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宗教をどうとらえるか

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Academic year: 2022

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(1)

宗教をどうとらえるか

成末, 繁郎

九州大学大学院

https://doi.org/10.15017/2340971

出版情報:九州人類学会報. 30, pp.111-118, 2003-07-05. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

「旦iし『1::1~11『[i証i

宗教をどうとらえるか

I .  

はじめに

シンポジウムのこのセッションの表題が

「宗教をどうとらえるか」という非常に大き く多義的なものであることで、何を語るべ きか正直なところ迷った。しかし長谷氏、

金縄氏、王氏の発表概要を事前に教えても らい、その結果、「宗教をどうとらえるか」

という問いは

E v a n s ‑ P r i t c h a r d

風に、「宗 教とは何か」という問いと「如何に宗教を 捉えるか」という問いが混合したものであ ると考えることにした。そして、このセク ションの発表者の三人は後者の問題、つま り「如何に宗教を捉えるか」(宗教の定義は ペンディングして)に重点を置いているよ

うに見えた。そこで筆者は「宗教とは何か」

成 末 繁 郎

(九州大学大学院)

に重点をおいたコメントをすることで、こ のセクションのバランスをとることが出来 るのではないかと無謀にも考えたのである

(実際に無謀だったようだが)。こうして、

コメンテーターであるにも関わらずレジュ メを用意し、コメントというよりも独善的 な発表めいた体裁を取ってしまったのであ る。

弁明はこれくらいにして、このコメント の構成を先に押さえておきたい。「宗教とは 何か」という問いを考えるときに、「宗教」

という明らかに西洋の伝統のコンテクスト を纏った概念にどのように対処するかが問 題になる。しかし同時に「宗教」という概 念が如何なる意義を指し示していようとそ の概念を使用して語るほかはない。説明あ

(3)

るいは解明すべき概念を、その概念(ある いはその概念で文脈化された外延や内包)

を使用して解明するしかないわけである。

このパラドックスは人類学でお馴染みの

「異文化理解は可能か」の議論と重なる。そ こで表面的にはこのパラドックスについて、

暗示的には「異文化理解」についての筆者 の立場を明確にしておく方が良いと判断し、

Wagner

の力を借りて、まず立場表明を 行ったのである。次に、

Tambiah

とやはり

Wagner

の思考に沿って、「宗教」という概 念を幾つかの項の関係性として捉える方法 を呈示した。それぞれの項には如何なる意 義を設定しようと構わないが、項と項との 関係性だけは変更が不可能である。逆に言 えば、現実に存在する宗教現象はこの関係 性によって「宗教現象」として有意味化さ れると考えた。更にこの関係性は基本形を もとに次々にフラクタル化されていくと想 定することで、西洋も非西洋もともに現在 に至るまで絶え間なく変化し続けてきたこ とを明確化でき、その積分の結果、現在目 にする「宗教」の複雑さが現象すると考え た。その際に、安易だが西洋のフラクタル 化と非西洋のフラクタル化の方向性が異な るのではないか、この方向性が異なること が問題を複雑にしているのではないかと考 ぇ、二つのフラクタル化の方向性のモード を荒っぽく設定した。こうして次に、二つ のモードを前提にして「宗教現象(或いは 異文化)」を理解するにはどのような戦略 が、あくまでも不十分だが、有効と想定さ れるかを考察したわけである。緻密さとい う点でいささか欠陥をもつコメントだが、

ご批判を賜れれば幸甚である。

II.  立場表明

Wagner

よれば人類学者の研究は特有の

「傲慢さ」を持っているという。なぜなら人

類学者は研究対象の文化の創造能力を人類 学者自身固有の科学の分析的な手続きを通 して、つまり人類学者固有の文化が彼に与 えた創造能力を通して、対象の文化を表象 することを試みるからである。だがその際 に人類学者が採用する分析のモードは、し ばしば固有の不変の「論理的な」秩序また は、無時間的決定要因の「閉じた」システ ムとして研究対象の文化を表象してしまう。

