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ディスカッション (公開シンポジウム 若者は、ど こから来て、どこへ行く?)

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ディスカッション (公開シンポジウム 若者は、ど こから来て、どこへ行く?)

著者 梅原 利夫, 土井 隆義, 奥平 康照, 常田 秀子

雑誌名 東西南北

2007

ページ 83‑97

発行年 2007‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00002429/

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司会・梅原利夫(所員/人間関係学部教授):今日、3人の方には学問分野、そ れぞれに違った角度からご報告と問題提起をいただきました。

土井さんは社会学の立場から、とりわけ格差社会ということを切り口にして現 代社会における若者の有り様を問題にされました。奥平さんは教育学の立場から、

1970年代以降の社会変化のでの若者を問題にされました。常田さんは心理学の 立場から、特に学習主体ということを切り口にして、現在の和光学園を対象とし た調査結果を報告されました。それぞれ学問分野の対象や時代の違いはあります けれど、共通に今の時代の若者ということを念頭に置かれて、違う切り口や方法 で問題を提示されたと思います。

これから、それぞれの方に二巡にわたって話していただこうと思います。一巡 目は、皆さんからいただいた具体的な質問についてまず自分にどんな質問が寄せ られているのかを紹介していただきながら、一定の回答をしていただきます。二 巡目では、今日のシンポジウムの大テーマは「若者は、どこから来て、どこへ行 く?」、そして副題に「人生選択」という言葉が入っています。「どこへ行く」と いうことを頭におきながら、若者たちの現在の状況を期待と漂流というふうに捉 え、若者たちの人生選択ということについて、私たちがどんなふうに問題を収斂 させていくのかを、ディスカッションの大きなテーマにしたいと思います。

そこに行くための手がかりとなる質問が寄せられておりますので、紹介します。

今日のお話はややネガティブといいますか、悲しい話といいますか、そのような 内容が続いたような感じがするので、もう少しポジティブな提案をして欲しいと いう質問が、お3人に共通して出されております。もう一つ、土井さん、奥平さ んに、やはり展望を聞きたいとか、切り開く見通しを聞きたいという要望も出さ れております。それらを拾いまして、二巡目のところでは奥平さんから、少しポ ジティブな提案、あるいは「どこへ行く?」という問いに対する展望のようなも のをご提案いただければと思います。そして、それを受けて「どこから来て、ど こへ行く?」という議論に集約していったらいいのではないかと、司会者として は思っております。

ですから、二巡目の話以降は、このフロアにおられる方々に積極的に発言して いただいて、この全体テーマを深めていただきたいと思います。それでは、土井 さん、奥平さん、常田さんの順に、質問を紹介していただきながら、お話をお願 いします。

公開シンポジウム:若者は、どこから来て、どこへ行く?

ディスカッション

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──質問への回答

土井:3人の先生方から質問をいただいております。まず、「荷宮和子さんの指 摘から、土井は『生まれもった素質によって人生は決まる』という発想を引き取 ったと述べたが、そのように確信する根拠を少し詳しく説明せよ」というご質問 です。

都合上こういう形でお話をしましたけれども、私自身が考えているのは、むし ろその逆です。常日頃、若者たちの言動を見ていて、宿命主義的な人生観を抱い て生きているようだと感じるところが多々あります。そういう私のスタンスで荷 宮さんの本を読んだときに、このように読めたということです。

具体的な調査データに基づいて言っているわけではないのですが、先ほども出 ました「個性」に対する若者たちの日頃の語り方があります。例えば自分の進路 を決めるにあたって進路相談に行ったときに、われわれの時代だと「自分はこう いう職業に就きたいのだけれども、なれるだろうか」といった形で教員のところ に質問に行ったのですけれども、最近は「自分の素質にあった職業はいったい何 だろうか」といった形で、逆転した方向で質問に来たりします。

あるいは、少し古くなりますが、プリプリ(=プリンセス・プリンセス)の「ダ イアモンド」という歌がありましたが、あの中に出てくるのは、いわばダイヤモ ンドの原石のようなものとして自分を語る、そういう語り口です。このような 日々見聞きするものの中から私が感じていることをまとめてお話したわけです。

今日は若者に照準して話しましたけれども、こういった感覚はもう少し上の世 代まで広がっているように思っています。私はそもそも逸脱行動論が専門なので、

少年犯罪、少年非行を中心に研究しているのですけれども、数年前に、少年犯罪 は「凶悪化」(本当は凶悪化していないのでカッコつき)していると言われていたと きに、「少年院に行って矯正は可能ですか」ということを問う調査がありました。

そのときは、小中学生のお子さんがいる30代ぐらいの親に聞いたのですが、その 7割もの方が矯正は不可能であると答えました。つまり、そういう素質をもって 生まれた少年は変わらないだろうという発想なのです。

