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『蜜柑』 を どう教 えるか
襲 峰
1
『蜜柑』 の構 造 分析Yu. M.
ロ トマ ンが,芸術作品 には 「芸術 的空間 を限定 す る枠組」が あ り, 芸術作品 とい うもの は 「空間的 には限定 され なが らも,無限的世界 のモデル をな して」いて, 「慮理的 にいって有限性 のなかでの無限の反映,エ ピソー ド の中での全体 の反映」1)であ り,「文学作品 の枠組 は,始 め と終 りとい う二 つの 要素か らなってい る。 テキス トの開始 と終了 とい うカテゴ リーの特別 なモデ ル形成的役害掴ま, もっ とも一般 的 な文化的モデル と結 びついてい る。」2)という。
「始 め と終 り」が ある。この枠組 みの中で場所 と時間 な どを限定 して しまう。
その中でなにが起 きたか を描写 し,限定 した枠組 みをはるか に超 える感動や 衝撃 を もた らす。 なぜ枠 を作 るのか ? それ は描写 す る世界,描写す る視点 に読 み手 を取 り込 むために設 ける。文学作品 について は, その作品の「始 め
」
の段階で その枠組 みの中 に読 み手 を引 き込 め るか どうか は,重大 な問題 であ る
。
芥川龍之介が書 いた 『蜜柑』 の書 き出 しで,読 み手 には 「曇 った冬 の 日 暮 れ」,「うす暗 いプラッ トフォームに」,「ただ,樫 に入れ られ」て鳴 く小犬の声が聞 こえ, 「外套 のポケ ッ ト」に 「両手 をつつ こん」で,夕刊 を取 り出す
「元気 さえ」ない 「私」が,見 えて くる。 この時か ら読 み手 は 『蜜柑』の枠組 みに入 り込 み,「私」 と一緒 に汽車 に乗 って揺れてい く。
文学作品の構造 について,西郷竹彦 は,「くは じめ〉くつづ き〉〈おわ り〉」と 考 えて,次の ように述べている。
文芸作 品 はすべての形象が 「血」 のつなが りを もっていて,全一体 な 小宇宙 を形成 してい るもの と見 なす ことがで きます。 です か らくは じめ〉
にお ける形象 は くおわ り〉 にお ける形象 と不可分 な有機 的 なつ なが りを もっていて, その意味 において は文芸 の文章 は どこを切 って も血 の出 る ような一個 の生命体 にた とえ られ ます。3)
ロ トマ ンのい う 「モ デル」は,西郷 のい う 「形象」 とおな じ概念 で はない。
に もかかわ らず ロ トマ ン,西郷 の二人 とも次 の ような意味 を もってい る。 こ の世界 にさ まざ まな現象が ある。文学作 品 はそれ を描写 してい る。 それ らを 一々描写 す るので はな く,一 つの こ とを象徴 的 に描 いて,全体 の状 況 を照 ら し出す。 いわ ば括写 され るその こ とと考 えて もいい。 また西郷 の文学作 品が
「は じめ」 と 「おわ り」とい う単純 な要素 か らな ってい る, との見解 はロ トマ ンの理論 に も通 じてい る。前 田愛 も,「テ クス トとい うの は,い うまで もな く, は じめ と終 わ りを もってい る一 つの閉 じた システム」4)で あ り,「これ は文 学 テ クス トを考 える上 で一番基本 的 な コー ドの一 つ」5)で あ る,と述 べ てい る。
主要 な描写 内容 は作 品の 「始 め」 で設定 され る。 それ によって,読 み手 は 最初 のわずかな間 に, その作 品 を読 み進 むの に必要 な情報 を獲得 し, それ を 手掛 か りに して, その作 品が持 ってい る意味 を解 き明か そ う とす る。作 品が 終 わ った ときには,設定 された内容 が そ こで はっ き りと決定 的 な もの にな り, 意味が そ こで完結 す る。 あ るい は「終 り」の部分 に出てい る結末 か ら, 「始 め」
の設定 を確 か め る こ ともで きる。 「始 め」の設定 は 「終 り」の結末 と響 き合 う よ うに, 「不可分 な有機 的 なつ なが りを もって」 いて, 「始 め」 と 「終 り」が すべて を決 め る。 「有機 的 なつ なが り」は作 品 の継起 的 な側面 と因果 的 な側面 を必然 的 に繋 げてい る と理解 す る ことが で きる。 「始 め」にまず枠 の一部, あ るい は全部 を示 す。一部 の場合 で あれ ば,「終 り」 で後 の部分 をつ ける
。
「始 め」か ら全部 であれ ば, 「終 り」で よ りしっか りと撤 密 に完成 させ,枠 の中 に 一 つの世界 を作 り上 げ る。物語 は 「始 め」 か ら 「終 り」 に向か って展 開す る 際, 「始 め」に設定 された主要 問題 はあ る過程, ある部分空 間 を辿 って,結末を迎 える。 その過程 は,作 品の膨 らみの部分 とい える。 その膨 らみ を,西郷 は くつづ き〉 とよび, ロ トマ ン と前 田愛 は 「始 め と終 り」の中 に含 めてい る。
ここで は 「始 め」 と 「終 り」をつ なげ る 「出来事」 として考 えた い。 この 「出
『蜜 柑』 を どう教 えるか
335
来事」 は どう 「始 め」 と 「終 り」 をつ な げるか。媒介 す る もの を うま く取 り 出す と,必然 的 に見 えて くるのだ。
『蜜 柑』 の始 めは, 「私」が 「言 い ようのない疲労 と倦 怠」 につ きま とわれ てい る と設定 され る。 ところが, あ る 「出来事」に よって, 「私」の この 「不 快」 は, い っぺ んに解決 され る。小娘 と弟 たちの別 れ の場面 に出会 うことに よって, それ まで の 「私」の 「不快」は解決 され, 「疲労 と倦 怠」が もた らす
「憂密」 を拭 い去 る こ とがで きた結末 とな る。 石原千秋 は,「く枠)小説」 は,
「くは じめ〉 と くおわ り) とを対応 す る要素 として括 りだす ことがで きる構成 になってい る」6)と述 べ てい る。 『蜜柑』は, まさに枠 のあ る作 品 とい えよ う。
『蜜柑』の構造 を明 らか にす るため, まず 「始 め」 と 「終 り」 とい う
2
つの 要素 を取 り出 してみ よう。 この作 品 を8
つの形式段落 に分 ける。形式段落1
を 「始 め」とし,形式段落
8
は, 「終 り」とす る。作 品の豊か な世界 にふ さわ しい枠づ けの表現 として, 「始 め」は 「設定」, 「終 り」は 「結末」
とい うこと にす る。 「始 め」は作 品全体 の状況 を決 めるので, 「設定」とす る。
「設定」の 状況 と重 なって,新 しい状況 が生 まれ, そ こで作 品が終 わ る。 「設定」とは明 らか に状況 が異 な る この最後 の段 階 を 「結末」とす るので あ る。 『蜜 柑』で は,「設定」の段 階で, 「私」の 「疲労 と倦怠」が抽 象的 に表現 され,形式段落
2
, 3, 4で はそれが具体 的 に叙述 され る。 いわ ば 「私」 に とって は,小娘 も新 聞 もすべ てが退屈 の対 象 で あった。「設定」 と響 き合 う 「結末」の部分 で は,形式段落
8
