裴
氏
研
究
矢
野
主
税
目 次
序
第一節 斐氏門閥の成立
第二節 南北朝時代の斐氏
第士一節 唐代の斐氏
結 語序
嘗て筆者ほ旧藩についての小論を発表したことがあるが︵幽塘領導9︶︑甚だ未熟なもので而も紙幅の関係上意を尽さぬ点多く︑其論点も極めて
限定したものであり︑且は唐代の斐氏には説き及ばなか.つたので︑薙に
改めで前論の足らざるを補いつつ︑唐代蓑氏にまで言及し︑後漢以来の
著冠たる嚢氏が︑南北朝を経て︑垂込に如何に官僚として繁栄していっ
たかを調査し︑六朝門閥の具体相をみると土ハに︑その唐朝官僚としての
転化の様相を明かにしたいと考える︒なお︑本論文理解の為には馬拙撰
﹁瘡掻世系表﹂︵鞘難︶を御参照願いたい︒
第一コ口斐氏門閥の成立
第一項 斐氏の祖先
嚢氏で最も早く正史.中に現れるのは︑後漢末︑三国初の斐潜﹁である始
けれども潜伝︵翻志23︶には︑その祖先としては僅かに父茂が見えるだけであ
る︒ところが︑斐氏の祖先は今少しく遡れそうである︒それは斐氏に於
ては︑他の︐姓の如く種々の系統があるわけではなく︑殆ど河東急心であ る︒従って正史に斐氏として見えるものは︑大凡河東斐氏に属するものと考えて先ず誤あるまい︒勿論︑潜以前に見える襲氏が必ずしも潜の直系の祖先とはいえないわけであるが︑その尊属に当ると考えてよかろう︒このような見地で後漢以前の斐氏を探れば︑別に発表した如き結果をうる︒︵魏灘︶ 斐遵は光武帝に仕えて敦煙太守の地位にあったが︑建武九年光武帝に献言して渉車国王賢より西域都護の印を奪ってしまったとの話が伝えられる︒︵騒麟齢﹂︑その後約百年を隔てて同じく敦煙太守雲中の蓑寄なる人物が見える︵難蕪諭識︶︒寄は永和二年順帝の時︑郡僕三千人を将いて西域地方に功績をたてたという︵唖︒ついで桓帝の頃︑斐喩なる人物があり︑聰明敏達の人物であったといわれ︑位は尚書に至った︵絶学激斎蔵臨画︶︒更に降って潜の父茂は︑霊帝︑献帝に仕え︑尚圭﹃列侯に至った飛雲輪︶︶︒献帝の頃︑侍御史斐茂なる人名が見えるのも︑この茂のことであろうか︵盤醸一応︶︶︒ 以上によれば︑斐氏一族の中には相当の地位にまで進んだ人達もあるようである︒惜しむらくは︑後の斐氏との関係が明かでない︒併し茂が既に尚書︑列侯に進んだのであるから︑後漢末には官僚としての一定の地位を得ていたのであろう︒
第二項 三国︑晋代の斐氏
第一目 政治生活
国難︵23︶斐豊漁虚心所引の魏略には︑ ﹁潜世為著姓︒﹂と見える︒
従って潜の代の斐氏は︑河東聞喜の地方における︵二型︶︶︑社会的に有力 ︶17r︑
毅氏 研究
蓑氏研究な家柄であったのである︒それは︑前述の如き官僚の地位獲得とも連関
して考えらるべきものであろう︒
斐氏の繁栄は潜から始まる︒六部によれば︑ ﹁潜少不破細行︒由此為
父無不潔︒﹂爾籔響藤︶とあるが又︑ ﹁割賦自感所生微賎無春風︒所為父
所不礼︑即折節仕進︒﹂︵上同︶ともいっているので少い時は父の気に入るよ
うな人物ではなく︑母は微賎の出身で後楯としてたのむべき姻族もなか
ったようである︒或は庶出であったかとも思われる︒
彼は初め主翼にあって京表に仕え︑のち図説に重用せられて︑北辺の
鎮めとして代郡太守たること三年︑大いに治績をあげた︒後に沸国相︑
亮州刺史となり︑文帝即位するや︑入って散騎常侍となり︑明帝の世︑
尚書令に至った︵灘腕︶︶︒
彼が相当の政治的識見もあり︑且つ手腕もあったことは︑曹操に対し
ての北辺策の進言︑或は代郡の乱を単身治定したこと等によって伺われ
る︒又︑細行を努めずといわれたにも拘らず︑極めて潔白な人物であっ
たという︵融︶︒ 潜の兄弟には輯︑儒︑徽があったが︑徽は芸州刺史に任じ︑老荘の学
に通じて盛名あり︑︵甑嚇係詔世譜堕翔讃29︶︶︑その交遊するところも当時の
知名︑俊傑の士であった︵翻単襲歯茎広︶︒劉孝標は世説新語︵敏畔︶に永導流人
名を引いて徽に注しているから彼も永嘉の大乱によって江南に移動した
ものであろう︒この永血流人名について︑綱祐次氏は︑永嘉を会稽の永
享郡なりと解していられるが︵輻秘鑑潮瀬緋難餐勢水︶しかしそれは誤りで
永嘉は年号とみるべきである︒永嘉年甲における︑士民の南万への流移
は︑晋書︵14︶地理銀面をみただけで明かであるが︑晋書︵鵬︶慕容勤載記
には︑ ﹁自永嘉喪乱.百姓流亡︒中原粛条︒千里無煙︒﹂と記し︑同書
︵13︶天文志下懐帝永嘉六年の条には︑ ﹁是後︒天下大乱︑百官万墨流
移転死 ︑﹂とあり︐同書︵64︶股仲堪伝には︑ ﹁中原子女︒講於江東
者︒不可勝数︑﹂と見え晋吾︵Z6︶缶詰伝には︑﹁永青玉年埋蔵州刺
史︑⁝現在路︑上表日︑⁝臣臼渉州轟︑客観困之︑流二四敢︒十不存 二︒無権扶弱︒不着於路︒及其在者︒鷺売妻子︒生憎町鳶︒死亡委厄︒白骨横野︒﹂とその地方実状を記し︑愚書︵5︶孝五帝永嘉五年の条にも﹁百官流亡者︒十八九︒﹂と記している︒世説新語の劉注には永嘉流人名を屡々引用しているが︑例えば︑賢嘉言十九には李康について︑倹商品二十九には衛展について︑文学第四には王術について︑方正第五には極論について︑容止第十四には衛疏についてなどが見える︒これらの当時一流の諸名家が戯言という片田舎に同様に住みついたとは到底考えられ得ないところであろう︒即ち永嘉は年号を指すものと解すべきである︒輯については不明であるが︑儒は後雲壌︑姉の夫に従って蜀に入り︑遂に三国分立と共に蜀に仕えて光禄勲に至り︑蜀人士の推重するところであった︵欄讃襯鵡難所︶︒これらの人々の子孫の中︑二代に繁栄したのは潜及徽の子孫であった︒ω 潜の系統 潜の子爵は少くして好学風操ありといわれる立派な人物であったが︑庶出であって︑その母の出自は卑賎であった︒けれどもその人物の優れている為に︑当時の人々は︑ ﹁後進領袖有磁壁︒﹂と推称したという︵世説新語識一三弟七︑当月︵35︶装秀伝︶︒のち母丘倹の推挙により︑曹爽の辟すところとなったが︑文帝に用いられるに及んで軍国の政に参じ︑その腹心の任におり︵難捧40︶︶︑諸葛誕の討伐には参謀の任を果した︵籍譲35︶︶︒ついで尚書僕射に遷り︑威煕の初︑憲司を董位することがあるや︑官制の改正に従い︑五等の爵制を建てた︵洞畿塒囎志上︶︒而も皇帝に薦めて武帝を世子と決定せしめ︑心密王位に即くや︑尚書令に進められ︑即位と共に鍾鹿公に封ぜられたが︑ ﹁秀専制朝儀︒広陳刑政︒朝廷多遵用之︒以為故事︒在位四載︒為当世名護︒﹂と評せられているが如く︑中央政治に参劃する所多かった︵籍獄35︶︶︒ 秀の子に顧があり︑ ﹁弘推有遠識︒博学稽古︒自答知名︒﹂とか︑
