寵児」がファウス トその人であることは言 うまでもない。 この後、ファウス トを誘惑する指 図を受けた悪魔 (メフィス トフィレス ト呼ばれている)は出発 し、つづ く諸幕でこの仕事を遂行する (これについての具体的な記述は一切欠けている)。‑ ブランケンブル クの覚え書はつぎのように結 ばれている。

‑ 要するに、悪魔の軍勢は彼 らの仕事を成 し遂げたと思 う。彼 らは第五幕で勝利の歌を うたい 始める。 ‑ と、その とき不意に、 しか しごく自然に、そ して誰 もを安心 させるふ うに、天上から あらわれた天使がその歌をさえぎ り、彼 らに向かって叫ぶ。 「勝ち誇 るな。おまええたちは人間 と 学問に勝ちは しなかった。神は人間を永遠に不幸にするために、 もっとも高貴な衝動を与えたので はない。おまえたちが見たもの、いま手に入れた と思 っているものは幻影 (Phantom)にすぎな いのだ。」 43)

記憶にもとづ くエ ンゲルの再現は、肝心な ところで微妙に食い違 っている サタンの計画にい ち早 く気づいた天使は、ファウス トを深い眠 りに陥 らせ、代わ りにファウス トの幻影をつ くりだす。

悪魔たちが この幻影を相手にさんざん誘惑を試みたあげ く、ついに確実にわがものに しようとする瞬 間、幻影は消えて しまう。「幻影の身に起 こったことはすべて、眠 っている現実のファウス トが見た 夢である。悪魔たちが不面 目さに憤 って遠ざかった とき、ファウス トは目を覚 まし、 このような教訓 に満ちた夢によって警告を与えようとして くれた摂理に感謝する。 ‑ 彼は真理 と徳において以前に もまして堅固になる」44)

現実の悪魔の軍勢がファウス トの 「幻影」をつかまされるのか、地獄の軍勢は現実のファウス トが 見たただの 「夢」なのか ‑ エ ンゲル との会話を 日記に書き留めたミュンタ‑は、悪魔の集会 とファ ウス ト誘惑の計画、それに対す る天使の救済策を素描 したあ と、「現実のファウス トはこうしたすべ てを夢の中で見ている」 と端的に記 している45)‑ 、いずれに しろ、悲劇の回避が最終段階 (すな わち第三)の構想における核心的な契機であるのはまちがいない。エ ンゲルの報告では、最初の場の 終わ りに早々 と、姿は見えぬが廃嘘の教会の上方にあ らわれた天使が、「(おまえたちに勝たせは しな い !) とい う厳かな、 しか し穏やかなことばで」46)サタンの野望の虚 しいことを告げることになって いる

文学史的に言えば、「ファウス ト素材の歴史の中で、 ここには じめて救済の理念が暗示されている」

(H・へこ ング) とい うことになる。 ファウス ト文学の系譜において 「救われるファウス ト」を造形 した ‑ 厳密には 「造形 しようとした」 ‑ 最初の試み、 とい うわけである。 ことばを継いでへこン グは、「悪魔のほ うが欺かれたのだ。 このモチーフには人間への、人間の偉大さ と神 との類似性への 啓蒙主義の信念が表現されている。‑‑人間精神の勝利への信頼は、悲劇的な結末 とは一致させ られ ない」 と続けている。 47)

しか し、本当にそ うだろうか

た しかに、「夢」や 「まぼろ し」 とい ったモチー フの導入によって肝心の 「救済」が弱め られ、唾

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味になったのは否めない。少な くとも、さまざまの誘惑の試みはすべて 「幻影」の身に起 こったこと で、眠っていた生身のファウス トには何の罪もない とい うのでは、いかにも説得力に乏 しい。現実に 危険な悪の誘惑にさらされ、罪を犯 し、絶望の淵に沈んだ末で こその 「救い」であろう。「夢」によ る解決についてH ・A・コルフが、「その限 り、 レッシングが ファウス トの救済に注 目した最初の人 であるとい う主張はそもそもひ とつの伝説である。 とい うのも、 レッシングは彼の主人公を (少な く ともひ とつの報告によれば)実際に結ばれた悪魔 との契約の結果か らではな く、悪魔 との契約の締紘 か ら救 っているにすぎない」48)と言 うのも充分に根拠がある もっとも、ここで問お うとするのはそ のことではない。 ‑ 人間性 と人間精神に寄せる啓蒙主義の信頼は疑 う余地がない としても、それで

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ファウス トは救済されるのか。「救われる」のは、本当にファウス トなのか。

これまで話題に してこなかった (飛行) とい う観点か らレッシングのファウス ト構想を眺めると、

様相はいささか違 って見える。 とい うのも、 レッシングのファウス トは 「飛糊」 しない。 ここにある のは、いわば最後 までついに 「飛ばない」ファウス トなのだ。例えば、ファウス トによって天空への 衝動が語 られることはない。いわんや、彼が地上 とい う 「人間的な」領域を超えて、外の世界を行動 によって目指 した りは しない。そもそもファウス トの求める知の内容が :ヒス ト‑ リアよにおけ るよ うに ‑ 具体的に述べ られ ることは一度 もない。 「思索に耽 る孤独な青年」は 「ひたす ら真理に 身を捧げている。呼吸するのも感 じるのもただただ真理のため、真理に対する情熱のほかは どんな情 熱 も拒んでいる」 (エンゲルによる)49)彼には どんな情欲 も、 どんな弱点 もない。‑‑‑あるのはた だひ とつの衝動、ひ とつの傾向 ‑ 学問 と知識への癒 しがたい渇望だけである」 (ブランケ ンブル ク による)50、。 むろん、この青年が最高の美の化身、異教の女へ レナへの憧憶に とらえられることはな い。「神の寵児」は、富や快楽、権力 といった一切の価値を求めて、「神 となるために」 (マ‑ロー)31)

