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明治後期の外国史教育

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明治後期の外国史教育

社会科学鮪研究室 満 井  隆 行

ここで明治後期とは,歴史教育における三区分法が提唱された明治27年(1894)から,

同35年(1902)の三区分法による歴史科教授要目の制定を経て,同44年(1911)歴史科教 授要目の改正にいたるまでをさす。後進国B本が,半世紀足らずの間に,はやくも世界の 強国と自負し,欧米列強とくつわを列べて,世界史の上に躍進した時代である。日清役 後,従来の国粋主義とはかわつて,高山樗牛,木村鷹太郎,井上哲次郎らによる日本主義

が高調されたが,それは日清戦後の国家意識を反映した国家至上主義であり,一面帝国主 義的でもあつた。世界的日本人の旗印のもとに,「強き日本人」の育成をめざしたことが

,これ以後の教育の動向となつた。日露役の後,明治末年になると,いちぢるしく伸張し た対外国権主義,国家主義的な国民意識の拡大とともに,この傾向は理論的な基礎づけが 完成されたが,他面また自然主義,個人主義,社会主義等新しい思潮の拾頭があり,これ

らに対する政府指導者層の教育的対策がおしすすめられた。(内山,熊谷,増田共著近世

日本教育文化史)

ここにとりあげた明治後期はまさに日本の勃興期であり,大正期の興隆時代を経て,昭 和期における病的なファシズムにいたる過程であつたにせよ,そこにはなおいくばくかの 健康な要素が残つていないだろうか。人正期を経て昭和期にいたる過程はどのようにすす められて来たのであろうか。

明治後期の外国史教育のうえで,それらはどのようにあらわれているであろうかを追求 せんと試みたのが本稿である゜

1 三区分法による歴史教育の胎動期

(1)動   向

この期は,明治27年から,同34年までをさす。三区分法による歴史科教授要目が制定さ

れるまでの期間である。対外的には,日清戦争,三国干渉,改正条約実施,北清事変など

がおこり,第一次日英同盟・日露戦争をむかえんとする時期であり,内には,日清役後の

陸軍師団の増加,社会問題研究会の成立,治安警察法公布,日本社会民主党の結成(即日

禁止」などの事件がつづいた。

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歴史教育における三区分法の成立は,江戸時代の洋学,漢学,和学の伝統を背景とし て,明治期になり中等教育の上で,それは万国史,支那史,日本史の形で展開し,明治27 年,那珂通世の提唱により,西洋史,東洋史,日本史として成立したものである。

西洋史の成立が,従来のヨーロッパ的万国史(内容は主として西洋史)から,日本人に よる日本人のための西洋史を志向したものであり,東洋史の成立は,あきらかに西洋史に 対して世界史の一半を形成せんとするもので,開国日本のアジア意識,乃至は世界意識に つらなるものであつた。またそれは,日本史を知るには支那史を明かにせねばならぬ,支 那史を知るためには,それと密接な関係のある傍近諸国との連関をあきらかにせねばなら ぬとする当時の所謂科学的歴史という観点に立つものであり,さらに,西洋文明に対する アジア文明の価値づけ,日本と東洋諸国との関係は,西洋とそれとの場合にくらべてより 密接なることの自覚,東,西両洋の交渉,ヨーロッパ勢力の東漸に対する関心などが,東 洋史教育成立の要因をなすもので,ヨーロッパ勢力の東進に刺戟され,これに対処せんと する性格をもρ。

東洋史教育の成立が,教育界の要請により,教育界から生れたものであつても,その背 景には,明治27年当時の文相井上毅の国家主義,国権主義的の諸政策があることを考えね ばならない。歴史教育が教育である以上,そこには当然教育目的があり,その目的如何は 別として経世的性格が出るのも自然であろう。リースの弟子である田中粋一・郎の東邦近世 史上・下(明治33−35)にのせられた那珂通世の叙文に,欧州の文物の興隆する所以,西化 の東漸する所以,新旧列国勢力の消長,東西学芸の異同優劣のごときは,経世家のまさに 研究すぺきところであるのに,東洋諸国の歴史にいたつては邦人の精究が足らない,大陸 に変あるを聞くごとに対岸の火災視し,その因を知らず,ましてその果を察することはで きない,征清の役が起ると邦人は眼を西隣にそそぐ,しかも平時は大陸の史を講究しな い,したがつて国勢民情を知らないから,経略の術もつたない,朝鮮,台湾における不成 功はその例である,支那に対しても,ふるつて彼地に入り漢民を提醒してその文化をすす め,以て我が義を伸べ,我国を利する者がない,今アジアの大部分は西人の編制をうけ,

その郡県となつているのに,貿易などで邦人の力を用うる所はなく,邦人は大いに東洋に 雄飛せんことを欲しているのに,ことごとく外人の先制にあつて振起することができない のは,彼はよく東洋の事情に通じ,我は却てこれに通じないからである。東洋に屹立する こと数千年の皇国が,今や東洋の安危に任ずることができないとは慨すべきである。東史 講ぜざるべからず,その近世史は最も講じなければならないとある。〔註1〕

同書の著者の序にも,西隣の老帝国が世界列強争閲の地たることアフリカ大陸の如くな

らんとするを見,また東隣の共和国がその伝統の鎖国政策を実行しないのを見れば,ロー

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満井:明治後期の外国史教育      75

マ・チュートン民族東漸の事蹟,即ち世界史の東洋における開展の顛末を知るのは,今日 最も必要であるとのぺている。p

東洋史教育当初の性格は,西欧勢力東進への抵抗,日本のアジアにおける位置にもとづ く経世的な意図があつたことを,以上によつても如実に知ることができる。

しかし,日清戦争の勝利によつて一躍世界列強の仲間に入つた日本人には,ようやく慢 心がきざしはじめて来た。それまで相当の敬意をはらつてきた中国人をチャンコロとさげ すむようになつたのはその一つの例である。

東邦近世史(下)に,日本は日清戦役の後,東亜に於て頗る重要な位置をしめ,欧米の 諸大国と相下らざるようになつた。日本はすでに有形の事物においては,欧米の長所を採 用するに汲々たる有様であるが,無形の事物一単に知識をいうのでなく,ことにその道 徳をさす一に於て果して如何,如何に日本が泰西の文物を輸入しても,其精神を輸入し なければ新制度の活用はできない,西化東漸の大勢にさからい排外思想を養成するにつと めることは,折角進歩した日本を再び退歩せしめ,欧米諸国の下風に立たしめんとするも のである。得意の極日本をして知らず知らず維新当初の国是を忘れしめんとする傾向が あるのは憂慮にたえないとのべている。まことに先覚者の言というぺきである。

② 外国史(東洋史)教科書

この期の東洋史教科書はその性格が多彩で,児島献吉郎の東洋史綱のような,バビロン,

アッシリア,ペルシアを含む列国史型の広義の東洋史があり,大槻如電の東洋分国史,高 山栄一校閲の中等東洋史のような狭義の列国史型が見られる。西村豊の中等東洋史は全く の支那史であつた。しかし,宮本正貫の東洋歴史をはじめとして,東洋史教科書の白眉と される桑原隅蔵の中等東洋史など,ほとんどが,中国を中心とする通史型の狭義の東洋史 であつた。 〔註2〕

一般にこの期の東洋史教科書は,最初に総論あるいは序論があって,東洋史の概念,地 理,人種などを説く,これは東洋史という新しい科目についての説明を要したものであ

る。紀年はほとんどの教科書が皇紀を用いているが,日本史との関連を重視したあらわれ である。

高山栄一校閲の中等東洋歴史(敬業社編明治31年刊)は,中国を中心として東洋諸国の関係 連絡を記し,更に別に東洋諸国(朝鮮・印度・避羅・安南・緬旬)の興廃を分叙したも の。総序で,東洋歴史は支那を中心として,周囲における関係諸国の連絡を叙述すべきも ので,徒に東洋諸国の歴史を臆列すぺきものではないが,各国の変遷を知らなければ,相 互の関係も明らかにできないと述べているのは一見識である。