あるいは最近の流行りでいうと、スピリチュアル・カウンセリングが今とても 流行っています。江原さんとか、細木さんとかいろいろいらっしゃいますね。こ の動きを見ていますと、自分ではコントロールできない何かを人は生まれながら にして背負っており、それが自分の人生を決めていくという感覚が広がっている のではないかと感じます。そういう中で、私は若い世代ほど特にそういう傾向が 強まっているのではないかと考えているわけです。

つぎのご質問は、最近の格差化の傾向が若者バッシングに向かうことに対して、

私が今日話した内容もそうですけれども、「そうじゃないんだと、たとえば、企 業とか経済構造にむしろ問題があるんだ」と言っているわけですが、でもその言

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い方に対して、「自分の人生は自分の努力で開くこともできる」と若者たちを元 気づけるという意味では、「若者がんばれ」という言い方にもあながち意味がな いわけではないのではないか、そういったご主旨の質問と考えてよろしいでしょ うか。

確かにそういう側面もあるとは思いますが、ただ、昨今の社会状況を見ている と、若者に「さあ、がんばれ」と言うには、あまりにも過酷過ぎるのではないか とも感じます。自分の努力で未来が切り開けるような状況であるならば、「もっ とがんばれよ」というふうに言えると思うのですが、現在のフリーターとかニー トの状態を見ていると、がんばったってがんばりようがないという、そういう過 酷な状況の方がむしろ目につきます。そういうときに「いや、がんばれば何とか なるよ」という言い方は、問題の解決に結びつくどころか、むしろ若者たちを追 い込んでしまうのではないかという危惧を、私はもっております。

三番目の質問は「アッパー系の人びとは、生得的属性に可能性があると自負し ている人びとなのか」というものです。はい、私はそう考えています。もって生 まれた自分の素質は、きっとダイアモンドの原石であるんだろうと、そう思い込 める人がアッパー系になるのではないかと思っています。さらに、「だとすると、

それぞれの可能性は個別的差異をもっていると考えることができるが、結局『互 いに似通ったワンパターン』におさまってしまうとき、生得的属性が事を決める という若者たちの了解にヒビは入らないのか」とのご質問ですが、ヒビは入ると 思います。つまり、夢を抱いている間はいいのですが、夢はあくまで夢であって 現実の諸条件に根ざした目標ではないわけですから、どこかでつまずく。つまず いたときに、それは極端にガラッと自信のなさに転じてしまう。そういう構造を もっていると思います。

ただ、夢を追いながら生きてこられた時代もこれまではあったわけです。少し 前まで、例えば山田昌弘さんの「パラサイト・シングル」という言葉もあったよ うに、フリーターをやっていく中でも、将来開ける夢は何かあるんじゃないかと 思えた時代もあったと思うのです。しかし今はそうではなくなっている。早かれ 遅かれ、それが思い込みに基づいたアッパー系にすぎない以上、どこかでダウナ ー系に転じてしまう危険性を秘めていると思います。

それからもう一つ、「『自分らしさの隘路から脱出しよう』という提案は、先験 的な『自分らしさ』のみから解放されるということなのか? それとも、おしな べて『自分らしさ』なるものに固執するのはやめようという提案なのか?」とい う質問です。最後はちょっと端折って述べてしまいましたけれども、当然、生ま れながらにそれぞれ違いはあるわけで、私は個性がないと言っているわけではあ りません。個性はあると思います。ただ、個性の中身がどんなものかについては、

やはり日々の生活の中で他者と出会っていく中でしか気付きようがないのであっ て、いくら自分探しをやったって見つかるものではない。そのような、もって生

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まれたものとして個性を捉えるような考え方は、本来の個性の理解ではないだろ うということです。

自分らしさはもって生まれたものであり、それは変わらないものであるという 発想をとっていると、かえって社会には出て行きづらくなるし、人間関係も固定 化してしまう。つまり、もって生まれた自分にふさわしい人間関係を作ろうとす るので、人間関係がどうしても固定化するわけです。そうすると、かえって人間 関係はしんどくなってくる。そういう人間関係からの乗り換えが可能だというふ うに思えるのは、やっぱり自分は変わりうる存在だと思えるときでしょう。

昨今のいじめ問題もそうですけれども、自分の素質は変わらないと思っている と、その前提で自分の仲間を探して、その中でうまくやれないともう駄目だと思 ってしまう。この人間関係から外れたらもう自分は生きていけないと思ってしま う。これはとてもしんどいだろうと思うんですよ。「自分らしさ」なんてあらか じめ所与としてあるものではなくて、あったとしても、それは変わっていくもの だろうし、結果として気づくものだというくらいに考えておいた方が、人生をゆ ったりと楽しみながら生きられるのではなかろうかと思います。