﹁愈若武庫五兵.縦横一時之油画﹂と称せられる如く︑父に劣らぬ人物
であった︵匙︒恵帝即位してより︑国子祭酒︑侍中︑尚書左僕三等に ︶18︵
累遷した︒彼は父の如去華々しさはないけれども︑時の政治の中心人物
として︑雪空張華−︑侍中頁模と土ハに頁后の乱政を矯正せんとして心を砕
いたが︑趙王倫が纂奪を企つるや︑高望なるが故に倫の殺すところとな
った︵謹藁鍵歎義塾勲蝦聾裂繊舗轟々︒
② 徽の系統
徽の子楷は︑秀︑瀕と相並ぶ斐氏の俊秀であった︒彼は︑ ﹁明悟有識
量︒弱冠知名︒尤精老易︑少与三三斉名︒﹂といわれるから癖讃35︶︶︑
余程若くして見識あり単問ある人物であったであろう︒文帝から︑重任
一部郎が欠員となった時質問をうけた三会は︑ ﹁斐楷清通︒取口簡要︒
皆其元︒﹂と対え︵冊.説新語識肇第七︶︑太平御覧︵︵︒︒騨︶︑目引の山一目事には︑ ﹁侍
中︑太常︑河南サ並鉄︒皆顕職︒宜一得其人︒右軍詠口通肩有才義︒愈
論判為侍中才︒﹂と見える︒而も彼は一種の風格ある人物であったら
しく︑ ﹁楷風神三三︒容儀俊爽︒⁝時人謂之玉人︒﹂とも評されてい
る︵籍譲35︶︶︒彼は政治的にも活躍し︑武帝に対して責充の徒の排斥を主
張し︑中書令となっては︑張華︑王戎と共に中央政の枢機に与った︵阯︶︒
楷の子で政治的に活動したのは憲である︒彼は初め豫州刺吏に至った
が︑西三三の混乱時に︑幽︑翼地方に勢力を占めていた自計に用いら
れ︑尚書となって王凌政権の政治に与り︵瑠螢39︶︶︑王凌が石壁に破らる
るや︑勒に重用せられた︵皿日書 ︵HO轟︶ ︵HOα︶石勒載記上︑下︶︒初め︑石勒が王凌の官属の財を
調査したところ︑﹁前夕至巨万︒惟賦与葡緯家︒有半百余褒︒塩払各十
数蒔直巳︒﹂という状態であったので︑勒はその謀臣張賓に向って︑
﹁名不虚業︒吾不喜得幽州︒喜獲二子︒﹂といったという︵籍譜悌35︶︶︒
以上の人々に限らず︑此二系統に属する人々は多く中央官僚として相
当の官職についていた︵鼻喋獄難系︶︒
㈲ 輯の系統 輯の孫に武及疑があった︒鍵は給事黄門郎︑栄転太守に至ったが︑兄
武が玄菟太守であったので自ら昌黎太守たらんことを求めた︒武の卒す
るや︑武の子孫と土ハに南帰せんとしたが︑西晋末の胡族の侵入によっ
斐氏 研究 て︑遂に慕算氏に投じた︒再再魔の謀主として重んずるところとなり︑長史として軍国の謀に参じたという繭舖M︸oQ麗棘礫朧倒︶︒開も亦容与の股肱キ見られ︑青書劉に仕えて列卿となった︵並月畿国へ↑O㊨︶菓容髄載記︶︒ 以上の如く︑西晋中央官僚として多くの有力者を出していることからみて︑西晋時代に門閥斐氏の成立を認めることができよう︒
第二目 学問と教養
潜以前の斐氏については明かでない︒けれども︑前述の如く潜が細行
を脩めざるが故に父の灯せざるところとなったというのによれば︑既に
一家の家風が成立していたことは推察される︒著姓としての家格であろ
う︒学問或は教養の面で著名な人物がでたのは︑秀以降であって︑秀と
その子傾は特に著名である︒魏志︵23︶一一伝斐注所引の文章叙録によ
れば︑秀は︑ ﹁八歳能属文︒遂知名︒﹂とあるから︑早熟の秀才であろ
う︒若くして屡々高貴卿公の四一に列し︑儒林丈人と号せられたが︵鑛岡
斑況︶︑特に白日地域図十八篇を造ったことで有名で︑支那地図学史上特
筆さるべき人物であるといわれる跡馴灘日岐羅︶︒その伝によれば︑ ﹁製
図巨体有六焉︒﹂として︑地図製作上の六つの規準を設けて正確な地図
を造ったという︵魏︶︒
その子顧も亦学者であり︑教養深き人物であった︒魏志︵23︶二男伝
の斐注畦引の豪雪翼州記によれば︑ ﹁触為人弘雅︒有望識︒博学稽古︒
履行高整︒自少知名︒﹂と評しているから︑博学でもあり︑教養もあ︑
たことが伺われる︒更に陸機の恵帝起居注には︑ ﹁顧雅有遠慮︒当朝名士也︒曇日︒民之望也︒﹂と評しているのによって︵灘私曲卵墜︑彼が教養
ある人物として朝野に於ける名望家であったことが伺われ︑此点父秀にも優るものがあったようである︒嘗て楽曲が像と談じて彼を屈服せしめようとしたところ︑彼の辞論豊博の故に広も圧倒されたと伝えられ︑時
人は︑ ﹁顧為言意之林藪也︒﹂といったという︵砿ヨ書︵35襲テ伝︶︶︒けれども彼が著名であるのは︑単に博学であり︑当時一般貴族達の目した個人的修養
に努めたというのみではなく︵守屋芙都雄氏﹁六朝門閥の研究﹂鑓三章第三節参照︶︑その学問は儒学の伝統 ︶19︵
斐氏 研究
を尊ぶところにあって︑当時の風潮とは異っていたことである︒例え
ば︑ ﹁顧長患時俗放蕩︑不念儒.術︒何曼︒玩籍素有高名於世︒口談︐浮
虚︒不遵礼法︒ 禄筆記︒仕不事事︑︒至王街之徒︒声誉太盛︒位高勢
重︒不善農務自嬰︒遂相放致︒風教陵遅︒乃著崇有之論︒玉書其蔽︒﹂
といえる如く籍譲35︶︶︑当時の老荘の徒が儒学の伝統を無視し︑風教陵
賞するのを歎いて豊漁論を著し︑王術の徒と論争を展開したという︒併
し︑岡崎博士によれば︵﹁魏晋南北朝通史外篇第一章第八節﹂︶︑彼にしても猶この本を老子に繋い
でいると評されている︒ 楷が風格ある人物であったことは既に指摘したところであるが︑それ
は又︑その疾篤きに及んで蝶理を受けてその枕頭を見舞った桑中が︑
﹁深嘆其神儒︒﹂じたと伝えられるのでも明かである︵難添35︶︶︒勿論学
問にも通じていたわけで︑﹁博渉攣書︒特精坪当︒﹂とも伝えられる︵甦︒
