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【研究ノート】韋莊編『又玄集』中の杜詩七首につ いて
著者 冨山 敦史
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 39
ページ 46‑59
発行年 2016‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10105/10926
︻研究ノート︼
章 荘 編 ﹃ 又 玄 集 ﹄ 中 の 杜 詩 七 首 に つ い て 冨 山 敦 史
一﹃又玄集﹄序文について
はじめに
中国文学における﹁詞﹂の先駆的な実作者として︑温庭笥(八
一二〜八七二)と並び称されている章荘(八三六〜九一〇)は︑
その晩年にあたる九〇〇(光化三)年に︑﹃又玄集﹄(︑)を編纂した︒
この詩集は︑いわゆる﹁唐人選唐詩﹂(︑)としては初めて杜甫の詩
を収録し︑上巻の圧巻に配している︒収録されている杜甫の詩は︑
今日においては人口に膳災した﹁春望﹂をはじめ︑五言律詩五首︑
七言律詩二首の合計七首である︒また︑章荘が﹃又玄集﹄の序文
で言及した選詩基準としての﹁清詞麗句﹂という文言は︑杜甫が
自己の詩論を吐露した﹁戯爲六絶句﹂其五で使われている言葉で
もある︒
本稿では︑﹁清詞麗句﹂を旨として章荘が﹃又玄集﹄に採った杜
甫の詩七首を平灰の観点から考えてみたい︒ ここでは︑章荘がいかなる意図をもって︑﹃又玄集﹄を編纂した
のかを序文を読み解くことで考えたい︒なお序文は︑語句の対比
等が見やすいように番号を付して記し︑句読点を加えた︒なお本
文は︑﹃唐人選唐詩新編︿増訂本﹀﹄(傅瑛綜︑陳尚君︑徐俊編
中華書局二〇一四年)を底本にしている︒
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﹃又玄集﹄左補闘章荘述謝玄暉文集盈編,止諦澄江之句︒
曹子建詩名冠古,惟吟清夜之篇︒
是知,美稼千箱,丙岐愛少︒ 謝玄暉が文集編に盈つるも︑止だ澄江の
句を調するのみ︒
曹子建が詩名古に冠たるも︑唯だ清夜の
篇を吟ずるのみ︒
是に知る︑美稼千箱なるも︑両岐髪に少 ︻46一
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15 所 以 ,
故知,
自國朝大手名人,
但綴其清詞麗句, 繁絃九愛,大漢殊稀︒
入華林而珠樹非多,
閲衆籟而紫篇惟一︒
纈芳林下,拾翠岩邊︒
沙之汰之,始辮辟寒之寳︒
載離載琢,方成瑚漣之珍︒
頷下采珠,難求十斜︒
管中窺豹,但取一斑︒
以至今之作者,
或百篇之内,時記一章︒
或全集之中,唯徴数首︒
録在西齋, 繁絃九愛するも︑大漬殊に稀なり︑
華林に入るも︑珠樹多きに非ず︑
衆籟を閲するも︑紫篇惟だ一なる
のみを︒
所以に︑芳を林下に纈(はさ)み︑翠を
岩邊に拾ひ︑
之を沙し之を汰して︑始めて辟寒
の費を辮じ︑
載ち彫し載ち琢して︑方に瑚漣の
珍と成るなり︒
故に知る︑頷下に珠を採るも︑十解を求
むること難く︑
管中に豹を窺ふも︑但だ一斑を取
るのみを︒
國朝の大手名人自り︑以て今之作者に至
るまで︑
或は百篇の内︑時に一章を記し︑
或は全集の中︑唯だ数首を徴すのみ︒
但だ其の清詞麗句を綴ひて︑録して西齋
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莫窮其巨脈洪瀾,任蹄東海︒総其記得者,才子一百五十人,
諦得者,名詩三百首︒
長樂暇日,随巷窮時,
柳徳膝以書紳,匪損心而就簡︒
此蓋詩中鼓吹,名下笙簑︒
撃発氏之鐘,霜清日観︒
淳雷公之剣,影動星津︒
雲間分合壁之光,海上運摩天之
翅︒
奪造化而雲雷噴涌,
役鬼神而風雨奔馳︒ に在り︑
其の巨脈洪瀾に窮まること莫く︑東海に
麟するに任すのみ︒
糖て其の記し得たるは︑才子一百五十入︑︑
調み得たるは︑名詩三百首︒
長樂の暇日︑晦巷の窮時に︑
聯か膝を捲して以て紳に書し︑心を損め
て簡に就くるに匪ず︒
此れ蓋し詩中の鼓吹︑名下の笙箕ならむ︒
島川氏の鐘を撃てば︑霜は日親に清く︑
