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戦問期における「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴
植 田 欣 次
創価大学経営学部教授
はじめに 数多く学ばせていただいたことを記しておきたい。
「不動産金融」ωは、少なくとも近代日本が経
済的に確立する日露戦争後から、しばしば社会的 1 1920年代の「不動産金融」
に問題とされ、多くの人によって論じられてきた。 1920年代の「不動産金融」の特徴は、この時期 しかし、杉本正幸がいう意味での「不動産金融」 において「不動産金融」が著しく発展、膨張する の経済的な研究は、全くといってよいほどなされ ことである。とりわけ第一次世界大戦後から昭和 てこなかった。そのために、「不動産金融」の歴 5年頃までの急増は驚異的である。【第1表】に 史的構造はいまだ明らかにされていない。 見るように、国内の不動産を抵当とする債務残高
杉本正幸は、「不動産金融」を不動産を抵当と は、第一次世界大戦中、16億円前後で横這い傾向 ●
オて貸付が行なわれる「全不動産金融及び其組 であったが、大戦終了後、1年余りの後の大正8
● ● ● ●
織」を指す、すなわち「不動産金融市場」(2)(傍 年末には21億円に、そして2年後の大正10年末に 点…植田)と考えている。本稿は、氏の定義に従 は2倍近くの38億円近くになる。その後も増大し、
って戦前期の「不動産金融」を概観し、その運動 大正末年には55億円に達する。これは同時期の全 の特徴を検討することを課題とする。 国普通銀行貸出金残高86億円の63%に相当し〔D、
なお、本稿は、戦前期の中心的な不動産銀行(= 「不動産金融」がいかに急膨張していたかを窺う 不動産抵当専門金融機関)であった農工銀行の位 ことができる。だが、昭和期に入ると横這い・漸 置付けをするために執筆したものであって、全面 減傾向をたどる。不動産抵当の債務残高は、昭和 的な不動産金融市場史でないことをあらかじめお 3年末の62億円をピークとし、昭和4年末61億円、
断わりしておきたい(3)。 5年末59億円と漸減する。そして6年末56億円、
7年末53億円へと減少して行く。その後やや増加
(注) するが、ピーク時を回復するには至らない。
(1)全国銀行協会連合会内の不動産金融研究会は、「不 このように、両大戦間期の「不動産金融」は1920 動産金融」を資金使途が不動産にかかわる金融、 年代の発展、膨張期と1930年代前半の後退、収縮 信用供与先が不動産関連業者である金融、不動産 期に区分することができる。
を担保とする金融、の3つに区分している(『不動 ところで、こうした「不動産金融」の膨張→停 産金融研究会報告』1992年3月)。 滞・収縮なる運動は、歴史的にはどのように位置
(2)杉本正幸『不動産金融論』厳松堂書店、1930年5 づけられるのであろうか。【第2表】は、毎年の 月、3−4頁。 土地建物の起債額の推移を明治32年から昭和4年
(3)進藤寛先生は、普通銀行研究の立場から、常に「不 迄、長期的に見たものである(昭和4年迄とした 動産金融」問題に強い関心をもっておられた。本 のは資料的制約による)。毎年の起債額は、明治 稿も先生の御論稿と研究会や学会での御意見から 33−41年の2億円前後の横這傾向、明治42〜45年
50 茨城大学政経学会雑i誌 第62号
における2回目の循環であったと位置付けられる。
【第1表】抵当物種類別抵当債務推定現在高 次に「不動産金融」の膨張の特徴について考察
(単位:百万円) しよう。第1は、膨張の規模についてである。19
抵当物 土 地 建 物 工 場 抵当債務 20年代初頭の「不動産金融」の膨張は、明治末期 ゥら第一次世界大戦前の膨張とは較べ物にならな
種類→ 土 地 建 物 小 計 財 団 合 計
いほどの大膨張であった。明治32−41年にかけて 大正1年末 1308 114 1423 31 1454
の毎年の土地建物の起債高は2億円前後であった。
2 1425 123 1549 37 1587
この起債額は、明治42年頃から急増したが、大正
3 1452 124 1577 38 1615
1年の起債額4億100万円に示されるごとく膨張
4 1433 119 1553 55 1608
する前の起債額の2倍弱であったと考えられる。
5 1408 112 1521 73 1594
ところが、大正9年から昭和3年頃にかけての毎
6 1388 112 1500 77 1578
年の起債額は、膨張が始まる前の、すなわち大正
7 1482 127 1610 100 1710
1−6年頃までの起債額2億円前後の3倍位、増
8 1840 180 2021 117 2138
大している(【第2表】参照)。土地建物の起債高
9 2520 278 2798 172 2971
の都市と農村の割合は、ほぼ1対1であり(3>、起
10 3075 395 3470 306 3777
債高の急増は都市のみならず、農村部においても
11 3599 530 4130 388 4510
なされ全国的であった。「不動産金融」の膨張の
12 3849 602 4452 460 4912
規模、期間の長さという点においてかつての膨張
13 3828 656 4485 622 5107
とは異なっていた。
14 3930 683 4613 759 5372
第2は、膨張の方向についてである。【第2表】
昭和1年末 3988 681 4670 847 5518
によって、起債状況をもう少し詳しく検討しよう。
2 4173 712 4885 898 5784
毎年の土地の起債金額は確かに急増しているが、
3 4330 739 5070 1173 6243
件数と筆数が第一次世界大戦後に急増していない
4 4379 740 5120 990 6110 注1 資料:勧銀『本邦不動産金融二関スル諸統
ことが注目される。土地の件数は、大正4年の86 怩S000件から、減少し、大正7年末55万7000件と 計』昭和7年5月。 なる。そして大正13年迄50万件台で横這である。
2 単位未満切り捨て 一方、筆数は、大正6年から大正末期にかけて毎 年300万筆前後である。つまり、土地建物の起債 頃の急増、大正2−6年頃の横這・漸減、大正7 金額の急増は、1件当たりの貸付額と1筆当たり 一11年頃の急増、その後の横這、漸減と推移する。 の貸付額を増加するという形で行なわれた。すな この事実に示されるごとく戦前期日本の「不動 わち「不動産金融」の膨張は、抵当物の価格の高 産金融」発展の様相は、膨張→停滞・収縮→膨張 騰と大口貸付に依存しながら行なわれたといえよ
→停滞・収縮と規模を拡大しながら上昇傾向をた う。