奥平:一つは、「若者問題というときの、問題とは何のことか」というご質問で す。深く考えているわけではありませんけれども、考えてみれば、若者論という のは大人たちから見た「あるべし」が多いわけです。大人たちは、自分たちの行 動、活動の仕方、あるいは秩序の構成の仕方に基づいて、若者の意識や行動を予 想します。ところが若者の意識や行動は、そういう大人たちがもっている社会秩 序に関する意識や行動の形から外れてしまい、その年齢層との間でうまくコミュ ニケーションができない。あるいは共存ができない。こういうときに「問題」と 言うのだと思います。だから、大人たちから見た一つの問題であるわけです。

しかし、そういうふうに大人たちが問題だと言うことと、本当に問題かどうか とは別で、実は大人たちの社会の方に問題があって、若者たちのそれに反する行 動の方が正当性をもっているということも、もちろんあると思います。ともかく も、大人という世代と、それから、そこから見たある年齢段階の層との間の対立 や矛盾や葛藤を問題というのではないだろうかと思います。

したがって、そこにどのような対立や葛藤が起こっているのかを理解すること、

そして生産的な対立とはどのようなものであり、それを克服する方向をどうやっ て見つけようかというのが問題意識です。

それからもう一つ、「子どものやることとして、万引きぐらいならよいけれど も、殺人のような重大犯罪の問題はどう考えたらいいのか」というご質問です。

確かに万引きと殺人はだいぶ違いますけれども、ただ、どの子にも万引きの可能 性があるのと同じくらい殺人の可能性もあるんだというふうに思うべきだと考え ています。

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重大犯罪をしようと思う直前でその人が止まるか否か、つまり、やるとやらな いとの壁はどういうふうにして形成されるかということについては十分に考えな ければいけません。重大な犯罪を犯してしまうのは、他者との対話や交流が欠け た孤立状態にあるということに加えて、犯罪を犯す手段や方法、およびそれを実 行する力=パワーがあるかどうか、というようなことが境目になるのではないか と思います。ともかく私が主張しているのは、誰でもどんな人でも、特に青年期 までは重大な犯罪の隣にいるのだということです。

常田:私への質問は、「報告で言及されていた『個性』の概念は、どのような内 容をもったものとして考えているか」というものです。実は今回の報告では、私 自身が個性をどう考えるのかということは言っていません。むしろ、質問紙の中 でポンと「個性」という言葉を出してみて、それがそれぞれの回答者の中でどの ような言葉とリンクするのかを調べるという形で回答者たちが考える「個性」を みていこうとしました。

その結果ですが、「和光学園への期待」という表を見ますと、例えば「個性を 伸ばす」というような問いに対して、「創造性」「コミュニケーション」「友人関 係」「思考力」、場合によっては「判断力」、そういったものが結びついてくる。

つまり、「自分をコントロールする」という類の言葉とは結びつかず、それ以外 の何か自分を拡大していくようなニュアンスの言葉と結びつくという傾向が、回 答者たちの中ではあったように思います。

ちなみに私自身は、その「個性」というものは、基本的にはコミュニケーショ ンを通して、その中で自分と他の人との違いなどを知る経験を通して、だんだん 自分はこういう人間だというのがわかってくるという形で立ち現れてくるものな のではないかと思います。

ですが、私が考えるような「個性」の在り方は、この質問紙の中から読み取れ る若者のコミュニケーション、例えば人に対してネガティブなことはなかなか言 えないとか、ポジティブなことだけをとりあえず認め合うようなコミュニケーシ ョンを通して成立しうるのだろうかという疑問はもっています。

ただ、どの回答者も「個性」についてそのように考えているかどうかはもちろ んわかりません。例えば土井先生がおっしゃっていたように、何か「生まれつい た個性」というものがまずあり、それをもとにしてコミュニケーションが行なわ れる、そういうものを認め合うというようなニュアンスで考えているのかもしれ ない。そこは質問紙調査の限界ということもあって、実際にはわかりません。

ですから、それぞれの回答者が考える「個性」はそれぞれ異っている可能性も あるかもしれません。だとしますと、保護者の考える「個性」と子ども自身が考 える「個性」も、もしかすると一致はしていない可能性もあるだろうと考えます。

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──提案

司会:ありがとうございました。それでは、二巡目の「提案」をしていただきま す。それでは奥平さんから順にどうぞ。

奥平:そうですね。レジュメにお2人の教師の名前が書いてあります。吉田和子 さんと坂田和子さんです。このうち後者の坂田和子さんの実践のお話をしたいと 思います。

坂田さんは神奈川県の小学校の先生です。もう4、5年前の実践の報告ですけ れども、坂田さんの5年生の学級にものすごい乱暴者3人がいて、先生が少し注 意でもしようものなら、「なんでお前は俺だけに注意するんだよ」とか、「差別だ」

