序 文̲
倉 田 稔
目 次
は しが き 著者 につ いて 序 文
目 次 [第1巻]
は しが き
ここに訳 出す る書 は,帝政 ロシア時代 の シベ リアと流刑制度 に関す る,世界 で最 も有名 な書 であ る。‑ ただ し,ここで は原著者序文 の訳 出だ けであ る。.革 命以後 の ソ連 の流刑制度 につ いて は, ア レクサ ン ドル ・ソル ジェニ ッイー シ
『収容所群 島』 を挙 げて よいであろ う。
本訳書 はその上, シベ リアの社会 ・歴史 ・地理 ・風俗 ・習慣, その他 を含 む シベ リア論 で もあ る。 そのため, シベ リアに興味 を持っ人 に喜んで もらえ るで あろうし,そればか りで はな く,ロシア史 を学ぶ人 にとって大 いに有益 であ る。
この書 は旅行記 であ り, その点 で も極 めて有名である。叙述 は,一般大衆 も 分 るよ うに,専門以外 の人 に読 め るよ うにな ってい る。 なぜな ら著者 は ジャー ナ リス トである
。
本書 は実 は,色 々性格づ けす る必要がない。つ ま りこれを読 む ことだ けで楽 しいであろ うし,話 が愉快 であ り,そ して同時 に物知 りにな る。原本 は,
Ge or ge Ke nnan ,Si b e n' a and t heExi l eSys t e m. 2 vol s r ̲New Yor k 1 8 9
1.であ る。訳者注 は, (数字) または (訳注) で,訳者 の補 いは,.[ ]で示 した。
なお第
1
章以降 も順次訳 出を行 ってお り,本誌 に発表 しよ うと考 えたのであ〔 4 5 〕
るが,多大 な紙数 のために取 り止 め,その代 わ りに成文社 (荏)か ら干朋子す ること と した 。
著者 につ いて
著者 ジ ョー ジ ・ケナ ンは,
1 8 4 5
年, オ‑ イオ州 の下級事務員 の家 に生 まれ た。生来勉強好 きで,大学 に行 きたか ったが,資力がないので断念 し,1 2
歳 の 時か ら,生活 のために働 いた。電信会社 の局員 を振 り出 しに,測量隊員, 冒険 的外国旅行,生命保険会社 の事務員,原稿書 き,講演,雑誌新聞通信員,一従軍 記者( 1 8 9 8
年,キ ューバ01 9 0 4
年,乃木将軍 の旅順攻略軍)等 々,次か ら次へ と目ま ぐる しい活動 の生活 を続 けた。従 って彼 の教養 は,すべて独学 によるも のであ った。体力 は強健,意志 はあ くまで強固, 目標 を良 く意識 し,大胆,敬 速 で,細心 であ り,正確 な事実 を愛好 し,観察 は細密 で,真実 の前 には自分 を 胡麻化 さなか った。彼 は生来, 冒険旅行が好 きであ̲つたが,職業 の関係か ら, ロシアの 自然 と社 会 に興味 を持 ち始 めて,五度 ロシアに旅行 した。
第一回 目は
,1 8 6 5
年〜8
年。ウェスタ‑ ン ・ユニオ ン電信社会 の電線架設 の 準備 のため,2 0
歳 の青年 と して,探検隊 に加 わ り,カムチ ャッカか らペテルス プル グまで,未開 の荒野六千 マイルを曙破 し,零下5 0‑6 0
度 の広野 にキ ャン プ して,死線 をさまよ った こともあ った。この旅行 の成果 は,『シベ リアのテ ント生活
』1 8 7 0
年, であ る。第二回 目は
,1 8 7 0
年〜 7 1
年O コ‑カサス‑の冒険旅行であ り, この旅行が, また彼 を鍛練 した。彼 は こうして, ロシアの風土 ・気候 や風俗 ・習慣 に慣 れ, ロシア語 の他 に, コーカサス, カムチ ャッカ等 々の方言 に も精通 した。第三回 目は
,1 8 8 4
年 の秋,サ ンク ト・ペテルスブル グ [今 の レニ ングラー ド]とモスクワを訪 れた。本書 の・シベ リア旅行 の予備的調べのためであ った。
(封 成文社。東京,中野区中野
1・4 1
・1
,小林マンション2F
。第 四回 目は,
1 8 8 5
年〜8 6
年。 これが,本書 と して結実 す る。第五 回 目
,1 9 0 1