どる循環的運動をしていた。明治30年代以降の日 第3の特徴は、第一次世界大戦後から1920年代 本では少なくとも2回、(膨張→停滞・収縮)過 にかけては普通・貯蓄銀行を主軸としながらも個 程があった。2つの循環の始点である膨張は日露 人其他を含む全金融機関が、「不動産金融」に進 戦争と第一次世界大戦という2つの戦争直後の投 出し、1920年代の「不動産金融」膨張の主要な担 機熱及財界反動2)を契機としていた。膨張の仕方 い手として登場していることである。【第1図】
は緩やかではなく爆発的である。1920年代初頭以 は主な金融機関の不動産抵当貸付残高の推移を示 降の膨張→停滞・収縮は、こうした意味で戦前期 したものである。普通・貯蓄銀行、不動産銀行は
戦間期「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴 51
もとより、個人其他も大正8年頃から急増してい
【第2表】1年間の土地建物抵当起債高の推移(明治32一昭秘年) る。グラフ上に各金融機関の全不動産抵当にしめ
(単位未満切捨) る割合を記しておいたが、「不動産金融」の膨張 抵当物 土地建物計 内 土 地 1件当金額 が最も激しかった大正8年から大正12年において
ヘその割合に大きな変化はない。普通・貯蓄銀行
年 中 件数 金額 件数 筆数 金額 土地 建物
は28〜30%、不動産銀行は17〜21%、個人其他は
千件 百万円 千件 千筆 百万円 円 円
47〜51%となっている。推定値という留保条件は
明治32年 921 194 851 3471 177 208 238
あるが、個人其他の不動産抵当貸付残高にしめる
33 757 201 692 2835 180 261 340
割合は、大正2年末60%と圧倒的な位置をしめて
34 853 227 780 3284 204 262 308
いたが、第一次大戦中、低下し、大正6年末には
35 936 227 858 3688 206 240 268
49%と過半を割るに至る。個人其他の割合が低下
36 1011 235 925 4094 214 231 245
するのは歴史的な傾向であったが、その個人其
37 960 203 883 3793 186 211 215
他(4)でさえこの期間、大正12年頃までは50%前後 38 771 174 713 3240 160 224 251
で推移しているのである。
39 742 207 685 3291 189 276 326
このように膨張にすべての金融機関が加わった
40 718 *256 660 3161 *233 353 395
ことは確かであるが、就中、普通・貯蓄銀行の上
41 694 *256 637 2990 *233 366 398
昇振りは注目される。普通・貯蓄銀行のシェアは、
44 862 *391 790 一 *359 454 431
大正2年末20%であり、その時点においても個人 大正1年 860 401 786 4015 369 469 425
其他に次ぐ重要な地位をしめていたが、その後上
2 881 402 806 3919 370 459 432
昇し大正6年末には25%になる。そして、第一次
3 897 381 825 4097 352 427 408
世界大戦後から大正9年にかけての僅か2年余り
4 935 367 864 4601 341 395 357
の問にさらにその割合は上昇し、大正9年末には
5 863 369 798 4216 344 431 391
30%に達する。普通・貯蓄銀行が、「不動産金融」
6 678 382 623 3240 349 560 593
において最も高い位置をしめたのは、この時であ
7 612 *491 557 2869 *447 803 815
る。その後、興業銀行、信託会社、生命保険会社
8 611 *777 550 2927 *699 1271 1279
が参入、進出し、「不動産金融」が急増するなか
9 600 *1147 538 3167 *1023 1901 1984
にあっても、ほぼ30%弱を1920年代を通じて持続
10 648 1054 569 3291 905 1591 1886
させる。
11 640 1150 550 3106 971 1765 2011
普通・貯蓄銀行の主導性は、1910年代の循環過
12 640 1099 555 3117 949 1710 1765
程と比較すればより一層明らかとなる。明治42年
13 674 1180 577 3155 1002 1737 1844
頃からの「不動産金融」の膨張は、普通・貯蓄銀
14 729 1182 620 3297 1007 1906 1620
行と不動産銀行によるものであるが、就中、不動 昭和1年 775 1207 668 3567 1029 1540 1664
産銀行が果たした役割が決定的である。すなわち
2 822 1314 718 3985 1133 1578 1748
明治40年末の不動産銀行の不動産抵当貸付残高57
3 825 1365 718 4076 1160 1616 1934
00万円は普通・貯蓄銀行1億7900万円の31%にす
4 849 1232 739 4165 1056 1429 1600
ぎなかった。明治40・41年恐慌後、普通・貯蓄銀
注1 資料:勧銀『不動産売買質入抵当二関スル表』明治32〜41年、 行は貸付金にしめる不動産貸付の割合を増加させ
勧銀『本邦不動産金融二関スル統計的資料』大正10年10月、 ることによって「不動産金融」での進展をはかる。勧銀『本邦不動産金融二関スル諸統計』昭和7年5月。明治42、43
年は不明。 しかし、【第2図】が示すように不動産銀行によ 2*印は、「不動産金融」が急膨張していることを示す・ る不動産抵当貸付の増加は普通・貯蓄銀行をはる
52 茨城大学政経学会雑誌 第62号
【第1図】主な金融機関別不動産抵当貸付残高の推移(全国)
30 51 51
萬 の・晦0S4 , 賜●
@
ゾ馳姦∴,ゾ ノ 、、、 35 /50 ! 、●.L 34 ノ/ 一バ26認;詳
15 写器避轡響一器㌔2。47/ 29 2522 2°
10 T・5・49〆〆3°@ 192・ 不動酬矛 2°19
゜ 一 ず Q8 1819 興業銀イテ゜保険会社 信託会社 1。
5 一%
@66688U輩瓢濫こ一88
籍67891011121314・5㍗ 34567891・
注1 資料:大正5一昭和4年の数字は、勧銀『不動産金融二関スル諸統計』
昭和7年5月、昭和5−10年のそれは『日本勧業銀行史』、514頁より作成。
2 グラフ上の数字は各年末抵当債務推定総額に対する割合を示す(未満切捨て)。
【第2
悼
図】主な金融機関別不動産抵当貸付残高の推移(全国)
3
@
@
@
@ 普通貯醐行 16、2シ普通銀行 茄.歪喚ボ宙\ξ!ひ駒…〆 , .
