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 一「集団的主体性」形成の論理一

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(1)

中井正一のコミュニケーション論

 一「集団的主体性」形成の論理一

 佐 藤晋一*

(1993年10月18日受理)

Communication Theory of Nakai Masakazu:

Logic on Formulation of a Collective Subject

  Shinichi SATO

(Received October l 8,1993)

Lはじめに

 人間の思考活動の拡充・発展は,経験そのものの拡充・展開を図ることと,それを正しく理解し 表現するための概念を組織的・体系的に整序すること,そしてそれらの諸概念をいかなる目的のた めに使用し,コミュニケートするかという観点を確立することを必要条件としている。しかし,個々 の経験の拡大が直ちにコミュニケーションそのものの発展に結びつくものであるとは言えないし,コ ミュニケーションの発展は個々の人間のコミュニケーション活動に還元されてしまうものではない。

両者は相互に還元されうる関係にはない。人間は自からを物理的に拡大することができない存在で あるが故に,人間はコミュニケーシヨン体系・表現様式を拡充・発展させることによって,自から の活動,思惟・判断・実践,認識の様式,存在様式を質的,量的に秩序づけ,レヴェル・アップさ せて来たのである。つまり,「人間の経験を秩序立ててそれを全体的につかむための方法(p.325)」,

「個人の主観的な判断によらない,普通の(日常的に共通に使用される)言語で一意的にコミュニケー トされうるという意味で客観的な(p.279)」方法を獲得するに至ったのである。そしてこのことが 人間の思惟形態・存在様式の拡充・発展を条件づけるに及んだのである。逆に言えば,このことに よってこそ人間は自からの思惟形態・存在様式の拡充・発展のための自由性を得ることになったの

である。

 ならば,それはいかにしてなされたのであろうか,が問われなければならないであろう。言うま でもなく,そこにはコミュニケーションの単なる拡充・延長があるのではなく,その「手段の性格 と適用範囲の(p.279)1)」拡充・深化の過程があるのである。メディアの単なる拡大・延長が重要な のではないのである。 「情報のたんなる伝達ではなく,たんなる流通でなく,たんなる変換でなく,

それらを組み込んで立体的に構成される論理(コミュニケーションの論理)の働く場面は,人間の

*茨城大学教育学部学校教育講座教育学教室(〒310茨城県水戸市文京2丁目1−1)

(2)

コミュニティ,すなわち組織体の構成とその運営列なのだから,そこには必ず一様ではない力の作 用の場の凝集と拡散と展開とがあり,すべての個及び場に常に等しく妥当するメディアや伝達方法 は,実際になかったし,ないのである。言語の存在形態の諸相はまさしくそのことを示している。そ れだからこそ,コミュニケーションはメディア自体の質的,量的なメタモルフォーゼを必要とし,そ れを具体的に実現し,そしてその結果としてコミュニケーション組織・体系そのものの質的・量的 発展が創り出されたのである。

 他方,人間の思考内容であるところのメッセージの充実は,常に個人の活動にのみ根拠をおくも のではなく,人間全体の活動を根拠とする。とは言え,歴史的に見るなら先ずはメッセージは個に 固有の占有化,個的変換,そして個的再構成がなされて,個を支えてきたのである。個の生存は,そ のようにして可能となったのである。ここにこそ個的学習の根拠があると言えよう。認識内容の正 確な理解,概念の合理的使用は即目的になしうるのではなく,学習によってはじめて可能となるの である。また,そのことによってメッセージそのものが内容的に,よりレヴェル・アップされうる ことになったのである。

 個がメッセージを個的に占有化すると言うことは,メディア・認識のFormが個的形態をとること でもあるが,それにとどまっていてはコミュニケーションは成立しない。メッセージは個的に占有 化されることによってのみメッセージとしての意味をもつものなのではない。伝達は個に固有の時 間・空間を越えた,拡大された時間・空間,つまりそこでく変換がなされる場〉の中でこそなされ

      の   の なければならない。また,意味(認識内容)の正確な理解と秩序づけ・蓄積も,即自的に,全く個 の内部においてのみ,孤立分散現象としてなされることはできないのである。

 以上のような関係をコミュニケーションの論理構造そのものとしてとらえ,その構造がいかなる 展開をして来ているのかを検討したのが中井正一・(なかい まさかず,1900−1952)である。中 井はコミュニケーションの構造の展開のうちに,〈集団的主体性〉形成の論理をみてとろうとする。

〈集団的主体性〉形成の論理的展開過程こそが,人間存在の根本様式としてのコミュニケーション 体系を媒介して来たのであると中井は主張する。中井の観点はきわめて重要な意味をもつと言える。

 たとえばJ.グディは,「論理学は,コミュニケーション(つまり,r述べること』やr信じること』)

を形式化することによって生ずる(p.84)」のであり,この形式の発展に「影響を受けた思考が,コ ミュニケーションにフィードバックする(p.88)」と指摘している。このフィードバックに対応する のが認識行為そのものの論理化・構造化,主体それ自体の拡充・発展なのである。「概念の自覚的あ るいは反省的使用⊥ 自己の実践や思考に対する「批判的態度」によって人は合理的行為を拡充する のである。知識を正確に知り理解することだけにとどまらず,その知識の拠る「概念的基盤につい ての批判的吟味(p.91)3)」がなければ合理的にふるまうことは不可能である。中井はグディの指摘す るような〈主体性の展開〉を論理的にとらえようとしていたのであるとも言える。中井は集団的主 体性の形成過程を跡づけようとしたが,その追及がどのようなものであるかを検討し,明確に示す

ことが本稿の課題である。

(3)

ll.コミュニケーションの論理とその展開

 中井はコミュニケーションがどのような論理的形態をとりつつ展開して来ているのかを,以下の ようにとらえている。「論理なる言葉および現象形態が,いろいろの文化推移の中にいろんな役割を もった」にも拘らず,論理学そのものの概念はハッキリしているとは言えない。そればかりか「論 理学がすべての現象から超越していて,厳とした特別な世界を構成しているものとして取りあげら れる」ことにすらなっている。しかし,問われるべきことは「論理学の正当さの限界と,その合理 性を真:に合理性たらしめている文化的現象」との関連そのものである4)。ダランベールは1751年に,

論理学を精神論(心の学),道徳学と共に人間の学と規定し,論理学は「保持術」と「伝達術」を扱 うとした。保持術とは記憶の補助であり,筆記・印刷,アルファベット・暗号,書き方・印刷の仕 方・読み方,が含まれる。伝達術は,話の性質の学(修辞学・作詩法)と話の道具の学(文法学一 記号・韻律学・成句法・文章論・批評・教育学,を含む)とに別れる(尚,記号として,身振り・文 字,をあげている)5}。論理学をコミュニケーションの学ととらえようとしていたとも言えよう。