年。 フ ィンラ ン ドか らロ シアに入 ったが,今度 は内務大 臣 に 嫌 われ,監視人 に守 られて,国境 か ら放逐 された。さて, 第 四回 目の旅行記 は, 『セ ンチ ュ リー ・マ ガ ジン
』 The Ce nt ur y
Il
‑ /l us t r at e dMo nt hl yMa gaz i ne
の1 8 8 7
年1 2
月号 か ら,毎 月連載 された。 『シベ リアと流刑制度』 は,1 8 8 5
年5
月か ら,挿 し絵 入 りで同誌 に掲載 された。 これ が,1 8 9 1
年 にま とめ られて単行本 にな った。(注)序 文
シベ リ
ア (
1)のあま り知 られて いない所 を探検 し, その探検 によ って, 流刑制 度 を念入 りに調 べ よ うとい う考 え は,1 8 7 9
年 に初 めて は っき り した形 を と った (2)。この国 に二年 間滞在 し,その後,サ ンク ト・ペテルス ブル グ [‑今 の レニ ングラー ド] ‑陸路
5 0 0 0
マイルの旅 がで きて観察 した ことか ら, シベ リアが, 有能 な研究者 には とて も興味深 く,将来有望 な調査 の地 だ と思 えた。 ほぼ3
世 紀 の由, その全部 か一部 を占有 した ロ シア人 には, シベ リアは もちろん慣 れ親 しんだ土地 であ った。 だが平均 的 なアメ リカ人 には, その当時, 中央 ア フ リカ やチベ ッ トのよ うに,殆 ど 「知 られ ざる世界」であ った。1 8 8 1
年 にア レクサ ン ドル2
世[ 1 8 1 8
年生 まれ。1 8 5 5
年 か ら皇帝]が暗殺 され,多 くの ロ シア革命家 が トラ ンス一六 イカルの鉱 山 に流刑 された ことで, シベ リア‑の興味 が増 した。そ して流刑制度 を現地 で調 べ るだ けで な く, そのよ うな調査 が成功 す ると思 え た帝 国 の唯一 の場所,つ ま り革 命家 たち自身 が追放 された地 で, ロ シア革命運 動 を調査 したい とい う気持 を,募 らせ たので あ る。 サ ンク ト・ペテルス ブル グ
輔 大塚金之助 『解放思想史の人々』岩波書店
1 9 4 9
年,1 7 2‑5
ページ (『大塚金之助著作集』第四巻,岩波書店, に再収録) に殆 どもとづ き,‑ カ所改善 した もの。
(1) 以下 の訳 は,宮尾政志氏が素訳 し,小生 が改訳 した ものである。
( 2 ) 1 9
世紀最後 の四分 の‑ の世界の関心の一つ は,ロシアにつ ぎっ ぎとお こったテロ リ ス ト事件 と流刑 とであ った。 (大塚,前掲書1 7 4
ページ)とモス クワの町で ニ ヒ リス ト(3)たちを探 す とか, 興味 を感 じたその政治 的事件 や社会現象 の説明 をそ こで探究す る ことは,私 には見込 みのない仕事 だ と恵 え た。とい うの は
,1 8 7 8
年 か ら7 9
年 の革 命劇(4)の主役 は,たいて い既 に シベ リア にいたのであ る。 そ して, も し帝 国 の官 憲 が まだ逮 捕 で きな い人 を ヨー ロ ッ パ ・ロ シアで見付 け られ ないな らば,私 にそのよ うな事 がで きるわ けはな・いの で あ る。 だが, シベ リアで は,恐 らく流刑 された ニ ヒ リス トと接触 で きるで あ ろ う し, ど こかで私 が求 めて い る情報 を入手 で きる, と思 った。状況 のために, また私 が行 いたか った長期 の旅行 の時間 と資金 が足 りなか っ たので
,1 8 8 4
年 の夏 まで旅行 を企 て られなか った。その とき 『セ ンチ ュ リー ・ マガ ジン』.誌 の編集者 が,私 の計画 に興味 を もち, その雑誌 のために シベ リア‑行 き,調査 の結果 を載 せて もらいたい と提案 した。 そ こで私 はただ ちに,餐 料集 め と, ロシア政府 が道 中 を邪魔 しないか ど うかを確 か め るために, サ ンク
ト・ペ テル ス ブル グとモス クワ‑ むか って予備旅行 を した。私 は
1 0