というふうなことを言って歯向かってくる。それから、クラスの他の子どもたち を蹴飛ばしたり叩いたりして、クラス全体をその3人が支配してしまっている。

そういう状態のクラスを坂田和子さんは受け持ちます。

まず坂田さんがこの3人に対してやったことは、3人との糸が切れてしまって はまずいというので、その3人が騒いでいても、彼女は一生懸命こらえながら、

なるべくやわらかく接する努力をする。しかし、そんなことをしていると、クラ スの他の子どもたちは次から次へといじめられたりひどい目にあう。特にある何 人かの子どもたちは集中的にやられます。クラスの他の子どもたちは皆、萎縮し てしまって、ともかくもう3人を相手にしない、なるべく接触しないというふう になってしまっていた。そこで坂田さんは、特にいじめられている子どもたちを 昼休みに集めます。そして、その集めた子どもたちといっしょに、どうやってこ の状況を変えていくのかということを考えようとしました。

まずは、そのクラスの良識派リーダー何人かを引き入れて、そのいじめられて いる子どもたちを守る会、応援団をつくるわけです。そして、やられたらその子 どもと昼休みに話をして、どうやってそれを避けるか相談する。さらに、やられ たときに他の子たちはどういう支援をするのかということも相談する。そのうち に、昼休みのいじめられっ子応援団のところにさらに何人かの子どもたちが集ま ってきて、10人ぐらいになりました。そこで坂田さんは、いじめっ子の乱暴者3 人はどうしてあんなことをするのだろうかというように、彼らの人間理解の方向 を打ち出そうとするんです。それには子どもたちが乗ってきまして、その乱暴者 3人を理解しようとしはじめるのです。

そうしていくうちに、やがて3人の乱暴者がああいう乱暴をしなければならな い事情というものについても、そのグループはわかってくる。いじめられる子は、

確かにいじめられるんだけれども、しかし自分たちには味方があります。そうす ると、いじめられても痛いだけであって、いじめられていると思ってはいるけれ ども、精神的にはもうすでに優位に立っているわけです。それでも、3人組の横

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暴は何カ月も続くのですけれども、坂田さんはいじめっ子の親たちとも連絡を取 って、親たちとの関係も結んでいく。そうすることによって、次第に暴力的な子 どもたちとクラス全体との断絶をつなぐ道をつくり出していくわけですね。

今の社会にはいろいろな断絶があります。特に今の若者は極めて小さな集団に 分断されていると言われます。けれども、まずはとにかく、自分たちがいるその 小さな集団を保障してやるということが大事です。その次に、その小さな集団と 別な集団、それぞれ切れているんですけれども、それをどうやって結ぶか、また どのようにつなぐ場をつくるかということが大人たちの仕事だと思います。

まず、子ども・青年時代に小さな集団を保障する。その小さな集団をどうやっ てつなぐかということが教師の仕事となります。その上で、さらに問題なのは、

それがもっと大きな社会にどうつながっていくかということです。大きな社会に つながっていくためには、学習という活動を核としないといけないでしょう。今、

この社会でわれわれが学ばなければいけないことは何なのかも共同で探究する。

そういうシステムをつくることによって、共同する場ができていく。十分な展望 があるわけではありませんが、そんな形で社会に通じていくような、そういう共 同の段階というものを考えなければならないと思っています。

土井:最近、若者たちの人間関係が稀薄化しているとか、あるいはコミュニケー ション能力が低下しているとか、よくそういう批判が聞かれます。私も一時その ように考えたことがあるのですが、よくよく若者たちの世界を見ていくと、どう も事態は違うのではないかと最近は考えるようになってきました。

むしろ若い人びとは、実に対人能力に長けていて、コミュニケーション能力も ぼくらの世代よりもあるのではないかとすら感じます。われわれが10代の頃より も、今の10代のみなさんの人間関係の方が葛藤の種はおそらく多いはずです。ぼ くらの時代というのはまだ高度成長期でしたから、それぞれが勝手に振る舞って も、見ている方向はなんとなく似通っていたのです。

そういう時代には、あうんの呼吸で通じるところがあったわけですけれども、

今のような時代においては、A君が向こうを向いているときにB君はまるで違う 方向を見ているわけで、こういう状況の中でお互いの意思疎通を図ろうと思えば、

これは非常に大変なことです。そんな中でお互いにつかず離れずの微妙な距離を 保ちながら、それでも人間関係を保っていけるというのは、これは非常に洗練さ れたコミュニケーション能力ではないかと思うのです。

つまり、コミュニケーション能力が決して落ちているわけではなくて、コミュ ニケーションをとる環境の方が厳しくなっている。その中で、むしろ巧みに状況 を乗り切ろうとしているのが、今の若い人びとなのではないかと思います。コミ ュニケーション能力が劣っているどころか、むしろ高くなっているのではないか とすら感じるのです。

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このようなすぐれたコミュニケーション能力あるいは対人能力を、むしろ生か すような形で社会の仕組みを作っていくべきではないかと考えます。それは、先 ほどお話ししたような市場主義的なコミュニケーション能力ではないコミュニケ ーション能力ですね。ダウナー系の若者たちが下流に落ちてしまうような経済や 社会の仕組みがおかしいのであって、そういう脱力系の若者たちこそが、むやみ やたらと資源を浪費しない持続可能な社会を作っていくだろうと思うのです。彼 らのメンタリティーを生かせるような社会の仕組み作りをするべきです。

