水に暮らす
~沢・湧水・井戸~
小泉成世
はじめに 1 水資源の概要 2 水利用の移り変わり
2.1 水道設置以前 2.1.1 沢 2.1.2 井戸
2.2 水道設置後 共同タンク 2.3 町営水道
3 水に対する認識 3.1 沢の名前
3.2 水が豊富、水が不足
3.3 道路と森林が原因―尾呂久保の人の見方―
4 水文化 おわりに 参考文献
はじめに
静岡県川根本町で「水」といえば「大井川」だろう。しかし、水川という地域の日常用 水をまかなってきたのは、「沢」と「湧水」、そして「井戸」といった水資源である。大井 川も、古くから交通の要所であり、遊びの場やダム開発などに利用されてきたが、そこに は国や県など外からの大きな力が加わってくるものだった。それに対し、沢、湧水、井戸 の水は生活用水や灌漑用水として、地元の人々のみに利用や管理をされてきたものだった。
それらは常に人々の暮らしとともにあったのである。全国的にみると、川もしくは井戸か ら日常用水を得ている地域が多いが、水川では沢の水や湧水を多く使用しているところが 特徴的である。そこで今回は沢、湧水、井戸という水に焦点をあて、それら水と人々がど のようにかかわってきたのかを調べることにした。最終的には、人々にとって水とはいか なる存在であるのかを、あきらかにしたい。
1 水資源の概要
水川には、2本の川と11本の沢が流れている(図1)。
2本の川は大井川と水川川である。大井川は、いわずと知れた川であり、水川のすぐそば
も流れている15。水川川は河こ内川うちがわとも呼ばれる、大井川にそそぐ川である。水川川が行政上 の名で、河内川は水川の人々が呼ぶ俗称である。人々は、水川川という本当の名も知って いるが、河内川の名で呼ぶことが多い。人々がなぜ河内川と呼ぶのかはわからなかった。
11本の沢は、大井川へとそそぐものが8本、水川川(河内川)へとそそぐものが2本、沢か ら沢へとそそぐものが 1 本である。沢とは、山間の比較的小さな渓谷のことであり、渓谷 の名称の接尾語は、日本アルプスを挟んで西が「~谷たに」、東が「~沢」となっている(鏡味 1996)。
川と沢以外に、水川には湧水、井戸という水資源がある。水川には湧水が出る場所が何 か所もある。湧水があるからその近くに家を構えたという家が、少なくとも 4 軒あること がわかっている。大島・西・付井平の沢のそばから出る湧水を使った家が 1 軒、鯉沢と宮 脇・前田の沢のなかほどにある湧水からひいた家が 2 軒、橋詰沢と小水沢の間の湧水を利 用した家が1軒で、合計4軒である。
昭和30年代まで水川の人々は、飲料、炊事、洗濯などの生活用水や、畑に水をまくため などの灌漑用水に、大井川ではなく沢や湧水や井戸の水を利用してきた。かつては水量が 豊富であった大井川の水を使用しなかった理由は、「大井川から水をひくより、沢、湧水、
井戸の水を使用したほうが楽だったからだ」と、人々は語る。沢や湧水であれば、傾斜を 利用して樋で水をひけたし、井戸は家の敷地内にあったから容易に水を得られた。すでに 触れたように、湧水の近くに家を建てる事例もあった。大井川から水を得ようとすると、
家より下方に川があるため、水を運ぶのが困難であったのだ。昭和30年代に共同管理の水 道が設置されてからも、その水は各組ごとに家の最寄りの沢の水からひいてきていた。ま
た、平成7(1995)年に設置された町営の水道は、水川川(河内川)の伏流水をひいてきている。
2 水利用の移り変わり
水川の人々が水とどのようにかかわってきたかをあきらかにするために、水川の人々の 水利用の移りかわりについて、詳しくみていく。具体的には、水道設置以前の様子と、水
道設置後(共同タンク使用時期、町営水道使用時期)にわけて記述する。
2.1 水道設置以前
昭和30年代に水道が設置されるまでは、竹の樋といを用いて沢や湧水から水をひいたり、井 戸から水をくんだりして水を得ていた。沢から水をひく家が多くあり、近くに湧水が出る 家はそこから、何軒かは井戸からといった様子だった。沢から水をひいていた家、井戸か ら水を得ていた家にわけて、当時の様子を振り返ってみよう。
湧水を利用していた家も水源から樋で水をひいてきていた。今回の調査では、湧水を利 用していた方の話を詳しく伺うことはできなかったが、沢の水をひいていた家の様子に近 いのではないかと推測する。
15 大井川については、本報告書加藤を参照して頂きたい。
2.1.1 沢
沢から水をひいていた家では、竹を半分に割って樋をつくり、沢の上流から家の近くま で水をひいていた。樋の長さは、沢と家の位置により異なっていたが、ある家では50~60 メートルほどであった。樋先の水は、コンクリートの水槽の中にためる家が多かった。お 風呂場やおかって(台所)などで水を使いたいときには、必要に応じて樋に別の樋をのせてつ なぎ、ひいていた。多くの家で、おかってにはカメをおき、そのなかに水をためた。その カメからひしゃくで水をすくい、料理に使ったり、流しで洗い物をしたりしていた。洗濯 は、樋の水で洗い、沢が近い家は沢で、大井川が近い家は大井川で、水川川(河内川)が近い 家はそこですすいだ。
