香 川 大 学 経 済 論 叢
第78巻 第3号 2005年12月 135‑153
研究ノート
国制の多数性について
斉 藤 和 也
1. 本論の目的
アリストテレスは,『政治学』第 3巻において,国制の種類が多数あり,その数は 6つであるとしているが,第 4巻においては,これをさらに展開して,これらの国制 のそれぞれについてもいくつかの種類が存在することを示し,その原因をポリスの諸 部分の多数性に求めている。第3巻と第4巻を比べると,国制の種類と数及びその原 囚に関して理論的な発展がみられる。第3巻では,アリストテレスは, 6つの国制が 存在することを次のような図式に基づいて導き出している。まず,彼は,ポリスが設 立された目的を明らかにする。人間は自然本性においてポリス的動物であるから,人 間には共に生きることへの自然的な欲求が存在するが,人々が集まって生活するのは そのためばかりではない。人間は共通の目的のためにも集まるのであって,その共通
(1)
の目的とは,たんに生きるというのではなく,よく生きるということである。支配に ある人々が共通の利益を追求する国制は正しい国制であるが,彼らが自己利益を図る
(1) よく生きるためには,生きる主体がよい人間にならなければならない。よい人間とは よい性格を持った人間であり,それは取りも直さず,有徳な人間である。徳とは習慣に よって身に付くものであって,有徳性への生来の可能性を習慣によって現実化させるの がアリストテレスの徳の習慣づけの方法である (ENII, 1, 1103 a 23‑26)。有徳性への 教育を重視する有徳な人間達によって組織された国制がアリストクラシアー(貴族制)
であり,アリストクラシアーとは,文字通りに訳すなら,最優秀者の支配する国制であ る。アリストテレスは,精神生活が豊かで社会生活に優れた人間たちが運営し,優れた 人間へと子供たちを教育するポリスを理想国として構想したが, しかし,そのことの故 に,農民や手職人を奴隷状態に甘んじさせ,支配者が徳を磨く閑暇のためにその必要生 活を彼らに支えさせる体制を正当化した。
国制は,正しさの基準から逸脱した国制である。正しい国制には,徳に優れた王が支 配する王制,少数の有徳な人々が支配する貴族制,さらに,多数の有徳な人々が支配 の任に就く「国制」が含まれる。これに対して,逸脱した国制には,単独の支配者が 自己の利益のみを追求する僭主制,少数の富裕者が自分たちの利益のために支配する 寡頭制,多数の貧困者が自分たち多数の利益を図る民主制がある。「国制」の支配者 は有徳ではあるが,彼らの身につけている徳は戦士としての勇気であり,「国制」に
(2)
あっては,戦士としての徳に優れた人間が多数者として支配の任に就いている。これ に対して,王制や真実の貴族制(最優秀者支配制)の支配者の徳は思慮を伴った完璧 な徳であり,このような徳を有する人間はごく少数であって,アリストテレスは自分 の生きている時代にはこのような国制はもはや存在していないと考えていた。これら の国制は,道徳的な観点から言えば,王制,貴族制,「国制」,民主制,寡頭制,僭主
(3)
制の順によい国制から悪い国制へと移行する。道徳的観点に基づくこのような国制の 分類論は,その発想をプラトンに負っていて,アリストテレスに独自な国制論である
(4)
とは言えないが,これら 6つの国制のそれぞれについてもさらに種類があるとしたこ と,及びその根拠をポリスの諸部分の多数性に求めたことはアリストテレス独自の業 績と見なすことができる。アリストテレスの政治学書は,単に,理想的国家を設計し ただけではなく,現実に存在するポリスについても,その設立,保全,改善を行う立
(5)
法家のための処方箋を理論的に根拠づけたものである。国制の道徳的順位付けを維持 しつつ,それぞれのポリスの置かれている実状に対応してよりよい国制を見定めるた めには,国制の 6分類を越えて,それぞれの国制の種類を同定し分類する必要がある。
その議論が展開されるのは『政治学』 4巻から 6巻にかけてであるが,本論では,関
(2) 「国制」は6つの国制全てを包括する名称と同名であるが,或る箇所では名誉支配制 とも呼ばれる (NEVIII, 10, 1160 a 33‑35)。
(3) 僭主制は厳密にいえば国制ではないとされている。
(4) プラトンの『国家』第8巻における国制の堕落の歴史的な叙述はつとに知られている が,そこでは,哲学者の支配する理想国から王制,名誉支配制,寡頭制,民主制,僭主 制へと変遷を遂げる過程が欲望に対する人間の敗北の歴史として見事に描かれている。
『ポリテイコス』 (294D‑292 A)でも,アリストテレスの6国制から「国制」を除いた 5 国制説が述べられている。
(5) Pol. IV, 1, 1289 a 1‑15.
