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王 通 『 中 説 』 訳 注 稿 ( 三 )

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(1)

王通『中説』訳注稿(三) 中説卷第三事君篇(一)房玄齡問事君之道。子曰、無私。問使人之道。曰、無偏。曰、敢問化人之道。子曰、正其心。問禮樂。子曰、王道盛、則禮樂從而興焉、非爾所及也

  房玄齢が君主に奉仕する際の道を問うた。先生が言うには「私の心を持たないことだ」。人臣を使役する際の道を問うた。(先生が)言うには「偏りのないようにすることだ」。(房玄齢が)言った「ずばり人民を教化する際の道をおうかがいします」。先生は言った「自らの心を正しいものにすることだ」。礼楽について問うた。先生は言った「王道が隆盛に向かえば、礼楽もそれに付き従って振興するものであって、君にできることではないよ」。

⑴  事君

  『論語』

憲問「子路問事君。子曰、勿欺也、而犯之(何晏集解、孔曰、事君之道、義不可欺、當能犯顏諫爭)」。⑵  無私  張氏注「左傳・成公九年、無私、忠也。韓非子・愛臣、人臣處國無私朝、居軍無私交、其府庫不得私貸於家」。⑶  使人   『論語』

子路「子曰、君子易事而難説也(孔曰、不責備於一人、 故易事)。説之不以道、不説也。及其使人也、器之(孔曰、度才而官之)。小人難事而易説也。説之雖不以道、説也。及其使人也、求備焉」。⑷  無偏  王道篇(一)注⑴、參照。⑸  化人

  『禮

記』學記「就賢體遠、足以動衆、未足以化民(鄭玄注、就謂躬下之、體猶親也)」。⑹  正其心

  『禮記』

大學「欲脩其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意」。⑺  非爾所及也

  『論語』

公冶長「子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人。子曰、賜也、非爾所及也(孔曰、言不能止人使不加非義於己)」。

(二)或問楊素。子曰、作福作威玉食。不知其他也

  ある人が、楊素とはどういう人物かを質問した。先生は言った「(君主でもないのに)人を賞し人を罰し、贅沢な食事を揃えています。その他は存じません」。

⑴  作福作威玉食

  『書』

洪範「惟辟作福、惟辟作威、惟辟玉食。臣無有作福作威玉食。臣之有作福作威玉食、其害于而家、凶于而國」。

王通 『中説』 訳注稿 (三)

  田   恭   哉

  

(2)

⑵  不知其他也

  『左傳』

成公九年「對曰、其爲大子也、師保奉之、以朝于嬰齊、而夕于側也。不知其他」、哀公九年「鄭方有罪、不可救也。救鄭則不吉、不知其他」、『莊子』讓王「(卞随)曰、強力忍垢、吾不知其他也」。

(三)房玄齡問郡縣之治。子曰、宗周列國、八百餘年。皇漢雜建、四百餘載。魏・晉已降、滅亡不暇。吾不知其用也

  房玄齢が郡県制による統治について問うた。先生は言った「周王朝は整然と諸侯を封じることで、八百年余り続いた。漢王朝は雑然と功臣宗室を封じることで、四百年余り続いた。魏晋以降、(封爵が有名無実化してしまって)国家の滅亡は応接に暇がないほどではないか。私にはその実用性が理解できかねる」。

⑴  郡縣之治  阮逸注「秦罷侯置守、郡縣始於此」、張氏注「史記・始皇本紀、秦統一六國、用李斯議、分天下以爲三十六郡、郡置守・尉・監」。⑵  宗周至餘年  阮逸注「列國、謂封建五等諸侯」。⑶  皇漢至餘載  阮逸注「漢監秦亡之勢、雖無五等、而雜封功臣宗室子弟」。⑷  魏晉至不暇  阮逸注「魏・晉亦有封爵、然虚名無實、故滅於權臣之手」。⑸  吾不知其用也  阮逸注「觀周・漢之永、魏・晉之促、其用可知矣」。

(四)楊素使謂子曰、盍仕乎。子曰、疏屬之南、汾水之曲、有先人之敝廬在、可以避風雨、有田、可以具饘粥。彈琴著書、講道勸義、自樂也。願君侯正身以統天下、時和歳豐、則通也受賜多矣、不願仕也

  楊素の使者が先生に言った「お仕え頂けませんか」。先生は言った「疏 属山の南、汾水の隈に、先祖からの襤褸屋がありまして、雨風も凌げますし、田んぼもあって、粥の食事も用意できます。琴を弾いて書物を著し、道義を講じて押し広めれば、それで満足です。どうかあなた様(楊素)が自らを律して天下をまとめられ、時節が調和し実り豊かな年を迎えられれば、わたし通の恩恵も多大でありまして、仕官などとんでもありません」。

⑴  盍仕乎

  『孔 叢子』獨治「子魚謂其徒叔孫通曰、子之學可矣、盍仕乎」。⑵  疏屬  張氏注「疏屬、山名、見於山海經・海内北經、阮逸以爲卽管岑(涔)山。按、山海經・北山經載管涔山在河之東、其首枕汾……汾水出焉、而西流注於河、是則疏屬・管涔分別爲兩山。據實地考察、疏屬山在今山西省河津縣東南吳村一帶」。⑶  先人之敝廬在

  『禮記』

檀弓下「君之臣不免於罪、則將肆諸市朝、而妻妾執。君之臣免於罪、則有先人之敝廬在、君無所辱命(鄭玄注、無所辱命、辭不受也)」。⑷  避風雨

  『周易』

繫辭傳下「上古穴居而野處。後世聖人、易之以宮室、上棟下宇、以待風雨」、『左傳』僖公三十二年「殽有二陵焉……其北陵、文王之所辟風雨也」。⑸  饘粥

  『禮記』

檀弓上「哭泣之哀、齊斬之情、饘粥之食、自天子達」、『左傳』昭公七年「饘於是、鬻於是、以餬余口(杜預注、饘鬻、餬屬、言至儉)」。⑹  自樂

  『詩』

小雅・魚藻序「魚藻。刺幽王也。言萬物失其性、王居鎬京、將不能以自樂。故君子思古之武王焉」。⑺  正身以統天下

  『禮記』

大學「古之欲明明德於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先脩其身。欲脩其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。物格而后知至、知至而后意誠、意誠而后心正、心正而后身脩、身

(3)

王通『中説』訳注稿(三) 脩而后家齊、家齊而后國治、國治而后天下平」。朱熹「答梁丞相書」(『晦庵先生朱文公文集』卷二十七)「但以正此退藏、不當出位、是以於政體之是非、人材之邪正、一毫不敢有所陳説、而獨請以王通所謂願君侯正身以統天下者、敬爲明公誦之。其言雖近、其指則遠」。⑻  時和歳豐   『詩』

小雅・華黍序「華黍。時和歳豐、宜黍稷也」。⑼  受賜

  『論語』

憲問「子曰、管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下。民到于今受其賜(何晏集解、受其賜者、爲不被髮左衽之惠)」。⑽  楊素至仕也

  『莊子』

讓王「孔子謂顏回曰、回、來。家貧居卑、胡不仕乎。顏回對曰、不願仕。回有郭外之田五十畝、足以給飦粥。郭内之田十畝、足以爲絲麻。鼓琴足以自娛。所學夫子之道者、足以自樂也。回不願仕」。

(五)子曰、古之爲政者、先德而後刑、故其人悅以恕。今之爲政者、任刑而棄德、故其人怨以詐

  先生が言った「古の為政者は、徳化によることを第一として、刑罰は二の次にしたために、その治下の人々は喜び心服して、すべてを受け容れた。今の為政者は、刑罰によるばかりで、徳化を忘却しているために、その治下の人々は疑心暗鬼を生じて、そこから何とか逃れようとする」。

⑴  爲政

  『論語』

爲政「子曰、爲政以德、譬如北辰。居其所、而衆星共之」。⑵  先德而後刑

  『論語』

爲政「子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以德、齊之以禮、有恥且格」、『管子』勢「故不犯天時、不亂民功、秉時養人、先德後刑(房玄齡注、賞以春夏、刑以秋冬)、順於天、微度人(既順於天、又微度人之所宜以合之)」、『漢書』董仲舒傳「天道之大者、在陰陽。陽爲德、陰爲刑。刑主殺而德主生。是故陽常居大夏、而以生育養長爲事。陰常居大冬、而積於空虛不用之處。 以此見天之任德不任刑也」。⑶  其人悅以恕  阮逸注「悦、謂知德及我。恕、謂知刑不得已而行」。⑷  古之・今之