月 に帰 国 したのだが,十分満足 した。 とい うの は, 自分 の計画 が実行 で き, シベ リアでヽ は隠匿す る必要 が何 もな く,私 の記録 した限 り「の筆記帳 は ロシア政府 に好感 を もたせ, また友好 的 な調査家 がそれ な りに期待 す る便宜 が皆保証 され るか らで あ った。シベ リア流刑制度 とロシア政府 の政治犯 の取扱 いにつ いての,私 のその当時 の考 え は
,1 8 8 2
年 にニ ュー ヨー クの アメ リカ地理学会 で行 った講演 と,それで 起 きた新 聞紙上 の論争 で,十分率 直 に明 らか にな って い る。 その頃,私 は こう 信 じて いた. ロ シア政府 と流 刑 制度 を, ス テ ープ ニ ヤー クや (5)ク ロボ トキ ン( 3
) 日本で普通 「ニヒル」が意味するものとは関係ない。人民主義者,革命家のこと。( 4
) 例 えば,1 8 7 8
年に, ヴェーラ ・ザス‑リッチが トレポフ長官を狙撃 した01 8 7 9
年 に,「土地 と自由」派が,「人民の意志」派と 「土地総割替」派とに分裂 した,など。運動が最高権力にたいするテロ闘争に移 った。「人民の意志」派は,ツァー リに死刑 を求めた。
( 5
) 本名 クラーフチ ンスキー( 1 8 5 1‑ 9 6 )
,秘密結社チャイコフスキー団に入 り,1 8 7 3
年に,ナロー ドニキ運動に参加,逮捕,逃亡,亡命 し,その後,帰国する。非公 (6)のよ うな著述家 がひ ど く誤 って伝 えて きた し, シベ リアはアメ リカ人 がっ ね 日頃想像 して い るほど恐 ろ しい ところで はない し, それ に, ヘ ンリー ・ラ ン スデル師 の刊行 したばか りの本 で, シベ リアの鉱 山や刑務所 を叙述 してい るこ とは,恐 らく真実 で正確 だ と。口に こそ出 さない窄,私 はまた こう停 じて いた。
長 い間 ロシアを恐怖 と憂馨 の状態 に して きたニ ヒ リス トや テ ロ リ.ス トや政治的 不満家 た ち は, ア メ リカで よ く知 るよ うにな った無政 府主義者 の典 型 で あ る が,概 して無分別 で頑迷 な狂信家 であ ると。要す るに,私 の先入観 はみな, ロ シア政府 に好意 的で あ り, ロ シアの革命家 たちには好意的 で はなか ったのであ る。私 が これを強調 す るの は, その当時 の見解 が本質 的 に特別 に重要 であ った か らで はな く,調査者 の先入観 とか個人 的 な偏見 を知 っておかない と,調査 の 結果 が正 しく評価 で きないか らであ る。 またそれ を強調 す るのは, なお一層 の 理 由か らであ る。つ ま りロシア政府 の私 にたいす る好意 的 な態度,私 が刑務所 と鉱 山を視察 す るのを許可 された こと, それ に私 の行動 と人 との接触 で シ? リ ア地方 当局 が私 を嫌疑 の対象 に して当然 で あ って も,逮捕,抑留,投獄 を され なか った こと, それ らは多少 ともこの先入観 のお蔭 なのであ る。政府 の認 めた 見解 にまだ賛成 して いない旅行者 が,流刑制度 を調査 す るとい う公然 の 目的で シベ リアへ行 くこと1'が許 され るの は,極 めて疑 わ しいOまたは もし許 されて も, その旅行者 が最 も危 険 な鹿級 であ る政治犯 たちととて も親 しく交 わ って いる こ とが露見 した時 に, の っぴ きな らない ごた ごたか ら逃 れ られ ないであろ う。 私
合法紙 『土地 と自由』を編集
。1 8 7 8
年,憲兵隊長メゼンツェフを暗殺 し,亡命,イ タリア ・スイス‑。 ロンドンで事故死。著作 『アンダーグラウンド・ロシア』 ロンドン
1 8 8 2
年 (邦訳あり)。その他。( 6 )
公爵 ピョトル ・アレクセ‑ヴィチ ・クロボ トキン( 1 8 4 2‑ 1 9 2
1). 有名なロシアの 無政府主義者。数回にわたって,探検隊に加わり,東 シベ リアと満州の地理学的調 査をした。シベ リア地理学の発展に寄与する。例えば,
『氷河時代の研究』1 8 7 6
年。バクーニンと会い,無政府主義となる.ナロー ドニキの重要メンバーとなり,無政 府主義を宣伝。逮捕,亡命する。アナーキズムの指導的理論家になる