雷公の創を津げば︑影は星津に動く︒
雲間に合壁之光を分ち︑海上に摩天之翅
を運らし︑
造化を奪ひて雲雷を噴涌せしめ︑
鬼神を役して風雨を奔馳せしむ︒ 一74
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但思其食馬留肝,徒云染指︒豊慮其烹魚去乙,或致傷鱗︒
自葱乎腿腹易盈,非嗜其熊旙濁
美︒
然而律者既採,繁者是除︒
何知黒白之鵡,彊識灌滝之水︒
左太沖十年三賦,未必無蝦︒
劉穆之一日百函,焉能尽麗︒
是知,班,張,屈,宋,亦有蕪
僻︒
沈,懸,劉,猶多累句︒
錐遺妖可惜,而備載斯難︒
亦由執斧伐山,止求嘉木︒ 但だ其の馬を食ひて肝を留めむと思ひ︑
徒に指を染むると云わむや︑
豊に其の魚を烹て乙を去らむと慮り︑或
は鱗を傷つくるを致さむや︒
自ら麗腹の盈ち易きを恵ぢ︑其の熊躍の
濁り美きを嗜むのみに非ず︒
然れば則ち律は既に採り︑繁は是れ除け
りc
何ぞ黒白の鶴を知りて︑強ひて溜浬(し
はん)の水を識らむや.︑
左太沖十年にして三たび賦するも︑未だ
必ずしも環無きにあらず︒
劉穆之一日にして百函つくるも︑焉ぞ能
く麗を壷さむ︒
是に知る︑班(固)︑張(衡)︑屈(原)︑宋(玉)
も︑亦た蕪僻有り︑
沈(約∀︑謝(霊運∀︑慮(場)︑劉(禎V
も︑猶ほ累句多きがごときを︒
遺妖惜む可しと錐も︑備載すること斯に
難し︒
亦た由りて斧を執りて山に伐るは︑止だ
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摯瓶赴海,但汲甘泉︒等同於風月姻花,各是其櫨梨橘
柚︒
丘日挑合搦供極ご兀集一巻,
傳於當代,已壷精微︒
今更採其玄者,勒成又玄集三巻︒
記方流而目眩,閲麗水而神疲︒
魚免錐存,笙蹄是棄︒
所以,金盤飲露,唯採流渥之精
花界食珍,但饗醍醐之味︒
非濁資於短見,亦可胎於後昆︒
採實去華︑倹諸來者︒ 嘉木を求め︑
瓶を翠へて海に赴くは︑但だ甘
泉を汲む︒
等しく風月姻花を同じくし︑各々其の櫨
(さ)梨橘柚を是とす︒
昔挑合﹁極玄集﹂一巻を撰し︑
當代に傳へて︑巳に精微を壷すも︑
今更に其の玄なる者を採りて︑﹁又玄集﹂
三巻を勒成す︒
方流を記して目眩み︑麗水を閲して神疲
る.︾
魚免存すと錐も︑筆蹄是に棄つ︒
金盤の飲露︑唯だ流溢の精を採り︑
花界の食珍︑但だ醍醐の味を饗する所以
なり︒
濁だ短見に資するのみに非ず︒亦た後昆
に胎る可し︒
寅を採り華を去り︑諸に來者を倹つ.︑ [
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49時光化三年七月日︒
一 時 ・ 光 化 三 年 七 月 旦
︻現代語訳︼
謝玄暉(謝眺四六四〜四九九六朝斉の人)の文集に詩文が満
ちているといっても︑人々はただ﹁澄江の句﹂(餓霞散成綺︑澄江
静如練﹁晩登三山還望京邑詩﹂)だけを諦え︑曹子建(曹植一九二
〜二三二魏武帝曹操の第三子﹁洛神賦﹂)の詩名が古から冠たり
といっても︑世の人びとは︑唯一﹁静夜の篇﹂(清夜遊西園︑飛蓋
相追随﹁公燕詩﹂)を吟ずるのみである︒
ここに(本当に素晴らしい詩を得ることは)︑穀物の良い実りが
千箱あっても︑特別に優れた穂は少なく︑琴などの楽器を激しく
掻き鳴らし九回変調しても︑﹁大護﹂(毅の湯王の樂)に並ぶほど
の音色は滅多に得られない︑また美しく茂った林に入っても︑﹁珠
樹﹂(珠を鎮めた仙木の一種)は多くなく︑多くの竹林を調べ尽く
しても︑﹁紫籍﹂(紫色の美しい籍の笛)となるべきものを一本し
か得られぬことに匹敵するほど困難なことであることを知るので
ある︒
ここに︑香の良い花を林の下でつみとり︑翠を岩辺で拾い︑そ
れを水中で洗い分け悪いものを取り去り辟寒の宝とするように︑
またこれを彫っては削りして初めて瑚漣の珍とするように︑苦心
して吟味して初めて真に素晴らしい詩が完成する所以である︒
よって︑私は︑たとえ騙龍の頷の下の珠を採っても︑十斜も求
める事は難しく︑管の中から豹を窺い見て(見聞の甚だ狭いこと の喩)も︑ただ一つの斑を得るのみであることを知ったのである︒
