序
この小論は先に上梓した拙著 で展開した ガブ リエル・マルセルの哲学の前・神学的特質 という 筆者の解釈について,同書ではあくまでマルセルの 著述そのものに即した検討を試みたため,筆者自身 がなにゆえこのような解釈を取るに到ったかの説明 には特に立ち入る意図がなかった ことを勘案し て,改めて, マルセルの 前・神学的特質 に注目 することが,彼の思想の理解において,他の仕方と 比べて,どのような意味を持つといえるか ,につい て,筆者自身の考えるところを述べようとするもの である。従ってもし本論の記述の中で同書の内容と の重複が見られるとしても,このような本論の意図 からして,それはやむをえないものだと考える。
筆者は同書においてマルセルの思想が 前・神学 的である という点に着目する動機として,いくつ かの,筆者自身の マルセルとの関わり方 に基づ く,いわば 内的な 関心 に言及した。ここでは それに加えて,いわば 外的な ,次のような要因も 挙げておきたい。第一にマルセルの 敷居の立場 に焦点を集中してこれを 前・神学的に 理解する 視点は,これまでのマルセル解釈の歩みの中で,少 なくとも筆者自身の把握する限りでは先行する例を 未だ知らず,その点で筆者自身がこの視点を,マル セル研究の流れの中にマルセルを理解するために提 供しうる新たな視点と称しても,同学の先達に対し て決して 越とはなるまいと思われたからである。
第二に,この新たな視点は,マルセルの思想を西洋 哲学史及びキリスト教思想史の中に位置付けるにお いて,なかなか気付かれにくいマルセルの重要性を 改めて気付かせてくれる点で,マルセル理解のため の大きな示唆を我々に与えてくれるものと考えられ
たからである。
そこで,同書の中でマルセルの 敷居の立場 の 持つ 前・神学的な特質 に着目したことについて の,このような意味での 独自性 と 有意義性 を示すために ,ここではまずこれまでのマルセル 研究ないし理解 の主な傾向を振り返り,次いで筆 者が同書を執筆した際にとった立場がこれらの傾向 に対していかに関係づけられるかについて述べ,さ らに 敷居の立場 に注目する視点が,かかる筆者 の立場とどのように関わっているのかを整理し,最 後にこの視点で見る事によって浮かび上がったマル セルの 前・神学的な 思想が哲学史及びキリスト 教思想史の中で占める重要な位置について改めて言 及する,との手順で本論を進めたい。
Ⅰ
同時代の他の思想家と比べて必ずしも膨大な蓄積 量には到っておらず,また相互に根本的な解釈の対 立も現れていないガブリエル・マルセルの思想につ いてのこれまでの研究ないし理解にも,あえて差異 を求めるならば,次のような傾向の違いを指摘する ことができると思われる。その主な傾向は,極めて 概括的に整理すれば,次の三つの時期ごとにそれぞ れ特徴づけられるだろう。即ち第一はマルセル生前 のかなり早い時期におけるもので,この段階では,
多少の強調点の差異はあれ,一般的にはマルセルを 実存哲学者 の系譜の中で理解するものが一般的で あり,第二はマルセルの晩年から死後の比較的初期 に見られるもので,ここでは カトリック信徒たる 哲学者マルセル の側面を強調する方向に以前より は傾いているものが多い。そして第三のものは彼の 死後ほぼ十年前後から今日に及ぶもので,前二者に 対してより強く ガブリエル・マルセルその人の独
Kei K
OBAYASHI(Avril 2000)
Comment se changeaient-elles, les etudes sur la philosophie marcellienne?
小 林 敬
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
獣医学部哲学研究室 Seminaire philosophique
a la Faculte de la medecine veterinaire
自性 に焦点をあてた研究が増加している傾向が見 られる。本章ではこの三つの傾向の概要を粗描し,
かつそれについての筆者の見解を提示したい。
第一期の傾向の原点には,ジャン‑ポール・サルト ルによる 無神論的実存主義とキリスト教的実存主 義の二分類 がその背景として大きく影響してい るといいうる。サルトルによればマルセルらの キ リスト教的 実存主義もまたサルトル自身の 無神 論的 実存主義と同様 本質に先立つものとしての 実存 に依拠したものとして考えられている。もち ろんこの分類に位置付けられることは生前のマルセ ル自身の強く拒んだところ であることも早くか ら知られてはいた。しかしそれでも,そもそも 実 存 という術語の源流たるキェルケゴールの思想に,
サルトルやハイデガー以上に近い 信仰者にとって の実存の哲学 という側面からマルセルをハイデ ガーやサルトルに対置するという視野で,まず大枠 として 実存的な哲学 〜これらはすべてサルトル同 様 本質に先行するものとしての実存 に依拠する ものと考えられている〜の枠を設定した上でその中 において キリスト教的な思想 と 無神論的な思 想 を小分類する,サルトルと同様の分類法は,極 めて 便利な分け方 とみなされ,多くの論者がこ の分類を念頭に置いてマルセルを論じていたことは 否定できない。例えばジャン・ヴァールの哲学史 をはじめ,エマニュエル・ムニエ やポール・フル キエ の視点は,サルトルの分類に無批判に追随し てはいる訳ではないが,マルセル同様にサルトルの 分類を拒んだハイデガーやヤスパースとともにマル セルも, 広義の実存哲学ないし実存主義思想 の枠 内にこれを置いた上でそれ以前の 本質主義的な 諸思想と対置するという見方を取っており,ここで マルセルも 基本的にハイデガーやサルトルと共通 する実存理解に立脚しており,ただ最後に 神> を 要請した点で彼らとは違う 思想家として理解する 方向に傾いている点では,サルトルの分類の影響は やはり大きいものがあろう。わが国の松浪信三郎教 授もまた,基本的にはこの 実存哲学者マルセル の位置付けに異を唱えてはおられない よ う で あ る 。この クリスチャンでかつ実存主義者(ない し実存哲学者または実存思想家) としてのマルセ ル,という視点は,マルセルの思想をドイツ観念論 やデカルト的合理主義から区別して理解するにおい ては大いに有効であったし,また彼を同時代の新ス コラ主義の哲学から区別するにも便利ではあったろ う。しかし反面,ここでは彼の思想における 人間 ないし自己の実存 という契機と,(マルセルが存在