家のすぐ裏まで水をひける家はいいが、家より下にしか水をひけない家もあった。その 理由は、沢と家の間に水をひくことに必要なだけの距離や高低差がなかったからだ。そう いった家では水を桶に汲み、家まで運ばねばならず苦労が伴った、と経験者は回顧する。
どの家がどの沢から水をひくというのは決まっていて、だいたいはそれぞれの家の近く の沢から、ひくようになっていた。沢は共同で使い、そこからの樋は家ごとに使用、管理 していた。ある家では数年に1度、別の家では10年に1度ほどの間隔で、樋の作りかえを 行った。大雨が降った次の日や、樋先から水が出なくなったときには、詰まった葉っぱを 取り除くなど掃除をしたり、樋が壊れていれば修理したりした。ときにはメメズ(ミミズ)が 入っていたり、ヘビが流れてきたりしたこともあったという。人々は、「そんな不衛生な水 でも体を悪くすることはなかっただから不思議なものだ」とか、「人間は丈夫なものだ」と か語った。
樋は各家庭で1本ずつひく家が多かったが、家によっては途中までは2軒、または3軒 が共同で 1 本ひいてきていて、そこからそれぞれの樋にわけてひく家もあった。その理由 は、沢と家との位置関係で、なかほどまで共同でひいてきた方が楽だったからだ。3軒が共 同の樋を利用していた場合には、松の木の丸太を介してそれぞれの樋をつなげていた。丸 太の四方から穴をあけ、そこに4本の樋を通して水を流していた。1本は沢から共同でひい てきていた樋、残りの3本は樋の水をひきついで各家へとむかう樋の合計4本である。冬 場になると沢の水量が減るため、大変なときもあったが、井戸のある家や他の家にもらい に行くことでなんとかしていた。
このころには生活用水、灌漑用水以外の沢利用として、水遊びや魚をとること、水車の 使用などがあった。
水遊びをするときには、石で沢をせきとめることもした。せきとめ方は、大きな石を積 み上げて、その隙間に小さな石を差し込んでいく。このとき、沢の石は荒々しく角ばって いるから隙間を埋めやすい。その後、水が漏れるところには草を詰めて、水をせきとめて 遊んだ。
魚はハヤ、ウグイ、メダカ、ウナギなどがいた。それらをとって、串にさして焼いて食 べることもあった。ウナギは22時過ぎころにとれた。沢へ行き、ウナギがいそうな穴に指
を突っ込み、指を噛まれたらいるという証拠であり、捕まえた。今では、魚はほとんどい ない。沢の水にカルキが入れられたことや、大井川にダムができたことなどが原因ではな いか、と人々は語る。このように、沢に生きていた命あるものの変化について、人々はそ れを社会の変化と結びづけて認識している。
水車は、水川内では 5 か所ほど設置されていた。米や麦を精米するために使用していた ものであった。1つの水車の2か所で精米ができたため、1か所は所有家庭が使用し、もう 1 か所はほかの家に貸し出して使用していた。精米するための機械が導入されてきたため、
水車は昭和 25(1950)年頃から使用しなくなった。今ではもう跡形もない。「今、水車があっ ても水車をまわすだけの水が沢にない。そう思うとやっぱり昔は水が多かっただな」と語 る人もいた。
沢には水の神というものはいないが、年末や正月には自分たちが利用している沢の水源 に、榊を供えたり松を供えたりするという。これは現在も続いているそうだ。
2.1.2 井戸
井戸を持っている家は今回わかっただけで4軒あり、それら4軒は道路より下の家、大 井川近くの家であった。その理由について「道下みちした(道路より下方)の家じゃ沢から遠いから、井 戸を掘っていたじゃない?」と語る方もいた。
今回の調査では井戸を持っている家に住む2人の方からお話を伺うことができた。A氏(60 歳代 男性)の家、B氏(50歳代 女性)の家にわけて記述する。
A氏は「明治になったころ今の家がある場所に住むようになったらしい。そのとき私の祖 父が井戸掘りの職人に頼んで井戸を掘ってもらったのではないか」と語る。現在も井戸は 家のすぐ裏にある。沢と違って、井戸は水道を設置してからは使わなくなったという。
A氏が小さい頃は釣瓶を使って井戸から水をひきあげていた。中学生になったころからは 手押しのポンプに作りかえられた。その後A氏は水川の外に出ていたためいつ頃からかは 定かではないが、井戸にポンプがおりていて、スイッチを押せば自動に引き上げてくれる 揚水ポンプというものにかわった。