 中井によれば「文化段階の各々の転換において(p.106)」は,つまり「その崩壊と再構成にあって は,論理みずからその裂けめにおける生けるラチオ(ratio)となっている(p.91)」のであり,その ラチオ(ロゴス)は,歴史的にみるなら弁証の論理,瞑想の論理,経験の論理,行動・機能の論理,

生産の論理,という「五つの性格(p.107)6)」をもって展開して来ている。その展開は図1に示され ているように,人間の認識・思惟一判断の論理的展開,実践の構造的展開,さらに文化の展開と対 応させられている。そして各々の段階での論理は,〈いわれる(語られる)〉・〈書かれる〉・〈

印刷される〉形態をとったのだとする。また,それらの形態はコミュニケーションの展開を示すも のであるとみなせるとするのである。図1に示される各々の論理の基本形態とその展開について検討

してゆこう。

・言われ一一古代文化王灘〉細論理囎

勧・論理・一…化{雛〉剛…論

         封建制度

       〉経験の論理一一一一一一

         商業制度

「印刷される論理」一近代文化     〉行動の論理

         産業制度      〉一・技術

       〉機能の論理          金融制度

生産の論理一・生産

構 画

企 案

提 議 一決 審

実践一委員会の論理一実践一一

(個的主体) (集団的主体性)

(目的・方向)

(組織性・統制)

図1

讐斯

 骸

    1、   卜   反映ド・、 ド・、

    i\、i\

       N      x

       、   1       、        N       x

    l主    \1主    \ 計画     体      体  n−〉一一N

    l性 批判性/

    ト   7        /1

       /オ   1

      /  } .  報告   /   1/

 (実践的誤差レ/     レ/

  を含む)

H−1.〈いわれる論理〉

 論理のギリシャ的段階ではrrいう言葉』の合理性,人々をして論服せしめるための合理性」が中

心的問題となっている。「いう言葉をもってのみ考えることを欲した」ギリシャ人は「いう形態にお

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ける論理」の有効性に,すなわち「言われることがら7 」が伝えることのできるものであることに気

       

ついたのである。単に言われることがらがあるだけではなく,それらのことがらが伝えうることで あることの意識が生じたのである。プラトンは,書かれた言葉は,人によって語られるところの直 接的な,そこから出てくる,その人によって語られる〈生きた言葉〉の影であるとした8)。中井は〈

       

言われる論理〉を,より積極的にとらえようとする。言うということは「確信」することを「主張」

することである。単に語るのではなく, 「みずからが単に(即自的に)確信すること」を「他に対 して承認を求める(p.69)」ためにこそ語るのである。いわれた事柄は,ただ単にそこにあるのでは ないのである。つまり,言われることによってはじめて「確信(Oberzeugung)」と主張の領域とが明 瞭に区分されるのである。A.ライナッハに拠りつつ中井は人間の体験を「同一主観の関係体験」,「自 我と,異なれる主観の関係体験である他人体験」ととらえる。主観は関係主観なのであり,その主 観が「自我の内面で」確信することが「他人関係の体験に向う時」には,主張と言う形態をとる。主 張は,まずは内在的なのであるが,そこから真に主張としての形態をとる方向へと向かう。他に「同 意(Mitteilung)」を求める方向へ向かうのである。それによって主張は「社会的法律的関係(p.69)」

に入り込む。つまり,主張は主張する人から切りはなされて主張そのものとして同意されうるかど うかが問われる関係に入り込むのである。いわば主張は語る人と聞く人との契約的な関係の中に据 えられるのである。この関係はさらに「同意的是認(Zustimmungsanerkennung)」と「判断的是認(Ur−

teilende Anerkennung)」の二つの側面にわかれる。前者は後者のく是認〉であり,後者は「確信の領 域(p.70)」に立ち戻っての,即ち聞く主体の内面での是認である。しかし,聞く主体は主張を単に 受容するだけにとどまりつづけることはできない。主張に対していかなる同意をなすのかが問われ てもいるのである。主張そのものがそれを要求しているのである。とは言え,主張は聞き手の同意 的是認をさえ求めることはできても,聞き手の側が判断的是認にとどまる自由があることを許さな ければならない。その自由を否定することはできない。けれども,すでにここには共時な条件のも とにおいてではあるけれども, 「是認の是認という同一意味の量的転化(p.71)」が生じているので ある。つまり,〈同意〉の論理は「非連続(p.77)」の連続という関係を生じさせているのである。

 言う,主張するとは「あらゆる人々に一つの判断的是認の量的な拡延を要求」することなのであ る。この「転化の方向軸(p.71)」は,実際に語られることによって出現するのである。言われる論 理は,語る主体と聞く主体との関係を,経験的レヴェルにおいてではあるが,構成するものとなっ ている。いわば近接作用としてのコミュニケーションを構成するものとなっている。ギリシャのデ ィアレクティケーという経験的な形態においては,確信と主張はくいう〉という形態の中に(いう 人によって支えられ, 「説服的意味づけをもつもの(p.48)9)」ではあり,聞くということには積極 的意味づけがなされてはいないが)閉じた事象として統合されていたのである。

 プラトンは,〈語る〉ことの構造について,次のようにいっている。散文で語られるにせよ,韻

分で語られるにせよ「物語作家や詩人によって語られることのすべては,過去・現在・未来の出来

事の叙述」である。そしてその叙述は「単なる叙述によるか,あるいはく真似〉を通じて行われる

叙述によるか,あるいはその両方を用いた叙述によるか,このいずれか(392D)」である。このく

真似〉・ミメーシスは広い意味をもっている。 「①作者が作中人物の言葉を真似る一直接話法的に

再現する一こと(叙述における「語り」の部分に対する「せりふ」の部分)(392D〜394D),②役

者,俳優がある人物を真似る一演ずる一こと(395A),③観客・聴衆が登場人物の役柄を真似る一

(5)

自己をその人に同化する一こと(395C〜396B)(p.442)1°)」等の意味が与えられている。そしてさ らにく真似る〉ことの存在論的,形而上学的な役割と意義も検討される(695A〜621D)。即ち,真 似ることに関して問題となるのは,何を真似るべきかであり,アレコレの具体物の真似が問題なの ではない。イデーの存在そのものが真似ることといかなる関連にあるのか,存在することの意義と は何であるかが論じられる。 「運命を導くダイモーン(神霊)が,汝をクジで引き当てるのではな い。汝自身がみずからのダイモーンを選ぶべきである。徳は何ものにも支配」されないのであり,「そ れを尊ぶか,ないがしろにするか」は,個々の存在(人間)の問題なのであって,そのいずれかに よって「人はそれぞれ徳をより多くあるいは少なく,自分のものとする(617E)II)」のである。

〈責は選ぶものにある。神にはいかなる責もない〉一この言葉は,何よりもまず国家の守護者とな るべき者,即ち〈語る〉・〈真似る〉べき者に対してむけられているのである。ではその〈真似〉