の 本質的な 根源と堅く信じる) キリストの神 という契機とを結ぶものに対しては,どうしても焦 点を強く集中することが難しくならざるを得なかっ た。極端な場合,単なる 実存主義とカトリシズム の折衷 という批判が彼に対して向けられるのも,
実存主義という枠組み の中でのマルセル理解を前 提としたところに生じたものといいえよう。例えば パウル・ティリッヒのマルセルに対する批判 の構 造は概して, 初期のマルセルはサルトルと同様ラ ディカルに本質より実存を優位に置いた哲学者で あったが,後期のマルセルはカトリシズムとの矛盾 を避けるために,その実存主義を修正した との文 脈によっている。こうなればマルセルの思想は根本 的に首尾一貫性を欠くものとされ,ひいてはそれに ついて研究する意味も又失われてしまいかねない。
もしそれだけならマルセルについての研究も途絶し てしまったろう。しかし,そうではなかったという 事実は,やはり,この視点にとどまらないマルセル 理解の視点が存在したことに負っているというべき である。又,この キリスト教的実存主義 の視点 に立って,しかもマルセルの キリスト教的契機 と 実存的契機 の結合を説明しようとして,マル セルをキェルケゴールになぞらえ,ここに十字架に よる絶対的飛躍を読み込む解釈もたしかに存在し た。例えばヴァールや松浪教授の視点にはこのキェ ルケゴール的マルセル解釈を援用している要素があ る 。たしかにマルセルもキェルケゴールも,同じ く 人間の本質規定ではなく実存分析から出発して,
究極的にはキリストの神の信仰を求める 基本的方 向においては全く共通している。その点ではパスカ ルもアウグスティヌスも又同様である(これは第二 期の視点につながる)。だが,ここでマルセルの実存 理解を完全にキェルケゴールの実存理解に依存して 理解することには,どうしても説明の無理が生じる。
キェルケゴールにおいてはあくまで 単独者 たる 人間と神との関係にその関心が集中されていたが,
マルセルにおいては 絶対の汝 と自己との関係と 同様,地上における人間と人間の 我と汝 の関係 にもまた,キェルケゴール以上に強い関心が寄せら れている。つまりキェルケゴール,マルセル両者か らは, 神との関係 において共通する 信仰 を見 出だすことは十分に正当であるのだが,しかし 神 の前に立つ 人間 の理解に関しては,決して同じ ものとはいえないのである。もしマルセルにおける 実存 と 信仰 の関係を,本来的に 神の前の単 独者 としての自己を前提としたキェルケゴールの 場合と全く同じものと想定するだけならば,ここで
マルセルの地上での 我と汝 の関係への関心は,
絶対の汝 への信仰から切り離されてしまうおそれ がある。以上のような点で,マルセルを単に(サル トル的にせよ,キェルケゴール的にせよ) 実存 哲 学とキリスト教信仰を 並立させた 思想 とみな すだけでは,マルセル理解においてどうしても漏れ る重要な点が生じざるを得ないことを否めない。事 実この第一期の 実存的マルセル解釈 は,いわゆ る 実存主義の流行 が二十世紀の後半に終息する とともに,極めて低調となり,それに伴ってマルセ ル自身についての研究も,その数を減じてきたもの である。
このような第一期の 実存的ないし哲学的な解釈 とは傾向を転じて,いわば 護教論的ないし神学的 な解釈 が強まってきたのが第二期の特徴であるが,
その端緒は第一期と重なって始まっている。例えば ルーヴァンの神学者ロジェ・トロワフォンテーヌ神 父の研究は,明らかに サルトル的な意味での実存 主義 への強い反感がその前提に見受けられるもの であり,そこから マルセルの思想は 実存主義>
などといった 神を冒涜する現代の不遜な思想> と 共通するものでは断じてありえず,むしろ 正統的 なカトリック神学の伝統> を現代の状況に適用した 結果としての人間論を展開したものである との主 張を込めて,マルセルの初期から後期に及ぶ諸著作 をすべて総合し,あくまでこれを その信仰の弁証 ととらえてまとめたものが彼の大著
De lʼ existence a lʼ etre
である 。この著書の論旨は一貫して, サルトルの 本質に対する実存の優位 という意味で,
マルセルが 実存 に依拠する哲学を唱えたとはい えない との主張に基づいており,そのため表題の 如く,おそらくハイデガーの前期から後期への変化 になぞらえる意図も当然あったろうが,マルセル哲 学の目的は 存在としての神 の神秘的なる本質へ の接近であって,実存の分析はその入口にすぎない との旨が強調されている。この例のように,もはや
同じ (本質に先立つものとしての)実存に立つ哲 学 としてサルトルなどとの近さに注目する 方向 を取らず,逆に いかにマルセル哲学がいわゆる 実 存主義 とは異なるか に注目し,むしろ彼の関心 は 神の本質 にこそ向うものであると見て,結論 的に カトリック教義の弁証者としてのマルセル の像に集中する視点が,第一期とは対照的な第二期 の研究の主な傾向といいうる。同時期の他の例とし ては,ピエトロ・プリニ教授 や岳野慶作教授 が,20世紀においてパスカルの精神を継ぐものとし ての視点でマルセルの思想を詳しく解釈し,もって
パスカルと同様, 哲学者の神を超えてイエス・キリ ストの神を弁証しようとする ところにマルセル哲 学の目的を見ようとしたことなど,パスカルを援用 しなかったトロワフォンテーヌとは異なる方法を取 るものではあるが, 神を弁証するための哲学 とし てマルセルの思想を解釈する方向性においては共通 しているといえよう。このように 実存 という用 語のもたらす先入観から解放された結果, 神 の前 に立つ証人の証言としての側面により傾いていった 第二期の研究は,第一期に比べて,哲学的・哲学史 的な文脈よりむしろ神学的ないし教義論的文脈の中 でマルセルの思想を捉える方向に転じてくる。この 時期の研究の多くが,聖職者,神学者ないしカトリッ ク系の諸大学等に関係する研究者によって進められ たのは極めて自然であろう。ここでは 存在たる神 の証言者マルセル について, キリスト者でもあっ た実存主義の哲学者マルセル を眺めた時期よりも,