511 国制の多数性について ‑137‑
連する箇所の比較検討を通して,国制の多数性の原囚がポリスの部分の多数性にある ということはどういうことであるのかを明らかにしたい。
2 . ポリスの部分の多数性と国制の多数性
アリストテレスが国制の多数性との関係においてポリスの部分を論じている箇所の
(6)
内,重要なのは以下の3カ所である。
(1) 第4巻3章 (2) 第4巻4章 (3) 第7巻8‑9章
これらの箇所では,国制の多数性の根拠としてポリスの諸部分の多数性が指摘され ているが,大別すると,次のような部類のものが挙げられている。
(7)
(1) 社会層としての富裕層,貧困層,及び中間層 (2) 貧困層の諸層(職業集団として区分される)
(3) 富裕層の諸層(富,徳,生まれ,教育の指標によって区分される)
(4) 国事を審議し決定する部分,裁判を行う部分,公職に就く部分
これらは実際のリストを部類に分けて整理したものであるが,これらの部類は異な る次元,あるいは異なるカテゴリーに属するものであって,それらを一括してポリス の部分とすることに問題はないのであろうか。社会層と国制とが同じ次元でポリスの 部分とされているが,これは現代的な概念枠からいえば,社会領域のものと国家領域 のものとを同じ次元において一括して取り上げているということになる。これに対し て,古代ギリシアにおいては社会から独立した国家という仕組みは存在せず,ポリス において,社会と国家は一体であったという答え方もあるであろうが,確かに国家と 社会の分離は存在しないにしても,アリストテレスの用語圏内においてさえ, (4)は,
(6) アリストテレスがポリスの部分に言及している箇所は,十数力所に及ぶ。 cf.Johnson, p. 44, n.10.
(7) 「社会層」という言葉を「経済的階層ないし社会的階層Jの意味で用いる。農民,手 職人,商人などは,貧困層という経済的階層の範囲内において職業によって区別された 社会層である。富裕層の区分においては,財産所有の程度が第 1の区別指標であり,そ の他に,徳や生まれや教育といった指標による社会層の区別がある。富裕層における有 徳な社会層が国制に中心的に参与する場合に貴族制が成立する。
香川大学経済論叢 512
ポリス全体からは相対的に独立した国制を構成する部分を意味しているのである。国 制に参与する社会層と参与しない社会層が存在する限りにおいて,ポリスの部分とし ての社会層が,国制という権力を求めて互いに闘争した古代ギリシアの歴史は,社会 層と国制との相対的な分離,あるいは次元の相違ということを前提にして初めて理解 可能であろう。しかし,アリストテレスは,このような次元の相違を前提にして議論 を進めてはいない。或る種の民主制においては「同じ人々が農業をしつつ,審議する」
という見方をしているのである。この間題を念頭に置きつつ,ポリスの諸部分につい て論じている上記の3つのテキストを取り上げ,それらを比較検討することにしたい。
上述のように,第3巻では,それぞれ3つの正しい国制と逸脱した国制とが取りだ されたが,第4巻では, 6つの国制のそれぞれにもさらにいくつかの種類があるこ と,そして,その原因がポリスの諸部分の多数性にあることが解明される。第4巻で は,第 3章と第 4章において,類似の議論が展開されているが,それをどのように解 釈するか意見が分かれている。
まず,ポリスの部分についてより詳しく展開している第4巻4章を見てみよう。そ こでは,国制の多数性を根拠づける方法論として動物学的な分類方法を適用すること
(8)
が述べられている。
そこでは,動物の諸部分の組み合わせによる種の同定が動物分類の方法とされる。
ここで動物の部分と言われているのは,オルガノン的な部分(器官)である。オルガ ノンとは道具のことであるが,動物はその魂が身体のオルガノン的部分を使用するこ
(9)
とによって,動物としてのさまざまな機能を遂行する。動物には栄養摂取の器官(ロ
(10)
や胃),感覚器官,及び運動器官がある。これらの部分をさまざまな動物種において 観察すると多くの違いが観察される。口や胃といった消化器官にもいくつかの差異が あり,目や耳といった感覚器官,さらには運動器官にもいくつかの差異がある。現実
(8) 広く知られているように,アリストテレスは動物学の基礎を据えた先駆者であり,現 行の全集版の実に5分の 2を占める分量のテキストを残している。
(9) 動物の部分には,器官的な部分という意味の他に,肉や骨と言った器官を構成する部 分という意味がある。前者を異質部分,後者を同質部分といって区別する。同質部分は その構成元素(水や土など)から成り立っている。
513 国制の多数性について ‑139‑