井戸から汲んだ水は、家のなかにある水ガメにためていた。水ガメは高さが 1 メートル 弱、直径が60センチメートルほどの土でできたものであった。特に誰が汲みに行くという ことは決まっていなかった。「井戸が家のすぐ後ろにあったから、汲みに行くのが大変とい うことはなかったからだろう」と語る。井戸の水が枯れるということはなく、豊富に湧き でていた。ただ、釣瓶を使っていた頃、冬になるといつもより釣瓶を深く落とさないと水 にたどりつかない、という印象はあったという。冬場になると近所の人が水をもらいにく ることもあった。特に年末年始はいつもより水が必要になるから、もらいにくる人が多か った。もらいにくれば、あげていた。
B氏宅の井戸は、以前は家の外にあったが、家の建て増しによって家のなかにあるように なった。昭和54(1979)年ころまでは豆腐屋を営んでいて、豆腐作りに井戸の水を使っていた。
豆腐屋を辞めてからは井戸の水は使わなくなった。井戸を使わなくなった今でも井戸は残 っている。B氏の義父が「井戸のふたをふさいでしまってはよくない」と言っていたことか ら、ふたを半分ほど開けてもいる。大雨が降ると、今でも井戸の真ん中ほどまで水が上が ってきて、ゴーッという音がする。夏場は井戸から冷たい風が上がってくる。井戸のある 部屋の隣にある居間は、クーラーが要らないほどの涼しさである。
A氏宅では、井戸のそばには水神さんを祀っている。現在でも年に 2回、盆と正月には 榊を供えて拝む。どこからもらってきたものかはわからないが、以前はお札が飾ってある こともあったという。B氏の家では、井戸のすぐ隣の柱には、水神さんが祀ってある。今で も正月や節句などの行事のときには、嫁である B氏がろうそくをあげたり、花をあげたり して拝んでいるとのことだ。水神とは、水をつかさどる神のことであり、田のほとりにあ って稲田の水を供給する水神と、水難防除を含んだ水の生活一般を守る水神がある(飯島
1980)。A氏、B氏宅の井戸の水神は、水難防除を含む生活一般を守るものであろう。
井戸を所有していた家でも、他の家に水をわけてあげていたことなどから、人々の共同 性がうかがえよう。使わなくなった今でも井戸を残していることや、水神さんを祀ってい ることからは、水を大切なものとしてみていることがわかる。
2.2 水道設置後 共同タンク
はっきりした年は定かではないのだが、水川全体に水道が設置されたのは、昭和30年代 のことだった。町が管理するものではなく、水川の人々で、管理するものだった。数人ず つの組に分かれて、沢からひいた水を沢沿いにある共同のタンクにためて、そこから地下 をパイプで通して各家に水道がひかれた。いつごろからかははっきりしないが、途中から 行政の指導によりタンクにカルキを入れるようになった。また、水質がよかったから、カ ルキを入れずにすむタンクもあった。
水川で水道が設置されたのは、次の2つの理由からだと、人々は語る。
1つ目は、水道を設置すれば衛生的によくなるから、ということである。前述したように、
樋を使用していた家では落ち葉が入り込んだり、メメズ(ミミズ)が入ったりするという問題 があった。井戸を使用していた家では、人々が畑に農薬を使用するようになってきていた から、それが地中に浸透して、井戸水に入り込んでくるのではという心配があった。共同 のタンクを持ち、水道を設置すれば、タンクの下部に泥や葉っぱなどが沈殿し、きれいな 部分の水だけが供給されるため、衛生的によい水となる。
2つ目は水が絶える心配がなくなるからだ。樋を使っていたときには、冬場に水が少なく なって困る家もあったが、共同タンクの水道を設置してからは水が絶えることがなくなり、
安心できた、と語った。同じ沢を使用していた人同士で「あの人の家の方が水をたくさん ひいている」とか「あのうちはいつも水を流しっぱなしにしている」とか、けんかがあっ た人々もいたが、水が絶える心配がなくなったから、けんかすることはなくなった。
共同タンクの管理は組ごとに共同で行われた。組の人数は多い組で16軒ほど、少ない組
で 2 軒であり、近所の人同士で組み、近所の沢からひくかたちになっていた。必ずしも水 道設置以前に同じ沢を使用していた人同士で組むといったかたちではなかった。水道が設 置される以前まで、湧水からひいていたり井戸から汲んでいたりした人々も水道をひく組 に加わっていたし、1つの沢に2つの共同タンクが設置されているところもあるからだ。組 ごとに多少管理の仕方に差はあるようだが、16軒ほどで組んでいた組の管理の仕方は、次 のようであった。ひと月に3~4軒ずつ「水当番」という担当が決まっていて、1週間~10 日に 1 度はタンクに異常がないか確認に行ったり、大雨が降った次の日には確認に行った りした。どこか壊れていて直さなければならないときには、共益費(各家5,000円/年)から出し て直した。共益費で間に合わなければ、組の人たちで集まって会合を開き、その都度費用 を出し合って直した。年に2~3回は共同タンクの清掃を組で集まって行っている、といっ た具合だった。