。1 9 1 7
年2
月革 命で帰国。著書,
『革命家の手記』1 8 9 9
年 [邦訳あり],その他多数。邦訳全集あり。は,警察 や,人里離 れた シベ リアの村 の疑 い深 い地方役人 と度 々小競 り合 いを したが, ロシア内務大 臣の手紙 を携 えていたばか りに,略式逮捕や投獄 あ るい は,帝 国 か ら‑の監 視付追放 や, ノー トと文書 資料 すべてを失 うはず の身体検 査 ・荷物検査 か ら救 われ たので あ る。 その手紙 は,嵐 と緊急 の時 に頼 みの綱 だ ったのであ り,もし,かな りのおびただ しい敵 と対立 しているロシア政府 を, 私 が公然 と擁護 していなか ったな らば,決 して私 に与 え られなか った と思 う。
そ してた とえ刑務所 と流刑制度 とが予期 していたよ り悪 く,想像 していたよ り も酷 い と解 って も,個人 の 自尊心 や希望 は一貫 しているのだか ら,誤 っていた とは恐 らく告 白 しないだろ うと思 われなか った ら, その手紙 は もらえなか った ろ う。 この考 えが どれほど根拠 があ ったのか, どの程度 まで私 の先入観 が事実 と一致 して いたのかを, この著書 で示 そ う。
とはいえ,つ ぎの ことははっきり理解 して いただ きたい。 つ ま り私 が, ロシ ア社会 を全休 として完全で包括的 に解 明 しよ うとして はいない し, ロシア政府 が領有す る広大 な土地 のすみずみまでを概観 した り, さ らに一億 の人 々の複合 した国民生活 をなす全ての複雑 で異質 な,相互 に連関す る事実 と現象 を,秩序 だてて調和 して説 明 しよ うとは狙 っていない。 これ ほどの重要 な仕事 は,私 の 能力 を越 え, 自分 に課 した限界 をず っと越 えて しま うだ ろ う。 私 が 目指 した こ
とは,すべて,風景,民衆, シベ リアの風習 を,鮮明で生 き生 き した印象 で読 者 に伝 え,流刑制度 を念入 りに調 べた結果 を記録 し, さ らに,私が見 た事実 や 性質 や事件 に もとづいて解明す る必要 のあ るか ぎり, ただそのか ぎりで, ロシ
ア政府 の この主題 にたいす る態度 を考察す ることであ る。
『セ ンチュ リー ・マガ ジン』誌 で発表 した シベ リアと流刑制度 の記事 に,幾 つ か批評 がなされたが, それ らは,明 らか に次 の仮定 に基 づ いて いた。 つ ま り, 国民性 の特殊分野 を概観す ることは, きっと不完全 で,誤解 を与 え るにちがい ない, だか ら公平 な調査者 な らば,他 の多 くの分野 か ら多数 の無関係 な事実 と 現象 を取 り入 れて補 うべ きだ, とい うものである。
批評家 たちは言 った。「貴方 の記事 は誤 った印象 を与 え る。 ロ シアの刑務所, 無差別逮捕, それ に多 くの人 を裁判 な しで シベ リアに追放す るとい う,貴方 の
記述 は,すべて本当か もしれ ないO だが 占シアには, それに もかかわ らず,辛 和 で幸福 な家庭 が数多 くあ り, そ こでは, もし合衆国 に住んでいた らそ うであ るよ うに,父 も兄 も逮捕 され シベ リアへ流刑 され る危険 には さ らされて いな い。 ロシアは,要注意人物,囚人,看手等 が住 む広 い刑務所 ではない。そ こは, 教養があ り上品で心 の優 しい人 々で溢 れてい るのであ る。 そ して国 の徳 をすべ て体現す る皇帝 [時 の皇帝 は,ア レクサ ン ドル
3
世,1 8 8 1‑ J9 4
年]は,最愛 の 臣民 の幸福 と繁栄 を増す こと以外,高 い人生 の目的を持 って いないのである。この様 な批評 には明確 に答 えよ う。 それ は,批評 した仕事 の目的 と範囲 を完 全 に誤解 して いる。私 が ロシアへ行 ったの は,幸福 な家庭 を観察 しにで もな く, 気 の合 った心 や さ しい人 々 と知 り合 いにな るためで もな く, また ツァーの国民 的徳 を賞賛 しにで もなか った。
