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太平洋戦争末期の中学校生活 中川浩一*

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茨城大学教育学部教育研究所紀要第24号(1992)19 一 27 19

太平洋戦争末期の中学校生活 中川浩一*

 一昨年,新潮社から刊行された岡野薫子『太平洋戦争下の学校生活』を読んだ。この書物の出版 広告を見たとき,是非とも読んでみたいという気持になった。筆者も,太平洋戦争を国民学校初等 科の第4学年生徒(注1)として迎え,中学校第2学年在学中に,昭和20(1945)年8月15日の敗戦を 体験したからである。

 だが購入前に読んだ新聞の著者インタビューで,著者(岡野薫子)が自らを熱烈な愛国少女であっ たと語り,その証拠として,市電が皇居前を通過するとき,多くの乗客が無関心な中で,天皇崇拝 の気持をこめて最敬礼したと述べたくだりで,強い反発を覚えたと書かねばならない。

 私自身も,市電で皇居前を通った経験をいく度か持っているけれど,車掌の「皇居前通過でござ います」の呼びかけによって,乗客が一斉に最敬礼したことを,半世紀後の今日でもありありと記 憶するからである。自己顕示の誇張された手記の様に思え,買うのをためらって日数が経過した。

 とはいえ,結局は購入し,最後まで読み通したのは,定年を待たずに退職された中澤きみ先生

(家政科)が,岡野薫子の学友として,書中にいく度か登場するのを知って,急に親近感にかられ たからであった。

 読了後,この書物に書かれた学校生活は,私の体験とはかなり異なるとの印象を受けた。その原 因は,著者と私が世代を多少異にする故かと思われる。高等女学校生活の後半を学業中絶の勤労動 員体制で過させられ,やっと入学した東京農業教育専門学校でも,疎開して寄宿舎生活を余儀なく された著者と,昭和20年3月までは学業に従い得たし,勤労動員も自宅から通える工場で過し,し かも断続的とはいえ学業を続け得た私との,環境の相違が,ひしひしと感じられたわけである。

 太平洋戦争下の生徒は,学年が違うと戦時体験も著しく異なる様に思われる。そうした認識の下 で,昭和19年に中学校へ入学した生徒の戦時体験を綴ってみよう。

中学校受験準備の状況

 昭和18年度に,私は東京都中野区桃園第三国民学校の初等科第6学年(最上級)生徒であった。

1学年は5学級で全校生徒が約1800名と記憶する。当時の中野区におかれた国民学校で,初等科,

高等科併設校があったかどうかを知らないけれど,桃園第三国民学校には,高等科は置かれていな かった。

 この時点での義務教育は,「国民学校令」では8箇年と定められていても,戦時措置として暫定 的に6箇年で据え置かれていたのである。けれども,私の属した6年2組では,6箇年の就学で就 職したクラスメートはいなかった様に記憶する。それが東京西郊の住宅地を主体に校区を構成する 学校の特色であるのか,全国的傾向かは知り得ない。

*茨城大学教育学部

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20 茨城大学教育学部教育研究所紀要第24号(1992)

 進学は,官立,都立,私立の各中等学校と国民学校高等科のいずれかであったが,中等学校には 入学試験があったのに対し,国民学校高等科へは無試験で入学できた。そのため,クラスメートの 間では,高等科は入学試験不合格者がやむなく入る学校と考え,また高等科の校舎が神田川による 侵蝕谷の低地に位置したため,「坂下中学」と蔑称した。私たちの通う学校は,洪積台地の上に位 置していた故でもある。とはいえ,家庭の経済状況から就業年限が4年または5年の中等学校へは 進学できなかった生徒にとっては,「坂下中学」は絶えがたい屈辱を覚える呼び名であったろう。

 進学先で最難関は,官立学校としての東京高等師範附属中学校,東京高等学校尋常科であった。

この二二へは,進学成績優秀と取沙汰されたという桃園第三国民学校からも,数年に1人しか入学 できなかった。三尊民卑の当時,次が都立,ついで私立の順になる。

 男子生徒だけで構成の6年2組では官立進学はゼm,都立でも中学校へ進学したのは10名たらず であった。当時,都立中学校の入学試験は統一問題で実施され,筆記試験に加えて口述試験も課せ られていた。受験可能な学校は,校区によって制限されたが,その範囲は現行のものよりはずっと 広かった。