  『論

語』憲問「子曰、古之學者爲己、今之學者爲人(何晏集解、孔曰、爲己、履而行之。爲人、徒能言之)」。⑸  棄德

  『左 傳』隱公三年「公曰、不可。先君以寡人爲賢、使主社稷。若弃德不讓、是廢先君之舉也。豈曰能賢(杜預注、言不讓、則不足稱賢)」。⑹  其人怨以詐  阮逸注「怨、謂不敎我而致我犯。詐、謂矯求苟免」。

(六)子曰、古之從仕者養人、今之從仕者養己

  先生が言った「古の仕官する者は人民を養い、今の仕官する者は自己を養う」。

⑴  古之・今之  事君篇(五)注⑷、參照。

(七)子曰、甚矣、齊文宣之虐也。姚義曰、何謂克終。子曰、有楊遵彥者、實掌國命、視民如傷。奚爲不終

  先生が言った「凄まじいものだなあ、(北)斉・文宣帝の暴虐ぶりは」。姚義が言った「なぜ亡国を免れたのでしょうか」。先生は言った「楊遵彦(楊愔)という者がおり、国家の命運を掌握し、民衆を傷付いた者のように労った。どうして亡国を免れないことがあろう」。

⑴  甚矣、齊文宣之虐也  阮逸注「北齊・高洋、以峻法御下」。『論語』述而「子曰、甚矣、吾衰也。久矣吾不復夢見周公」。⑵  克終

  『三國志』

蜀書・馬良傳「其人吉士、荊楚之令、鮮於造次之華、而有克終之美」。⑶  楊遵彥  阮逸注「楊愔、字遵彥、文宣時爲尚書、本史稱朝章國命、一人而已」。

(4)

一〇

⑷  視民如傷

  『左傳』

哀公元年「臣聞國之興也、視民如傷、是其福也(杜預注、如傷、恐驚動)」。⑸  奚爲不終  張氏注「論語・憲問、孔子言衞靈公無道、康子問、夫如是、奚而不喪。曰、仲叔圉治賓客、祝鮀治宗廟、王孫賈治軍旅。夫如是、奚其喪。王通論齊文宣、一如孔子論衞靈」。

(八)竇威好議禮。子曰、威也賢乎哉。我則不敢

  竇威は礼について議論するのを好んだ。先生が言った「威は賢いのかねえ。私はとてもそんなことできないけれども」。

⑴  威也至不敢  阮逸注「威所好者、禮之文耳。文中子不敢者、禮之情也。夫知禮樂之情者能作、識禮樂之文者能述。隋室禮壞、賢威有心、大抵治定而後議、今非其時、故曰不敢」。『論語』憲問「子貢方人(何晏集解、孔曰、比方人也)。子曰、賜也賢乎哉。夫我則不暇(孔曰、不暇比方人也)」。

(九)北山丈人謂文中子曰、何謂遑遑者、無乃急歟。子曰、非敢急。傷時怠也

  北山のある老人が文中子に言った「なぜにこうも慌てなさるのか、あまりに性急に過ぎるのではあるまいか」。先生は言った「性急でありたいのではないのです。時代の衰滅に気が揉めるのです」。

⑴  北山丈人  阮逸注「山海經云、北山之首曰單狐。丈人、無名氏」。⑵  北山至怠也

  『論語』

憲問「微生畒謂孔子曰、丘何爲是栖栖者與。無乃爲佞乎。孔子曰、非敢爲佞也、疾固也(何晏集解、包曰、疾世固陋、欲行道以化之)」、『説苑』善説「論若三子之行、未得爲孔子駿徒也。今孔子經營天下、南有陳蔡之阨、而北干景公、三坐而五立、未嘗離也。孔子之時不行、而景公之時怠也。以孔子之聖不能以時行説 之怠、亦獨能如之何乎」。

(一〇)子曰、吾不度不執、不常不遂

  先生が言った「私は正しさを見定めなければ執り行なわないし、常なる道理でなければ遂行しない」。

⑴  吾不至不遂

  『論語』

述而「子曰、不憤不啟、不悱不發」。

(一一)房玄齡曰、書云、霍光廢帝舉帝、何謂也。子曰、何必霍光。古之大臣、廢昏舉明、所以康天下也

  房玄齢が言った「『続書』に、霍光が皇帝を廃位し(新たな)皇帝を推戴したとありますが、どういうことですか」。先生は言った「霍光に限らないのではないか。古の大臣たちが、暗愚な君主を廃位し賢明な君主を推戴したのは、天下を安寧に導くやり方だったのだ」。

⑴  書云霍光廢帝舉帝  阮逸注「續書有霍光之命、言廢帝舉帝之事。光、字子孟。先是武帝畫周公相成王圖以賜光、光盡忠輔之。昭帝崩、立昌邑王賀、賀有罪三千餘、光廢之、而立宣帝。續書云、大臣之義、載於業者有七、其一曰命。文中子曰、書有命邃矣。其有成敗於其間、天下懸之、不得已而臨之乎」。注引文中子、見于問易篇。大臣之義七目、見于周公篇。⑵  大臣

  『論語』

先進「所謂大臣者、以道事君、不可則止」。⑶  書云至下也  阮逸注「古若伊尹」、張氏注「漢書・霍光傳、昌邑王既立、行淫亂。霍光憂懣、問於田延年。延年曰、將軍爲國柱石、審此人不可、何不建白太后、更選賢而立之。光曰、今欲如是、於古嘗有此不。延年曰、伊尹相殷、廢太甲以安宗廟、後世稱其忠。將軍若能行此、亦漢之伊尹也。光意乃決」。『論語』憲問「子張曰、書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也。子曰、何必高宗、古之人皆然。君薨、

(5)

一一王通『中説』訳注稿(三) 百官總己、以聽於冢宰三年」。

(一二)子遊河間之渚。河上丈人曰、何居乎、斯人也。心若醉六經、目若營四海。何居乎、斯人也。文中子去之。薛收曰、何人也。子曰、隱者也。收曰、盍從之乎。子曰、吾與彼不相從久矣。至人相從乎。子曰、否也

  先生が河間の中洲に遊行した。河上のある老人が言った「どうしたというのだ、この人は。心はまるで六経に酔い痴れ、目は他者のことに齷齪して疲れ切っているかのようだ。どうしたというのだ、この人は」。文中子は彼の下を立ち去った。薛収が言った「あの人は何者ですか」。先生は言った「隠者だよ」。収が言った「どうして彼に付き従われないのですか」。先生は言った「私の道と彼の道が互いに付き従わないようになって随分が経つのだよ」。(収)「(自我を超越した)至人とであれば、互いに付き従われますか」。先生は言った「いいや」。

⑴  河間之渚  阮逸注「隋河間郡連涿水渚、今深州」、張氏注「河間之渚、今山西河津一帶。渚、水中小洲」。⑵  河上丈人  阮逸注「丈人、無名氏」。⑶  何居乎  王道篇(二五)注⑴、參照、張氏注「莊子・齊物論、何居乎。形固可使如槁木、而心固可使如死灰乎」。⑷  斯人也

  『論

語』雍也「伯牛有疾、子問之。自牖執其手、曰、亡之、命矣夫。斯人也、而有斯疾也。斯人也、而有斯疾也」。⑸  目若營四海

  『莊子』

外物「老萊子之弟子出薪、遇仲尼。反以告、曰、有人於彼、脩上而趨下、末僂而後耳、視若營四海(郭象注、視之儡然、似營他人事者。釋文、夫勞形役智、以應世務、失其自然者也)、不知其誰氏之子」。⑹  子遊至者也