....ぴ〆ガ 不動醐行(勘銀・農銀・拓銀) /
,
@ ■
@ .●ψ
■ ● ■ ● 學 o
。■■禰●o薗・・■・
残高
@年末 累38 39 40 41 42 43 44 45杢2 3 4 5 6 7 8
注1 資料:不動産銀行は、『銀行及担保付社債信託事業報国』(明治38〜大正3年)、『銀行局年報』(大正4〜8 年)、普通・貯蓄銀行は、後藤新一『日本の金融統計』より作成。
2 普通銀行の折れ線グラフ上の数字はて普通銀行の貸付残高にしめる不動産担保貸付の割合を示す。
戦問期「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴 53
かに凌ぐものであった。勧銀・農銀などの不動産
銀行は明治40・41年恐慌の頃から「不動産金融」 第3表 普遊貯蓄銀行の不動産抵当鮒残高とその割合(明治32〜昭和1年)
への進出を開始、大正2年頃までにはほぼ完了し (単位:百万円)
ていた。不動産銀行が「不動産金融」において確
普通・貯蓄銀行 内普通銀行
固たる地位をしめ歴史的な役割を果たすようにな
地所家屋 貸付金 a/b 地所家屋及 貸付金 a/b るのは1910年代初頭である。 年 末
及各財団(a> 合計(b) (%) 各財団(a) 合計(b) (%)
ところで普通・貯蓄銀行の貸出金残高は、【第
明治32 97 341 28 88 311 28
3表】のように大正6年末28億200万円、同7年 33 121
389 31 108 351 30
末37億5800万円、8年末51億7200万円、9年末59
34 136 397 34 121 356 34
億5400万円と、第一次世界大戦中から戦後にかけ
35 144 416 34 129 376 34
て急増している。この間、地所家屋及各財団抵当
36 157 434 36 136 380 35
貸付の構成は、12%前後であり、大きな変化はな
37 159 450 35 135 390 34
い。普通・貯蓄銀行の貸出金のうち地所建物など
38 156 474 32 131 406 32
の不動産抵当貸付の割合が上昇するのは大正9年
39 161 521 30 132 443 29
の反動恐慌以後なのである。つまり、普通銀行の
40 178 609 29 145 514 28
貸出金の残高の増加が、不況により、鈍化しはじ
41 194 612 *31 158 513 *30
めて以後なのである。しかしこのことは、普通・
42 211 621 *33 171 517 *33
貯蓄銀行が反動恐慌以前に不動産抵当貸付に進出
43 234 665 *35 189 554 *34
しなかったことを決して意味しない。
44 264 726 *36 212 598 *35
【第4表】は、膨張の過程をより詳しく見るた
大正1 294 800 *36 236 655 *36 めに作成したものである。土地建物抵当貸付の1
2 325 878 *37 258 711 *36
年間の起債高は、大正.6年3億8200万円でその頃
3 356 927 *38 279 736 *37
までは横這傾向であったが、その後は、大正7年
4 361 916 *39 245 645 *37
4億9100万円、同8年7億7700万円、同9年11億
5 391 2161 18 272 1711 16
4700万円、と驚異的に増加する。しかし、起債高
6 401 2802 14 268 2216 12
の増加傾向は、大正7−9年の3年間にとどまり、
7 455 3758 12 298 2944 10
それ以降大正末年までは、大正9年と同水準の11
8 616 5172 12 393 3949 10
一12億円前後で横這である。土地建物の1年間の
9 916 5954 *15 609 4558 *13
起債高が大正7年から9年にかけていかに急増し
10 1116 6310 *17 762 4871 *15
ていたかは起債高の前年末残高に対する割合が大
11 1312 6491 *20 1291 6323 *20
正3−6年までは25%、大正7年32%、大正8年
12 1406 6680 *21 1384 6509 *21
48%、同9年56%、と急上昇し、その後は大正10
13 1500 6803 *22 1477 6651 *22
年37%、同11年33%、同12年24%、と下降してい
14 1568 7423 21 1544 7269 21
ることからも窺うことができる。とりわけ反動恐
15 1640 7879 20 1612 7661 21
慌以前の大正8年の急上昇は注目される。すなわ
ち「不動産金融」の膨張は、起債額の急上昇に特 注1資料:後藤新一『日本の金融統計』1970年7月・
徴づけられる過程と貸付残高の急増に特徴づけら 2*印は、普通・貯蓄銀行が「不動産金融」へ乗り出し れる2つの過程があるのである。前者の膨張過程 ていることを示す・
の内容が如何なるものかについて検討しよう。
大正8年には、都市のみならず農村においても
54 茨城大学政経学会雑誌 第62号
市ノ如キ土地熱ノ最モ激甚ナルヲ見タリ、上述
