『伊勢物語』の成立と『万葉集』 : 巻十六左注と の関係を中心に
著者 仁平 道明
雑誌名 靜大国文
巻 32‑33
ページ 36‑44
発行年 1988‑03‑31
出版者 静岡大学人文学部国文談話会
URL http://doi.org/10.14945/00009345
口 『
勢 物
色 一
の成立と
ロ 『
l
巻十六左注との関係を中心にl
l l
﹃伊勢物語﹄における﹃万葉集﹄歌の存在が﹃伊勢物
語﹄の創作性を証するものであることは︑はやく出注に
指摘がある︒たとえば︑﹃伊勢物語﹄を﹁畢覚作物語と
注
‑
見侍ぺきなり﹂と規定する﹃伊勢物語肖間抄﹄は︑﹁此
歌万葉にあり︒是又作事也﹂(第十四段)﹁此歌は︑万
葉に︑谷せばみ(中略)といへる歌をすこしかへでかけ
り︒(中略)是も作物語の段也﹂︿第三十六段)と注し
ている︒出注以前の︑﹃和歌知顕集﹄における﹁乙の物
語は業平の一撃にはあらず︒はるかにふるきよのものがた
りを%これにかきまじへたる也︒乙の歌どもは︑万葉集
におほく︑よみ人しらずにていりたり﹂(第二十三段)
﹁乙れは万葉の歌にであるを︑業平のあづまより京なる
人のもとにやりたるやうに︑人にみせんとて︑かくかけ
り﹂(第百十六段)という見方から一歩ふみ出し︑﹁伊
勢物語抄﹄の﹁此歌は︑万葉の七巻歌︒それを二条の后
[b,
平
道
日 ハ パ
r﹁ ト
は詠じ給物也﹂(第十四段)﹁業平何となきゃうにて︑
万葉の古歌を詠ず﹂(第三十三段)とする﹁伊勢物語﹂
実録説の迷妄を脱した卓見であったといえよう︒
だが︑つ伊勢物語﹄と﹁万葉集﹄との関係は︑歌につ
いては︑﹁伊勢物語中に存する十二首の歌も︑万葉集よ
り直接選択されたものではなく︑万葉の歌が修正され︑
改作され︑古歌として存在したものであったかも知れな注2注3い﹂という可能性を考える見方もないわけではなく︑歌
のみによっては確定しがたいということもあって︑その
後も繰り返し問題にされながら︑決定的な結論をみてい
ないように思われる︒
小稿ではも﹁伊勢物語﹄の創作性を考えるために︑そ
の前提のひとつとなる﹁万葉集﹄との関係について︑歌
をはなれて︑巻十六の左注との関係を検討する乙とによっ
て︑一応の結論を出してみたいと思う︒
‑36‑
﹃伊勢物語﹄と﹃万葉集﹄巻十六の関係については︑
森本
治吉
氏が
︑
万葉集第十六巻が︑物語文学の萌芽である事は︑既
に説き古されてゐる︒(中略)後世への系統を考へ
ると︑第一の神仙説話(竹取翁の歌)は︑竹取物語
及び宇津保の俊蔭の巻等に︑第二の伝説的のもの
(妻争の歌)は大和物語等︑最後の描写的のもの注4が伊勢あたりで夫々伝はってゐる︒
とし︑また窪田空穂氏も︑
伊勢物語の作者の眼前には又︑今日われわれがいふ
ところの歌物語があった︒乙れが作者に或暗示を与
へたらうと思はれる︒(中略)万葉集十六巻には竹
取翁と七人の仙女との問答の歌がある︒(中略)又︑
一人の女を二人の男が争った桜児︑緩児などの歌が
ある︒何れも左注に︑﹁古者﹂と書き出して︑その
歌の背景としての伝説を伝へてゐる︒その扱ひ方は︑
大体の上から見ると伊勢物語に酷似してゐる︒ただ
歌のみを連ぬることによって︑或は歌と歌のあひだ
に︑短い繋ぎの文を加へることによって︑或は又一
聯の歌に左注を添へることによって︑一つの事件を その数は少いが伊勢物語の
せて
ゐる
もの
が︑
注
5