其の他︑憲及その子掘︑殻にしでも︑憲の兄贋にしても︑顧の従弟
遊︑緯の子退にしても︑・夫々学問或は教養を以て著名であっだ︒斐氏が瑛邪王氏と囲んで人物の多かったことは︑ ﹁初葉︑王臣族盛於下臥之
世︒時人以為八斐方八王︒﹂︵籍讃35︶︶といわれている如くであった︒
第三項 婚姻関係
次に婚姻関係を通じて︑その社会的地位を考えてみよう︒別表﹁斐氏
世系表﹂に見る如く︑その相手は王室並に当時の名族や権勢家であっ
た︒今簡単にこれらの家柄について一瞥を加えてみよう︒
先づ襲秀の妻は郭配の女であった繍蕊脈蕪翻雛翫︶︒郭氏は太原の著姓で︑
配の父祖は中央︑地方の相当の官僚であった︵胴概羅臼︶︒配自身は城陽太
守に止まったもの\配の兄准は魏に仕えて戦功を以て車騎将軍︑儀同三
司の顕位に至り︵灘郭︶︑その一族亦殆豊口同等につき︑配の次子豫の女は
王衡の妻であった︵鯉謙蛇漸︶︒
次に頁充の妻も蓑氏である︵帰日書︵35斐発伝︶︶︒充は平首裏陵の人で父は逡︑魏
の豫州刺史であった蕪籍体40︶︶︒その祖先がどのような家柄に属するかは 不明︐であるが︑魏志︵15︶怨讐伝の斐注雪下魏略によれば︑逡の祖父は習といい︑ ﹁論著為著姓︒﹂と述べられている︒且つ同伝に蓬の妻は柳氏とあるが.逡が河東裏主人であるからには︑妻は所謂河東の半語であったと考えて間違あるまい︒これらはすべて︑河東の著姓同志の婚姻であったのであろう︒逡は魏太祖︑文帝︑明示に仕え︑対呉政策の要衝豫州刺吏の重点にあたり︑文帝をして︑ ﹁書論刺史 ︒﹂といわしめた人物で︑その重責を見事に果した︵魏志︵15質述伝︶︶︒その子充は︑司馬文王に仕え︑斐秀︑王況︑羊肪︑葡島等と土ハに帝の腹心となり︑帝の機密に参劃した︒三朝成立の功臣といえよう︒武帝受禅後は︑尚書僕射︑尚書令︑侍中等の親近の官を歴任し︑専ら政治的に貢献した︒伐呉の計が行わるるや︑遠征軍を統罪する重任を与えられ︑平定の功をたてたが︑この役は主として揺々︑白総︑杜預等の主戦論者によって起されたもので︑彼ほ寧ろ強硬な非戦論者であった︵晋書︵40質充伝︶︶︒それにも拘らず︑平呉の後も︑﹁寵倖愈甚︒朝臣成側目︒﹂と評される如き優遇をうけた︵上裂︶︒以上によって質氏が当時の権門であり︑門閥であったことは明かである︒試みに充一家の婚姻状態を示せば次の如くである︵翻追撃顯難繊牲魑岬山蝶蕪能卸詞謄︶︵翼歳硫喚︶︒充が頁皇后の父であったこというまでもない︒ 斉王 逡 充i 十 十河東柳氏 斐氏 十 中書令 豊 李氏一 .十 城陽大守
血
忌氏1
郭氏
十
斐﹁秀 十﹁灘
女︵頁后︶十恵帝i女 十河冷雨 韓寒
寒の妻は太原王渾の女である︒太原王氏が著姓にして門閥たることは
いうまでもない︒守屋氏の説かれる如くである︵守屋虻天都雄吊氏﹁六朝門閥の一観究﹂︶︒触の妻は ︶一20︵
王戎の女である.王戎は名門瑛邪王氏に属する︒祖雄︑父黒鼠に刺史に
至ったが︑彼も初めは地方長官として活動し︑後に京師に帰り︑吏部尚
書︑中書令尚書僕射等を歴任し︑最後に司徒に至った︵躇灘43︶︑︶︒この戎
の︑顧並にその女に対する態度は︑ ﹁女適斐傾︒貸銭数万︒久而未還︒
女後紐寧︑戎色聴悦︒女遽還直︒然後指灌︒﹂とある如きによれば爾羅
噺嬢鵡︶︑特別な政治関係があったとは考えられないけれども︑両者の婚
姻は当時の襲氏の門閥的地位を示すものといえる︒戎の従弟街の女も亦
遽と増している︒斐氏が当時の名族と見られていたことは︑晋書︵49︶
王尼伝に明かである︒
次に遭の妻の父楊駿についてみよう︒駿は﹁小器不可専任雪稜之重︒﹂
﹂と評されるくらいの人物に過ぎなかったようであるが嘉継悌40︶︶︑女が
武帝の皇后たるの故を以て︑武帝崩御に当っては恵帝輔政の遺子.を受
け︑俣野︑大都督として朝政をとり︑百官を統べ︑禁断を領し︑その勢
は天下を傾むくるものがあった︵阯︶︒駿の兄は文勢といい︑その女も亦武
帝の皇后となつが︑死に臨んで自ら従妹たる駿の女を推薦して皇后たら
しめたという藷瀦白如意︶︒ この文宗︑駿の家は弘農華陰の名門であり︑
﹁其先事漢︒四世為公︒﹂というから︵暫書︵93楊文宗伝﹀︶︑例の楊震の一族である
こと間違ない︒とすれば︑楊駿の政治力こそ外戚という関係によるとは
いえ︑元来当時一流の門閥であったとみて問題ない︒
︑襲の兄輿の妻は汝南王亮の女である︒汝南王亮はいうまでもなく司馬
宣王の子で︑王室の重鎮であったこと︑その伝︵講論鏡︶に明かである︒ 斐輿の女は麻田の男に嫁した︒灌の高祖は嵩といい︑後漢明帝の時儒
学を以て代郡より徴されて河東安邑に至り︑よって子孫はこの地を本貫
としたといわれ︵羅係36︶︶︑父顕も亦学才を以て称せられ︑魏の太祖に用
いられて諸将を服属せしむるに憾あり︑文帝王位につくや尚書となり︑
漢︑魏交代の謀をめぐらし︑混乱期の施政の方途について献言するとこ
ろあり︑又著述もあった︵雛臨21︶︶︒この家は漢末の所謂清流の家として
知られている面起誰陶虻榊雛膿の︶︒灌は初め魏に仕え︑伐蜀に諸軍を督嚢氏研究 し︐て功あり︑晋武帝に仕えては尚書令︑侍中を拝して︐中央政治に参じ︑太康の初︑司空︑侍中に遷った︒彼は一時墨型によって退けられたが恵帝即位するや︑駿に代って汝南聖旨と土ハに輔導に任じた︒後に聖意り謳にあって子ゴ孫と共に詠せられた︵隠蟹36︶︶︒農書︵60︶解系伝によれば︑その弟結の女も斐氏と壊している︒又斐康の女は下給に嫁している︵四書︵70ヤ壷伝︶︶︒ その他︑康の女は東海買越の妃であり︑顧の子該は公主に嘱している
こと斐氏世系表の如くである︒以上によってみるに︑装氏の婚姻は概ね
王室を中心として︑娘邪王氏︑太原王氏︑頁氏︑楊氏︑衛氏という一流
門閥乃至は勢門と結ばれているのであって︑晋書︵40︶質充伝によれ
ば︑ ﹁泰難中︒人為充等土日︒頁︑斐︑粟興紀綱︒王︑斐︑頁脩天下︒
言亡馬弓成晋也︒﹂との評があり︑これは頁充︑斐秀︑王況三者のこと
を述べたものと思われるが︑当時の王朝興亡の主導権を握った人達こ