【第4表】1年間の土地建物売買高・起債高 ノ傾向二伴ヒ主トシテ市街地ノ売買ヲ目的トス
(単位:百万円) ル土地会社ハ…続々設立…(中略)…農村二在
粛皿コ古畠
轣v貝同 起債高 年末残高 * % リテハ・・農家ノ懐余裕力トナリシニ加へ地方ノ 年中 (a) (b) a/b 金融円滑ナリシカバ土地二対スル需要俄二増加 大正1年 351 401 1423 一 シ殊二大正8年二入リテ投機ノ風潮ハ漸ク地方
2 316 402 1549 28 二浸潤シ耕地二対スル思惑売買盛二行ハル
3 278 381 1577 25
ル」 ⑥
4 285 367 1553 23
5 384 369 1521 24 第一次世界大戦後、市街地における「工業地ノ
6 455 382 1500 25 繁栄」「交通機関ノ整備」によって土地家屋は不
7 623 491 1610 33 足し郊外での宅地化が進んでいること、土地価格
8 942 777 2021 48 の騰貴、「投機売買」が急上昇していること、そ
9 944 1147 2798 57 して「投機ノ風潮」が地方にも波及し、「耕地二
10 803 1054 3470 38 対スル思惑売買」が全国的に行なわれていること
11 864 1150 4130 33 が指摘されている。このような土地を巡る「投機
12 818 1099 4452 27 ノ風潮」にたいして普通銀行をはじめ不動産抵当
13 888 1180 4485 27 金融機関が深く関与していたことは、政府が大正
14 911 1182 4613 26 8年10月20日、地方長官にあてて「金融業者の投 15 933 1207 4670 26 機資金貸出取締」のために通牒を発したことから 昭和2 891 1314 4885 27 もわかる。その要点は、「諸物価高騰ノ原因ハ…
3 961 1365 5070 28 物資ノ買占メ売惜ミ等ノ投機的行為二本ツクモノ
4 879 1232 5120 24 亦少カラス…各地ニオケル銀行等金融業者ノ態度 如何ハ、投機二至大ノ関係ヲ有スル」(6)。だから 注1資料:勧銀『本邦不動産金融二関スル諸統計』 投機を助長するような貸出行為を警戒せよという
昭和7年5月。 ものであった。
2*・毎年の起債高の前年末残高に対する割 この当時の土地の売買高の増加、土地価格の急 合である。 騰は著しく、不動産抵当金融機関による「投機資
金」の貸出こそ大正7−8年の土地建物起債高の 土地投機が社会問題化していた。すなわち、 急増をもたらした主要な原因であったといえよう。
L般物価ノ暴騰二伴レ都市並二農村二於ケル 反動恐慌後の普通・貯蓄銀行貸出の不動産抵当貸 土地ノ騰貴及土地投機熱ノ勃興又著シキモノア 付の割合の上昇は、不況によって不動産抵当貸付 リ、就中市街地二於テ其傾向甚シク付近工業地 に進出することと、反動恐慌前における不動産抵 ノ繁栄、交通機関ノ整備等ニョリ土地並二家屋 当貸付の固定化(7)によってもたらされた。いうな ノ大払底ヲ来シ漸次郊外二拡充シテ自然其価格 れば、反動恐慌後の「不動産金融」の大膨張は、
ヲ…騰セシメ其問投機涜買ノ盛行ヲ見タリ、而 大正7、8年の投機促進の「不動産金融」膨張(起 シテ其最モ顕著ナルハ大阪市ニシテ以前坪千七 債高の急増)の帰結でもあった。
百円ヲ以テ最高ト目セラレシ同市目抜ノ北浜界 ところで、不動産銀行の不動産貸付金現在高に 隈ハ四千五百円ノ実際相場ヲ有スルニ至リ…日 しめる割合は、大正4年末までに20%をしめるに 本橋付近ガ三千円前後…又地方二於テハ…福岡 至った。そしてそれ以降、1920年代を通じてほぼ
戦問期「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴 55
20%前後をしめている。変動はあるものの安定的 縮過程を概観し、そのことと抵当地の売却がどの に推移しているといえよう。また、1930年代前半 ような関係にあったのかを考察することである。
においても不動産銀行の割合は20%強をしめ、普 「不動産金融」の停滞・収縮の特徴は、【第5 通・貯蓄銀行がその地位を下降するなかにあって 表】に見るように、1920年代前半において「不動
も変わらなかった。 産金融」を中心的に担っていた普通銀行、勧銀、
農銀等の主要な不動産抵当貸付金融機関の不動産 1節の注 抵当貸付残高が全般的に減少していることである。
(1)後藤新一『日本の金融統計』(財)金融経済研究所、 すなわち、昭和5年末の残高を100とするときの 1970年7月、119頁。 昭和10年末の指数は、農銀85、勧銀88、拓銀91、
(2)勧銀『日本勧業銀行史』1953年6月、231頁。日 普通・貯蓄銀行65、興銀・保険・信託会社71とい 本銀行『世界戦争終了後二於ケル本邦財界動揺史』 う具合である。ただ個人其他推定高の残高は増加
<『日本金融史資料』明治大正編、第22巻、442頁 傾向(1)にあるが、「不動産金融」の停滞・収縮に
〉参照。 ブレーキをかけるにはいたらない。
(3)大正15年の都市と農…村の起債額は、それぞれ5 このように主要金融機関が減少しているが、と 億6300万円、6億4300万円であった(勧銀『本邦 りわけ、普通・貯蓄銀行の減少は著しい。普通・