作者の眼前にあった︒としているように︑従来︑間接︑直接の影響がられ てきた︒また︑具体的に︑どの部分がどのよう﹁暗示 を与へた﹂のか﹁伊勢物語﹂のなかにどのようにとり
入れられているのかという点については︑新井無二郎氏
に︑部分的にではあるが︑説がある︒
新井氏は︑﹁評釈伊勢物語大成﹄において︑﹁伊勢物
諮問﹄第四十五段について︑﹁万葉集十六ノ巻に︑この物
語に類似のことが見えてゐる﹂ことを指摘し︑巻十六の
﹁恋夫君歌﹂(三八一一@三八一二@三八二ニ)の左注
を引き︑﹁恐らくは︑乙の段はこれに本マついて作ったの注6であらう﹂としている︒(なお︑第四十五段と﹁恋夫君
歌﹂の類似については︑契沖の﹃勢語臆断﹄に指摘があ
るが︑﹁此たぐひ也﹂とするのみであった︒)
た し か に
︑ 次 に 掲 げ る よ う に つ の
てい
る︒
その
むかし︑男ありけり︒人のむすめのかしずつ
でこの男にものいはむと思ひけり︒うちい
かたくゃありけむ︑もの病みになりて可死
に︑﹁かく乙そ思ひしか﹂といひけるを︑
つけて︑泣く泣くつげたりければ︑まどひ
‑37‑
類似し
} V品 川
Nむこと
べき時
︑間きりけ
れど︑死にければ︑つれづれとこもりをりけり︒時 は六月のつどもり︑いと暑き
ζ
ろほひに︑宵は遊︑び をりて︑夜ふけて︑やや諒しき風吹きけり︒蛍たか
く飛︑びあがる︒乙の男︑見ふせりて︑
ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁
につげ乙せ
暮れがたさ夏のひぐらしながむればその
ζ
とと
なくものぞ悲しき
(﹁伊勢物語﹄第四
段手
右︑伝一時有娘子︑姓車持氏也︒其夫久遠年序︑
不作往来︒子時娘子︑係恋傷心︑沈臥痢掠︒痩一回脇田
異︑忽臨泉路︒於是遣使︑喚其夫君来︒而乃戯歓流 浦︑号斯歌︑登時逝殻也︒
注
8 (巻十六﹁恋夫君歌﹂左注)
む す め は ( 夫 ) を 恋 い
︑ に 沈 む
︒ む す め が 死 に 瀕 した時︑知らせを受けて男は来るが︑むすめは死んでし まう︒話の共通する骨組みを取り出してみると︑およそ
ζ
のような乙とになろうか︒
﹁伊勢物語﹄の歌と︑掲出を略した﹁万葉集﹄一一一八一
一@一二八一二@三八二ニの歌との関には︑類似点といえ
るほどのものは見いだされないが︑二つの誌はよく似て
いる︒いえ︑この一例のみでは決定的な乙とも一一一一口い
が た ノ の 乙 と も あ っ て で あ ろ う
︑ 管 見 に 入 っ た と
ζ
ろでは︑その後︑拠るべき説とし新井氏の指摘を引
く論をみれい︒
だが︑んはり︑第四十五段は巻+
注に﹁本寸ついて作った﹂と考えるべ
べるように︑﹁伊勢物語﹄が﹁万護
によって話を創作している
ζは ︑
はーっ
ノ に
﹂ の
ζ
段 ︑
だ け
で は
な い
︒
むかし︑武蔵なる
ば恥づかし︑関えねば苦し﹂
﹁むさしあぶみ﹂と書きプ︑
ずなりにければ︑京よりも
武蔵あぶみさすがに
らし間ふもうるさし
とあるを見てなむ︑たへ
笥 へ
% ︑
ま ハ
ふ 習
志 治
︑ ま
r広旨
aeJ
︐ ︐ む
u‑Bg竃司deZLBREE'ιH
・ ︐
dnb'U習
にや人は死ぬらむ
﹁ の
であろう︒以下述
巻十六の左持
い を 容 れ い
︒
︒ ︒
る
て 、 と
ての ? う に
、が
は %音 き
もζiせ
には簡はぬもつ
り
ヰミ
み け か る
か
る
( ﹁
伊 勢