 私の住んでいた中野区では,淀橋区,戸山区,杉並区に加え,北多摩地区の都立中学校を受験で きたが,難易度の順番は,第四中学校(現・戸山高校),第六中学校(現・新宿高校),第十中学校       くにたち(現・西高校),豊多摩中学校(現・豊多摩高校),国立中学校(現・国立高校)であったらしい。

 進学の父母面談で,学級担任の小林卓蔵先生は,都立第六中学校か都立第十中学校のどちらかを 選ぶ様に,母に示唆した由である。帰宅後の母から, 六二にすると新宿の盛り場を通らなくては ならず,感化されて不良になると困るから,十中にしますと答えておいた と聞かされた。 十中 なら郊外で空気も良く,健康に良いから とも告げられた。

 受験校が決まると,学級担任から受験準備の補習教育を受ける様にとの指示が,保護者あてにあっ た由である。とはいえ今日とは異なり,進学塾があったわけではない。始業前,終業前に教室を利 用しての授業を行うのでもない。

 都立受験と決まったクラスメート数人が,学級担任の紹介した他学年の学級担任の自宅へ夕食後 にでむいて算数を中心に,問題解答の演習を受けたのである。こうして教師が相互にアルバイトの 斡旋をしていたのは,今日の眼からみると驚きに値する。月末には,母が奥斗袋に紙幣を入れて持 参させた。金額がどれほどであったかは教えられないし,持参する金額は学級担任が決めたのだろ

う。

 都立受験者が全員こうした補習を受けたのか,経済的に余裕ありとみた家庭に示唆したのかも判 らないが,昭和18年度にも受験競争はあったという事実を,書きとめておこう。

 入学試験は,まずまずの成績だったのだろう。口述試験では,楠木正成について質問された様に 覚えている。結果は合格であった。

軍事色の強い服装と登校体制

 入学に先だって,教科書をはじめ学用品購入の指示があり,学校内の売店にでむき,行列を作っ て教科書や辞書を買ったのを覚えている。中学校への入学が決まると,親類からお祝いとして国語 辞典,英和辞典をもらっていたが,この時の学用品購入は,要不要におかまいなく,一律のあてが い扶持であった。物資不足が激しくなってきたおりゆえ,買う方でも,手に入るものはなんでもと

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申川:太平洋戦争末期の中学校生活 21

回目気になって,辞退しなかった。

 昭和19年度の中学校では,国策に沿って刊行が一元化されていたとはいえ,建前では検定制度に もとつく教科書刊行だった状況を改め,文部省著作にもとつく『中等修身』『中等国文』などの国 定教科書が使われた事になっている。確かに,修身,歴史,地理をはじめ,多くの教科ないし科目

の教科書は,文部省著作であった。しかし,なぜか国語,英語は検定教科書であった。

 この時に使用した国語教科書が,だれを著作者とし,どの会社から刊行されたものであるのかは,

教科書を忘失したため判らない。それでも強く印象に残るのは,第1課に収載された文章が,徳富 盧花が『自然と人生』(1900年)に収めた「大海の日の出」であった事実である。文語体でつづら れる難解な文章に驚くと同時に,中学生になったんだという自覚を持たされる印象的な出会いと書 いておこう。後年,この文章が千葉県銚子に位置つく犬吠埼にほど近い暁鶏館の客室からみた情景 描写と知り,加えて暁鶏館が,昭和33(1958)年から16年も勤務した東京教育大学附属中学校での 修学旅行の常宿でたびたび宿泊しただけに,忘れがたい印象を今に残している。

 入学しての組みわけで,1年D組所属となった。学級担任は高橋義雄先生だったが,申し訳ない 事に印象が希薄である。病身であられたらしく,学年の後半では古瀬金治郎先生に学級担任が変わっ ている。『会員名簿』東京都立西高等学校同窓会(昭和47年5月)では,昭和17年着任,離任不明

と記されており,近況らんは物故となっていた。校長は,丸山正雄先生であった。

 戦時色が強まった当時,登校にはゲートル着用が義務づけられていたが,小学校では半ズボンで ゲートルを巻いた事がなく,巻き方が良く判らないうえ,購入したゲートルがスフ製の品質不良で,

きっちり巻きあげるのが大変で,苦労させられた。これも携帯を義務づけられた『生徒手帳』収載 の生徒心得には,  制服,制帽,外套,ゲートルハ文部省制定ノ様式ニヨル と明示されている。

