K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二三八 個人研究
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フローレンツ﹃日本文学史﹄(
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皆 、 ) に見られる仏教にかかわる記述をたどり、こ の書物において仏教がどのようにとらえられているかを明らかにしてみたい。 K . フローレンツ(同ω
ユ ﹀ 仏 色 町 司 -。 円 。 ロ N 一 八 六 五1
一九三九)は、東部ドイツのエルフアルトに生まれたドイツ人で、明治二二年(一八八 九)に来日して帝国大学において二十余年にわたって独語独文学及び博言学(言語学)を講じ、日本におけるドイツ学の基礎を作った人物であ るが、彼の本来の関心は日本の言語・文学・文化の研究にあり、その方面で多くの著作を残した。とりわけ一九O
六年にライプチヒで刊行され た﹃日本文学史﹄は、独文六四O
頁余の大部の著書で、まだ日本文学の通史といえるものがほとんど書かれていなかった当時において、上代以 前から説き起こして近代に至るまで、日本文学の歴史を詳細に説いた彼の代表作というべき書物であって、ドイツにおいては久しく日本文学研 究の基本図書として読まれてきたが、日本においては未だ完訳もなく、十分に知られているとは言い難い。 ところで、この﹃日本文学史﹄では、日本文学の史的展開を論ずるにあたって、文学の背景にある日本の言語・文化・歴史・思想・宗教など にもかなり立ち入った言及がなされており、当然のことながら仏教に関しても少なからぬ言及・記述がある。それは未だヨーロッパ人にとって は未知の国という色合いの濃かった明治期の日本に単身渡来して、 一から自分で文献を読み解き、文化にふれて、日本を理解しようと努めた一人のドイツ人が、文学とのかかわりで仏教をどのように見たのかを我々に示してくれる興味深い記録といってよかろうかと思う。 筆者は、ここ数年この﹃日本文学史﹄ の翻訳に従事してきたが、翻訳作業はほぼ終りに近づいたので、 その成果を活用して、本書における K . フローレンツの仏教に関する見方がどのようなものなのかを概括して示すことにしたい。 -E B E -内 , ‘ 本論に先立って、二、三前置きとして述べておきたいことがある。 まず、この稿は﹁ K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について﹂と題する。敢えて﹁仏教観﹂というような言い方は せず、﹁仏教に関する見方﹂としたのは、﹁日本文学史﹂における仏教や仏教にかかわるもの ( 僧 侶 な ど も 含 め ) についての種々の言及をたどる こ と で 、 フローレンツが仏教をどのようなイメージで見ているかといったくらいのやや緩やかなとらえ方で考えたいと思う故である。 次に、この稿では、 フローレンツの記述内容をたどり、整理する形で述べていくが、もとより一
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年余り以前の記述であるから、 フ ロ l レ ンツが記す内容は、今日の目で見れば、 また仏教を深く理解する者の目で見れば、妥当ではないところや理解不足も少なくない。しかし、その 点の批判的検討は別に譲り、この稿では、 一、二立ち入って述べるところは別にして、もっぱらフローレンツがどう書いているのか、 ど 警 つ い ﹀ つ イメージをもっているのかを明らかにし整理することに力を注ぐことにしたい。 そして、以上のようなところに重点を置いて述べるため、この稿では、フローレンツ﹃日本文学史﹄の本文を何度も何箇所も引用することに なるが、その場合には、筆者が作成した訳だで引用することとし、引用訳文の末尾にその訳文に対応する独文原書の当該箇所の所在頁を付記す る。また、文学史の書物であるから、文学史で区別される時代別にある程度内容にもまとまりがあるので、以下の記述・考察もそれに対応させ る形で時代ごとにまとめつつ述べることにする。二、太古の時代(上代)
の記述から
内 , ‘ ll 噌l フローレンツの﹃日本文学史﹄においては、次のような時代区分のもとに記述がなされている。 I . 太古の時代 西暦七九四年まで A . 古代の文学 七世紀半ばまで K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二三九K . フ ロ ー レ ン ツ ﹃ 日 本 文 学 史 ﹄ に お け る 仏 教 に 関 す る 見 方 に つ い て 二 四
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B . 前古典期の文学(万葉時代)H
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中世 A . 古典の時代(平安時代 七九四年から一一八六年まで) B . 古典期以降の時代と宮廷文学の没落(鎌倉及ぴ室町時代)m .
近世 一 八 六 八 年 ま で 文芸復興と国民文学の開花(徳川時代)w .