そ︑単層並に斐氏を取巻く門閥達であったといえよう︒
併し乍ら︑潜の華麗氏︑については不明である︒若し潜が庶出であった
とすれば︑慢罵の例から推してゴ或は郷里の土豪あたりの出自であった
かも知れない︒以上の婚姻の例についてみるに︑斐氏の官僚化してゆく
姿と相応ずる如くである︒潜の父茂は既に官僚として︑居を京師にうつしていたが︑︵難融蕪聴︶︑尚社会的には郷党との連絡を保ちつ\あったわ
けで︑中央官僚としての地位の確立につれて他の地方の出身の官僚との
婚姻が一般化しているわけで︑この︸門の官僚化の姿をみるのである︒
即ち︑ζめ中央に進出せる蓑氏に於ては︑その社会的性格は郷党的著姓
から所謂中央的門閥貴族になったと考えてよいであろう︒
第四項 経済的生活
斐氏の経済的生活を明かにする資料は︑あまりないが︑簡単にふれて
みたい︒ 後漢時代における生活は明かでない︒斐.潜については既に荊州にあっ ︶ゼ21︵
斐氏研究て清行を以て称せちれ癖酷弧弛欄臓伝︑︶︑軸組に仕えても︑官に赴く毎に妻
子を伴わず︑ ﹁妻子貧乏︒織蓼無漏自供︒﹂という状態であったと伝え
られる︵禦士いへ23︶嚢潜だ斐赴所引敷略︶︒妻子を任地に伴わなかったのは︑彼の潔癖の故であ
るらしいが︵灘︶︑その家庭の生活が苦しかったのは事実である︒先述の
如く︑世々著姓たりといわれ乍らも︑故郷には何等特別に収入のある財
はなかったものキ思わねばなるまい︒著姓必ずしも大土地所有者ではな
かった一例である︒
然るに潜の弟徽については︑ ﹁徽有盛名︒御客甚衆︒﹂とあるから︑
この記事だけでは必ずしも豊かであったとはいえないかも知れないが︑
門閥としての格をおとす如きことがあったわけではあるまい癖嬉俸35︶︶︒
ところが徽の所の廣客は秀の所に立寄ったといわれ︑又︑潜が死する
や︑秀は︑ ﹁推薦与兄弟︒﹂とあるから︵撫駿鐸畷縮駈︶︑ 一概に潜の家を
財なしともいえないようである︒けれども前述と合せ考えれば︑潜の家
が決して富豪ではなく︑僅かばかりの田土を所有したというくらいのと
ころではあるまいか︒
勿論︑かりに田土等がなかったとしても︑官僚としての地位が高まる
につれて︑秀の生活は豊かになったであろう︒早くから封爵をうけては
いたが︑武帝受禅後は鉋鹿郡面一三千戸に封ぜられているから︑俸禄外
に相当な収入があった筈である無輔灘舐羅膜A翼畿購迷薇騎︶︒ところが︑秀
に関しては︑司隷尉憤悶心が︑騎都尉劉尚が尚書令斐秀の為に官稲田を占
有したので︑禁止せんことを求めたという事件がある籍嬬島35︶︶︒これに
類似する事件は︑李悪伝にも見えるところで︑ ﹁悪上言︒故立進令劉
友︑前尚書山濤︑中山王睦︑故尚書僕射武咳︒各占官三更稲田︒請免
濤︑睦等官︒﹂とあるところをみるに︵譜傭︶︶︑官吏による官稲田占有は
屡々行われたところであったらしい︒勿論これは違法であったことは明
かであるが︑朝野に令名高い李悪にして︑始めてそれらをよく摘発し得
る如きものであったのではあるまいか︒
秀美の生活を支えるものには︑このような不法行為による収入もあっ たことであろうが︑兎に角相当な財力を蓄えうる套情にあった如くであって︑それは︑ ﹁楷性寛厚︒嵩物雑件︒不持倹素︒毎三栄貴︒鼠取其珍玩︒雌車馬器服︒宿昔之間︒便以施諸窮乏︒嘗営別宅︒其従兄心見而悦之︒即以宅垂垂︒﹂といわれるところで伺われる︵陛︶︒常に豪遊し︑惜しみなく人に財物を与えるのは︑すばらしい富豪でなくては出来ることではあるまい︒勿論楷の父徽も前述の如く︑相当な生活はしていたようである︒けれども楷のような豪奢な生活の様子は全く記されていない︒兄潜の家に多少の田土はあった如く思われるが︑彼の潔癖を考えれば︑それは父より残されたものであろう︒従って︑徽も亦父から財を残されたとしても︑均分が原則であったとすれば︵警叢銀獄耽鵜講幣︶︑仮に潜が庶出であったとしても︑潜と全くかけ離れて多かったとは思えない︒それなのに楷のこの豪奢生活がみられるのは︑徽の地方官生活に於て︑莫大な富が蓄積されたものと考うべきであろう︒斐瀕にその人物を認められていた章忠が評した言葉に︑ ﹁黒影欲而無厭︒﹂とあるのも露麟89︶︶︑前述の瀕の妻の父王戎の態度と考え合せれば︑語々実利にたけた面も︑此一族にあったことを察するとしても無理ではあるまい︒
第二節 南北朝時代の斐氏
此時代の斐氏は江北に居住した人々と︑江南に定着した者とに分れ
る︒江北斐氏は五罪︑江南野掛は二派に分れる︒
第一項 江北斐氏
第一目 西巻斐
ω 政治活動 西谷蓑は徽の子孫読より出ている︒呼野︵88︶斐佗伝によれば︑其先
祖は野末の乱によって難を涼州に避け︑隠州張氏に仕えたが︑符堅が張
天錫を降すに及んで東帰して郷里解県に居住したという︒先祖というの
は徽の子黎のことであろう癬麟灘51︶︶︒佗の父景恵は州別駕に過ぎなかっ ︶22︵
たが︑佗は︑ ︑隈然有糠南︒﹂といわれ︑少くして学問あり︑先づ中書
博士に除せられ︑累遷して尚書考功即中︑河東邑中正を拝した︒世宗即
位するや︑員外導爆常侍となったが︑後ち地方に出て東荊州刺史に至
り︑蛮酋田畑宗等万出家を帰服せしめ︑州民の心服するところとなり︑
治績をあげた︵自書88︶︶︒彼は性剛直にして清廉潔白︑例えば︑﹁清白任
真︒不事家産︒宅不過三十畝︒又無田園︒暑不張蓋︒寒不衣護︒其貞
倹︒若生︒﹂と伝えられる︵阯︶︒彼は良吏伝に加えられている如く︑外任
にあって﹁所在重工績﹂ ﹁郡民恋仰﹂する良吏であった︵阯︶︒ 佗の子は何れも好学を以て知られた︒而も亦良吏を以て称せられた人
物が多い︒例えば︑長男譲之はその学問の故に︑ ﹁清明謹製︒早得声
誉︒﹂と評せられ続墨壷35︶︶︑斉の時清河太守に飽せられては姦吏も︑盗も
跡を絶ったといわれ︑半過にして久しく庶民の財物を侵した者を詠殺す
るなどの善政を施した︵阯︶︒ 第二子の諏之も儒学者であり︑強記博覧を以て知られ︑第三子諏之も
博学にして歴代の故事に通じ︑許昌太守となっては私財を以て人民を助