 制服の左胸部には,名札の着用が指示された。『生徒手帳』に掲載の様式を次ページに示してお

こう。

 靴は黒色または茶色皮編上靴と決っていたが,物資不足がめだってきた折ゆえか,  制靴入手困 難ニシテ黒色皮短靴手持ノ場合ハ使用スルモ妨ゲナイ との補足がなされている。

 自宅もよりの省線中央線中野駅から下り電車で4駅先,10分たらずで西荻窪に着くと,駅前広場 に乗り合せた生徒は集合する。個々ばらばらの登校は禁止され,整列し集団で登校する様に指示さ れていたからである。だが,生徒心得にはこのことにかかわる規定は見当たらない。

 集合すると,最上級学年の生徒が号令をかけ,縦隊編成で登校行進を開始する。服装検査を行い,

ゲートルがきっちり巻かれているかどうかも調べられた様に記憶する。

 行進途中で先生に出会うと,引率の最上級学年生徒が号令をかける。「歩調とれ」,足並みが揃う        かしらと次の号令がかかる。「教官殿に敬礼,頭右」,軍事色に染めあげられた様式であった。(注2)

軍国主義と国粋主義に染まった校風

 運動場に集っての朝礼集会は,週に1〜2回だった様で,通常は教室で「とうねん」の儀式が行 われた。学級担任は来室しない。(注3)規律保持は,週番勤務の生徒が担当する。全員正座,君が代 のメロディ吹奏中は黙祷させられる。吹奏が終ると,週番が「青少年学徒二賜リタル勅語」を「奉 唱」する。『生徒手帳』は最初に「教育二関スル勅語」を収め,ついで,「青少年学徒二賜リタル勅 語」を掲載し,さらに開戦の詔書も収めている。

(4)

茨城大学教育学部教育研究所紀要第24号(1992)

 第

學年

手帳

  一﹂

東京都立第十中學校

一 第

一37飛.煎…・一門 爵.

   レー ・ ひ

︑ ・ c 象 5 薗 監 ・ ⁝.﹁  ︸      ; 剣  ・ら        5.ぐ葛 亀・レ£ 畠多﹂

        icr

        l華』・

生徒手帳表紙 第2図

生徒名札着用法 第1図

生徒心得抜

      國歌吹爽・甲晶於ケル能側慶姿勢

一、

?歌吹奏申起立ノ場合㈲一於テハ不動ノ姿勢ヲ墨リ又腰掛ノ場合畠於テハ﹁二﹂ノ如キ爽勢

  ヲトリ蹄鵬瀞ヲ細洛チッヶテ錨隅賭騨スルモノトス︒之ガタメ﹁嚢獄カヲ正シクスルコ畠ト﹂及ビ﹁睡.