不動産金融二関スル諸統計』昭和3年3月)。 貯蓄銀行の残高は、昭和3年末17億円であったが
(4)勧銀は、大正7年から昭和10年にかけてほぼ毎 5年末16億円、そして10年末には10億9200万円に 年、全国の産業組合、もしくは農会を通じて、「個 なりさらにその後も減少している。普通・貯蓄銀 人」の田畑抵当貸付を調査し、その集計結果を『不 行は、1920年代において不動産銀行以上に「不動 動産抵当個人間貸借金利調』(大正7一昭和10年) 産金融」へ進出し、抵当債務残高にしめるその地 にまとめている。貴重な資料であるが宅地抵当貸 位では常に不動産銀行を上回り、昭和6年頃まで 付を調べていないのが難点である。 は28%をしめていた。ところが、昭和9年末には
(5)日本銀行『世界戦争終了後二於ケル本邦財界動 不動産貸付にしめる割合は、20%となり不動産銀 揺史』<『日本金融史資料』明治大正編、第22巻、 行のそれと同じになった。不動産銀行は、このと 469頁〉。 き以後、はじめて普通・貯蓄銀行を上回るに至っ
(6>同前、469頁。 たのである。このことは、不動産銀行の「不動産
(7)恐慌時の貸出金の固定化によって不動産抵当貸 金融」における進展を示すものではなく普通銀行 付は増大した。すなわち「従来ノ貸出金回収セラ の「不動産金融」からの撤退がいかに急激であっ
レサルヲ以テ貸出高ハ次第二増加ヲ示セル」(同前、 たかを示すものであった。
538頁)。 普通銀行の諸貸付金は、昭和5年末63億9200万 円であったが、その後減少し、昭和9年末には55 2「不動産金融」の停滞・収縮と抵当地所有の編成替え 億2800万円迄低下する。そして11年末には60億29
1920年代前半に驚異的に発展、膨張した「不動 00万円に増加するものの5年末時点まで回復する 産金融」も後半から1930年代にかけて停滞・収縮 に至らない。この間の普通銀行の諸貸付金は、漸 期に入る。すなわち抵当債務推定残高は、昭和3 減、横這であるといえる。ところが、普通銀行の 年末の62億円をピークとしてその後減少し、5年 不動産抵当貸付残高は急速に減少し、昭和11年末 末59億円、7年末には53億円になる。その後回復 の残高は昭和5年末の60%になっている。こうし
し、昭和10年末には57億円になるが、ピーク時を て普通銀行の諸貸付金にしめる不動産貸出の割合 回復するには至っていない。 は、昭和5年末25%であったが、その後低下し、
本節の課題は、1930年代の「不動産金融」の収 昭和11年末には16%となる。
【第5表】金融機関別不動産抵当貸付金の残高・指数(昭和1〜14年)
(単位、百万円、未満切捨)
抵当債務 不 動 産 銀 行 普 通・ 興銀・保険 個人其他
昭 和 推 定 高 計 内農銀 内勧銀 貯蓄銀行 信託会社 推 定 高 1年末 5494 100 1096 19 497 9 507 9 1616 29 381 6 2399 43
2 5759 100 1169 20 558 9 524 9 1647 28 488 8 2452 42
3 6207 100 1219 19 601 9 533 8 1703 27 523 8 2759 44
4 6079 100 1275 20 628 10 566 9 1642 27 651 10 2507 41
5 5907 100 1323 22 567 9 675 11 1656 28 693 11 2232 37
6 5590 100 1325 23 567 10 679 12 1586 28 705 12 1971 35
7 5337 100 1342 25 564 10 697 13 1453 27 706 13 1832 34
8 5798 100 1281 22 545 9 657 11 1345 23 613 10 2557 44
9 5884 100 1195 20 497 8 623 10 1182 20 496 8 3008 51
10 5700 100 1153 20 483 8 596 10 1092 19 497 8 2955 51
12* 1163 128 966 915 559
13* 1123 124 935 873 651
14* 1111 122 928 793 678
注1 資料:勧銀『日本勧業銀行史』昭和28年、514頁。同『主要金融機関の不動産貸付現在高(業務参考資料)』第24号、
昭和14年11月(第一勧業銀行所蔵)。
2 昭和1−10年までは、内地のみ、昭和12−14年は海外分を含む。
例えば、昭和11年末の勧銀の台湾への抵当貸付は6830万円であった。また、昭和12年末の普通銀行の海外への土地建 物抵当貸付は3180万円であった。
3 年末残高の右数字は、各年末における抵当債権推定高を100とするときの構成を示す。
4 *印の年の残高は、6月末である。但し、普通銀行と貯蓄銀行の残高は12月末のものである。
主要な不動産抵当金融機関の中で普通銀行の減 (6)不動産価格の低落に因り貸付高の減少せるこ 少が特に顕著であったのは何故か。昭和期の普通 と等に基づくものであるが、他面各地に於ける 銀行の不動産抵当貸付の減少理由について数少な 小作争議の頻発するに伴ひ地方銀行が不動産抵 い当時の勧銀の「調査報告書」は次のように述べ 当貸出を嫌悪する傾向を生ぜることも亦一因で ている。 あろうと思われる」②。