  『論語』

微子「子路從而後、遇丈人以杖荷蓧(何晏集解、包曰、丈人、老人也。杖、竹器)。子路問曰、子見夫子乎。丈人曰、 四體不動、五穀不分、孰爲夫子(包曰、丈人云、不勤勞四體、不分殖五穀、誰爲夫子而索之邪)。植其杖而芸(孔曰、植、倚也。除草曰芸)。子路拱而立(未知所以荅)。止子路宿、殺雞爲黍而食之。見其二子焉。明日、子路行以告。子曰、隱者也。使子路反見之、至則行矣(孔曰、子路反至其家、丈人出行不在)。子路曰、不仕無義(鄭曰、留言以語丈人之二子)。長幼之節、不可廢也。君臣之義、如之何其廢之(孔曰、言女知父子相養、不可廢、反可廢君臣之義邪)。欲絜其身、而亂大倫(包曰、倫、道理也)。君子之仕也、行其義也。道之不行、己知之矣(包曰、言君子之仕、所以行君臣之義、不必自己道得行。孔子道不見用、自已知之)」。⑺  吾與彼不相從久矣  阮逸注「吾、吾道也。吾道自仲尼與荷蓧丈人已來不相從也、故曰久矣」。⑻  至人相從乎  阮逸注「収問至人無名、還從隱乎」。『莊子』逍遥遊「至人無己(郭象注、無己故順物、順物而王矣)、神人無功、聖人無名」、人間世「古之至人、先存諸己而後存諸人、所存於己者未定、何暇至於暴人之所行」、外物「唯至人乃能遊於世而不僻、順人而不失己」、張氏注「莊子・天下、不離於宗、謂之天人。不離於精、謂之神人。不離於真、謂之至人」。⑼  否也  阮逸注「言至人有名而難名者也。今之隱者異於是、獨善一身、不以天下爲道」。

(一三)子在河上曰、滔滔乎。昔吾願止焉、而不可得也。今吾得之、止乎

  先生が河のほとりで言った「流れ行くのだなあ。かつて私は危うい時代には引っ込んでいようと努力してみたが、しかしそれはできなかった(から長安に献策に出向いたのだ)。いま私はそれができるのだ、(河曲に)引っ込んでいようではないか」。

(6)

一二

⑴  滔滔乎

  『論語』

微子「問於桀溺。桀溺曰、子爲誰。曰、爲仲由。曰、是魯孔丘之徒與。對曰、然。曰、滔滔者、天下皆是也。而誰以易之(何晏集解、孔曰、滔滔、周流之貌。言當今天下治亂同、空舍此適彼、故曰、誰以易之)」。⑵  子在至止乎  阮逸注「聖人時行則行、時止則止。昔常欲止而心猶有爲、故獻策於長安。今道之不行、得以止矣、故退居於河曲」、事君篇(一一)注⑵、參照。『論語』子罕「子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜(包曰、逝、往也。言凡往也者如川之流)」。

(一四)子見牧守屢易、曰、堯・舜三載考績、仲尼三年有成。今旬月而易、吾不知其道。薛收曰、如何。子曰、三代之興、邦家有社稷焉。兩漢之盛、牧守有子孫焉。不如是之亟也。無定主而責之以忠、無定民而責之以化。雖曰能之、末由也已

  先生が地方長官の度々交替するのを見て、言った「(地方長官について)堯・舜は三年で成績を考査し、仲尼は三年で実績を上げた。現在ではごく短い期間で交替するが、私はそうしたやり方を聞いたことがない」。薛収が言った「どういうことですか」。先生は言った「三代の世が興隆すると、諸侯・卿大夫が代々社稷を祀った。両漢の盛大な世には、地方長官を後代の者が継承することがあった。こうも拙速ではなかったのだよ。確たる君主もいないのに、彼に対する忠誠を要求し、確たる人民もいないのに、それに対する教化を要求する。これはできるとは口で言えても、実際にはできようがない」。

⑴  堯・舜三載考績

  『書

』舜典「三載考績、三考黜陟幽明(孔傳、三年有成、故以考功、九歳則能否幽明有別、黜退其幽者、升進其明者)」。⑵  仲尼三年有成

  『論語』

子路「子曰、苟有用我者、期月而已可也、三年有成(何晏集解、孔曰、言誠有用我於政事者、期月而可以行其政 教、必三年乃有成功)」。⑶  吾不知其道

  『孟子』

盡心上「孟子曰、行之而不著焉、習矣而不察焉。終身由之、而不知其道者、衆也」、『莊子』漁父「客曰、吾聞之、可與往者與之、至於妙道。不可與往者、不知其道。慎勿與之、身乃无咎」。⑷  三代至稷焉  阮逸注「諸侯稱邦、卿大夫稱家、立社稷、世奉其祀」。『論語』先進「子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必讀書、然後爲學」。⑸  兩漢至孫焉  阮逸注「襲爵、通侯無罪國不除」。⑹  不如是之亟也   『論語』

子張「子貢曰、紂之不善、不如是之甚也」。⑺  雖曰能之、末由也已

  『論語』

子罕「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然、善誘人、博我以文、約我以禮。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已」。

(一五)賀若弼請射於子、發必中。子曰、美哉乎藝也。古君子志於道、據於德、依於仁、而後藝可遊也。弼不悅而退。子謂門人曰、矜而愎、難乎免於今之世矣

  賀若弼が射的を先生に(見てほしいと)願い出、射れば必ず的中した。先生は言った「美しいものですね、射という藝は。古の君子は道を思慕し、徳を根拠とし、仁に依頼し、そうして初めて六藝に遊んだのです」。弼は不満ながらに退去した。先生が門人に言った「驕り高ぶり頑なであっては、この世の中で生を全うすることは難しかろう」。

⑴  賀若至必中  阮逸注「弼、字輔伯、平陳有武功、爲揔管。隋主宴突厥人使、命之射、一發中的、命弼射、一發亦中的。弼自矜善射、故請子觀」。⑵  古君至遊也

  『論

語』述而「子曰、志於道(何晏集解、志、慕也。道不可體、故志之而已)、據於德(據、杖也。德有成形、故可據)、依於仁(依、倚也。仁者功施於人、故可倚)、遊於藝(藝、六藝也。不

(7)

一三王通『中説』訳注稿(三) 足據依、故曰遊)」。⑶  矜而愎   『後漢書』

袁紹傳「紹外寬雅有局度、憂喜不形於色、而性矜愎自高、短於從善、故至於敗」。⑷  難乎免於今之世矣

  『論語』

雍也「子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎免於今之世矣(孔曰、佞、口才也。祝鮀、衞大夫子魚也。時世貴之。宋朝、宋之美人而善淫。言當如祝鮀之佞、而反如宋朝之美、難乎免於今之世害也)」。

(一六)子謂荀悅、史乎史乎。謂陸機、文乎文乎。皆思過半矣

  先生が荀悅を「これが歴史だよ、歴史」と評した。陸機を「これが文学だよ、文学」と評した。二人とも(それぞれの)道の大半を体得しているのだ。

⑴  子謂至史乎  阮逸注「悦、字仲豫。漢獻帝時侍講禁中、依編年體著前漢紀三十篇。詞約事詳、申明制度」。『法言』吾子「或欲學蒼頡史篇(李軌注、多知奇難之字、故欲學之)、曰、史乎史乎、愈於妄闕也(再言史乎者、善之也。言勝於不學而妄名、不知而闕廢)」。『論語』憲問「蘧伯玉使人於孔子、孔子與之坐而問焉。曰、夫子何爲。對曰、夫子欲寡其過、而未能也。使者出、子曰、使乎使乎(何晏集解、陳曰、再言使乎者、善之也。言使得其人)」。⑵  謂陸至文乎  阮逸注「機、字士衡。作文賦及辯亡論、蓋有述作之志、復祖之風」。⑶  思過半矣

  『周易』

繫辭傳下「知者觀其彖辭、則思過半矣(韓康伯注、形而上者、可以觀道過半之益、不亦宜乎)」。

(一七)子謂文士之行可見、謝靈運、小人哉。其文傲、君子則謹。沈休文、小人哉。其文冶、君子則典。鮑昭・江淹、古之狷者也。其文急以怨。吳筠・孔珪、古之狂者也。其文怪以怒。謝莊・王融、古之纖 人也。其文碎。徐陵・庾信、古之夸人也。其文誕。或問孝綽兄弟。子曰、鄙人也。其文淫。或問湘東王兄弟。子曰、貪人也。其文繁。謝朓、淺人也。其文捷。江揔、詭人也。其文虛。皆古之不利人也。子謂顏延之・王儉・任昉、有君子之心焉。其文約以則。