水道を設置したことで、水はどうかわったかと尋ねると人により様々な答えが返ってき た。それまで井戸を使用していた A氏は「タンクにかわったら、薬の味になった。井戸の 水は夏冷たくて、冬はあったかくてよかった。タンクの水はそうはいかない」と語る。そ れまで沢から水をひいていたC氏(80歳代 男性)は「タンクの水が1番いい。タンクの水は 沢の奥からひいてきているから、夏は冷たく、冬は暖かい水だから。樋を使っていたとき は、不衛生だった」と語る。このように地元の人々の見解は、水道設置以前の水の方を好 む人、水道設置後の水の方が気に入っている人など、人により様々であることがわかる。
このことから、共同のタンクを使用した水道を設置したことで、人々の暮らしに大きな 変化があったといえよう。
2.3 町営水道
平成 7(1995)年には、水川に町営の簡易水道が設置された。設置するときには、建設委員
が各班から数人ずつ出て、代表として行動した。川根本町全体をみると、簡易水道が設置 された時期は、各地区により大きく異なりがみられる。1番早いのが昭和29(1954)年の徳山 藤川地区であり、昭和30年代に3地区、昭和50年代に3地区、平成に入ってから水川含 め4地区、1番遅いのが田野口地区で平成19(2007)年に設置された。このことから、水川に 町営水道が設置されたのは、川根本町において早い時期とはいえず、どちらかといえば遅 い時期だったといえる。
簡易水道は、水川神社のすぐ下のあたりにある浄水場からひかれている(図1)。水川川(河 内川)の伏流水からひき、道路の地下にパイプを埋め、道なりにパイプを通して浄水場へと 水は至る。そこから水川の各家庭へと、地下のパイプを通じて、水は供給されている。
生活用水には町営水道を使用するが、農業用水には共同タンクの水道を使用する家が多 い。人々はその理由を「あるものは使わないともったいないから」、「沢の水はタダ同然だ から」と語る。町営の水道は使用した分だけ月々何千円とかかるが、共同タンクの水であ れば、年に数千円ほどの費用のみで使用できる。飲み水には行政の衛生的指導により町営
の管理の行き届いた水を使うが、農業用水には費用の安く済む共同タンクの水を使用する、
ということであろう。
町営水道が設置されたことで水の味は変わったかと問うと、ある人は「そりゃあカルキ 臭くなった」とか「町営の水は生ぬるい」と語り、別の経験者は「味の差はわからない」
と語った。これには前者が使用していた共同タンクはカルキを入れずにすんでいたが、後 者が使用していた共同タンクはカルキを入れていたことが影響しているのだろう。
町営水道が設置されてからも共同タンクの水道は使用され続けている。このことから、
いまだに沢が人々と関係が深いことがうかがえる。
3 水に対する認識
今回の調査で沢や水というものに対する人々の認識の差がみられた。1つ目は沢の名前の 認識、2つ目は水川に住む人々の間での水量に対する認識、3つ目は水川に住む人と尾呂久 保に住む人の認識である。以下、それらを詳しくみていこう。
3.1 沢の名前
沢の名前から、水川の人々の水に対する認識をみてみたい(表1)。
まず、水川内部における沢の名前の認識についてである。水川には、人々に認識されて いる沢が11本ある。それら沢には、水川の人々に共有された名称で呼ばれる沢と、名が共 有されていなくて各々が俗称で呼ぶ沢がある。共有された名で呼ばれる沢は、丹たん郷沢ごうざわ、横沢よこさわ
、マセギ沢、鯉沢こいざわ、橋詰沢はしづめざわ、栃とち洞沢ぼらざわ、小水沢こ み ん ざ わ、平ひら溝沢みぞざわ、太刀洗沢た ち あ ら い ざ わ
の 9 本である。名が共有 されていない沢は、人々から「大島の沢」とか「西の沢」とか「付すけ井いだいら平の沢」とかいう俗 称で呼ばれるものと、「前田の沢」もしくは「宮脇の沢」と呼ばれるものの2本である。こ れら11本の沢の名の由来は、8本が字の名からとったもの、2本が由来不明なものである。
残りの 1本、太刀洗沢はある伝説からきている。ちなみに、伝説にでてくる山の地面の割 れ目は現在も存在していて、大人が落ちる可能性もある危険な場所と認識されている。水 を通して、旧街道とのつながりがあったことを反映しているといえよう。
次に、水川の人が認識している沢の存在と、水川以外の人が認識している沢の存在の差 についてである。水川の詳細が分かる地図と比べるため、今回はゼンリン地図と比較した。