最も新しい時代 一八六八年以降 ヨーロッパの影響の時代(明治時代) ( 序 言 の 羽 頁 ) 今日の文学史の記述において一般に 8 上代。と一括される七九四年以前は、﹁七世紀の中国文化の導入﹂が﹁自に見える境界石を形作ってい る﹂として﹁古代﹂と﹁前古典期﹂に分けられ、また、市中古車として特立される平安時代が市中世 H とされる鎌倉・室町時代と大きくひとま とめに﹁中世﹂とされているなど、我々の見なれた日本文学史の時代区分とはかなり異なっていることは注目される。 以下、この区分に拠るフローレンツ﹃日本文学史﹄の記述を、この時代区分に即して見ていき、仏教がどのようなイメージでとらえられてい るかを明らかにしたい。なお、 W の﹁最も新しい時代﹂については、とり上げるべき記述も乏しいので、この稿ではふれない。この二節では、 ま ず 、 ーの﹁太古の時代﹂について見てみる。 内 , ‘ , E l 内 , ‘ ﹁ 太 古 の 時 代 ﹂ の ﹁B
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前古典期の文学﹂の最初には、﹁ 4 . 仏教と中国的教養の導入による最初の成果﹂として一節が立てられ、仏教 の伝来とその影響についてまとまった記述がなされている。これは、もちろんこれ以降の日本文学に与えた仏教の影響を、 フローレンツが重視 す る 故 で あ ろ う 。 この部分の記述を若干見ておきたい。 ( 1 ) 最古の時代には、この民族はみんな、自分たちの支配者は人間の血統ではなく、神々の子孫、偉大なる太陽女神アマテラスの子孫だ と思っていた。しかし、仏教が普及し、人々が、天皇でさえも新しい教えを受げ入れて自らを三つの貴い宝[三宝] の 奉 仕 者 、 つ ま り 、 仏教の奉仕者と名乗ったのを知った後は、彼らは釈迦牟尼は天皇よりもずっと偉大な聖者であり、そして、それ故、彼らの支配者のもとでよ りも仏教の僧侶と尼僧のもとで、よりよい加護とより確実な救済が得られると考えるに至ったに違いない。このような気持ちは、僧の命令 と天皇の命令とが相互に矛盾することになった場合に、僧侶の命令に反するのではなくむしろ天皇の命令に反して行動するまでになってい ったのである。この現世で辛酸をなめ重荷を負うていた者は、少なくとも︽別の岸辺においてて つまり、来世においては、安らぎと平和 を享受しようとした。現世で快適な状態であった者は、来世においてそれとは反対の体験に身をさらしたがりはしなかった。原因と結果、 人間の行いに対して報いられることと罰せられること、極楽と地獄、 といった仏教的な概念はすべての人の意識のうちにあった。既に皇太 子であった聖徳太子は、六
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四年に漢文で書いた十七条の道徳条項[憲法] の第二条で、以下のように言って、仏教の教理に対する信仰を このうえなく強い口調で重視している。(中略)このような指示が上から、 つまり、この改革[注・大化の改新]によってその特権が最も 敏感に感じとられた側から発せられたのだから、この民族の宗教的な観念における急変を不思議がる必要はないであろう。 ( 四 九 頁 ) まず、仏教の伝来が日本人の宗教的観念を急転換したことが強調される。もっとも、﹁僧侶の命令に反するのではなくむしろ天皇の命令に反 して行動するまでになっていた﹂というあたり、 いささか誇張の気味があると思えるが、 フローレンツの語り方は幾分このような傾向を持って いるようである。更に、仏教の文化的意義についても、次のように述べる。 ( 2 ) しかしながら、仏教の抽象的な観念と並んで、具体的な中国からの輸入品目も歓迎された。推古天皇(五九三i
六二八) の 時 代 に 、 中国のお手本にしたがって十二段階の冠位制が導入され、役人は制服を着なければならなくなり、中国の宮廷儀式が導入されたロ単純素朴 な神道の神社とは著しい対照をなす壮麗な仏教寺院と塔が建てられ、そして、外国人の指導のもとに、こうした建築に従事することで腕を 磨いてきた建築技師たちは、それからは従来よりもずっと人目を引く様式の宮殿や住居も建てた。さらに中国の科学や芸術や技術が入って 来た。すなわち、天文学、地理学、暦法、絵画、彫刻、音楽、舞踊、紙や布の製法等である。仏教と現世的な中国文化とは、手を携えて古 い日本の宗教的、国家的、社会的、そしてその他のあらゆる文化的制度を根本的に変えることに従事したのである。 ( 四 九i
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頁 ) ﹁仏教と現世的な中国文化とは、手を携えて﹂日本の文化を変えていったという見解は、概して言えば、今日的にも穏当な記述かと思える。 また、民衆とのかかわりについては、次のような記述もある。教育が為政者側に独占されていた状況に言及しての一節である。 K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について ニ 四K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 四 二
( 3