日清の交戦のところで, 「光緒二十年(日本明治二十七年)朝鮮又内乱あり…遂に日清の交戦

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となる…清兵大敗す,京師大に震ふ」とし,明朝の章で日本の来侵として豊臣秀吉の朝鮮征伐 をのべ,鴉片戦争では英艦来憲とし,台湾事件では日本の来冠とし,伊梨事件では露国の 侵略とし,日清の交戦では日本来憲とするなど,中国側に立つ中国史という性格で,大槻 如電の東洋分国史とともに,このような教科書は当時としても珍らしいが,後には全然見

られなくなる。

ただし,支那歴史の総論で「支那の国躰は其初禅譲放伐を以て起り,賢徳の強者国命を執りた り,故に日本の如く万世一系にあらず,王家の興亡頗る甚しく命を革め号を更へ……」とある。輝 譲放伐による日支国体論は,大正期以後の多くの教科書に記されているが.この書のそれ はその濫膓ではあるまいか。

長髪賊の乱のところで,「広西の洪秀全名を耶蘇教に籍りて兵を起し,書を作て愚民を煽動す」

とのべ,ここには,中国人の民族意識は未だ認識されず,この乱の歴史的意義も説かれて いない。その頃は清朝治下の中国であつたからであろう。清朝滅亡後の大正期になると,

日本の東洋史教科書にもこの乱のもつ排満思想が説かれる。その社会的意義が説かれるの は,終戦後の世界史教科書にあらわれる。

中等教科東洋歴史(文学士藤田豊八著,明治29年刊,同32年改正再版)は,年号はすべて支 那を用い,紀元は皇紀を用いている。民族の角逐,国家の興亡,内治外政の推移,帝王名 臣英雄豪傑の事蹟が詳しい。その構成は,上世(太古一秦),中世,近世(元代以降)の 三区分で,漢族と外族との勢力消長を軸とし,アリアン種と蒙古種との衝突を以て現代史

(清代)の特色とする。民族史観である。これは桑原騰蔵の中等東洋史に於て整理され,

大正期の山下寅次の統一中等歴史教科書で,漢族北ぢ火一起一廃の形勢による明確な時代区 分がなされる。東西両洋の衝突について,この書では,ギリシァとペルシアの戦争を以て 東西両洋衝突の最初とし,アレキサンダー大王のペルシア,印度遠征を以てその反動とし ている。しかし,イギリスの印度統治を讃美して,「二千五百四十年(明治十三年),ロード

リットン大総督となり……自治制を布き,普通教育を奨め,出版の自由を与へ,道路,鉄道,電信,

郵便等の便大に開け,土人業に安んす,古来印度人は,未た嘗て此の如き泰平に浴せしことあらざる なり」と。

一方ロシアに対しては,日清戦争の経過を詳記したあと, 「日本遂に遼東半島を還附する こととなる,是より露国の東洋における専恣漸く甚だし」としているのは,当時における日本 人の対英,対露の国民感情の反映であろう。

東洋史教科書では,中国や朝鮮満洲などをどのように取扱つているかを検討すること

が,一つの目安となるが,それが国家主義を基調とし,軍国日本を背景とするものである

以上,その中国観,朝鮮観は,ことに明治以降の諸事件について,非をすぺて先方にか

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け,日本のみが正しいとするものが圧倒的である。尚日清戦後,中国蔑視の一つの例とし て,本書に,支那沿海の民は利のために義を顧みず,国家の公をすてて私を営む,諸外国 に出るもの頗る多く,貴賎となし阿片姻をこのみ一国の元気を損耗すとのぺ,男子の貴き ものは手瓜をのばして寸余にいたり,女子はまたその足を緊紡するとのべて,国家主義的 見地から批判し,またその欠点をあげてその風俗を紹介している。

東洋史教科書が,中国の古代史をどう取扱つているかも一つの問題である。初期のもの ほど伝説的要素を多分に取入れている。三皇五帝の記述にせよ,これを一応伝説として取 扱つたものが多いが,伝説と史実との限界が不明確である。亀甲文字の写真などがでて,

科学的となるのは大体昭和期になつてからである。もう一つの特色は初期の教科書ほど尚 古史観(儒教史観)が強いことで,本書も,尭舜の時にいたり人文開け,支那の史蹟是よ

りして較々述ふるを得べしとし,後世学者の最も称述するところであるとしている。

朝鮮をどう取扱つているかについて,その一例をあげると,新撰東洋史(修史館編明治 31年刊,同32年訂正再版)に, 「百済は……我が国に通ぜしより,忠誠にして常に貢献を欠かず・

漢学及び仏教を我が国に伝へしはこの国なり」と記し,明治初年以来日本はつとめてこれを扶 助し,終によく独立国たらしめたとしている。

新撰歴史東洋之部(文学士坂本健一,文学士江崎誠合著,明治32年刊) は・めずらしく西紀 を用いている。民族史観であり,漢族を中心とし蒙古,通古斯(つんぐうす)の二族を加 えて東洋史の三大族としているが,ヒ耳古(とるこ)族は東洋史中の諸種族の一つとして いるにすぎない。また,高麗半島の南部より我邦にかけて日本族があり,日本及三韓諸国 を起したとあるのは,桑原階蔵の中等東洋史に,日本族は朝鮮半島の南部より我国にかけ て蕃殖する人種で朝鮮の韓族はこれに属するとしているのと軌を一にする。日韓族といわ ないで,日本族としたところに問題があるのではないか。

新選東洋史(山崎庚午太郎著,明治33年12月刊) は,最後の章が今迄の東洋史教科書には 見られぬ「世界に於ける東亜諸国の現勢」である。明治35年の教授要目で・東洋史の最後 に,「世界に於ける東亜諸国の現勢」を設けたが,それに先行している。日く「この役や北 清事変をさす)日本の軍隊は毎戦先登の功を奏し世界の列強国をして羨仰せしめたる所甚だ多かりき.

されど今後の趨勢は決して甘心すべからざる者あり,吾等東洋の最強国なる日本に生れて,東洋の覇 権を握らむと欲するもの量一日も安眠高臥すべき時ならむや,鳴呼,東洋の天地はいよいよ多事なら むとす頷らく世界の大勢・通じて,国民の本分を尽さざるべからず」と・日清戦勝に意気のあ がつた強国日本の自負であり,軍国主義謳歌である〔註3〕

この頃における東洋史教授の実状はでうであつたか。

新編東洋史要(文学士野村浩一,文学士本多辰次郎共編明治34年刊,同年11月訂正版)の緒言

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に,正確な知識を授けるため,また中学生の漢文の素養が乏しいので,近世の歴吏を梢々 詳述し,最も簡単平易な教科書としたとあり,また歴史教授の実状を見ると,上古中古の 部分は詳説して明瞭に教授することができるが,比較的必要の多い近世の歴史は時間不足 のために説明簡略にすぎ,甚しきは欧人東漸以後現今にいたる歴史のごときは,その概略 をも説明せずに終るものがあると記している。一般に教科書は近世にいたるに従い次第に 詳述する傾向にあつたが,教授の実際はその反対であつたことが分る。今も昔もこの点は 歴史教育の一つの盲点であろう。

中学東洋小史(下村三四吉編明治32年刊,同35年修言』9版)もその弁言に,中等教育で東洋 史は最も困難な学科であるとしている。各節の標記と設問を折衷して,毎章の終りに要目 撮記をつけ・生徒の統括記憶の便に供している。文章は漢文調をさけ,よみやすく,分り やすい。