  吸ヲ脇幽ヘル饗ト﹂ハ特二必要ナル榔揮ナリ︒

  又行進中國歌ノ吹爽ヲ聴ク時ハ盧チ畠ソノ場昌停比シ吹舞絡リタル後再ビ行逡昌.移帖ベキ

  モノトス

ニ︑腰掛ノ歌翼継澱ハ次ノ櫃筑領晶依ルモノトス

  イ︑繭脚ヲ響薩聾蘭キ膝ヨリ下ヲ糠喜シ足ヲ準ラ・二床ノ上・露チッケ足尖ヲ程ヨク

   開ク︒

  冒︑上畿ヲ正シク腰ノ上二落チヅケ背ヲ傭.ハシ繭腿ヲ稽後方二引ク︒

  ハ︑爾蕾ヲ自然二垂レ下腹部ノ前ニテ繭手ノ指ヲ輕ク組ミ合ハス︒

  轟︑頸及ビ頭ヲ虞直二保チ爾眼及ビロヲ輕ク閉ヂ鼻腔窃リ翻ヵ二呼吸ス︒・

  於︑嚇門部ハナルベク鞭鞘ク腰掛上昌㎜鷹クヲ可トス︒然レ共之ガタメ床ノ﹄ゐニオケル足!安楚

    ヲ締ゲザルヤウ注意スルヲ必要トス漕

  へ︑ナ姿響アリテ属︑醤︑脚等ノ凝ラザルヤウ特二注意スルコト必翼ナリ︒

  ト︑コノ妻勢ヲ正シクトル時下腹部二輕キ一繍隅ノカヲ愚ズ︒

    但シ殊更二下腹部ノミニカヲ入レルコトハ不可ナリ︒       錨四 凶般ノ心得

一、

ケ修ニツキテハ露墨丁自舩蝉ヲ冒トシ︑豫奮復習二努ムベシ

一、

o校申ハ外出スベカラズ︑已ムヲ饗外掛セソトスル餐︑組主任二申出デ許可鐙ヲ受ケ

 之ヲ擁響スベシ

一一総テ畢校ヘノ観醤及蝿出物ハ・︑ソノ期阪エ厳守スペシ

一、

K翼アル描舎ノ外︑金宏拾競以上所持スルコトヲ鑛ズ︑・不瞳ノ入狸アル場舎ハ誤配者曾ヨ

  リ一時貸輿ス

一、

洛ワサ轡アル文学ハ開囎⁝スベカラザルハ勿醜︑之ヲ護見シタル晦ハ速二鳳甲按二題出ヅベシ

一、

g示︑簗禽︑文轡・耗行葵組主誓経テ學校畏ノ許可ヲ愛クベシ.

一、

x業中隔會内編入ラゾトスル時ハ宿直畏ノ許可ヲ受クベシ

一、

h所又ハ其附近畠簿染病患嚢齪生セル疇ハ遼一疇三校二題出ヅベシ

一、

サ藥物及ビ飲食店昌ハ父兄阿伴昌非ザレバ獲リ轟立入ルペヵラズ

﹃︑穏學総串ノ聡敢ハ出來得ル限り遼二墨校及ビ家二二串出ヅベシ

一、

r蹴雷r昌於テハ鮎魑ンヂ︷厭︷麟プ糊置嬢⁝ヲナスペシ

一、

?瞳槻ニアリテハ外出セソトスル二二行先︑繍脚宅二二ヲ明力昌シ︑父母ノ暫可ヲ受クベシ

一、

n・校以外ノ團薩閥哺癩入スル際ハ将校畏ノ爵可ヲ受クペゾ

22

(5)

中川:太平洋戦争末期の中学校生活 23

 中学校当時,私は「とうねん」がどの様な意味を持つ語であるのか判らなかった。この原稿を書 くために,『生徒手帳』を検索したところ,教室の規定に,  振鈴ト同時二三念ノ心構ニテ教師ノ 来場ヲ待ッベシ の指示があるのを「発見」した。今日ではこの様な用語は死語であるらしく,

『広辞苑』には見当たらない。気持を落ちつけて事に処するとの意味になるのだろうか。「青少年学 徒二賜リタル勅語」も,いまでは忘れられた存在ゆえ,全文を引用しておこう。

  国本二培ヒ国力ヲ養ヒ以テ国家隆昌ノ気運ヲ永世二維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚  ダ遠シ而シテ其任実二繋リテ汝等青少年学徒ノ讐肩二在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今  ノ史実二稽へ中外ノ事勢二竪ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ響フ所正ヲ謬  ラズ雨曇本分ヲ山守シ文ヲ修メ武ヲ練り質実剛健ノ気風ヲ振励シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコト  ヲ期セヨ

 この難解な文を,中学校1年忌にすらすら読ませ様とする過酷な要求だが,全文暗記が修身の課 題として求められていた。

 ところで今回,『生徒手帳』から転記するに当たり, 謬ラズ と記載すべきところ, 謬ヲズ と誤植しているのを「発見」した。勅語誤植は,当時なら重大な過失の筈なのだが,だれも気付か なかったのだろう。読む生徒は棒暗記して,文字を見ていなかったのだろう。発注した担当教師の 責任問題にならなかったのが,幸運であったと思われる。

 『生徒手帳』には,勅語,詔書についで,校訓がフローチャート方式で収められている。これも 週番生徒が朗読した様に記憶するが,裏付けうる資料をみいだせない。

 「校訓」と「校章」については,『生徒手帳』に4ページにわたる解説が収められている。 フラ ンスの有名な豊家ミレーの「晩鐘」を静観せよ とそれは書きだすのだが,国民学校当時から軍国 主義,国粋主義教育を受けていたから,ドイツに降伏した敗戦国の画家に言及する「校訓」は奇異

に感じられたものである。昭和12(1937)年に開校した当時,「校訓」の解説をしてそのまま使用 を続けたためと思われる。しかし読み進むと,国粋主義皇国史観の色彩が顕著になってゆく。