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ここにおいても改善を成し遂げたのは、仏教の聖職者の功績であった。ちょうど中世ヨーロッパにおけるキリスト教の僧侶のように、 日本においても僧侶は民衆の精神的な、また物質的な幸福の推進者であった。彼らの数は急速に増えていった。既に六二七年において、 四 六 の 寺 院 は 、 八一六名の僧と五六九名の尼僧を擁していた。七世紀の末には、彼らは何千人にもなり、 お仕舞いには彼らの数は恐ろしいほ ど多くなった。彼らの数の力、彼らの増大する富、天下の人の心に与える彼らの影響ということを意識して、彼らは調子に乗って思い上が り、初めに育て上げてもらった政府の権威に対しても、武器を取って反抗することさえ稀ではなかった。 ( 五 一 頁 ) ヨーロッパの修道僧などと対比しつつ、﹁日本においても僧侶は民衆の精神的な、また物質的な幸福の推進者であった﹂とするあたり、西欧 の歴史とも重ね合わせっつ、仏教・僧侶の社会的役割に肯定的なイメージを抱いていたことがわかる (ただ、それにしても僧侶が﹁武器を取っ て反抗することさえ稀ではなかった﹂というのは、何に拠った記述であろうか。このあたりにも、先に見たのとも通じるフローレンツの誇張し た語り方が出ているのかもしれない)。 帽 , ‘ S E a -帽 ‘ 咽 以上のように、仏教の精神的・文化的・社会的意義については、相応に肯定的で、また穏当な記述がなされている。しかし、仏教が日 本文学に与えたものという点については、 フローレンツはどのようなイメージを持っていたのか。I
章から、そのことが知られる記述を引いて み た い 。 ( 4 ) は﹁記紀歌謡﹂について、 ( 5 ) は﹁万葉集﹂をめぐっての記述である。 ( 4 ) それら[注・記紀歌謡]は、大掛かりな技巧を使うことなく、それらの時代の話された言語の形で書かれており、 そ れ 故 、 まだ文字 で伝えられることがなかった時代に由来する古代の日本語の文献学的・言語史的に非常に重要な遺品であり、実際にウラル│アルタイ語族 の断然最古の言語の資材なのである。また、文化史的にもそれらはこの上もなく価値があるものである。というのもそれらは全く自然な、 飾らないやり方で古代のまだまさに原始的状態で生きていた住民の意向や生活様式や関心領域を反映しているからである。そこから我々は、 すでに太古の日本人が、非常によく理解できるような、人生を楽しむ、歌好きで、自負心があって戦闘的な民族であったことを知ることが でき、もちろんこの民族は後にはこの世から逃避する仏教の教えうけいれることができたが、しかし、 それによっても永続的に彼らの行動 力を奪われなかったということを、よく知っている。 ( 一 一i
一 二 頁 ) ( 5 ) 日本人の民族性は、より明るく人生を解釈する傾向がずっと強いのであって、 そのことは、太古の時代の歌の際に既に気づくことが出来たことである。祝調で証明されたように、 いざという時には、日本人の魂は努力して儀式張ったまじめさや朗々たる荘厳な言葉の豊か さを実現している。しかし、﹁万葉集﹂でここかしこに見いだされ、さらにより後の文学において、亡くなった君主や親族の死への詩的な 嘆声やその種のより多くのように、ずっと広がっていく思索的な厭世観は、外から日本の土壌に移植されたものである。 ( 八 九 頁 ) 日本人に仏教がもたらしたものは、現実逃避の厭世観であり、 それは﹁万葉集﹂などの文学のここかしこに見られるというのが、仏教と文学と のかかわりについてのフローレンツのイメージである。そして、そうした厭世観だけがもっぱら文学で利用されたのだと見るロ ( 6 ) 一定の数の歌は、仏教的な世界観から生まれている。けれども、歌人たちは、数多くの豊富な仏教的観念のうちから、この世は束の 聞の価値のない無であり、汚濁に満ちた不幸と失望の苦しみの谷間であって、捨て去って出来るだけ早く浬繋へと逃れるべき︽織れた︾世 界だとするとりわけ際立った厭世的な解釈のみを歌として利用し、この基本的な思想を限りなく変えながら形作り続けた。これに対して、 仏教の祭礼や伝説・御伽話に関することは何も見いだされない。この点に関しては、歌人たちはその詩において常に民族的な独自性を純粋 に守っており、人間としては救いを仏教の教えに求めたにしても、自らが古い神々と伝説の崇拝者であることを示して見せた。 ( 九 一 頁 ) 仏教が日本文学にもたらしたものは、もっぱら﹁厭世観﹂であるというのが、 フローレンツの見方であった。以降の時代の記述においても、 フローレンツは仏教と日本文学とのかかわりを、このようなイメージで語っていく。そして、たとえば ( 4 ) の 8 日本人はもともと人生を楽し む行動的な民族で、仏教の厭世的な教えを学んでも、それは本質的には失われなかった 8 というような論調からもうかがわれるように、 フ ロ ー レンツが﹁仏教的な厭世観﹂を肯定的なイメージで見ていなかったことは明らかであろう。 一言付言すれば、府明朗快活な古代の日本人に仏教は厭世観をもたらした 8 などという見方は、ある意味では陳腐でステレオタイプなとらえ 方と思えるかもしれない。しかし、先行する﹁日本文学史﹂がほとんど書かれていなかった当時の発言であることを思えば、これがフローレン ツが日本の文学と歴史について、自力で文献を読み解き、自ら思索して行きついた彼なりの学問的見解であったということは、相応に理解され るべきであろう。 司 4 a l l a a 守 以 上 ー章の﹁太古の時代﹂の記述から、 フローレンツが仏教及び仏教と文学のかかわりをどのようなイメージでとらえていたかを見 て み た 。
