東歌の形成 : 『萬葉集』における「あづまうた」
の成立
著者 廣岡 義隆
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 14
ページ 13‑40
発行年 2003‑06‑22
URL http://hdl.handle.net/10076/6599
東 歌
の
形 成
‑
『高菜集』における「あづまうた」の成立
○キーワード=東国方言、靴音、枕詞、訳語(通事)、土蜘妹
………主要五項
蝦夷語、東国固有語、外来語、国府の宴、和
歌の学習 ……・⊥一次五項
一、はじめに
当誌前号で、私は防人歌の形成について考究した(注1)。
防人歌は幾度か持たれたであろう送別の宴の場を中心にして
成立した。その宴の場での作歌は、日常の言語が駆使されたの
ではなく、都ことばによって、都の歌のスタイルに合わせて作
成された結果に他ならないということを論じた。即ち、今見て
いる防人歌は純粋な部の歌声ではなく、これは東国の人々が都
の
「やまとうた」という様式に努力して合わせた学習結果であ
廣
同義隆
ると見た。「東国方言」とされている「ことば」も、現地の言語
そのものではなくて、都ことばの靴音現象に他ならないとした。
この防人歌に関する形成試論は、当然ながら、東歌の形成に
も関わって来る。東歌の形成が説明できると防人歌の形成を補
完する側面があり、その意味で車の両輪の性格がある。
以下は、巻第十四の萬葉東歌の成立について、巻第二十の防
人歌同様に、都ことばによる「やまとうた」の学習結果に他な
らず、ダイレクトな静の歌声そのものではないと考察するもの
である。
l「倭歌の様式
東歌の考察に入る前に、倭歌(やまとうた)の全般について見
わたしておこう。
13
倭歌(和歌)とは、都ことば(やまとことば)によって詠むもの
であるという暗黙の了解が存したもののようである。別の言い
方をすると、原則として異言語を排除する内的規範を保持した
スタイルが倭歌の様式であったようである。
2‑1枕詞から
かつて枕詞の一覧表を作成したことがある(注2)。作成以前
の段階にあっては、語義上解明しがたいと思われる枕詞の中に
は、相当量の古代朝鮮語等が浪入しているのではないか、など
と思い描いていたが、枕詞一覧表を作成して判明したことは、
基本的にやまとことばの言語様式に依拠しているということで
ある。古代執鮮語の実態が明らかではなく、現在「やまとこと
ば」であると思っている中に古代朝鮮のことばが入り込んでい
るかも知れない(後述する「郡」など)。しかしそれらは既に「や
まとことば」化した中にあるものであり、そうした一部の
「摂
取語」(倭語の中に取りこまれた外来語という意味で摂取語と呼ぶ)を
含めて広義の「やまとことば」として見て行くことをあらかじ
め断っておく。即ち、枕詞というスタイルにおいて、言語様式
として、「やまとことば」で統一されていることが判明するので
ある。
その枕詞一覧表に基づいて、その類型を掲げると次の通りで
ある。 【・……‥の型】【用言型】【………と型】【………に型】【………を型】【……やし型】【……よし型】【未詳】 一七二語
八〇語
三語一語
一九語
五語一語 六語
【体言型】
【………て型】
【………ゆ型】
【……がり型】
【………や型】
【……をし型】
【……なす型】 八七請
一語四詩 七簿一語 一語
一〇請
全三九八語
かつての注2の稿では、枕詞の一覧を提示しただけであった
ので」今、その類型分析を略述する。
【の型】は、「あしひき叫」のように末尾に「の」がある枕詞
であり、枕詞三九八語中一七二語を有し、全体の四三パーセントを占めている(用例敷から見ると全一七二九例中九六四例となり、
五六パーセントになる)。その大半は、「秋風の」のように、その
語構成が明らかであるが、「さしすみの」のような難解語であっ
ても「サシスミ+の」という形で「…の」の様式に包含されて
いる。
被枕(‑‑被枕詞)への接続は、「の」の多様性(主格・連用格・連
体格、等)そのままに、体言へ接続するもの一〇一例、用言へ接
続するもの九四例、形状青へ接続するもの一例、副詞(副詞句を
含む)へ接続するもの九例となっている。その被枕の認定は、「枕
詞一覧表」が依拠した橋本達雄氏「万葉集枕詞一覧」(注3)に
よった。例えば枕詞「あきやまの」の被枕については、「したふ」
(動撃と共に「色なつかし」(形容詞)があり、共に被枕は用言と
なるが、この被枕の後者を「色」と認定すれば体言にかかるこ
とになる。また、枕詞「いめひとの」は「伏見」という地名(体
言)にかかっているが、「いめひとの」を「射目・人・の」という
語構成と理解し、そのかかり方の機能を重視すれば「伏す」と
いう用言にかかることになる。こうした被枕の認定については
全て「万葉集枕詞一覧」に依拠し、機械的に処理した。以下、
断らない限り、原則としてこの方式によった。挙例のケースは
「色なつかし」「伏見」がその被枕になっている。
ある一つの枕詞の被枕が体言・用言・副詞などと、多様にか
かって行くケースがあるが、それも「万葉集枕詞一覧」の認定
のままに重複カウントした。
【体言型】の八七語は、普通名詞五六語、動物名一〇語、植
物名一五語、地名六語からなっている。一部に「いなうしろ」
のような難解語を含んではいるが、大半は「あが心」(被枕は「あ
かし」(地名「阻石」))のように、その語構成は明解である。動物
名は「家つ鳥」(被枕「翠)など、植物名は「秋柏」(被枕「潤和
川」)など、地名は「蛸島」(被枕「大和」)などである。
【用言型】は、「あかね剥」「あから叫引」「あしが引引」な
ど、末尾に用言がくる枕詞で、主に体言を修飾してゆく形式で、