東洋史教科書で検定不認可となつた西村豊編の中等東洋史 (明治33年刊,東京書籍株式会 社・東書文庫蔵)に・不認可とした理由を記した符箋がついている。それは,④,字句が 難解で,誤解しやすい古書中の字句を転用して文章が流暢でないこと,⑰,全部支那に関 する記事で・秀吉征韓以前の朝鮮や,近年における東亜の状勢など必須の事項を省略した こと,の,東洋史の範囲,地勢,種属の一班を初めに記すぺきことなどをあげている。日 清戦争のところに符箋して,「日清戦争ノコトヲ簡単二記セルノミニテ近年東亜ニオケル 西力東漸ノ情勢ヲ述ベザルハ不可,現今東洋二独立国数国アルコトサへ知ルノ便ナキガ如 シ」とあり,これらは文部当局の東洋史教育の方針をうかがうことのできる好材料であ

る○

新撰東洋史(津田左右吉編明治34年11月刊,東書文庫蔵) も検定不認可であつた。多くの 誤字・誤植の個所に符箋がつけられ,訂正されているが,そのうち仏教の興起についての 本文・「婆羅門はおのつから思索の道に耽るに到り,・…其根本思想たる万有神教と……厭世思想及 び輸廻の説とは,学者をして解脱の問題を攻究せしむるに至り……禅定は解脱の要道として説かれ…

・釈迦族の一王子悉達程曇の出家成道して仏(覚者)となり,衆生済度のために四諦十二因縁の教を 説き……」,以上について・ 「此ノアタリ中学三年ノ学生ニハ困難ニアラサルカ」「難キ

二失ス」などの符箋がある。史実の誤りについて,一例をあげると,本文に,忽必烈の 時,羅馬法王や仏蘭西王が使を遣したとあるに対し,羅馬法王の遺使は元の定宗の時,仏 王の遺使は憲宗の時なりと訂正されている。史実の検索に熱心であつた当時の学風の一班

をうかがうことができるQ

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2 三区分法による歴史教育の確立期

(1>動   向

この期は三区分法による歴史科教授要目が制定された明治35年から,その教授要目が改 正された明治44年までをさす。この間,対外的事件には,日英同盟,日露戦争,第二次日 英同盟,韓国に統監府設置,日仏,日露協商,韓国伴合,第三次日英同盟,関税自主権の 確立などがあり,国威の一層の振展をみたが,国内では,赤旗事件,大逆事件なども起

り,自然主義,自我の尊重が叫ばれ,国家主義教育にとっては困難の時代であった。

明治37年2月の文部省訓令第2号の中に,陸海の軍人が死を決して戦い,報苦鉄乏を忍 んで国家に報ゆる精神を移して,教育に従う者及び教育を受くる者の精神とすることが要 請され,〔註4〕,明治38年2月,文部省訓令第3号で,忠君愛国の精神は我国体の精華で

あり,国民の特長である,今回の戦役で陸海軍人,一般国民が挙国一致してよく開戦の目 的を貫徹することにつとめたのは,皆この精神の発現に外ならない,教育にあたる者は深

くこれに鑑みるぺきことが強調された。明治41年には成申詔書が発せられ,同44年には桂 首相に勅語を賜わり,その中に,人心ややもすれば其の帰向を謬らんとしている,政を為 す者はますます憂勤して業を勧め教を敦くし,以て健全の発達を遂げしむぺしとある。こ れは所謂大逆事件の直後のことであつた。

明治44年7月31日,中学校令施行規則の改正があつた。明治34年制定の施行規則の第5 条第1項中,「国膿ノ特異ナル所以ヲ明ニスルヲ以テ要旨トス」を,「国膿ノ特異ナル所 以ヲ明ニシ兼テ国民性格ノ養成二資スルヲ以テ要旨トス」に改められ,忠君愛国の精神が

より一層強強調された。

毎週教授時数

学 年 1 2 3 4 5

1学期12.3学期

科 目 日本歴史 日本歴史 東洋歴史 西洋歴史 西洋歴史 日本歴史

時 数 1 2 2 2 2 2

ただし,外国歴史を従来のように東洋歴史,西洋歴史とせず,甲,支那ヲ中心トセル東 方諸国,乙,西洋諸国,と分けている。また第5学年で従来は日本歴史と西洋歴史は毎週

1時間つつ併行してやつていたのを,上表のように改めた。

「日本歴史」の内容は,「神代」より「明治戌辰ノ役」までを第1・2学年で教え,

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第5学年で明治以来の現代史を詳しく取扱う。朝鮮半島の歴史が日本歴史の中で詳しく取 扱われているのは,日韓併合の直後の教授要目であるからである。「外国歴史甲支那ヲ中 心トセル東方諸国」では,「上代の支那」「夏股周」よりはじめ「清国に対する諸強国の 圧迫」で終る。日本歴史,西洋歴史の場合と同じく,この改正では時代区分はされていな い。しかし項目の数が精選され,一見して歴史の大勢が把握できるように考慮されてい

る。西欧列強のアジア進出についても,「莫臥児帝国 葡萄人ノ来航 通商及宣教」「聖 祖 高宗 清露ノ交渉」「英国ノ東方経略」「鴉片戦役」「長髪賊 英仏軍ノ侵入」「露 国ノ満洲経略」「露国ノ中央亜細亜経略 伊黎事件」「仏国の印度支那経略 清仏戦争」

「清国二対スル諸強国ノ圧迫」となり,従来のものに比ぺてすっきりとしている。

「外国歴史乙西洋諸国」の内容は「太古ノ東方諸国」よりはじめ,「哩細亜二於ケル欧 米諸国ノ経営」 「亜弗利加及大洋洲二於ケル欧米諸国ノ経営」 「最近文明の進歩」で終

る。

教授上の注意のところで,その第1項に,「特二我国膿ノ特異ナル所以及大義名分ヲ明 カナラシムルコトヲ主トシ,」また第5項,外国歴史についての留意事項として,「我国 農ト背馳スルカ如キ事歴二就キテハ彼我国情ノ異ナル所以ヲ明ニシ 生徒ヲシテ誤解ヲ生 セサラシメンコトヲ期スヘシ」とあるのは,従来のものには見えない・国麟重の鞘が

一層強調されている。 (以上,明治以降教育制度発達史5参見)

(2)外国史(東洋史)教科書

東京帝国大学で,国史学,支那史学,西洋史学の三科が設けられたのは,明治35年であ り,支那史学が東洋史学となったのは明治44年である。

この期の東洋史教科書には,多少異色のものもないだはないが,すでに前期のような多 彩さはない。またその性格も日本人としての東洋史の色彩が益々濃くなつた。

多くの教科書が狭義の東洋史であったうちに,新撰東洋史 (文学士坂本健一,文学士高桑       _一一 誾g合著明治34年刊,同35年3月再版)は,世界史的色彩の強い広義の東洋史である。例言

に,東洋史は支那を中心として東亜細亜に於ける人文の発達を知らせることを旨意として も,漢人種の発達変遷のみを記すのが能事ではない。漢人種以外に東洋史上に顕著な活動 をした諸人種の発達変遷は個別であって,漢人種との関係は少ない。単に支那の史実によ って時代を劃すことは出来ないとして,時代区分はしていない。教授要目とはちがった見 識を示している。

紀年も西洋史との比較対照のために,キリスト紀元を用いている。朝鮮満洲などの東方 諸国はもとより,中国以外の部分を章としてまとめたものが多い。

那珂東洋小史(文学博士那珂通世撰,明治36年刊,同37年3月再版) も・この型である。教

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満井:明治後期の外国史教育       81

授要目にのせられない事項で特に一章を設けたのは,「東方諸国の古史」「大月氏,仏教 の東流」「北西諸国 (突厭・鉄勒・波斯・大食・吐蕃・印度)の盛衰」 「宋代の西域諸 国」の四章である。自序に,東方諸国の事は我国に関係最も深く,その他の事項は何れも

アジアの大勢を知るに關くべからず,要目にこれを載せないのは,他の場所で付説させる 意向であろうが,事項多く且つ重要であつて,付説では収まりにくい,坂本。高桑両君合 著の新撰東洋史にもこの四章が設けてあるので,自分はそれにならったとある。那珂通世 の構想は,中国を中心とする単なる狭義の東洋史では満足しない,中国史を中心としなが ら,広くアジアの大勢を説述している。