「(1)財界不況に因り一般に資金の需要減退せる
こと(2)昭和2年の金融恐慌に因り資本が大銀 すなわち、普通銀行の不動産抵当貸付高の「近 行に集中して地方銀行特に2、3流銀行に於て 時漸減の傾向」の主な理由は、「資金の需要減退」、
資金の減少を来せること(3)政府が普通銀行に 「地方銀行特に2、3流銀行」の資金の減少、政 対し不動産貸出の制限を勧奨したること並に金 府の不動産貸出の制限の「勧奨」、地方中小産業 融業者が一般に貸出を警戒せること(4)2、3 貸出の減少、他金融機関の不動産金融への進出、
流銀行の激減に因り地方並に中小産業に対する 担保価格の下落による貸付高の減少である。
貸出の減少せること (5)不動産銀行の進展並に 「調査報告書」は、このように多くの理由を列 信託会社、保険会社の不動産金融界への進出 挙しているが、普通銀行が他の主要な不動産抵当
戦問期「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴 57
金融機関にくらべてその減少が著しい基本的な理 還の増大、他金融機関への借替・社債振替、不動 由は、(2)と(4)で指摘している金融恐慌によって資 産銀行への肩代り㈲である。
金が「大銀行に集中」し地方銀行とりわけ2、3 注目されるのは、普通銀行の不動産抵当貸付の 流銀行の資金が減少し、そしてそのために「地方 激減理由として指摘されている「固定貸付金の整 並びに中小産業に対する貸出」が減少したことで 理機運」の促進、「期限前償還」の増大が、主と あると考えられる。普通銀行数は、昭和1年末14 して抵当物の売却による負債整理を意味していた 20、3年末1031、5年末782、7年末538、9年末 のではないかと考えられることである。「調査報 484、11年末424と、主として「1県1行主義」を 告書」は、この点をはっきり指摘しているわけで 目指す銀行合同によって減少した。つまり、昭和 はないが、いくらインフレーション政策が浸透し 初期の銀行合同は、不動産抵当金融機関としての たとしても債務者の余裕金だけで負債の整理が出 普通銀行を大幅に減少せしめた(3)。この点は、「不 来たとは考えにくいからである。この点は勧銀の 動産金融」にしめる普通銀行の地位の大きさから 債務者を見ればより明確となる。
して、1920年代後半から1930年代にかけての「不 勧銀の貸付の年末残高は、昭和6年末7億3400 動産金融」収縮の基本的な理由の1つであった。 万円、7年末7億5790万円、8年末7億1700万円、
1920年代初頭の不動産金融膨張の主要な担い手で 9年末6億8900万円、10年末6億6100万円と農銀 あった普通銀行は、昭和期には収縮の主要な担い と同様に残高を減らしていた。この点は田畑、宅 手になった。 地建物において変りはなかった。貸付残高の減少
ところで勧銀の「調査報告書」は先の引用につ 理由について勧銀の調査資料は次のように述べて ついて不動産抵当貸付の激減理由について次のよ いる。
うに指摘する。 「期末貸付現在高ノ減少ヲ見ルニ至リタルハ、
「而して昭和7年乃至9年において不動産抵当 一般二資金ノ需要ガ減退セルニ加へ、有価証券 貸付高の減少が特に著しかったのは、新規事業 ノ値上リ又ハ不動産売買ノ増加二伴ヒ不動産担 資金の需要未だ台頭するに至らず加ふるに財界 保二依ラズシテ容易二資金ヲ調達シ得ルニ至リ 好転と時局匡救事業費並に軍事費等巨額の政府 タルコト及金融情勢ノ好転ト不動産価格ノ漸騰 資金の散布に因り一般に手許が幾分の余裕を示 トニ依リ不動産抵当債務ノ整理返済ガ容易トナ すに至りたる為め固定貸付金の整理気運を促し リ既往貸付金ノ期限前償還ヲ促進シタルノミナ たること、財界が好調を持続せる為め貸付金の ラズ、延滞金ノ回収ヲ良好ナラシメタルコト等 期限前償還が相次で行なはれたこと、金融緩慢、 二基クモノナルベシ。
金利低下の傾向顕著となるに及び普通銀行の抵 今簡単二各抵当別二付其ノ主要ナル原因ヲ述 当債務にして他の金融機関に低利に借換へられ ブレバ左ノゴトシ。田畑貸付現在高ノ減少ハ農 又は社債に振替へられたるもの多かりしことに 村二於ケル新規貸出ノ不振ガソノ主因ナルベキ 因るは勿論であるが、此の外不動産融資及損失 モ、農村匡救二関スル諸般ノ施設二伴ヒ農村二 補償法が実施せられて普通銀行に固定せる抵当 散布セラレタル資金ヲ以ッテ債務ヲ償還シ得ル 債務にして不動産銀行に肩替りせられたるもの モノ生ジタルコト、農村信用組合其ノ他ノ機関 の存する事も亦看過し得ない原因であろうと思 二低利借替セラレタルコト、不動産ノ売買容易 われる」④。 トナリ之ガ売却ニョリテ債務ヲ整理スルニ至リ タルコト及近時農産物価ノ高値維持ニヨリテ農 昭和7〜9年の激減理由は、「財界好転」と「政 家ノ収入増加シ手許二多少ノ余裕ヲ生ジ債務ヲ 府資金の散布」による「固定貸付金の整理機運」 整理スルモノ生ジタルコト等モ…一因ナルベシ。