はるかに首尾一貫したマルセルの全体像を提示でき たといってよかろう。ただし,その首尾一貫性の追 求自体によって,漏れてきたマルセルの側面もまた 存在する。マルセルは回心者であった。彼の著作活 動は,いまだキリスト者ではなかった時期 から キ リスト者として終油の秘蹟を受ける 直前まで継続 している。特にトロワフォンテーヌの研究では,こ ういったマルセル自身の立場の変化の過程をそれぞ れの時点に即して追うことなしに,回心以前のマル セルのテキストと,回心以降からかなり後期に及ぶ テキストとが,すべて同列に取り扱われてしまって いる。確かにマルセルの 神 への志向は彼が洗礼 を受けるよりもずっと先立って始まっており,又回 心の後でもマルセルの哲学的議論の方法が根本的に 変化した事実は見られない。だからといってマルセ ルを, 神を信じ告白する以前から,未だ知らぬ神を すでに証していた 人とみなすことによって彼の思 想の首尾一貫性を守ろうとするならば,彼自身と 絶 対の汝 としての神との関係の最も重要な転機であ る 彼自身の回心の事実 の意味が,どうしても弱 まらざるをえないことになる。もし回心以前の彼に とっての 可能的な汝 としての 神 と,信仰者 としての彼にとっての 現実の 主 なる汝 を,
全く同一のものと捉えるならば,トロワフォンテー ヌの依る 神学的,教義学的な 基盤自体をあいま いにする恐れもある 。それに加えてトロワフォン テーヌのとったような方法での 神学的なマルセル 解釈 では, なぜマルセルが回心以降もあえて 神 を信じる以前と同様の哲学的方法 を続けようとし たのか の説明が難しくなる。その点でパスカルと
マルセルのアナロジーについてはマルセルの回心を パスカルの 恩寵の夜 の体験と類比できる益があっ たのだが,そもそもパスカルがあくまでも 護教論 の組み立てを自己の関心としており 哲学 なるも のがどうであるかなどといった問題に関与する必要 を認めていなかった点で,あくまで自己の思索を 哲 学 と規定していたマルセルと違っていたという点 では,マルセルの回心はパスカルの回心とは又違っ た側面から把握する必要があろう。又第一期からす でに対照されることの多かったキェルケゴールにつ いても,その関心事はあくまで すでに キリスト 教会の内部にいた 前提の下に真のキリスト者 で あろう とするために,神学的たると哲学的たると を問わず 偽りのキリスト教を排する 議論を提起 する ことにあって,内的のみならず外的にも 最 初はキリストの教会と無縁であった マルセルの場 合と同じものではない。やはりマルセルの理解のた めには, 彼にとって神が 汝 ではなかった時期が あった 事実,即ち いまだ 哲学 という形式を 用いてしか,神を窺い知ることが不可能だった 時 期があった事実を捨象することはできないのであっ て,この時期から回心の後まで引き継がれる彼の 哲 学 がすべて 神学的,護教論的 な目的に〜結果 的にそうなった と し て も 最 初 か ら の 意 図 と し て
〜沿ったものとして解釈できるとは少なくとも筆者 には思えないのである。
第三期の研究傾向は 哲学的・実存的 といえる 第一期, 神学的・護教論的 ともいえる第二期の傾 向に比べて,あえて言うならば 文(献)学的 な いし マルセル論 的 な,即ち マルセルその人 に即してマルセルの文章を理解する 傾向を強めて いるように思える。前二期の視点に共通するのは,
マルセルをどう捉えるか であったのに対して,第 三期では マルセル自身はどう考えたか を関心の 中心として,基礎的,事実本位的な〜決して偏狭な 意味での 実証主義 を用いた訳ではないが〜テキ スト解釈を基にして ガブリエル・マルセルという 人の他とは異なる独自の像 を読み出そうとする姿 勢が大きい。例えばパランヴィアル女史らの協力の もとにプルールド女史が編集した マルセル独自の 用語・概念の使用について分析した語彙集 の成 果 は,彼の使用する概念を改めて マルセル自身 の文脈に即して 再規定し,それによって語義の誤 読のもたらすマルセル像の歪みを矯正せんとした労 作であった。これと共通する方向性のもとにマルセ ルを研究する成果が,今日現在に到るまで,少なか らず輩出するまでになっている 。この期の成果に
よって,総じてこれに先立つ マルセルを他のいか なる思想に引き寄せて解釈するか の姿勢に基づく 研究の限界が克服され,マルセルその人の多様な側 面が明らかになってきたのは極めて有益なこととい えようし,今後もこのような成果が続くことが大い に期待されうるものである。その上でなおしかし,
少なくとも筆者自身が思うには,そうして新たに見 出だされた所の,或いは今も見出だされつつある所 の,マルセルの思想の多くの注目点が,哲学史にせ よ神学ないしキリスト教思想史にせよ,マルセルに 先立つ先人たちの思索の積み重ねの中の文脈におい て,いかなる意味において位置付けられるべきかに ついて思索し解釈するという,ちょうど第一期や第 二期における研究者たちの関心が,改めてこの第三 期の諸成果に対して融合されてゆくことによってこ そ,この第三期の研究の貴重な諸成果は真に生かさ れることとなろうと思われるのである 。確かにマ ルセルの独自性を無視して先人と対照するだけの研 究には限界があろう。 実存主義者 としてのマルセ ルの像に偏っていた第一期や キリスト者・カトリッ ク者 としてのマルセルの信仰の側面にのみ重心を 置きすぎた第二期の研究でどうしても薄くなりがち であったのがまさにこの独自性の点であることは上 に眺めた通りである。しかしだからといって今後も し逆に,マルセルと先人や同時代人との比較を一切 排して彼の思想そのものだけにもし関心がすべて限 定されてしまう方向に傾くとすれば,今度は一体彼 の独自性とは何に対してのいかなる独自性であるの か,ということ自体が問われてくるだろう。やはり 第三期の研究に顕著な マルセル自身はどう考えた か の関心も,先立つ第一期,第二期の関心であっ た マルセルをどう捉えるか の問いに対して,互 いにあい補ってこそその真の価値を生むであろうと 筆者は考える。