その古代史は如何,自序に,この書は古来の謬説と世俗の誤伝に雷同しない,有史場前 の聖王の伝説のごときは後世の想像から出たもので,年代・世系・国都・事業などたしか なことは不明である,尭舜より後のことは尚書という古書に記されて,事蹟がやや明らか であるとし,唐虞三代から史実としての筆を執っている。今日から見れば十分ではないと

しても,その科学的合理的な態度が顕著である。

「日清の戦役」のところで「かくて両国の天子は同日八月一日に宣戦の詔を発せられたり」と し,義和団の乱のところで,「清帝・皇太盾は,難を避けて西安に奔り,:…冊五年(明治)の 初めに,両陛下は還幸せられたり」 と清国の天子に敬語をつかい,義和団の乱の後,両国の 交情頗る前時に異るは東洋の平和のため嘉すべしと説き,中国を侮辱する言葉はない。し

かし,三国干渉をのべた後に, 「大陸には領地を得ざれども,昔我が辺民の拠れる高砂の島は,

永く我が領有に帰せり」とし, 「台湾は古より支那に属せず,元和の頃は,我国の亡命の民,其地 に拠り,高砂(タカサゴ)と呼びしが,寛永中和蘭人に奪はれたり」 と,台湾領有の歴史的背景

を日本に有利に説述している。

さて,この期の東洋史教科書にあらわれた現代(時局)認識をたどってみると,刷修東

洋史綱(丸井圭治郎著,明治33年刊,同35年12月冊修)に,「鳴呼,東洋の最古国,最大国たる支那

の現状斯くの如し……我邦を除きて独立の髄面を全くし得るもの何くにかある……今日欧人の垂庭す

る所果して何れの地ぞ,一・・東洋の平和を維持すべきの任務は,我国民の双肩にかかれり」 と。前

掲の新撰東洋史に,「清国の近状は動もすれば他国の干渉を若起せんとし,一・・之に反して欧州列

強の勢力は時と共に増進し来り,……東洋は今後益々多事ならんとす,我国民たる者深く意を我邦の

位置と隣邦の形勢とに注ぎ,憤発励精国家の為め力を尽さざるべけんや」 と。那珂東洋小史の叙

述は平静で,別に国民の覚悟とかは説かないが, 「新世界の一大国(米国をさす)と旧世界の

四大国(英・露・仏・独をさす)とは,その本国は大西洋の両岸にあるにも拘らず,今は東洋の五大国

となれり」「亜細亜の中にて独立国と称すべきは,日本・清・韓・逞羅・波斯の五国に過ぎず」 「日清戦

争の後,我国の実力は始めて世界に知られ,これより文明諸国の仲間に入ることを得,冊三年北清の

(10)

役の如きは,我国実に最も多く力を致せり」とある。中学東洋史(文学士小川銀次郎編明治35年 2月刊,同年5月再版)では,「満洲撤兵は未だ決せず,清国の改革は未だ完からず,今後東洋の 形勢果して如何)と憂へ,中学東洋歴史教科書(坪井九馬三著,明治36年3月刊)は, 日清戦 役後,東アジアの地はヨーロッパ諸列強折衝の区となり, 「本邦の如きは今後益々多事なら んとす,故を以て我国民は深く意を本邦の位置と隣邦の形勢とに注ぎ,国家の為に益々憤励尽力さぜ るぺからず」と結ぶ。

中学東洋歴史(文学士伊藤允美撰,明治35年刊同36年2月訂正版)は,東洋に於ける欧米列 国と日本の地位のところで, 「特に露国は……すでにシベリアを略し,なほ翼を満洲に伸べて,

事の乗ずべきを待てり・・…未来に於ける世界権力の争点は,実に東洋に存すること一日も忘るべから ず,東洋目下の大勢かくの如きに当り,ひとりわが日本のみが東洋に於ける独立国として……よく欧 米の列強と馳駆することを思はば,わが国民,将来の責任の重大なること多言を要せず」と。

康有為の改革については同情的であるが,これは後に至るまで東洋史教科書の一般的傾 向であった。

日清戦争,三国干渉,北清事変を経験した東洋史教科書の時局認識は,もっぱらロシァ の満洲駐兵にむけられ,そこに圧迫されたアジア意識,直接には独立国日本,たとえ日清 戦争で勝ったとはいえ,圧迫された日本をどうするか,日本の将来の発展を期しながら,

この点が強調されている。緊張感にあふれている。

中等教科東洋史(文学士,小川銀次郎編明治37年12月刊)は日露戦争最中の著である。「東 郷平八郎は旅順港の敵艦を破り・…・・陸軍は遼陽を占領し沙河の会戦に敵軍を破り・今なほ交戦中な

り」とのべ,結論として,古来東洋に位する幾多の邦国は皆衰耗の悲境にあるが・わが・

帝国は万世一系の皇室を奉載し完全無敏の国体を維持,維新以来開国進取の宏誤に則り,

西洋諸国と交際し,採長補短し, 日清の役で我が勢威を中外に宣揚し, 「イギリスと同盟 し,アメリカ合衆国の同情を得てローロッパの一等国と干父相見ゆるに至る,この千古未曽有の時局 に際会し,この盛運に遭遇する青年は,須らく智を啓き徳を養い以て義勇奉公の精神を発揮し・益々 国光の発揚を期せざるべからざるなり」と。教育勅語の奉戴であるとともに・後進国日本の英 米依存の立場を示す。〔註5〕

東洋歴史(文学士,中村久四郎著,明治37年刊,同38年2月再版)は日露戦争直後のものであ

る。この書では,日本史との関係が重視され・世界史の一半という構想よりも・日本史理

解のための東洋史といった感じ。中国を中心とする対外交渉や西方文化の伝来のことはか

なり詳しいが。本文には,多くの逸話伝記が註記され・忠君愛国の節義をのべたものが多

く,教訓的である(例,越王勾践と苑蚕,・臥薪嘗胆・劉備と孔明・出師の表・符堅と王

猛・唐の顔真卿,宋の岳飛や文天祥・明の方孝濡など)。こういう儒教的性格は,その上

(11)

満井:明治後期の外国史教育      83

代観にもあらわれ,「尭舜共に聖人の名あり,此の時代は唐虞の治と称し,所謂支那の黄 金時代にして……」という。〔註6〕

日本がはやく国を開き,西欧文明を採用したのに,清国や朝鮮は頑迷で外人排斥をつづ けているという筆致は,初期以来の教科書の傾向であるが,清国の外に強大国あるを知ら ず,欧人東漸の問にも,猶昏睡的状態にあった朝鮮は,日本のすすめで開国し,その独立

も日本がみとめたが「清国は朝鮮を其て其藩属国なりと称して,一・・不穏の行動ありしかば,多年 堅忍の我国は義憤を発して遂に宣戦を公布し,かくて我政府,国民は一致して此大業を翼賛」,「朝 鮮は,日清戦争の後,・…我国の高義によりて独立国の名義完全し,… 国号を大韓と改め」 とあ り,日清戦争を義戦としている。日清戦争義戦観は,明治廿七・八年当時は一般国民の常 識であったらしい。内村鑑三もこの戦争を義戦として支持したが,戦勝国の位置に立つ

と,日本国民は隣邦の独立は敢て問わざるが如く,戦勝の利益を十二分に収めんとして汲 々たる有様を見て,義を信ぜずして義を唱え,口の先ばかりの親切で心よりせざる親切で あると批判,戦争の害あって利のないことを痛感し,後に非戦論者になったのである・