被枕の九割が体言となっている。【て彗は「射目立て可」など、【と型】は「今日今日とl」、
【ゆ型】は「山の際朗」で、いずれもそのかかり方の基本は連 用修飾億である。ここに連用修飾態としたのは「山の際ゆ」
の
被枕で説明すると、被枕「出雲」(地色
の
「出づ」という用言
性に冠していることをさしての呼称である。
【に型】は、「妹が家相」など、【がり型】は「妹ら綱引」(「が
り」は「〜のもとへ」の意)で、それぞれ下の被枕へ連用修飾して
行く形式である。
【を型】は、「妹が手剖」等の「体言+を」・の形であり、この
「を」は格助詞の場合もあれば間投助詞の場合もある。そのいず
れのケースも体言にかかつている。しかしながら、この「を型」
の約八割は連用修飾態となっている。即ち、「妹が手を」は「取る」の意から「取石」(地色に接続しているといった類である。
【や型】【やし型】【をし型】【よし型】は、いずれも間投助詞
「や」「やし」「をし」「よし」が語末に来る型である。【や型】は、
「たらちし句」以外は、「や」を除外すると「用言型」になる。即
ち「あまてる倒」は「あまてる」とその表現価値は大きく異な
らない。なお「たらちし」(被枕は「母」の一例)は、「未詳」に分
類している六例の内の一例である。【やし型】の「うちそ嘲u」
は、「体言型」に分類した「うちそを」とその表現価値は大きく
異ならないものであり、共に名詞「麻績」(用字は「麻績」)に冠
している。このかかり方の詳細は未詳であるが、「溝む」という
用言態に冠するものであろうと考えられる。【をし型】の「あち
かを暮しl」は、同音の「智可」(地名)に冠している。【よし型】は、「あさもよ封uJ「ありね封uJ「あをによlしlJ「たまも封uJ「ます
ー15‑
が封u」の五語で、被枕はいずれも地名である。これらの「よ
し」は本来間投助詞に由来するものと考えられるが、その表記
は仮名書き例以外はいずれも「吉」「良」で凄示されており、賛
美の「良し」と語義が理解され、その被枕の地名に冠されてい
るものと理解できる。
【なす型】は、体言に「〜のように」の意の「なす」を接し
たものであり、直喩で修飾して行く形式である。
以上、未詳の語を若干含んではいるが、枕詞をその類型から
見て行くと、基本的に都ことば(やまとことば)の言語様式に包
摂されるものであると見ることができる。異言語がダイレクト
にその存在を主張してはいないのである。
2‑2漢語等から
次に、漢語等の問題について瞥見しておこう。「やまとうた」
の中に原則として漢語等が使用されることはないということは
古くから指摘されている。例外的に詠みこまれている漢語の例
は以下の通りである。
『萬葉集』の巻第十六以外では、次の四語である(ただし、「梅」
(有米・烏梅)など、倭ことばとして定着していたと思われる摂取誇の例
は省いているー後述)。
「餓鬼」(4・六〇八)、「布施」(5・九〇六)、「退所」(15・三
七五四)、「朝参」(18・四一二「「まゐり」等と馴めば除外)
巻第十六は「衆愚の世界」(注4)などと称され、日常の歌々 を載せる巻としてよく知られているが、この中に次のような漢語の存在が指摘されている(注5)。
「筆六」(16二二八二七、三八三八)、「香」(三八二八)、「力士」
(三八三一)、「法師」(三八四六)、「女餓鬼」(三八四〇)、「男
餓鬼」(三八四〇)、「無何有」(三八五一)、「義孤射」(三八五こ、
「功」(三八五八)、「五位」(三八五八)
これに音夷」(16・三八五五、「さひかち」と訓めば除外)と「一・
二・三・四・五・六」(16・三八二七、注6)の事例が追補出来る。
また、仮名書きされた字音語に「佐叡」〔采〕(16二二八二七)が
あることも指摘されている(注7)。
佐伯梅友氏には次のような指摘がある。
「馬」「梅」などは漢語から束たものであつても、よほど古
くその物と共にとり入れられ、萬葉集時代には、既に外爽
語だという意識も無かつたのであろうと思われ、…。(注且
同様の指摘は、「絵」「竹」にもにもある。
(防人歌、四三二七番歌の)ヱ(画=絵)は、字音語乃至漢語であ
る。この様な外来語は、彼の音数詞と共に早く和語の中に
浸透して、日常化していたものであろう。馬(ウマ)・梅(ウ
メ)・竹(タケ)等も集中に詠みこまれているが、もはや漢
語とはいえない性質のものである。(注9)
また、梵語の例として、次の語が指摘されている(注10)。
「塔」(16・三八二八)、「檀越」(三八四七)、「波羅門」(三八五
六)
これは現在の語源学から梵語と判明するものであり、当時は漢
語との区別が付いていなかったであろう。
金田一京助氏は、アイヌ語との関係について、春陽堂『萬菓
集講座』(言語研究筆の同氏論考の冒頭のリードに当る箇所で
次のような断り書きをしている。
講座から御依頼を受けた題は、「アイヌ語と萬葉集の歌」で
ありましたが、萬菓集中にアイヌ語が入って居らうといふ
ことは、私にはまだ考へられませんので、御ことわりをし
て、「アイヌの歌裔と萬葉集の歌」ならば、と申しましたと
ころ、それでも、私の専門畢科の関係上、依然として語草
の部に配されて居りますが、此は語草よりも寧ろ民俗畢的
見地からの小研究なのでした。どうか其の御含みで御覧を
頗ひます。(注11)
この翌年、金田一氏は「かには」の語について指摘している。
樺はアイヌ語では、k胃impa・すtと言う。tatは木の名で、
粁寛impaはぐるつと凍る意で、樺の皮は物を纏いたり、縛
ったりするのに用いる。普通アイヌはそういう用には、山
桜の皮を用いるので、山桜をkarimpa占iと言っている。
こうした皮で物を巻いたりすると丈夫になる。重藤の弓の
藤のように、弓を巻いて丈夫にするためには、山桜の皮を用いている完封相聞もて作れる小舟』(万葉)という歌があるが、射時間が、もし日本語で解けないならばアイヌ語の