に存在する動物種は,これらの器官の種別の表の中から,任意に一つずつを取りだし 組み合わされたもののどれかと一致する。すなわち現実に存在する動物種は,動物が 生存するのに必要な諸器官の「可能な」組み合わせとして同定することができるので ある。この方法は,ある意味において,無限に雑多な対象を整理するために,論理的 に構成されたモデルを適用する方法に似ているが,アリストテレスの方法は,単なる 論理的な組み合わせに基づいているのではなく,彼が経験主義者であると言われるよ うに,非常に多くのサンプルを観察した結果,対象に適合するように抽出された要素 を組み合わせたモデルに基づいているものである。これは動物の生を構成する諸機能 を析出し,それに対応する諸部分を同定して,それらの組み合わせとして動物体を考 察する方法であり,研究資料の分析を通じて理論化可能な対象を構成するこのような 研究方法は現代にも通じるものである。この分類方法を国制の分類に用いることには 特に利点がある。というのは,動物においては種の同定は親が子を産むことによって 確認されるが,ポリスにおいてはそのような確認方法は存在しないからである。国制 の世界においては,数多くの相似た諸国制がスペクトルをなして存在している。そし て,或る国制から別の国制への転換も頻繁に起こっている。動物学においては,種の 同定はすでに存在しているものの発見であるが,現実の諸国制の場合は,国制の種類 の同定は実践的な関心に基づいている。アリストテレスが政治学に割り当てている仕 事は,立法家や政治家に国制の安定を図る方法を示すことである。その方法論を示す ための理論的な基礎の探究が政治学書であったとみてよいであろう。国制の安定を求 めるためには,経験的に存続してきたタイプの国制を分析して,それがどのような要 素の組み合わせによって成立しているかを解明し,国制の存続を可能とする変異の範 囲を推定できればよい。
アリストテレスがポリスの成立に必要な部分を析出できたのは,彼の国制誌集成研
(10) 動物の機能はこれら 3つに大別される。栄養摂取は植物と共通であり,動物にはこれ に感覚と運動とが加わり,人間の場合はさらに理性が加わる。『動物部分論』において は,異質部分として,脳と感覚器,耳,まぶたとまつげ,鼻と唇,舌,歯,角,食道,
気管と喉頭蓋,心臓,血管,肺臓,肝臓と牌臓,膀脱,腎臓,横隔膜,膜,腸,胆嚢,
網膜,腸間膜が挙げられている。異質部分は器官であり,等質部分(血液,肉,骨など)
は異質部分のためにあり,異質部分には一定の機能ないし活動が割り当てられている (PA II, 1, 646 b 10‑27.)。
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(11)
究の成果である。第4巻 4章のリストは以下のように整理できる。
① 食糧の生産に関わる部分(農民)
② 諸技術に関わる部分,生活の必需に関わる技術と贅沢な生活ないし善き生活に寄
(12)
与する技術を担う部分(職人)
③ 売買や輸出入や高利の商いに関わる部分
④ 賃仕事に関わる部分
⑤ 防衛のために戦う部分
(13)
⑥ 審議と裁判に関わる部分
⑦ 財産によって公共奉仕を行う部分(富裕層)
⑧ 公職に関して公共奉仕する部分
これらは,職業を表す①ー④と国制に固有の部分としての⑤,⑥,⑧に大別される。
⑦は社会層としての富裕層に充てられる。 Newmanは,第 4巻3章 (1289b 27‑1290
(14)
b 20) をこの箇所と比較して,国制のそれぞれにおける多様性の根拠を,前者では民 衆と上流階層の各々に含まれる社会層の国制への参与に求め,後者ではポリス存立に
(15)
必要な諸機能としての職業の組み合わせに求めているとした。つまり,第3章では杜 会層が列挙されているのに対して,第4章では,ポリスの諸機能が列挙されていると 解釈したのである。その解釈の適否を判定するために,まず第3章のテキストを検討
しよう。第3章の冒頭では,国制が多数存在する原囚はポリスに多数の部分が存在す ることにあるとして,ポリスはたくさんのイエからなりたっており,それらは富裕層
(11) アリストテレスの指導の下でのペリパトス学派による諸国制の集成については,さし あたっては,『アテナイ人の国制』(岩波文庫)解説 (303頁以下)を参照。
(12) 次の文が付加されている。 Iこれらの技術がなければポリスを経営していく (オイケ イスタイ)ことができない。」
(13) 一般的には,第6番目が明示されておらず,「審議と裁判Jの部分は最後に付加され ているとされるが,第5番目の後に,「審議と裁判」が言及されているので,ここにそ れを配当した。 cf.Newman, I, 97.
(14) 正確には,第3章から第4章の当該箇所の前までの箇所にあたる。
(15) Newman, I, 565‑9, IV, 150‑2.