(近代日本思想史研究会著,近代日本思想史2)。国木田独歩の愛弟通信(岩波文庫本)にも,

明治27年10月17日付で,「若し夫れ不景気の空嘆に驚かされ,吾が義戦の大猛気を消磨するが如 き……」とある。

この教科書では,近世史の大要をのべたなかに,亜細亜の大国たる清国も列強の勢力競 走地となったが,今や保国改進の気運が漸く振興しつつありとして,日露戦後の清国の振 興を期待している。

ついで,同氏の修訂東洋歴史(明治37年刊,同40年修訂版)は,朝鮮の記事を比較的増加 し,また日露戦争後の近事が記されている。日く,日露戦役の結果,日本は世界強国の列 に入り,東洋における勢力の発展が特に顕著である,明治38年12月,統監府官制が布か れ,「かくて,千数百年の間,日本,支那及び満洲方面の諸強隣国の勢力競争場たりし朝鮮は・今や 全く日本の保護監理の下に帰するに至れり」とし,明治40年の日韓新協約の訂結で・韓国に対 する我国の宗主権益々強大となったと記し,日仏日露の協商,日英同盟の拡張におよび・

「東洋諸国の近時は大体平和なり,然れども,世界の進歩は一日も止まず,東洋の形勢亦日に新し く,又日々新なり,測り難きは世界の風雲にして,東洋の将来亦予め知る可からざるなり」で結ぶ。

朝鮮の独立,日清戦争義戦を強調した過去は忘れられて,朝鮮における日本の勢力伸展 がうたわれて、・る。

統合歴史教科書東洋史,総括,女学校用(斉藤斐章著,明治40年刊,同41年訂正再版)は,

著者が東京高等師範学校付属中学校で実施した教案に基いて編纂したもの,中国を中心と

して,東西の交渉,日本との関係を時代ごとに横断的,綜合的に叙述し,世界史的性格

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がでている。女子教育の立場からの婦徳の洒養などには言及していない。緒言で石器 時代・青銅器時代・鉄器時代の推移をのべたあたり,科学的色彩が濃い,この点東洋史 教科書としては初出のものであろう。三つの文明(チグリス,エウフラト河域・黄河・揚子江域

インドス,ガンガ河域)は,上古に於ては各自特殊の発達をしたが,年代を経るにしたがい 相互の交通開け,彼此の文明が互に影響するに至ったとしている。

忠君愛国的の色調は強くはなく,国民の覚悟などもないが,所謂神功皇后の新羅征伐を のぺたあたり,江戸時代初期の邦人の海外発展のところで,亦以て当時国民の気象を見る に足るとして,国民の海外雄飛を志向したあたりは,他の教科書と一般である。

この教科書の最も面白いところは,総括の部である。これは東洋史を終った後に,歴史 全体を通じてこれを約修するを目的としたもので,第1,我が建国・国体,第2・王朝時 代,第3,幕府時代,第4,明治時代,と分けられ,日本史の流れを中心として・東洋 史,西洋史を綜合的に略述した一種の史論で,日本人の立場から世界史(日本史を含んだ 広義のもの)の把握をねらっている。貝塚其の他の遺跡から発見せられる石器・土器の類 は,我国の土蕃たる蝦夷・土蜘蛛などの遺物であるとし,神武天呈の東征から歴史に入 り,神代は記していない。中国史観を見ると,「支那人は,質朴なる上古の風を理想として,古 聖賢を崇拝したれば,東洋文明の先進国たるにも拘らす,漢唐の際,儒学の興隆を致したる外,其の 進歩遅々として見るべきものなし……且つその政膣は君主独裁なれば,浩漸なる支那史は,国民史に あらずして,単に幾王朝の交替史に過ぎざる観あり」と。ここでもやはり,上代史偏重,中国 史停滞観が支配的である。しかし,国民史云々の点は支配者意識に立つ単なる英雄史観に 満足しない著者の歴史認識をうかがうことができる。

「ゲルマニア民族に固有なる自由の精神と進取の気象とは,古代ローマ文化と融合し,キリスト教 の感化は,その徳1生を高め,次第に近世ヨーロッパの文明を胚胎したり」 とのべ,ここに自由・

進取のヨーロッパを推奨し,支那で塞外の蛮族が支那国内に侵入した点,これと似ている が,此にあっては北狭が支那文化に親しみ,却てその武勇の精神を失ったために亡んでい ったとしているのは,後にいたるまで東洋史校科書の一般的傾向であるが,こういうとこ うにも軍国日本の色彩が見られるのではないか。

ポーツマス条約によって極東の戦雲収まり,日英同盟の拡張,日仏・日露協約が結ば れ,東洋の平和が永く保証されたのは,ひとり我が国の幸福のみでないと結ぶ。この点,

新編東洋史教科書(増沢長吉編明治40年刊,同41年2月再版)でも,我国民たるものは韓国 を保護誘導し,清国を奨励し以て東洋永遠の平和を維持するの責任あることを忘れるべか らずとしている。

中学歴史教科書東洋史之巻(文学士小川銀次郎編明治42年刊,同43年1月修正再版)は,明

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満井:明治後期の外国史教育      85

確な知識をあたえるとともに,最も健全な思想を助長せしめんことを期したものだが,統 監府を謳歌して,日本人を韓国官吏に任用することを定めて益々保護の実をあげ,拓殖会 社,韓国銀行なども設立され,共同の利益を増進せんとすとして・日本人の立場からその 殖民政策を支持している。清国についても,日露戦争後の改革や立憲政体準備のことなど

をあげて,漸く善政を見るに至れりと楽観的であり,「かくて帝国は東洋平和の重鎮たるの盛 運に際会せり」と結ぶ。

新訂東洋史教科書(久保得二編明治38年刊,同44年2月訂正6版)は全体を通じて教訓的 言辞はないが,日本海賊の海外侵略の章では,名文を馳せて青少年の海外雄飛の精神を鼓舞 するのは別としても, 「対外侵略の精神は,豊臣秀吉の征韓を待って,樟尾の一大挙を成せり」

としている。豊公征韓という節を設けたのは,さきに伊藤允美選の中学東洋歴史があり,

その後他書にも見られるが,このように対外侵略の一大挙としているのはめずらしい。昭 和19年の中等歴史一(文部省刊)になると,秀吉の征韓を,「一種の新東亜建設を目ざ

した」と説く。元明の儒学文芸の章に,科学という節をもうけている・これは新味のある ところであるが,「元代,西人東漸の結果,学術の発達に碑益せしことすくなからず一・・明末・

欧人の近代文化を伝ふるや……支那人の科学思想は,為に大に酒養せられしが,その本性の適せざる 故か……特に観るべきものあらず」 と記す。支那人は本性からして科学にむかないという考 え方は,維新以後の開国日本の欧米科学文明採用と比較し,阿片戦争以来の中国の衰運と いう現実から判断したものであらう。或はヨーロッパ人の支那観の反映かもしれない。と にかく,当時中国史上の科学技術の研究が不十分であった証である。

新定東洋史教科書(京都帝国大学文科大学教授,桑原鵬蔵著,明治36年刊,同44年11月修正10 版)は,これをさきの同氏著中等東洋史と比較すると,さきにあった総論がないこと,時 代区分はされているが,漢族優勢時代,蒙古族最盛時代,欧人東漸時代などというような 概念規定はない。さきにはなかった日支国体の比較(檸譲放伐の芸主)がでている。本文の はじめに,光は東方よりEX ORIENTE LUXと題するさし絵がある。全体的に平静な 筆致で評論めいたものはなく,国家主義,植民主義,帝国主義の強調は見られない。日英 同盟の拡張,日仏,日露の協約,日米覚書の交換などで,東洋の平和は益々輩固となった こと,日韓協約でその施政の改善につとめたが,十分の効果がないので,両国民の幸福を 増進し,東洋の平和を永遠に維持するため,韓国を併合しその統治権を継承したとのぺ,

清国の覚醒と題して,鋭意立憲の準備に従っていると記し,平静な筆致である。近世史摘 要の末尾に,いま我が国は東洋に関係の深い諸強国と同盟又は協約を結んで,ひたすら東 洋の平和を保持するにつとめている,わが国民の責任重大なりというべしとある。