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章について、ここで関連して、今一つ次のような記述を引いておきたい。文学という営為を支える一つの重要な要因は文字であり、 K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について ニ 四 三K . フ ロ ー レ ン ツ ﹃ 日 本 文 学 史 ﹂ に お け る 仏 教 に 関 す る 見 方 に つ い て 二四四 日本固有の文字の成立は、次の平安時代以降の文学を開花させる重要な契機となるのだが、その点をめぐって、 フローレンツは随分思い切った 臆断を下している。 ( 7 ) 八 j 九世紀には、サンスクリット文字を、そしてひょっとするとほんのわずかな程度にせよサンスクリット語を知っていた日本人の 仏教徒の学僧がいて、彼らによって、より後のことではあるが、 サンスクリット文字との類比から日本語の表音文字を作ろうというさまざ まの試みがなされた。しかし、 そうした試みは、とりわ付中国の文字がすでに極めて確固とした地盤を築いていたために、賛同を得られな かった。そして、近年に至ってそのとっくに忘れられたアルファベットが寺院の書庫やその他の場所から再ぴ日の当たる場所に出されると、 世人は、無批判なままに誤って、それらは、中国の文字を知る以前に発明された太古の日本の文字体系、神代文字︽神の時代の文字記号︾ だと主張したのである。それらは、それ自体としては、実験の段階を越えてはいなかったものと見えるにせよ、このような試みが、今日も なお存在する日本の四七もしくは五
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音 節 ( あ 、 い 、 ︾ つ 、 み ん 、 お/か、き、く、け、こ等々) の緩り字表の創始に、本質的にはやはり寄与 したことは、疑いないことである。日本語の音節文字﹁仮名﹂の符号は、普通の漢字から派生し、しかも、二つの体系が生じた。すなわち、 というのは、原則的には、中国の四角い文字の符号の断片が利用されるからである。そして、 2 . ひ ら ー か 1 . か た ー か な ︽ 断 片 の 仮 名 ︾ 、 な︽平な仮名︾、これは表音的に用いられる漢字の、完全な、あるいは略された筆記体の形より成っている。前者の体系は、よく知られた 伝承によれば、吉備のマキ(ピ)[真備]という学者(七七六年没) の発明、後者は有名な僧侶弘法大師の発明とされている。しかし、R
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他の現代の学者とも同意見だが││彼の﹃日本文字への導入﹄の 3 ページにおいて的確に述べているように、﹁ここでは、言 語と文字の歴史においてしばしば観察される、自然の長きにわたる発展の結果を特定の個人に帰させようとする傾向が現れているのであ る﹂白こうした伝承からあまり大きな矛盾がなく、せいぜい受け入れられる唯一の推測は、弘法大師という僧侶が日本語の綴り字表の音節 をよく知られた暗唱用の歌[注・いろは歌]に仕立てあげたということであろうか。その歌にはすべての音節が、 一つとして重複されるこ となく含まれていて、それでもまずまずの意味が成り立っているのである。 ( 五 八i
五 九 頁 ) サンスクリット文字を手本に仏教の学僧が表音文字を作ろうとした試作が﹁神代文字﹂と呼ばれるもので、そうした試みが仮名の創始にも寄 与したという見方が示されている。ひいてはそれが文学の発展をもたらすというわ防で、 そこには仏教の僧侶のそうした文化的営為を肯定的なイメージで見る見方がうかがわれよう。しかし、﹁神代文字﹂なるものが悉く後世の偽作であることは、今日の日本語学において既に明らかに されていることであり、もちろんそのようなものが﹁仮名の創始﹂にかかわりがあったなどということはいえない ( ま た 、 ﹁ い ろ は 歌 ﹂ の 成 立 に空海が関与したなどということも、明らかに否定されることである)。しかし、 フローレンツが﹃日本文学史﹄を執筆した当時、日本語の歴 史的研究は未だ繋明期にあって、﹁神代文字﹂なるものの正体も十分には論究されていなかった。それ故にこのような臆断がなされているのだ ろうが、こうしたところは、実はいかにもフローレンツらしいのではないかと、筆者は思う。 フ ロ ー レ ン ツ は 、 一九世紀のヨーロッパにおいて言語学を学んだ学者だけに、基本的には手堅い文献実証主義の学風であり、﹃日本文学史﹄ の記述も普通は必ず拠り所となる文献等をおさえてのものである。しかし、 およそ、文献等に判断の根拠・拠り所が求められない ( ま た 、 求 め ょうがない)事柄に関しては、時に思いもよらない臆断を下すというところがある。右の記述なども、 フローレンツのそうした一面が出たもの のように思えるのである。