Ⅱ
これら先行の諸研究に対して,筆者自身がどのよ うな態度を取り,もって先の拙著を著すに到ること となったかについて,筆者自身が考える所を本章に 示したい。
第一に,筆者は前章で第三期の研究傾向として紹 介した,比較的近年の新たな研究成果の進展を,大 いに尊重しかつ執筆の際にも具体的に参考として活 用したものである。特にパランヴィアルやプルール ドらの研究の成果は,筆者のみならず今後の研究者 すべてにとって,無視できない重要な資料を提供し てくれるものである。例えば先の拙著の第二部での
問題と神秘 に関する研究 や第四部の 不安と苦 悩 の概念区分についての検討 は,彼女らの研究 を参考とすることによってこそ,基本的な概念の明 確な把握が可能となったものである。今後も又,こ のようなテキスト研究の発展が,研究者全体の理解 を大いに促進することが期待されるだろう。
しかしながら第二に,研究の前提たる筆者自身の 問題意識には,むしろ第二期や第一期の諸研究と共 通するものがあるといえる。即ち マルセルはどう 考えたか に関する実証的ないし文献学的な研究を 尊重しつつも,あくまで筆者の関心は 私自身はマ ルセルをどうとらえるか に向いており,さらに〜こ れはむしろ今後の課題であるが〜 マルセルととも に〜或いはマルセルに対して〜私自身はどう考える か について,哲学的,宗教哲学的ないし神学的に,
筆者自身の思索 との有機的連関の中で,マルセル の辿った道を追体験しつつ自ら考えてゆきたいとい う希望を筆者は抱くのである。その点で,或いは 実 存哲学者 としてのマルセルの像に専ら集中してき た第一期の傾向からも,或いは 信仰の弁証者 と してのマルセルの像を特に重視した第二期の傾向か らも,学ぶべきものは等しく学ぶべきであり,かつ その両期の対照的な傾向にそれぞれ不足しがちで あった, この二つの側面が,マルセルにおいて,ど のようにして両立することが可能だったか につい ての検討への関心が,第三期の諸成果によって新た に得られた知見に大いに助けられつつ,筆者をして マルセル自身が自任していた 敷居の哲学者 とし ての独自の立場 への注目に向かわしめ,かつそれ を前提としたところの,他の哲学者や神学者との比 較を通したマルセルの思想の思想史的位置付けにつ いて考えることを可能にしたものだ,と振り返るこ とができよう。この点,少なくとも前二期の研究と は方法を異にするという点では,他の研究者の目か ら見て,或いは筆者の研究も 第三期の諸研究のひ とつ として捉えられるかもしれないものであるし,
又筆者もそれを排するものでもないが,しかし筆者 の関心自体は第三期の研究者たちから見て より古 い と思われるかもしれない第一・第二両期の関心 とむしろ共通しており ,しかも第一期と第二期と の関心の間の,まさに 敷居の地点 こそが,マル セル自身と同様に筆者自身が関心を寄せた点だった のである。
以上の諸点から筆者の研究が第二期の研究に対し て付け加えるところを第三に示すならば,筆者はエ キュメニストとしてのマルセルの側面により焦点が 当てられるべきであると考えるものである。特にマ
ルセル自身の最晩年の証言には,彼自身にとっての 回心の体験の意味と関連して,彼のプロテスタン ティズムとの接触の持つ重要性とさらにそれに連続 したカトリック信徒となって以降の彼のエキュメニ ズム志向の意義が彼本人によって特に言及されてい るのを読むことができる 。上述したように カト リック信仰の護教家としてのマルセル像 により傾 斜していた第二期の研究では必ずしもこういった エキュメニカルなマルセルの像 にそれほど大きな アクセントが置かれてい た と い う 訳 で も な かっ た 。しかし彼の死後一定以上の時間が経過し,か つ第三期の諸研究におけるテキスト解釈の進展の成 果にも助けられている現在,このように カトリッ ク者マルセル よりも広義の キリスト者マルセル の像を念頭に置いて彼の思想を改めて辿るならば,
ちょうど第一期と第二期の諸研究が探求していたマ ルセルの思想史的位置付けに関して,新たな視野を 開くことが可能になると信じるものである。
同様に第一期の傾向を補足するべき筆者の視点を 第四に挙げるならば,やはりマルセルを単に 二十 世紀の 実存哲学者 の一人 と見るだけでは,彼 の理解において十分とはいえないということであ る。この点に関しては筆者は第二期の研究者たちと 共通する見解を有する。むしろ筆者は,どうしても 二十世紀前半から中期にかけての時代思潮の中で限 界付けられた 実存と本質の対立 という枠組みを 前提とした視点でマルセルを捉えるのではなく,あ くまで 出発点としての実存 から 存在即ち絶対 の汝たる神 に向かう思想としてのマルセル哲学を,
しかも第二期の諸研究の多くが傾斜していたように カトリック教会の内側の人としてのマルセル の像 を念頭に置くのとはややアクセントの置き方を変え て, キリストにおいて絶対の汝を見出だした結果,
カトリック教会に回心した,存在論の哲学者たるマ ルセル の像を念頭に置いて,先の拙著を執筆した ものである。
マルセルの 敷居の立場 を 前神学的な特質 として規定するという先の拙著において筆者が示し た解釈は,先行する三期に及ぶ諸研究に対して筆者 自身が取るところの,以上のような視点に基づいて 成立したものである。次章ではこれに続いて,マル セルの思想を 前神学 と規定するこの解釈が,本 章で示した筆者の関心を,どのように表現できるも のだったかについて,改めて整理してみたい。
Ⅲ
筆者が先の拙著において第一期の諸研究の傾向と