われわれの世代は今から老人になっていくわけで、今は高齢化社会ですし、ど こかで若い人びとのお世話にならざるを得ません。当然、介護社会が待っている のです。こういう社会状況が進む中で、人間関係を重視するようなシステムを作っ ていくことができれば、若い人びとの今のメンタリティーも生きてくるでしょう。

若い人びとがどういうときに満足を覚えるかといえば、たとえば何かをしてあ げたときに「ありがとう」と言ってもらうとか、そういう期待が非常に高いんで すね。お金を多く稼ぐことよりも。ですから、介護のように、人と人との関係を うまくビジネスに乗せていけるような、そういう社会の仕組みを作っていくこと が必要なのではないでしょうか。

言い換えれば、若者たちがアッパーでもダウナーでもない、私はアナザー系と 言っていますけれども、脱力系であることがダウナーにならずにアナザーになる ような、つまり勝ち負けではない社会の仕組み作りが必要で、そういう脱力のメ ンタリティーを生かせるような社会の土台を用意していくことが、私たち大人世 代のこれからの役目ではないかと感じています。

常田:先ほどお話ししましたように、学生たちの持っている実体験──本質──

討論という一連のものに、私たちがどういうふうに切り込んでいくかということ が問題だと思います。

今回の調査から討論が好きということが出てくるのですが、私の授業で学生た ちの討論を見ていると、たとえば一人の発言に対してみんなでうなずき合ってい るような場合がすごく多いです。「言えてる言えてる」と言って、それでお互い に「よかった、わかった」みたいな雰囲気がとても多い。そこで、私の方で「ち ょっと待って」と言って、「さっきあなたの言ったことと、この人の言っている ことは、ここが違うと思うんだけど」と切り込んだりすると、「あれっ」という ふうにようやくなってくる。おそらく、うなずき合ってわかった気持ちになると いうレベルである種のコミュニケーションもとっているけれども、本当に相手の 言っていることをわかったというよりは、自分がわかったと思っていることに引 きつけて、わかったつもりになっていることが多いのだと思います。

そういう中で、相手の言うことを本気で聞いたり、あるいは相手の実体験の中 に実際に自分が身を置いた気持ちになって理解しようとするなどの、ある種の共

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感性をみんなで一緒に作っていくことが必要です。

実際には、いろいろな感情が渦巻く中で、私たちも学生諸君も、あまりいろい ろな人の考えにビビッドに反応していたら疲れてしまう。だから、わざと感度を ちょっと落としているのではないかと思うことがよくあります。けれども、そう いうものをもう少し活性化することができると、実体験―本質―討論というもの が本当に生きてくるのではないかと思います。

──フロアから

司会:どうもありがとうございました。それでは、会場にいらっしゃる学生の 方々に、感想を含めて話していただきたいと思います。

学生A:大学院生です。土井先生の市場主義的なコミュニケーション能力という 見方には、とても納得します。私はあまり典型的な若者ではなくて、傍観者とし て見ているのですが、会話などを聞いていると、友達とか仲間には皆とてもこだ わりを持っていると感じます。一人で行動する人は少ないですね。いつも2人な いし3人で行動して、ご飯を食べて、遊びに行って、授業を受けてというのが多 いと感じます。

私のようなタイプだと、そういうコミュニケーション能力、市場主義的なもの に感化されていないので、結構一人で勝手に行動して、あまり仲間意識が強くあ りません。同調を嫌うというんでしょうか。「わかる、わかる」みたいなものに、

カチンと来る部分が多くて、どちらかというと「何を考えてるの」と具体的に聞 かれるほうが好きなんです。他の学生たちが自分にはないものを持っている部分 で、ちょっとうらやましいところはあるんですけれども、深みがないというか、

あまり外に開かれていないということをすごく感じます。ですが、それをどう変 えていったらいいのか、まだ何とも言えません。

学生B:人間発達学科3年です。奥平先生の話の最初に、中学生の万引きの話が ありまして、そのぐらいの年齢は自己形成が不十分であり、その点に関してはい つの時代も変わらないとありました。確かに、人間としての発達段階において、

基本的な部分は同じものを持っていると思います。それがなぜ、時代によってい ろいろ変わったのか。やっぱり生活とか消費社会とかが影響しているのですけれ ども、90年後半以降、現状の社会課題の解体と大衆的孤独化などがありますね。

今の大衆的な孤独化について言えば、携帯電話などが発達して、孤独化を補完 するというか、補填するようなものが流行っていると思います。それで補ってい る今の社会がこれからずっと続くとは私は思いますけれども、それで孤独化が解 消されるとはあまり思いません。