515 国制の多数性について ‑]4]‑
か,貧困層か,中間層であると述べる。そして,民衆,すなわち貧困層には,農民や 商人や手職人が含まれ,上流階層,すなわち富裕層の間にも,富や財産の大きさによ る差異があるとする。上流階層は富の所有の程度によっていくつかの階層に分けられ るが,その他に上流階層の分化を示す標識として,生まれや徳があるとされる。そし て,このように区分された社会層のすべてが国政に参与する場合と,その少数が参与 する場合と,多数が参与する場合とがあり,この参与の度合いの差異によって国制に も差異が生じる。このように,諸部分が相互に種類において異なるので,それらの国 政への参与の程度や組み合わせにしたがって,国制の多様性が生じるのであるが,そ れは,貧困層と富裕層の勢力がどれほど支配権に参与するか,どの社会層が優勢であ るかといった,参与している社会層の差異に応じて国制が決まるということである。
国制には民主制と寡頭制だけがあって,他の国制はこれらの派生形態であると考える 人々がいるが,それは誤りである。真実は,これらがほどよく混合されている国制と 最善の国制とがあり,それらの派生形態が民主制や寡頭制なのである。第3章のテキ
(16)
ストの概略は以上の通りである。
Newmanは,第3章と第 4章の説明が両立しないとし,それを説明する仮説として,
第4章は第3章の欄外中の形でアリストテレス自身によって書かれたのではないかと の推測を提示している。アリストテレスがそれを第 3章の説明に代わる説明にしよう としたのか,それとも両者を合わせて新しい第3の説明を立てようとしたのかは不明 であるが,ともかく,その欄外註を後槻の校訂者が本文に組み入れてしまった結果が 第3章と第4章の不整合という事態を招いてしまったのではないかと推測するのであ
、~
Newmanは,国制のそれぞれの多数性とその根拠への問いがすでに第4巻 1章(1289
a 8‑11, 20‑25)や第2章 (1289b 12‑14)においてなされていることを指摘している。
Barkerは,第 3章は,この問いに対する解答ではなく,国制の種類が一つ以上存在す
(16) このあとに, Rossのテキストでは第 4章に区分されているが,事実上は第3章に含ま れる節が続く (cf. Schtitrumpf, 306)。そこでは,一般には,民主制と寡頭制の区分原理 を支配者が多数者か少数者かという点に置くが,それは誤りであって,これらの真の区 分原理は,支配者が貧困層か富裕層かという点にあると論じられる。
(17) Newman, IV 151.
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(18)
るかという問いに対する解答になっていると指摘する。確かに,第4巻では,その冒 頭から, 6つの国制のそれぞれにおける多数性を問題としているのであるが,第3章 では民主制や寡頭制のそれぞれに種類があることを明示的には述べていないし,むし ろ,民主制と寡頭制が本来の国制であり,他はそのバリエーションに過ぎないという 俗説を批判して,むしろ民主制や寡頭制の方が混合された国制や最善の国制のバリエ
ーションにすぎないという方向に議論が展開していくのである。このことを考慮に入 れるなら,第 1章と第2章における問題提起に対する解答は,第 3章の脱線の後,第 4章においてこそ解答されていると解釈するのが適当であろう。それゆえ, Newman の推測のように,第3章の別のバージョンとして第4章を捉えるべきではなく,第3 章 に お い て 中 断 さ れ た 解 答 を 第4章 に お い て 改 め て 解 答 し 直 し た と い う べ き で あ ろ
、(19)
つ
。
では,第3章における富裕層と貧困層,およびそれらの下位区分を示したリストに ついては, どのように解釈すればよいのであろうか。 Simpsonは,第3章のリストと 第4章のリストとは完全に一致するとしている。彼によると, Newmanは,第3章 で は社会層が,第4章ではポリスの機能がリストアップされているとしたが,第3章で 民衆(貧困層)の下位区分として,農民,商人,手職人を挙げていることは,他なら ぬポリスの諸機能に言及していることを意味する。第 4章でも,民衆(貧困層)の下 位区分として,農民,手職人,商人の他に,水夫,貿易商,運搬者,漁師など海に関 わる職業なども挙げ,また上流階層にも言及し,その下位区分の標識として富,生ま
(18) Barker 162.