  先生が文学家の行動が(それぞれの文辞の中に)見て取れるとして言うことには、「謝霊運は小人だなあ。彼の文辞は傲慢であり、君子の文辞とは謹厳なるものだ。沈休文(沈約)は小人だなあ。彼の文辞は艶冶であり、君子の文辞とは典則たるものだ。鮑照・江淹は、古の心狭き者たちである。彼らの文辞は性急であり怨声を含む。呉筠・孔珪(孔稚珪)は、古の強情な者たちである。彼らの文辞は奇怪であり怒気を帯びる。謝荘・王融は、古の脆弱なる人たちである。彼らの文辞は細砕だ。徐陵・庾信は、古の驕誇なる人たちである。彼らの文辞は迂誕だ」。ある人が劉孝綽兄弟について問うた。先生が言うには「野鄙な人たちである。彼らの文辞は淫靡だ」。ある人が湘東王兄弟について問うた。先生が言うには「貪欲な人たちである。彼らの文辞は煩瑣だ」。(先生)「謝朓は浅はかな人である。彼の文辞は軽薄だ。江揔は詐りの人である。彼の文辞は虚妄だ。誰もが古の世に害ある人物である」。先生が顔延之・王倹・任昉を評して「君子としての心持ちがある。彼らの文辞は簡約でありながら大則とし得る」と言った。

⑴  小人哉

  『論語』

子路「子曰、小人哉、樊須也」。⑵  謝靈至則謹  阮逸注「靈運、玄之孫、襲爵康樂公。性奢豪、曾爲永嘉太守、多遊山、不聽民訟。召爲侍中、稱疾不朝。此傲可見也」。⑶  沈休至則典  阮逸注「沈約、字休文。始制音韻、好艷冶之辭、梁朝士人宗之、益務妍侈。此冶可見矣」。⑷  鮑昭至以怨  阮逸注「昭、字明遠、爲宋臨江王參軍。有虛詞而官不達、故多怨刺。淹、字文通、爲宋建平王從事。有罪下獄上書、其言急。皆狷可見矣」。

(8)

一四

⑸  狷者・狂者

  『論

語』子路「子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎(何晏集解、包曰、中行、行能得其中者。言不得中行、則欲得狂狷者)。狂者進取、狷者有所不爲也(包曰、狂者進取於善道、狷者守節無爲。欲得此二人者、以時多進退、取其恒一)」。⑹  吳筠至以怒  張氏注「吳筠、即吳均、字叔庠、吳興故鄣人。文體清拔有古氣、時謂吳均體。嘗撰齊春秋、梁武帝以其書不實、使詰問數條、支離無對、敕付省焚之。見梁書・文學傳上」。阮逸注「孔雉珪、字德章。與江淹對掌文翰、而付肯伏淹。皆狂可見矣」。⑺  謝莊至文砕  阮逸注「莊、字希逸。善詞賦、歌詩傳於樂府。嘗作殷妃誄、使堯門故事、宋帝深銜之。融、字元長。文詞辯捷、長於屬綴。後坐罪誅。此纖碎可見矣」。⑻  徐陵至文誕  阮逸注「陵、字孝穆。陳後主詔册皆陵爲之。好裁緝新意、自成文體。信、字子山。與徐陵同爲學士、文體相夸、時稱徐庾。此誕可見矣」。⑼  孝綽至文淫  阮逸注「劉綽、字孝綽。兄弟孝威・孝儀、倶以才名顯。其舅王筠常稱孝綽、云、天下文章、若無我、當歸阿士。阿士、孝綽小名。蓋淫詞類舅。此鄙可見矣」。⑽  湘東至文繁  阮逸注「南齊世祖之子、湘東王名子建。與兄竟陵王・子良及隋郡王・子隆、皆好文章、有集傳世、然志貪富貴。繁可見矣」。⑾  謝朓至文捷  阮逸注「朓、字玄暉。爲齊新安王記室。牋詞敏捷。此淺可見矣」。⑿  江揔至文虛  阮逸注「揔、字揔持。與陳後主爲長夜之飲、相和爲詩、不持政事。此詭佞可見矣」。⒀  顏延至心焉  阮逸注「延之、字延年。宋時爲侍郎。常言天下之務、當與天下共之。平生不拘小節、不營財利。儉、字仲寶。南齊時爲尚書令。好禮學、文詞風流、自比謝安。上宴、命羣臣作樂、儉獨念封禪文。昉、字彦昇。梁時掌文誥、累爲太守。凡饋遺與親戚、以俸米 散荒民。當世士進無不歷其門者、昉接引之、常言憂人之憂、樂人之樂。此心可見矣」。『左傳』昭公二十八年「及饋之畢、願以小人之腹爲君子之心、屬厭而已(杜預注、屬、足也。言小人之腹飽、猶知厭足、君子之心亦宜然)」。

(一八)尚書召子仕。子使姚義往辭焉、曰、必不得已、署我於蜀。或曰、僻、子曰、吾得從嚴・揚游泳以卒世、何患乎僻

  尚書省が先生を招聘して仕官を求めた。先生が(弟子の)姚義を遣って辞退させ、言うには「もしどうしてもということであれば、私を蜀の地に任じてほしい」。ある人が「あまりに僻地です」と言うと、先生は「私は厳君平や揚雄の後を追い、自由気ままに生を全うできるのであれば、どうして僻地であることなどに思い悩もうか」と言った。

⑴  尚書召子仕  阮逸注「隋尚書署天下吏」、張氏注「其事在大業十年。文中子世家、大業元年、一征又不至、辭以疾。……大業十年、尚書召署蜀郡司戸、不就。十一年、以著作郎・國子博士征、並不至。參見天地篇・事君篇・述史篇及魏相篇等處記載」。⑵  必不得已

  『論語』

顏淵「子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已、而去於斯三者、何先。曰、去兵。子貢曰、必不得已而去於斯二者、何先。曰去食。自古皆有死、民無信不立」。⑶  吾得至乎僻  阮逸注「嚴君平・揚雄」。『論語』八佾「儀封人請見曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也。從者見之。出曰、二三子何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸」、顏淵「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命、富貴在天。君子敬而無失、與人恭而有禮。四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也」。

(一九)子曰、吾惡夫佞者、必也愚乎。愚者不妄動。吾惡夫豪者、必

(9)

一五王通『中説』訳注稿(三) 也吝乎。吝者不妄散

  先生が言った「私は口先ばかり達者な人間が嫌いであり、それくらいなら愚直な人間がいいかな。愚直な人間は分を超えて行動することはない。私は表向きばかり派手な人間が嫌いであり、それくらいなら吝嗇な人間がいいかな。吝嗇な人間は分を超えて散財することはない」。

⑴  吾惡夫佞者

  『論

語』先進「子路使子羔爲費宰。子曰、賊夫人之子。子路曰、有民人焉、有社稷焉。何必讀書、然後爲學。子曰、是故惡夫佞者(何晏集解、孔曰、疾其以口給應、遂已非而不知窮)」。⑵  必也愚(吝)乎  事君篇(一七)注⑸、參照。⑶  子曰至妄散  阮逸注「佞惑主、豪誘衆。不若愚・悋守其分」。

(二〇)子曰、達人哉、山濤也。多可而少怪。或曰、王戎賢乎。子曰、戎而賢、天下無不賢矣

  先生が言った「闊達なる人物だなあ、山涛は。認めるべき点が多く咎めるべき点が少ない」。ある人が言った「王戎は賢人ですか」。先生が言った「王戎が賢人ならば、天下に賢人でない者などいなくなってしまうよ」。

⑴  達人哉、山濤也  阮逸注「宏達」、事君篇(一七)注⑴、參照。山濤、天地篇(五)、參照。⑵  王戎  阮逸注「戎、字濬沖。晉司徒」。⑶  戎而賢、天下無不賢矣  阮逸注「戎典選、未嘗進寒素、近虛名、天下目矣膏肓之疾。及愍・懷之廢、又無一言以諫、但苟且簡靜容身而已。實非賢」。

(二一)子曰、陳思王可謂達理者也。以天下讓、時人莫之知也

  先生が言った「陳思王(曹植)は、道理に通達した人間と言える。この 世の君主としての地位を兄・曹丕に譲ったのだが、当時の人々はそのことを知らなかった」。

⑴  以天下讓

  『論語』

泰伯「子曰、泰伯、其可謂至德也已矣。三以天下讓、民無得而稱焉(何晏集解、王曰、泰伯、周太王之長子。次弟仲雍、少弟季歷。季歷賢、又生聖子文王昌。昌必有天下、故泰伯以天下三讓於王季。其讓隱、故無得而稱言之者。所以以爲至德也)」。⑵  時人莫之知也  阮逸注「曹植、字子建。魏祖欲立爲太子、植不自雕礪、飲酒晦跡。兄文帝矯情自飾、以求爲嗣。人不知子建讓兄耳」。『論語』憲問「自經於溝瀆而莫之知也」。