物 語
﹂
三 段
﹀ 右︑伝云︑昔有娘子也︑相別其夫︑望恋経年︒か時
夫君更取他妻︑正身不来︑徒贈一義物︒国此︑
此恨歌︑還翻之也︒
( 巻
十 六
@ 三
八 一
O 左注)
右 に 引 い た
﹁ 伊 勢 物 話
﹄ 第 十 三 段 の の 一 一 一 八
一 O
番歌(﹁味飯を水に醸みなし吾が待ちしかひはさね
注9
なし直にしあらねば﹂)左注もまた︑一読︑﹁類似の
ζ
と﹂であるのは明らかであろう︒
﹁京なる女﹂は︑﹁其夫﹂ともいうべき武蔵に下った
﹁武蔵なる男﹂と︑﹁相別﹂れていた
ζとになる︒その 男は﹁武蔵逢ふ身﹂となったことを女に言いおくる︒境
(﹁夫君﹂)は︑﹁更取他妻﹂乙とになったである︒田村
が送った︑﹁上書き﹂に﹁むさしあぷみ﹂と書かれた手 紙が︑つつみ(﹁裏﹂)になっていたことはいうまでも ない︒女の﹁武蔵あぷみさすがにかけて頼むには間はぬ もつらし間ふもうるさし﹂という歌は︑男の歌に﹁問へ ばいふ間はねば根む﹂とあるとおり︑﹁恨歌﹂にほかな
ら な
い ︒
このように︑第十三段も︑
になっている︒
巻十六の左注と類似した話
な お
︑ べ き こ と に
︑ 新井氏によっ﹃伊勢⁝諮問﹄との
﹁恋夫君歌﹂(三八一一@三八三丁一ニ
二つの
よ も
っ
のて い
O
し1 し1
O
し 近接し
の
は
しか 三
八
場所とい
の
O
ま﹀乙
︑ ︐
SM 官 同 J'hf混E品M'
まず︑﹁恋夫君歌﹂
番歌友注をみよう︒
すように︑吋伊
うものがある︒
三 八
一
いこム﹂
と
な り右 ︑
伝 一
古
改適他氏也︒
O
乃作彼歌報送︑
於是
父母
ウ
以顕改適之縁︒
( 巻
十 六
@ 一
一 一
八 一
一 時
三 八
一 五
¥』ノ
むかし︑男︑かたゐなかにすみけり︒男︑宮仕へし にとて︑別れ惜しみてゆきけるままに︑一二年来︑ざり
ければ︑待ちわびたりけるに︑いとねむごろにいひ
ける人に︑﹁今宵あはむ﹂とちぎりたりけるに︑乙
の男来たりけり︒﹁乙の戸あけたまへ﹂とたたきけ
れど︑あけで︑歌をなむよみていだしたりける︒
あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵
ζ
そ 新 枕 す れ
︿ 以 下 略
﹀ (﹁伊勢物語﹄第二十四段﹀
女が夫に棄てられ︑他の男と再婚した︒再婚を知らな
い︑或る男が︑夫に棄てられた女との結婚をその父母に
申し込む︒女の父母は︑くわしい事情を知らない男に︑
歌を送って女の再婚を知らせる︒ーi左注はこのような
乙とを語っている︒その左注の話と︑﹃伊勢物語﹄第二
十四段前半の話は︑次のようにひびきあう︒
第二十四段の話でも男の気持ちがどうであったにも
せよ︑女は︑実質的には﹁夫君見棄﹂という状態にあっ
た︒﹁いとねむごろにいひたる人にも﹁今宵あはむ﹄と
ちぎりたりける﹂は︑左注の﹁改適他氏﹂と重なる︒そ
して︑﹁﹁今宵あはむ﹄とちぎりたりける﹂乙とを知らな
い(﹁不知改適﹂)男(左注は別の﹁壮士﹂﹀に︑女 (左注は﹁女之父母﹂﹀は︑﹁ただ今宵乙そ新枕すれ﹂と
︑歌
を﹁
よみ
てい
だし
﹂(
﹁作
彼歌
報送
﹂)
︑﹁
改適
之縁
﹂
を﹁顕﹂すのである︒
﹃伊勢物語﹄第二十四段は︑女の﹁あ︒っさ弓引けど引
かねどむかしより心は君によりにしものを﹂という歌が
﹃万葉集﹄巻十二に類歌のあるものである乙となど︑以
注日
前から﹃万葉集﹄との関係が問題にされてきた段であっ