の三行 で抽象的 な内容 が叙述 され,形式段落 7で は具体 的な内容が述べ られてい る。「設定」の 「私」の 「憂密 」, 「不可解」な どが じっ くり綿密 に描写 された上 で,姉 と弟 の別 れが描 かれ る。色鮮 やか な蜜柑が,は じけるように弾 むイメー ジが強 い感動 となって読 み手 をつ き動 かす。 この 「出来事 」 が形式段落
5
,6
に表現 され, この作 品 の重要 なや ま場 とな ってい る。作 品 の豊 かな内容 を理解す るには,読 み取 らせ なけれ ばな らない表現が あ る。 そのた めに部分課題 を設 ける必要が あ る。作品 の場面,及 び全体 の構造 も,表現 の細部 と緊密 な関係 を持 つ。 それ を読 み取 るた めには,作 品 の進行
につれて展 開 してい くさまざ まな場面 をきちん と整理 し,理解 しな けれ ばな らない。 この場面 とは, ス トー リーの区切 りで はない。作 品 をつ くり上 げて い る本質 的 な要素 として考 えた方が よい。場面 をささえ, あ るいは展 開す る 重要 な表現 に着 冒 し,場面課題 を設 けて,場面 を区切 ってい くこ とが望 まし い と思 う。
場面 の概念 につ いて,西郷 は次 の よ うに定義 してい る。
場面 とは 「場 ・面」, つ ま り場 と面 とい うこ となのです。場 とは,形象 の相 関関係 をあ らわ し,面 とは, それが いか な る視点 ・視 角 (またいか なる表現 方法 ・形式)か ら構成 され てい るか とい うことをあ らわす もの です。場 とは したが って筋 にかかわ り面 とは構成 にかかわ る ものです。
(省 略)場面 と場 面 は筋 の上 で は連続 していて,構成 の上 で は不連続 で あるのです。
(省 略)あ る場面 は, つ ぎの場面 へ とうつ り動 か ざるをえない内的必然 性 をは らんで い るか らなのです。 この内的必然性 とは筋 の展 開の上 の必 然性 といいか えて もいいで し ょう。 それ は状況 と人物 主体 (その欲 求)
との相関関係 がひ きお こす ダイナ ミズム といって もいいのです。7)
この定義 の重要 な観点 を借 りて,次 の ように ま とめ よ う。場 とい うの は作 品構造 を記述 す る一 つの単位 で あ り,面 はそれ をにな うの にふ さわ しい表現 で ある。その両者 を合 わせ てい うと場面 とい う意味 で ある。 ただ し,「視 点 ・ 視 角」 とい う用語 を用 いた場合,学習者 にまた新 しい言葉 を持 ち出 し,理解
させ な けれ ばな らない。 したが って 「視点 ・視 角」 とい う用語 を広 くとらえ れ ば, いずれ も 「表現 の特色」を意味 してい るので, 「表現 の特色」とい う言 葉 で統合 してお く。 なお, 「視点」は, だれが主体 で, どこか らどの よ うに見 てい るか とい うことを指す。 「視点」とい う用語 は, こうい う普通 の意味 で こ れか らも使 う。
『蜜柑』の冒頭 の場面 について,次 の よ うに考 える ことがで きる。「あ る曇 っ た冬 の 日暮れで あ る。」か ら 「‑‑夕刊 を出 して見 よう とい う元気 さえ起 こら なか った。」 まで は一 つの場 で あ る。 この場 は, 「曇 った冬 の 日暮 れ」,「私」
『蜜柑』 を どう教 えるか 337
は 「ぼんや り発車 の笛 を待 っていた」,「桂 に入れ られた小犬が一 匹,時々悲 しそ うに, はえ立てていた。」な どとい う面 の連 な りによって,構成 されてい る
。
視点 は主人公 の 「私」である。
この最初 か ら時間,場所,状況, 「私」の 見た もの を極 めて具体的 に描写 してい る。 その具体的 な面 の描写 に もとづい て,続 いて 「私」
の心 のあ りようを描 いてい る。面 の生 き生 きとした描写 に よって,「曇 った冬 の 日暮 れ」,「疲労 と倦 怠」で元気 のない 「私」
の状況が, 説得力 を持 って,的確 に印象づ け られ る。換言すれ ば,この場面 は主人公 「私」が登場,「私」 の まわ りの状況,「私」 の精神状態 を描 いてい る。
作品の展開 に ともなって,状況 と登場人物 の視点が移 り,表現手法が変わ る。 それ によって,作 品の 「始 め」 と 「終 り」が必然的 につなが ってい く
。
状況 な どの移 り変 わ りは,作 品の展開 に質的で,必然 な役割 をになってい る。
その質的な転換 をあ らわ し,かつ必然性 のあるひ とま とま りを,場面 と考 え る。場面 と場面 はプロ ッ トとして独立 していなが ら, ス トー リーの上 で統一 され ている。 「連続」と 「不連続」である。 場面 は読 み手 によって,多 くも少 な くも分 けることがで きるが,表現 の客観 的事実 に もとづ き,場面 にふ さわ しい表現 の必然性 に注 目して, もっ とも妥 当 と考 え られ る形で場面分 けをす る
。
『蜜柑』の流れ を場面 に分 けてみ よう。「私」の気持 ち,「私」を取 り巻 く状 況 の変化 によって区切 った この
8
つの形式段落 は, 『蜜柑』 の展開 に質的で, 必然 な役割 を持 っていて, ち ょうど場面 の転換 を意味 してい る。 そのた め,ここで はその
8
つの形式段落 を8
つの場面 として分 ける。
『蜜柑』の構造 を設 定‑ 出来事一結末 の連続す る三段 階 に切 り分 け, さ らに8
つの場面 に もとづ いて,次の ように示す ことがで きる。 ( )内 は段階や場面 によって本文 を区 切 った ものであ る。「設定」 (抽象) 場面 1 「私」 の精神状況‑ 憂夢 と倦怠 (冒頭 か ら 「‑‑・
元気 さえ起 こらなかった。」 まで。)
「設定」 (具体 ) 場面
2
小娘 に出会 う (「が,やがて発車 の笛が鳴 った。」か ら 「小娘 の顔 を一瞥 した。」 まで。)気のない髪 を‑‑・」か ら 「‑‑・それへ はいったので ある。」 まで。
場 面
4
新聞 の平凡 さ‑ 不可解 な,下等 な,退屈 な人生 の 象徴(
「しか しその電燈 の光 に‑‑」 か ら 「‑・‑・う つ らうつ らし始 めた。」 まで。)「出来事」 場面
5
小娘が窓 を開 けた‑ 「私」 は咳 ごみ,小娘 を叱 り つ ける寸前 に まで なる(
「それか ら幾分 か過 ぎた後 であった。」か ら 「・‑‑窓 の戸 をしめさせたのに相 違 なか ったのである。」 まで。)場面
6
小娘が蜜柑 を投 げる‑ 「私」 は思わず息 を呑 んだ(
「しか し汽車 はその時分 には,‑‑」か ら 「弟 たち の労 に報 いたのである。」 まで。)「結末」 (具体) 場面 7 「私」の感動‑ 「私」に朗 らかな気持 ちが湧 き上が る
(
「暮色 を帯 びた町 はずれの踏切 りと, ・‑‑」か ら 「しっか りと三等切符 を握 ってい る。 ‑・‑‑‑」まで。)
「結末」 (抽 象) 場面
8
「私」は退屈 な人生 をわずか に忘れた(
「私 は この時 始 めて,」
か ら最終行 まで。)なお,作品の全体構造 をにな う表現 は,「出来事」の段 階 にあ る次の表現 で あ る。
「たち まち心 をお どらす ばか り暖 かな 日の色 に染 まってい る蜜柑 がお よそ 五 つ六 つ,汽車 を見送 った子供 たちの上へ ば らば らと空か ら降 って きた。私
は思わず息 を呑 んだ。」
注
1)Yu. M.