ける等の善政を施した︵阯︶︒
さて︑第五子訥之の次子に矩があった︒此系統中鷺も著名の人物であ
る︒幼にして孤となったが︑頗る才物であったらしく︑伯父譲之は︑彼
を︑ ﹁観汝神事︒足成才︒士欲求宙達︒当資幹世之務︒﹂と激励したと
いわれ︑これより世事に心を留めるようになった鶏灘67︶︶︒階文帝が猶
対州総管であった時用いられて記紀となり︑親敬せられたが︑ここに彼
の後世の政治活動の機縁があった︒文帝受禅後︑伐陳の役並にその後の
内乱外征に戦功あり︑又内政にも内書侍郎︑吏部侍郎等を歴任して功績
を挙げた︵砒︶︒
併し彼がその本領を発揮したのは︑蝪帝に仕えてからであった︒娚帝
即位するや︑西域方面との交易が張披に於て行われつつあったので︑帝
は矩をしてその事を掌らしめたが︑彼は帝に遠征の志あるを知って︑西
域諸国の風俗山川の様子を胡蝶より聞き︑それを録して西域雪曇三巻を
蓑 氏 研究 造り︑大に帝の歓心を買い︑のち民部侍郎を経て黄門侍郎となり︑帝命を受けて張摘に至り︑西蕃十余罪を招き︑帝は大業五年西督して燕支山に至り西湘諸国を謁した︵同上及資治通男︵Hco日大業五年六月条︶︶︒更に︑鰻谷渾を破り︑毎歳の黒髪の朝貢巨億に達したと伝えられる︵魏蟹67︶︶︒これより矩は帝の信任誠に厚く︑斐慈︑虞世基と共に︑ ﹁参陣機密︒﹂するに至った︵雛無界範年篭︶︒ 以上によっても明かな如く︑矩が朝政に参じたのは︑その吏才もあったであろうが︑多くはその謡談の故であって︑決して政治的手腕によるものではない︒それは矩と共に帝を取巻いていた︑解文述︑虞世羅︑斐慈︑郭衡等朗然りであった︵早熟驚蕨条︶︒矩が帝の意を推し測って︑その意を迎えるに巧であったことは︑ ﹁帝称其至誠︒顧謂宇要述︑牛弘日︒蓑矩実記貴意︒肝所陳奏︒皆朕之成算︒未発之頃︒下界以聞︒自非奉国用心︒敦能若是︒﹂︵魏蟹67︶︶と伝えられることで明かである︒けれども重三の失政は是等諸諌の徒によって引起される︒即ち︑階の滅亡を齎した端的失政としての高麗征伐が起されたのは︑根本的には対突槍政策を遂行する為の準備行動であったとしても︵獺細醸銀鼠廉輔基点擬雅︶︑直接的には矩の献策によること大なるものがあったと思われるからである︒この高麗との戦がどれほど悲惨なものであり︑階朝を根抵から揺がしたものであるかについては︑既に横田氏が詳述せられているが︵阯︶︑この前後渡遼の役に二野の参謀として軍事を掌ったのが矩であった︵識︶真鴨︶︒帝が江都に幸し︑群雄四方に起るに及び︑彼は︑ ﹁曇天下方乱︒恐為身禍︒其待遇人︒多過其所望︒故錐至聖役︒皆剣舞歓心︒﹂といわれる如く︵阯︶︑自らの身の保全を計らざるを得ず︑ここにも彼の抜目なき態度が見られる℃ついで宇文化及の反するに及ぶや︑これに従って尚書右留学となり︑化主敗るるや寳建徳に仕えて吏部尚書︑尚書右僕射となり︑建徳敗るるや︑山東の地を挙げて唐に降った︵灘灘︵63︶︶︒唐にとっては一応帰国の功ありということになるかも知れぬが︑誠に目まぐるしい節操なき変転である︒唐に於ても高官に登り︑旧朝の重臣として重んぜ ︶
︵ 23
蒙氏 研︐究︐
られ︑晩年には多少硬骨の風が伝えられるが証︶︑少くとも階朝に於ける
彼は︑余りにも謡諌の徒であったことは否めない︒
② 教養生活
この派の人々は多く学問に通じていたこと前述の如くである︒佗は春
秋︑杜氏︑毛詩︑周易に通じ︵欝憾添88︶︶︑譲之は賦詩を能くするを以て
著名であり威諮摺俸35︶︶︑矩と錐も︑ ﹁好学頗愛文藻︒﹂と伝えられてい
る︵面謝憐67︶︶︒譲之については︑ ﹁相遇則清談寛日︒ ︵楊︶倍毎云︒此人
風流警抜︒斐文季立不区 ︒﹂とか譲之兄弟について楊倍は毎に三歎し
て︑ ﹁河東士族︒京官話少︒寄客家兄弟︒全署郷音︒﹂といった等と伝
えられる︵化斉書︵35斐薩之伝︶︶︒この様に風流を称され︑又︑全く郷音なく︑京風の
教養が完全に身についていたのである︒嵩置全盛の摘播の風はなくと
も︑矢張り好学の伝統と︑単なる田舎貴族に非ざる風格があったわけで
ある︒勿論︑この一家の官界に於ける地位は淋しいもので︑昔に較ぶべ
くもなく︑教養丈では政治的栄達は望めないわけであって︑従って譲之
が矩を激励した如き事もあったわけであろうし︑その場合の言葉の如く
此一家も宙達を欲しなかったわけでもないことが推察され︑又宙達には
世間的手腕が必要であったことを示すものである︒森氏の力説される如
く︑南北朝貴族は教養貴族であったとしても︵籠欄だ難鋲鯉歓瀦︶︑教養あ
りとて必ずしも有力官僚となれるものでもなく︑南北朝貴族の本質は飽
くまでも︑官僚貴族であったことを銘記せねばならない︒
㈲ 社会的地位
斐佗は河東邑中正を拝しているが︑この一門で中正となったのは彼一
人のようである︵葬咳謙系︶︒邑中正が単に地方僚属の推薦に当るに過ぎな
いものであるとしても︵鴎纏紙鞭纏一難礪舗二審︶︑邑中正たることはその
地方の勢族たることを証することは国書ない︒彼の妻辛氏が若し朧西世
道出身ならば著姓であるが︑併し詳細は不明である︒婚姻については外
に資料がないので︑今はその交友関係から選手の社会的地位を考えてみ