た︒その類歌の問題は乙
ζ
ではしばらく措くとしても︑乙の第二十四段前半と三八一四@三八一五番歌左往の話
は︑前述の類似に加えて︑﹁恋夫君歌﹂左注と第四十五
段︑
三八
一
O
番歌左注と第十三段とのことがある以上︑無関係とは考えがたいように思われる︒
さて
︑三
八一
O
番歌の前にも︑﹁伊勢物語﹄への影響の可能性が考えられる左注がある︒次に引く︑一ニ八
O
七番歌(﹁安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が
はなくに﹂)左注がそれである︒
‑40‑
伝云︑葛城王遺子陸奥歯之時︑国司抵承︑緩
︒於時王意不悦怒色顕面︑雄投飲銀河不品一
宴楽︒於是有前采女︑風流娘子︑左手捧鱗︑右手怯
水︑
撃之
王膝
︑而
詠此
歌︒
ん小
乃王
意解
悦︑
楽飲
終日
︒
(巻
十六
@三
八
O
七左注)乙の話は︑よく知られるように︑﹁古今和歌集﹄仮名
序﹁安積山の言葉は︑采女の戯れよりよみて﹂の注にも百
﹁葛城王をみちの奥へ遣はしたりけるに︑留の司︑事おろそかなりとて︑まうけなどしたりけれど︑すさまじか
りければ︑采女なりける女の︑土器とりてよめるなり︒
これにぞ王の心とけにける﹂と引かれている︒その一二八
O
七番歌左注との関係が考えられるのは︑に引く﹃伊勢
物語巴第六十段である︒
むかし︑男ありけり︒宮仕へいそがしく︑心もまめ
ならざりけるほどの家万白︑まめに思はむといふ人
につきて︑人の国へいにけり︒乙の男︑宇佐の使に
ていきけるに︑ある国の抵承の宮人の妻にてなむあ
ると聞きて︑﹁女あるじにかはらけと3りせよ︒さら
ずは飲まじ﹂といひければ︑かはらけとりていだし
たりけるに︑さかななりける橘をとりて︑
さっき待つ花たちばなの香をかげばむかしの人
の袖の香ぞする
といひけるにぞ思ひいでて︑
ぞあ
りけ
る︒
尼になりて山に入りて
(﹃伊勢物語﹄第六十段)
三八
O
七番歌左注でも﹃伊勢物語﹂第六十段でも︑み
や 乙 か ら 地 方 に わ さ れ て 下 っ た 貴 人 が
︑ 接 待 で
どね︑それをなだめるために︑女がその前に出でさかづ
きをとるのである︒(なお︑
ζ
の第六十段については︑周知のように︑朱賀直の話の影響の可能性が考えられて
いるが︑その朱買臣の話は︑﹃漢書﹄第六十四上の朱出国
臣伝も芸家求﹄の﹁貿妻︑恥醸﹂も︑このような設定をも
注ロ
たない︒)また︑﹁抵承﹂という︑記録の類は那として
物語等には例を見いだしがたい語が︑三八
O
七番歌在沖と第六十段に共通してみられることにも注目したい︒
人間関係等の違いはあるものの︑三八
O
七 番 歌 注 の 話 は
︑ 第 六 十 段 の に の 影 を お と し て い る と る べ
きで
あろ
う︒
これまで確認してきたことから明らかなように︑﹃
勢物語﹄は﹃万葉集﹄巻十六の左注によって話を創作し
ている︒吋伊勢物語﹄第十三段︑第二十四段︑第四十五
段︑第六十段の設定が︑それぞれ︑吋万葉集﹂巻十六の
一 一 一 八
一
O
番歌︑三八一四@三八一五番歌︑﹁恋夫君歌﹂(三
八一
一@
一二
八一
二@
三八
二ニ
番)
︑一
一一
七番歌の八
O
左注の設定と類似し︑また︑その左注が巻十六の近接し
た位置にかたまって存在していることからみてもそう考
えざるをえない︒吋伊勢物語﹂の作者は﹃万葉集﹄巻