は,いっから,いかにしてなされるのか。観客であり,聞き手である「子供のときから真似すべき

(395C)」である(この指摘は,まず,聴くこと・観ることから真似が始まるのだということを意味 するものとして,注意しておきたい)。いかに,真似すべきかというと,「本当に立派ですぐれた人 が何かを語らなければならない場合に,きっとそれに従って述べるであろうような,あるひとつの 語り方と叙述の種類があり,他方はまた,これと違った別の種類があって,先の人とは生まれも育 ちも正反対の者はいつでもそれにしがみつき,それに従って叙述を行う(396C)」仕方があるのだ から,当然前者の種類を真似るべきなのである。前者は「変化抑揚」はあまりなく,適切な「音楽 の調べとリズムを」与えることによって「正しい吟唱のための語り」となるものである。この語り は「ほとんど同じ調べをとり,単一の音調のうちになされる。」「さらにはそのリズムもまた同様に 何か一様斉一なリズムとなる(397B〜C)」のである。後者はこれとまったく反対に「ありとあらゆ

る形の変化抑揚をもっている(397C)12)」のである。

 プラトンにあっては,音楽は吟唱及び吟唱されるべき詩との関係においてとらえられていること に注意しなければならない。「音楽に関する法律(700A)」があるばかりでなく,「r竪琴に合せて歌 われる』という言葉」がそえられた「まさに『ノモス』という名称で呼ばれる」「別の種類の歌(700B)」

があったのである。これは神々に捧げられる〈ヒュムノス(賛歌)〉,死者に捧げられるくトレー ノス(悲歌)〉とは別の物であるというのである。「歌が法律(ノモス)になったということ(800A)」

は,「何ぴとも,公の神聖な歌や踊りに違反してうたったり,踊りの動作をしてはならない」という ことであり,「これは他のどんな法律に違反してもならないのと同様である(800A)。」従って,こ のノモスとしての歌にはく序文〉,「指示を,心をひらいて受け入れ,また,それだけすみやかに納 得してくれるように(723A)13)」と説得的に書かれた部分をもつのである。

 歌は「言葉(歌詞)と,調べ(音階)と,リズム(拍子と韻律)とから成り立っている(398D)」

のである。調べ(ハルモニア)は音の高低,リズム(リュトモス)は音の緩急と関係する。だから

「歌のうち言葉に関する限りのことは,歌われない言葉の場合と少しも違わない(398D)」のである。

「調べとリズムは,言葉に従わなければならない」のであり,「言葉で語るいろいろの話のなかに悲 しみや嘆きはいっさい不必要(398D)」である。それどころか,それらの悲しみや嘆きを表現する 弛緩したイオニア調やリュディア調などは「排除されなければならない(398E)。」「詩脚と曲調を」

言葉に従わせるべきであって,「言葉の方を詩脚と曲調に従わせるべきではない(400A)。」「すぐれ

       た語り方と,すぐれた調べと,様子の優美さ(気品)と,すぐれたリズムとは人の良さ(エウテー

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ティア)に伴う(400D〜E)t4 」ものなのである。

 ところで,プラトンによればリズムは音と動きの両面の統一である。「運動と音声の両面での秩序 の感覚は,人間だけが,生まれながらにこれを所有している」ものである。「運動の秩序にはリズム という名称が与えられ,他方,音声の秩序には高音低音が一緒に混ぜられると,ハーモニーという 呼名が用いられ,それら運動と音声の二つの秩序をひとまとめにしたものが,歌舞と呼ばれる。ま た,神々は,私たちを憐れんで,踊りの同伴者ないし導き手として,アポロンとムウサたちをあた えられたが,なおその上に,三番目の同伴者として,ディオニュソス(の歌舞団)もあたえられた

(664E〜665A)」のである。この二つの面の統一,即ち「歌と踊りにおける立派な身振りと旋律(メ ロディー)」は「私たちが,跡をつける猟犬のように探さねばならない(654E)」のである。歌舞と いうのは「そもそも,さまざまの行為や状況を通じての諸性格の模倣であり,歌舞者(俳優)はそ れぞれ,各自の性質と模倣によってこれを演じ(655D)」るのである。「歌舞の心得をもたぬ者は」

教育のない者と呼ばれ,「充分に歌舞の経験をつんだ者(654A〜B)」のみが教育ある者と呼ばれる。

この経験は,実は「若者たちの魂は,真面目なことに(はじめからは)耐えられない(659E)」の だから立法者は「作家を説得し,説得できなければ強制し,作家をして」若者がそれを真似るよう になる「立派な制作をするように,させる(659E〜660A)」べきなのである。〈演ずる〉ことは示 すこと,ある意味では答えることなのである。

 「音声のうちで魂にまで届く部分(673A)」である音楽,「魂への呪文(659E)」である歌は,従 って「大人も子供も,自由人も奴隷も,男も女も,誰もかれも,まさしく国中の人が国中の人に向 かって,耐えず呪文としてうたいつづけねばならない(665C)」のである。すべての人を「誘導し てわたしたちと一緒に歌に参加させる(666C)」べきなのである。「呪文を唱えて説得(773E)」す ること,「心から歌に向かうようにさせる(666A)」こと,「強制し,自発的にうたうようにさせて

(670C)」ゆくことが歌うこと・語ることなのである。 r呪文の働きをする物語(903B)」が若者に なされる必要もある。その物語とは,こうである。「万物は,その全体が,保全されてよき状態にあ

      の   の       つ       の      

るようにと,宇宙全体を配慮している者によって秩序づけられており,そしてそれらの部分もまた,

可能なかぎり,それぞれがそのものにふさわしい能動や受動の働きをしている。しかも,これらの 部分のそれぞれには,きわめて小さなことに関しても,それの能動や受動の働きをつねに監督支配

       .      ■     ロ      ■      

する者たちが定められて,それの末端にいたるまでこれを完全なものに仕上げているのである

(903B)。」「強情な若者よ,君という存在もまた,そういった部分の一つであり,きわめて微々たる ものではあるにせよ,つねに宇宙全体へ目を向けながら,それに寄与しようとしているものなのだ。

(中略)ところが君には,すべての生成は,宇宙全体の生に幸福がもたらされるようにという,そう いう目的のために行われているのだということが,分っていない。君のために生成が行われている のではなく,宇宙全体のために君はつくられているのだ(903C)。」医者,技術を心得ている職人等 はすべて,「ある全体的な目標のために何ごとをも行っているのである(903C)。」万有の配慮者た る神は「個々の魂をどこに配置すれば」よいのかを,「たえず何かになりつつある魂が,どのような 性質のものになった場合に,どのような位置,どのような場所を占めて,そこに住むべきであるか

(904B〜C)」を工夫するのである。魂がどのような性質になるかは「一人ひとりの意志にその責任 がある(904C)。」魂は各々「自分自身のなかに変化の原因をもっているのだから変化する(904C)」

のであるが,「変化すれば[至高の神によってあたえられた]運命の定めと掟に従って動いて行く

(7)

(904C)15 」のである。魂が存在するということは,その魂が占める場があると言うことなのである。

 〈語る〉こと,〈いう〉ことは,〈真似る〉ことによって伝えること,答えることである。答え るということについて,竹内勝太郎の重要な指摘がある。「ギリシャ語の俳優Hypokritesは,答へる 人の義であるとされてゐる。答へると云ふのは民衆の問に答へることを意味していると考へられる。

それはただその俳優と云ふ個の人が答へるのではない,そのr個』を通して『神』が答えるのでな ければならない。『彼』はこの場合個の人を指すのではなくして『個』の中の『彼』即ち神でなけれ ばならない。『彼』と云ふ『個』は一般者としての神の代弁者であり,神を代理するものである(p.