私は︑(この集を編むに当たり)我が唐王朝の大手名人と呼ぼれ
ている人々から︑今の作者に至るまでの詩をみたが︑ある者は百
篇の内で︑時には一章を記し︑ある者は全集の中でもわずか数首
を記載するのみであった︒
ただただ清詞麗句を採って西斉にて記録し︑時代の大きな流れ
や大波(従来の詩人の名声や流派)に惑わされること無く︑ただ
東海に帰すのに任せるのみであった︒
そうして総て記したものは︑才子百五十人︑詠み記した詩は名
詩三百首にのぼる︒
長く楽しい仮日にも︑巷が困窮しているときにも︑柳か膝を揺
り動かして忘れないように帯に書き留めたもので︑意識を集中さ
せて竹簡に書き留めた訳ではない︒
(このようにして記したこの詩集は)詩の中の鼓吹であり︑天
下に評判の笙篭と呼べるものである︒
その素晴らしさは︑発氏(﹃周禮﹄で音楽を司り︑鐘を鳴らす匠
とされている)が鐘を打ちならせば︑霜は日観の峯まで清く︑ま
た雷公が剣を埣げば︑その剣の影は夜空に動き︑また雲間の太陽
と月が合わさった光すら両断し︑海上には天にも連なる翼を蔓延
し︑天地をも奪って雲雷を吹き出させ︑鬼神をして風雨を降らし
めるほどである︒
(一人で詩を撰ぶにあたって)︑どうして︑ただ︑馬を食らって
その肝を体に留めようとして︑徒に血で指を染めたり︑魚を煮て 一49一
その腸を取り去ろうと思い︑或いは鱗を傷つけるような真似が出
来ようか︒
私は︑自らが腿腹(﹃荘子﹄﹁遭遥遊﹂に出てくるもぐらもちの
腸)のように︑満ち足りやすい卑小な存在である事を恥じており︑
極めて美味な熊の掌を一人で楽しむように︑利己的な目的で編纂
した訳ではないのである︒
よって撰詩する際に︑律の整っているものを採り︑煩雑で徒に
華やかなものは除いた︒
どのようにして鵡が黒いか白いかを判断して︑易牙のように酒
水と渾水の区別を付ける事が出来るだろうか︑それは非常に困難
なことである︒
左太沖(左思二五〇?〜三〇五?西晋の文人)は十年かかって﹁三都賦﹂を完成させたが︑(その賦に)必ずしも欠点が無い訳ではない︒劉穆之(南朝宋の人)は一日に百函もの文章をしたため
たが︑どうして麗句を書き尽くしたと言えようか︒
ここに︑班固(三二〜九二後漢の文人﹁両都賦﹂︑史家﹁漢書﹂)
・張衡(七八〜=二九後漢の文人﹁両京賦﹂﹁四愁詩﹂)・屈原(屈平前三四三〜前二八三戦国時代末楚の人﹁楚辞﹂)・宋玉(前二
九〇?〜前二二三?屈原の門下﹁九辮﹂)といっても蕪雑な詩が有
ることを知り︑沈約(四四一〜五一三梁の文人﹁四声譜﹂)・謝霊
運(三八五〜四三三南朝宋の文人)・磨場(建安の七子の一人)・
劉槙(?〜二一七三国魏の文人曹操に仕えた建安七子の一人)
といってもつまらない詩文が有ったことを知るのである︒ 美しい作品を取り落とさないようにすべきではあるが︑総てを
載せる事は非常に難しい︒
斧を取って山に伐りに行き︑嘉木だけを求め︑瓶を携えて海に
赴いて︑甘泉だけを汲み︑そして風月煙花を同等にして︑櫨梨橘
柚をそれぞれ是とした︒
昔︑挑合(生没年不詳唐文宗の八二七〜八三五中に在世︒元和
十一(八一八)年の進士)は﹃極玄集﹄一巻(唐の挑合編王維か
ら戴叔倫にいたる二一人︑百首を集めた詩集︑詩人小伝を付して
いる)を編纂したが︑それは当代に広く伝わり︑精微を尽くした
ものであるが︑今︑私はより玄なるものを選び抜いて﹃又玄集﹄
三巻を版木に刻みなした︒
そして︑直角に折れ曲がる(玉が有るという)流れを記しては
目が眩み︑(金を産出するという)麗水を見て︑神経がすり減って
しまった︒
まだ取り残した免や魚が残っているといっても︑それらを獲る
罠である笙も蹄も捨ててしまった︒
それは︑黄金の盤で露を飲む時に︑(最上のものである)抗灘の
精のみを採り︑仏寺で珍しい物を食べる時にも︑(最上至極の)醍
醐の味を饗するという目的であったからである︒
ただ短見により自分のために︑書き残そうとしたのではなく︑
後世に伝えようとしたのである︒実をとり︑華を捨て去り︑ここ
に来者を待つ次第である︒
時に光化三年(九〇〇)七月日︒ 一
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