k乾impaであろう。(注望 右の「かには」のことについて金田一氏は『園語の変遷』(注
13)でも指摘している。春日政治氏は、ケナシ(毛無乃岳。8・
一由六六)はアイヌ語に由来するとしている(注14)。
これらも比照研究からその可能性が指摘できるという例であ
り、当時のやまとことばの中にあって外来語と意識されていた
語かどうか、その判断はむつかしいものがある。
新井白石は朝鮮語について、次のように指摘している。
寺〔テラ〕と云ひし義の如き。不詳。或はこの昔初百済高麗
等の方言にや出たりけむ。其事亦不詳。(注15)
こうした朝鮮語については、井手至氏が次のように指摘して
いる。
朝鮮語は外来語として上代語の中に取り入れられることが
あったと思われる。しかし、国語と朝鮮語との間がらは、
同じウラル・アルタイ系の言語である可能性を説く説もあ
るように、語構成法や文法的構造において一敦する点が認
められ、部分的には音韻の対応例も存在するようである(市
河三善・服部四郎『世界言語概説』下巻、昭和三〇など)。したがこはりこなみ
しま
な(に)
むち
むれ(むろ)って、「郡・嫡妻・島・土地・村・山」など、国語が
朝鮮語に一致乃至類似する場合にも、これを朝鮮語からの
借用語と決定するには、その取り扱いに慎重な態度が要求
される。(注16)
以上、「やまとうた」に体言レベルにおいて若干の外来語を含
むことはあっても、基本的にやまとことばによって詠むという
‑17‑
内的規範を保持したスタイルが「やまとうた」であるというこ
とが出来よう。
このように見てくると、やまと歌を提出せよと命ぜられて提
出された防人たちによる歌は、基本的に防人たちが日常使用し
ていた言語においては表現し得なかったものであり、日常の使
用言語に慣れた口ではうまく表現できない音声によって、無理
して詠出した都ことばが靴語という形になって現在巻第二十に
登録されているものであると見てよい。同様のことは、東歌に
おいても指摘出来よう。しかし、当時の東国の言語実態につい
ては皆目見当が付かないのである。以下、これについて、若干
考察してみよう。
三、東国のことば
従来は、東歌や防人歌に見られる言語実態を東国方言と直結
させて見て来た。今、これを一旦棚に上げ、東歌・防人歌を考
慮せずに東国のことばの実相を探ってみよう。
311戸籍から
直木孝次郎氏に次のような発言がある。
ウジや部の名は、古代史のインデックス、見出し語である、
物語は虚構や造りかえがあるが、クジや部の名そのものは
かつて存在したものである、それを辛がかりに考えていけ ば、古代史を解明できる…・‥(注17)右は古代史の解明に関する発言であるが、これにヒントを得て、古代の戸籍に残る人名から古代東国のことばに関して、何らかの手掛かりが得られないか、検証してみよう。東国に関わる古代の戸籍として、「下線囲葛餅郡大嶋郷戸籍」(養老五年)、「下線園倉麻郡意布郷戸籍」(養老五年)、「下線囲紆托郡少幡郷戸籍」(養老五年)、「陸奥囲戸籍」皐月不詳)、「常陸固戸籍」(年月不詳)があり、いずれも『大日本古文書』(一)に収録されている。
この内、多くの人名を載せている「下線園葛餅郡大嶋郷戸籍」
(葛飾郡)で見てみよう。養老五年のこの戸籍には、重複カウントして男性名二九五例、女性名三五七例が見られる(注柑)。ま
ず注意されることは、暦が普及していたと思われる命名がある
ことである。
牛麻呂/刀良・乎刀良・真刀良・小刀良/小龍・龍麻呂/
荒馬/比都自・羊/佐留/鳥/犬麻呂/猪・子猪・猪麻呂
また、歌の普及に関わるかと推測されるウクマロ(宇多麻呂) の名が見られる。ただし、その「ウタ」の実態は不明である。
女性名は、全て「…メ」(…きで統一されている。この「…
メ」
の名が実態を反映しているものかどうかの判断はむつかし
いところである。
こうした戸籍の文字は官人による聞き書きの速記であろうと
推測され、同一人が別表記になっているケースがある。例えば、
「戸孔王部剥謝」として一家五人が記録され、次に「戸孔王部小
園」として一家七人が記録され、その「小国」条の脚注に「不
課戸、戸孔王部封筒従子」とある(父のコモロは五十五歳。従子二
十七歳は「廃疾」のため不課)。ここに「子諸」と「古語」という
同一人の別表記が指摘出来る。同様に「比都自」と「羊」、「弥
等」と「三止」が指摘出来る。こうしたことは『萬葉集』中に
も存在していて、異を唱えるほどのことではない。しかし右の
ことから、現地ではこれらの表記に関わることなく「音」
で理
解されていたものであり、それを宮人は現地での聞き書きのま
ま木簡に記録し、それがそのまま文書化されていったものと推
測出来るものである。
また、「戸主勲十一等孔王部猪」の例があり、「勲十一等」か
ら中央官制に組み込まれている証左が見られる。
男性名の中には、
志己夫・伊良都・夫与・布久理・麻佐利・止手・恵弥・毛
毛・古毛毛・奈鳥・弥等・古冨尼
というような中央語(都ことば)でどのように理解してよいのか
わかりづらい名が若干存在する(これらも、或いは「色夫」「郎」
「袋」「勝」「笑」「桃」「小桃」「寮」などの意で理解してよいとすれば、
例は減少する)。
女性名においても、その「膏」の称を除いて見てみると、
布与・古都・移乎・冨曽・乎皇・麻比伎・古奈麻都
など中央語(都ことば)でどのように理解してよいかわかりづら
い名が若干存在する(これらも、或いは「芥」「魚」「小手」などの意 で理解してよければ例は減少する)。
しかし、その多くは戸籍の人名においても既に中央の制に組
み込まれており、その命多言語も中央の影響を色濃く受けてい
る。その一端が生年の十二支名や女性名の「膏」から明らかに