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学生C:人間発達学科3年です。最近私も就職活動を始めまして、どこの就職活 動のセミナーを聞いても、企業が求めるものの一番最初に挙げられるものがコミ ュニケーション能力と言われます。今日の3限の授業も、実は就職の内定を取る ための訓練を兼ねた授業だったのですが、そこでも「企業に対して希望する職種 は必ず営業職を希望しろ」と言われるんです。それ以外を希望するような学生は 元気がないと思われて、採ってくれないと言われます。たしかに、営業職だから コミュニケーション能力が大切なんですけれども、自分もそうですが、コミュニ ケーション能力に自信がない場合はどうしたらいいんですか、という質問に対し ては、「じゃあコミュニケーション能力を高めろ、得意になれ」というふうに無 茶なことを言われるわけです。

逆に経済的な面から見ると、事務的な仕事は最近は全部派遣に置き換わってき ていて、実際の現場の仕事はフリーターや日雇い労働者が主になってきて、ひょ っとすると、少子化と言われますが、なんだか、実はこの日本社会に人間はもっ と少なくていい、と言われているような気になってきます。それを今回、市場的 コミュニケーション能力というふうに言われて、改めてなるほどと思いました。

司会:ありがとうございました。今のお話はとても現実を反映した発言だったと 思います。それでは今までのお話を聞いて、もう一度この全体テーマを意識して、

ご自身はこんなことを考えているとか、こういう点が大事ではないかとか、こう いう点を今後の宿題にしようとかいうご発言を少しいただければと思います。

参会者A(所員):土井先生がおっしゃる市場主義的なコミュニケーション能力 というものを、私は、パーソナルなあるいはエモーショナルな関係をどこか脇に 置いて、まるで商品化のように、誰にでも自分を売りつけたり買ったりすること ができるようなコミュニケーション能力なのかな、と考えました。たとえば、今 の進路の話のように、自分を売るためのセールストークをすでに就職エントリー のところからやらなくてはならないというような、そんな能力なのかなと理解し てきました。

それに対して、常田さんが報告の中で一つ問題として、メールのヘビーユー ザーのコミュニケーション依存について指摘しておられました。そういうコミュ ニケーションも一つのコミュニケーション能力で、それなりにたくさんの友人を 持ち、それなりの人間関係を結んでいく能力なのだろうとは思うのですが、それ と市場主義的なコミュニケーション能力というのとが、どの部分で重なり、どの 部分で違うのでしょうか。たとえばセールストークの場合でしたら、やっぱり他 者と自分との立場の違いは理解していなければならないわけで、普遍性までいか なくても、ある種の一般性とか、立場の違いというものを超えた伝達的なメッセ

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ージというものがキチッと伝わらなければならないわけで、「そうだよね」的な コミュニケーションでは済まないと思います。

携帯メールのヘビーユーザーに見られるところの問題が一方にあります。また 抽象性を嫌う傾向、非常にエモーショナルな個別の関係の中にいつも埋没してい ないと不安だ、みたいな傾向があります。それでも、そういう関係の中では非常 に居心地のよい人間関係を維持していく能力というのが一方にあるわけです。

それと、他方にある市場主義的なコミュニケーション能力というのは、かなり な部分で共通しながらも、かなり違っているようです。そこの違いは何か。それ から、どちらにもそれぞれ問題があるとするならば、その中で望ましいコミュニ ケーション能力というのは一体どういうものなのか。これは日々われわれが現実 に対面している問題ですので、ご意見をお聞かせ願えればと思います。

司会:はい。コミュニケーション能力ということについて、2つの切り口から見 た違いについてのご質問でした。

参会者B(所員):いまのことに関連して、発言させてください。3人の先生方 から今後の展望ということで語られたことの中には、実は共通していることがあ ると思いました。すなわち、身近な世界でのコミュニケーションの境というもの が新たに形成されているのではないかということです。そして、従来とは形は違 うけれどそこにある種の洗練されたコミュニケーションの場ができるかもしれな いというところに、新しい展望が見出されていたようにお聞きしました。しかし、

そうだとすると、たとえば教育基本法改正が淡々と進んでいるような客観的な大 状況とは別のところで、ある種境界に隔てられた世界が形成されて、その中で相 互に自己実現なり、癒しあうなりすることも予想されます。なにかそれは閉ざさ れた世界になってしまわないだろうかということも感じました。

──フロアからの質問への回答

司会:若者のコミュニケーション能力が大状況とどう関係するかというご質問だ と思いますので、土井さんと常田さんに少し発言していただきます。

土井:ご質問ありがとうございます。おそらく市場主義的なコミュニケーション 能力と、それから今若い人びとが感じている、あるいは求めていると言ってもい いかも知れませんが、コミュニケーション能力と重なっている部分があるとする ならば、それは、場の空気を読んで、それをうまく転がしていける、場の雰囲気 を汲んで流していけるような、そういう能力は重なっているんだろうと思います。

ただし、その背後にあるものは違っています。最近よく聞く言葉なんですが、

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若い人たちはたとえば純度100パーセントの人間関係を築きたいと言います。つ まり、本当の自分をわかってもらえて、わかりあいたいという欲求も同時に高い。