魔術に手を出 した りは しない。悪魔たちが 「どうにも手に負えないつけ るすきがない」と言 う のも無理はないである ‑ だが、人間の限界を超 えて舞い上がろうとし、そのためには悪 と結ぶ こ

とも辞さなかったのがファウス トな ら、繰 り返すが、これはファウス トなのか。 52

グー トケが提起 した問いも、結局、同 じ問題に帰着するように思われる。 ‑ 夢か ら覚めたファウ ス トは 自分が罪を犯 さなか った ことに安堵 し、警告を与えて くれ た摂理に感謝す る とされている

何に対 しての警告なのか」 と自問するグー トケは、「あきらかに真理の追求に対 して」 と答えざるを えない。 しか しそれは彼 も言 うように、「新たなパラ ドクス」である。知識欲が神が人間に与えたも っとも高貴な衝動であるとい うな ら、「どうしてそれに対 して警告することができるのか」53'

このパラ ドクスの解決は、通例、 レッシングが残 した 「シナ リオ」の中の 「命題」に求め られてき た (現にそ こには、「この命題に従 って、ファウス トを誘惑 しようとする悪魔はその計画を練る」 と 書かれてもいる)。すなわち、「度の過ぎた知識欲はひ とつの欠点である。そ してあま りにそれに執着 すると、ひ とつの欠点か らあ らゆる悪徳が生 まれて くる」 (序曲)51) ‑ 要するに、知識欲その ものが問題なのではない、それ 自体はポジテ ィブに評価さるべ き知的欲求に対する誤 った関係、「

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度」 こそが問題だ とい うのだ。いわ く、「(もっとも高貴な衝動)を正 しく用いない者、ま してそれを (絶対化す る)者 は、悪魔の手に落ちる「レッシングに とって肝要なのは、正 しい節度 と認識衝動 を行使するための限界である」(グリム)55)

あるいは、そ うであるかもしれない。ただ、繰 り返すが、やは りファウス トに 「節度」は似合わな い。およそ人間に定め られた限界を超 えて 「飛期」すること、そこにファウス トのファウス トたる所 以があ り、その偉大 さも悲劇 もまたあったのではなかったか。「飛ばない」ファウス ト‑ それ こそ まさに自家撞着ではあるまいか。

いや、ファウス トはやは り飛んだのだ、ただ し彼の 「夢の中で 」。そ してその 「教訓に満ちた夢」は (本来の意図か らすれば)‑ 劇場は精神世界の学校 となるべきである」56)と考えるレッシングの観 客に とって、およそ彼の演劇がそ うであるように ‑ 満足を知 らぬ人」を克己 と自制の義務へ と目 覚めさせ る 「警告」 となるU ・ガイア‑の ことばによれば、悪魔 と結んだ魔術師ファウス トの古い 物語は 「現実のファウス トの覚醒によって批判的に克服される」57)はずであった。

どんな 「ファウス ト」にもその素材を扱 う時代の精神が否応な く映 しだされるとすれば、 レッシン グの 『ファウス ト断片』 もその例外ではない。バロック作家カルデロンぼ りの く夢)のモチーフを借 りてで もフ ァウス トを救お うとした ところに、む しろ、(知) と理性 に全幅の信頼をお く 18世紀啓 蒙の精神の反映を見るべきだろう そ して、長年にわたるファウス ト素材 との格闘 と挫折には、正統 の 「時代の子」 レッシングの立 っている困難な位置が象徴的にあらわれている。作品の不成立に触れ Gマハ‑ルのつぎの ことばは、(い くらか手厳 しいようでもあるが)肯索に中っていると思われる。

説明 し難いものや不可思議で超 自然的なものを拒む啓蒙主義的合理主義、要するに、人間的で 地上的なものだけに甘ん じようとする生き方は、結局の ところ、天国 ・地獄の二元論に生命を得てい る素材を許さなかった」58)

た しかに、断片に終わった レッシングのファウス ト構想を批判 し、その欠陥をあげつ らうのは容易 である。例えば、そこにはゲーテのメフィス トのような複雑で精彩ある 「悪魔」 もいなければ、おの れの胸の内なる 「二つの魂」の相克に悩む、深い内面を備えた主人公にも欠けている。 レッシングは、

いまだ (悪)を内面化 し、問題の二元論を人間存在その ものの うちに兄いだす までにはいたってい ない。 またファウス ト形象が本来 もつデモーニ ッシュな面への理解を欠いていた彼は、「ファウス ト 的志向 (Streben)をまだまった く く知識欲) ととらえ、ゲーテ的な ‑ アウル ファウス ト±の中に すでにはた らいている ‑ 全人的な志向 とは とらえていない」 (グー トケ)59)等々。 ‑ にもかかわ らず、啓蒙主義作家 レッシングのファウス トとの格闘は、ファウス ト素材がその 「世俗化」60)の過程 で どうしても経なければな らない道程であった。

飛ばない」ファウス トもまた、疑いな く、時代の精神のすがたを映 しだ している特異な ドキ ュメ ン トなのである。

参照

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