私 が ロシアへ行 ったのは,刑罰体系 の機能 を研究 し,流刑者,追放人,犯罪 者 と知 り合 いにな り, また政府 が東 シベ リアの刑務所 や鉱 山で その敵 を ど う 扱 ってい るのかを確 かめ るためであ った。議論 のために仮 に, ロシアには幸福
な家 庭 が幾 多 もあ り,教 養 あ る心 優 しい人 々 が帝 国 に は沢 山 お り, それ に ツ ァー [‑皇帝] が妻 と子供 を献身的 に愛 していると しよ う。 だが, これ らの 事実 が, ヤ クーツク地方 の潰 れそ うな宿営地 の衛生状態や, カ ラの鉱 山で若 く 教養 あ る女性 が軍使打 ち刑 で死 んだ事 と, 何 の関係 があ ったのか ? サ ンク ト・
ペテルスブルグの幸福で心暖かい家庭 を, トムスクの流刑者護送刑務所 での発 疹 チ フス熟 の流行 と比較す るのは,公平不偏 の証 で はな く, む しろ筋 の通 らな い見解 だ と革す ことである。公平 さと不偏 さは, どんな特殊 な分野 で も調査者 に要求す るのだが, それ は,然 るべ く適度 な釣 り合 いを とり,偏見 な く, その 選 んだ分野 で集 めた重要 な事実 をすべて入念 に述 べ, それか ら,集 めた事実 か ら正当 と思 え る結論 を引 き出す事 である。彼 の研究 は,百科全書的展望 がない か もしれない, しか し,事 の性質上, それがなされ るな らば,十分 で正確 であ り信頼 に足 らない とい う理 由 はない。合衆国でのイ ンデ ィア ン問題 の調査 は, その民族 の多様 で複雑 な生活 の小 さな部分 を,必 ず問題 とす るであろ う。 だが それに も拘 らず, プライスの 『アメ リカ国家』 のよ うに,・その限度 内で,公平
に完全 に行 われ るであろう。 多分 それ は,暗 い情景 を示 しただ ろ う。 だが我国 の大統領 が道義的な人で, 自分 の子供 には善良 であるとか, ニュー ヨー クの数 多 くの幸福 な家庭 が金捜索者 たちによ って家 か ら追 い出 され た ことが ない と か, あ るいはボス トンの コモ ンウェルス通 りの住人が,未成年 に酒 を売 った こ とな ど決 してない上品で教養 あ る人 々であ るとい うことを示 して, イ ンデ ィア ン問題 に光 を当て よ うとす るの は,非論理 的だ し馬鹿 げて いる。 もし情景 の暗 さを和 らげ る積 りな らば, その'しか るべ き方法 は,情景 を暗 くして いる弊害 を 除 くために何 がな されたかを示す ことであ って, そのEgの,条件 の全 く異 な る 他 の場所 でその情景 を快活 で生気 あ るもの と して措 こう, とす ることで は決 し てない。
本書 で私 は,政府 と流刑者 の双方 を公平 に論 じよ うと試 みた。 も̲し政府 の主 張 が必 ず しも望 ま しい程十分 に説明 されて いないとすれば, それ は単 に, シベ リアとサ ンク ト・ペテルス プル グ双方 で私 が情報 を問 い合せた大部分 の政府役 人 が嫌 な顔 を して話 して,私 が問題 を追求 で きな くな った り, さ もなければ, 彼 らの言 うことが単 に馬鹿 げた と しか思 え ない見 えす いた不 合理 な ことを し て,私 を編 したか らであ る。 だが, シベ リアの刑務所 と流刑制度 の機能 に関す
る私 の情報 の大部分,恐 らく二分 の一以上 が,公式情報 か ら直接得 られた もの であ り, それ にその とて も僅 かな部分,恐 らく五分 の‑以下 が,流刑者 や囚人 たちの口述 に基づ いているとい う事 は,後 に分 るだ ろ う。私 は, シベ リアの刑 務所 の衛生状態 と流刑者 たちの死亡率 とを示す, ロシア刑務所 と医療部 の山の よ うな統計報告 と,同様 に, シベ リアの新聞十年間 の綴 じ込 みを調査 して得 た 多量 の情報 を,分類 された事実 を集 めた形 で追加 した。 これ らの統計 は,事柄 を実際 よ りもず っと好 ま しい状態 と して表すや り方 で, いっ も 「手 を加 え」 ら れて いた。 それを, シベ リアの流刑行政 の正 直で知的 な官史 たちによって私 は 確信 した。 しか しそれ らは,入手 で きる最良 の公式資料 であ る。 もう一 つの追 加 に は, ア ヌーチ ン総督 が ツ ァーに宛 て た二通 の報告書 が あ る。 その余 白に ツ ァーの書 き込 みがある。 つ ま り, 内務大 臣が ロシナとシベ リアの作家 たちを ど う処遇 し,検閲局 が ロシアとシベ リアの雑誌 をど う処理 したか とい う事実 の