362)。」Hypokritesは 泌π0冗ρ6τηζでありく答える人〉という意味から,解説者,解釈者,俳 優偽善者,を意味する。カπ6   rcpeaeζは,舞台である役を演ずること,身振り,そして,答え

       N   ノ      ノ ること,である。また,UZO− rcpe VOPtαe は役者としてある役を演ずる,役者のように身振りを 交えて吟唱する,であり,自動詞としては答える,となる。竹内は,答えるとはく民衆の問い〉に 答えることだと言っているが,そのく民衆の問い〉については,次のように説明している。神を発 見した原始民族は「自然の諸力と戦ふ為にに此の自然力を支配する神の援助若しくは加護,加担を 求めた(p.111)。」ここから「神への訴へ,祈りが生まれる。けれども神は人間の言葉を知らないだ らう。そこで手振り身振りに依る表白(p.111)」によって,訴えを具体化しようとする。「神の心を 人間の方へ傾ける」事は「神を楽しませる」ことによってなしうると考え,人々は自からの「楽し みは踊ることにあった」ので,「神を楽しませることと神に訴へることとを結合」させた。「そこに,

物真似の踊,模擬的舞踊の発生がある(p.111)」のである。「人間の意志は踊り子を通じて神に伝へ られ,神と人とは此踊に依ってのみ交通融合することが出来る」ことに気がつくと「踊は単に人間 から神への訴へを表はすのみではなく,併せて神から人間への応へをも示すやうになって来る(p.

111)。」自分たち人間の「生活感情一おこなひを示している処の物真似が実は神のおこなひを暗示す る隠喩的表現であると解されるやうになる(pp.111〜2)。」舞踊の「物真似は人間が人間のおこなひ を真似るのではなくて,神が人間のおこなひを真似るのだと云ふことに意味の転換が行はれる(p,

112)[6)」のである。このく意味の転換〉に対応して,主体性の連続的移行,〈配置〉の連続的移行と でも言うべき現象が生ずるのである。

 この点はプラトンも指摘している。「模倣としての踊り(796B)」,つまり「リズムとハーモニー を楽しみながら感じる感覚(654A)」は神々がさずけてくれたものであり,「実にこの感覚をとおし て,神々はわたしたちを運動させ,また歌と踊りでわたしたちお互いをつなぎ合せながら,わたし たちの踊りの先頭に立たれる。それに歌舞団(コロス)という名前をあたえられた(654A)」と言 うのである。だからこそ「作家,聴衆,俳優のすべて(668C〜D)」が,音楽はすべて模倣だと一致 して認めているのである。そればかりでなく,プラトンはさらに,こう言う。歌舞団は年令によっ て三種に区分される。少年歌舞団と若者のそれと「三番目として,三十才以上六十才未満の者たち」

のそれである。六十才以上の「人々は,もはや歌に耐えるだけの体力はないのですから,その場(劇 場)に居残り,うたわれているのと同じ性格をもった人物の物語を神の息吹きにかられた話し方で,

話す人とならねばなりません(664D〜E)。17)」何故かと言えば,「吟諦詩人であると同時に俳優であ

るということ」を「両方うまくできる者はいない(359A)18)」が故に,またそれだけの理由でそれぞ

       e

れの役割を担うべき者がいなくてはならないと言うのである。しかし,本来それらは同一物の諸相

なのである。物語る・いうということは歌うこと・踊ることであり,その逆もまた真なのである。こ

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のことによつて,互いがつなぎ合わされるのである。

ll−2.〈書かれる論理〉

 〈語られる論理〉にあっては,語る人にプライオリティーがあるけれども,聞く人は単なる聴き 手であるかというと,そうではない。主張に対してみずからの確信を投げ返さなくてはならない。い わば答えなければならないのである。あるいは聴き手から話し手へと自己自身を変える,真の意味 での自己変換が行われなければならないのである。逆に,話し手も聞き手へと自己変換をしなけれ ばならない。この相互変換がなされなければ真のコミュニケーションは成立しない。

 それにはまず,自からが自からの確信そのものを形成しなければならない。語られるロゴスと聞く ロゴスがクロスする場・契機はトポスであるが,聴く側はこのトポスにおいて単なる受け手にとど まっていてはならない。レトリックの進行の中で聞き手が受け手にとどまらないためには,従って 真の意味で問と答の相互的なやりとりが可能になるには,聞き手は自からの確信を形成するのみな らず,自からの主張を展開せねばならないのである。しかしそ(わことは,レトリックの進行と同時 に,いつでもなしうるものでは,必ずしもない。聞くことと主張することとの間には時間的・空間 的な隔たりが介在するのである。そこで話す人と聞く人との直接的な関係からトポスそのものを切 り離し,トポスにFormとして据えられた問を聞き手が共時的にだけではなく通時的にも,故に異な る時間・空間に移しても十分に考察できるようにしなければならない。むろん,何度もくりかえし て考察できることも重要なことなのである。こうしてこそトポスは,話す人と聞く人を,主張と確 信を媒介しうるものとなるのである。それがいかになされるかは,各々の人が身を以って体験する

ことによってつかみ取る以外にはありえない。

 トポスは話す人と聞く人との間に一定の関係,論点を中心として形成される範囲(テメノスT乙me−

nos)を創り出す。アリストテレスは,このトポスにおいてなされる〈説得〉に三つの種類があると いう。「ひとつは論者の人柄にかかっている説得」,「いまひとつは聞き手の心がある状態に置かれる ことによるもの」,三つ目は「言論そのものにかかっているもの」,即ち「個々の問題に関する納得 のゆく論に立って,そこから真なること,あるいは真と思えることを証明する場合1門である。この いずれかの仕方を経験することによって聞く人は,当の論点に関してく語る人〉へと自からを転移 することが可能となる。中井はこのトポスの出現を「媒体的な移動可能の同質性(p.50)」の出現で あるとみる。それは「個人の心理内の特殊現象にその拠りどころをもつところの新たな形態(p.50)」