ただ、ゼンリン地図には沢の名までは載っていないため、沢の存在が記されているかどう かを調べてみた。結果は、ゼンリン地図に記入がある沢が5本、未記入の沢が6本であっ た。水川の人々が認識している沢の方が多いことがわかる。水川の人々も全員がすべての 沢を知っているわけではないだろうが、その差は明らかである。
水川において、11 本の沢の存在は認識され、その名は使用されてきた。ゼンリン地図に は載っていないが、人々が認識している沢があることは、水川の人々と沢との近接性を示 しているといえよう。「環境の民俗的な評価は基本的にはその分類が生活とどう結びつくか という点に帰着させることができる」(篠原1995)という。水川では、沢が日々の生活に密接
にかかわってきたから、11本の沢は認識されてきたといえよう。
表 1 11 本の沢
共有された名 共有されていない名 ゼンリン 由来
丹郷沢 ― ○ 字の名「丹郷」から
― 大島の沢、西の沢、付井平の沢 × 字の名「大島」「西」「付井平」
から
横沢 ― × 不明
マセギ沢 ― × 不明
鯉沢 ― ○ 字の名「鯉沢」から
― 前田の沢、宮脇の沢 ○ 字の名「前田」「宮脇」から
橋詰沢 ― ○ 字の名「橋詰」から
栃洞沢 ― ○ 字の名「栃洞」から
小水沢 ― × 字の名「小水沢」から
平溝沢 ― × 字の名「平溝」から
太刀洗沢 ― × 昔、旧街道を通っていた武士
が、道すがら水川に住む女を 刀で切り捨て、山の地面の割 れ目に女を捨てた。その女を 切り捨てた刀(太刀)をこの沢 で洗った、という伝説から太 刀洗沢という。
3.2 水が豊富、水が不足
水川に住む人々の間での認識の差についてである。水川は水が豊富か否かについて、D 氏(70歳代 女性)は「水のあるところだと思った」と語ったが、E 氏(70歳代 男性)は「水が 少ない地域だ」と語った。その認識の差は、経験の違いからきているようだった。
D氏は、昭和30(1955)年頃に久野脇地区から嫁いできた方だ。D氏は久野脇での暮らしを 次のように語った。
私ら住んでたとこは水が少ない。井戸もあったけど、渇水にもよくなった。水川から 尾呂久保くらい距離が離れている山から、土にくわで溝を掘ってひいてきていた。お 風呂の水は大井川から、バケツに汲んで運んできていた。大井川のすぐわきを掘ると 水が出てくるから、そこを穴にすると、きれいな水になるだ。そのためたとこから汲 んでいた。運ぶのは大人の仕事でね、子供のころは親の真似して、小さなバケツに汲 んで、親の後ついて歩いていただよ。
久野脇では水の確保に水川よりも苦労していた様子がうかがえる。D氏は「水川に嫁い できて水のあるところだなと思った」と語った。「どこもかしこも水が湧き出ている。ひら くと水がある」とか「水川って名前をよくつけたもんだと思うよ」などと語り、「水がある
ところだなと思った」とは、何回も繰り返し語った。D氏以外の水川の人々も、水川は水 が豊富だと語る人が多かったが、D氏の水について語るときの口調は、ほかの人より切実 さや熱心さというようなものを感じた。D氏にお話をうかがい別れたあとに、少し遠くか ら大きな声で「ここらいっぱい沢があるでねー」と言ってくれたのが、心に残っている。
D氏とは異なり、E氏は「水川は水の少ない地域だ」と語った。町営水道がつくられた 理由について尋ねたときに「水川は飲み水が不足していたから、必要だった」と語ったと きの様子が印象的だった。ほかの人々も冬場に水に困ることはあったと語る人はいたが、
そのときのE氏の口調はほかの人々より、真剣さがあった。その理由は、E氏の利用して いた沢の水量が少なかったからであるようだ。その沢では、樋でひいていたときも、共同 タンクの水道を設置したときも、同じ 2 軒で利用、管理していた。樋を使っていたときに は冬場に水が枯れてしまい、飲み水はほかの家からもらってきたり、お風呂の水は大井川 から汲んできたりしたこともあった。共同タンクを使用してからは水が枯れることはなく なったが、水が少なくなったときにはもう 1 件の家と「何時~何時までは水を使わない」
と取り決め、節水を行うこともあった。ほかの沢では1つの沢に2つの共同タンクが設置 されていたり、1つのタンクを16軒ほどで利用、管理していたりした。それに対し、この 沢では 2軒で利用、管理していたことや、タンクを設置してからも節水もしなければなら なかったことから、沢の小ささがうかがえる。E氏は町営水道ができたことで「安心して いられる」と語った。その言い方には様々な思いが詰まっているように感じられた。
D氏は、水が少ない地域からその地域よりも水が豊富な水川に嫁いできたという経験か ら、水川は水の豊富な地域だという認識に結びついていた。E氏は水量が少ない沢の水を 利用していて、水の少なさに苦労したという経験から、水川は水が不足しているという認 識に至ったといえよう。
3.3 道路と森林が原因―尾呂久保の人の見方―