ある種のロマン主義的なコミュニケーションを期待しているのだけれども、現実 の人間関係はその希望通りにはいかないと感じています。そのギャップに葛藤が あるのだと思います。

一方、市場主義的なコミュニケーション能力というのは、いわば場を流してい けるようなところに特化して、その能力を強調するわけですけれども、しかし現 実は、たとえば企業の採用試験のときに企業がどういう能力を若者に期待してい るかというのは、実はこれは空白なんです。企業は言葉ではコミュニケーション 能力のある人材を採りたいと言うのですけれども、実はその中身は空っぽという か、むしろ体のよい断り文句という側面もあるわけです。つまり今は、どこの大 学の出身であるとか、あるいは、どういう素性であるか云々で振り分けできませ んから、そういうときに「コミュニケーション能力を重視したから、あなたはO K、あなたはダメ」と言えば、その基準ははっきりしませんから振り落としやす いわけです。

でも、若い人びとの方は、そういう能力ではない、ロマン主義的コミュニケー ション能力を期待しているので、やっぱりそこにギャップが生まれて、そのギャ ップが自信のなさに繋がっていってしまう。そういう構造になっているのではな いかと感じます。

司会:コミュニケーションに市場主義とロマン主義がある、と新しい答えが出さ れました。では、常田先生、お願いします。

常田:メールのコミュニケーションについて、共同研究者とも分析をしながらい ろいろ話したのですが、私自身は必ずしもエモーショナルではないと思っていま す。メールのコミュニケーションは相手はもちろんいるのですが、わりと一人の 世界なんですね。謝るのも自分が謝りたいと思えば謝っておしまいだし、相手か ら謝りの言葉が来た場合も、相手がどういうつもりで謝ったのかをエモーショナ ルに察するのではなく、許すかどうするかという自分だけの問題に結局は閉じて しまうように、基本的には思います。

だから、お互い自分が思ったことに対する相手の言葉に触発されながらも、結 局自分が思ったことに対して自分でうなずいているだけなのではないかと思って います。そして、それがコミュニケーションだと思い、それを小集団の中で互い にやりあっていれば、自分の予測を上回るような言葉は滅多に来ないような限ら れた範囲の中で、自分の解釈にうなずき続けることができ、癒されるということ になるのです。

ですが、たとえば学校のような、実際に人と人が面と向かう場には、それを超

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える契機があるわけです。自分はそう思ってうなずいたのに、タイムラグなく相 手が「違うんじゃない」と言ってくるかも知れません。ところが、今は、何か言 えばまたそれで変なやつだと思われるとか、いろんな防衛が働いてできないとい うことが、現実にはあると思うのです。それだけにそういう防衛がいらない場所 というのが必要ではないでしょうか。夢物語なのかもしれませんが、それに近い 状況を教員もサポートしながら大学のコミュニティの中で作ることができると、

本当の意味でのエモーショナルな関わりも、またできるのではないかと思ってお ります。

司会:ありがとうございました。就職採用のときのコミュニケーション能力の例、

それから、メール・コミュニケーションでの「謝り」に関する事例。私なりに何 かわかったような気がいたします。どうもありがとうございました。

──全体して

司会: それでは、もう一つ別な角度から、進行役の一人であり、この企画を始 めから担ってくださいました児島さんにご発言をいただきます。

児島:私は3人のお話を、どういうキーワードで関連づけることができるだろう かと考えながら聞いてまいりました。

まず最初に常田先生から提示されたデータで、高校生に学級への所属感につい て聞いたものがありましたけれども、この中で、友達との親和性と友達からの承 認との間に実はギャップがあるということが、強く印象に残りました。そのこと を念頭に置きつつ、後の2人のお話も聞いてまいりました。

少し考えてみたのは承認という問題です。先のデータは、大げさに言えば、悲 鳴が聞こえてくるようなデータではないかと思います。ですから、この承認とい うことをどう考えていくか、教育的な課題としては、どうすれば承認されたとい う実感を持てるような学校生活を送っていけるかということが、たいへん大きな 課題になってくると思います。それを考えるときに、たとえば土井先生が一貫し ておっしゃっていたような、意欲の問題が一つ大きなものとしてありますし、も う一つ、奥平先生が最後におっしゃったことで、子どもたちの共通課題を探って いくということも、重要な点だと思います。

そこで、承認ということを中心として、共通性あるいは共通の課題というキー ワード、それから意欲というキーワードを関連づけて考えていくことが必要だと 思います。私自身は、二つほど考えるところがあります。