以上,この期の教科書を概見すると,形式内容ともに整備し,挿絵,地図,年表なども

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充実し,時代ごとに総括又は摘要などを加えて教授学習の便がはかられている。表現も漸 くやさしくなり,明るい感じのものが多く,文化史的内容も増加し,科学史的色彩もあら われてきた。一方国家主義,植民主義,帝国主義が謳歌され,少くとも肯定的筆致であ

り,大義名分的内容が増加している。日清戦争後,とくに日露戦争後の日本が世界強国の 列に入ったことを謳歌し,更に40年代の教科書では,清国の改革に同情又は期待するとと

もに,世界列強との諸協約を背景として平和的色彩が濃いが,東洋平和の重鎮たる日本の 立場を強調している。

この期の教科書になると,はじめに東洋史の定義,人種などについて詳説する総論又は 序説のないものが見られる。これは検定方針の変化によるものであろう。

中等教科東洋史(小川銀次郎編明治37年12月刊,東書文庫蔵),修訂東洋歴史(中村久四郎 著,明治40年版,東書文庫蔵)の両書は,検定審査用であったらしく,諸所に符箋がつけら れ,誤字誤植が訂正され,史実についても細かい点まで訂正されている。修訂東洋史の場 合,本文「露国は,遼島半島を領有することを喜ばず,独仏二国と同盟して,異議を唱へたれば」

の欄外に,「表面ハ忠告ナラズヤ」と朱書があり,「(我国は)一・屡々開国通商を朝鮮に促 せしも,鎖国保守的の大院君は之に応ぜざるのみならず,妄に我軍艦を江華島に砲撃し」の欄外に,

「下文ノママニテハ大院君ガ砲撃シタル書方ナリ」と注意書きがある。本文「韓国皇帝は之 を快しとせず,屡々時宜に適せざる行動あり……位を皇太子に譲りたり」 のところに, 「桑原,

教科書ヲ不問二置キシ故之モ不問力」とある。桑原の教科書でもここのところを不問にし たので,この教科書でもそうするかということであろう。これらの注意書を見て,刺戟的 表現をさけた当局者の意図がわかる。

夏目漱石は・明治44年8月,和歌山市での講演でつぎのように言っている (現代日本文 学全集11,夏目漱石集,現代日本の開化)。西洋の開化は内発的であって,日本の現代の開化 は外発的である。日本の開化は大体内発的にすすんできたが,鎖港排外の空気で200年も 麻酔したあげく,突然西洋文化の強い刺戟をうけ,急に自己本来の能力を失って,否応な

しに外からの云う通りにしなければ立ち行かなくなった。現代日本の開化は上滑りの開化 である,西洋で100年かかって今日に達した開化を,日本人が10年にちぢめて,しかも内 発的であるような推移をやろうとすれば,吾人はこの驚くぺき知識の収穫をほこり得ると

ともに,一敗また起つ能わざる神経哀弱にかかって,路傍に陣吟するのは必然の結果であ る,今日,戦争以後一等国になったんだという高慢な声を随所にきくが,楽な見方をすれ ば出来るものだ,ではどうすればよいか,ただ出来るだけ内発的に変化して行くがよかろ うと言うより仕方がないと。さきにあげた東邦近世史の著者の言とともに,まさに味うぺ

 r● ウ言であるQ教科書は検定を要するものであり・また青少年を鼓舞激励する性格をも必要

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満井:明治後期の外国史教育       87

とするから,こうした自由なことは表現できかねるであらうが,単に興隆日本を謳歌する にとどまらず,もっと内省的批判的な面があるべきではなからうか。我々が教科書を信用 できなくなったらどうするか。歴史家,歴史教育者が,ヒューマニズムに立つ思想的基盤 を堅持することの必要を痛感する。

3 西洋史教科書について

明治35年の教授要目の制定まで,新しい構想による外国史教科書が続々出版せられ,歴 史教育の三区分法は教育界の大勢となったが,一方支那史や万国史教科書も行われた。こ こに当時の万国史教科書の一例として,木村鷹太郎の万国史 (明治30年刊,同32年4月増訂 再版)をあげる。氏は,明治30年,高山樗牛,井上哲次郎と一緒に大日本協会を設立,機 関紙「日本主義」を創刊した。その綱目は,国祖を崇拝す,光明を旨とす,生々を尚ぶ,

精神の円満なる発達を期す,清浄潔白を期す,社会的生活を重んず,国民的団結を重ん ず,武を尚ぶ,世界の平和を期す,人類的情誼の発達を期すの十ケ条である。この書の性 格もこれによって想像されよう。

この書は内容が詳細で・教育の目的を以てあらわされた西洋の通史であるが,程度が高 い。日清戦勝のあと,新興国家建設の理想と意力にみちたもので,雄壮偉大な国民を作る ことが目的とされるが・それは国体の美を基とする世界の指導者ということにある。理想 主義・英雄史観で,ベリクレス,カイザル,テムシン,フリードリッヒ大王,ナポレオン のような人々がたたえられる。

その序文に,人事は人力によってみちびくことが出来る,時勢及び宇宙精霊論は,自己 の力に自信がなく,怯儒無能な者の避遁所であるとし,緒論に,歴史は外部(地理・天象

・社会・交通・産物及び人口等)と,内部(身体・感性・欲望・理想・意志及び活動性 等)との結合により,科学的必然的法則に従って生ずる複雑な自然現象であるとし,へ一 ゲル派の如く,人間の歴史は天地の精霊の意志に従いその目的に向って進行するとなす論 は,ヤソ教神学から出たもので取るに足らず,歴史を観るに当っては科学的自然的眼光を 以てせねばならぬと説き,歴史上注意すべき主要な点として,人民の智識,地理・殖産・

工業及び商業,道徳・宗教・風俗及び美術,政治,英雄の五類をあげている。ヨーロッパ 風近代風を打ちだしてはいるが,これが国家至上主義の書であることは,そのキリスト 教観にでている。

曰く,耶蘇教は四海同胞主義を唱へ神は愛なりと説くが,異宗教を排しこれを倒さんご

とをのぞむ,彼らは己等の崇拝せる神を己等と同じ儀式を以て崇拝する人のみを同胞とし

て愛するのみ,その同胞主義は理想上の征服主義で,虚言であり善良なものではない,ヨ

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一ロッパ諸国はヤソ教国であるが,これら諸国は世界に於ていかなることを行ったか,白 人は熱心に博愛を説くが,その到るところの劣等種族は相ついで絶滅すると。〔註7〕

これをパーレー万国史が,キリスト教主義で,儒教,回教を異端とし,それを信奉する 民族を野蛮未開とした明治初年と比ぺると,その変化に時勢の推移を見る。神話をひいて

日本民族は太古より最も美麗なる人種であるとし,藤田東湖の正気の歌や,佐久間象山の

「五州を巻きて皇朝に帰し,皇朝永く五州の宗とならん」などをあげ,「皆これ日本をして 万国の中心とし,其仰ぐ所と為さんとするの抱負と理想を歌へるもの」 とし,天照大神を祭る祝 詞「狭き国は広く,峻しき国は平けく,遠き国は八十綱打掛けて引きよする事の如く,皇大御神の寄 さし奉らば……」 をあげ,これ実に世界万国をして天照大神を仰ぎ・伊勢を中心として貢 献せしめんとするものと断じ,この美麗なる精神が神道で,日本国民の基本的教理である

と主張する。

神話を史実とし,神道という宗教的理想より歴史を観る。科学でなくして宗教である。

歴史は科学的自然的現象であるとする緒論の語は死語となっている。

慈善事業,社会主義,ヤソ教の宣伝,人類の和親のごときはその声は高尚であるが・人 世の真相は戦争であり,進歩の歴史とは競争の歴史であるとし,国際上の事は全く権力の 関係のみ,権力は実に権利であるとし,ヨーロッパ人は左手にバイブル,右手に剣をと