 午後の授業前には,ラジオ体操,乾布摩擦があった。乾布摩擦は,上衣,シャツを脱いで上半身 裸体となり,手ぬぐいで肌をこする行事である。皮ふを丈夫にし,健康維持に資するとの主旨であ

      

ろう。時には,たわしで肌をこすらされた様にも記憶している。

 校章は,中央に収まる「十中」を「西高」に置き換えて,現在に継承されるが,梅花にちなむ由 来は菅原道真の故事に求められるとされ,究極は校訓の「感謝報恩」に結びつくと説かれてきた。

印象に残る授業の断片

 入学して驚いたのは,同一の校舎に二つの中学校が同居した事である。もう1校は東京都立玉泉 中学校で,創立は第十中学校に3年おくれる昭和15(1940)年4月,当初は東京府立第十八中学校

と称していた。

 翌年に改称したが,校地予定地の狛江に近い和泉多摩川がその由来に位置つくとされている。

 第十八中学校が第十中学校の校舎に同居したのは,一時的措置の筈であったのだが,校地は定まっ たものの資材不足(予算も?)で独自の校舎をついに建てえなかったのだと思われる。結局,都立 玉泉中学校は,昭和21(1946)年3月31日付で,都立第十中学校に統合されている。学校長は当初 から兼任であった由である。

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24 茨城大学教育学部教育研究所紀要第24号(エ992)

 この様な事情のゆえに,第十中学校の生徒の間では,なんとなく玉泉中学校の生徒を見下す気風 があり,「寄生中」と蔑称したのは,いまにして思えば心ない仕業である。とはいえ,等しく都立 西高等学校を卒業した旧十中出身者,旧玉中出身者の間にわだかまりのない事を,ときおり出席す

る同期会で感じとっている。

 授業が始まると,驚く事がいくつもあった。農作業が,正規の教科に組み入れられていたのが,

そのひとつである。当時の都立第十中学校は,周辺が畑であり,作業の対象に事欠かなかった。校 地は,東京都水道局の浄水場から市街地に送水する水道管を埋設したがために,水道道路と通称さ れる直線状の道路から少し離れて位置していた。そうして,水道道路と校地の間に広がる畑の一部 が,農作業の実習地であった。この土地は私有地であったものを借り入れて,農作業の実習に供し ていた様に思われる。

 農作業は,中村淳先生の指導で行われた。最初は,運動場に接して校地の南寄りを占める空地の 除草であった。以前は,テニスコートかバレーボールのコートであったものを,食料増産で畑に転 換する準備作業の一環で,堆肥づくりが除草の目的だったらしい。

      ゆ        ぬ

 素手で抜いたのか,鎌を使ったのか忘れたけれど,おおばこだけを一か処に集め,他を堆肥小屋

       ゆ       ゆ   ゆに運ばされたのが印象に強く残っている。作業終了に際し,おおばこは食べられるから,家に持っ

て帰る様にいわれたので,馬鹿正直に実行したが,味がどうであったかは忘れてしまった。

 借り入れていた畑の一隅に,大きな肥料溜があり,下肥が一杯に入っていた。それを汲みだして 桶に入れ,天秤棒を使って2人1組で運搬するのだが,不なれで上手に運べず,液体がはねあがる

のにへいこうした。

       ゆ   ゆ    

 鍬で畑を耕すと,ときおりとかげが姿をあらわすのがこわかった。それと知ったクラスメートの

      ゆ   ゆ   ゆ      ゆ    

いく人かが,とかげを捕えて顔に押しつけるいじめを農作業のたびに面白がってやるのが,たまら なく悲しく,農作業は一番いやな授業であった。

      

 異物を食べさせられるとのうわさで,生徒が恐れていたのが,博物の授業である。上島周蔵先生

        ゆ     ゆ     ゆ     ゆ

の担当で,せみ,きりぎりすなどを捕えてそのまま食べさせるとの伝説だったが,幸い実行されな かった。

 家令俊雄先生は歴史が担当で,都立第十高等学校当時,(im 4)新設の三重大学に転出された学者肌 の方だったが,中国史主体の授業の中で宙官に言及され,去勢の説明をされたのだが,なぜその様 な乱暴な措置が行われるのか,当時は全く判らなかった。国民学校で教えられた国史は天孫降臨で 始まる理解不能の内容であったが,家令先生の授業は神皇伝説から始まり,尭,舜,禺,そして夏,