である。この状態は瞑想(Kontemplation,予期,もくろみ,沈思黙考,じっと見る)と名づけられ る。個は相対的にではあるが語る人との関係から切り離されて瞑想するという意味での独自性を持 つに至る。〈瞑想する主体〉の出現である。この主体には,「概念の理解に対して一方的な一義的な 意味志向が要求され,一つの言葉が一つの意味を志向するという,言語意味及び概念構成が生ずる

(p.52)。」同時にあらゆる方向に向かっての瞑想・理解は不可能なのである。瞑想は個的な方向性を

持たざるをえないのであり,そのことが「表現そのものの機構(p.52)」の成立に対しても影響を及

ぼすのである。即ち,羊皮紙に記されたく神の言う言葉〉としての《書かれたる摂理ratio scripta》で

ある「バイブルの解釈論理と,(瞑想する主体の側の)常識的認識論理との背離(p.52)」が生じた

ことになる。そして瞑想が再びトポスに入り込むためには,自己表現の形態は話す一聞くという聴

(9)

覚的作用の人格付与的合理性のレヴェルを脱却して(話す人格にひきずられることなく),自己の確 信をトポスに書き記す・確信を視覚的に投影し,固定するという新しい形態をとる。いわば,語る 人と聞く人によって相互に,くりかえし反復してく見られ〉,〈読まれ〉,確認されることのでき る客観的存在形態となるのである。瞑想とは,いわれる言葉をトポスに置いて(書き記して),くり かえし観想することである。このことを中井はrr書かれる論理』の自己背離への転化(p.52)2°)」と 特徴づけている。表現作用が「聴覚作用としての言葉,視覚作用としての文字(p.210)」の双方に支 えられることになったのである。視る作用が加わったことの意味は重要である。聞く人から視(て 考え)る人への変換のチャンネルが生じたともいえるからである。神や人の語る言葉も,神や人と の直接的関係において聞かれるだけでなく,神や人が自からの言葉を記したものとして観想されな ければならない,見られ,読まれて了解されなければならないものとなったのである。そればかり か,記された言葉に対する是認もが,同じく言葉によって記されねばならない。かくして「書かれ たる言葉,すなわち問いも答えも(直接的には)しないr青銅の壷』のごとき固き言葉は,すでに 暗き自我に問い自我のさらに答うる限りなき問いの言葉(p.245)21)」となって自己転換してゆくので ある。「問いそのものが妄誕である(上司小剣のことばとされる)」場合(r中野重治全集(21)』筑 摩書房,1978,〈うしろ書〉から),あるいは「妄誕の説」である場合は「折かざる事を得べからず」

(新井白石『折たく柴の記』岩波文庫,p.186)なのである。このことはやがてく見る人〉の存在を一一 般化するに至るのである。

 〈書く〉ことは背離・矛盾が記されることである。が,まさしくそのことによって語る一聴くとい う関係をおし拡げ,自己自身を拡充するのである。聞く人から書く人,(見て)読む人への変換であ り,それは単なるくゆきつもどりWirbel>としてではなく,螺旋的になされる。読む人は書く人と 直接的関係をもつ人に限定されなくなっている。自己自身を読むのであり,このことが他者との関 係を拡充してゆく重要な契機となる。書くことが「経験のすきまない連続体を,多少とも切り離さ れた部分に分解し,有意味な切片に分解する(p.216)」ことを推し進めてゆくことによって,「知る もの(主体)は知られるもの(客体)からますます分離されそれによって,内省活動はますます分 節化されうるようになる(p.218)。」即ち「みずからとまったく区別される外部の客体的世界に対し てだけでなく,その客体的世界に対立する内面的な自己に対しても開かれるようになる(p.219)。」分 節化されたものが再構成されるためには,問の言葉として書き記されたもの相互の間にはあらかじ め定まったく繋辞・コブラ〉はないのであるから,問と答の「よりいっそう意識的な相互作用(p.

363)22)」が必要となる。意識的に書くことが求められるのである。それによってのみ,いかなるコブ ラが必要であるかが定まってくるのである。中井は,書かれたる言葉は「問いとしての存在」であ り,「存在は一つの実験23)」である,自己表現の通時的,共時的連続を図らんとする実験であるとす る。グディによれば単なる話し言葉から書かれた言葉への変換は,図式的操作,図式的体系の操作,

配列,組み直し,抽出などの操作性の獲得であり,このことが意識の再構成を促すという。これを

グディは「脱脈絡化decontextualisationの過程24)」と名づけている。自然発生的言語使用としてのコミ

ュニケーションが対自化される契機がく書かれる論理〉である。書く人にとって「どんな現実の受

け手もいない25>」こともある。書かれた論理は,より広い空間に,多数の人々に対して投企されるの

である。読み手が誰であるか,をあらかじめ想定しなくともコミュニケーションが成立する。この

意味で書かれた論理という新しい性格の相対的独立性が画然となっていると言える。いわば時間的・

(10)

空間的即自性,個的時間性・空間性を超える遠隔作用としてのコミュニケーションの可能性が明確 になったのである。ただこの段階では実際的には,書くことは同時に二つ以上の方向をとることは できない,書く人の意志とその方向との関係を捨象することはできない。書かれることによって生 み出された問としての論理(情報)は,ある方向づけを内包したものとして存在せざるをえない。問 はあらゆる方向に向かうのではなく,方向によって粗密をもたざるをえない。が,まさしくこのこ とこそが,書くことによって成立する〈集団的性格〉を特徴づけるのである。書くこと・問そのも のが個的性格を超えた新しい性格・関係性・主体性をもつに至るのである。

H−3.〈印刷される論理〉

 書かれる論理は,瞑想にもとつく同意の表明,聞く主体がトポスに向ける回答及び語る人に向ける 回答への転化を促す契機である。聴く人が主張する人へ転化する契機である。書かれた主張は,語 る人に対する回答というダイレクトな関係にはおさまらないものを含むものとなっている。聴いた 事柄と瞑想した事柄との統合としての主張は「問いの機構への再還元がおこなわれた(p.79)」もの である。あらゆる人に投げ返された問・主張なのである。即自的な相互の主張が共に否定され,新 たな否定としての問・主張が現出するのである。ここに〈嘘言の構造〉,意識の二重化構造が発生 ずる根拠がある。「内的確信において肯定せるものを,外的主張で否定をもって(即ち,相手の確信 を否定する形態において)承認を求める場合」あるいは「内的確信において否定せるものを,外的 主張で肯定をもって承認を求める場合(p.70)」というような位相のズレが生ずる。「その都度(何ら かの理由によって),あまりにも真に=まれたもののみがあえて主張し,ほかのものは,沈黙より無 意識的な嘘言へ,あるいは意識的な嘘言の中に,最も緊急に人間が必要とする真理を埋れしめ腐ら しめ抹殺せしめ(p.71)」るというズレが生ずる。このズレは個人の内部意識におけるズレにはとど まらなくなる。この矛盾こそが解かれなければならなくなる。