(19) Schiitrumpf (p. 306‑9)は,第3章において,民主制や寡頭制のそれぞれの多数性の 原因がポリスの部分にあることが証明されているから,第4章の議論はその Doubletに 過ぎないとする。そして,第4巻ー第6巻においては,国制の多数性の原因としての社 会層は富裕者と貧困者であり,これに合致するのは第 3章の議論であって,ポリスの機 能としての部分を扱う第4章ではないとし,さらに,動物の分類方法が国制の分類には 適用できないという理由も加えて,第4章の当該箇所 (1290b 21‑1291 b 30) を第4巻 ー第6巻の議論の圏外にあるものだとして,事実上これを削除する。しかし,第3章で は民主制や寡頭制の下位区分への明示的な言及は存在しない。このことが1290a 5‑13 の議論に暗に含まれているとは言えるとしても,証明されたとするのは早計であろう。
むしろ,この箇所の議論が中座したので,第4章でもう一度本格的に取り上げられたと 見るべきであろう。
517 国制の多数性について ‑]43‑
れの良さ,徳,教育を提示しており,この点については第 3章のリストと重なる。そ れゆえ,奴隷や居留外国人を除くポリスの住民を民衆(デーモス)と上流階級(グノ ーリモイ)に大別し,さらにそれらを区分している点で両章はほとんど変わりはない。
ポリスの機能は,ポリスの社会階層に付随するものであって,同じ社会層が存在する ならば,同じ機能を担保することは明らかである。さらに,第 3章では,審議的,裁 判的部分や公職に関して明示的な言及はないが,民衆がポリスに必要な生活物資の生 産に寄与するのに対して,上流階層はその社会層として当然果たすべき公共的奉仕の 機能を果たす。つまり,上流階層の人士は,戦士的及び支配的な機能を果たすのであ る。このように見てくるならば,両者は完全に一致するのである。このように Simpson は解釈して Newmanを批判するのである。
Simpsonの解釈は,最後の論点以外はすべて説得的であるが,審議的,裁判的部分 についての解釈は誤っている。つまり,上流階級への言及がそれ自休,ポリスの機能 としての審議的,裁判的部分や,公職への公的奉仕部分の機能を意味しているとの説 明には無理がある。なぜなら,第4章において問題になっているのは,民主制や寡頭 制を初めとしたいくつかの国制に共通にあてはまる図式であって,上流階層だけが国 制に与る理想国を対象とした図式ではないからである。貧困層と富裕層の下位区分で ある,社会層としての職業集団や富裕層の諸階層は,審議的,裁判的部分とは独立の 概念である。これらの部分が概念的に独立していてはじめて,国制の至上権を有する 市民団(ポリーテウマ)への参与をめぐる社会層間の勢力争いという問題が,政治的
な間題として浮上してくるのである。では,第 3章における富裕層や貧困層,及びそ の下位区分における社会層への言及を第4巻全体の中でどのように位置づけたらよい のであろうか。
第4巻3章は,第 3巻と同様に,富裕層と貧困層という社会層の市民団(ポリーテ ウマ)への参与の程度の差異によって国制の差異を説明する議論に終始しているよう
⑫ 0)
に見える。第3巻においては,至上権を有する市民団(ポリーテウマ)がどのような 人々から構成されているかに国制の形態が左右され,富裕層が優勢なら寡頭制を,貧
(21)
困層が優勢なら民主制を成立させるという認識は存在している。また,手職人や賃労 働者は,貴族制や寡頭制においてはポリス市民ではないので国制に参与できず,民主
制においてはポリス市民であるので国政に参与できるが,富裕な手職人は,財産在定 を基準とする寡頭制においては国政に参与する資格を持つという趣旨の議論を展開し
(22)
ている。こういう点から見ると,第4巻は第3巻におけるこのような論点の展開とも
⑳
見られるが,両者の決定的に異なる点は,第3巻では 6国制論に止まっているのに対 して,第4巻では,冒頭から明確に各々の国制における種類の存在を探究の対象とし,
加えて,このような国制の多数性の原因をも探究の対象としていることである。
国制の多数性の原因は,社会層の国制への参与にさまざまな変異が存在することに ある。すなわち,どのような社会層が市民団を構成し至上権を発動するかに国制の形 態が左右されるのである。その形態の決定は 2段階に分けて理解されるべきである。
まず, 6国制のレベルにおいては,国制の性格を決定する要因は,富裕層や貧困層や 有徳者層の国制への参与にあり,次に,それぞれの国制における種類を区別する基準 は,それぞれの社会層の下位区分がどのような割合で国政に参与するかにある。貧困 層である民衆が大多数となった市民団が形成される場合は民主制になり,富裕層が主 体となって貧困層を排除する形で市民団が形成される場合は寡頭制になり,富裕層の 中でも有徳な人々が市民団を形成する場合は貴族制になり,有徳な中間層が多数を占 める市民団が形成される場合には「国制」になる。そして,民主制と寡頭制と貴族制 には,さらに,その市民団を構成する社会層の違いによってその国制の内部における
(24)
多様な種類が区別されることになる。
第4巻の冒頭では,国制探究方法の 4つの種別が提示され,第 1に,外的な障害が
(20) 第3巻l章ですでに,国制が多数あることが観察事実として提示されている (1275a 38‑75 b 3)。そして,第6章において,それが問題の形で提起される。そこで求められ
たのは,正しい国制の数とその内容,それらに対応した逸脱した国制の数と内容であっ た。この議論の中で重要なのは,支配者(為政者)が共同の利益を追求するか,利己的 な利益を追求するかということが,ポリーテウマ(市民団)が誰かという問いとして間 われていることである。ポリーテウマは,ポリーテイアーの実体的担い手としてポリス の至上権を握っていて,その決定がポリーテースたちの行動を決めることになる。市民 団が民衆で構成されているか,それとも上流階級の少数の人間逹で構成されているか が,国制のあり方を左右するという認識が示されている。
(21) Pol. III, 6, 1278 b 8‑13, III, 7, 1279 a 25‑31, 79 b 6‑9. (22) Pol. III, 6, 1277 b 33‑78 a 25.