つまり科学の諸規則やテクニックは人類学 者にネイティブの文化の意味を解読し、そ れらをあるモデルによって定式化する企て において創造的であることを許すが、この モデル(人類学者の分析の静態的な人工物)

は、そのモデルが表象することを目指す対 象の文化の内部にネイティブ固有の創造能 力を想定していないのである。こうして科 学者(人類学者)は、彼自身固有の文化の 特性として創造能力を優先しながら、ネイ ティブの文化の特性に創造能力を否定する のである

[Wagner1 9 7 2 :  3 ]

だがこれはある意味で仕方ないことであ る、というのは、何かを表象することは、

その一方で何かを隠蔽する事だからである

(人類学者が自分自身の創造力を表象する ことで、対象の文化の人々の創造・想像力 を隠蔽するように)と

RoyWagner

は続け る。そして、彼は表象することが(対象の 文化の人々にとっても、人類学者にとって も)創造力の形態を規定していると主張す る。なぜなら、表象することは自分の文化 にとって有意味な仕方で、対象の文化の言 葉・図像・その他のシンボルの資源を利用 して、解釈(要素・対象・観念・イメージ の提示)を創り出すからである。しかしだ からといって対象文化の徹底的なマスキン グ、要するに対象文化の内的な生活をドラ マティックにすることよりも、むしろ隠蔽 するために人類学者固有の文化の形態を使 用して表現することは人類学者の「傲慢さ」

(4)

以外の何者でもないと

Wagner

は述べる が服従しなければならない外部の力の存 のである

[Wagner1 9 7 2 :  3 ‑ 4 ]

。 在」という意味と「人がその力に対して抱 こうして、次の事が主張される。対象文 くく敬い〉の感情」という意味の二つを持っ 化のネイティブの人々は現象世界に対して ていたそうである。そして「神を個人的に 彼ら固有の表象化を彼ら固有の創造・想像 見ることや神との関係を結ぶこと」ではな 力を使用して行っている。従って人類学者 く、そうするための手段となるあらゆる信 は彼ら固有の表象を更に表象することに専 仰や実践を指すようになったのはカルヴィ 念しているのである。そして人類学者固有 ン以降であり、

1 7

世紀後半までには概念や の表象化のモードを使用することで彼らの 信仰の体系として、教義として宗教をとら 表象化のモード(ネイティブの創造力)を えることが普通になるという

[Tambiah

隠蔽してしまうところに人類学者固有の

1 9 9 0 :   4 ‑ 5 ]

1 6

世紀に始まる宗教改革以降

「傲慢さ」があるということになるのであ に、神が外なる教会から内なる良心へと、

る。 そして理性へと変貌するにつれて

r e l i g i o n

さて、「宗教」をこの立場から捉えると、 の概念が大きくパラダイム転換を行ったこ 対象の人々の表象化のモードを確保しなが とは間違いない。

Wagner

もやはり、この時 ら「宗教」を捉えるべきとなる。つまり、 点を

r e l i g i o n

概念の大きな変換期と見て

「彼ら」の「宗教」は西洋との接触以前も以 いる

[Wagner1 9 8 5 :  1 2 1 ‑ 1 2 4 ]

。近代以前の 降も等しく革新を続けている、それが「生

r e l i g i o n

の状況はやはり絶え間ない革新の きている」ということだからである。従っ 状況にあったが、しかしその革新は神の絶 て、その革新のモードを探り前提にして現 対性を前提にしたものであり、神の存在を 象を解釈することを目指すべきなのである。 疑うものではない。つまり神学は深まるが 但し、

Wagner

TheI n v e n t i o n   o f   C u l ‑

t u r e

で力説しているように、こうした努力 の末に出てきた解釈は、「彼ら」の「宗教」

でも、その一部でもない、精々「我々」の 文化の一部、つまり我々の文化に対する革 新 に 過 ぎ な い こ と は 言 う ま で も な い

[Wagner 1 9 8 1 :  1 6 ]