 書くという行為は語るという行為に本質的に内在している矛盾を顕在化させる,あるいは,その矛 盾を解決するために,〈語る一聞く〉という関係を脱却した新しい関係を創り出すための基本的契 機となったのである,と言えよう。書くことが本来的な意味での〈個〉の成立とそれらの個が創出 する関係性の確立を促したのである。また,言語が語る人への従属性を脱却して,言語それ自体が 人間一般の間のコミュニケーションを支えるものとしての自律性を獲得するように強いたのである。

そこで,しばらくの間は書く人との関係の中に閉じこめられていた言語は,書く人によって書かれ

るレヴェルから機械によって書かれるレヴェル,印刷されるレヴェルへと自己展開を遂げる。「交通

の発達と商業の勃興(人間の存在様式そのものの拡大)が紙と印刷の術をあらゆるところに播き散

らしたことはkontemplationの言語意味を根底から変えはじめた。」印刷がもたらしたのは「publicum

の出現」であり,印刷された言葉は「一義的な意味志向が許されなく」なっている。「活字となって

公衆の中に(p.53)26)」入り込むからである。「印刷は,書くことがかつてなした以上に容赦なく語を

空間の中に位置づける(p.249)」のである。「集合的r読者集団』readership(p.157)」あるいは「読

者公衆(reading public)(p.277)27)」の中に位置づけるのである。このため印刷された言葉には「公衆

のおのおのの生活経験とおのおの異なった周囲の情勢にしたがって解釈される可能性の自由が与え

       

られる28)」のである。「印刷は言葉の私有という新しい感覚(と関係)をつくり出した。29)」「言葉の

(11)

解萩の新しい形態が活字で与えられる(p.53)」というのは「ジャーナリズムなる新たな公衆性が生 じた(pp.53〜4)」ことであり,「活字的思惟形態が生じ(p.55)」たことであり,「新たな人間相互

        の関係の図式(p.54)」が形成されたことである。ここでは人は単なる個ではなくして「見る人,観 察ナるもあ即ち圭観(p.53)」が新たな性格として生じている。「全世界の観察者Zuschauerとして人

      り

間を定立(p.55)3°〉」せしめたのが,印刷される論理である。すべての人が各々の仕方で観る(懐疑 的に見る)ことによって経験し解釈し主張するようになる。そしてそれらの経験や主張・論理が書 く人・語る人に還元されずに,より拡いジャーナリズムの中で固有の意味を持つことになる。これ は「テクスト間の相互影響intertextuality(p.273)」が個を超えた問題として出現したことである。逆 に人そのものは何ものにも従属しない存在・観点・観測主体として独立することである。印刷文化 は「直接に,身近に知っている人間どうしの相互関係」から「距離をおき,ある意味ではそうした 人間的なものの性質まで変えてしまうことができる(p.94)31)」のである。公衆として読み・書くと いう新しい性格の出現とその性格相互の関係が前面にでてくる,即ち即自的な存在形態と対自的な 存在形態との関連が自覚されるようになるのである。

 しかしここには新たな問題が,またもや生じてきている。観察者,個々の観察,多くの観点が常に 合理的であるかどうかという疑問が生ずるのである。意味の時間的,空間的拡充,認識の拡充が直 接的な人と人との関係にのみ条件づけられなくなり,個を超えて拡充されうるものとなったのであ り,それによってはじめて本来的な意味でのく集団的主体性〉が形成される条件が創出されたので ある。が,その条件そのものは無限の拡がりにまで単に拡大,延長しうるのか,いかなる拡がりの 中で合理的なのかが問われなければならないのである。印刷された論理には,それがそのまま投げ 出されてしまうという危険性が存在する。とりわけミスを広い範囲においてひきおこし,深刻化す るという危険性が存在する。「繋辞『である』『でない』というものがなしに32)」単に時間的・空間的 連続性の中に即自的に据えられる危険性が存する。判断を介さずに「自分の目で見たもの(読んだ

もの)を勝手に自分がつないで見せいく鋤」という量的にも質的にも高いレヴェルでの危険性・悲劇 性が出現する。即自的にのみつながりを有していると意識される個の「経験という非合理性鯛の露 呈である。連続性(時間的・空間的,歴史的・社会的)は個の経験のみに根拠をおいているのでは ない。この大いなる非合理性・ラチオの裂け目を,中井はく委員会の論理〉に根拠を置いた実践の 拡充の可能性を構想することによって,即ちく集団的主体性〉の論理を構想することによってのり

こえようとしたのである。

m〈集団的主体性〉の論理構造

 中井はコミュニケーション形態の展開が単なるメディアや形式の展開にとどまらず,思惟・判断の 構造,実践形態,主体性の拡充の論理が対応していることを,〈もの〉によるネット・ワークの展 開ではなく,〈論理〉そのものの対象化としてのネット・ワークの展開であることを強調する。「意 識の変化とでも呼びうる重要な発展a5)」や「直接ないし間接的に構造化された力(p.166)」の創出,

「自我の私有化」は「二重に反省的な自己意識(p.352)」の発生と展開に対応している。「個人が(発

生的に)共有的な集団の枠組みの中に無意識のうちにひたされる」段階から「(真の個として)人び

(12)

との間のいっそう意識的な相互作用(pp.362〜363)36)」を担いうる段階にまで成長・発展する。これ によってはじめて「いかにして個人個人を集積して集団の力を生み出すか37)」という問題が正面に据 えられる。「集団における決定においては必ず部分が全体について言及しなければならない」が,そ こには本質的矛盾が含まれている。個と集団の間には論理の切断があり「一瞬前の自己を否定38)」す ることによって自己を止揚せねばならないからである。この矛盾の解決をいかに合理的・発展的に なしうるかが基本的問題となる。

 人間の思考の拡充は,「あらゆる世代が新しく学ばねばならない何らかの言語によってその枠組が 与えられている色々な概念使用」なしにはありえないし,この概念使用こそが「(個体発生的にも系 統発生的にも)うけつがれた本能の発揮に対して,相補性」的な関係にあり,同時にそれ以外の事 象に対しては「排他的な関係にあるという面39)」こそが重要である。本能と概念使用とは相補的関係 を結び,同時にそれらは他の事象に対しては排他的な,リジットな関係にありつつ人間においての み独自の展開を遂げている。子供が一人前の人間とみなされないのは概念の使用ができないという 理由によるといえる。子供の言語使用は「カテゴリー的である(p.303)」か,慣用句の使用としての 言語獲得であるが,それにとどまっていては自己展開がない。人間だけの属性である言語の獲得,使 用がすべての実践の基礎なのだから,その獲得・使用のメカニズム,そしてその展開,それに対応 する人間の思惟・実践様式の発展,従って主体性の拡充の構造が論理化され,解明されねばならな い。「認識の構造や認識過程の発展においてコミュニケーションの様式に起こる変化」の,「人間の 知識の発達とその知識を貯えふやす能力の発展゜)」の論理化が解明されねばならない。この点を中井 がどのようにとらえようとしているかを,次に検討しよう。