(23) Johnson (p. 61)は,第4‑6巻における分類は,第3巻の分類原理に新しい原理を付 加したものではなく,それを洗練したものであると解釈する。
519 国制の多数性について ‑145‑
存在しない条件の下で最も望ましい国制の探究,第2に,現状の諸条件の下での最善 の国制の探究,第 3に,現に存在する国制についてその設立条件と保全条件の探究,
第4に,すべてのポリスにもっとも適する国制の探究が提示されている。これらの探 究の中で,特に,第3の部類の探究は,民主制や寡頭制の成立条件と保全条件を探究 するという意味において,政治家にとっての実践的な仕事になる。現に存在する国制 を立て直すのを助けるためには,政治家は,民主制や寡頭制がそれぞれいくつの種類 を含むのかを知らなければならない。このような問題提起が為されていることを踏ま えて考えるなら,第 4巻の基本的な問いは,それぞれの国制についてその種別を明ら かにすることにあると言うべきであるが,第4巻3章の議論展開は,富裕層と貧困層 の市民団(ポリーテウマ)への参与による国制の差異に議論が収敏している第3巻の 議論の再現のように見える。ただ,第4巻3章では,第 3巻とは異なり,貧困層の内 訳や富裕層の内訳についても言及し,これらをポリスの部分として認識して,その多 数性を国制の多数性の原因と見なしている。この点では第4巻4章と共通なのであ る。しかし,第3章は,ただちに,民主制と寡頭制のそれぞれにおける種類の多数性 を指摘し,そのことの原囚説明として,貧困層の職業集団や富裕層の諸階層の国制へ の参与を明示的に示す所までは進まずに,もう一度,第 3巻における国制の多数性の 議論を繰り返しているように見えるのである。したがって,我々は,第4巻 1章及び 2章において,それぞれの国制の種別が多数であることが明示され,それがどのよう な種類のものかという種類の枚挙の課題と,その多数性の根拠の問題が提示され,ま ず,第3章において, 6国制論の次元での多数性の問題から入っているという見取り 図を描くことが出来ると思われる。第3章では,国制の多数性の原因論も提起された にもかかわらず,その議論が中座されたため,第4章において,再び本格的に,第 1 章及び第2章での問題提起に対する解明が行われたと考えるのが順当であろう。
(24) アリストテレスが民主制の種類と民衆の下位区分との対応を具体的に挙げているの は,農民が主体となった市民団を持つ穏健な民主制と手職人や商人を含めすべての民衆 が市民団に参与する極端な民主制である。寡頭制は財産杏定に基づくので,富の差異に
よって下位区分された富裕層の諸層が寡頭制の種類を区別する上での主体となる。
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3. ポリスの部分と国制の部分
ここで, もう一つの重要な箇所を取りあげ,第4巻4章と比較検討してみよう。第
7巻8‑9章において,ポリスの部分について,アリストテレス的な理想国の観点か ら分析が行われている。この理想国においては,為政者(支配者)は有徳な人間であ るが,農民や手職人などの貧困層の諸階層は,奴隷か非ギリシア人のペリオイコイと されている。そこでは,次に挙げるようなポリスの機能とそれを担う人々が列挙され ている。
① 食糧を供給する農民
② 生活用具を提供する手職人,賃労働者
③ 治安と防衛のために戦う部分
④ 内需と戦費のための財貨の供給を行う富裕者
⑤ 神事を執り行う神官
⑥ 公共に関する審議判定と市民間の争いに関する判決を行う人々
この箇所において特徴的なのは,「ポリスの部分」と「ポリスに不可欠のもの」と の区別が眼目になっていることである。これらはどちらも「ポリスに属さなければな らないものども」ではあるが,これらの内,アリストテレスの理想国において「ポリ スの部分」とされるのは,③の戦士の部分と⑥の審議と判決を行う部分,それに⑤の 神官だけであり,その他は,「ポリスが存立するためにはなくてはならない不可欠の もの」ではあるが,それ自体は「ポリスの部分」ではないとされる。したがって,こ こでは,「ポリスの部分」とは,ポリスの至上権を有する市民団(ポリーテウマ)に
(25)
参与する人々のみを指す。理想国がこのような形態を持つ理由は,それが完璧に有徳 な人士による支配という理念に支えられているからである。彼らは,人間としての徳
(25) 『形而上学」第 7巻 10章において,「部分」には「形相の部分」と「形相と質料の結 合体である個物の部分」とがあるという指摘がなされているが,この箇所に理解に資す
るであろう。
521 国制の多数性について ‑147‑
を磨くために,まず戦士として勇気を磨き,壮年になって思慮,つまり理性的能力を
(26)
働かすために審議と裁判に関わり,老年にいたって神事に関わる。このような生活を 送るには,農業や職人の仕事をしていては不可能であるから,アリストテレスの理想 国では,国制に関わる人間とそれ以外の人間とが歓然と区別されているのである。