る,現実の実状は競争,戦闘,残忍,不安であるとし,文明とは自然を知り,これを使役 し,人々整和に国家を作し,最大多数の最大幸福を亨有し,万国に親しみ,正義善美を大 主義とし,暴をこらし弱を助け,我が理想を顕揚する状態をいい,知識,理想,大武力

(大野蛮力)がその要素であるとする。最大多数の最大幸福という民主々義の原理をあげ ながら,神道をあげて他をおえて,権力を主張し,大武力大野蛮力を強調する,矛盾の相 をあらわしている。

以ヒのような祖国主義はやがて昭和期の教科書に多く見られる国民精神を基調とする東 西文明の融合論や,ひいては大東亜共栄圏の構想,八紘一宇の神がかり的思潮となるもの であろう。

この書は,ヨーロッパの近代思想(立憲主義,革新文学, フランス革命,社会主義な ど)をそれ自らとしては否定しない。樗牛のいうように,国体民性に合致するかどうかを 唯一一の標準にして,内外古今の文物に対して研究的態度をとるということに通ずるもので

あろう。 (近代日本思想史研究会編,近代日本思想史2)Q

西洋史が東洋史に比べて,一般的に青少年に喜ばれていたのは,その近代文明,とくに

ルネサンス以後の新思想にひかれた点が多い。西洋史教科書では,こういう面をどのよう

に取扱っていたか,これが西洋史教科書検討の一つの目安となる。

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満井:明治後期の外国史教育       89

明治35年の教授要目制定以前の胎動期でも,西洋史教科書の構成は古代オリエント以来 の通史であって,東洋史のような多彩さはない。これはすでに,西洋流の万国史教科書で その型が示され,近世ヨーロッパ人のアジア侵略の事項は別として,それを大体踏襲した ためである。〔註8〕

中等教科西洋史(文学士,原勇六編明治29年9月刊)は,啓蒙思想のところで,「其著名な る民約篇は……最良の政髄は民主共和にありとし,自由平等の主義を唱へて,当時の民心を提醒した

りき」とのべ,十九世紀の進歩の章では,君権衰へ民権伸ふ,民権伸暢の機運などの項目 をあげている。

中学西洋歴史(松島剛編明治30年4月刊)は「十八世紀の仏文学は宗教の攻撃,斬新なる政論 古説の批評を以て充てり,モンテスキューは万法精理を著して近世政治学創唱者の一人となり,ブル

テールの著書は当時の批評懐疑の精神を代表すとも称すぺく,ルーソーの民約論は原始に遡りて社会 の平等たるぺきを説けり」とし,フランス革命でも貴族僧侶の据傲敗徳が甚しいと説く。ス パルタの尚武は人倫を絶ち,アテナイの民主政体は人民これによって愛国の精神を鼓舞

し,ギリシア中土に雄飛するに至ったと説く。この書を読む者は,やはり民主思想に共感 をもつであろう。

社会主義や労働運動について, 「英国の内治は着々として進歩し,審査律を廃し……然れども 不平の徒は労働社会に愈々多く,民権党(チャーチスト)なるもの起り,普通選挙,無記名投票,一 年議会,財産資格廃止等を要求し……」,「平民王ルイフヒリップの治世は,一・・諸党派の角逐を以て 充てり,ナポレオン党,ブルボン党,オルレアン党,共和党及社会主義を抱ける極端共和党等これな り,社会主義は早くサンシモンの主唱せる所にして,素と貧富の懸隔甚しきを慨し,多数の貧者を救 済し,社会関係を平等ならしめんとするに在りき」とのぺ,十九世紀の文明の章で,「社会主義

は財産共有説と共に今世紀間大に流行せり,仏人ブルードンは財産は臓物に等しきを唱へ,独人ラッ サルは国家は労働社会に相当の利子にて資本を貸与すぺしとし,マルクスは現存の社会組織を顛覆す 可きを論じ,一・・万国労働者組合は平均の法に依りて社会を改造するを目的とせり,此問社会主義に も幾多の説を生じ来り,其極端なるは過激手段を採りてさへ,其目的を達せんとする者あるに至れり」

とのべている。社会主義をこれほど詳しく紹介した西洋史教科書は未だ見ない。

西洋吏綱 (第一高等学校教授,ドクトル,理学士,箕作元八,高等師範学校教授峰岸米造合著,

明治32年1月刊)は,巻頭に歴史家の泰斗としてランケの写真をかかげている。著者の弁 言に,東,西洋史の相関聯する事蹟はつとめて其要領をあげて,東西相関の形勢を示した こと,西力の東漸を明示するため,特に各国の殖民政策を詳述したこと,近世史を詳述し たことをのぺている。

そのルソー観は,「ルソーは極端の民主々義を懐ける詩人的空想家にして……以為らく,社会

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90       茨城大学教育学部紀要 第十一号

は,もと自由平等なる人民の集合なりしに,強者出でて,共有物を私し,之を財産と名づけ,狡児恣 に法律習慣を作りて,同胞を抑圧し,以て文明と称する不平等の世態を作為せり,・…之を救済せん と欲せば,現今の社会を顛覆し,各人をして自由平等ならしむべしと,蓋しルーソーは,人に賢愚,

強弱,健屏,長幼,男女の区別あるを思はず,其理想社会は禽獣に近き蛮民の情態なるを察せず,然 れどもルーソーの文は明潔にして直に人の肺騎に入り,議論の方法亦頗る巧妙なりければ,当時の人は 其立論の基本が全く空想に拠れるを覚らず,之に附和雷動し,社会之契約,不平等原因論の如きは読 書社会の経典となりぬ」である。こういう観方は,明治9年の評論新聞に,民約論を以で一 世の真理を発揚したものとして称賛された自由民権論とは程遠いものである。 (本邦史学 史論叢下・小野寿人,日本開化小史とその時代)。大正期の新定西洋史教科書 (箕作元八編大 類伸補訂),同じく中学校用西洋史(峰岸米造編)のルソー観はともにこれにさかのぼる。

フランス革命についても,ミラボーなどの実際的秩序的改良を支持し,イギリスのよう な着実穏和な立憲政治を推している。宗教改革についても,淡々たる記述ながら新教を擁 護し,教会の腐敗を指摘しているが,南部ドイツの農民戦争を,万民同祖,貴賎無差別の 社会論を唱へる暴挙としている。立憲君主,国家主義を基盤とし,理想とする勃興期日本 の教科書として見るべきであろう。

中学西洋歴史教科書(文学博士,坪井九馬三著,明治36年刊)は,宗教改革ではルーテルを 擁護し,ローマ教会を批難し,「是を以て宗教扶持税は迷信税と変じ,法皇はハオリゴコツキの 大親分と化す」と断定している。革新文学については,「ボルテールは譜誰を縦にして旧思想 を罵り,モンテスキューは史論を走せて旧制度を破し,ルソーは理想を呵して旧社会を論ず,一・・君 主専制,僧徒壇権を憤ること皆同じ,是を以て三家の名声一世を甕動し……天下の読書人……翁然之 に従ふ」と。ルソー批判はない。イギリスの政党政治をのぺた所で,選挙法已に備わり,

実業者はこれで目的を達し,労働者亦その志を遂げんと欲し,「比年労働組合処在に起り,同 盟罷工して資本主に迫る,オコンネル等又民権党を組織して」普通選挙,財産資格廃止等の請願 書を議会に呈出,議会がこれを却けたので下民激昂すとのべ,二月革命のところで,フラ ンスのオルレアン朝が,実業家政治家に擁せられて宗家をうけたが,貧富の懸隔漸く甚し く,官吏・議員・選挙人皆好商と異らず,「時弊に肥ゆる能はざる下民,乃私有財産を論じて臓 物となし,共有説盛に行はる」と説く。下民(人民)に同情し,専権者を批判している。 こ のような気迫のある表現は後の教科書には見られない。初期の教科書ほど著書の個性がは っきり出ているようである。