たい︒ 佗の子達の友人の名は数多く知られる︒例えば︑弘農の楊倍︑陛西の李絵︑頓丘の李構清河の雀謄︑京兆の特認︑河東の蒋慎等である︵謙緑野数臨︶︶︑楊倍は弘農華陰人といわれ︑父津は北魏の時司空︑侍中となったという︵灘畷34︶︶︒けれども津の厚播については︑ ﹁自云富農華陰人也︒﹂といわれるように︵重体58︶︶︑弘農出身か否かについて疑問がもたれている︒これについて︑北斉書︵37︶幽翠伝によれば︑当時︑ ﹁楊倍家伝本無︒有魏以来一門耳︒﹂という意見もあり︑ ﹁又︒先直垂華華陰人︒乃改白旗弘農︒玉壷王亭亭姦謀太原人︒母娘失也︒﹂との批判もあったわけで︑その出自は尚すっきりしないものがある︒ 併し何れにしても︑播の祖先が代々郡の太守であり︑播︑津以下皆顕職に至り︑倍の頃は︑相州刺史劉誕が倍を目して名家出身といっているように︵融囎︵34︶︶︑既に一流門閥として認められていたものであろう︒辛術は朧西出身であったが︑冷酷文言帝に仕えて宋遊道︑李品等と共に上客となったといわれるから︵靴緕鰭︵38︶︶︑これによっても辛術一門の勢家たりしことが伺われ︵佐久聞吉也氏﹁北魏の客礼について﹂東洋史学論集所収参照︶︑又︑彼が吏部尚書となって選挙に与るや︑﹁言論門閥不遺︒﹂といわれることも︵靴麟儲︵38︶︶︑彼自身が門閥であったことを証するものであろう︒ 李絵は所謂趙郡の李氏で︑李渾の弟であり︑門閥たるこというまでもない︒更に前述の如く︑彼も亦上客としての礼遇をうけた︵山雨鰭臥磁霧購豚烈莚︒ 李構はその伝によれば︑﹁黎陽人︒祖平︒魏尚書僕射︒﹂といわれるが︵靴麟囎︵95︶︶︑平伝によれば︑﹁頓丘人也︒彰城王業長子︒﹂とある繍囎︶h欝平︶︒山隠の兄弟には峻以下五人があった︵魏書︵83︶上︑李峻伝︶︒その峻は﹁梁国蒙県人﹂と見え︵阯︶︑後に頓丘王に封ぜられている︵上同︶︒恐らく峻が頓丘に居住するに及んで︑頓丘李氏を称するようになったのではあるまいか︒一族皆大官に任じ︑勿論名門とされていたことは︑﹁故河南サ李奨︵平子︶門居戚里︒世檀名家︒﹂とある如くであった︵上同︶︒
崔謄は稜の子︑清河東武城の崔氏である︒例えば謄に対する評言に ︶4琴り乙ム︵
も︑ ﹁謄性簡傲︒三才地自励︒所与周旋︒皆一時名望︒﹂とある如く︑
門地の高かったこというまでもない翫緕踏︵23︶︶︒
杜弼は︑ ﹁中山曲陽人︒⁝⁝自序云︒本男爵杜陵人︒﹂とあって︵誰嬉
灘弼︶︑本は京兆の出であるが︑九世の祖驚が︑晋の時趙に使して申山に
寓居するに至ったという︵上同︶︒その自称する如く群論の杜氏であるなら
ば︑京兆の杜氏は当時天下の諸杜の中で最も望高き者といわれていたの
で︵繍蟹45︶︶︑勿論名門であるが︑中山の杜氏は弼の祖准南太守彦衡まで
しか明かでない︵枇潴鰭︵24︶︶︒併しこの交友グループに加わっているところ
によれば︑京兆の分派と見られていたものであろうか︒
薩慎は至善の弟︑斐氏と同じく河東の名門であった︵砒媚鰭悪闘娠ザ礁鋸
馨9︶︶︒ 以上の如く︑佗の諸子の友人は皆所謂門閥︑名族に属する人々であっ
た︒この場合の交友関係では互に名門を択んだことは︑佗について︑
﹁性剛直不好俗人交游︒其投分者︒必当時名勝︒﹂と伝えられ︵熱相輪︶︶︑
賦課の交るところが一時の名望である等に察することができるのであっ
て︑以上の様な交友関係は斐氏の社会的地位を明示するものである︒
ω 経済生活
この一門め経済生活を明かにする如き資料は殆どない︒佗伝によれ
ば︑前鑑の如く︑ ﹁諌事家産︒宅不様三十歩︒又無田園︒﹂とある︒田
園なしという以上︑殆ど田土らしきものは無かったと思わざるを得な
い︒とすればその生活は官吏としての俸禄に頼ったであろうと思われる
のに︑同伝には︑ ﹁所得俸禄︒分憧貧窮︒﹂とも述べている︒これは恐
らく︑俸禄を悉く分ったわけではなく︑矢張り生.活の基礎は俸禄におい
ていたものであろう︒その子謝之は︑許昌太守となったとき︑ ﹁客旅過
郡︒出私財供給民間︒無所預︒﹂といわれているが︑これは彼の生活に
多少のゆとりがあったことを示すものであろう︒又︑前述の如き譲之が矩を激励したという話も︑政治的不振の此一門から顕官を出したいとの願もあったであろうが︑矢張り仕宙することが彼等の経済生活を支える
嚢氏 研究 重要な面であったことを示唆するものではなかろうか︒些細な盗料によ
って確言は出来難いにしても︑此一門が元来俸禄生活者であったと見る
ことは出来そうである︒前述の如く︑三代の斐氏にしても︑必ずしも大
土地所有者とは考えられなかったのであるから︑まして涼州地方に逃避していたこの門流に於ては︑かかる官僚化は寧ろ当然のことであったか
も知れない︒
第二目 洗馬斐
ω 政治活動
此門流も亦河西の地に逃れていたのが︑僅の時に故郷に帰って来たよ
うである︵鮨薦諮陣嫌噛︶︒天恩の系統と襲碩の系統に分れるが︑天恩の系統は
政治的には全く不振であった露土龍系︶︒安直は徳行に勝れた立派な人物
であり︑そのような逸話が多く伝えられているが漁囎卸45︶︶︑郷里におけ
る地方官として終ったようである︒ 隻碩の系統と錐も︑京官が多かったとはいえ︑必ずしも顕官に至った
わけではない︒寧ろこの一家は儒学︑教養を以て著名であった︒駿にし
ても︑その子修︑宣︑敬憲にしても皆好学を以て知られ︑特に経史に通
じていたといわれ︵世︑或は官にあって礼楽を掌って条貫ありとか︑書︑
音律に通じ︑詩賦︑文章に巧である等と伝えられる嫡監繋平目︶︒中には
勿論︑宣の如く地方長官に歴任して吏才を称せられた者もあったが︵阯︶︑
そのような政治的︑軍事的動きは︑此一家にとって積寧ろ例外的なもの
であった︒
② 社会的生活と地位
この門流にとって特徴的なことは︑政治的には消極的で︑寧ろ郷党の
間に悠々自適することであり︑学問的家柄としての自覚である︒それを
最も代表的に示すものは︑斐宣の言葉として︑ ﹁吾本閻閻之士︒素無当
世之志︒直随牒推移︒遂曽於此︒﹂と伝えられるところのものである︵翻
鶉欝︶︒地方官として吏才を発揮した彼にしても︑そのような政治活動は ︶25︵
嚢 氏研究
本来好むところではなく︑官界に雄飛しようとの志はなかったわけであ
る︒此一門は前述の如く好学の士が多かったが︑ ﹁宣家賃儒学為業︒﹂
と見える如く︵砒︶︑儒学を以て家業としたわけであるが︑更に︑貴族階層
としての教養をも身につけていたことは︑駿については︑ ﹁相方倹有礼
度︒﹂といわれ︑修については︑ ﹁清弁好学︒﹂といわれ︑詞について
は︑ ﹁美儀貌多芸︒能音律︑博変︒﹂といわれ︑宣については︑ ﹁通弁
博物︒﹂といわれ︵阯︶︑献伯については︑﹁二一学尚風流︒有名京洛︒﹂
といわれ︵靴骸38︶︶︑予審については︑ ﹁性和雅︒未嘗失色於人︒工隷
草︒解音律︒﹂といわれている如くであった痴嬉臨騨︶︶︒ここに洗馬斐の