なってくる。
その氏の名は「孔王部」で占められていると言ってよいが、
他に「刑部・三枝部・私部・中臣部・日奉舎人部・土師部・大
伴部・壬生部・長谷部二項部・石寸部・小長谷部・藤原部」が
あり、全てが「部の民」である。このことは養老五年の
「下線
園倉麻郡意布郷戸籍」(相馬郡)においても「藤原部・占部・土
師部・大伴部」であり、同年の「下線画餅托郡少幡郷戸籍」(香
取郡)においても「壬生部」である。また「陸奥囲戸籍」
の氏
の名においても「占部・大伴部・三枝部・君子部・丸子部・大
田部」とあり、「常陸園戸籍」の氏の名においても「真髪□(部)・
占部・久須波良・早部・丈部・物部・公子部・矢作部・ロロ部・
伴部・口伴部・ロ部・久須波良部・雀部」とあって、ヤマト王
権の部民に組み込まれた氏ばかりである。下総国葛飾郡大島郷
の孔王部については、安康(穴穂)天皇(倭の五王の一人)の都民
としての直属隷民に由来することが明らかにされている(注19)。
大島郷は皇室直轄地であったのである。「下線囲倉麻郡意布郷
戸籍」の場合、重複カウントしても男性名四二例、女性名二三
例にすぎないが、この戸籍の中にも「戸主少毅大初位下藤原部
直白麻呂」とあり、「大初位下」七いう位階を受けた「少毅」が
19
存在している。大毅・小毅は、軍団の指拝官であり、在地の豪
族層が任命されている。この白麻呂は四十三歳。なお、この白
麻呂の一家九名(より大家族と思われるが、九名の箇所で切断)は、
現在残る「下線園倉麻郡意布郷戸籍」の中で、「藤原部直」と姓
「直」をもっており、中央官制に繰り込まれた戸籍であることが
明白である。また常陸国戸籍中に見られる「久須波良」は後出
する「久須波良部」(葛原部)の略称であり、葛原部は藤原部の
忌避呼称として天平賓字元年(七五七)以降の称となり(『続日本
紀』同年三月乙亥条の勅)、「常陸園戸籍」の年紀が努常としてくる。
中央語(都ことば)でどのように理解してよいのかわかりづら
い名として、「陸奥園戸籍」の男性名に「加皇石」「古皇弥」「母
知」「古須」「波尼多」「伊須伎」「久比」、女性名に「久波自」「古
夜」があり、「下線園倉麻郡意布郷戸籍」の男性名に、「伊奈波」
がある。これらの中には、或いは、「蝦夷語」が混入しているか
も知れない。
以上、右で見た戸籍は既に中央官制に組み込まれて録されて
いるものである。裏返せば中央に統率されている故に戸籍が存
しているものであり、そこに載る人名からも、現地の言語の実
相を把握するのは困難であることが、明らかとなるのである。
このことは、稲荷山古墳出土鉄剣銘においても該当する。そ
の上祖はオホヒコ(意冨比鳩)とあり、これは大彦に相当し、始
祖名によく置かれる抽象的存在としての呼称と解することが出
来、この始祖名からして中央系呼称であると言えよう。続いて タカリのスクネ、テヨカリワケ、タカハシワケ、タサキワケ、ハテヒ、カサハヨ、ヲワケと続く。中にハテヒやカサハヨという中央語で解明困難な名が存しはするが、スクネ(宿祢)やワケ(別)などの中央系呼称があり、中央の影響下に成ったものと知れるのである。
3‑2「土蜘蛛」など、副次資料から
当時の地域言語(方言)の状況を明らかにするものとして『東
大寺諷諦文稿』がある。
各、世界に正法を講説したまふ者は、詞に得解元し。謂
はゆる大唐・新羅・日本・波斯・混裔・天竺(笠)の人集
まれば、如来は一昔に風俗の方言に随ひて聞か令めたまふ。
仮令、此の習
ガ葡(昔国方言毛人方言飛弾方言東国方言)、仮令、飛騨の国の
人に対ひたまふとも、飛騨の国の詞にて聞か令めたまふ。
(注20)
この『東大寺諷葡文稿』は、延暦十五年(七九六)以降、天長
年間(八二四〜八三四)までになったとされているものであり、
平安初頭の言語状況を浮き彫りにしている。ここに、唐・新羅・
天竺等の言語と並べて、毛人(蝦きの方言、飛騨の方言、東国
の方言が挙げられている。
また『萬葉集』には、「東」に冠する枕詞として「とりがなく」
の語がある。
・鶏之鳴吾妻乃園(2・一九九、柿本人麻呂)
・鳥鳴
東園
(9二八〇〇、田辺福麻呂)
・登利我奈久安豆麻(釦・四三三一、大伴家持)
など、九例の枕詞が『萬菓集』中に存している。これに関して
福井久蔵氏の「暁鶏の二撃二聾鳴くや東の方より赤くなりゆく
より東に冠らせたるなり」(注21)という解釈もあるが、橋本速
雄氏が「ことさへく」(被枕「韓」「百済」)、「さひづらふ」(被枕「湊」)
と並べて「東国人の言葉は外国人の言葉のように、鳥が鳴くようにきこえたので」か(注讐としているのが良かろう。都人
にとっては、東の国々のことばは鳥が噂っているさまに他なら
なかったというところから冠せられた枕詞と考えられる。
江戸期の越谷吾山(卜ぺ㍍七)は『物類称呼』の序において、
大凡我朝六十余州のうちにても山城と近江又美濃と尾張こ
れらの国を境ひて西のかたつくしの果まてみな直音にし
て平声おほし北は越後信濃東にいたりては常陸をよひ奥
羽の国々すへて拗音にして上声多きは是風土水気のしからしむるなれはあなかちに褒旺すべきにも非す(注警
と記している。越谷青山は「風土水気のしからしむるなれは」
として直音と拗音との東西対立を指摘している。江戸斯におい
ても東西の地域言語はこのように対立していた。ただし、この
江戸期は既に「やまとことば」という点で統一されていての上
のことである。それが律令制確立以前の段階においては、どの
ような言語状況であったのか、皆目見えて来ない。 しかし例えば、同じ三重県南紀地域であっても、尾鷲市と熊野市という大きな範囲ではなくて、八鬼山(標高六五三㍍)一つを隔てた尾鷲地区と九鬼地区(現、尾鷲市九鬼町)とは隔絶されていて、その八鬼山越えは「街道一の難所」(注讐とされていた。こうした状況が往時の実態である。峠つ山によって隔てられ、横流する川によって遮られ孤絶していたのが各地の様相であった。