股,周へと続くのだが,周以後が実在の王朝でそれ以前は伝説の存在と教えられた。今日では二二 が発掘されているけれども,当時は家令先生の授業が中国史の通説だったわけである。

勤労奉仕ついで工場へ勤労動員

 入学して間もなく,学徒勤労動員によって上級生(確か第4学年,第5学年)が工場に出動し,

校内は急にさびしくなった。都立第十中学校では,上級生による私的制裁の悪習はなかったから,

集団登校で面倒をみてくれる上級生がいなくなるのは残念に思えたものである。

 勤労動員に先だって,校庭に全校生徒が集合のうえ,壮行会が行われた。校歌が斉唱され,学校 長の訓示があったのだが,校歌は軍国主義の権化であり,戦後は校歌なしの状態となった。幸にも,

(7)

中川:太平洋戦争末期の中学校生活 25

同窓会名簿に歌詞が掲載されていたので,次に転載してみよう。

  皇御国のもののふは いかなることをかっとむべき ただ身に持てる真心を 君と親とに   つくすまで

      ゆ   ゆ   ゆ       ゆ   ゆ

 皇御国は,すめらみくにと読ませたのである。

 私たちの学年も勤労動員に「出動」させられたのは,昭和20(1945)年4月からであったが,そ れ以前にも授業中断で短期間の勤労奉仕を行う機会は,いく度かあった。「生徒手帳」の通信らん に,12月12日(昭和19年)の日付で,「一金七拾五銭也領収一下」と父i親が書いて捺印,学級担任

も捺印の記録が残っており,これが勤労奉仕の報酬の一部なのだろう。

 勤労奉仕で忘れ得ない出来事は,強制疎開に伴う家屋破壊に従事したことである。国鉄中央本線 荻窪駅北側の住宅地がその対象になった。住民が立退いた跡に土足で入り,畳や建具を運びだし,

柱に鋸を入れたうえで,ロープをかけ,集団の人力で引き倒すのである。瓦を屋根にのせたままだ から,倒壊と同時に轟音と土ぼこりがおこり,真に「勇壮」に感じられた。強制疎開の目的は,鉄 道線路が空襲時の沿線火災で被害を受けるのを防ぐためであったろう。

 荻窪駅の西よりに,住民が立退かずにいる家屋が一軒残っていた。転居先がみつからずにいたの か,立退かねば疎開の対象外になるのではと考えていたのか,いずれかであるのだろう。ところが,

われわれ「愛国少年」は,お国の命令に従わぬ「非国民」に容赦はしなかった。土足で乱入し,有 無を言わせずに家財道具を駅構内の貨物用地に運びだし,たちまち家屋を引き倒してしまった。今 にして思えば,強制立ちのきに追いこまれた住民は,その夜をどこで過したのだろうか。真に気の 毒な「悪業」をなしたものである。とはいえ,当時は使命感にもえ,一かけらの罪悪も感じはしな かった。

 昭和19年の暮には,確か第2学年まで勤労動員の対象となり,三学期はわれわれ第1学年だけが,

校内に残る存在だったが,学業は前年秋から始まったB29による日本本土空襲で,半身不随状態に なっていた。

      ゆ

 授業中に警戒警報のサイレンが鳴ると,生徒は喚声をあげ,手早く学用品をかばんに入れて一斉 に教室からとびだしてゆく。私の罪な電車通学生は,最寄駅まで一生懸命に走ってゆく,空襲警報 が発令になると,電車は運転中止となり,防空壕への待避が強制されるからである。

 空襲に伴う思い出は数多いけれど,紙数の都合で省略し,次に勤労動員の状況を簡単に述べてみ よう。動員先は,当時は北多摩郡三鷹町牟礼にあった正田飛行機の発動機工場であった。この工場 は,現在は日産自動車に引き継がれて存続する筈である。

 中央本線の吉祥寺から南へ歩いて3キロほどあったろう。ときおりバスが動いたが,乗れた事は ほとんどない。木炭バスではなく,いまでも珍しい電気自動車であった。運よく空車のトラックが 通りかかり,荷台に乗せてもらった体験がいく度かある。

 正田飛行機は,「赤とんぼ」と愛称された初級練習機用の出力300馬力というエンジンと,「大発」

と称する上陸用舟艇のエンジンを作っていた。私は,この年の1月から2月にかけて,肺門淋巴腺 炎で長期欠席したのに加え,小柄だったため,切削済のシリンダー部品の仕上り検査担当にまわさ れた。多くの学友は,鋳鍛造職場から運ばれてくる部品を,旋盤やボール盤で加工する作業に従っ ていた。身体強健で大柄であると,鋳鍛造職場に配置されたが,そこでの労働は非常にきびしかっ た由である。