異なるアプローチをとろうと試みた点は,何よりも マルセルにおける 実存 の概念を, あくまでも 存 在としての神の本質を目標とする形而上学 のため の出発点なのである ,という位置付けにおいて扱っ たことである。確かにマルセルの哲学における実存 の分析は非常に重要である。特に回心以前の 形而 上学日記 の第二部以降の省察はそのほとんどが 実存の分析によって成り立っているともいいうる。
しかしマルセルにおける実存の分析がもしそれ自体 を目的として完結するものであったとするならば,
彼のその後の思想の歩みは,いかにして 汝 さら に 絶対の汝 に向けて導かれ得たのだろうか。マ ルセルがもしサルトルのような意味での 本質に先 立つものとしての実存 に依拠して思索した哲学者 であったとするならば,彼における存在論と神をめ ぐる省察との結びつきは全く説明しがたいものとな ろう。それゆえ筆者は,最初から 本質と実存の対 立 を過度に強調する方法をとらず,むしろマルセ ル固有の存在把握の枠組みである 問題と神秘 の 区別を基盤として彼が人間と世界さらに神をいかに 理解していったかの道筋を辿ることに徹し, 実存 の概念はあくまでその道筋における出発点として理 解するように努めたものである。あるいはその結果 としてマルセル哲学の具体的な実存分析の側面には あまり焦点が当たらなかった恨みが残ったかもしれ ないが,これについては前著で解釈した基礎構造を 前提とした個別の論題として,将来において再び論 じうる機会を待ちたく考えたい。
このような 存在としての神 をめざす形而上学 と神学ないし信仰の立場での イエス・キリストの 父なる神 との関係として,マルセルのいう 敷居 の立場 ,即ち筆者の名付けたところの 前・神学的 な 特質に焦点を集中した点が,前著が特に第二期 の諸研究の傾向に対して独自の視点を保とうと努め た点である。第二期の傾向ではマルセルの思想を 神 に引き寄せようとする志向があまりにも強すぎ た結果,彼の省察が本来あくまで 啓示を前提とし ない 哲学・形而上学として展開されたのであって 固有の意味での神学ないし教義学というわけではな い,ということが過小評価されてしまっていたよう にも思える。筆者はあくまでマルセルの哲学におけ る 神 の表現を,決してパスカルが非難したよう な意味での 哲学者の神 として理解する訳ではな いが,第一にはあくまで 哲学的な省察の限りにお いて考えられた 神 の像 として規定し,その前 提の上で第二に,そのような 存在としての神 の 概念が,いかにして彼が最終的に信仰するに到った
イエス・キリストの父なる神 と同一視されうるに 到ったのかを検討するという,いわば哲学的側面と 神学ないし信仰的側面とを二重に考察する方法を試 みたものである。そしてそのような二重の考察を有 機的に結合する鍵として, 敷居の立場 即ち 前・
神学的 な構造に大きく着目するに到ったものであ る。そして前章で述べたように,この点への着目が,
第二期ではあまり重視されていなかったかあるいは 副次的な側面として扱われていた所の,マルセルに おけるエキュメニズム志向をも,彼の思想全体にお いて重要な意味を持つものとして再認識することを 可能とし,また一方で彼の形而上学が神学・教義学 そのものに対して置かれるべき位置付けとして,一 見意外な感も与え得るものではあるが,むしろスコ ラ的な自然神学にも相通じるものがあるとの理解に も到らしめたものである 。
さらに現在も進行中の第三期の研究傾向に対して は,前章で述べたごとく筆者はこれに対してことさ らに異を唱えようとするものではないが,前章で述 べたように筆者の意図がむしろ第一期や第二期の研 究傾向と共通する関心に依拠しているものであると いう点で,いわば第三期においてこれまで新たに提 出され,あるいは現に提出されつつある,実証的な いしテキスト中心的な新たな知見を,再びマルセル 思想の全体的解釈というやや思弁的であるいは 古 い と思われるかもしれないがやはり重要な関心へ 還元する一つの試みという点で,マルセル研究の全 体的な歩みの中で,先の拙著も,これらの諸研究に 伍した筆者なりの 独自の寄与 だと自認しても許 されようと考える。
結
先の拙著において筆者は以上の観点から,マルセ ルの思想における 前・神学的特質 を考えるため に,まず第一部においてはマルセルと同時代のいわ ゆる 実存的 な無神論思想の二つの例としてのカ ミュやサルトルの思想との対比のうちに,マルセル の思想が,単なる キリスト教的実存主義 の哲学 でもなく,しかしながらキリスト教信仰の弁証の下 に形而上学的省察の役割に終止符を打って 神学的 護教論 に向かうものでもない,第三の道を進むも のとして解釈し,続く第二部では,マルセル哲学の 根本概念としての 問題と神秘 の枠組みを再確認 する過程の中からこの 第三の道 が彼の思想にとっ て不可欠な前提であったことを論じ,又これと同時 に,このような不可欠性を明示する重要な例として 神の存在証明 に対する彼の態度を取り上げ,この
第三の道 が,ちょうどスコラ的な 自然神学 に 対して,省察の展開のために用いた論理については 全く異なるとはいえ,信仰と思考との媒介という点 では,極めて共通した位置にあるものとして解釈し た。さらに第三部ではこの点を別の側面から確認す るため,まずパスカルの思想との比較を通して,マ ルセルの思想が,実存に立脚しつつも最後にはこれ を超えて神をめざすという根本的な内容では極めて パスカルに近いものであるが,この事を省察してゆ くための方法の点では,神学的な護教論の樹立をめ ざしたパスカルとは異なり,マルセルがあくまでこ の 第三の道 を辿ろうとしたものであることを述 べ,次いでブーバーとマルセルそれぞれの 我―汝 思想を比較しながら, それ の世界としての科学者 や哲学者の世界を超越する所に 汝 ,さらに究極的 には 永遠の汝 の世界を見出だそうとするブーバー とは微妙に異なって,マルセルにおいては, それ の世界( 問題 の領域)と 絶対の汝 の世界(大 文字の 神秘
Mystereの領域)との中間に,媒介
的な 地上の相対的な汝 (小文字の 神秘mystere