水川の人より尾呂久保の人の方が沢に対する確固たる考えを持っていた。それは沢の水 量が減少した理由と、沢の魚が少なくなった理由についてである。
「沢の水や湧水は、50年前(昭和34年、1959年)ころから少なくなってきている」ことは水 川の人々も尾呂久保の人も共通して語った。その理由について水川に住むある人は「それ はわからない」と述べ、ある人は「それはやっぱり大井川の水が少なくなったから、沢の 水も少なくなったんじゃないか」と語った。その答え方には曖昧さが感じられた。それに 対して、尾呂久保に住むF氏(70歳代 男性)は、「科学的に正しいかどうかはわからないけど、
おれはこう考えてる」と述べて次のように語った。
沢の水が昔より減ったのは、道路ができたことと、山の木がかわってしまったこと が原因だと思う。車が尾呂久保に入ってきたのが昭和30年頃。それから道路がつくら れた。道路がつくられると雨が降ったとき、道路のアスファルトの部分には、水が浸
透しない。そのアスファルトの分だけ、土が水をためておける分が減る。
昔は広葉樹だったのが、今じゃスギやヒノキにかわった。広葉樹だったときには木 は、冬に葉っぱを落とす。葉に与えるだけの水分を欲しがらないし、木は冬に休眠す るから、その分地中に水がしみこむ。今のスギ、ヒノキは冬に葉っぱを落とさない。
木が水を吸い込む量が夏場も冬場もかわらない。土にため込んでおける水の量が昔よ り減った。だから、土から湧き出る水の量も減った。
また、沢の魚の減少した理由について、水川の人々は「水道がつくられてカルキが入れ られたから」とか、「ダムができたことで魚が上がってこれなくなったから」とか語った。
一方、尾呂久保のF氏は以下のように語った。
魚の減少も木が広葉樹からスギ、ヒノキにかわったことが原因じゃないか。広葉樹だ ったら冬に落ちた葉を肥料としてこのくらい(横約1センチメートル、縦約3センチメートル) の虫が育つ。魚はその山からきた虫をエサとして育っていた。それがスギ、ヒノキに なったことで葉が落ちなくなり沢の虫をエサにしていた魚も減ったんじゃないか。
このように F氏のどちらの語りも問われたから考えたというものではなく、常々から自 分の理論として持っているものだった。
水川と尾呂久保では場所も流れている沢も違うから、考えの異なりがみられることは当 然である。ただ、尾呂久保の F 氏が理論を構築するに至ったのは、沢との密着性からきて いると感じた。尾呂久保では、現在でも沢でわさびを育てたり、ヤマメを飼っていたりす る。ふきやクレソンが自生しているのをとってきて食べたりもする。水川では、以前には 沢で魚を獲ったり飼ったりしていたことはあったというが、現在、生物をとったり育てた り、植物を利用したりということは耳にしなかった。これらことから、水川より尾呂久保 の方が沢を利用し、直接に触れ合っているようだ。普段から親しんでいるからこそ、F氏は 沢の水量が減少したことや、沢の魚が少なくなったことに考えを巡らせて、上記の理論を 持つにいたったのではないかと思われる。
4 水文化
ここまで、水川の水文化がいかなるものであるのか、をみてきた。この節では、水川の 水文化がほかの水文化と比べて、どのような特徴があるのかを 5 つとりあげて述べていき たい。
まず、日本のほかの地域では川、もしくは井戸の水を使う家が多かったことに対し、水 川では沢の水を利用していた家が多かったことがあげられる。前述したように、大井川の 水を使用しなかった理由を、人々は「大井川から水をひくより、沢、湧水、井戸の水を使 用したほうが楽だったからだ」と語った。家より下方にある大井川から水をひいてくるよ
り、家より上方から流れる沢の水や湧水を、流れに沿ってひいた方が合理的だったのであ る。琵琶湖岸で生活用水の利用実態について調査した古川は「生活用水は近くにあればあ るほど便利であり、どれほど大量のキレイな水があっても、それが家から遠く離れていれ ば日常の水としての価値はほとんどない」(古川1984)と述べる。水川の人々が大井川でなく、
沢や湧水を利用する理由は、古川の理論にあてはまるだろう。
2つ目に水川では水が共的に管理、利用されてきた、という特徴がある。たとえば、水道 が設置されるまでは沢の水を数軒で管理、利用していたことや、水だけでなくそれを通す 樋も共同で使用している家があったこと、水がなくて困ったときにはほかの家にもらいに 行っていたこと、水道が設置された後も、組をつくり共同で水を使用、管理していること が、共同管理と共同利用の実状である。このように水が共的に管理、利用されるのは、以 下の理由からではないかと考える。