集録 と,少量 の革命文書 の収集,革命家 たちに対す る政府 の法律 ・規則, それ に命令 の集録,最後 に,私 が知 って いる限 りの シベ リアと流刑制度 とに関す る ロシア文献 の 目録 であ る(7)d
この序文 を終 え る前 に, ヨーロ ッパ ・ロシアと シベ リアの旅 を通 して,私 の 仕事 を激励 し,調査 に協力 し,最 も重要 な部分 の資料 を下 さった多 くの友人, 知人,好意 を寄 せて下 さった人 々に,衷心 よ りお礼 の言葉 を述 べ た
い。
その幾 人 か は政治犯 で あ り, 自分 た ちの生 涯 の歴 史 を私 に書 かせ たので, まだ残 っ て っい る悲惨 な将来 をさ らに危 う くさせ た。 また幾人 か は流刑庁 の役 人 で あ り,私 の道義心 と分別 を信 じて くれて, 自分 の長 い体験 の結果 を余 さず提供、し た。彼 らの幾人か は,正直で人間味 あ る,監獄 の官吏 であ り,監獄制度 の悪弊 を再三教 えて くれたあ とで,政府 と世界 の注意 を向 ける最後 の有効 な手段 と し て, つ いにそれを教 えて くれたのであ る。 これ らの人 々の大部分 は, あえて名 前 を挙 げなか った。 その人 々やその尽力 は,彼 らの名前 を記憶 に留 め,賛 え る 価値 があ る。 しか し,率直 に述 べた意見 を 「不達」 の印 と見 た り,事態 を改善しよ う̲とい う努力 を犯罪 と して罰 す る国 に生 きて い るの は,彼 らも不運 で あ る。彼 らが このよ うな政府 の下 に住んでいる今, このよ うな人 々の名 をあかす ことは,嫌疑 と監視 の対象 とす るだけである。従 って,彼 らが幸福 のために今 も実行 して い る僅 かな力 を奪 うことにな る。 だか ら,彼 らの信義,親切,助力 に感謝 の意 を表す ためにで きるの は,彼 らが与 え くれて,彼 らがそれを使 って もらいたいと私 が思 う情報 だ けを,人間性, 自由,善 さ政府 のために使 うこと であ る。 ロシアとロシア人民 に,私 はこの上 な く暖か い愛情 と同情 を寄せてい る。 そ して私 の・シベ リア調査 の結果 の,中庸 があ って吟味 された報告 が, もし この国 と国民 を もっとよ く世界 に知 らせ る事 ができ, また, 「神 は天 にあ り, ツ ァーは遠 くにあ る」多 くゐ 「不遇 な人 々」 を,僅 かで も改善す ることが出来 たな らば,私 の生涯 で最 も困難 な旅 と最 も辛 い体験 が,報 われて余 りあ るであ
(7) 以下,著書 は, ロ シア文字 を英字 に書 き表す規則 を,
1
ペー ジ余 りにわ た って述 べ てい る。 しか し, これが訳稿 で あ り不要 とな るため,略す。ジ ョー ジ ・ケナ ン
目 次 [第
1
巻]第
1
章 サ ンク ト・ペテルス ブル グか らベル ミへ 第2
章 シベ リアの国境 を越 えて第
3
章 トボルス クの花咲 く平原 /第
4
章 チ ュメ一二の囚人護送刑務所 第5
章 シベ リアの囚人船第
6
章 郵便駅旅行 の最初 の印象 第 7章 キルギス大平原第
8
章 政治的流刑者 との最初 の出会 い 第9
章 アル タイ山の馬車道第
1 0
章 政治的流刑者 の二 つの居留地 第1 1
章 行政手続 による流刑第
1 2
章 トムス クの県 と市第
1 3
章 トムス クの囚人護送刑務所 第1 4
章 政治的流刑者 たちの生涯 第1 5
章 大 シベ リア道第