一つは、共通の課題、承認、意欲という問題を考えるときに、少し言葉は抽象 的になりますが、媒介物の不在ということが実は問題とされていたのではないか

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と思うのです。と言いますのも、例えば承認や共通の課題ということにしまして も、実際にはあちらこちらに個別の課題があるのが現実だと思います。ただ、課 題を課題として立ち上げる際には、やはりそれを媒介する人と人との関わりであ るとか、何かしらの集団の形成といったものが必要となってくる。けれども、そ うしたものを立ち上げるのが難しくなっているのが現状だという問題があります。

意欲ということにしましても、実は意欲のあるなしというところから始まるのが おかしいのであって、意欲以前の、ちょっとした関心だとか興味だとかがあった 場合に、それをどういうふうに意欲へと繋げていくか、意欲へと形成していくか ということは、実は子どもや青年自身の問題である以前に、それに関わる教育関 係者の問題であり課題なのだろうと考えます。

ですから、媒介物を適切な形で作りあげていくということが一つの課題だと思 います。もう一つは、この共通の課題、承認、意欲という問題を考えるときに、

あまり一般化して語るのはふさわしくないだろうという気がしています。実はそ れぞれに固有の文脈があります。学級にしても、学校にしても、地域社会にして も、一般的にこうだというふうに語れるよりは、むしろその地域や学級というも のの歴史的な背景だとか、社会的に置かれている状況だとかの中で、固有に存在 する課題というものがあります。ですから、共通の課題を考えるにしても、そう した固有の文脈の中で、どういうふうに共通の課題を立ちあげていくかというこ とが必要となってくると思いました。以上、感想です。

司会:媒介物の不在という言葉にちょっとハッとしました。それはどういうふう に媒介物の不在を乗り越えていくのか、あるいはそういうことを自覚しながら、

どう立ち向かっていくのかということに繋がってくると思います。たぶん、若者 の中に媒介物が不在だから大人が用意するという、それだけの提案ではもちろん ない。あるいは大人が用意することが果たして適切かということにもなるでしょ う。そうすると、媒介物の不在というこの状態に対して、若者自身がそのことを どう自覚し、どう探していくかというような、そういうことに繋がるのでしょう か。そのあたりを指摘されて、若者たちはどうしたらいいのでしょうか。

そこのところを、児島さんにちょっと聞いてみたいのですが。おそらく大人が 用意するというだけでは駄目でしょう。そうすると、媒介物の不在というものを まず若者自身がどう自覚し、そして、いろいろな人の支援を受けるにしても、最 終的には自分たちで探したり生み出したりするということだと思うのですが、そ れは何らかの支援を受けながら若者自身がやっていってほしいということなのか、

やっていく力があるんだということなのか、やっていく中で乗り越えていけるん だという期待がおありなのでしょうか。

児島:私が一つ考えていますのは、たとえば今日のお話の中で、夢という言葉が 出てきましたし、意欲という言葉も出てきました。私自身は、夢を持ってそれを

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実現することは当然素晴らしいことだと思います。しかし、意欲にしても夢にし ても、今とても必要なのは、それをどう形にしていくかという一つの術ではない かと思うんです。意欲を持つということにしても、意欲を持つに至るまでの何ら かの術が実は必要で、そこまで達すれば、あとはそこを出発点として自分なりに 展開していくことができるのではないかと思います。けれども、実際には、意欲 を持つに至る前の段階で降りてしまうといいますか、場合によっては降りること さえできないような状況にあるということが問題なのではないかと思います。

司会:今、承認、意欲、共通の課題という3人が出されたキーワードをめぐって、

媒介物の不在が一つの考えるところではないかというような議論になっています。

このことは問題提起として受けとめておきたいと思います。

そろそろ終わらなくてはいけませんが、会場から最後にご発言があれば受けた いと思います。

参会者C:このシンポジウムにはポスターを見て参加させていただきました。参 加して非常に良かったなと、非常に貴重なところに居合わせることができたなと 思いました。特に印象的だったのは、土井さんが話されていた、自分らしさの隘 路から抜け出していくという提起です。それは私も友人たちと話していて実感す るところで、ひと頃は、自分らしさというのが強調されるのでそれに乗っていま したけれども、それがだんだん重たくのしかかってくるというか、そういうこと を最近強く感じていたところでしたので、これは非常に大事な提起なんじゃない かというふうにおうかがいしました。

司会:どうもありがとうございました。シンポジウムの全体テーマが「若者は」

となっているのですが、その「若者は」という中に、実は「社会は」とか、「そ れを問題にしているお前は」とか、そういうことが本当は問われているんだとい う感じを、今の方の感想からも受けました。

人生選択というのは、ともかくいつの時代にも誰にとっても非常に重要なこと ですし、とりわけ若者にとって重要な問題です。こういう認識でこのテーマを立 てましたけれども、結局、若者問題にとどまらない大きな宿題を私たちにもらっ たんだと思います。総合文化研究所のさまざまな研究プロジェクトにおいて、今 日もらった宿題をそれぞれに活かしていただきたいと思います。

今日は有意義なシンポジウムができたと思います。シンポジスト、それから参 加者の皆さん、どうもありがとうございました。

参照

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