皿一1.〈主体〉の拡延一く基本的主体〉の成立

 まだ意識の発達が十分でない「嬰児の行為を観察している時,みずからの指を動かしていかにも不 思議そうに見入っていることを経験することがある。あたかもそれはみずからのr行為』とその見

られたるr物』との間に意識的連絡を欠いていて,その同時性に一種のfremdな感情を懐けるかのよ うである(p.240)。」「見られた存在と自我の意識の間には」空間的には距離があるにも拘らず,そこ には「放たれざる同一性(p240)」がある。また「幼児のものがたれる意味なき言葉を聴いている時,

その欲するところの意味を伝えんとする熱心さと,了解せんとする私たちのこころもちを内省して 深い思いにふけらしめられることがある(p.209)。」それは「言葉を理解せんとしまたされんとする 意志」の相互の間にあるく深い隔たり〉の存在,「文化,あるいは思惟の核心的なるものにまで迫っ ている(p210)」という思いである。この隔たりを把握し,つなぐものが言語である。〈言語〉はギ リシャでは,既にみて来たように歌と踊りと不可分一体のものである。そして「この握把が無限な るもの,無限に遠きものの把握begreifenにまで発展する時,人聞はおよびなき願いを犯し,言葉は 概念にまで容を変える(p.210)。」言葉は単に発せられるのではない。言葉は「内につぶやく言葉」,

「涯しないみずからがみずからに問う執拗なるFrage(p,246)41)」である。言葉は「意味の充足的作

用(erftillender・Akt)」と拡延的方向42>」への作用を有している。内に発せられた言葉は確信を形成し,

〈他人関係の体験に向かう時〉には主張となる。主張は内面における「合理的思想(確信)」の「合

  スビ−チ

理的言説(p.225)」化である。そして主張は聞く者に対して同意的または判断的是認を求める。それ

(13)

によって「意識側(Bewuβtseinsseite)の事態と対象側(Gegenstandliche Seite)の事態(p.254)」とは

つなぎあわされ・組み合わされなければならなくなる。まさしく「主語としての判断領域」の存在 こそがrr単なる意識層』とr社会層に迫れる意識』の両者を区画する中間者(p.257)43)」なのであ る。新たなる主体形成への中間者なのである。ギリシャ段階ではくいう論理〉は語る人と聞く人と の関係において意識されたが,聞く人はそれ自体として「永遠に聞く否定者,いわゆる『他人』 4)」で あった。それに対してく社会層に迫れる意識層〉としての否定者・他人の出現は「社会的作用の絶

対的本質45>」の具現なのである。「意味の拡延的方向(p.265)」,「意味の量的構成(p.267)46)」の方向

への衝動の顕在化である。

 では,概念を使用する人,話す人はどのようにとらえられていたのか。個的主体であるとされてい たかというと,そうではない。ギリシャでは主体の概念は「上として感ぜられるものすべてのもの の下に横たわるもの(pp.23〜24)」,「何ものかゆるがざるものの上に,すべてのものが置かれる(p.

24)」という関係をあらわすのである。そこでは,欠如も対立も「そのいずれも(それ自体の現象と して)独立しているのではない。」それらの根底には「連続する基礎(p.27)」がある。つまり「連続 する媒体の上に要素的に共生(p.45)」しているのであり,「基体に付属してのみそれは対立してい る(p.27)」のである。中井は,そのような主体を「アリストレス的基体(p.35)47)」と名づける。語 る人も聞く人も基体的客体に付属しているものとしての主体なのである。また,ここでは語られる 事柄(聞かれている事柄)は語る人から発しているという意味で,語る主体にプライオリティーが ある。語る一聴くの関係は基体的主体・トポスを介する移行の関係ととらえられている。プラトン        ことわり は〈知の分有〉について言っている。r理(ロゴス)はさまざまの仮説(ヒュポテーシス)を絶対 的始源とすることなく,文字どおり〈下に(ピュポ)置かれたもの(テーシス)〉となし,いわば,

踏み台として,また躍動のための拠り所として(問答の力に拠って)取り扱いつつ,それによって,

ついにもはや仮定でないものにまで至り,万有の始源に到達する。そしていったん,その始源を把 握したうえで,今度は逆に,始源に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に

至る♂8>」

 オングはこれを,語られたことがらを「聞き手が[その語りの場の中で]集団的なしかたでうけと

めることconventional realization 」の関係ととらえている。ある定まった仕方で語られた事柄を定め

られた文脈の中にそのまま再現すること,写しかえること,置換することがいつでも出来るように

      .      

なることが聴くことであり,それを行うのが聞く主体である。幸田露伴は,「厳とした一定した辞の

     ■       の       

連なり」,「作家が定めたる辞の連なり」を有しても「なお僅かに文字に録さるるに至らなかったも の一殆ど文章といってよいが僅かに文章といひかぬるものの存在したことは,牢記していただかね ばなりません。」このような時代にはく伝言甫的〉にのみコミュニケーションがなされていたのである,

と指摘している(r幸田露伴全集(25)』岩波書店,1979,pp.266−267)。ここでは語る主体と聞く 主体の相対的独立性はまだ意識されるに至っていない。〈語部〉について竹内勝太郎が重要な指摘

をしている。原始民族にあっては個と集団との関係性が意識にのぼることはなかったので「個人意 識の目覚め,我の自覚はなかった。」しかし,全体としての「感覚はあった。然し感情は個人意識に 於けるそれではなく,集団に於ける民族全体の共感的感動の如きものに過ぎなかったであろう(p.

25)。」が,それは相対的分化・独立のないレヴェルでの精神生活の創出物であり,神話である。そ

して,この神話に「表現の意味が加わって来(p.26)」るのである。集団のすべてに対して現前させ

(14)

られる必要が神話にはあるからである。神話的表現には「秩序と方法とがなければならない。秩序 は形式を与え,方法は内容を在らしめる(p.27)。」この意味で神話は,神の創造物なのである。この,

主体一般としての神と個々の主体は「直接交渉する道がなかった。薮に仲介者の必要が生じた(p.28)」

のである。一方は「神の言葉を知らなかった」し,「神も又彼等の言葉を知らなかった(p.27)」から である。この仲介者は,第一義的にはく神の言葉〉を伝えるのである。「繰返して口に唱へ(p.29)」

       かたりへ

る。それ故に「古語に現れる語部と云ふのは恐らく神話の叙事詩を語り伝へる処の部族,これを歌 謡的音楽的に表現するのみでなく,すすんで之を創作する処の職業階級の謂ではなかったらうか(p.