人々が︑政治的には顕官をださず︑郷里に自適する傾向をもち乍らも︑
尚誌代に於ける好学の風をおとさず︑教養貴族としての風格を備えていたことを知るのである︒
此門流が河東に於ける有力勢家としての地位をたもっていたことは︑
絢の族弟晒が邑中正となり︑宣が郡中正となったことでも明かである
が︵嶽鵬添45︶︶︑次の如き郷党における活動によっても伺われる︒苦難の人
望心惑が︑蓋呉の乱に応じて諸県を荒し廻り︑斐駿等の居住する聞喜県
にも来襲した︒ところが県には勿論兵佼の準備なく︑入情驚動し︑県令
はただ心痛するのみで為すところを知らなかった︒そこで駿は単三を集
めて属ましていうには︑ ﹁在礼︒君父有危︒臣子致命︒府県今為賊所
逼︒是吾等徊節亀甲︒諸君可不勉乎︒﹂と︵二分︵45裟験伝︶︶︒これによって諸豪
は奮激して賊を退ぞけたのであった︒この駿をみて︑崔浩は︑ ﹁為三河
領袖︒﹂と評したのであるから︵阯︶︑斐氏が此地方の著姓名門であったこ
とは明かである︒或は敬憲について︑ ﹁要録世々仁義於郷里︒孝昌中︒
蜀賊陳隻熾.所石亀暴︒蛙軍憲宅︒轍相約束︒不得与頭︒為物所伏如
此︑﹂と伝えているが痴軍馬︶︶︑此一族が郷党に於いて仁義の声名あ
り︑郷党の心服するところであったことを示している︒けれども︑それ
丈の仁義を称されるのは︑単に社会的声望のみならず︑その裏附として
の経済的実力のあったことを思わせる︒ところが此門流にどれ丈の経済 的実力があったか︑具体的資料に乏しい︒たゴ︑安祖は敢て仕官を欲せず︑悠々自適する丈の資産をもっていたようであり︵翻灘45︶︶︑修は弟務に青男︑田子を悉く与えたというから︵阯︶︑多少の財はもっていたであろうか︑但し奴鍵田宅ありといっても︑常に必ずしも大土地所有を示すものにはあり得ないこと既に筆者が指摘した如くである︒£瑚躍鶏向自翻会︶︒
第三三門来一丁
この一族は徽の孫苞の子孫である︵撫蝦即︶︶︒苞の父黎は晋末の乱に涼
州に逃れ三冠に仕えたらしい︵蔀緬籍臨51︶︶︒この門流に属するか否かは明か
でないが︑涼州に逃れていた斐氏は依然として中州の名門として知られ
ていたようで︑晋書︵鵬︶禿髪傳檀載記に︑﹁斐敏︑馬輔中州之令族︒﹂と
見える如くであり︑多くの一族が東帰した中で︑猶涼州に残っていた人
々もあったわけであろう︒さて︑苞の曽孫昌に至って︑東晋義煕末年に
河東に還り︑河東より裏罫に移ったようである︵認吾︵71襲叔業伝︶︶︒併し︑後には
講賎人と見られているから︵梁書︵10夏侯詳伝︶︶︑綿業等は講郡の何処かにうつった
のであろうが︑その兄の令宝の一家は寿陽に居住したといわれる︵就鱗︑
聾︒ω 政治的生活
この門流で最も有力且つその活動の中心となった人物は︑窯業であった︒一族の動向は殆ど彼によって決定されていたようである︒彼は父や
兄と同様宋から斉に仕え︑死の直前に斉に反して虚宿に降り︑一族殆ど
彼に従って北帰した漏瀟讃51︶︶︒此門流は斐氏にめずらしく︑武人的傾向
が強い︒その顕著なるが叔業であった︒彼は︑﹁少有気幹︒頗以葺草自
許︒﹂ ︵灘灘︶︶と評される如き人物で︑南至となるや︑太祖に従って軍
功を立て︑ついで世祖︑高瀬に仕えて殆ど軍職を累遷したが︑高宗は彼
の器を認めて︑﹁卿有如是志相︒何慮不富貴︒深々勉之︒﹂といったと
いう︵阯︶︒その後︑毒魚の腹心として活動し︑高径即位するや︑持節督生
州諸軍事︑徐州刺史となった痴緬灘51︶︶︒この徐州たりし時︑北魏高祖 ︶26︵
は︑同宗の尚書郎中斐章を遣わして︑これを招降しようとしたが︑開業
は正に得意の時代であったので︑南朝に於て富貴なることを章に誇った
のであった︵田野畳翫︶︶︒ついで建武四年十二月豫州刺史に遷り︑要衝寿陽
に屯焦した︒然るに永泰元年七月七宗崩じ東昏侯立つや︑大臣にして諒
せられるものあり︑京師に於ても屡々変起り︑而も東昏侯の二人解法
珍︑王附記が叔業に異志あるを疑い︑且つは薫習は北魏に降るであろう
との噂がしきりであった爾翻讃塾鋸殿本紀︑︶︒事実彼は北帰の志を抱いた
らしく︑寿春城に登って北方講評を臨み︑部下に対し︑ ﹁卿等欲富貴︒
亦可弁耳︒﹂といったと伝えられる︵暫斉書︵51襲叔紀伝︶︶︒斉朝はこの形勢をみてと
った故か︑永元元年九月には︑豫州から盆景州に転任を命じた︒これを
嫌った叔業は愈々謀叛の志を固めつつあったが︑偶々兄の子にして京師
にあった植︑麗が禍の及ばんことを恐れて寿光に奔り︑朝廷は必ず営業
を討つであろうと告げた︵阯︶︒朝廷も亦その反を恐れて寿陽斐氏の斐長穆
を遣して豫州に留まることを許したが︑叔業の不安を去ることができ
ず︵化史︵45斐叔業伝︶︶︑一時は子券之等を京師に遣した彼も︑流量等が寿春に奔
り︑永元二年二月朝廷が征討の軍を起すに及んで︑遂に北野を決意し︑
北魏の援軍を求めた︵萄斉書︵51躾叔業伝︶︶︒北魏は彼を雲南将軍豫州刺史に任じた
が︑既に病篤く寿春城に残した︒
その後毒性の子孫は余り栄えず︑子等宝の子孫が繁栄した︒植は少く
して学問に長じた教無人であったが︑永元元年叔父の許に奔った︒叔業死するや︑僚佐六法友等の推す所となり︑魏の援軍を迎えて功あり︑一時亮州刺史に任ぜられたが︑ついで大尽臓卿となり︑後には度支尚書に
至った︵化史︵45襲叔業伝︶︶︒又揚州大中正をも領せしめられた︒廻腸は︑武人であ
って叔業に従って軍功を立て︑寒駅に入っては南司州刺史に任ぜられ
た︵熱籔罰︶︶︒麗の弟藥は入魏後︑軍功の末に太中大夫︑揚州大中正とな
り︑中書令を経て︑出帝の初遠州刺史となった︵阯︶︒その弟衡は︑学識︑
才行土ハに諸兄に優り︑而も将略もある人物であった︒坦坦の世︑郡守と
なって孝貞寡欲にして善政を以て称せられ︑相州刺史に至った︵阯︶︒尚︑
斐 氏 研究 麗の子燗も揚州大中正を領している︒② 族的結合一意識と行動 先ずこの門流の族的結合について︑意識の問題から明かにしよう︒ 前述の如く︑叔業が南徐州刺史たりし時︑北魏高祖は︑南点したついでに︑斐章を遣して早業と語らしめている︒この時限は羽黒に︑﹁伯父﹂と呼びかけている︒勿論彼等は伯父︑甥の間柄ではないが︑その関係を示せば次の如くである︒