三、古典時代(平安時代)
の記述から 内 ‘ 岨 B E E -次 に 、 フローレンツが﹁古典の時代﹂とする平安時代を論じた H 章A
の記述について、彼の仏教についての見方・イメージを見てみた い。同趣の記述は他にも見られるが、次の ( 8 ) ( 9 ) は﹁日.文学における女性たち﹂と題する節の、女流文学興隆の背景を説明する記述の 一 節 で あ る 。 ( 8 ) 仏教の教えは、その聞に日本の民衆の中で下層階級においても次第に広がり始めていた。そして、僧尼の数はほとんど限りないまで に増大していた。しかし、僧職階級の者は、ただの一度もそのまなざしを魂の救済に向けなかった。出家の生活に入ることと結びついてな されたという遁世は、僧職の尊厳の庇護の下により効率的に、 そしてより責任を問われることなしに隠れ場所から現世の出来事に参加でき るために、しばしば見せかけのもの、陽動作戦として行われたに過ぎない白(
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頁 ) 仏教の普及・浸透が、その形骸化を伴ったことが強い口調で述べられる(﹁ただの一度もそのまなざしを魂の救済に向けなかった﹂というの は、さすがに言葉が過ぎよう。この点、他の箇所では﹁新たな尊厳﹂を希求した僧侶の存在にも言及がなされてはいる)。そして、仏教の世俗 K . フローレンツ﹃日本文学史﹂における仏教に関する見方について 二 四 五K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 四 六 化についても、次のように記す。 ( 9 ) カトリックの場合と同様、仏教においても大変華やかに祝われる数多くの記念日と祝祭がある。(中略)確かに祈りには大きな役割が 課せられるが、しかし彼岸での魂の救済のためにだけ祈られ、断食され、祝祭が行われるのではなく、自然の出来事と日常生活の苦しみに 仏と聖者の救いに満ちた介入を呼び込むためにも、こうしたことすべてが行われるのである。このことは概して人間的であるにしても、仏 教の心を動かす教えが僧侶によって彼らの個人的な利害で熱心にすすめられたり存分に利用されたりする極端な迷信に容易に一変してさせ られてしまう危険な地点に達していることは、やはり否認は出来ない。僧侶はありとあらゆるところに関わらなければならなかった。(中 略)僧侶はそうして魔術師に、また呪医に降格してしまった。こうしたことすべてに関しては、当時の小説や日記や小文において事細かに 知 ら れ る 。
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一 頁 ) そ し て 、 たとえば女流日記を解説する中で、堀河院崩御を描く﹁讃岐典侍日記﹂は、僧侶が病気治療に呪医のようにかかわった実際を知る資 料となる作品といった説明もなされている。 以上からもうかがわれるように、 フローレンツは、この時代の仏教を決して好イメージでとらえていないが、それはやがて平安末・鎌倉初に 至っていくつもの改革運動が起きることになるこの時代の仏教のネガティブな一面をそれなりにとらえたものといえよう。 内 ‘ 岨 a a E ' 内 , -そして、文学と仏教のかかわりについては、 フローレンツは、前代同様もっぱら仏教が文学に厭世観をもたらすものという見方で一貫 している。例を二つあげておく。(印)は、﹁古今集﹂の歌の詠み方を分析した一節で、﹁散る花﹂の背後に厭世観を見ている。 (叩)散る花は、もちろん人間という存在の移ろいやすきを思い起こさせる││仏教の教えの永遠に続く反響であるーーが、衰弱と死の形 跡などまだ全く示していない花の完全な見事きも、詩人が見ては、﹁そうだ、しかしそれがどれほど長く続くのだろうか?﹂という思い以 外の何ものをも呼び起こさないばかりだし、そのような思いは、山を下りてきたオイレンシュピ l ゲルのように、喜ぴを感傷的に台無しに してしまう。たとえば、﹁古今集﹂巻一の五三番、業平の桜の花の詩である。 よ の な か もしこの世に たえて 支 ﹄ ノ 、 h り の 桜の花がなかりせば 全くなかったなら は る の こ こ ろ Iま 我らが心は のどけからまし 春にはずっと晴れやかであろうに。 もし桜の花がなかったら、それは散りもしないし、 それで我々の心を暗くすることもないであろう。より的確に言えば、しかし、この発 想からなんという厭世観がにじみ出てくることだろう! ( 一 三 九 頁 ) もっとも、この業平歌に﹁なんという厭世観﹂などという強い受けとめ方は当たらなかろうが、﹁散る桜﹂に無常、そして厭世観を見ること は、和歌の一つの読み方として妥当な方向であろう。 また、次の(日) は、花山院出家に至る一連の事件を見本文例としてとり上げての記述である。 (日)以下に続く見本、すなわち花山天皇の話からの抜粋は、﹁栄華物語﹂がふけることを好む夢見心地の気分をとりわけよく示している。 我々の立場からはおそらく、感傷が女性的な夢想にまで過度に押し進められているとの判断を下さなければならないだろう。しかし、叙述 はそのために虚偽のものにはなっておらず、反対に写実的である。というのも、実際に仏教的な厭世観によって満たされた(ヴェルテルの 如き)苦悩の時代は、病的なおかしな人々を生み出すのにとりわけよく合っていたからである。 ( 二 三 五 頁 ) 面 白 い の は 、 フローレンツが仏教的厭世観に満ちた平安時代を﹁(ヴェルテルの知き)苦悩の時代﹂と重ね合わせて見ていることである。周 知のように、ゲ