『続日本紀』には、蝦夷に関する「訳語」の記録がある(注讐。
征討陸奥蝦夷、大隅薩摩隼人等、将軍巳下、及有功蝦夷、
井訳語人、授勲位。各有差。(養老六年四月十六日粂)
(陸奥なる蝦夷、大隅・薩摩なる隼人等を征討せし将軍巳
下、及功有る蝦夷、井せて訳語の人に、勲位を授く。各差
有り。)『日本書紀』には、新羅から人質として渡来した金多遂の従
者の中に「訳語一人」が見え(大化五年是歳粂)、「通草」とほぼ
同意と考えられる(雄略七年是歳条にも「訳語」の記録がある)。『続
日本紀』には天平二年の太政官奏に、「諸蕃異域は、風俗同じく
あらず。若し痢詞無くは、事を通はすこと難し」とあって、漢
語についての「訳語」養成が上奏されている。隼人は、朝儀に
おいて吠声を発することで知られ(『日本書紀』神代下、第+段一書
第二)、『萬葉集』にも「剖刃の名に負ふ硬膏」(u二面九七)と
出ている(注讐。この隼人に並べる形で、蝦夷の「訳語」
の記
録が出ているのであり、その実態は明らかではないが、金田一
21
京助氏の言う「蝦夷語」がここに努架として来る。
国史に見える司或いはヨの遣った言語はいかなるも
のであったろうか。…中略…、司についてはそうした記録
が皆無である。(注27)
さて、『古事記』『日本書紀』『風土記』には「土蜘妹」の存在
が録されている。土蜘蛛とは、
『摂津国風土記』の土鉄条に「偽者㍑㌣(=賊)とあり、中
央権力に服従しない土俗豪族の総称が土蜘蛛…下略…。
(注28)
と記した通りであり、中央からすれば逆賊に当ることになるが、
新興「やまと」の中央権力が煉据する以前の、地域に密着し地
域に根を張った原住民であったと見てよい。
こうした土蜘妹は以下のように見られる。
『古事記』中巻の神武天皇条には次のように出る。
到忍坂大童之時、生尾土l頚〔訓云具毛〕八十建、在其室待伊
那流。…中略…日、聞歌之者、一時共斬。故、明将打其出笥
之歌日、…記歌裔10…。如此歌而、抜刀一時打殺也。
(忍坂の大童に到りましし時、尾生ひてある土雲〔訓みてグモと云ふ〕の八十建、其の室に在りて待ちいl創るl。…中略…日
りたまひしく、「歌ふを聞かば、一時共に斬れ」とのりたま
ひき。故、其の土雲を打たむことを明かせる歌に日はく、…記歌謡10…。如此歌ひて、刀を抜きて一時打ち殺しきJ
『古事記』に見られる例は右の二例のみである。ここに「大 重」に居たとあり、岩窟の大きなものが想定できる。イナル(唸り声を挙げる)とあって、犬や狼の叫びのように描かれているが、或いは異言語が想定できるのかも知れない。
右には「尾生ひてある土雲」と記されている。『日本書紀』に
も吉野の「井光」について「光りて尾有り」とあるが(神武天皇
条)、敵対してはいないので「吉野首都始祖也」と記され、土蜘
妹とは記されていない。
『日本書紀』中には「土蜘妹」が九例見られる。これらには、
「新城戸畔」(神武即位前紀)‑
(神武即位前紀)、「青」「白」くにま
ろ
■血■r一.し
)ノーノl几r‑
一
ノ.。■‑∃.ノ.、.J」【...‑‑1し1.1ム■
「居勢祝」(神武即位前紀)、「猪祝」
(景行紀十二年十月粂)、「打復」「八田」
つ つち
たぶち「囲摩侶」(景行紀十二年十月条)、「津頬」嘉行紀十八年六月条)、「田油
津媛」(神功摂政前紀九年三月粂)と、名が録されているものがあ
る。これらは、中央ヤマト側からの命名であろう。
土蜘妹ではないが、吉野の囲模として次の記述がある。
今園模献土毛之日、歌乾即撃口仰咲者、蓋上古之遺則也。
夫園横着、其為人甚淳朴也。毎取山菜食、亦煮蝦蝶為上味。
名日羽嘲。(応神紀十九年十月条)
(今、国操、土毛を献る日に、歌ひ詑りて即ち口を撃ちて
仰ぎ咲ふは、蓋し上古の遣れる則そ。夫、国模は、其の為人
甚淳朴なり。毎に山の菓を取りて食らひ、亦、蝦膜を煮て
上味とせり。名づけて毛瀦と日ふ。)
ここには「淳朴」な国棟の独特の風俗が描かれているが、そ
こにモミなる語が記録されている。これを金田一京助氏は「国
栖の言語」としている(注翌。
むしろ『風土記』に土蜘妹がよく描かれている。三〇例が見
られ、変容に富む(常陸2、豊後u、肥前ほ、逸文5‑
『陸奥風土記』の例は計数外)。
昔、在国巣〔俗語、都知久母。又云夜都賀波岐〕、山之佐伯、野
之佐伯。普置据土着、常居穴。有人来、則入窟、而寛之。
其人去、更出郊、以遊之。狼性兵情、鼠窺狗盗。無被招慰、
弥阻風俗也。(『常陸国風土記』茨城郡総記条)
(昔、国巣〔俗の常に、ツチタモ。又ヤッカハギと云ふ∵山の
佐伯・野の佐伯、在り。普く土着を置け掘り常に穴に居め
り。人の来る有らば則ち窟に入りて覚る。其の人、去らば更
郊に出でて遊ぶ。狼の性、鼻の情ありて、鼠のごと窺ひ
狗のごと盗めり。招き慰へらるること無く、弥よ風俗に阻
てありき。)
クズと出、クズとはツチグモやヤッカハギの別名であり、ま
た山や野にサヘキが居るとして、これらは区別されていない。
穴居生活とその性情が活写され、都の風俗と大いに異なってい
たとある。こうした状況を見ると、都と同二言語であったかど
うか、甚だ疑わしい。
偽者土妹〔此人恒居穴中。故賜購親日土蛛〕。
にしもの
つね
(『摂津国風土記』逸文「土蛛」条)
と○となるな(偽者土蛛〔此の人、恒に穴の中に居り。故、洩号を賜ひて土
蛛と日ふ〕。) ここにも穴居生活と共に、ツチクモは蔑称であることが明記
されている。「土妹」の用字は「土蜘妹」の略された二字表記で
ある。
越固有人。名八掬脛〔其脛長八掬。多力太喝是土雲之後也〕。
(『越後国風土記』逸文「八掬脛」条)
(越の国に人有り。名をば八掬脛といふ〔其の脛の長さ八掬
なり。力多り太強し。是は土雲の後なり〕。)