の領域)の世界が独立してあり,この三者がいわば スコラ的な存在秩序の如く上下に階層づけられてい るのであって,この中間の世界こそ,かかる 第三 の道 をマルセルに可能ならしめたものであるとの 解釈を展開し,さらにこの第三部の末尾では,かか る 第三の道 を進むことが許されるという点が,マルセルをしてその幼児期以来極めて身近な場所で あったカルヴァン派の教会にではなく,教父やスコ ラ以来の伝統のもとで信仰への理性の奉仕をより一 層重視してきたカトリック教会へと回心させた所以 であろうとの伝記的考証を付記した。最後に第四部 では,人間の立場だけに終始する単なる 実存主義 的哲学でもなく又神の立場にのみ集中する神学的
護教論 でもないこの 第三の道 が,具体的には いかにして相対的な人間実存を神の絶対的存在へと 方向付けていくかの一つの例として,マルセルにお ける不安の分析を取り上げ,確かに直接的に不安か らの神による救済の弁証を試みているわけではなく むしろ不安な実存の有限性そのものに立脚している 点では 哲学的 なのではあるが,しかし不安の分 析それ自体を自己目的とした分析に終始するのでは なくむしろ不安そのものに内在する不安からの解放 の契機に注目しここから 信仰への出発点 を見出 だそうとする点では 非・神学的 でもない,まさ に 前・神学的 なマルセルの 第三の道 が彼の 不安論をも貫いている事をここで改めて確認した。
マルセルの思想を たまたまキリスト者の手に
よって組み立てられた,ひとつの実存主義の哲学 として読むだけでは,彼の思想に一貫する 絶対の 汝 に向けての指向性は極めて弱められざるをえな い。しかし逆に あくまで彼の信仰の証言だけに意 味があり,他の諸要素はそのための導入にすぎない もの という視点のもとにマルセルの思想をもし還 元するならば,ではなぜ彼が回心後何十年も 啓示 を前提としない 方法に留まり続けたかの理由が説 明しにくくなる。彼の思想をトータルに理解するた めには,彼独自の方法論を正確に規定することが不 可欠と考え,筆者は先の拙著を上梓したものである。
ガブリエル・マルセルは たまたま信仰者でもあっ た,一人の実存哲学者 にすぎないものでもなけれ ば,単に 雄弁ならざる迂言的な護教家 に留まる ものでもない。むしろ彼は,数百年遡る先達と同じ く, 恩寵の影としての被造自然 を注視し,信仰と 理性の媒介としての,いわば 実存的な自然神学 を二十世紀の状況の中で模索しようとした,一人の メタフィジシアンにして同時に一人の信仰の証言者 なのである。
註
⑴ 拙著: 存在の光を求めて ⎜ ガブリエル・マル セルの宗教哲学の研究( )⎜ ,創文社,1997.
⑵ 少なくとも筆者自身が同書を執筆する過程にお いてはかかる説明を自覚的に表す意図は特にな かったものであるが,それでも尚,筆者の意図 以上にこの点に焦点を置いて読み取って下さっ た書評者の方々には,ここで改めて感謝を申し 述べたい:岩田文昭: 小林敬著 存在の光を求 めて ⎜ ガブリエル・マルセルの宗教哲学の研 究( )⎜ , 宗教研究 第 316号所収,日 本宗教学会発行,1998年6月.高柳俊一: 小 林敬著 存在の光を求めて ⎜ ガブリエル・マ ルセルの宗教哲学の研究( )⎜ , 日本の 神学 第 37号所収,日本基督教学会発行,1998 年9月.
⑶ 特に,前掲拙著 まえがき 参照.
⑷ 尚ここでいま一つ予め記しておくべきことがあ る.それは本論で展開する 筆者の研究の独自 の意義 の開陳の手続きそのものの持つ意味の 限界についての筆者の偽らざる認識である.
一般に哲学・思想研究のみならずいわゆる 人 文科学 ないし 人文・社会科学 といわれる ものの研究全般についても,これがいわゆるプ ロの 学者の世界 において評価される場合,
おそらくは自然科学研究の流儀の介入によるも
のであろうか,特に現代では 独創性 学界に 対する新しい寄与 あるいは これまでなかっ た新たな知見 ,等々という類のことがらだけが 重視されることになっており,新しかろうが古 かろうがとにかく 誠実に先学の知恵から学ぶ ことから出発するのが当然である 文科系の学 問 の伝統に必ずしも合致するとは限らない,
ということは筆者ひとりの思いではあるまい.
筆者もまたかかる 学者の世界 の中で活動せ ざるをえない以上,好むと好まざるにかかわら ず, 自分の学びがいかに 独創的 であるか を弁明しなければならない宿命を負っており,
本稿自体もまた,いわばかかる弁明の手続き
〜しかもこれは先の拙著ではあえて全く度外視 していたものである〜を意図して書かれている ものであることは本文にも示唆した如くであ る.しかしそもそも,このような 学者の世界 の枠組みの中に 生きた思想 を押し込める事 を拒む立場に立つガブリエル・マルセルの思想 をこそ筆者が学んでいるものであるからには,
本稿を書きつつ筆者には,どうしても内心の慨 嘆を禁じえないものが残る.
そもそもガブリエル・マルセルの思想につい てのこれまでの研究の量的な蓄積は,例えばハ イデガーやサルトルなどの彼と同時代の思想家 についてすでに多くの研究がなされている事実 と比較するならば,未だに極めて少ないのが現 状である.こういう マルセルという人の存在 自体がそれほど知られていない 状況において は,これらの膨大とはいえない研究書の多くも,
好むと好まざると そもそもマルセルとはいか なる思想家か という基本的な紹介からまず筆 を進めなければ読者一般に受け入れられにくい 事情を負っており,この中では各研究者独自の 視点による解釈を強く打ち出すことができる余 地も必然的に制約されざるをえなくなってく る.それゆえ本稿のように 先行の研究につい てのコメント を試みようとしても,実は先行 の研究も筆者自身の研究もともにまず 何より マルセルのテキスト自体を正確に祖述する 作 業から始めることにおいて全く同じ課題を共有 しており,これらの間の差異をことさらに強調 すること自体がマルセル研究そのもののために は本来さして重要であるかどうか自体が本質的 に疑問に思われるものである.