中等教科世界史綱(斎藤斐章編,明治36年刊)は,内容は西洋史である。教授要目制定後

の西洋史教科書で,世界史と銘打ったものはこれ位であろう。氏は,大正3年(当時,東

京高師教授),東洋史と西洋史を一科として,付属中学校で外国史教材要項としてこれを

(19)

満井:明治後期の外国史教育       91

実施,更に昭和8年,「教育」(1の2)に中等教育における世界史を提唱されている。

この教科書のルソー観は,「ルソーは民約論を作りて奇激なる自由平等説を主張……」とし,

フランス革命の原因をのぺて,米国の独立を見て,国情を顧みずして直にこれを自国に行 わんとしたこと,革新文学の響影として破壊的精神奮興し,着実な改新を賎めることをあ げている。過激な思想・行動や,国情にあわない外国思想の受容についての考慮があった

ものかと想像せられる。そういう表現は,瀬川秀雄の西洋史教科書(大正7年刊)にも,

「ルソーは極端なる自由平等論者にして……」と見えるが,概して宗教改革や,近世ヨーロッ パの民主思想,古くはギリシャの民主思想などの記述は,青少年の心にそういう新思想を 啓培することにカがあったと思われる。

なお,明治後期の西洋史教科書の中には,坪井九馬三著のように,ヨーロッパ諸国のア ジア侵略については,アルブケルケの印度統治をうたい,阿片戦争前の清朝の対度がイギ リス側との協議を経ないで禁令を励行したことを以て戦争の原因とするが如き,気鋭きヨ 一ロッパ諸国民によって疎瀬の国民皆為に井呑せらるとするが如き,帝国主義を肯定する ような筆致のものがある。西洋史と東洋史とを比べると,前者では民主々義的思想や西洋 文化の知識の啓培について強いが,ヨーロッパ諸国のアジア侵略は,後者に於てより強調 せられるという傾向がある。

箕作の西洋史は,三国干渉,露独英の清国における利権獲得を略述したあと, 「今や,

東西両洋の関係は,益々密接して離るべからず,我が日本は,実に多難多望の地位に在り,邦人たる 者,須く古今の成敗,東西の形成に鑑みて,自ら奮励努力すべきなり」 とし,斉藤の世界史は,

我が国はここ30年間迅速の進歩をとげ,欧州列強と伍して恥ぢざるに至ったが,東亜諸国 の運命は将来殆ど予想できない,「経済・学術・宗教等百般の事物凡て発達の中路にあり,我が国 民たるもの,古を鑑み,今を察し,大に奮励する所なかるぺからず」 と。ともに,日露戦争を前 にした緊張感にあふれ,とくに後者が,平静に我が国が未だ発達の中路にありと自省して いるのは,教科書として適切な言であろう。〔註9〕

〔註1〕 梁啓超は本書を評して,東洋の断代史は此書より他にはない,事実を捜羅してこれを連 貫し,よく東西民族権力消長の趨勢を発明している,東洋史中の最佳本なりと。(本書下巻末尾 にのっている新民叢報の記事による)

〔註2〕 梁啓超の飲氷室全集4(上海会文堂書局印行,民国13年刊)に,日本人の所謂東洋とは 泰西に対して言うもので,もっぱらアジア洲をさすが,東洋史の主人翁は実に中国てある。日本 人著作の東洋史は実は中国史に過ぎない,その他はつけたしである,東洋史という名を以て評す るに足りないとある。尚桑原陥蔵著の中等東洋史を評して,よく諸家の長をとり,条理頗るとと のい,繁簡よろしきを得,論断するに識ありといっている。

〔註3〕 飲氷室全集4に,日本は甲午(明治27年)戦争以後,赫然として世界大国の林に列し,

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近年以来,全球(全世界)の競争点は皆中国に集る,而して日本の位置,乃益々重要なり,前歳 義和団の後云々とある。中国人の観た日清戦後の日本観の一例としてあげておく。

〔註4〕 この訓令の中に,「今ヤ露国ト事ヲ構フルモ……学生生徒ガ客気二駆ラレ露国民二対シ テ嘲罵ヲ逞クシ延キテ他ノ外国人ニマテ悪感ヲ懐カシムルカ如キコトナカラシムルコトハ子女ノ 教育上最モ注意ヲ要スル所ナリ」とある。大平洋戦争のとき,鬼畜米英と宣伝したことに比べ て,この当時はまだこれだけの襟度があった。武士道の面影を存したものか。

〔註5〕 教科書ではすべて日英同盟を謳歌している。しかし,飲氷室全集4で,梁啓超は英日同 盟論と題して,陽暦2月12日,日本政府はその密約を両議院に発表した。国をあげて歓声雷同,

紛々として祝宴を開き,その慶賀のさまは台湾を得たときの気象より上まわっている。その同盟 は,中国・朝鮮の独立,保全を約したもので,この条約がまちがっているとはいわない,公法に 基き人道に合している,ただ人々(中国や朝鮮)がこの約を謳歌し,崇拝することを欲しない。

欧人や日本人は支那を保全するというが,支那にして他人の保全にたよるならば,決して保全す ることはできない,支那にして保全すべくば,他人の保全にたよるべきではない。人を保全する というのは,人の自由を侵すものである。人の我を保全することを願うことは,自由を放棄する ものである。この条約が布かれて数日後,日本の時事新報に,英日の二女神が輪に椅って戟を持 ち,中・韓の二孫童を膝下に保護している図をのせたが,我が国人がこの図を見て感慨如何,わ れ遂に英日膝下の一弄児として満足できるであらうかと。

〔註6〕 中国の文明が上世ほど善く,後世に堕落したように考へるのは,中国の歴史家がその尚 古癖から,理想的黄金時代を上世に置き,世の下るにしたがって末世澆季になると説明したこと により,一には近世の中国が列国との競争におくれて混乱停頓中にあるのを見て,上記の説明を 真なりと誤解した所にある。しかし,漢民族の発展は著々として進み,漢文明の開発も次第に広 く,深く行われた。中国文明の進歩を全的に否定するごときは誤解である。(和田清博士著,中

国史概説上)。

〔註7〕 維新以来,キリスト教の歴史は荊茨に富む,明治26年,井⊥哲次郎の「宗教と教育の衝 突」の論文で,日本の教育は教育勅語を基礎とする,教育勅語は国家主義を原則とし,忠孝主義 を基礎とする,キリスト教は愛の無差別を説き,君父の上に天父があり,ヤソがあると説き,国 家主義でなく忠孝主義に反する,故にキリスト教は日本の教育とは衝突すると説いた。教育界の 世論はこの主張になびいて,日清戦争を経て教育の方向は決定的となり,明治35年頃には,キリ

スト教は全くの不振状態におちいった。 (玉城肇著,日本教育発達史)。

〔註8〕 明治期の中学校で万国史教科書として盛行したスイントンの万国史は,古代東洋諸国,

グリース史,ローマ史,中代史,近代史の構成で,19世紀の大事件で終るが,明治35年制定の西 洋史教授要目も大体この様式をおそっている。尚那珂博士は,明治27年の頃,第一高等学校で東 洋史という題で講義をされたが,これは従来の支那史に,印度,蒙古,シペリアの歴史を併せて 東洋史と名ずけられたもの,当時その講義を受けられた新見吉治博士の筆者あて書簡(昭和35年 4月)によると,先生の講義はもっぱら事実の考証を主としたものという。東洋史という称呼を 教科目につけたのはおそらく那珂博士であったであろう。(歴史教育,1962年1月号,新見古治 博士述,箕作元八先生を憶う参見)。

〔註9〕 本稿を草するにあたって,資料として用いた教科書は,東京教育大学付属図書館,国立 教育研究所付属教育図書館,東京書籍株式会社東書文庫所蔵のものを主とした。

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