I I I .  

r e l i g i o n

」の分析の試案

ー外旋のモードと内旋のモードー

タンバイアによると「

r e l i g i o n

」はラテン 語の「

r e l i g i o

」から由来し、元々は「人間

図表1‑a 「近代」以前

シ ン / 会

人間 自然 儀 礼

r e l i g i o n

そのものを研究の対象にすること はなかったのである。だが、近代への移行 につれて

r e l i g i o n

そのものが研究の対象 になったのである

( r e l i g i o n

が対象化され た)。

そ こ で

Wagner

にならって

r e l i g i o n

を 三項の関係と捉えよう。即ち神一人間一儀 礼である1)。さらに三項関係は六項関係に 分節化する(図表 1‑a)。神は自然を、人 間は社会をつくり、儀礼はシンボル(聖書/

神話等)となるのである

[Wagner1 9 8 5 :  9 7  

‑ 9 9 ]

図表2‑b 「近代」以降

シン

(5)

これが中世の

r e l i g i o n

の状態であり、神 パラダイムで描く2)。つまりグローバル化 一人一儀礼の三項を地にして自然/社会/ や外部(ほとんど西洋社会だが)からの支 シンボルが分節化される(図になる)ので 配に包含されたり、対抗したりする社会と ある(図表 1‑a)。これが近代になると図 して描く傾向性がある。それまで閉じてい と地が反転し、シンボルー自然一社会が地 たが西洋との接触によって革新しはじめた になり、この地によって説明されるものと かのように描くのである。だから内旋モー して神一人間一儀礼の関係即ち

r e l i g i o n

ドでの革新を伝統の残存(革新ではなく)

が設定されるのである(図表 2‑b)。これ だとか、「抵抗」というようにネガティブに 以降、何も自明なものはないという懐疑あ 描くのである。これと鏡像関係にあるのが るいは批判を前提として分散化していくと 外旋モードを内旋モードで描くやり方であ いう革新のモードが近代以降のモードと捉 る。ニューギニアの「カーゴ・カルト」が えられる。このモードを外的に革新する その典型である。彼らは自分たちのモード モード(外旋のモード)と呼ぼう。このモー で 西 洋 を 表 象 し た の で あ る [ハリス ドは具体性から抽象性へと拡張していく。

1 9 8 8  :  1 2 4 ‑ 1 2 5 ]

。しかし何方も誤認である

これに対して「彼ら」の革新のモードは ことは疑いのないところであろう。

神一人間一儀礼の関係性を前提にして解釈 内旋モードを直接内旋モードで描く方法 を精緻化し、神一人間一儀礼の関係性を最 があるが、これはネイティブそのものであ も抽象的な関係としてそれを具体化する方 り、それはその文化を生きていることを意 向へと分節化していく。このモードを「内 味しており、これに人類学者はなれないし、

的に革新するモード(内旋のモード)」と呼 もし出来たとしても、そこの人々の内部で ぼう。

N.  このモデルによる主な異文化理解の モードの批判

研究対象の人々いわゆる「彼ら」を内旋 モードとし、「我々」を外旋モードとする

と、人類学者は外旋モードを使って「彼ら」

を表象し、「彼ら」の内旋モードを隠蔽して

だけ理解可能になってしまう。

可能な戦略は「内旋モード

1

」を外旋モー ドの用語を使用して(疑似的に)「内旋モー ド

2

」を偽造し、その「内旋モード

2

」で

「内旋モード

1

」を描く方法である3)。もち ろんこれも外側への革新に過ぎない。つま り我々の文化の一部を革新したに過ぎない が、「我々」の社会も「彼ら」の社会もとも に太古から「革新」しつづけている進行中 きたということになる。しかしこれは実は の社会であること、しかし各々革新のモー お互いさまである。まずエスノセントリズ ドが異なること、そして描かれる対象と描 ムはこのモデルでは次のように捉えられる。 かれたものとが絶対的に異なることの三つ 即ち外旋モードを常に進歩する開いたシス を前提にしている点で他の方法とは異なる。