ロ トマ ン 『文学理論 と構造主義』磯谷孝訳 勤草書房1 9 8 0
年2
刺21 1 ‑21 2
ペ ー ジ。2)Yu. M.
ロ トマ ン 『文学理論 と構造主義』 2 2 0
ペ ー ジ.『蜜柑』 を どう教 えるか 339
3
)西郷竹彦 『文芸教育辞典』 明治 図書1 9 8 1
年5
版5 2
ペー ジ。4
)前 田愛 『文学 テクス ト入門』 筑摩書房1 9 9 1
年9 4
ペ ー ジ。5)前 田愛 『文学 テ クス ト入門』 95ペ ー ジ。
6
)石原千秋 「ス トー リー とプロ ッ ト」 『読 むた めの理論 文学 ‑‑‑思想 ・‑‑‑
批評 』石原千秋 ・木股知史 ・小森 陽一 ・島村輝 ・高橋 修 ・高橋世織 世織書房
1 9 9 1
年2
刷9 0
ペ ー ジ。7
)西郷竹彦 『文芸学辞典 』 明治図書1 9 8 9
年7 2 ‑7 3
ペ ー ジ。2
『蜜 柑 』 の作 品分 析前節で示 した 『蜜柑』 の構造 を踏 まえて, 『蜜柑』の作 品分析 を行 う。
場面
1
冒頭 の 「ある曇 った冬 の 日暮 れであ る。」とい う短 いセ ンテンスは, 出来事 の時間帯 を強調 してい る。晴れて暖かい 日で もな く,明 るい朝方で もない。
「曇 った冬 の 日暮 れ」であ る。「‑‑・であ る」 とい う現在形 を使 うことによっ て,読 み手 に臨場感 を持 たせ る効果が あ る。 また直接 に読 み手 に訴 えるよラ に 「私」 とい う第一人称 で書かれて,語 り手 も 「私」 と同一視点 と設定 され てい る ことが分か る。 この着眼 によって,「私」が何 を感 じ, どこまで深 く感 じたか を読 み手 に共鳴 させ るような形 で表現す ることがで きる。読 み手 に主 人公 の気持 ちを分か ち合 わせ るような この仕組 みによって,読 み手 も乗客 の 一人 として,「私」 と同 じ客車 に乗せ られているような心地 になる。
いつ もと違 って,今 日は 「珍 し く」が らが らの二等客車であった。 プラ ッ トフォーム に も 「珍 し く」見送 りの人影 「さえ」 な く,ただ小犬が一 匹桂 に 入れ られてい る。 小犬 は時々 「悲 しそ うに,吠 え立 てていた。」この場面 で は 限 られた ことを描写 しなが ら,多 くの ことを表現 してい る。読 み手 はそれ を 手掛 か りに して,登場人物や情景や出来事 を想像 し, それ らの意味 を発見 し てい く。
空 いてい るので,どこに坐 って もよさそ うな ものなのに,「客車 の隅 に腰 を 下 し」たのだ。 「ぼんや り発車 の汽笛 を待 っていた」のは, まるで 「私」が 自 分 の人生 の終わ りを漠然 と待 つ ばか りに, なんの能動性 も目的 もな く,ただ
生 き続 けてい るの を示 してい るか の ように思 える。 「私」の身分 も汽車 に乗 る 目的 も降 りる場所 も,一切説明 されていない。一万,‑人 も乗客 のいない客 車 や一人 もいないプ ラ ッ トフォーム と小犬 について書 かれてい る。 なぜ小犬 を書 かな けれ ばな らないか。 しか も樫 に入れ られた小犬,悲 しそ うに,吠 え 立 てていた小犬 と描写 され るのか。寂 しげの客車 の中 は 「私」 の主観 的 な眺 めで あ り, その気持 ちを秘 めて, また外 の景色 に向 けてい く。 それ はプラ ッ トフォームの状況 で はない。 「私」の孤独 の心理 で あ る。 「私」が悲 しいか ら, 小犬 の鳴 き声 も悲 しそ うに聞 こえた。「これ らはその時の私 の心 もち と,不思 議 な くらい似 つかわ しい景色 だ った」 と書 かれた ように,全部 「私」 の心境 に相応 しい景色 として表現 され てい る。 つ きなみの書 き方 な ら,風景 な り駅 の建物 な りを普 くのが普通 であ り, また実際多 くの ものが あったか も知れ な いの に,特徴 のあ る もの として,単 な る客車 や プラ ッ トフォームの空 間的 な 広が りと悲 しそ うな小犬 を書 くこ とを通 して, 「私」の気分 を簡 潔 に浮 き出 さ せ てい る。 「私」は, ポケ ッ トに入 ってい る夕刊 を出 して読 む元気 「さえ」起
こらないほ ど, 「憂馨」 と 「倦 怠」 につつ まれ ていた。
場面
1
によって,作 品の枠 を しか け,作 品 の形,方向性 を整 える。 「曇 った 冬 の 日暮 れ」, 「疲労 と倦 怠」 の 「私」 が,一人 も乗客 が いなか った二等客車 に乗 るが, 「私」 はなぜ 「疲労 と倦怠」
なのか,具体 的 に示 されていない。場面 2
発車 の笛が鳴 った。「停車場 がず るず る と後 ず さ りを始 め る」
,
「お もむろに 汽車 は動 きだ」 す, プラ ッ トフォームの柱 な ど 「未練 が まし く後 ろへ倒 れて 行 った」とい うもの うい静 か な動 きを表 す描写 が連 な る。一 方,「けたた まし い 日和下駄 の音」, 「言 い罵 る声」 の中で, そんな二等車 に乗 るはず もない小 娘 が 「あわただ し く」飛 び込 んで きた と描写 されてい る。 まさに もの うい静 か な動 きを壊 す ような一組 の表現で あ る。 この コン トラス トに よって,小娘 の登場 を際立 たせ る効果 を持 たせ る。小娘 の突然 の登場 は汽車が 「一 つず し りと揺 れ」 る と描 かれ てい るように,やが て 「疲労 と倦怠」 につつ まれ てい『蜜柑』 を どう教 えるか
る 「私」 を取 り巻 く状況 が大 ぎ く変 わ る ことを暗示す る。
341
場面
3
「私」 は,小娘 の 「油気 の ない髪 」, 「横 なでの痕 の あ る敢 だ らけの両頼 」,
「垢 じみた‑‑‑襟巻 き」, 「霜焼 けの手」を見 て, それ は 「いか に も田舎者 らし い娘 だ った」 と判 断 した。 「私」 は, この 「不潔」 で,「下 品」 で,二等 と三 等 との切符 の 「区別 さえ」で きない 「愚鈍 な」小娘 を 「好 ま」ず, 「不快」で,
「腹立 し」 く思 った。 に もかかわ らず 「私」はそれでイ ここは二等車 だ よ. 出 ていけ。」といわ ない。小娘 の こ とをさっそ く車掌 に告 げ口を し,小娘 をやが て追 い出 して もらうこ ともしない。 「疲労 と倦 怠」に苛 まれていた 「私」には,