右に出たヤッカハギは、土雲の後裔だと記されている。
また、九州の事例であり、ツチグモの称も使用されてはいな
\
やヽ【
ヽ
‑Vカ
神功皇后、…中略…鮨馬ノ峰卜申ス所ニオハシテ弓射給ヒケ
ル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ
ホリ出シ給ヒケレバ、男一人女一人ゾアリケル。
(『筑紫風土記』逸文関連粂。『塵袋』第七「何口」条)
と、穴居生活する土着男女が描かれている。
以上「土蜘妹」の実態をみることで、異なる言語の存在を想
定しようとしたものである。しかし、判然としないことに変わ
りはない。資料不足から判然としないのであるが、列島が均一
なヤマトことば圏であったとは到底思えない情況にあることも
また事実である。
井上光貞氏は「蝦夷が、既に一廃園家的統一の成つた大和国
家にとつて、異民族と考えられていたことは疑うべからざる事
貫であった」(注讐と言及する。これは五世紀末頃に関しての
‑23‑
発言である。先に言及したように訳語が必要であったことと併
せ考えて、ヤマトことばならざる地域が存していたと見てよい
であろう。ヤマトことばは、ヤマト王権の治世と共に普及せし
められ、また現地において吸収されていった言語であると考え
るのがよいであろう。
四、「東国特有話」の検討
右で私は、東歌・防人歌以外の要素から、当時の言語実態を
模索してみた。以下、東歌(防人歌)から、その言語について見
てみよう。
水島義治氏は東歌研究三部作中の『萬葉集東歌の国語畢的研
究』(注31)の第三飾において、東歌における方言的特徴につい
て、次の三種に分類している。
〔A〕所謂靴音・靴語と言われるもの
〔B〕東国特有語若しくは東国に残存せる古語と認められ
るもの
〔C〕上代特殊仮名遣の違例と認められるもの
この内、〔A〕〔C〕は音韻現象であり、〔B〕は語彙の問題で
ある。
右の
〔C〕について、かつて私は、次のような発言をしたこ
とがある。
(水島義治氏の)上代特殊仮名達の違例を一種の転靴現象と しての方言的特徴として取り上げるという方向は肯われるが、中央語においても徐々に甲乙類の区別が崩れてゆく中にあって、どの程度重視するかはむつかしいところである。水島義治氏作成の「東歌・防人歌に於ける上代特殊仮名遣
違例一覧」(『萬葉集東歌の国語畢的研究』巻末附表)によってみ
ても、「東歌」においては、甲類から乙類への乱れは九語十
一例であるのに対し乙類から甲類への違例は二十九語三十
九例と多く、これは甲類一元化への流れの中における数値
ではないかとみることもできる。(注32)
このように〔C〕(上代特殊仮名達の違例)の音韻現象を重く見
ることはないと思われる。東国方言としての最大の特徴は〔A〕
の靴りである。この靴りゆえに「東歌らしさ」が醸し出されて
いる。
安乎楊木能波良路可波刀ホ奈乎麻都等西美度波久末受多知
度奈良須母(14・三五四六)
これを都ことばに置き換えると、次のようになる。
青柳の張れる河戸に汝を待つと清水は酌まず
立ち
処ならすも(注讐
都ことばに置き換えてしまうと急に生気がなくなり、萎んだ
風船のように感じられ、ハラロカハトなどの靴りにこそ東歌ら
しさが見出される。この靴音現象について、私は前稿「防人歌
の形成」において、東国の人たちが日常言語によって歌を詠出
したのではなく、慣れない口つきによって都ことばを駆使しよ
うとした結果に過ぎないということを防人歌についてではある
が、指摘した。このことについては、鹿持雅澄の『萬葉集古義』
が東歌の巻頭歌粂において、『萬葉集略解』を駁する形で、
古に、東人の歌よみけむことは、たとへば今ノ世に、琉球
人などの、歌よむごとくにぞ有けむ、そは琉球人の、皇朝
畢に未熟が、彼ノ囲の語にてよみととのへたるは、むげに
つたなくて、聞えがたきふしいと多かるを、そが中に、皇
朝単にや〜長たるがよめるは、皇朝人の歌に、をさくお
とらぬも多きが如し、されば古の東人も、雅言をよく拳び
待たる人は、猶京人の作にも、立おくれざりしなり、
と、逆の現象ながら、同じことを指摘しているのである。
福田良輔氏は、
奈良時代の東国方言と中央語系古代語(西部古代語)との間
には、前章で述たように、その音韻現象、殊に母音現象に
おいて、決定的相違があったのである。このように東国方
言と中央語系古代語との間に決定的音韻現象の相違が存在
するのに反して、語法・語彙においては、東国方言と中央
語系古代語との間に著しい相違が見られないということは、
奈良時代東国方言の成立過程を考察する上に、重要な意味
を有すると思われる。(注聖
と、語棄及び語法においては、都ことばと異なることなく、た
だ靴音の現象に大きな特徴があることを指摘している。また大
久保正氏は、方言的特徴の認められない歌が東歌中、三四・九 パーセント弱を数えると指摘し(注讐、佐佐木幸綱氏も約三分の一は方言的要素を含んでいない(注彗としている。
このように見ると、東歌におけるもっとも東歌的な要素は、
水島義治氏のいう〔B〕、即ち、「東国特有語若しくは東国に残
存せる古語と認められるもの」ということになる。同氏はこの
「東国特有語」について、
(イ)東国に残存せる古語と考えられるもの
(ロ)全くの東国特有語と考えられるもの
(ハ)古語かどうかは別として、語構成もしくは語形の上か
ら全くの東国語と考えられるもの
(ニ)語基が中央諸にも存するもので接尾語が東国特有の
もの
とし、(イ)(ロ)をA、(ハ)(ニ)をBとして、二類四種に大
別している(第三章第六節「東歌に於ける東国特有語についての考察」)。
しかしながら、水島義治氏は品詞別五十音順にそれらの語を配
列し考究し、慎重な余りに歯切れが悪く、氏の結論はどうなの