(二二)子曰、君子哉、思王也。其文深以典

  先生が言った「君子であるなあ、陳思王は。彼の文章は深遠で典麗なるものだ」。

⑴  君子哉、思王也

  『論語』

衞靈公「君子哉、蘧伯玉。邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之」。⑵  其文深以典  阮逸注「親親表、典矣。出師表、深矣」。

(二三)房玄齡問史。子曰、古之史也辯道、今之史也耀文。問文。子曰、古之文也約以達、今之文也繁以塞

  房玄齢が史書について問うた。先生は言った「古の史書は道理を弁別し、今の史書は文章を過飾する」。文章について問うた。先生は言った「古の文章は簡約であって意が通達し、今の文章は繁蕪であって意が閉塞する」。

⑴  古之・今之  事君篇(五)注⑷、參照。張氏注「王通曰、子謂薛收曰、昔聖人述史三焉。其述書也、帝王之制備矣。故索焉而皆獲。其述詩

(10)

一六

也、興衰之由顯。故究焉而皆得。其述春秋也、邪正之跡明。故考焉而皆當。又曰、吾視遷・固而下、述作何其紛紛乎。帝王之道、其暗而不明乎。天人之意、其否而不交乎。制理者參而不一乎。陳事者亂而無緒乎(王道篇)。所謂古之史、尚書・詩・春秋是也。所謂今之史、史記・漢書以下著作皆是、唯漢紀不與焉。備帝王之制、顯興衰之由、明邪正之跡、是謂辯道。記繁而志寡、致使帝王之道暗而不明、天人之意否而不交、制理者參而一、陳事者亂而無緒、是謂耀文」。⑵  約・繁

  『文心雕龍』

章表「繁約得正、華實相勝、唇吻不滯、則中津矣」。

(二四)薛收問續詩。子曰、有四名焉、有五志焉。何謂四名。一曰化、天子所以風天下也。二曰政、蕃臣所以移其俗也。三曰頌、以成功告於神明也。四曰歎、以陳誨立誡於家也。凡此四者、或美焉、或勉焉、或傷焉、或惡焉、或誡焉。是謂五志

  薛収が『続詩』について質問した。先生が言った「「四名」があり、「五志」がある。何を「四名」と言うのか。第一は「化」であり、天子が世を風化するためにある。第二は「政」であり、地方官が当地の風俗を良い方向に導くためにある。第三は「頌」であり、事を成し遂げた旨を神廟に報告するためにある。第四は「歎」であり、訓誡を述べ列ねてそれを家に確立するためにある。一体これら四者は、あるときは嘉し、あるときは勤しみ、あるときは痛み、あるときは責め、あるときは戒める。これを「五志」と言うのだ」。

⑴  何謂四名

  『詩』

周南・關雎序「是以一國之事、繫一人之本、謂之風。言天下之事、形四方之風、謂之雅。雅者、正也。言王政之所由廢興也。政有小大、故有小雅焉、有大雅焉。頌者、美盛德之形容、以其成功告於神明者也。是謂四始。詩之至也」。阮逸注、以化爲續大雅、政爲續國風、頌爲續周・殷・魯頌、歎爲續變風・變雅。 ⑵  天子所以風天下也

  『詩』

周南・關雎序「關雎。后妃之德也。風之始也、所以風天下而正夫婦也。故用之郷人焉、用之邦國焉。風、風也、教也。風以動之、教以化之」。⑶  蕃臣所以移其俗也  阮逸注「蕃臣比古諸侯。移俗、猶易俗也」、『詩』周南・關雎序「先王以是經夫婦、成孝敬、厚人倫、美教化、移風俗」、『孝經』廣要道「移風易俗、莫善於樂」。⑷  以成功告於神明也  注⑴、參照。⑸  以陳誨立誡於家也  阮逸注「國異政、家殊俗、詩人哀之歎之、所以吟詠於家、諷刺其上、使達此變、以懷舊俗也」。⑹  是謂五志  阮逸注「皆志所之」。

(二五)子謂叔恬曰、汝爲春秋・元經乎。春秋・元經於王道、是輕重之權衡、曲直之繩墨也。失則無所取衷矣

  先生が叔恬(王凝)に言った「お前は『春秋』と『元経』を修めているか。『春秋』と『元経』の王道との関係は、物事の軽重の天秤であり、曲直の標準である。それを誤れば物事の程良い所を掴み得なくなってしまう」。

⑴  汝爲春秋・元經乎  天地篇(四五)注⑴、參照。⑵  輕重之權衡、曲直之繩墨  張氏注「繩墨、標準。荀子・王覇、禮之所以正國也、譬之猶衡之於輕重也、猶繩墨之於曲直也、猶規矩之於方圓也、既錯之、而人莫之能誣也」。⑶  無所取衷矣  阮逸注「衷、中也。過則抑之、不及則勸之、皆約歸中道」、『論語』堯曰「堯曰、咨、爾舜、天之曆數、在爾躬。允執其中。四海困窮、天祿永終」。『論語』公冶長「子曰、由也、好勇過我、無所取材」。

(二六)子謂、續詩之有化、其猶先王之有雅乎。續詩之有政、其猶列國之有風乎

(11)

一七王通『中説』訳注稿(三)   先生が言うには「『続詩』に「化」が存するのは、『詩』に周の諸王たちの「雅」が存するようなものであろうか。『続詩』に「政」が存するのは、『詩』に諸国の「風」が存するようなものであろうか」。

⑴  子謂至風乎  事君篇(二四)、參照。

(二七)子曰、郡縣之政、其異列國之風乎。列國之風深以固、其人篤。曰、我君不卒求我也、其上下相安乎。及其變也、勞而散、其人蓋傷君恩之薄也、而不敢怨。郡縣之政悅以幸、其人慕。曰、我君不卒撫我也、其臣主屢遷乎。及其變也、苛而迫、其人蓋怨吏心之酷也、而無所傷焉。雖有善政、未及行也。魏徴曰、敢問列國之風變、傷而不怨、郡縣之政變、怨而不傷、何謂也。子曰、傷而不怨、則不曰猶吾君也、吾得逃乎。何敢怨。怨而不傷、則不曰彼下矣、吾將賊之。又何傷。故曰三代之末、尚有仁義存焉、六代之季、仁義盡矣。何則。導人者非其路也

  先生が言った「郡県制による政治は、周代の諸侯による風教とは異なるものだなあ。諸侯による風教は、深遠でいてしっかりしており、民衆は篤実であった。(彼らが)「我が君主さまは終ぞ私たちに何をも要求しない」と言ったのは、お上が下々を安んじ、下々もお上に安んじたからだろうよ。それに変化が生じると、労働を課し政治が弛緩し、民衆は君主の恩恵が乏しくなったと憂えたけれども、決して怨むことはなかったであろう。郡県制による政治は、愉悦をもたらし幸いを願い、民衆は傾慕する。(彼らが)「我が君主さまはとうとう私たちを慰撫してはくれなかった」と言うのは、下々と君主の関係が流動的だからだろうよ。それに変化が生じると、苛酷であって迫害し、民衆は官吏たちの心持の残酷さを怨むけれども、憂えることはないであろう。(これでは)良い政治を目論でも、実行には移せないのである」。魏徴が言った「ずばり質問しますが、諸侯による風教に変化が生じて、民衆が憂えても怨まなかっ たのに、郡県制による政治に変化が生じて、民衆が怨んでも憂えないのは、どういうことですか」。先生は言った「憂えはするが怨みはしないから、「(諸侯も)我が君主さまのようなお方、私はそこから離れることはできまい」と言っているではないか。どうして怨むことがあろうか。怨みはするが憂えはしないから、「我が長どのは交替して行ってしまった、私はこれに報復せねば」と言っているではないか。どうしてまた憂えようか。こうして「三代の末期には、なお仁義が残存していたが、六代の末期には、仁義がなくなってしまった」と言われる。どうしてか。人々を連れて行ってくれるのは道路ではないからだ」。

⑴  列國至人篤  阮逸注「世修政教、故俗亦深厚」。⑵  曰我至安乎  阮逸注「曰者、假列國之人爲言也。我君、謂天子也。言天子封建列國、本求治也、上安其下、則下亦安其上、故云相安」。⑶  勞而至敢怨