どうして そんな積極 的 な行為 が あ り得 よ うか。そんな ことをす る と不快 だ し, 面倒 で あ る。
ここで は似 た ような言 い回 しを集 中的 に使 い, 同 じような言葉 を繰 り返 し てい る。 それ に よって,違 う世界 に住 む二人 ,「私」と小娘 の対 照,葛藤 が鮮 やか に浮 き彫 りにされ る。 「疲労」や 「倦 怠」 に悩 まされ てい る 「私」 には, 田舎者 や下層 の もの に対 して,神経質 な嫌悪感 が あ る。 「私」は高 い教養 を備 えてい る倣慢 なイ ンテ リで あ り,人生 や人 間社会 につ いて知 り過 ぎるほ どよ
く知 ってい るつ も りであ る。 それ にひ きか えて,小娘 は田舎者 で,教養 も身 分 もな く,無知 で平凡 な存在 に過 ぎない。 この小娘 に代表 されてい る人 間の 低劣 さに, 「私」 は心 の底 か ら軽侮 と噸笑 を持 っていた と伺 うことがで きる。
小娘 に対 す る これ らの悪意 を持 った 「私」の主観 的 な表現 のほか に, 「大事 そ うに握 られ ていた」 とい う異質 な表現 もあ る。 この表現 によって, そん な切 符 は どこかで きちん としまえばいいの に, とい う小娘 に対 す る 「私」 の不快 な印象 を示 す一方,小娘 の貧 しい生活状 況 を客観 的 に裏付 ける表現 に もな っ てい る。
小娘 の出現 が,精神状態 の悪 い 「私」 は, さ らに不快感 と怒 りを募 らせ て しまう。 こんな小娘 を気 にす るよ り,新 聞 を見 る方が いい。小娘 の存在 を忘 れ るた め, 「私」は夕刊 を広 げた。汽車 もち ょうど トンネル の多 い区間 に入 っ
場面
4
ところが,新 聞 にはなに も面 白い ことはない。 「講和問題」 は国の問題 で, 大 きな問題 だが,実際 自分 の興味で はない。 どこかの「新婦新郎,漬職事件, 死亡広告」 な どの記事 もあるが, 「私」 に とってなんの関係 もない。「私」 を や りきれ ない憂 いか ら救 い出 して くれ そうな出来事 は,一 つ も見 当た らない のだ.新聞 も小犬 の役割 りと同様 に,物語 の社会背景 を示す道具 の一 つ とし て登場 させてい る。読 み手 は新聞の記事項 目を通 して,作品 をよ く理解す る ための情報 を知 り, 「私」が きわめて沈滞 した状況 にある ことを察す ることが で きる。
「私」の 「疲労 と倦怠」について,場面
1
で は抽象的 に書かれたが, ここま で来 る と,結論 として人生 に対 す る 「私」 の考 えが具体 的 に分 か って くる。「陸道 の中の汽車」 も,「下品 な」小娘 も,卑俗 な現実 ばか りで 「持 ち切 って いた」夕刊 も,結局 なに もか もが 「不可解 な,下等 な,退屈 な人生 の象徴
」
としか,「私」 の 目に映 らなか った。 「私」 はその ような人生が 「くだ らな く なって」,心 の 「憂寧」は慰 め ようもな く, 「私」は 「死 んだ ように眼 をつぶ っ て」,ただ汽車 に揺 られていた。
「設定」 の段 階 は上述 した四つの場面 によ り成 り立つ。雲で空が覆われ る, 寒 い冬 の暗 くなった夕方, そ こに登場す る 「倦 怠」で 「不快」 で 「憂夢」 な
「私
」
と 「下品」で 「愚鈍」
な小娘が,一 つの客車 に乗 り合わせ ている. 『蜜 柑』 とい う物語の最小必要条件 が ここで整 った。 「私」 と小娘 との関わ りは,まった く予測不可能 な出来事 として これか ら ドラマチ ックに展 開 してい く。
一方,汽車 とい う舞台の設定 は作 品 に リズム感 を持たせ,汽車 の進行 に伴 っ て,巧 みに筋 を展開す るように仕組 まれてい る
。
また まさに人生 の象徴 の ようである。
『蜜 柑』 を どう教 えるか
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場面
5
「設定」の段 階 と 「出来事 」の段 階が, ここで 区切 られ るの は,流れの変化 か らに よる もので あ る。 「私」に とって は, 「憂密」や 「不快」で も,「私」の 内面 の問題 で落 ち込 み, ここまで は何 とか我慢 で きた。 しか し小娘 が突然動
き出 した こ とに よって,状況 がが らりと変 わ る。
「汽車が今 まさに随道 の 口へ さしかか ろ う としてい る」暮色 の時 なの に, い つの間 にか,小娘 は 「私」の隣へ来 て, 「重 い硝子戸 」を懸命 に開 けようとし 始 めた。 「私」には呑 み込 めない。読 み手 に も分 か らない。 「私」は, 「その悪 戦 苦闘」 を,単 な る小娘 の 「気 ま ぐれ」 の行動 に過 ぎない と思 い, それがい つ まで も成功 しない ように, と 「腹 の底 に依然 として険 しい感情 を蓄 えなが ら」,冷た く眺 めていた。 「依然 として‑‑・」とい う修飾語 に よって, 「私」の 中 に沈潜 していた怒 りの,か な りの激 しさを表 す。
す る と,硝子戸 はばた りと落 ちた。最悪 の状 態 にな った。「私 は,手 巾 を顔 に当て る暇 さえな く」, た ち まち「煙 を満面 に浴 びせ られ」, 「息 もつ けないほ ど」咳 きこまされて しまった。作 品 の中で は, 「さえ」とい う副助詞が, 四回 も現 れ てい る。 「さえ」と似 た ような,程度 の強 い もの を挙 げて,他 を類推 さ せ る意 を表 す副助詞 として,外 に 「も」 とか 「す ら」 とかが あ るのに, ここ で は しつ こ くな る こ とを顧 みず に, まった く同一 の副助詞 「さえ」 ばか りが 何 回 も続 けて用 い られてい る。 同 じ意味 だが, 「さえ」よ り, 「も」 と 「す ら」
はいずれ も語感 が弱 い。 「さえ」の連続使 用 によって, くどい どころか,周囲 のすべて に対 す る 「私」 のや り切 れ ない苛立 ちが,印象強 く,手 に取 るよう に浮 き彫 りにされ る
。