このリストと第4巻4章のリストとの大きな違いを挙げると,まず,今述べたよう に,理想国の住民の間には明確な分離線が存在することである。次に,アゴラにおけ る売買活動に言及していないことである。これは理想国においては,奴隷やペリオイ コイからの食糧で自給自足するスパルタ的形態を認めているので,アゴラにおける売
(21)
買を重要視していないためである。第3に,公職に関する公共奉仕の部分が存在しな いことである。これは将軍や財務官などの裔級の公職を指すが,ポリスである以上,
⑳)
そのような部分は存在しなければならない。それ故,これが明示的な意味においてリ ストに載せられていないとするなら,何らかの説明があるはずであるが,それがない 以上, Newmanのように,審議的及び裁判的部分に含まれていると見なすのが適当で
(29)
あろう。さらに,第7巻 8章では,これらの仕事をポリスの「エルゴン」と呼び,こ れらがポリスの諸機能を果たすことを言葉上明確にしている。しかし,これは明確に 表現されている程度のことであって,同じ意味内容は第4巻4章のポリス部分論につ いても妥当すると言える。それは,職業的集団は,その職業に対応した仕事や働きを 果たすからであって,彼らは,その仕事を通じてポリス全体に対する役割,つまりポ
(26) cf. Pol. VII, 9, 1329 a 30‑34.
(27) Pol. VII, 9, 1328 b 39において,「ポリス市民は手職人の生活も,商人の生活も送るべ きではない」という文が見えるが,理想国にとっては,やはり商業は不可欠の機能では ないと思われる。
(28) Pol. IV, 4, 1291 a 35, Schiitrumpf, 1996, p. 274.
(29) Simpson (p. 220)は理想国にはそのような役職は必要がないとしているが,このリス トが他の国制への適用可能性を含んでいるとみなすならば,そのような解釈は採用でき ないo Kraut (p. 225)は,全てのポリスに必要な部分だから読者が補ってくれるものと 期待していると解釈する。アリストテレスの理論の発展ということを視野に入れるな
ら,第3巻と第7巻では,至上権を有する部分に審議と裁判を充てているが,第4巻14 章ー16章においては,これに公職が付加され,三権による構成になっていることから,
第3巻や第7巻が先に起草され,第4巻4章, 14章ー16章でそれを発展させたとみる こともできる。第4巻13章の最後で国制の多数性に関する議論がまとめられているこ ともそのことを示唆する。
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リスの一機能を果たしているのである。同じように,治安と防衛を行う戦闘部分につ いてもポリスとの関係においてその仕事や働きが明確にされるのであって,この部分 もそのポリスの一機能を果たしていると言える。審議的部分や裁判的部分についても 同様のことが言える。
このように,これらの相違点が存在するのは,この箇所が理想国について論じてい るためであり,この箇所におけるポリスの部分論は,基本的には,第4巻4章のもの と同じである。この箇所に続く節において,ポリスの住民がこれらの機能のどれか一 つを担当するのか,それともそのいくつかを担当するのかの違いによって,国制の相 違が生じてくるという議論が展開するのもそのことを示唆している。この箇所におけ るポリスの部分論が理想国の分析ばかりではなく,理想国の特殊性を取り除けば,全 ての国制の分析に適用可能であるということを,それは意味しているのである。
4. ポリスの部分論の問題点
以上の分析から,比較検討した 3つの箇所は,少なくとも不整合な内容を含むもの ではないことが明らかになった。しかし,問題は,むしろ,これらのリスト自体の内 容にある。本論の第2節においてリストの内容の問題点には触れておいた。そこで は,杜会的領域と国家的領域における要素を一括してポリスの部分とすることは,カ テゴリー・ミステイクになるのではないかとの疑問を提示した。古代ギリシアにおい ては,杜会と国家との分離が明確ではないとしても,少なくとも,第 7巻において,
ポリスの部分とポリス存立に不可欠の部分とは,同じ「ポリスに帰属するもの」でも 区別しなければならないとアリストテレス自身が語っているし,用語のうえでも,ポ
リスと国制(ポリーテイアー)との区別として明確になっているにも関わらず,これ らのリストにおいてその区別が意識されていないのは何故なのか。この難点はどのよ うに解消されるべきなのであろうか。
確かに,アリストテレスには,国制の部分と社会階層を分けて論じるという意識は 存在していない。「これらの機能が別々の人々に帰属しようと,同じ人々に帰属しよ うと,現在の議論には関連がない」として,例えば農民が兵士として戦うことを挙げ ている。近代的観点から言うと,社会層としての農民や職人が,国家のために兵役に