  『論語』

里仁「子曰、事父母幾諫、見志不從、又敬不違、勞而不怨」、堯曰「子曰、君子惠而不費、勞而不怨、欲而不貪、泰而不驕、威而不猛。……子曰、……擇可勞而勞之、又誰怨」。⑷  郡縣至人慕  阮逸注「苟悦其民、幸於成功、故民亦擇善而慕之」。⑸  曰我至遷乎  阮逸注「此假郡縣之人爲言也。言我君不終撫吾民、使善政不久居而屢易之乎」。⑹  苛而至傷焉  阮逸注「吏苟一時急功、則政酷民怨」。⑺  不曰

  『論語』

陽貨「不曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇」。⑻  吾得逃乎  天地篇(二二)注⑸、參照。⑼  彼下矣  阮逸注「彼、謂郡縣長。下、猶去也。言終替去」。⑽  三代至存焉  阮逸注「邦家有社稷故」。⑾  六代至盡矣  阮逸注「牧守無子孫故」。⑿  導人者非其路也  阮逸注「不以王路使人由之」、『論語』衞靈公「子曰、人能弘道、非道弘人(何晏集解、王曰、才大者、道随大。才小者、道随小。故不能弘人)」。

(12)

一八

(二八)子曰、變風・變雅作、而王澤竭矣。變化變政作、而帝制衰矣

  先生が言った「(『詩』の)変風・変雅が現れて、周の諸王による恩沢が尽きてしまった。(『続詩』の)変化・変政が現れて、漢代の帝王たちによる制度が衰えてしまった」。

⑴  變風・變雅作、而王澤竭矣

  『詩』

周南・關雎序「至于王道衰、禮義廢、政教失、國異政、家殊俗、而變風・變雅作矣」、班固「西都賦」(『文選』卷一)「昔成康沒而頌聲寢、王澤竭而詩不作(李善注、言周道既微、雅頌並廢也。……毛詩序曰、頌者、以其成功告於神明者也。樂稽耀嘉曰、仁義所生爲王。毛詩序曰、止乎禮義、先王之澤也。然則作詩稟乎先王之澤、故王澤竭而詩不作。作、興也。孟子曰、王者之跡息而詩亡)」。⑵  帝制  張氏注「如漢七主之制」、王道篇(三二)、參照。⑶  子曰至衰矣   『中説』

問易篇「文中子曰、王澤竭而諸侯仗義矣、帝制衰而天下言利矣」。

(二九)子曰、言取而行違、溫彥博惡之。面譽而背毀、魏徴惡之

  先生が言った「言葉では取り入れながら行動にはそれを反映させない、温彦博はこうしたことを嫌った。面と向かっては称誉しながら裏ではそれを誹る、魏徴はこうしたことを嫌った」。

⑴  言取而行違

  『論語』

憲問「子曰、君子恥其言而過其行」、爲政「子貢問君子。子曰、先行其言、而後從之(何晏集解、孔曰、疾小人多言、而行之不周)」、『禮記』雜記下「君子有五恥……有其言、無其行、君子恥之」。⑵  溫彥博  張氏注「太原祁人、温大雅之弟。隋開皇末任文林郞、唐高祖時任中書侍郞。時突厥入寇、沒於虜庭、太宗即位、征還朝。貞觀四年任中書令。彥博自掌機務、杜絶賓客、國之利害、知無不言。十 年、遷尚書右僕射。明年薨、年六十四。見舊唐書・溫彥博傳」。⑶  面譽而背毀

  『莊子』

盜跖「且吾聞之、好面譽人者、亦好背而毀之」。⑷  惡之

  『論

語』子路「子貢問曰、郷人皆好之、何如。子曰、未可也。郷人皆惡之、何如。子曰、未可也。不如郷人之善者好之、其不善者惡之」、衞靈公「子曰、衆惡之、必察焉。衆好之、必察焉」。

(三〇)子曰、愛生而敗仁者、其下愚之行歟。殺身而成仁者、其中人之行歟。遊仲尼之門、未有不迨中者也。

  先生が言った「生きることを固執して仁に悖るのは、下なる愚者の振る舞いだろうかねえ。自らを犠牲にして仁を遂げるのは、中なる人間の振る舞いだろうかねえ。仲尼の門下に学びながら、中なる人間に達しなかった者はいないよ」。

⑴  下愚

  『論

語』陽貨「子曰、唯上知與下愚、不移(何晏集解、孔曰、上知不可使爲惡、下愚不可使強賢)」。⑵  殺身而成仁

  『論語』

衞靈公「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁(孔曰、無求生以害仁、死而後成仁、則志士仁人、不愛其身也)」。⑶  中人

  『論語』

雍也「子曰、中人以上、可以語上也。中人以下、不可以語上也(王曰、上謂上知之所知也。兩舉中人、以其可上可下)」。

(三一)陳叔達爲絳郡守、下捕賊之令、曰、無急也。請自新者原之、以觀其後。子聞之曰、陳守可與言政矣。上失其道、民散久矣。苟非君子、焉能固窮。導之以德、懸之以信、且觀其後、不亦善乎

  陳叔達が絳郡の守となり、賊徒を捕らえる命令を出して、言った「慌てることはない。心を入れ替えると願い出た者は許してやり、そしてその後を観察しようではないか」。先生がこれを耳にして言った「陳どのは一緒に政治を語り合うことができる。お上が政治の道徳を見失い、民

(13)

一九王通『中説』訳注稿(三) 心がバラバラになってしまってから随分になる。仮にも君子でなければ、どうして行き詰まりにも自らを律することができようか。民衆を徳によって導き、民衆に信ということを示し、しかも犯罪者のその後を観察しようというのだから、何と素晴らしいではないか」。

⑴  自新

  『史記』

孝文本紀「妾傷夫死者不可復生、刑者不可復屬、雖復欲改過自新、其道無由也。妾願沒入爲官婢、贖父刑罪、使得自新」。⑵  以觀其後

  『論語』

學而「子曰、父在觀其志、父沒觀其行(何晏集解、孔曰、父在、子不得自專、故觀其志而巳。父沒、乃觀其行)。三年無改於父之道、可謂孝矣(孔曰、孝子在喪、哀慕猶若父存、無所改於父之道)」。⑶  可與言政矣

  『論語』

學而「子曰、賜也、始可與言詩已矣。告諸往而知來者」、八佾「子曰、起予者商也、始可與言詩巳矣」。⑷  上失其道、民散久矣

  『論

語』子張「曾子曰、上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜」。⑸  固窮

  『論語』

衞靈公「子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮、小人窮斯濫矣(何晏集解、濫、溢也。君子固亦有窮時、但不如小人窮、則濫溢爲非。朱熹集注、程子曰、固窮者、固守其窮。亦通)」。⑹  導之以德  事君篇(五)注⑵『論語』爲政、參照。⑺  不亦善乎   『論語』

子路「如其善而莫之違也、不亦善乎。如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎」。

(三二)薛收問、恩不害義、儉不傷禮、何如。子曰、此文・景尚病其難行也。夫廢肉刑害於義、損之可也。衣弋綈傷乎禮、中焉可也。雖然、以文・景之心爲之可也、不可格於後

  薛収が問うた「恩愛が義理を妨げることはなく、倹約しても礼儀を損なうことはないというのは、どうでしょうか」。先生は言った「これは漢の文帝や景帝ですら実行できずに苦しんだことだ。そもそも肉体を傷 つける刑罰を廃止するのは義理を妨げるから、(文帝が)減じたのはそれでよい。黒の厚手の織物を着用するのは礼儀を損なうから、(文帝が)適度であったのはそれでよい。しかしながら、文帝・景帝の心持ちによってそうするのがよいのであって、後の時代には及ぼし得ない」。

⑴  恩不害義

  『禮 記』喪服四制「門内之治、恩揜義。門外之治、義斷恩」。⑵  肉刑  張氏注「肉刑、斷趾・黥・劓・大辟・宮刑。史記・孝文本紀、漢文帝時、淳于公有罪當刑、其少女緹縈上書陳情。帝憐悲之、下詔曰、今人有過、教未施而刑加焉、或欲改行爲善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至斷支體、刻肌膚、終身不息、何其楚痛而不德也、豈稱爲民父母之意哉。其除肉刑」。⑶  弋綈  張氏注「弋、黑色。綈、粗絲織物。漢書・文帝紀、漢文帝儉樸、身衣弋綈、所幸慎夫人衣不曳地、幃帳無文繡、以示敦樸、爲天下先」。⑷  不可格於後  天地篇(三四)注⑶、參照。