まず、水という資源が共的資源であるからである。共的資源とは「ある限られたメンバ ーシップによって共同所有や利用がなされている」(菅 2006)ものであり、「生活空間を共に する人々の全員の生活維持に必要不可欠のものであったため、個別化されることは極力避 けられ、複数、多数の人々によって共同に所有されたり、あるいは所有されないけれども 共同で使用されたりしてきた」(菅 2006)もののことである。水川の水は水川全体の共的資 源であろう。だから、沢を共同で利用したり、水が不足したときにはわけあったりしてい たとうかがえる。
次に、水川の沢がコモンズとしての沢であるからだろう。コモンズとは「複数の主体が 共的に使用し、管理する資源や、その共的な管理・利用の制度」(菅 2006)のことである。
水川の沢は、時代によって管理、利用をする人々や、管理、利用の方法は変化したが、何 軒もの家が共的に管理、利用してきたことはかわらない。そこにはコモンズが働いている といえよう。これらから、水川の水は共的に管理、利用されてきたのであろう。
3つ目の特徴は、水の「所有」についてである。井戸を使用していた頃、井戸は各家庭が 個々に所有するものであり、普段はその家の人々のみによって管理、利用されていた。し かし、水が不足しているからわけてほしいとほかの人々が言ってくれば、わけてあげてい たという。個人の所有であるのに、他の人にわけてあげることには、それほど抵抗がなか ったようであった。これは、水が共的資源であるからということもあっただろうし、それ に加えて、「土地所有の二重性」が存在していたと考えられる。「土地所有の二重性」とは
「日本の村落社会において、土地のほとんどが個人に私有され「個人の土地」とされてい るが、その基盤には村落の領域全体を含む「ムラの土地」として認識される「総有」があ るとする考え」(菅 2008)のことである。井戸は「個人の土地」として私有されたものであ るが、「ムラの土地」としての「総有」でもあるとする考えがあるから、井戸の水をほかの 家の人々に抵抗なくあげていたのではないだろうか。
4つ目に水川に水道が設置された時期と、その理由について、ほかの地域と比較してみた い。
水川に水道が設置された時期は、昭和30年代であった。私と同じく静岡大学社会学科文 化人類学コースに所属していた児玉亜希子氏が、平成17(2005)年度に富士宮市麓地区で調査 した報告によると、富士宮市麓地区で初めて水道がひかれたのが昭和31(1956)年であった(児
玉 2005)。水川に水道がひかれた時期と麓地区に水道がひかれた時期は、どちらも昭和 30
年代であり、だいたい同時期だったとうかがえる。昭和30年代ころは全国的にみても戦後 10年余を得て敗戦の混乱も収拾し、その後の高度経済成長に向け我が国のエンジンを始動 させたころであり、水道敷設が全国各地で行われていた時期である(桜井 1984)という。水 川地区も麓地区も、全国各地と同じころ水道が設置されたといえよう。また、麓地区で水 にカルキが入れられたのが昭和48(1973)年とのことだった(児玉 2005)。カルキを入れた時期 は水川が定かでないため、何とも言いようがないが、同じ県内であるし、麓地区と同じこ ろだったのかもしれない。
水川で水道が設置された理由は、衛生状況の改善のためと、水不足の解消のためであっ た。桜井によると、「水道の普及推進のための最も一般的な理由は、伝染病を防ぐ公衆衛生 の観点」であり、「水くみに苦労している女性や子供の労働の軽減、防火などの観点を含み、
全体としては農山漁村の生活改善の施設という位置づけから行政指導がおこなわれた」(桜
井 1984)という。水川もこの全国的な動きに当てはまるといえるだろう。女性や子供に特化
した水汲みの苦労はきかなかったが、樋の掃除、作りかえといった労働の軽減にはなった だろう。行政指導が行われたかどうかははっきりしないが、公衆衛生の改善、生活改善に なったと考えられる。
5つ目に、水についての水川の人の意識が、自分の体験に基づいていることがあげられる。
水川において水が豊富と捉えるか、そうでないかととるかは、その人のそれまでの経験 によるものであった。水道の設置をきっかけに、水がどうかわったかは人により異なって いて、そこにはその人の水とのかかわりの経験がみえた。
尾呂久保では、沢でわさびを育てたり、ヤマメを飼ったり、ふきやクレソンが自生して いるのをとってきて食べたりして、現在も沢を多彩に利用している。その体験から、沢に 対する知識や推論が具体的なのだろう。F氏は沢の水と魚の減少には、森林が広葉樹から針 葉樹にかわったことが影響していると述べていた。実際に、木材生産を兼ねて本来の広葉 樹林を伐採して、針葉樹の画一的な植栽が行われてきたところは多くあって、針葉樹林よ り広葉樹林の方が、水質浄化および水を蓄える機能が高い(宮脇 1994)そうだ。F氏の理論は 科学的に正しいといえよう。