の促進、財界の「好調」「持続」による期限前償 宅地建物貸付現在高ノ減少ハ新規資金ノ需要
58 茨城大学政経学会雑誌 第62号
減退二伴フ貸出減少ノ外、他ノ金融機関ヘノ借 ノ整理返済」したことが、主要な減少理由の1つ 替、所有有価証券又ハ抵当物ノ売却ニヨル債務 として指摘されているのである。抵当物の売却が ノ弁済等二因ルモノナルベシ。 期限前償還の増加要因としていかに重要な位置を
工場及各種財団貸付現在高ノ減少ハ、大口貸 しめていたかを統計的に全面的に把握することは 付金ガ他ノ金融機関二借替プレ、又ハ起債市場 困難である。断片的な統計ではあるが見ておこう。
ノ活況二乗ジテ借入金ヲ社債二振替ヘラルルニ 勧銀の期限前償還について、1930年代前半の勧 至リタル外未ダ新規事業資金ノ需要ガ喚起セラ 銀の各期の総償還高に対する臨時償還の割合は40 ルルニ至ラズシテ新規貸出ノ減少シタル結果ナ %前後であった(昭和6年下期37%、7年上期40 ルベシ」(6〕(下線・・筆者)。 %、下期40%、8年上期48%、9年上期51%、下
期37%、10年上期37%、下期37%、11年上期45%)。
見られるように勧銀の貸付残高の減少の理由は、 臨時償還高は昭和6年下期の1427万円から10年下 第1に「新規貸出ノ不振」である。これは、「資 期の2318万円へと増加しつつあったが、その理由 金ノ需要」の「減退」と資金需要者が「有価証券 は、「最近ノ金融緩慢、金利低下ノ趨勢二乗ジ社
ノ値上リ又ハ不動産売買ノ増加」によって「不動 債ヲ発行シテ本行ノ債務ヲ償還スルモノ、他ノ金 産金融」以外から資金を調達するようになったか 融機関二低利借替スルモノ、或ハ手許二多少ノ余 らである。農村では「新規貸出ノ不振」が「主因」 裕金ヲ生ジ債務ヲ償還スルモノ、又ハ不動産ノ処 である。第2に期限前償還の増大である。これは、 分ガ漸次容易トナリ抵当物ヲ売却シテ債務ヲ償還
①抵当物の売却による債務の整理、②収入の増加 スルモノ等相次イデ生ジタルガタメ」(7)であった。
による債務の整理③他金融機関への借替、社債 ところで、不動産銀行の期限前償還が急増した への振替によってもたらされた。 のは、もちろんこの時期がはじめてではない。期 このように勧銀の貸付残高の減少の理由は単純 限前償還は日露戦争後の明治39年に最初に生じて ではないが、「金融情勢ノ好転ト不動産価格ノ漸 以来何回か繰り返された。2度目は第一次大戦中 騰ニヨリ不動産抵当債務ノ整理返済ガ容易トナリ であり3度目は大正13−15年頃であり、その意味 既往貸付金ノ期限前償還ヲ促進シタ」。言い換え では今回のそれは4度目であった。歴史的に見て ると、都市においても農村においても債務者が抵 こうした期限前償還は金融が緩慢となり市中金利 当物を売却して資金を調達し、「不動産抵当債務 が不動産抵当貸付金利よりも低利になるとか景気
【第6表】期限前償還資金調達種別(勧業銀行)
(単位:万円、未満切捨)
他にて借替 抵当物売却 手許余裕金 そ の 他 計 9年上期 633 458 489 353 1935
下期 1064 469 863 304 2701
10年上期 1287 523 675 442 2929
下期 953 540 761 304 2560
11年上期 1644 655 899 707 3906
下期 857 743 934 213 2748
12年上期 713 1216 935 251 3116
7期計 7154 4607 5559 2577 19898
注1 資料:勧銀『日本勧業銀行史』昭和28年6月、594頁。
戦間期「不動産金融」の歴史的位置、構造の特徴 59
が良好で手許余裕金が出来たことによって生じた 第1の目的は、不良資産の整理にあったと思う」
ものであった(8)。その意味で1930年代前半の期限 と指摘する。ここで言う「不良資産」は固定不動 前償還の基本的特徴はそれが抵当物の売却によっ 産貸出であった。すなわち、「固定不動産融資資金 て生じている点にある。 化問題」は、主要には「合同の際に除外資産整理
【第6表】は、勧銀の期限前償還資金調達別の によって解決されたと考えられる」(89頁)という。
統計である。昭和9年上期から12年上期の7期の (4)前掲、『普通銀行の不動産抵当貸付状況に就いて』、
期限前償還金額1億9898万円の内訳は、他にて借 7頁。
替7154万円、抵当物売却4607万円、手許余裕金55 (5)不動産融資損失補償法(昭和7年10月施行)の 59万円、その他2577万円である。抵当物の売却が 核心は農銀・勧銀・拓銀が不動産資金の融資を行 23%をしめている。借替えや手許余裕金が大きな なう場合、特殊銀行の法規によらないということ 割合をしめているが、他の金融機関においても不 と、融資銀行が損失を受けたときは1億円を限度 動産抵当貸付残高を減少していたこと、統計が財 に政府が補償することにある。この法案は、政策 界の好転する時期であることを勘案すれば抵当物 的には農業恐慌の対応として出されたが、その本 売却が期限前償還にしめる位置は決して小さくは 質は地方銀行の救済にあった。この法案の実績が なかったといえよう。 奮わなかったのは其のためである。地方銀行の経 以上、1930年代の「不動産金融」収縮の主要な 営危機は、1934年前後から一応解消したからであ 理由の1つは、抵当物の売却にあることを検討し る。(伊藤正直「昭和農業恐慌前後の勧銀・農銀 た。 論」〈加藤俊彦編『日本金融論の史的研究』205頁〉、