しかし序文で示したように本稿が筆者自身の 研究に限ってその 独自な意義 を弁明するた
めに書かれている以上,ここではこのように 本 来は決して本質的ではないと思える各研究の差 異 にもあえて焦点を当てざるをえない.少な くとも筆者自身の現在の思いとしては,これに よって他の先学各位の貴重な業績に対して,根 本的な異議を申し立てようと意図などはさらさ らないものである.
筆者は以上の点を予め明確に示した上で,こ のことを前提として,あえて以下の 研究史・
解釈史批判 的な記述を進めざるをえない.
⑸ 本稿が マルセル研究ないし理解 というやや 冗長な表現を用いる理由は,広く マルセル以 外の人によるマルセルの思想の解釈 のうち,
マルセルの思想を固有の主題としてなされた 研究 〜これは本文で示すように主として 第 二期 以降に位置付けられている〜のみならず,
哲学史家によるマルセル思想の把握やマルセル と同時代の思想家によるマルセル思想への言及
〜これらは主に 第一期 に位置付けた〜から も又,マルセル思想の解釈において,無視でき ないものが見出だされるのであり,かつそれら は固有の意味での 研究 に対しても,何らか の影響を及ぼしていることが多いものである以 上,狭義の 研究 の系譜に限らず広義の 解 釈 の系譜をも参照することが必要である,と 筆者が考えたからである.
⑹
Jean-Paul SARTRE:Lʼ existentialisme est un humanisme , (org.1946,) 2 edition, Nagel,
1968;pp.16
‑17.
⑺
Gabriel MARCEL:Le mestere de lʼ etre, Vol.
I, Reflexion et mystere , Aubier, 1949;p.5, En chemin, vers quel eveil? ,Gallimard,1971;pp.
228
‑231.
⑻
Jean WAHL:Les philosophies de lʼ existence , Lib.Armand Colin,1959.
同書ではマルセルの 思想を,その著作の記述におおむね忠実に従い つつ他の 実存哲学者たち と並べて紹介して いるが,基本的には彼をあくまで 本質に先立 つものとしての実存 に依った 実存哲学者 としての共通項の中にくくるべく,マルセルの サルトル或いはハイデガーやヤスパースそれぞ れとの間の違いも,むしろいうなれば 同類中 の差異 のようなものとして位置付けつつ全体 が構成されている.⑼
́mmanuel MOUNIER: E Introductions aux existentialismes , (org.1947,) Nouvelle edition,
́ditions Denoel, 1961. E
同書は全般的に前掲のヴァールの哲学史書よりもサルトルに対して批 判的な文脈で展開されているが,枠組みとして はサルトルの提示した二分類にむしろのっとっ た上で,無神論的実存主義に対するキリスト教 的実存主義の優位 を弁証せんとする構成に よっているといえる.マルセルに関してもむし ろサルトル以上に 本質主義 に対して徹底的 に対決するものとしてとらえる視点が同書全般 の基調をなしている.
⑽
Paul FOULQUIE ́: Lʼ existentialisme , (Org.
1951,) Nouvelle edition, Collection Que sais- je? , P.U.F., 1961.
同書は前二書よりもはっき りと, 実存主義対本質主義 という外に対する 枠組みと 無神論的実存主義とキリスト教的実 存主義 という内における分類をその項目立て として採用している点で,一層サルトルの規定 に忠実に従っている.マルセルについてはおお むね, キリスト教的実存主義 の分類中にさら に小分類を設け,プロテスタント的実存主義者 のキェルケゴールに対するカトリック的実存主 義者のマルセル として扱う視点が同書全般に 一貫しており,そもそもサルトルによる二分類 法の前提となった 本質に先立つものとしての 実存 の理念が果たしてマルセルの思想にも適 用されうるかどうかについては,同書の中では 一切触れられていない.例えば松浪信三郎氏の 実存主義 (岩波新書所 収,岩波書店,第1版 1962)でもやはり前3者 と同様に,マルセルも又,サルトルらとの相違 点よりはむしろ共通点としての,本質に依る哲 学ではない とする視点でとらえられていると いえよう.
この点に関しては筆者がすでに前掲拙著の第三 部第三篇第三章で触れた点と重複する事を許さ れたい.ティリッヒは 存在と勇気 において,
基本的には中世のカトリック思想を,近代以降 の個人主義に対立する集団主義ないし半集団主 義(Semicollectivism)として批判的にとらえて いるが,それに対してハイデガー及びサルトル に見る如き ラディカルな実存主義 (Existen-
tialist radicalism
)は二十世紀における個人主 義の徹底したものとされており,その理解のも とでマルセルがその回心を境に ラディカルな 実存主義から半集団主義へ移っている と批判 している(Cf.Paul TILLICH:The Courage to Be ,Yale Univ.Pr.,1952;p.150
)が,このよう に中世に対する近代の進歩の観念を前提したティリッヒの思想史理解の枠組みに対して逆に マルセルは,(デカルト以来の)合理主義の視 点から自由ではない ものとして批判している.
(Cf.MARCEL:
La dignite humaine , Aubier, 1964;pp.100
‑101.
)松浪氏の前掲書はサルトルの二分類をやや修正 して,ハイデガーの存在への哲学をむしろ 神 をめざす実存主義 の枠内の諸思想と共通する ものと解釈し,キェルケゴールの逆説的な神の 弁証をその先駆と見,そしてマルセルの思想を もまたこの系譜の中でとらえている(松浪:前 掲書;第三章参照).一方ジャン・ヴァールは逆 にキェルケゴールの神との関係を後のマルセル の 我―汝 の関係論を援用して解釈している
(Cf.WAHL:op. cit.;Pt, II, Cp.4).しかしや はりこの解釈も,キェルケゴールもマルセルも ともにサルトルの定義した 本質に先立つ実存 の哲学 の枠内でとらえる見方を前提した上で 成り立ったものである.ここではマルセルのみ ならずそれと比されたキェルケゴールについて も又,果たしてその 実存 概念がサルトル同 様に 本質 概念に先行したものといえるか,
との点が問われる必要があるのではなかろう か.
Roger TROISFONTAINES:De lʼ existence a lʼ etre , (2 Vols.)2 edition, Nauwelaerts,1968.