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テの﹁若きヴェルテルの悩み﹂は、主人公のヴェルテルが許されぬ恋故に自殺する物語であるが、この作品は当時の時代の社 会的閉塞感を代弁するかのような小説として大いに反響を呼ぴ、主人公を真似て山高帽にステッキといういで立ちで自殺する若者が跡を絶たな かったという。そのような時代の気分と平安期の仏教的厭世観を重ねて考えることが果たして適切なのかどうかはともかくとして、 フローレン ツは、この時代の文学と仏教のかかわりを、 一貫して﹁厭世観﹂という点に見ているのである。四、古典期以降の時代(鎌倉及ぴ室町時代)
の記述から
a 且 T E E -B 鎌倉期以降についても、右の点は、基本的に同様である。すなわち、 フローレンツは、太古の時代以降中世の終りまで、仏教と文学と K . アローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 四 七K . フ ロ ー レ ン ツ ﹃ 日 本 文 学 史 ﹄ に お け る 仏 教 に 関 す る 見 方 に つ い て 二 四 八 のかかわりの基調は﹁厭世観﹂にあるものというイメージで考えている。 念 の た め 、 H 章 B ( 鎌 倉 ・ 室 町 時 代 ) の最初の﹁ M . 内乱の時代に於げる文学の運命﹂の一節を引いて、この点を確認しておきたい。 (ロ)もちろん、武士は、学問の上の仕事をしようという時間も望みもなかった。それで、学問の担い手としては、坊さんたちだけが残っ た ー ー こ の 現 象 は 、 ヨーロッパの中世におけると同じ現象である。しかし、彼らが守り育てたのは、学問だけではなかった。多くの詩人や 作家が、彼らの階層から世に出た。そして時代の精神全体に、彼らは自分の刻印を刻した。仏教的な悲観主義、現世のすべてのものの変わ り易さへの悲嘆、権力と没落をめぐる永遠の盛表についてのほのめかし、遁世という考え方が文学を満たしている。数多くの新しい宗派が 成 立 し た 。 一つは、たとえば浄土宗や浄土真宗や法華宗のような宗派で、 一般民衆のことをより多く考えに入れて、しばしば口にされる祈 りの言葉﹁南無阿弥陀仏﹂︽無限の仏陀に対して賛美があるように︾と﹁南無妙法蓮華経﹂︽素晴らしい戒律である蓮の経に対して賛美がある ように︾を何度も繰り返すことによって、自らに対して天国へ入る許しをしいて認めさせようとする。それらと別なのは、禅宗のような宗 派で、聖なる経典を放棄して、膜想(ゼン H サンスクリットの市ディヤ
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ナ 。 ) による心の浄化に重点を置く。後者の方向は、武士階級に も共鳴を得て、時間の経過とともに、習慣、衣服、食物、住居、芸術、そして文学といった内面的及び外面的な生活の諸状況に非常に大き な 影 響 を 及 ぼ し た 。 ( 二 五 六i
二 五 七 頁 ) この時代の学問・文学の担い手として僧侶が重要であったこと、それ故仏教的な悲観主義・遁世という考え方 ( H 厭世観)が文学を満たして いるということが述べられている(ちなみに、それに続いてこの時代の新しい仏教についての簡略な紹介も述べられているが、浄土真宗・他に ついてはこの程度の認識のようである。新しい仏教の中では、禅宗の文化的意義が特記されている)。 a 且 T , , , 帽 , ‘ 以上、くり返しになるが、 フローレンツはこの時代の文学と仏教とのかかわりを﹁厭世観﹂としてもっぱら見ている。だが一方では、 それだからこそそうした基調からはずれるものを、 フローレンツはとりわけ評価するというところがあると思われる。いわば、どこを見ても ﹁厭世観﹂の文学という時代の中で、それで片づかないものを清新だとして評価するところがあるのである。 たとえば、中世の歌人の中でも﹁西行﹂については、 フローレンツは次のとおりはっきり﹁好感﹂を表明している。 (日)最も好感の持てる人物の一人が、西行法師(西行和尚様)である。(中略)自然とともに、 そして自然の内でする営みが彼の魂のすべてと彼の詞とを満たしていた。彼は、短歌の形でのみ自分を吐露したが、そこでは、全般に一種の哀調が支配しているにせよ、考えうるあら ゆる言葉を響かせている。彼の歌の多くは、新鮮で力強い特徴を示している。仏教的な厭世観も彼の精神を完全に隷属させてはいない。 ( 二 七 五