しか し,小娘 はそんな 「私」 に まった く 「頓 着」 しない。窓 の外 へ首 を伸 ば した まま, 「じっ と汽車 の進 む方向 を見 や ってい」 た。 「私」 は,窓 を閉 め させ よう と,小娘 を叱 りつ ける寸前だ った。 な に もされ な くて さえ気分 が悪 か った 「私」は,精神 的 な辛 さだ けで はな く, 「ほ とん ど息 もつ けないほ ど咳 きこまな けれ ばな らなか った」とい うように, 肉体 的で も耐 え られな くな り,
「私」の不愉快 は トンネル の中で絶頂 に達 した。乗客が二人 しか いない客車 な
のに, その緊張 した雰 囲気 は, そ こに乗 り合わせた読 み手 に痛 いほ ど伝 わ っ て くる。
しか し,トンネル を抜 ける直前 に,「そ こか ら土 の匂 いや枯 れ草 の匂 いや水 の匂 いが冷やか に流れ込 んで来」た とい う不快 な感情 を和 らげる描写がある。
まさに閉 ざされた トンネルか ら開放 された空間へ, 「息苦 しい」煤煙 か ら新鮮 な空気への転換 によって,場面
6
の劇 的な変化 を予告 し, トンネルの向 こう の感動 の世界 へ と広が るので\ある。場面
6
「しか し」,「私」の悪戦苦闘 と裏腹 に,汽車 は 「もう安々 と陸道 をすべ りぬ けて,枯 れ草 の山 と山 との間 にはさまれた, ある貧 しい町 はずれの踏切 りに 通 りかか っていた。」汽車が暗 い トンネル を通 り抜 ける と,視野が急 に広が る の と重 な るように, 「私」 と小娘 の物語 もこれか ら新 しい展開 を迎 える。
藁屋根 も瓦屋根 も 「見 すぼ らし
」
く,風景 は 「斎索」
その ものだ った。踏 切 りの柵 の向 こうに,三人 の男 の子が押 し合 いへ し合 いの形 で立 っていた。ほっべ ただ け赤 い。背 は揃 って低 い。外 はもう暗か った。 しか し, そんなぼ んや りして映 ってい る背景 と裏腹 に,彼 らは「いたいけな喉 を高 くそ らせて」,
「一生懸命 に」「意味 のわか らない賊声」を 「ほ とば しらせた」。 このあた りに なる と,叙述 のテ ンポは速 くなる。 その瞬間,
例 の娘が, あの霜焼 けの手 をつ とのば して,勢 い よ く左右 に振 ったか と思 うと,たち まち心 をお どらす ばか り暖かな 日の色 に染 まってい る蜜 柑がお よそ五 つ六 つ,汽車 を見送 った子供 たちの上へ ば らば らと空か ら 降 って来 た。私 は思わず息 を呑 んだ。
「私」の見た ことは ここまでであるが,叙述 は続 いてい る
。
恐 らく生活 のた めに,これか ら家 を出て,どこかへ奉公 に行 か なけれ ばな らない この小娘 は, 暗 くて寒 いの に,わ ざわ ざ踏切 りまでお別 れ に来 た弟 たちのために,蜜柑 を 窓か ら投 げたのだ, と 「私」 は一瞬 の うちに,すべて をのみ こんだ。だれ も そ うい うことを 「私」 に教 えていないが,蜜柑 を投 げる行為 によって,「私」『蜜柑 』 を どう教 えるか
345
は今 までの状況 の中か ら鋭 く理解 した。一 方,小娘 は,「下品」,「不潔」,「愚 鈍」 なイ メー ジか ら,弟 たちにや さし く蜜 柑 を投 げたお姉 さん として,読 み 手 の前 に も現 れ,弟 た ちに対 す る小娘 の行為 か ら,姉 さん らしいや さ しさ, 思 いや りを十分 に読 み取 る ことがで きる。
蜜柑 は独特 な色合 い を持 って鮮やか に登場 す る。普通蜜柑 は黄色 とか,樫 々 色 とか に見 えるが, ここには「心 を躍 らす ばか り暖か な 日の色 に染 まってい」
る, と書 かれ てい る。 これ について, あ る中国人 の 日本語学者が 「暖 かな 日 に照 らされて‑‑」 と訳 してい るが,本 当 に夕 日が さ していたのだ ろ うか。
(
「給温 照的陽光映照威令人善愛的金色 ‑‑」)1)『蜜柑』 をず っ と読 んで きて, 「曇 った冬 の 日暮」, 「暮色 の中」, 「闇 を吹 く 風」
,
「‑‑傾 げに暮色 を揺 す っていた」,
「この曇天 に」,な どといった状況 で, 太 陽が 出 るはず はない し, 日を連想 させ る手掛 か りもないのであ る。 に もか かわ らず, ここで 「日に照 らされて」 と訳 したの は,訳者 が この場 面 の意味 に とらわれ過 ぎて,誤 りを招 いた と思われ る。曇 った冬 の夕暮 れ とい う景色 は,「疲労 と倦 怠 とが,まるで雪曇 りの空 の よ うな どん よ りした影 を落 としてい る
」
「その時 の私 の心 もち と,不 思議 な位似 つかわ しい景色 だ った」。新 聞 も 「索漠 とした記事」に満 ちていて, なお さ ら「私」に絶望 的な思 い をさせ, だか ら 「死 んだ ように眼 をつぶ って」しまった。
その中 に,まるで灰色 の暗 い精神 に,パ ッと暖 かい 日光 が さ して きた よ うに,
「私」 は小娘 の行為 を見 て感 じたわ けで ある。 そ うい うことか ら見 て,「私」
の 「暖 かな 日の色」は,心 の中 に照 らす 日光 の色 にな る, とい う思 い にな る。
訳者 はそ う思 って訳 したのか もしれ ない。しか し,そ うだ った として も,「日 に照 らされた‑‑・金色」と訳 す る と,「私」の 目に映 った暖 かな蜜柑色 は,「私」
の感動 とは無 関係 で, ただ 日の色 に染 まった客観 的 な描写 になって しまう
。
実際,次 の場面 に書 かれてい るように, この光景 は 「私 の心 の上 に,切 ない ほ どはっ き りと
」
「焼 き付 け られた」。
それ は,小娘 の行為 の単 な る視覚 的 な 反映 で はない。 その行為 を見 た ことによって,「私」の暗 い気持 ちの底 に潜 ん で い る別 の ものが喚起 された のであ る。また, 「空 か ら降 って来 た」とい う表現 に注 目すべ きで ある。 どん よ りとし た夕暮 れ の 「空 か ら」は 「暖か な 日の色」と対比 す る と,色 が なお さ ら際立 っ て くる効果 が あ る。 蜜柑 は小娘 の手か ら投 げ られて,弟 たちの方へ落 ちたわ けだが, 「降 る」 とい う動詞が使 われてい る。物理的 な現象 を示す 「落 ちる」
と較 べ て, 「降 る」 は人 間 の意志 を超 えた 自然 の意志 を思わせ る表現 で ある。