テム(外旋モード)と描き、その一方で内 表象化は表象されたものを隠蔽する。隠蔽 旋モードを「冷たい」閉じたシステムと描

く事態と捉えられる。次に、その対象の人々 の社会が変化していることを意識している 良心的研究者の場合を考えよう。彼らは対 象を閉じたシステムと描くことはないが、

どういうわけか内旋モードをネガティブ・

しない表象化は存在しない。かといって表 象化することなく、ある人々を描くことは できない。そうであるならば、「我々」と「彼 ら」の両方からズレるが、(理想的には「彼 ら」にも「我々」にも)意味のフォース(エ キゾティズムをかき立てるような)を持つ

(6)

描き方を工夫するべきであろう4)

V. おわりに

以上のように、「我々」は外旋モードで思 考し、「彼ら」は内旋モードで思考し生きて いるという、非常に単純で、危険でさえあ る「対比的な」語りかたを筆者は主張して きた。しかしこれはあくまでも可能性の一 つを呈示したに過ぎない。とはいえ予想さ れたある批判を検討し、最後にいささか、

横道それた議論を「宗教とは何か」という 問題に収欽させて本論を閉じることにしよ

う。

「彼ら」を内旋モードで「我々」を外旋モー ドと固定的に捉えて記述や解釈を始めるこ とが正当なのか?という疑問が確実に生じ るだろう5)。この疑問は二段構えになって いると筆者は理解する。一つは「我々」と

「彼ら」の間に差異が存在すると前提して分 析・解釈を始めることは正当化しえるのか というものである。この疑問に対しては次 のように答えるほかは無いだろう。即ち人

は「同一性」を設定しなければならない、

そして我々も彼らもともに「内旋モード」

と「外旋モード」を組み合わせて思考し生 きていると設定するこの反論の機制は、そ の同一性を設定することに貢献することに なる。さて、その上で、「差異」を考えると

「内旋モード」と「外旋モード」との組合せ の仕方の違いが、「差異」として設定される ことになるだろう。だが、組合せの仕方も 思考のモードに他ならない。この思考の モードに差異があるとされるならば、原理 的に二つのモードが存在することになるの だ。つまり「差異」の存在がリアルならば、

どのように命名されようと対立する二つの モードが存在することもリアルになるので ある。こうして「内旋モード」と「外旋モー ド」はこの存在するはずの「モードの違い」

の一つのバージョンであり、そのポテン シャルの「引き出し

( e l i c i t a t i o n )

」の一つ の可能な表現として正当化されるわけであ る。

しかし本当に重要なのは筆者の議論の正 当化ではなく、上で論じてきた「差異」の 類学者は「差異」に賭けるしかない6)。二つ 存在と対立する二つの思考のモードとの関 目は差異があるとしても「我々」を外旋モー 係について、つまり差異が、契機になって、

ド、「彼ら」を内旋モードと固定的に捉えて 分岐する二つのモードが設定され、産物で よいのかというものである。確かにこのよ あるこの対立するモードが「差異」を知覚 うに固定的に捉えることは全く正当化でき 可能なものとして有意味化していることに ない。だが差異がある以上、対立する二つ 気付くことである。このとき後付け的に有 のモードを想定せざるを得ないのも事実だ。 意味化された「差異」と端緒の「差異」と そこでこの二つの思考のモードを仮に認め

ていただくとして、二つ目の疑問を、現実 的には「彼ら」が外旋モードをとらないと はいえないし、我々が内旋モードで考えて いないとも言い切れないという反論と捉え ることにしよう。確かに我々も彼らも内旋 モードと外旋モードを組み合わせて革新を 行っていると見るほうが正当のように思え る。だがこの反論を受け入れても何も変ら ないのである。まず「差異」を語るために

はズレているのは確実である。これは後付 け的な差異が端緒の差異を上書きして取っ て代わり、上書きして取って代わったこと で端緒の差異の存在が遡及的に想定(発明)