かがわかりにくい語まである。
以下において、水島氏が東国特有語として挙げた語について、
その類種別に検討する。
〔名詞・代名詞〕
(イ)残存古語
あず・あずへ〔崩岸(辺)〕/すかへ〔砂丘
‑
辺・洲処辺〕/うけら〔をけら〕/しだ〔時・折〕/ひじ〔洲〕
/かりばね〔切株・刈柁〕
‑25‑
これらは、古辞書(『新撰字鏡』など)で確認出来たり、方言周
圏論で説明出来る語であって、水島義治氏の指摘通り、一往は
残存古語と諷めてよい。ただし、萬葉の時代に既に古語であっ
たのかどうかはむつかしく、偶々『萬菓集』に中央語として載
っていないだけである可能性もあり、「残存古語」というよりも
都ことばとして認定する方がよいであろう。「あず」について
は、都ことばの「安驚」(崩岸、は二ニ〇四六)と同語と認定する
解もある(注37)。
「かりばね」については難解で、水島氏も「「カリ」は「刈り」
であることは確かであるが、「バネ」はよくわからない」とし、
「「刈り」は勿論中央語であるから「刈りばね」は東国に残存し
た古語と考うべきであろうか」としている。
(ロ)東国特有落丁‑‑まま〔崖・土手】/手児・手児な〔をと
め〕
「まま」について、水島氏は「あるいはアイヌ語とも関係があ
るかも知れないが残念ながら明確にし得ない」とする。純粋な
東国特有語と見てよい。しかし「てご」についてはどうであろ
うか。水島氏は「名義の原由についての詮索は不可能に近いと
言わなければならない」とする。「テ」の解はたしかに水島氏が
指摘する通りであるが、「コ」については都ことばにも少なから
ず存する娘子をさしての称「コ」であると見てよい。となると、
東国特有の語ではあろうが、東国固有語ではなく、都ことばに
因由する語と見ることが出来よう。 (ニ)東国特有の接尾語‑1妹なろ・妹のら・妹ろ〔妹〕/
児ろ・児な〔児〕/背な・背なな・背なの・背ろ〔背・背
子〕/手児な
接尾語が接する語自体は、「手児」の例を横におくとして、都ことばである。「ろ」は、「ら」奪)の靴音であろう。北条忠雄
氏は親称接尾語「ラ」と解してよいとしており(注讐、福田良
輔氏は「ろ」の記紀歌諦の例を指摘している(注翌。また「な」
系の語は副詞「うべ」に付く接尾語「な」と関係はないであろ
うか。上按語が基本的に都ことばであり、これらの接尾語も純
粋な東国特有語というよりは、都ことばが変容した姿と見てよ
かろう。
(a)全音節の靴音語
‑
おすひ〔磯辺〕
水島義治氏は「二音節以上の(靴りの)語については、その語
を構成する音節のすべてが中央語と異なっている場合はこれを
東国特有語と認め」たとする(「おすひ」の項)。この結果、同氏
は、「おしへ〔磯辺〕」については三音節中二音節の転靴と認め
て「靴音・靴語」〔A〕の中へ分類し、「おすひ〔磯辺〕」につい
ては三音節中三音節の転靴であるので、東国特有語としている。
イソへからオシへへの転靴を認めているのであるから、東国に
おける特有性は強いが、「靴音・靴語」〔A〕と分類するのが良
かろう。都ことばが基にあっての変容形なのである。
(b)靴音語と解釈出来る語
‑
くへ
〔垣・柵〕/中だ〔中途・
中間〕/わぬ・わの〔我・音、人代名詞〕
「くへ」は「馬柵」の意で詠まれているが、「杭(くひ)」
の靴
語と解釈してよいものである。「中だ」については、「ココバ」‑「ココダ」の対応を水島氏は指摘しながら、ココダ∨ココバ
の変化はあるが逆はないとして、「「ナカバ」1「ナカダ」とい
う変化、即ち「ナカダ」を「ナカバ」の転靴と見ることはでき
ない」とし、「逆に「ナカダ」から「ナカバ」「ナカラ」が発生
したのではないか」と指摘している。水島氏は帰納主義に徹し
ているが、音韻現象は可逆的な性質をもつものであり(これを回
帰現象という)、ナカバ∨ナカグという変化もあり得る。bとdと
は共に破裂音で、その調音位置が両唇音か歯茎音かの違いに拠
るものである。東国の人が都ことばの「中ば」を発音しようと
して「中だ」と発音することはあり得ることなのである。山口
佳紀氏は東国語についてではなく、上代一般の諸についての発
言であるが、この音交替について、次のように指摘する。
同じ破裂音ということで、b‑d‑gの間でも交替が生じ
そうなものであるが、そのような例は、今のところ一つも
見出だすことができない。(注40)これはその事例がないという琴盲であるが、そうした転靴の可
能性を孝んでいるということであり、ここにこの靴音の例があ
ると見てよい。「わぬ」については水島義治氏は頁を費やして解
説してはいるが、「私が「レーヌ」の転靴を認めないのは他に例
が存しないからである」「「わぬ」を「われ」の靴りとすること
を拒否する確固たる理由は存しない」としている。nは通鼻音、 rは流動音で、nとrとは共に歯茎音で調音位置が近く、転社の可能性を孝んでいる。山口佳紀氏はn‑rの若干の例を考察している(注聖。他で解釈するよりも音転と理解するのがよい。
「わぬ・わの」について水島氏は、琉球方言等の存在から、「東
国特有語、より厳密には古代東国に残存せる古語と認めようと
するもの」としている。
以上、名詞・代名詞において、東国固有語に近い東国特有簿
は「まま」〔崖〕であると見てよい。
〔動詞・形容詞〕
(イ)残存古語
おたはふ〔叫ぶ〕/かつ〔撃/よらし〔宜
‑
し〕/えし〔良し〕
「おたはふ」について、水島氏は難渋して結論を出していない
が、氏が種々言及している「おらぶ∨おらばふ∨おたばふ」と見
るのが良かろう。「おらぶ」は「叫ぶ」の意である。その下に反
復継続の助動詞「ふ」が接して複合動詞となったのが「おらば
ふ」
であり、その「ら」が「た」に転じた形が「おたばふ」と
なる(注讐。水島氏は「ラータ」の転靴の確実な例がないとし