(三三)子曰、古之事君也以道、不可則止。今之事君也以佞、無所不至

  先生が言った「古の君主に奉仕するやり方は道により、いけないと思えばやめた。今の君主に奉仕するやり方は媚び諂い、何でもし放題である」。

⑴  不可則止  事君篇(一一)注⑵、參照。⑵  古之・今之  事君篇(五)注⑷、參照。⑶  古之至不至

  『論

語』陽貨「子曰、鄙夫可與事君也與哉(何晏集解、孔曰、言不可與事君)。其未得之也、患得之(患得之者、患不能得之。楚俗言)。既得之、患失之。苟患失之、無所不至矣(鄭曰、無

(14)

二〇

所不至者、言其邪媚無所不爲)」。

(三四)子曰、吾於讚易也、述而不敢論。吾於禮・樂也、論而不敢辯。吾於詩・書也、辯而不敢議。或問其故。子曰、有可有不可。曰、夫子有可有不可乎。子曰、可不可、天下之所存也、我則存之者也

  先生が言った「私は『周易』(十翼)については、内容を祖述はしたが、決して新たに論を立てはしなかった。私は『礼』・『楽』については、沿革を論じはしたが、決してその興廃を分析はしなかった。私は『詩』・『書』については、治乱の様子を分析はしたが、決してその得失を説きはしなかった」。ある人がその理由を問うた。先生は言った「それぞれにしてよいことと、してはならないことがあるのだ」。(ある人が)言った「先生にもしてよいことと、してはならないことがあるのですか」。先生は言った「してよいにしろ、してはならないにしろ、経書は世の中が心寄せるものとしてあり、私はそれを存続させる立場にあるのだ」。

⑴  讚易  孔安國「尚書序」(『文選』卷四十五)「先君孔子、生於周末、覩史籍之煩文、懼覽之者不一。遂乃定禮樂、明舊章、刪詩爲三百篇、約史記而修春秋、讚易道以黜八索、述職方以除九丘」、張氏注「讚易、易經及其傳解、所謂十翼。史記・孔子世家、孔子晩而喜易、序彖・繫・象・説卦・文言。漢書・藝文志、孔氏爲彖・象・繫辭・文言・序卦之屬十篇」。⑵  述而不敢論  阮逸注「述、謂修之。論、謂別立理」、『論語』述而「述而不作、信而好古、竊比於我老彭」。⑶  論而不敢辯  阮逸注「論沿革而已、不敢辯興衰之極」。⑷  辯而不敢議  阮逸注「辯治亂之事、不敢議其得失之由」。⑸  有可有不可  阮逸注「聖人立言、或微而顯、或蓋而彰、或曲而中、或肆而隱、各有奥義、不可槩窺。是故有可以述則述、可以論則論、辯・議皆然」、『論語』微子「逸民、伯夷・叔齊・虞仲・夷逸・朱張・ 栁下惠・少連。子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔齊與。謂栁下惠・少連、降志辱身矣。言中倫、行中慮、其斯而已矣。謂虞仲・夷逸、隱居放言。身中清、廢中權。我則異於是。無可無不可(何晏集解、馬曰、亦不必進、亦不必退、唯義所在)」。王勃「八卦卜大演論」(『王子安集注』卷十一)「有可有不可、非聖人之謂也。無可無不可、是夫子之心也」。⑹  可不至者也  阮逸注「夫經、天下之公言也。故我續而存之者耳、非我自可否也」。『孟子』盡心上「夫君子、所過者化、所存者神、上下與天地同流、豈曰小補之哉(朱熹集注、所存者神、心所存主處便神妙不測、如孔子之立斯立・道斯行・綏斯來・動斯和、莫知其所以然而然也)」。

(三五)子間居儼然。其動也徐、若有所慮。其行也方、若有所畏。其接長者、恭恭然如不足、接幼者、溫溫然如有就。

  先生は一人ひっそりといても、厳かな様子である。その動作はゆったりと、何かを思慮しているかのようである。その行動は一つ一つ慎重で、何かに畏怖しているかのようである。年長者に接する場合には、恭敬を尽くして自分を主張せず、弱年者に接する場合には、温情に富んで相手に寄り添うのであった。

⑴  間居

  『禮

記』孔子間居「孔子間居、子夏侍(釋文、退燕避人曰間居)」。⑵  儼然

  『論語』

子張「子夏曰、君子有三變。望之儼然、即之也溫、聽其言也厲」、堯曰「君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之、斯不亦威而不猛乎」。⑶  其動也徐

  『禮

記』檀弓上「子游觀之曰、將軍文氏之子、其庶幾乎。亡於禮者之禮也、其動也中(鄭玄注、中禮之變)」、又天地篇(一)注⑴、參照。

(15)

二一王通『中説』訳注稿(三) ⑷  其行也方  阮逸注「矩歩也」。⑸  如不足   『論語』

郷黨「其言似不足者、攝齊升堂、鞠躬如也、屏氣似不息者(何晏集解、孔曰、皆慎重也。朱熹集注、言似不足、不敢肆也)」。

(三六)子之服儉以潔、無長物焉。綺羅錦繡、不入於室、曰、君子非黃白不御、婦人則有青碧

  先生の衣服は倹素であって清潔で、余計な物はなかった。煌びやかな織物は奥座敷になく、言うには「君子は(自然な生糸の色である)黄や白でなければ身に付けず、ご婦人は(染めやすい色である)青や青緑を身に付ける」。

⑴  無長物

  『世説新語』

德行「丈人不悉恭、恭作人無長物」。⑵  不入於室

  『論語』

先進「子張問善人之道。子曰、不踐迹、亦不入於室(何晏集解、孔曰、踐、循也。言善人不但循追舊迹而已、亦少能創業、然亦不入於聖人之奥室)」。⑶  非黃白不御  阮逸注「黃白、取自然絲色」。⑷  婦人則有青碧  阮逸注「染之易者」。張氏注「論語・郷黨、君子不以紺緅飾、紅紫不以爲褻服」。

(三七)子宴賓無貳饌、食必去生、味必適。果菜非其時不食、曰、非天道也。非其土不食、曰、非地道也。

  先生が客人をもてなす際には一膳しか出さず、食材には必ず火を通し、味は決まってちょうど良かった。果実や野菜は食べ頃の物でなければ口にせず、「天の道理に従った物ではない」と言った。自らの土地で育った物でなければ口にせず、「地の道理に従った物ではない」と言った。 ⑴  無貳饌  阮逸注「不重味」。⑵  非其時不食

  『論語』

郷黨「失飪不食、不時不食」。

(三八)郷人有窮而索者。曰、爾於我乎取、無擾爾鄰里郷黨爲也。我則不厭。郷人有喪、子必先往、反必後。子之言應而不唱、唱必有大端。子之郷無爭者

  先生の郷里の人で、貧しさの故に援助を求めてきた者があった。(先生が)言うには「君たちは私のところから取って、自らの周囲の人々に迷惑をかけるではないぞ。私は気にしないから」。郷里の人に不幸があれば、先生はきっと真っ先に駆けつけ、帰るのは決まって最後であった。先生の発言は問いかけに応じるものではあっても、自分から言い出すものではなく、言い出す場合には必ずや重要な物事の端緒となった。先生の郷里には争い合う者がいなかった。

⑴  爾於我乎取

  『禮

記』檀弓上「賓客至無所館。夫子曰、生於我乎館、死於我乎殯(鄭玄注、仁者不厄人)」。⑵  無擾爾鄰里郷黨爲也

  『論 語』雍也「原思爲之宰(何晏集解、包曰、弟子原憲。思、字也。孔子爲魯司宼、以原憲爲家邑宰)。與之粟九百、辭(孔曰、九百、九百斗。辭、辭讓不受)。子曰、毋(孔曰、祿法所得、當受無讓)。以與爾鄰里郷黨乎(鄭曰、五家爲鄰、五鄰爲里、萬二千五百家爲郷、五百家爲黨)」。⑶  子之言應而不唱

  『淮南子』

詮言訓「聖人常後而不先、常應而不唱」、『老子』第六十八章「善戰者不怒(王弼注、後而不先、應而不唱、故不在忍)」。⑷  大端

  『禮記』

禮運「故欲惡者、心之大端也」。⑸  子之郷無爭者

  『論語』

八佾「子曰、君子無所爭、必也射乎。揖讓而升、下而飲、其爭也君子」、衞靈公「子曰、君子矜而不爭、羣而不黨」。

(16)