Pietro PRINI: Gabriel Marcel, Economica,
1984.
マルセルの思想の全体を再構成し, 人間論 から 神への超越 へというパスカル的な 枠組みで組み立てている.
岳野慶作: マルセルの世界 ⎜ 神の死と人間
⎜ ,( 岳野慶作著作集 第 巻),中央出版社,
1980.著者はマルセルを基本的にパスカル同様 の信仰の弁証者としての視点で解釈している.
この点に関して補足するならば,実はトロワ フォンテーヌとは全く逆に,マルセルの思想を 正統なカトリック教理との連関よりはむしろ神 秘主義的ないし汎神論的な文脈において理解す る傾向があることも,筆者が先に前掲拙著第二 部第一篇の冒頭及び末尾で示唆したごとくであ る.例えば信太正三氏はマルセルの
La dignite humaineの邦訳の解説において( 人間の尊厳
( マルセル著作集 第八巻),春秋社,1966;第 二二八頁以下参照),マルセルの神概念は必ずし もキリスト教の教義にとらわれないで解釈する 必要があり,現にマルセルの 神 概念は人間 的実存と同じように 受肉 した存在ではない
と批判され,明らかに彼の 神 概念を三位一 体論の枠外にあるものとして理解しておられ る.もちろん回心以降のマルセルにとって 受 肉した御子イエス・キリストの光 こそ彼の信 仰を支えるものであったことは(Cf.Gabriel
MARCEL:En chemin, vers quel eveil?, Gal-
limard,1971;pp.285
‑288
)いうまでもないが,ここでなぜマルセルの 神 が 父・子・聖霊 なる神 ではないと誤解される余地があるかに ついては,筆者の思うに,ちょうど正反対のト ロワフォンテーヌの解釈と方法論的には全く同 じように,回心以前のマルセルが希求していた 神の像 と回心以降の 信仰者にとっての主な る神 とを区別せずに一括して論じてしまった ゆえではないだろうか.
Simonne PLOURDE,etc:Vocabulaire philoso- phique de Gabriel Marcel, Bellarmin
/Cerf, 1985.
現在マルセル研究は,主に雑誌
Presence de Gabriel Marcel (editee par « Presence de Ga- briel Marcel» , publiee par Aubier, depuis
1979.
定期刊行が企図されていたが,財政難のためか,1999年現在まで不定期にしか刊行を見 ていない)を中心に継続されているが,特筆す べき書籍としては,先述したパランヴィアル女 史による労作(
Jeanne PARAIN-VIAL: Ga- briel Marcel, un veilleur et un eveilleur, Lʼ age dʼ Homme,1989)が,特にトロワフォン
テーヌ神父のなした先行の研究における,マル セルの著作の彼の生涯における時期を考慮しな いままにすべてを一括して論じてしまった欠点 の是正を,強く意図して執筆され,精密な文献 考証を伴った研究の結果,その方法論としての《immediat》の重視とそこから導きだされた内 容としての独自の存在論を見出だしたもので あって,現時点において最も主導的な研究と なっていることをまず第一に挙げねばなるま い.またその他に筆者が特に関心を強く抱いた 研究を一つだけ挙げておくならば,やはりパラ ンヴィアル,プルールド両女史などの僚友の一 人で前掲の語彙辞典の編集にも協力した,1951 年生まれのダヴィニョン氏が,マルセルの思想 における 悪 (さらに 罪 )からの解放のテー マを,氏自らの この世の悪の存在 について の主体的な問題意識をも保ちつつ,しかしあく までマルセルのテキストを忠実に追う方法論に 即して,深く掘り下げた著書をあらわしている
(Rene DAVIGNON:
Le mal chez Gabriel Marcel
⎜Comment affronter la souffrance et la mort?
⎜,Bellarmin
/Cerf,1985
)事を,特に第二期の研究がややもすれば〜キェルケ ゴールの 暗い宗教哲学 との違いを強調した かったのかもしれないが〜マルセル哲学の 明 るい側面 にのみ偏りがちであったのとは趣を 変えた新たな傾向につながる研究として,氏と 同様の問題意識からマルセルの 不安 (inquie-
tude
)の概念を軽視できなかった筆者自身(前 掲拙著第四部参照)の共感を込めつつ,紹介し たく思う.この点については,わが国の筆者に近い世代の 研究者の業績において,マルセルと彼に先立つ 人々との思想的な連関に大きく焦点を当てた研 究が現在進行中であることを,共感を込めつつ ここで紹介したい.南山大学出身の塚田澄代女 史は前述のパランヴィアル女史に師事されて博 士論文を提出されたが,ここではマルセルとそ の師の一人ともいうべきアンリ・ベルクソンと の両思想の,内容的な共通点とともに,物質的 自然に対するアナロジーの点でいまだ合理主義 指向的表現の残滓による制約がなお否めないベ ルクソンに対するマルセルの超越の哲学の相違 を深く分析し,ベルクソン哲学のベルクソン自 身を超えた完成者としてのマルセルの像を読み 出しておられる(Sumiyo TSUKADA:
Lʼ im- mediat chez H.Bergson et G. Marcel,[Bi- bliotheque philosophique de Louvain, N 41,
́ditions de lʼ E Institut Superieur de Philosohie, Louvain-la-Neuve,
]́ditions Peeters,1995 E
).また上智大学出身の大柳貴氏は,フランスの文 学と思想にあらわれた諸聖人のイマージュを主 題とする論集の中に収められた論文において,
マルセルの回心の意味を教父アウグスティヌス の回心の意味と対比しつつ,まさにアウグス ティヌス神学の核心を 20世紀に新たな形で証 言している思想家としてのマルセルの像を浮き 彫りにしておられる(大柳 貴: ガブリエル・
マルセルの宗教的回心に伴う聖人像 ,西川宏人 編: フランス文学の中の聖人像 所収,国書刊 行会,1998).筆者もまたこれらお二人と同様,
やはり 思想史の中でのマルセル への関心を 強く抱くものである.
前掲拙著第二部第一篇参照.
前掲拙著第四部第二篇参照.
この点に関連してここで,前掲拙著に対する岩