「落 ちてい った」 で はな く,「降 って来 た」 となってい る。 これ は弟 た ちの 目 か ら見 た とも説 明で きるが,貧 しい読 み にな って しまう。 「私」は瞬 間 に蜜 柑 を投 げた小娘 の心 も, お姉 さん を見送 りに来 た弟 た ちの気持 ち も理解 し,弟 た ちの見 ていた蜜柑 も 「私」 には見 えた。 ものがすべ て見 えて,人 の心 の動 き もすべ て分か り,「憂寧 な」 「私」 か ら離 れたの どやかで,豊 かな世界。視 点 は相変 わ らず 「私」にあ るが, この劇 的 なや ま場 の時点 で, 「私」はあ る独 立 の空間 に立 た された と考 え られ る。
蜜柑 の色 が暖 か い と感 じる心,その蜜柑が空 か ら降 って来 た と見上 げ る目。
それ らの表現 に よって,作 品 は微妙 で,鮮 やか な効 果 を持 った。 この作 品の や ま場 にふ さわ しい表現 の特色 が,迫力 を もって,読 み手 に特別 な感動 を与 える。 読 み手 もその ような まなざ しを持 って, 『蜜柑』 を とらえ, 『蜜柑』 の 素晴 らしさを味 わ うことがで きる。
蜜柑 は黄色 や程 々色 で はな く, 「暖 か な 日の色」とい う情感 的 な色合 いで修 飾 され てい る。 それ は繰 り返 す ように, 目に見 えた ままの色彩 で はな く,心 に伝 わ って くるぬ くもりの ような感覚 で ある。 その描写 は, それ までの人生 に対 す る 「私」 の冷 た い感 じの叙述 と照 らし合 わせ てみ る と, なお さ ら素晴
らしい効果 を発揮 してい る。 「出来事 」 の
陽一 l
fiは ここで終 わ る。場面 7
汽車 は止 まる ことな く前へ進 んでい る。 しか し,「私 」 には,「あ る得体 の 知 れ ない朗 らか な心 もちが湧 き上 が って」来 た。 「私 は昂然 と頭 をあげて, ま るで別人 を見 るようにあの小娘 を注視 した」。小娘 は 「相変 わ らず」汚 くて, 愚鈍 で あ る。
『蜜 柑』 を どう教 えるか 347
「もの うい除 をあげ」 るか ら 「昂然 と頭 をあげ」 るにな り, 「小娘 を一瞥 し た」か ら 「小娘 を注視 した」にな る。小娘 は最後 まで美 し くなか った。 「霜焼 けの手」か ら蜜柑 をば らまいた一瞬 のあざやか さを,小娘 はなに も意識 して いない。小娘 は自分 の生活感覚 で投 げた に過 ぎない。 しか し, 「私」に とって は, くすんだ世界 にば らまかれた蜜柑 の世界 は美 しか った。蜜柑 を見 る こと によって,小娘 と弟 た ちの血 の繋が った愛情 の交歓 を見 る ことがで きて,人 間 を見 る目 も変 わ って きた。 この 「結末」の描写 の変化 に よって, 「私」の感 動が具体 的 に示 された。貧 しい小娘 が弟 た ちへ蜜柑 を投 げる行為 は,暖 かい 慈 しみの情 が まさに 「暖 か な 日の色 に染 まってい る蜜柑」の よ うに,「私」の 心 に閃 くことがで きた。 「疲労 と倦 怠」の 「私」には,感動 はきわ めて鮮烈 な イメー ジ となって,焼 き付 け られた。「私」には この快 い衝撃 が「切 ない ほ ど」
だ った。
場面
8
「私」 はは じめて,先 の名状 Lがたい疲労 と退屈 な人生 とを, 「わずか に忘 れ る ことがで きた」。 が, 「わずか
」
な間 しか 「忘れ るこ とがで き」 なか った のであ る。 「わずか に」 とい う表現 は ここで, 「や っ と, か ろ うじて」 と 「わ ずか な間 だ け」 とい う二 つの意味 を同時 に生 か してい る。 それ によって,確 か に 「私」 の心が動 か されたが, しか しその ような感動 は自分 の人生 と直接 には関係 の ない こ とであ る。 「私」に とっては,人生 は相変 わ らず 「退屈」そ の ものであ る, とい う認識 を うかが うこ とがで きる。 一 方, この「わずか に」と書 いた こ とで, 「結末」 は本 当 に大 した ことで はない とい うので はな くて,
「わずか」 な間であって も, それ ほ ど憂哲 な ことを忘 れ させ て くれた。 「私」
に とって はそれ ほ ど深 い力 のある出来事 で あ り,大 きな喜 びで あった ことを 強調 す るこ とがで きた。
『蜜 柑』が出版 された翌年
,1 9 2 0
年7
月,中国で は魯迅 が 自分 の体験 を素材 に して, 『小 さな出来事 』とい う短編 を発表 した。二 つの作 品 は偶然 にいずれ も 「私」 とい う第一人称 で書 いた上,筋 の展開 も似通 う ところが多 い一 方,それ ぞれ また違 う表現効 果 と結末 を持 ってい る。その違 い を比較 すれ ば,『蜜 柑』 に対 す る理解 もよ り深 まるので はないか と思 う。 まず, 『小 さな出来事』
を次 の よ うに要約 す る。
「私」が 田舎 か ら北京 に来 て六年 にな る。 世 間の流れ はただ 「私」の療病 を 募 らせ, 日まLに 「私」 を人 間不信 に陥 らせ ただ けで あった。 が, あ る日,
「私」は人力車 に乗 って出か ける。途 中, い きな り歩道 か ら飛 び出 した老婆が 車 の前 に倒 れた。 うわ着がか じ棒 に引 っかか ったせ いで。車夫 は 「私」 をお いた まま,老婆 を助 けお こしてか ら,席捲 わず に老婆 に肩 を貸 しなが ら,派 出所 に歩 いていった。 「私」は最初 の うち車夫 をおせ っかいな奴 だ と思 ってい たが, その うちに,車夫 の うしろ姿が 「私」 に とって一種 の威圧 めいた もの に変わ って くるように感 じられ,そ して,この出来事 はい まで も忘 れ られず,
「私」 に恥 を教 え,勇気 と希望 を与 えて くれてい る。
この ように両作 品の「私」は, みな現実 に不満 と懐疑 を持 ってい る。 『蜜柑』
の 「私
」