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二 七 六 頁 ) それは、必ずしも﹁仏教的な厭世観﹂ 一辺倒の精神ではないからである。 また、﹁徒然草﹂と作者(兼好法師) については、次のように述べる。 ( U ) ﹁徒然草﹂は、﹁枕草子﹂に似て体系なしに並べられた長短の話と警句の連続であり、ある時は真面目である時は滑稽であり、ある時は いかがわしくある時はひどく皮肉である。大体において、確かに仏教的な世界観が有力であるが、しかし、個々の点においては、しばしば 全く相異なる道教的な、儒教的な、あるいは神道家の方向と観念が主張されているところもある。作者は、若い頃から熱心に孔子や老子や 荘子等々の研究に取り組んで、そのすべてから何かを得たが、どれを採るとも決めはしなかった。彼は折衷主義者で、相反するものを平均 化する男であった。 ( 三 三0
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三 頁 ) ﹁仏教的な世界観(ひいては厭世観こが有力であっても、 それでは片づかない折衷主義的な面が指摘されるロそして、その点をフローレンツ は高く評価するもののようで、実際、﹁徒然草﹂については目立った紙数を費して紹介がなされている。 こ う し た 論 じ 様 は 、 ﹁ 叙 事 詩 ﹂ 、 つまり軍記物語に言及した次のような記述にも見てとれる。 (日)鎌倉時代の際立った二つの特徴ーーすなわち仏教と地上の権力者の運命の運命のめまぐるしい変転とによって吹き込まれた基調とし ての厭世的な気分と数多くの戦いによって寝覚めさせられた武士的な精神のうち、後者は実朝やその他若干の武士の歌におけるような別々 事例に散発的に現れただけなのに対して、圧倒的に前者が叙情詩に反映された。しかしながら、叙事詩において、少なくとも当時の時代精 神と見られるものにおいては、事情は違っていた。すなわち、ここでは武士的な精神、勇敢に行為を遂行するのを好む気持ちが優位を占め ていた。この種の作品は、大抵は僧侶によって作られたが、もちろん柔弱な小心者によってではなく、たとえば﹁ヴァルタ!の歌﹂の作者 であるドイツの僧エックハルトのような僧侶によって書かれたのである。 ( 二 九O
頁 ) 叙情詩(和歌等) では、圧倒的に﹁基調としての厭世的な気分﹂が現われているのに対し、軍記などの叙事詩では﹁武士的な精神﹂が際立つ K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 四 九K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 五
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ているという。そして、 そうした作品は、僧侶の手に成るものであるが、それは、﹁柔弱な小心者﹂ではなく、ドイツの名叙事詩﹁ヴァルタ l の歌﹂の作者エックハルトにも比される僧侶の作なのだというような書き方は、明らかに﹁厭世的な気分﹂より﹁武士的な精神﹂が優位を占め る (とフローレンツが考える)こうした作品を肯定的に評価した言葉であろう。 a a -E E ・ 内 ‘ “ 中世の文学の基調に仏教的な厭世観を見るフローレンツのとらえ方は、それだけ仏教が深く文学に影を与えるものと見る点では、この 時代の文学にとっての仏教の重要性を認識したものといってよい。しかし、文学的な価値評価という点では、 フローレンツはむしろ基調に埋没 しないところをよしとしたといえる。オリジナリティの評価ということを考えれば、このことは、もちろんごく自然なことなのだろうが、とも あ れ 、 フローレンツの日本文学の見方には、右のような意味で﹁仏教的な厭世観﹂が一つの判断のものさしともなっていることには注意してお い て よ か ろ う 。 a 且 T E E E a 且 守 ここでまた、関連して一つ付け加えておきたい。次の(問)は、中世演劇の能の成立について解説した一節であるが、元(モンゴル) の時代の中国の演劇を手本に能が作られていったという見解が述べられている。そして、それに深く関与した者としての僧侶の役割が強調され る (団)中国の演劇の最盛期に当たるのは、 モンゴルの支配の時代(一二O
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一 三 六 八 ) であり、日本の叙情的演劇の始まりは十四世紀の 最後の四半世紀に当たる。既に気づくとおり、この時代には仏教の僧侶という媒介者を介して中国と日本の聞の往来が盛んであった。鎌倉 時代及び足利時代において文学に関心を持つ人間の主たる者である僧侶は、もちろん中国において演劇も学んだし、演劇の技術に関する全 般的な知識を知って、それをおそらくはテキストも一緒に日本に持って帰った。容易に物事を受け入れる日本人が新しく興味深いジャンル 利用もせず模倣もしないでやりすごすことは不可能であった。上に名をあげた猿楽の役者一族四家がいた僧侶の多い奈良では、中国の演劇 は明らかに好意を持って受け入れられ、 そして、既に存在していた日本の身振り芝居の技芸は、中国の演劇というお手本に従って、補完さ れ 、 組 織 さ れ た 。 ( 三 七 五 頁 ) しかし、元曲などの中国演劇が能の成立のお手本となったなどという考え方は、今日まずふつうには認められないことであって、右も結局フ ローレンツの想像によるものだろうと思われる。 214 で見たのと同様の臆断が、ここでも見られるといってよい。ただ、次のようなことを考えることは許されよう。フローレンツは、仏教が文学に内容的に与えたもの(厭世観) については肯定的なイメ l ジは持っていなかった。しかし、仏教の僧侶が文学を支えた文化的・社会的な役割や意義については、相応に積極的に評価しようとする見方を 持っていたことも、その記述から明らかである。このような臆断も、そうした見方で物事を度過ぎて見てしまった結果であったと評してもよい のではないか ( 2 1 4 で見たことも同様といえよう)。