.嗣■辞弛㎡喋機器醸︶
この伯父という呼びかけは︑政治的考慮による発言で︑単純に親しみを
こめてのものと見ることは出来ない︒けれども神業の章に対する態度は
必ずしも冷たいものでもなく︑寧ろ同宗の人に対して自分の富貴を誇り
たいだけのことであったようで︑そこに尚︑南北に分離してはいるもの
の︑同族としてのかすかな意識を伺えるようではある︒北魏高祖が章を
遣したのも選点を考慮してのことであろう︒勿論そのような︑あるかな
きかの︑かすかな同族意識があったとしても︑現実的には殆ど無意味であったことは明かである︒
ついで︑叔業が北魏入国を企つるや︑一度南亮州への転任を命じた斉
は︑その転任を取消して︑これを慰撫する為に︑宗人中書舎人斐長
吟を遣した︵盛書︵51︶︵乳罫緬壕︑︶︒この長野は︑魏の野州刺史重りし緯の後
で︑早くより南朝に仕えた寿陽襲氏たる︑曾孫の長子であろうと推察さ
れる︵曙日輪襟難亀黒砂︶︒従って章の場合よりも血縁的には随分遠いも
のとなる︒けれども斉が特に長穆を遣したことは︑矢張り宗人としての
立場を利用する気持があったのであろう︒併し︑耳垂の甥遼が︑一旦叔
業に押されて魏に降ったものの︑直に南帰を考えたことからみても︵南史︵58︶
膝趣︶︑この一門と叔業との間に族意識を求あるのは無理であろう︒同じ准南の地を根拠地とし乍らも︑門流の相違は最早族的意識を越えたもの
であったわけである︒それは南来館装自身の中に於いても草藤の子孫は ︶
︵ 27
斐氏 研究
薄陽にあったわけであるが︑此一派と寿陽斐氏との関係は勿論又︑誰郡
にあった心心等とその兄令宝の子孫との間の関係も︑何等見出されない
のであって︑令宝の一派は早くから居住地を別にした関係からか︑蘇安
都に随って魏に入っているのであって︑族的結合よりも利害関係の方が
緊密な関係を結ばせる切実な問題であったようである︵北斗書︵21高季式伝︶︶︒
では同族意識は︑具体的にどの範囲までの人々に︑行動を伴って現わ
れているであろうか︒
叔業が南斉に反するとの風評が立つや︑兄叔宝の子植︑麗︑藥︑彷等
は︑京師にある母を棄てて寿陽に奔り︑叔業に叛をすすめて北魏に入国
している︒従って蛍雪をとりまく近親一同は殆ど虚業と行動を土ハにした
と見れる︒その他領宝の子︑彦先の妹の煮たる京兆出身の章伯折も行動
を土目にし︑叔業と姻戚関係にある河東出身の柳玄達一族︑並に華南︐出身
の梁祐も同様であった︵洞批避搬業伝︶︒少くとも︑子︑甥︑姻戚の人々が一
族の中心たる叔業と共に︑自らの運命をかけた同一行動をとっていたこ
とは事実である︒僅かな例に過ぎないけれども︑行動を伴った同族結合
は恐らく此範囲を出でなかったのではなかろうか︒此所で注目されるの
は︑姻族と錐も近い関係にあるものは︑極めて緊密な結合の一員となり
うることであって︑同宗的意識よりも寧ろ親里的意識の方が既に支配的
であったことである︵駅逓曜調廟薙傭撚蝉畷銑献畷嫡漱騨晶晶噂曜射管制︶︒
㈲ 強族的性格と門閥意識
装叔業の場合は南北両勢力の接触地帯たる︑追録という地域を舞台と
しての大勢力の帰属問題であり︑叔業.を巡る豪族達の性格の探れる面白
い場合である︒
叔業と共に多くの豪族が北遷したことは︑ ﹁遼還寿陽︒値刺史斐女業
以寿陽降魏︒豫州豪族皆被駆掠︒﹂というところで明かである︵撫八三28︶︶︒
ところで叔業と共に北遷した人々はどのような人々であったであろうか︒戦史によれば﹁叔業之庭回︒又有サ挺︑柳玄達︑重風息︑蚊針光︑
梁祐︐心高容︐閻慶胤︐柳僧習並預其功︒﹂と述べている︵窺明転齢︶︶︒と ころが魏書によれば︑ ﹁衣冠書士預叔業講者︒安定皇甫光︑北地豊門︑清河崔音量︑天水閻慶胤︑河東柳僧習等︒﹂と記している︵誠書︵胃髪叔業伝︶︶︒尚此外に︑遼東出身の李元護︑安定の席法馬等が抵当の死後︑植を助けて北帰したといわれる︵上張︶︒これらの人々が︑勿論︑﹁豫州豪族﹂の全体と考うべきではないけれども︑その著名な人々であったことは認めてよいであろう︒これらの人々が︑その北方に於ける本貫に於て著姓であったことはいうまでもないが︑南遷して寿陽附近に落着いてからは︑必ずしもその社会的地位が保たれていたか否かは明かなわけではない︒例えば李元護の祖先の如く︑後漢以来の名家で︑西金時代には司徒に早った程の人物を出した家でも笹蟹44︶︶︑その後仕官せざること数寄に及べば没落して地方豪族に蔑視される如きこともあり得たわけであるからである︵卜書︵71李元護伝︶︶︒では事実はどうであったか︒資料の点から︑柳僧習の場合についてみるに︑僧事の四世祖恭は後趙に仕えて河東郡守となり︑後に河東の民を率いて汝頴の間に徒り︑それ以来江南に仕え︑至聖は宋の同齢別駕︑湿婆郡守に至った︒解糖は叔業について北帰してから︑量地︑頴川二見守︑揚州大中正となっている︵周回︵22柳口伝︶︶︒.このように僧園の一門は本貫地の柳氏とは完全に別派をなして独立し︑その独立性が北魏朝廷に認められて揚州大中正となったのであり︑この地方に於ける有力勢力家として認められていたこと間違ない︵鰍繋韓舐剃鯉難瀬韓舐勧工㌫賑︶︒それは南来呉蓑一門に於ても同様であって︑元来河東の斐氏が誰郡に落着いて南北境界線上の大勢力となり︑その北帰後は植︑藥︑燗の三人の揚州大中正を.出しているわけで︑それは南北勢力境界線の有力者を北魏に招致する政策であったともいわれるが︵宮川爾志氏︑﹁東晋南北朝の申正制度︵岡山大学法文字部学術紀要1︶﹂︶︑寧ろそのような独立的大勢力であったから揚州大中正に任命されたと考うべきであろう︵前出﹁章氏研究南北朝重氏の条.﹂参照︶︒ 以上の如く考えるならば︑叔業と行を共にした人々も︑明かにすべき資料にかけているとはいえ︑本貫地の同族から完全に独立した此地方の
有力勢力となっていたものと推定してよいであろう︒このような多くの ︶28︐︵