よ り, 『小 さな出来事』の 「私」は もっ と憤潜 が激 しか った。 しか し 小 さな出来事 にあってか ら,二人 とも人生 の美 しい感動 を受 けた ものの,『蜜 柑』の 「私」の一時的 な感激 で終 わ った ような暖味 な結末 に対 して, 『小 さな 出来事 』の 「私」の感動 はそのあ ともず っ と保 たれてお り, 「私」を反省 させ, そ して未来 に対 す る希望 と奮起 を促 す勇気 とを,与 え られた と明確 に書 かれ てい る。いわ ば,魯迅 の筆 にな る 「私」 は苦悶 もあったが, に もかかわ らず希望 を 懸命 に見 つ け出 そ うと努力す るよ うに書かれている。 ところが,芥川 の筆 に な る 「私」 はそ こまで行 か なか ったので ある。時代 は もち ろん よ くなか った が, この ような結末 に辿 るの は書 き手 の立場 に よる ものだ, とよ くいわれ る で あろ う。 しか し, ここで は この異 な る描写 か ら双 方 の互 いに異 な る思想 的 な立場 を探 るよ り, む しろそれ ぞれ の表現効果 を味 わ いたい。両作 品の感動 の場 面 と結末 の描写 を並べてお く。
『小 さな出来事』で は,
挨 まみれの車夫 の うしろ姿が,急 に大 き くなった。 しか も去 るに した
『蜜柑』 を どう教 えるか
349
が って ます ます大 き くな り,仰 がなけれ ば見 えない くらいになった。 し か もかれ は,私 に とって一種 の威圧 めいた ものに次第 に変わ っていった。
防寒服 に隠 されてい る私 の 「卑小」 を しぼ り出 さんばか りになった。
‑・・・この小 さな出来事 だ けが, いつ も眼底 を去 りや らず,時 には以前 にまして鮮 明 にあ らわれ,私 に恥 を教 え,私 に奮起 をうなが し, しか も 勇気 と希望 を与 えて くれ るのである。
『蜜柑』で は,
す るとその瞬間である
。
窓か ら半身 を乗 り出 していた例 の娘が, あの 霜焼 けの手 をつ とのば して,勢 い よ く左右 に振 ったか と思 うと,たち ま ち心 を踊 らすばか り暖かな 日の色 に染 まってい る蜜柑が凡 そ五 つ六 つ, 汽車 を見送 った子供たちの上へ ば らば らと空 か ら降 って来 た。私 は思わ ず息 を呑 んだ。 ‑‑私 はこの時始 めて,言 い ようのない疲労 と倦怠 とを, そ うして また不 可解 な,下等 な,退屈 な人生 をわずか に忘れ ることが出来 たのであ る。
前者 はあ くまで も思想的 な面か ら書かれている。 「私」の恥 を恐れぬ内面 的 な披露 によって,読 み手 に一種 の思想的 な昇華 を感 じさせ る.「いつ も」とい う表現 によって,「私」に とって, この小 さな出来事 の重 み と大 きな感動 も十 分理解 す ることがで きる。
それ と較べて,後者 は大変情緒的 に表現 されてい る。異様 な鮮やか さを浴 びた蜜柑の象徴 的な登場 によって,読 み手 を引 きつ け,感情的 に一種 のぬ く
もりを感 じさせ る。 に もかかわ らず 「わずか に」 とい う言葉 によって, 「私
」
の心 の苦 しさ,重 さを再 び浮 き彫 りにす る。「私」に とって は小娘 との出会 い は決 して大 した ことで はない とい うので はあるまい。「わずか」な時の喜 びで あって も,大 きな出来事であった.「わずか」な間で あって も,憂彰 な ことを 忘れ させて くれた。 「私」の憂夢 はそれ ほ ど深 くて,苦 しい ものなのだ。 だか らこそ投 げた蜜柑 を見 た時の感動 も, ひ としお強か った。大変意味 の深 い結 末である。
この ように, 『蜜柑』においては,謎 を暗示す る伏線 みたいな もの もなけれ ば,読 み手 を引 きつ ける貯余 曲折 したス トー リー もない。しか し,主人公 「私」
の心情 の変化 は読 み手 にきちん と納得で きるように描 かれてい るので,読 み 手 は 『蜜柑』を読 む とき, 「私」の 「憂欝」な気持 ちを察 しなが ら,一緒 に汽 車 に乗 り,小娘の訳 の分 か らない行動 に憤慨 させ られ る 「私」 に同情 しなが ら,ともに時間 を過 ごし,そ して最後 に小娘 の投 げた「暖かい 日の色 に染 まっ」
た 「幾額 の蜜柑」 を見 て,胸 が熱 くなった 「私
」
に共感 し,感銘 を味わ うこ とがで きる。 穏やかなたたず まいの中に味わい尽 くせ ぬ深 い情緒 と淡々 とし た静かな感動 を漂 わせ ていて,素晴 らしい作品である。 吉 田精一が評 しているように,
‑‑片々た る小編 だが,粗野 な小娘 の野性 の中にある純情 が, い くつ かの蜜柑 に象徴 されて,斎索た る,又陰惨 た る風景 の中に乱落 す る風景
は美 しい。2)
注
1)
『蜜柑』は,1 981
年,中国における比較的権威のある日本語学者,文潔若によっ て中国語に翻訳 された 『芥川龍之介小説選』人民文学出版社所収。2
)吉田精一 『吉田精一著作集』 1
桜楓社1 9 79
年。3
『蜜 柑 』 の 指 導 過 程作 品 についての これ までの検討 を踏 まえて,課題方式 による 『蜜柑』 の指 導案 を以下 の ように構想 す る
。
対象 は日本語 を2
年間以上専攻 した中国入学 習者 とす る。
全体 の流れ
Ⅰ 導入 通読
教 師が作家芥川龍之介 について簡単 な紹介 をす る。
作 品全体 を通 し読 みす る。
ⅠⅠ 第一 の段 階の読 み 表現 の読 み。
ⅠⅠⅠ 第二 の段 階の読 み 作 品の読 み。
Ⅳ
表現読 み 作 品全体構造 の読 み。『蜜柑』 を どう教 えるか
351
範読 の とき,教師が リー ドして読 んで もいい し,学習者 に読 ませて もいい。
あるいは黙読 で もいい。 目的 は,作 品全体像 に漠然 と目を通 しなが ら,気 に な る表現,疑 問 と思 う箇所 をそれな りに見 つ けさせ ることにある。 実際授業 を展開 してい く際,学習者 の注 目点,また は疑 問点 な どを十分考慮 しなが ら, 準備 した指導案 の具体 的 な読 みを実行 す る。
発間 について は,教師の意 図, あるいは趣 旨は学習者 の思考 の部分 に立 ち 入 らない ように,で きるだ け学習者 の思考 ・想像活動 を刺激 し,生 き生 き と
した理解 を促進す るような発 間 を工夫すべ きで ある。
で は, ⅠⅠ,IIIについて示す。
II 第‑ の段 階の読 み
部分課題
1
「ある曇 った冬 の 日暮 れである。」( p.