されているというのが実情だからである。

この事態はレヴィ=ストロースの婚姻交換 の議論を思い起こさせるとともに、隠喩の 働きを思い起こさせる。例えばダリビの 人々の一人が西洋から牛や山羊が持ち込ま れたとき、「山羊はそれほど良い豚ではな

(7)

ぃ:最も良い豚は牛である」と言ったとい う[Wagner1978: 28]。この時、「豚」は何 を意味しているのだろか。これまでダリビ の人々が「豚」で指し示していた実体的な ものは瞬時に何か「別の物」のシンボルに 過ぎなくなり、「真の存在」が遡及的に想定 されることになるのである。我々は端緒の 段階にいるのではない、もはや動きだした このプロセスの途中にいるのである。した がってそこで想定される「真の存在」は幻 影(発明されたもの)に過ぎなくなるので ある。実は「宗教」という概念も同じ一種 の隠喩に過ぎない。キリスト教徒が「仏教 はいい宗教だが、イスラム教は悪い宗教だ」

と言ったとしよう。さてその時の「宗教」

とはいったい何なのだろうか。次々に「真 の宗教」が想定されていき、どこにも定位 することがないであろう。たとえ「見えな いもの」として「宗教」を捉えたとしても 一定の事態を指し示しているのに変わりは ない。本論の

I I I

節で「宗教」を何事かある いは何らかの事態を指し示す形で定義して 捉えるのではなく、項と項との間の関係で

「意味・意義」または「定義」を排除して捉 え る や り 方 をWagnerの 力 を 借 り て 示 し たが、実はまさにその線で現象を捉えるこ とがすぐ上で述べた難局を回避する可能な 仕方の一つであると示すことを筆者は目指 していたのである。その時、外旋モードと か内旋モードとかの命名や方向づけは例示 として捉えれば良いのであり、こだわる必 要はないのである。

1).  Wagnerによる元々の三項関係は、

God ‑man ‑eucharistで組んである。周知 の通り、eucharistは弟子たちとの最後の晩 餐で、イエスが弟子たちに「これは私の身 体である」といいながらパンを与え、「これ

は私の血である」と言いながらワインを与 えたことに因んだキリスト教の聖餐式のこ とである。ここでは筆者が勝手に eucharist を 儀 礼 に 置 き 換 え た [Wagner1985:  96 

‑97]

2) この用語はLoisMcNayの著作で初め て知った。McNayによると、ネガティブ・

パラダイムとは一貫し統合された主体は discursive且つシンボリックに構築される とする考え方で、フーコーやラカンの考え 方に基づいて概念化されたという。この discursiveな構築というアイデアは、暗示 的にだが、主体に本質的な受動性を前提し ているために、(外部による)決定論の形態 を取るようになるという。つまり抑圧的な 権力の働きかけに対し、その権力に対する 反作用としてしか自律性を主体が持てない とし、さらに主体のアイデンティティの一 貫性を構築し維持することは異質性を排除 することでしか可能ではないとするのであ る。この論理が主体編成の全てを説明する かのように拡張されたとき、個々人が差異 に対してあまり防衛的ではなく、むしろ創 造的/想像的な様式で反応するという可能 性を排除してしまうことになるのである。

特徴的に、ネガティブ・パラダイムの論者 は支配的な規範に対する抵抗とかズレ・脱 臼とかいう「残余のカテゴリー」で行為を 捉える傾向にあるとMcNayは指摘する。

さらにMcNayは「抵抗とか脱臼 (disloca‑ tion)とかいう言葉はもはや自明の理 (tru‑ ism)になってきている。なぜなら個人的な プラクティスが支配的(主流の)な規範に 一致しないようなあらゆる状況に(抵抗と か脱臼という用語が[筆者挿入])使用され ているからである。この傾向は、日常生活 のプラクティスに生来的な転覆・破壊的地 位を与える幾つかのタイプのカルチュラ ル・スタディーズに顕著である」と椰楡し ている [McNay 2000: 3‑4] (但し、引用は