523 国制の多数性について ‑]49‑
ついたり,民会や裁判に参与したりすると考えるが,アリストテレスは,ポリスを構 成する人間がどのような仕事を遂行するのかという観点からこのようなリストを作成
している。
この問題をアリストテレスに沿って考えてみると,ヒントになるのは,第4巻4章 におけるプラトン批判の箇所である。プラトンが『国家』において,魂の姿をわかり やすく見せるために,それを大写しにして国家を構成したことは周知のことであろ う。その中で,プラトンは言論によって国家を建設するが,これを批評して,アリス
トテレスは,次のように語る。
「ポリスはすべて,美しきことのためではなく,必要のために構成されるので あるとの理由で,これらが第一のポリスの全構成員であるとされる…。だが,領 士が拡大して隣国の領土と接触するようになり,戦争になってしまう前には,防 衛する部分をこのポリスに付与することがない。」 (Pol.IV, 4, 1291 a 16‑22)
プラトンは,「第一の健康的なポリス」においては,領土の拡張が不要で,隣国と の衝突も存在しないために,戦士階級には言及しないし,また共同体構成員同士の間 の争いごとを裁く人間も想定しない。アリストテレスはこれに対して次のように批判 する。
「もし,心魂を,身体より以上に,動物の部分として認定するなら,このよう な部分を,必要不可欠な有用性に貢献する部分以上に,ポリスの部分として認定 するべきである。」 (Pol.IV, 4, 1291 a 24‑28)
つまり,アリストテレスは形相質料論に基づいて,事物の実体である形相の部分こ そ,事物の存立の第一の要素でなければならず, したがって,戦争に関する部分,裁 判に関する部分,審議的な部分が,最初に存立しなければならないとするのである。
プラトンは,言論によってポリスが成立してくる論理的なプロセスを語っているが,
戦士階級やそれを指導する理知的な階級の成立は,プラトンでは,「贅沢に膨れ上がっ
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たポリス」の欲望が領土拡大を招き,隣国との係争を招いたあとの出来事となるが,
アリストテレスは,最初から,完成態としての国家の形相的部分こそが存立していな ければならないとする。これは,時間的に先行するべきであるということではなく,
列挙された部分が全て同時に,立法家に与えられていなければならないという意味で ある。それは,政治学全体が向けられている対象がポリスを建設するか,立て匝すか
(30)
の役割を与えられている立法家であるということから明らかである。
ここで,立法家にポリス建設のために,あるいはそれを保全するために与えられる 前提とは何かを考えてみる必要がある。立法家が現実に存在するポリスにとって最も 善い国制を構想する場合,彼が構想の出発点とするのは,そのポリスの富と人材であ
る。アリストテレスにとって,政治家や立法家の行為の対象が,何よりもまず人間で あったということについては,ここで改めて考察する必要がある。そのことによって,
我々自身の概念枠も再検討しなければならなくなるであろう。
この問題を考察するためには,まず,ポリスとは何かという基本的な概念の問題に ついて明確な認識を持っている必要がある。ポリスとは,アリストテレスの規定によ ると,コイノーニアーであり,すべてのコイノーニアーは何らかの善を目指している が,ポリスは他のすべてのコイノーニアーを包括した,最高の善を目指すコイノーニ
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アーである。そして,このポリスはポリーテース(市民)たちの集団である。この根 本規定を導きの糸として考察を進めていこう。
コイノーニアーは共同体 (community) と翻訳されることが多いが,これは,「(人 間達の)交わり」のことである。したがって,ポリスは共同の善を目指すポリーテー
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スたちの交わりである。それは共同の善を共有する現実活動であるが,人々が現に活 動していなくても,その可能性がある場合も含まれるから,交わりの可能態も含んで いる。したがって,コイノーニアーは人々の共同の活動であると共に,共同の関係で もある。第一義的には,ポリスは,ポリーテースたちの共同の現実活動を意味するが,
(30) Pol. IV, 12, 1296 b 35, VII, 14, 1334 a 2. この点は, Bodeiis (p. 3)によってつとに指 摘されていたところである。
(31) Pol. III, 1, 1274 b 41.
(32) partnershipという訳語も見られるが,交わりであると共にその関係も意味するので,
「共同関係」が最も近い訳語ではないだろうか。