参照。
2節の注 ところでこの法律に基づく融資の実績は、昭和
(1)産業組合の有担保貸付は昭和5年度末3億7100 14年10月末現在では、累計で8131口5308万円であ 万円で、無担保貸付の5億5800万円に及ばなかっ った。その内訳は、勧銀3678万円、農銀1608万円、
たが、しだいに有担保貸付にウエイトを掛け11年 拓銀22万円であった一この時の残高は2400万円(勧 度末には5億2100万円とほぼ等しくなっている。 銀『不動産金融の実績く業務参考資料〉』第29号、
他の金融機関が「不動産金融」から撤退するのと 昭和14年12月)。
比較して対称的な動きを示している。 (6)勧銀『最近十期間二於ケル本行有抵当貸付状況 其理由については、勧銀「信用組合に関する調 調』(昭和11年頃)。22−23頁。
査」『調査彙報』第9輯、昭和11年2月、参照。 (7)同前、12−13頁。
(2)勧銀『普通銀行の不動産抵当貸付状況に就いて』 (8)勧銀の期限前償還の原因について『日本勧業銀 昭和12年11月、6−7頁。 行史』(昭和28年)がどのように理解しているかを
(3)地方銀行を研究された進藤寛氏は、「戦時下にお 見ておこう。
ける地方銀行の合同」(『金融経済』66号、1961年 日露戦争後の明治39年、最初の期限前償還がお 2月)で、この当時広範に行なわれた銀行合同が こった。その理由は、「外資輸入その他の理由によ
「固定不動産融資資金化問題」の解決に果たした る金融緩慢」のために「市中金利は低下し」、勧銀 役割について考察している。 の「貸付金利は割高」となったためであった(236 氏は、銀行合同の内的要因が「不良資産の整理」 頁)。次の期限前償還は大正4〜7年にかけておこ
、 にあったことを解明された。「1県1行主義の初期 った。これは大戦中の「異常な金融緩慢」と「低 の合同は慢性的不況がもたらした地銀資産不良化 金利」のためであった。「こうした時期に長期貸付 問題を解消するという点を忘れてはならない。… 金がより低利で潤沢な他の資金によって置き換え
(中略)…この期(昭和8−11、2年)の合同の られるのは自然の理である」(348頁)。大正末期の
60 茨城大学政経学会雑誌 第62号
期限前償還は、「少数の大銀行には遊資が集まって、 動産金融」の運動を検討した。要約すると、戦前 金融は異常の緩慢を見るに至り」、農産物の「増収」、 期の「不動産金融」は膨張→停滞・収縮の循環運 相当の「外資の導入」(483〜84頁)のもとでおこった。 動をしており、1910年代初頭から始まる過程を第
1930年代の期限前償還の「原因は、今迄と同様、 1段階とすれば戦間期の循環は第2段階であるこ 第1には一般市中金利の低下である。『近時低金利 と、戦間期の「不動産金融」は、1920年代の膨張・
時代ノ出現二伴ヒ、信託会社、保険会社、普通銀 発展期と1930年代前半の収縮・後退期に区分され 行、其ノ他ノ金融機関ノ進出ガ顕著トナリ、又需 ること、第一次大戦後から1920年代にかけての「不 要者側二於イテモ必ズシモ資金ノ性質二重キヲ置 動産金融」の膨張は、起債高の急増に特徴づけら カズ、寧ロ目先ノ負担軽減二専念シテ、短期資金 れる過程と残高の増大をもたらす2つの過程があ ヲモ敢テ厭ハナイ傾向ガ現ハレテ来』たので…、 り、後者は、前者の帰結でもあること、抵当物価 都市方面では、当行の貸付金がこれらの金融機関 格の上昇、貸出の大口化に依存する方向でなされ によって低利に借替えられた。農村でも、鑑定評 たこと、そしてその推進は、普通・貯蓄銀行と不 価が厳格な当行の貸付に対して、『金を剰した地方 動産銀行のみならず「個人」其他を含む全金融機 銀行が盛んに其肩替を誘惑するに至った。よって 関によってなされ、1910年代のそれが不動産銀行 多数の借主は金利の割高であることよりも寧ろ貸 主導(「不動産金融」進出)のものであったのとは 付高の多い関係から続々地方銀行に鞍替するもの 異なっていること、1930年代の「不動産金融」収 が出て来た』。」(593〜4頁)。 縮の主要な理由の1つは抵当物の売却にあること
このように『日本勧業銀行史』の筆者は、全歴 を検討した。
史を通じて期限前償還の生じる理由は「市中金利」 「不動産金融」の問題は単に金融機関の経営的 の低下による他金融機関への借替えであると理解 側面からの分析のみならず、不動産金融市場史と している。私は、1930年代の期限前償還の原因を して展開する必要がある。そうすることによって それまでのものと同一視する考え方には疑問を抱 はじめて戦後、とりわけ1980年代後半の市街宅地 いている。 を抵当とする金融の諸問題が戦前との関わりで明
らかにされるものと考える。1980年代後半の「不 おわりに 動産金融」問題(=異常な膨張)は、少なくとも、
以上、戦間期の動きを中心に戦前期日本の「不 明治末期より繰返されてきたのである。