以上 5 つが、ほかの地域と比べたときに見えてくる水川の水文化の特徴であろう。
4 おわりに
人々の水とのかかわり方は時代とともにかわっていった。水道設置が大きな分岐点であ ったのだろう。それまでは、人々が沢、湧水、井戸と直接にかかわってきていた。しかし、
水道が設置されてからは井戸、湧水はほとんど使用されなくなった。沢の水は設置後も利
用されたが、樋から水をひくのと蛇口をひねれば出てくるのとでは、水への近さは違う。
水からは遠くなったが、人々のなかから沢、湧水、井戸が忘れ去られたわけではない。共 同タンクで使用している沢の水源を祀るだけでなく、それ以前に利用していた沢にも祀り、
今はもう使わなくなった井戸の水神さんも祀っている。D氏、E氏、F氏はそれぞれ語るこ とは異なっても、水に対して深い思いを持っていることは同じであった。これらから、人々 はそうした水を大切なものとして、位置づけているとうかがえる。
人々と水とのかかわりには、必ず人と人とのかかわりも存在した。「人々が日常のなかで かかわりをもつ自然とは、人間関係に媒介されることによって、社会的な面と物理的な面 が結びつきながらひろがっている」(藤村 1994)という。水道設置以前、水が不足したとき には近所で分け合ったし、水道設置後、共同タンクは組で協力して管理していた。町営水 道設置後の現在でも共同のタンクは使われ、人々の間で管理されていることはかわらない。
人と人とのつながりも水道設置をきっかけとして、大きな変化があったといえよう。水 道設置以前は水汲み、樋の管理など水とのかかわりの範囲は家族、もしくは数軒であった。
しかし、水道が設置されたことで、多いところでは十数軒になる組がつくられ、つながり は拡大した。水というものも近所づきあいのかたちを変容させたものの 1 つとなったのだ ろう。
人々の水に対する認識の差は、「ある社会が自然にたいして見いだす意味は、人々が自然 をどのようなものとして経験するかということに支えられているのである」(藤村 1994)と いう説に当てはまるだろう。ゼンリン地図にみる水川の沢の名と、水川の人々が認識して いる沢の名の差は、「水川」という社会が「沢」という自然を自分たちの身近なものとして 経験してきたからこそ、生まれてきたものであるといえよう。D 氏の水川は水が豊富であ るという思いは、D 氏が久野脇という社会と水川という社会を経験しているからこそ見い だされたものである。E氏の水川は水が少ないという考えは、E氏が水の少ない沢を使用す る社会を経験しているからこそ、見いだされるのだ。そして、尾呂久保に住む F氏の水量 や魚の減少に対する理論は「沢」という自然に密着して生活し、経験してきたからこそ、
あらわれてくるものなのであろう。
各々がどのように沢、井戸、湧水などの水資源と関わってきたかによって、水というも のに関する考えは異なるものである。それに加えて水とは、生きていくうえで欠かせない ものであると同時に、人と人との関係をともなうものである。人々にとって水とは大切な ものであるといえるだろう。
謝辞
水川・尾呂久保の方々にはお忙しいなか貴重な時間を割いて、調査にご協力いただきま して、ほんとうにありがとうございました。そして、先生方、文化人類学コースの皆様の ご協力のおかげで、報告書をかきあげることができました。今回の調査に携わっていただ いた全ての方々に深く感謝いたします。ありがとうございました。
参考文献 飯島吉晴
1980「水神」『民間信仰事典』 東京堂出版 pp.162-163
鏡味明克
1996「地名と環境」『講座日本の民俗学4環境の民族』 雄山閣 pp.111‐125
児玉亜希子
2005「沢と暮らす―麓地区における人と水の関わり―」『平成17年度 フィールドワー
ク実習報告書 静岡県富士宮市』静岡大学人文学部社会学科文化人類学講座 pp.25-33 桜井厚
1984「川と水道―水と社会の変動―」『水と人の環境史 琵琶湖報告書 [増補版]』 お
茶の水書房 pp.164-204 篠原徹
1995『海と山の民族誌』 吉川弘文館 菅豊
2006『川は誰のものか 人と環境の民俗学』 吉川弘文館
2008「環境民俗学は所有と利用をどう考えるか?」『環境民俗学―新しいフィールド学へ』
昭和堂 pp.109-135 藤村美穂
1994「自然をめぐる「公」と「私」の境界」『試みとしての環境民俗学―琵琶湖のフィー
ルドから―』 昭和堂 pp.147-166 古川彰
1984「川と井戸と湖―湖岸集落の伝統的用排水―」『水と人の環境史 琵琶湖報告書 [増
補版]』 お茶の水書房 pp.241-277 宮脇昭
1994「緑のダム―水源カンヨウ林―」『水源の森は都市の森』銀河書房 pp.30-32
図1 水川の川と沢