て認めるに至っていないのであるが、rとーは歯茎音で、調音
位置が極めて近い。「おらぶ」の例は『萬菓』にあり(「於良批」
9・一八〇九)、「残存古語」というよりも当時の都ことばとして
よいものである。
「かつ」は否定の「に」に接して「かたに」となる。この「か
たに」は「かてに」の古い形であると橋本進吾氏が指摘し(注讐、
27
水島氏が従っている通りであろう。
「宜し」「良し」は記紀歌諦に用例があり、残存古語として問
題はない。
(ロ)東国特有語
かづす〔誘拐する〕/かなる〔騒がしく音
‑
を立てる〕
動詞「かづす」は平安末に確認できる「かどはす・かどはか
す」と無関係ではないであろう(水島氏も指摘)。また動詞「かな
る」
の語も水島氏が「か鳴る」即ち(接頭語「か」
+
「鳴る」)
を想定する通りの語であろう。東国特有とは言っても、その語
構成に都ことばが想定できるものであり、純粋な異言語とは言
い難いことを確認したい。
〔副詞〕
あぜ〔など・なに〕/ふすさに〔多く・たくさん〕
‑
「あぜ」について。東歌に「など」が靴った「あど」が七例存
する(これは水島氏も認めるところ)。この「あど」の靴音が「あぜ」
であろう。金田〓兄助氏は、「〔d〕〔Z〕の相通」(音韻相通、其
八)
において、
東京方言には、寧ろ【d〕が〔Z〕になることがある。の
ど(喉)をノゾ、なでる(埜をナゼル、むかで(百足)を
ムカゼ、かなだらひ(金艶)をカナザライ、此などを此ナゾ、
或は此ナンゾ。(注44)
と指摘している。これは現代における音交替についての指摘で
あるが、こうした現象は時を越えて適用し得るものである。右
の音転によると、 など∨あど∨あぞ∨あぜ
と転じることを考慮しなければならないが、音靴で考えてよい
と思われる。即ち、この「あぜ」は都ことば「など」の転靴現
象と見てよく、この転靴という側面において東国における特有
性を有していようが、東国固有の語ではない。「ふすさに」について。水島氏は、上代語の「ふさ」及び中古
語の「ふさに」との関連を追及し、「全くの東国特有の語でもな
さそうだ」としている。これについて岸田武夫氏は、「頭子音を
持つ音節の脱落」において、「フスサ(ニ)」から「フサ(ニ)」
に変化したと音節脱落の観点から言及している(注讐。都こと
ばと認定してよい。
〔助詞〕
がへ〔「かは」=反語・終助詞〕/ろ〔連体格助詞〕
‑
/ろ〔間投助詞〕/ゑ〔間投助詞〕「がへ」は、反語の終助詞「かは」の意とされるが、
上代には「かは」なる助詞は存しないから「がへ」を「か
は」
の靴り(ハ1へ)と見ることは妥当ではない。と水島氏は指摘する二やは」が上代から存するのに対して、「か
は」は中古以降の語と見られている(古今集・伊勢物語)。用例検
索上はそういうことになるが、上代に存在しなかったと結論付
けてよいものだろうか。右の検討情況から見ると、こうした助
詞の東国における固有ということは考えられない。とすると、
ここは「かは∨がへ」を考慮するのがよいのであろう。中古語(平
安初期語)が上代にその存在が憑定されるということになる。
次に、連体格助詞の「ろ」について、水島氏は、
格助詞と見るよりほかはないが、「私叫旅」と、連体修飾格
の用法のものとみなしてはじめて落ちつく。
とし、こうした「ろ」は東歌・防人歌以外にはないので、東国
特有の語と結論付けている。東国における現象かも知れないが、
東国固有の語ではなく、これも「の」から「ろ」への転靴によ
るものと理解するのがよい。先に、「われ∨わぬ」のrVnの可
能性を探った。ここは「の∨ろ」というnVrの音転と理解でき
るものである。真田信治氏は奄美大島における現代(一九七七〜
一九七九年)の調査事例であるが、n仁nOVn弓○(布)などの例を
指摘している(注祀ご。
次の間投助詞の「ろ」は、都ことばにもあり、ただその用法
が動詞と動詞の間に挟み置かれていることであり、そうした用
法上の特異性が認められるが、全くの東国固有の語というので
はないことは明らかである。間投助詞「ゑ」も同様の処理が出
来る語である。
〔助動詞〕
‑
なふ〔打消∵助動詞〕/のへ〔「なふ」の転音〕
「のへ」は「なへ」(基本形「なふ」)の転音とされるので、以下、
打消の助動詞「なふ」を中心に見てゆく。この助動詞「なふ」
ほど、その位置付けのむつかしい語はない。水島氏は一七貢ほ
どをこの語に費やして考究している。水島氏が掲げるその活用
表は次のようになる。
な 未 は 然
3 形
なな 連
にな 用
14 (3)
形
な 終 ふ 止
5
回
形
のな 連̀
へへ
14 形
のな 巳
へへ Jヽヽ
14 形
命 令 形
数値は用例数。括弧付き数字は防人歌の例数で外数。
この内、変則的な.「なな」について、まず考察しよう。先行
研究等は水島氏が丹念に掲げているので、以下はそれをベース
にして展開する(注47)。この「なな」は、佐佐木信綱氏の『評
釈』や日本古典文学大系本の解が一番妥当なものと考えられる。
即ち、打消の助動詞ヌの未然形ナに、助詞この靴形ナが添ったものと見る解である(注48)。「寝なl瑚成りにし」(三四八七)は「寝ナニ成りにし」の意、「我が手触増村地に落ちもかも」(四竺八)
は「我が手触ナニ地に落ちもかも」の意となる。「なに」とある
一例はこの原形に該当する。このように理解すると、「なな」「な
に」は助動詞「なふ」の活用から外すことが出来、単なる都こ
とばの靴音ということになる。となると、助動詞「なふ」は「は
ー○‑ふーヘーヘーO」と活用している語となる。四段活用で
はないが、極めて四段活用に近い。問題は連体形「なへ」
であ
る。例えば、……祢封倒古由恵ホ(寝ナへ児ゆゑに)……(14二二五二九)
などとあるものである。この連体形「なへ」は東歌のみで、防
‑29‑