(8)

同書のp.4)

3)ここでの「内旋モード1」は、もちろん

「内旋モード2」(実は外旋モード)の偽造 の後、遡及的に想定されているだけであり、

実際に「内旋モード

1

」が人類学者に知覚 できるとは考えていない。「内旋モード 1」 があるとすれば、それはネイティブのみが 知覚可能か、または認定可能なものと「便 宜上」されるものでしかない。

4)意味のフォース (force)とは一種の説得 カのことであり、的確だが陳腐な表現より

も、的確でありながら新奇な(「ニュアンス 豊か」な)表現の方が、説得力を持つとい うことの表現である。「エキゾティズム」と いう言葉を見るとパブロフの犬のようにや たらと批判しなければならないと思ってし まう教条主義者が多いので、 RoyWagner  のHabuの結論の最後の言葉の引用をし ておく。

『エキゾティズムは分析者と読者をとも に自分たち固有の文化から引き離すポテン シャルを持った手段であり、……そしても し変換が文化の働きであるならば、つまり 人間の創造能力の形態を革新的に「借用す ること」であるならば、ネイティブ固有の イディオムの表現的なフォースを借用する ことによって以外にネイティブの洞察を 我々自身の洞察へと変換するより良い方法 があるだろうか。』 [Wagner1972: 17 4]。言 葉自体にはある一定の意味を確定させ固定 させる力はないこと、使用される脈絡でど のような意味にでも変換されることは周知 のことと思うのだが。

5) この疑問は実際に北九州市立大学の竹川 先生から受けた。拙い発表を真面目に聞い て頂き、的確な疑問を投げかけていただい て非常に有り難かった。その場では十分な 返答は出来なかったがこの本論で精一杯答

えようと試みた。

6)浜本氏の論旨からすると筆者の議論は批

判されるべきものであるが、この部分に関 しては非常に的確な表現を与えているので、

以下に引用する。

『人類学はその対象を西洋的自己にとっ ての文化的他者、文明に対する末開として、

自らとは極端に異なった存在であるかのよ うに描きたててきたと、しばしば批判され ている [Fabian1983; Richards 1994]。そ のとおりだったとも言える。しかしただ後 ろめたく思ってみても意味はない。また違 いについて語ることを放棄して、いかに彼 らが自分たちと同じであるかを叫び出すの も見苦しい。問題を研究者の政治的意識や 立場の問題に矮小化するに及んでは、単な る学問的怠惰以外の何でもない。差異がげ んに存在し、人類学の語りが今後も差異に ついての語りであり続けるのならば、そし て差異についてニュアンス豊かに語る言葉 を研ぎ澄ませることが人類学の中心的な課 題の一つだとすれば、従来の語り口のどこ に問題があったのかをきちんと押さえたう えで改めることこそが必要なのである。』

[浜本 2001: 206‑207]

参考文献

Roy Wagner. 1972. Habu:  The Innovation  of  Meaning  in  Daribi  Religion.  The  University of Chicago Press. 

Roy Wagner. 1978. LETHAL SPEECH  Daribi Myth as Symbolic Obviation.  Cor‑ nell U.P. 

Roy Wagner. 1981. The Invention of Cul‑ ture  (Revised  and Expanded Edition).  The University of Chicago Press.  Roy Wagner. 1986. Symbols That Stand for 

Themselves. The University of  Chicago  Press 

Tambiah, SJ. 1990. Magic, science, religion,  and the scope of rationality.  Cambridge 

(9)

U . P .  

Lois  McNay. 2000.  Gender  and Agency  Reconfigung The  subject  in  feminist  and Social  Theory. Polity Press. 

マーヴィン・ハリス 1988『文化の謎を解く ー牛・豚・戦争・魔女ー』(御堂岡潔訳)東

京創元社。

浜本満 2001「対比する語りの誤謬ーキドゥ ルマと神秘的制裁ー」『人類学的実践の再構 築』(杉島敬志編) pp.204‑225、世界思想 社。

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