32)」と竹内は言う。語ることは,記憶されるべき共感的感動を表現されうるものにもたらし,伝え ることである。その上,語り方は音楽的である。「言語及語勢(音数律的韻律)の制限(p.6)」に基 づくパターンをもつ。r神話の韻律。それは詩の韻律としてもっとも単純な音数律。一神話を唱へる         レトナンス

為に,発声的には調子の高低と広狭とがなくてはならない,精神的には感情の強弱と明暗とがなく てはならない,生理的には息の長短と緩急とがなくてはならない。それ等のものが言葉の美しさで ある。そして人の心に記憶を刻みつけるものはこの美しさの力である(p.29)5%」この点に関しては,

福士幸次郎も次のように指摘している。「詩歌,音楽,舞踊が所謂三位一体の関係を採ってゐた事」

は「古代人がその言語の中に音数の意識を発生するに到ったこと」からくるのであり,それは「飽 くまでも言語と詩歌の関係範囲に属することではないか。内部に於いてはリズム,外部に於いては        ヨ 此のリズムの性質を異にするものを三つ関与させて諦み歌ひ踊ったといふ事を同時に落合せ,それ

自身のものに基き互いに発展させたといふ事以上には何も関係がないでは無いか。51>」

 また,柳田国男は,語ることは「定まった語辞と句形とを用いて,特に印象を深く(p.33)」する ようになされたのであり,「意味の記憶」のためには,それらのく群の力〉〈群の型〉〈群の合唱〉,

即ち〈定型〉の「飽きるほど数多くのくり返しと鑑賞とを必要としている(p.120)52)」と指摘してい

る。ヨーロッパの場合については,C.レンフレーが同じように指摘している。古代の人々は「膨大な

量の言語情報を記憶に頼っていた。」ホメロスの叙事詩は数世紀にわたり記憶による伝承がなされて

から,「歌の形で伝えられた(p.33)」あとに,書きとどあられたのである。記憶の形式と伝達の形式

は別々にあったのではなく,古代の人々の存在様式そのものの二様相としてあったのである。「言語

は伝達機能だけでなく,排除の機能を持つ。」一定の社会組繊への所属意識と社会意識そのものとし

      

ての記憶からの排除・疎外意識とが,上記の広義の意味での言語を媒介として生ずるのである。「言

語は民族(ethnicity)の,集団意識の重要な構成要素である。言語領域は」民族の存在空間・活動空

間によって決定され「意識的に保持・継続される。言語の空間的行動とその範囲を決定する際に大

きな役割を果たすのは社会組織の特質(特性)である(p.145)53)。」ギリシヤ人にとってバルバロイ

とは,同一の言語組織を共有しない民族という意味であった。念のために言えば,古代におけるく

音楽体験〉にあっては「『わたしが歌っている』と『それが歌われている』とを区別することは門な

かったのである。〈語る〉ことは,定型のくりかえしであり,その定型を分有・共有することが記

憶することであり伝えることなのである。定型を分有・共有することによって共通の存在形態をも

      の

つことになり,組織的所属感が生ずる。ここには定型の時間的・空間的,量的延長がある。具体的

な担い手は個体であるが,それは個としての自律性をいまだ有していない。いわば〈次の時間・次

の空間〉,〈次の場〉を満たすものとして在るものなのである。存在は非存在によって繋がれ,担

われるのではないのである。トポスは非存在ではないのである。

(15)

 〈いわれる論理〉にあっては,聞く側がいかに理解したかを表現すること,伝え返すことはfUr・sich な問題にはなっていないのである。「一つの言葉は一つの意味を志向した」のであり,それが「師伝 口伝で55)」語り伝えられたのである。語ることの背景には人格が想定されている。T.ホッブスは1651 年に「人格とは,rかれのことばまたは行為がかれ自身のものとみなされるか,あるいはそれらのこ

とばまたは行為が帰せられる他人,またはなにか他のもののことばまたは行為を真実にまたは擬制 的に代表するものとみなされる』人のこと56)」と定義している。語られる事柄は語る人の personal intelligence 57}の発現なのである。語られる事柄や行為が帰せられるか,それを擬i制的に代表するの が人格であり,人格をはなれて言葉は意味をもたないのである。この人格は,いまだ語りえない人

(聞く人)との「連続的同一性5門の関係においてとらえられているのである。しかし,この関係に は次にみるような新たな矛盾も内包されているのである。

皿一2.〈集団的主体性〉の成立一観測主体から集団主体へ一

 主体そのものは静止的・実体的なものではなく,さまざまな発展段階を経つつ,自からを変換させ てゆくのである。主体は主張すること,観測することによって基体的なものから観測的主体へと自 からを変容させてゆく。聴取は瞑想,観察,主張を促すことによって,主体相互の間の「問いと答 えの交換」,「会話による思想交易59)」を生み出した。そして聴取された事柄は他者に対しては,聴取 者によってく書かれたる問い〉という形態においてより広い時間・空間に投げ出された。が,これ にとどまらずに書くということの人格的な関係からのEntfremdungとしてのく印刷される論理〉・機 械によって印刷される論理が,みずからをすべての他者に対するFrageとして性格づけることにな

った。

 観測主体とは,瞑想し観る主体であり「実験(観察すること)および経験(表出すること)」の「総        くママ ラ 合的統一体(主観)(p.35)」である。観察は主体が「自然に加える一つの切断Schnit(p.34)」であ

り「重大なる思考法(p.34)」の獲得であるが,より重要なのはそれを行う主体の「静力学的世界像 より動力学的世界像に移ったともいうべき基礎的転換(p.34)」である。「みずからをみずからの対象 とすることの自立性と自由性(p.44)」を備えたことである。そのような主体が相互に等価な主体と して発話(確信の主張)を自から書き記し,発話の方向を自から定め,自己を自己として対象化す る関係・場を獲得するのである。それはもはや自然発生的な個及び経験に還元されえない新しい関

      ■         係性・主体性である。とは言えこの主体性は「みずからの内面の中に(是認の)連続と非連続の二

       ロ

契機のアンチノミー的な動揺をもっていて(p.44)6°〉⊥メディアそのものの変換性については十分に は自覚していない。書くことはこの経験の独立性をもたらしたのであり,書くことによって経験相 互のコミュニケーションの可能性が自覚されたのであるが,コミュニケーションを支えるメディア

に関しては自然発生的・個的レヴェルでの理解にとどまっているといえる。

 しかしく印刷される言葉〉が出現すると経験の有効性と経験そのものの範囲とが,より一般的に対 象化されることとなり,逆にこの経験の即自的な意味の承認にとどまるのではなく,それがいかな る条件のもとで為された経験であり,獲得された経験であるか,経験の質が問われることになる。経 験は,単に相互に了解しうるという黙契のもとでなされるのではなく,矛盾,対立を含み批判的に

とらえられるものとならざるをえない。〈書かれる言葉〉の段階までは,即自的・自然発生的・生

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