二二

(三九)或問人善、子知其善則稱之、不善、則曰未嘗與久也。

  誰かが人の善否を問うに、先生はその人が善であるのを知っていればそれを称揚し、善でなければ、「これまであまりご一緒したことがありません」と言った。

(四〇)子濟大川、有風則止。不登高、不履危。不乘悍、不奔馭。郷人有水土之役、則具畚鍤以往、曰、吾非從大夫也

  先生は大河を渡る際、風が吹いていればやめにした。高い所には登らず、危ない所には行かなかった。勇ましい馬には跨らず、車駕を走らせることもなかった。郷里の人々に水運や土木の労役があれば、畚や鋤を携えて出向いて行き、「私は大夫の一員ではありませんから」と言った。

⑴  子濟大川

  『周

易』需「需、有孚光亨。貞吉、利涉大川」、「涉大川」之語、『周易』中屢見。⑵  不登高、不履危

  『禮

記』曲禮上「爲人子者、……不登高、不臨深、不苟訾、不苟笑」、『大戴禮記』曾子本孝「曾子曰、忠者、其孝之本與。孝子不登高、不履危」。⑶  吾非從大夫也

  『論

語』先進「顔淵死、顔路請子之車以爲之椁(何晏集解、孔曰、路、淵父也。家貧、欲請孔子之車賣以作椁)。子曰、才不才、亦各言其子也。鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁。以吾從大夫之後、不可徒行也(孔曰、鯉、孔子之子、伯魚也。孔子時爲大夫、言從大夫之後、不可以徒行、謙辭也)」、憲問「陳成子弑簡公。孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恒弑其君、請討之(馬曰、成子、齊大夫陳恒也。將告君、故先齊、齊必沐浴)。公曰、告夫三子(孔曰、謂三卿也)。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。君曰、告夫三子者(馬曰、我禮當告君、不當告三子。君使我往、故復往)。之三子告、不可。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也(馬曰、孔子由君命之三子、告不可、故復以此辭語之而止)」。 (四一)銅川府君之喪、勺飲不入口者三日。營葬具、曰、必儉也、吾家有制焉。棺槨無飾、衣衾而舉、帷車而載、塗車芻靈、則不從五世矣。既葬之、曰、自仲尼已來、未嘗無誌也。於是立墳、高四尺、不樹焉。  (父親の)

銅川府君(王隆)が亡くなると、(先生は)三日間わずかの白湯も口にしなかった。葬儀の用具を揃え、言うには「必ずや倹素でなくてはならず、我が家には決まりがある。棺桶には漆を施さず、死に装束に覆いで納棺し、帳をした馬車に乗せて運び、死者に供する泥の車や草の人馬は、もう五世代に渡って用いていない」。これを葬り終えると、言った「仲尼以来、葬った地に指標がなかった試しはない」。そこで墳墓を打ち立て、その高さは四尺で、周囲に植樹はしなかった。

⑴  銅川府君之喪  阮逸注「父喪」。⑵  勺飲不入口者三日

  『禮記』

問喪「親始死、……水漿不入口三日、不舉火」。⑶  棺槨無飾、衣衾而舉  阮逸注「飾、謂漆飾也」、『孝經』喪親「爲之棺椁、衣衾而舉之(唐・玄宗注、周尸爲棺、周棺爲椁。衣謂歛衣、衾、被也。舉謂舉屍内於棺也)」、『禮記』内則「父母舅姑之衣衾・簟席・枕几不傳(鄭玄注、傳、移也)」。⑷  塗車芻靈

  『禮 記』檀弓下「孔子謂爲明器者、知喪道矣。備物而不可用也(神與人異道、則不相傷)。哀哉、死者而用生者之器也。不殆於用殉乎哉(殆、幾也。殺人以衛死者曰殉。用其器者、漸幾於用人)。其曰明器、神明之也(神明死者、異於生人)。塗車・芻靈、自古有之(芻靈、束茅爲人馬。謂之靈者、神之類)。明器之道也(言與明器同)。孔子謂爲芻靈者善、謂爲俑者不仁、不殆於用人乎哉(俑、偶人也。有面目機發、似於生人。孔子善古而非周)」。⑸  不從五世矣

  『論

語』季氏「孔子曰、天下有道、則禮樂征伐、自天子出。天下無道、則禮樂征伐、自諸侯出。自諸侯出、蓋十世希不

(17)

二三王通『中説』訳注稿(三) 失矣。自大夫出、五世希不失矣」、同「孔子曰、祿之去公室五世矣。政逮於大夫四世矣。故夫三桓之子孫微矣」。⑹  自仲至樹焉   『周

易』繫辭傳上「古之葬者、厚衣之以薪、葬之中野。不封不樹、喪期无數。後世聖人、易之以棺槨」、『禮記』檀弓上「孔子既得合葬於防(言既得者、少孤不知其墓)。曰、吾聞之、古也墓而不墳(墓謂兆域、今之封塋也。古謂殷時也。土之高者曰墳)。今丘也、東西南北之人也、不可以弗識也。於是封之、崇四尺(東西南北、言居無常處也。聚土曰封。封之、周禮也。周禮曰、以爵等爲丘封之度。崇、高也。高四尺、蓋周之士制)」。

(四二)子之他郷、舍人之家、出入必告。既而曰、奚適而無稟。萬春郷社、子必與執事、翼如也

  先生が別の土地に行き、他人の家に泊まると、出かけるにも戻るにも、必ずその旨を告げた。そうこうして言うには、「どこに行こうと、もてなしを受けるものではないか」。万春郷での句竜の祭祀では、先生も決まって一緒にそれを執り行ない、鷹揚で立派な態度であった。

⑴  奚適而無稟  阮逸注「言人動有所稟」。⑵  萬春郷社  阮逸注「所居郷名、社祀句龍」、『左傳』昭公二十九年「共工氏有子曰句龍、爲后土(杜預注、共工在大暭後、神農前、以水名官。其子句龍、能平水土、故死而見祀)」。⑶  翼如也

  『論

語』郷黨「沒階、趨進、翼如也(邢昺疏、張拱端好、如鳥之舒翼也)」。

(四三)芮城府君起家爲御史。將行、謂文中子曰、何以贈我。子曰、清而無介、直而無執。曰、何以加乎。子曰、太和爲之表、至心爲之内、行之以恭、守之以道。退而謂董常曰、大廈將顛、非一木所支也

  芮城府君(兄・王度)が初めて仕えて御史となった。いざ出仕する段 になって、文中子に言った「どんな言葉を私に贈ってくれるのか」。先生が言うには「清らかでありながら介立するのではなく、真っ直ぐでありながら固執するのではない」。(兄が)言うには「さらにどんな言葉を付け加えてくれるのか」。先生が言うには「清らかで調和した表情、真っ直ぐで至高なる精神、行動は恭しく、道義を固守する」。引き下がって董常に言った「大きな建物(隋王朝)が今にも崩れそうになっては、一本の木材(御史・王度)で支え切れるものではないのだ」。

⑴  芮城府君起家爲御史  張氏注「芮城府君、王通兄王度。隋大業時曾爲御史。七年、罷官歸河東。八年、在台直兼著作郞。九年、出兼芮城令、持節河北道、賑陝東。大業末年、欲撰隋書、未成。唐武德初年卒。見太平廣記卷二三〇古鏡記・陳叔達答王績書」。⑵  何以贈我

  『禮記』

檀弓下「子路去魯、謂顔淵曰、何以贈我(鄭玄注、贈送)」。⑶  清而無介  阮逸注「清極則介」。⑷  直而無執  阮逸注「直甚則執」。⑸  太和爲之表  阮逸注「清而外和」。⑹  至心爲之内  阮逸注「直而内至」。⑺  行之以恭、守之以道  阮逸注「恭外道内」、『左傳』昭公五年「守之以信、行之以禮、敬始而思終、終無不復」、昭公六年「閑之以義、糾之以政、行之以禮、守之以信、奉之以仁」。⑻  大廈將顛、非一木所支也  阮逸注「言隋將顛、非御史可救」、『後漢書』徐稺傳「臨訣去、謂容曰、爲我謝郭林宗、大樹將顛、非一繩所維、何爲栖栖不遑寧處(李賢注、顛、仆也。維、繫也。喻時將衰季、豈一人可能救邪)」(『太平御覽』卷四五六・鑒戒上引『東漢觀記』、「大樹」作「大厦」)、『世説新語』任誕「任愷既失權勢、不復自檢括。或謂和嶠曰、卿何以坐視元裒敗而不救。和曰、元裒如北夏門、拉攞自欲壞、非一木所能支」。

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