1, 1行)とい う表現 を, 次の ように書 き換 えた とします。a
「ある曇 った冬 の 日暮 れ,」或 い は,
b
「ある曇 った冬 の 日暮 れであった。」元の文 は どんな効果 を持 ってい ると思 い ますか ?
答
a
「あ る曇 った冬 の 日暮 れ, ‑‑・待 っていた」とい う過去形 に取 られ て しまう。作品の時間 ・空間の限定。b
「‑‑・であ る。」 とい う断定, しか も現在形で書 かれ ることによっ て,物語 の時間帯 が強調 され,事件 の臨場感が もた らされ る。ね らい どうして,「である」とい う現在形 で書 き出 されてい るのか,注意 さ せ る。 (語 り手が読 み手 を作品の世界 に引 きず り込 む。枠 の働 き。) 場面課題 1 「これ らはその時の私 の心 もち と,不思議 な くらい似 つかわ し
い景色 だった
o 」( p.1, 7
行 ) とあ りますo
答 「曇 った冬 の 日暮 れ」
,
「うす暗 いプラ ッ トフォオム」,
「珍 し く私 のほb')に一人 も乗 客 はい なか った」, 「珍 し く見送 りの人 影 さえ跡 を絶 っ て」
,
「桂 に入れ られた小犬が一 匹,時々悲 しそ うに,吠 え立 てていた。」ね らい 気持 ち と景色が 「似 つかわ しい」 こととの確認。
場面課題
2
「が,やがて発車 の笛が鳴 った。‑‑後 ろへ倒 れて行 った。」( p. 1
,1 4
行〜2 6
行) とあ りますが,a
この場面 の中で物憂 い静 かな動 きを表す表現 を見つ けてみ ましょう。b
また物憂 い静 か な動 きを壊 す よ うな表現 を見 つ けて み ま しょう。答
a
「ず るず る と後 ず さ りを始 め る」,
「未練が まし く後 ろへ倒 れて行 っ た」,「一本 ずつ眼 を くぎって行 く」, 「置 き忘れた ような」。b
「けたた ましい 日和下駄 の音」,「言 い罵 る声」,「が ら りと開いて」,「あわただ し く
」
「入 って来た」。ね らい コン トラス トによる小娘 の登場 の強調 に注 目させ る
。 (
「ず し りと揺 れて」
は議論 になって くる と予想 で きる。)場面課題
3
「それ は油気 のない髪 をひっつめの銀杏返 しに結 って,横 なで の痕 のある敬 だ らけの両頬 を気持 の悪 いほ ど赤 くほて らせた, いか に も田舎者 らしい娘 だ った。 しか も垢 じみた萌黄色 の毛糸 の襟巻 きがだ ら りと垂 れ下が った膝 の上 には,大 きな風 呂敷包 みが あった。 その また包 み をだいた霜焼 けの手 の中 には,三等 の赤切符が大事 そ うにしっか り握 られていた。」( p.
1,3 0
行‑3 6
行)
ここでは,「下品 な顔 だち」や 「不潔 な」服装や 「愚鈍 な心」
な どが描 かれてい るが, それ と異質 な表現 を取 り出 して くだ さ
い 。
答 「大事 そ うにしっか り握 られていた。」
『蜜 柑』 を どう教 え るか
353
ね らい ほか の よ うな感 情評 価 的 な態 度 と違 う客観 的 な描 写 に注意 す る。 (「大 きな風 呂敷包 みが あった。」も出 るか もしれ ない。それ に対 して「田 舎者 らしい」で説 明す る。)
場 面課題
4
「私 は一切 が ぐだ らな くなって,読 みか けた夕刊 をほ う り出す と,まだ窓枠 に頭 を もたせ なが ら,死 んだ ように眼 をつぶ って, うつ らうつ らし始 めた○ 」( p. 2,2 0
行‑2 3
行 ) とあ りますo
答 「不可解 な,下等 な,退屈 な人生
」
ね らい 人生 に対 す る 「私」 の絶望 的 な気持 ち を理解 す る。 (「陸道 の中の汽 車」, 「田舎者 の小娘」, 「平凡 な記事 に うず まってい る夕刊」 の答 え も 出 るか もしれない。 それ らは 「不可解 な,下等 な,退屈 な人生」 の象 徴 として取 り上 げ られ てい るのだ。)
部分課題
2
「じっ と汽車 の進 む方 向 を星空 ヱヱ い るo 」( p. 3,6
行‑7
行 )
とあ りますo
答 「見 や ってい る」は,意志や期待 な どを持 って見 る とい うニ ュア ンス が あ る。
ね らい 表現 の正 しい使 い方 と豊 さに注 目す る。
場面課題
5
この場面 で は 「私」 の不快 な感覚が さまざ まな表現 で描 かれ てい ます。a
小娘 に対 す る不快 な感情 が もっ とも高 まった ところを表 し てい る表現 は どれですか ?b それ らとは異質 の感覚が措 かれてい る部分 を見 つ けて くだ さい 。
答