六の左注を読んでいたものと思われる︒
なお︑吋伊勢物語﹄の作者にとって︑﹃万葉集﹄の
注は︑読むのに苦労するようなものではなかったはずで
ある︒たとえば吋新撰万葉集﹄序にも﹃万葉集﹂につい
i rv
﹄内ぺMて︑﹁文句錯乱︑非詩非賦︑字対雑殺︑難入難悟︺とす
るの
も︑
歌の
訓み
難さ
を一
一一
一口
うも
ので
あり
︑や
や変
格で
は
あっても漢文で書かれた題詞や左注のことではなかった
と考えられる︒前掲の左注程度のものならば︑日常︑漢注M詩文を読み︑また購っていたと思われる﹃伊勢物語﹄作
者は︑易々と読んだにちがいない︒
﹁伊勢物語﹄と﹁万葉集﹄巻十六の左注との関係につ
いての結論は以上のとおりであるが︑乙の
ζ
とはなお多くの乙とを示唆するように思われる︒まず﹁伊勢物語﹄
と﹃万葉集﹄の関係についていえば︑左注のみにとどま
らず︑歌はもちろんのこととして︑当然︑作者が左註と
ともに自にしていたであろう題詞についても︑検討が︑必
注目
要になってくるであろう︒また︑左注とそれをとり乙ん
だ﹃伊勢物語﹄の比較によって︑﹃伊勢物語﹄の士山向す
るもの︑あり方の一端をうかがう乙ともできよう︒たと
えば︑第十三段@第四十五段@第六十段の場合︑関連す
る左注が付せられた﹃万葉集﹂の歌がいずれも娘子e
采
女のものだけであるのに対して︑﹃伊勢物語﹄の話が の歌を含むものになっていることは︑﹁男﹂が歌を詠まない話を﹁伊勢物語﹄が六︑七段しかもたないことの意味をあらためて考えさせるように思われる︒また︑さらには︑﹁伊勢物語﹄の作者がだれなのかという問題についても︑﹁万葉集﹂との関係がいくらかの手がかりを与
注目
えてくれるかも知れない︒そして︑巻十六の左注との関
係が示唆するもっとも重要なことは︑コ伊勢物語﹄とい
う作品の性格であろう︒﹁万葉集﹄の左注を素材として︑
程度の差はあってもそれぞれ一定の方向性をもっ創作を
加えて成ったいくつかの章段が︑たしかに存在する︒そ
れは︑業平集あるいは業平歌をもとにした小さな物語的
なものが︑そのときどきに浮遊する歌がたりを吸収しな
がら成長を続けて﹃伊勢物語﹂が成立したのではなくも
さまざまな材料を持った﹁作者﹂というべきものの決定
的な創作の手が加えられる
ζ
とによって︑﹃伊勢物語﹄という作品がうみ︑だされたということを示しでいる︒
﹁伊勢物語﹂の成立について考えるとき︑吋万葉集﹄
が︑﹃古今和歌集﹄とともに︑重要な意味を持つもので
ある
乙と
は︑
今更
くり
かえ
して
一一
一一
口う
まで
もな
い︒
小稿
で
は︑その﹃万葉集﹄との関係を巻十六の左注を手がかり
にして確定するにとどめ︑そ乙から発展する問題の詳細
な検討︑類歌の問題等は︑別稿にゆずる乙ととしたい︒
‑42‑
注2
注3
注Aム
注 し っておき︑他日の研究を侠つ一撃にしたいと思ふ﹂と 集と伊勢物語とを直接結びつけて解釈する立場を取 従って今は単なる臆測を下すよりも︑寧ろ仮に万葉 ても︑現在それと指定出来るものを有してゐない︒ は︑かかる媒介物としての古歌集を想像し得るにし (昭9@5)︒なお池田氏は︑続けて︑﹁然し我 池田亀鐙﹃伊勢物語に就きての研究(研究)﹄ ﹃伊勢物語抄﹄︿冷泉家流)も同じ︒ 所収のものによった︒﹁和歌知顕集﹄︿ 片桐洋一﹃伊勢物語の研究︹資料篇)﹄(1注
てい
る︒
深町健一郎﹁伝承歌と歌語り
l
基盤を求めて 伊勢物語の成立
i
i
﹂i