工場での労働は隔週で,1週間おきに登校して授業を受けている。相対的とはいえ,この様にめ

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26 茨城大学教育学部教育研究所紀要第24号(1992)

ぐまれた環境におかれた勤労動員学徒はすくなかったといって良いだろう。まがりなりにも学業を 続け得たのは,正田飛行機の社長が,同期生の父親であったがゆえの恩情かと思われる。

 敗戦間近かになると,資材不足のためか,検査すべきシリンダー部品が足りなくなった。手持ち 無沙汰になった少年検査係のわれわれに対し,本職の工員さんが家庭から書物をもってきて,作業 机の引きだしに入れて読む様にと指示してくれた。時おり,検査官や先生の巡視があるが,その時

は引きだしを閉じて,働いているふりをする様にと教えてくれたりした。他の職場ではどうしてい たのだろう。

 工場は日勤で夜業はなく,昼は給食があった。食料不足だったから,お国のために一生懸命働い ているとの誇りに加えて,食料面で間接的とはいえ母親を助けているとの喜びもあった。給食は脱

      り  ゆ脂大豆をまぜた御飯に少しのおかずだったと記憶する。ときおり母親に頼んで弁当を作ってもらっ たおりの満腹感が忘れられない。

 作業中に戦闘機による空襲があり,工場から待避したが,機銃掃射の音におびえた思い出もある。

下校途中で空襲にあい,間近かをP51が機銃掃射して超低空で通りぬけたときは,汚水はなかっ たけれど恐怖のあまり,下水溝にとびこんでいた。

 勤労動員については,まだ書きたいが残念ながら紙数がっきてしまった。「愛国少年」は大真面 目で働いたが,中学2年生まで働かせたのだから,製品の精度が落ちるのは当然だし,日本の敗北 は必然であったと言わねばならない。

結びにかえて

 『暮しの手帖』96(昭和43年8月)が特集した「戦時中の暮しの記録」に収められた集団疎開学 童の手記(飢えたるこどもたち),寮生活で勤労動員に従った中学生や女学生の手記(油と泥にま みれて)は,涙なしには読めなかった。親から引きはなされた昭和7〜IO年生まれの学童,勤労動 員に長期にわたって狩りだされ,油と泥にまみれた上級生に比べると,私の戦時体験は「幸運」で あったというべきだろう。家族は,縁故疎開の妹弟,父母のだれもが無事に昭和20年8月15日を迎 える事ができた。自宅も燃えずに済んだのである。必死の消火作業で東京大空襲の火災は,50m近

くで喰いとめられていた。

1)当時は,小学生(国民学校初等科)も,児童でなく生徒と呼ばれた

2)当時在勤した教員の回想が,『西高の50年一創立五十周年記念誌』(昭和63年)に掲載されてい   るが, 登校するのでも,西荻窪の駅で電車を降りると,まずそのなかのいちばん上級生が号  令をかけて,駅前に並べてそれから歩調をとって歩き出す。生徒のほうが足が速いですから,

 途中で先生を追い越しそうになると,後ろのほうから「歩調とれ」という声をかける。そんな  時代だったんですね (岸田文雄 昭18〜38国語)と記される。

3)『西高の50年一創立五十周年記念誌』に収められた「草創の理念一「朝鍛夕練」のこと」によ   ると, 毎日の朝会は,『君が代』の放送のもとに担任・生徒が両手を組んで瞑想をし,心を鎮  めてから授業に入ります♂と回想されている。筆者は,昭和15年から22年まで,都立玉泉中

(9)

中川:太平洋戦争末期の中学校生活 27

 学校に在職された土屋長松先生である。来室するのは,第1時限の授業担当教師との指摘が,

 藤崎真佐五先生(昭19〜59数学)によってなされている。

4)昭和23(1948)年4月,新制の高等学校発足時には,東京都立第十高等学校を名乗っている。

 東京都立西高等学校への改称は,昭和25年1月26日であったが,卒業間近かの私たちは十高の  名称に愛着をもち,西高の名を毛ぎらいした。卒業記念メダルの校章も,十高の表示で押し通   してしまった。

参照

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