五、近世(江戸時代)
の記述から P 町 叫 a B E t -さ て 、 フローレンツは、中世までの日本文学とのかかわりをもっぱら﹁厭世観﹂という点に見ていたのに対し、近世は仏教的厭世観が 超克された時代、仏教の指導的立場が失われた時代と見ている。そして、 そうした状況をもたらしたものとしては、朱子学などの儒学思想の導 入を考えている。そのことは、m
章の最初の﹁幻.徳川時代における精神論的潮流﹂の中の次の一節に端的に見ることができる。 ( 口 ) チ ュl
ヒィ(朱菓)が体系化した形での儒教の道徳は、武士及び支配階級にとって、指導的な精神的権威となり、彼らを仏教を克服し た立場にした。宋学の学者たちの価値と人格を殺す彼らの形式主義についてどう考えるにせよ、中国の思想家の実践的で冷静な人生観は徳 川時代の日本人に、厭世的で人を柔弱にする悲観的な仏教よりも力強く健康な滋養品を提供したことは、やはり否定できない。仏教が民衆 の中でなお広く行われ続けていて、寺院と僧侶の数がなお増えていたにせよ、しかし仏教は十七世紀の半ばから次第次第に衰微していた。 怠惰で無知な僧どもは、鎌倉及び足利時代にとっていた指導的立場を失い、科学と文学は再び俗人世界の手に渡った。 ( 四 一 八1
四 一 九 頁 ) 江戸時代の仏教についてのフローレンツの理解は必ずしも十分ではなく、﹁怠惰で無知な僧ども﹂という決めつけもいかがかと思われるが、 それは時代的な制約と見るべきものであろう。ともかくも、 フローレンツは、中世から近世への移行を厭世的な仏教から﹁実践的で冷静な﹂儒 教への、時代を主導する思潮の移り変わりととらえている。 F ﹃ 叫 a E E ' 内 , ‘ こうした移り変わりに伴って、仏教と文学とのかかわりもいささか異なってくるとフローレンツは見ていたに違いない。フローレンツ の記述を追っていくと、もちろん仏教的厭世観も相変わらず芭蕉の俳諸などに見られるといった指摘はなされているが、必ずしも目立ったもの K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 五K . フローレンツ﹃日本文学史﹄における仏教に関する見方について 二 五 二 として特立された書き方ではない。むしろ、仏教が文学にもたらしたものとして焦点のあてられた記述になっているのは、因果応報・因縁とい う考え方である。次の ( 時 ) は、馬琴の読本についての解説の一節であるが、仏教的な﹁応報の理論﹂がストーリーの展開原理となっているこ とが指摘されている。 (国)馬琴の道徳的な世界観は儒教のそれであり、時折仏教的な考え方が織り込まれている。彼は、仏教的な応報の理論を実行して、不合 理なものにまでしている。彼の作品の主人公はしばしば、自分にはほとんど責任がないのに、悲劇的な運命に圧倒されるが、 それは、ただ 先祖がかつて悪練な振る舞いをしたからに過ぎない。 ( 五 二 九 頁 ) も っ と も 、 フローレンツは西欧の小説との対比において馬琴の著作に関心を寄せているようで、馬琴についてかなりの紙数を費して述べてい る。その結果、こうしたことが特に大きくとり上げられているという印象が生まれているのかもしれない。しかし、少なくとも、仏教と文学の かかわりをもっぱら﹁厭世観﹂という点に見ていた中世までの記述とは異なり、別の面にも光が当てられるようになっていることは、注意して おいてよいだろう。 P H 叫 , EE , a 屯 岨 また、次のようなことも注目される。近世では滑稽文学が盛んになるが、 その盛行までの道筋に目を向けて、 フローレンツは次のよう に い 売 っ 。 ( m w ) 純粋な形での滑稽小説は、日本においては一八世紀の終わり頃になって初めて発達し始める。このことは、日本人が人生を深刻でな くユーモアいっぱいに理解する傾向がとても強いことを考慮すれば、驚くほど遅い有り様である。比較的古い散文では、滑稽味は、たとえ ば﹁竹取物語﹂や﹁土佐日記﹂におけるように、程度の差こそあれ十分にそれが混入した形で見いだされるだけである。源平の合戦や、鎌倉幕 府や、初期足利時代の何世紀かは、 はっきりとした滑稽な文学が起こるのに好都合なことはほとんどなかった。何故なら、 一方では英雄的 なものにたいする噌好が、他方では仏教に由来する、僧侶の修道服を着た作者たちによって呼び覚まされた憂警な全体的雰囲気が保持され 増大されて、民衆の魂をその呪縛の中に捉えていたからである。 ( 五 四 九 頁 ) そして、そうした仏教的な考え方(厭世観)を批判することができるようになっていった室町時代後半以降近世までの流れを簡略にたどって い る 。 フローレンツは、近世を仏教的厭世観が超克された時代ととらえるが、それがまた新たな文学の方向性を可能にするものだったとも考え
ていたわけである。