(﹁
中古
文学
論孜
﹄第
二号
︑昭
問ω
@
日﹀も︑﹁伊勢物語所載の万葉類歌は︑特に民謡的
なものが多く︑古今集の歌も業平を別として読人し
らずの歌がほとんどである︒万葉集所載歌そのまま
のものは一首もないが︑それは直接万葉集から採取
されたのではなく︑ひき続いて伝承されていた状態
で取り入れられたためだと考えられる﹂とする︒
森本治吉﹁万葉集の性質とその文学史的意義に就
て﹂
(﹁
国語
と霞
文学
﹄昭
2③
3 ) ︒
窪田空穂﹁伊勢物語研究
l
伊勢物語とその作者
l
i
﹂(﹃日本文学講鹿第十五巻﹄昭3@31i
付制
@l
) 部 )
注7
注9
6
〆九¥
sip‑‑Aノ
A u
i
@ l
﹂︒
語@
平中
物一
訪問
﹄(
吋
抑制
@臼
﹀︒
以下
︑吋
よる︒たし︑
8
番診
竹 一 広
の引
用は
一
改め
た箇
所が
あ一
河地修﹁
@
﹂ ( 吋
とし
O
む ﹂
中 小 こ ん )
1 1
にけ
り﹂
︒
と滋
願﹂
(﹃
二
﹄ 二
O
輯︑昭弱@叩)は﹁このの作者が梓弓にまつわ伝承歌にヒントを得て物語化﹂し
たと
する
︒
注立たとえば︑コ波書﹄巻六十四上の朱買臣伝では︑
﹁朱買臣︑字翁子︑呉人也︒家貧︑好読書︑不治産
業︒常交薪樵売以給食︒担束薪︑行且諦書︒其妻
亦負戴相随︑数止買臣母歌唱道中︑貿臣愈益疾歌︒
妻単位之︑求去︒(中略﹀買臣不能留︑即聴去︒(中
略)上拝買臣会稽太守︒(中略)会稽関太守旦至︑
発民除道︑県吏並送迎︑車百余乗︒入呉界︑見其故
妻︑妻夫治道︒買臣駐車︑呼令後車載其夫妻︑到太
守舎︑置圏中︑給食之︒居一月︑委自経死︒(以下
略)﹂とする︒
注日A﹁新撰万葉集﹄の引用は群書類従本による︒
注目﹁伊勢物語﹄第百七段に﹁かのあるじなる入︑案
をかきて︑かかせてやりけり﹂とある︑﹁案﹂とい
う語などからも︑その作者が︑自常漢文を属る宮人
であった可能性が考えられよう︒
注 目 た と え ば 問 題 の 巻 十 六 で は
︑ 三
O
五四番
歌の
︑
﹁昔者有壮士︑新成婚礼也︒未経幾時︑忽為駅使︑
被遺遠境︒公事有限︑会期無日︒於是娘子︑感働懐
憶︑沈臥疾応︒累年之後︑壮士還来︑覆命既了︑乃
詣相
視︑
而娘
子之
姿容
︑疲
世間
蹴甚
異一
一一
一口
語畷
咽︑
子時
壮士有哀嘆流一課︑裁歌口号﹂という題詞が︑﹃伊勢
物諮問﹄第六十段の﹁宮仕へいそがしく︑心もまめな らざりける﹂や第六十二段の﹁いにしへのにほひはいづら桜花こけるからともなりにけるかな﹂などにひびいている可能性も考えるべきかも知れない︒
詮問梨壷の五人とその周辺︑とりわけ紀時文の父貫之
を作者に比定しうる可能性が︑ますます大きくなっ
てきたというべきであろう︒貫之と﹃万葉集﹄との
関係については︑たとえば百中西進﹁古今集への道
i
l
貫之歌の源泉﹂(﹁解釈と鑑賞﹄昭以内@2)が﹁重之は﹃万葉集﹄を熟知していると︑私は思う﹂
とし︑村瀬敏夫﹁紀時文考﹂︿﹃湘南文学﹄第五@第
六合併号︑昭円引@3)に百﹁時文を寄人とした場合
のメリットとして︑彼が受け継いだ貫之の蔵書を利
用し得る乙とが指摘できよう︒(中略)ことに貫之
には﹁万葉集抄﹄五巻の著作があったという乙とが
八雲御抄(巻一)によって知られるが︑これは万葉
集の歌に訓点を施したものという乙とだから(清水
浜臣﹃遊京漫録﹄下)︑古点の作業に必須のもので
あったろう﹂としている︒