戦国期本願寺
﹁
報
思
講
﹂
をめぐって
||﹁門跡成﹂前後の
﹁
教
団
﹂
|
|
大 谷 大 学 安藤
弥
一、はじめに
永禄四年︵一五六一︶、大坂本願寺において勤修された親鷲三百回忌について、﹃今古独誼巴は次のように叙述する。 抑開山聖人三百年忌、永禄四年辛酉年ニ当リ給フ、コレニ由テ、諸国御門弟、御一門一家、ソノ外坊主衆参洛、 但シ三月ノ比、引上ラレ、勤修アルヘキ由、年内ヨリソノ沙汰コレアリ、兼テハマ夕、今師上人禁裏ヨリ門跡ニ ナシ申サル、︵中略︶然ハ、御仏事ノ儀、当分御門跡ニナシ申サレ候ト申シ、院家各々出頭、コトサラ御年思避 遁ノ御事ナレハ、他宗ノ衆参詣モアルヘシ、先、聖道ノ衣裳シカルヘキ由ニテ、法服・柄袈裟用意アリ、青蓮院 門跡ノ出世松泉院法印ニ御談合ト云々、法事ノ作法ハ、日中三部経一巻ッ、伽陀アリ、読諦ノ後、マツ導師礼盤 ニ向ヒ一一一札、其後十四行偶ヲ始メ行道、次ニ漢音ノ阿弥陀経念仏廻向ナリ、導師ハ御堂衆、賢勝・教明・明覚 寺・光徳寺カハル/\勤メラル、内陣行道ノ衆ハ、御門主・本宗寺・願証寺・顕証寺・教行寺・慈教寺・常楽寺、 戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって J¥ 九戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九
。
並ニ御堂衆ナリ、役者ハ常ノ如、ン、南ノ御座敷モ畳マハリ敷ニナサレ、著座ノ衆、順興寺、光教寺、願得寺、光 善 寺 、 本 善 寺 等 、 ソノ外一家衆阿佐布ノ専福寺在京ノ問、末座ニ候セラル、坊官衆モ白袈裟・裳付衣ニテ、侍衆 ノ前ニ出仕、坊主衆モ白袈裟・裳付衣ナリ、連経ノ衆ト云云、衣裳ハ、行道衆、法服・金欄柄袈裟・横被裳、水 精七装束数球・槍扇・帥桂、御堂衆同前、但シ行道ヨリ前ハ、後戸ノ縁ニ砥候、導師ノ衆パカリ著座、南座敷ノ 衆ノ出仕モ同シ、去ナカラ、太夜ハ織袈裟・素絹・裳付衣、但シ南座ノ衆ハ絹袴ヲ著セス、朝勤・斎・非時モ同 ソノマ、御堂へ出仕アリキ、浄照坊ハ、所労ノ事ナレハ出頭コレナシ、︵中略︶ 御仏事ハ十日ノ間ナリ、御影堂ノ内ニハ坊主衆・相伴ノ衆候シテ其外ハ矢坪ノ外ニ参/集、広縁ノ通ヨリ平張ヱ同 シ 、 坊 主 衆 モ 白 袈 裟 裳 付 衣 ニ テ 、 ク打セラレ、阿弥陀堂ト同クヤネヲ仮茸ニセラレシカハ、諸人モソノ中ニ抵候アリケリ、他宗ノ僧徒交リ、紛ハ シクカタカタく御用捨ニヤ、例年ノ知ク法義懇談ニ及ハス、法事結願成就ノ後、御影前ニオキテ、猿楽宴酒ノ儀 モ 、 寝 殿 ノ 前 一 て ア コ レ ア リ 、 ﹃今古独一乱巴は光教寺顕誓が永禄十年︵一五六七︶に著したものとされる。史伝の類ではあるが、永禄四年から九年 にかけての本願寺報思議や院家成りなどについてまとまった叙述を持っていること、順興寺実従︵蓮如十三男︶の日 ︵ 4 ︶ 記﹁私心記﹂が永禄四年までしか残っていないことなどから、永禄年間の本願寺を知る上で重要な史料である。﹃私 心記﹄﹃今古独語﹄から﹁開山聖人三百年忌﹂のみならず戦国期本願寺の報恩講の法要次第、儀式作法、出仕装束・ 座配、御堂荘厳などはよく知られ、儀式変選史という視点に限っても興味深いが、﹁報恩講﹂の問題はそこにとどま ら ず 、 ま た ﹃ 今 古 独 語 ﹄ の 叙 述 は あ ら た め て 読 み 解 い て み る 必 要 が あ る 。 本願寺﹁報思議﹂の実質的な確立は戦国期である。蓮如によって本願寺﹁門流﹂から﹁宗祖﹂親驚への御思報謝を 旨とする﹁教団﹂化したとき、親驚の忌日法要が教団の根本法要として本願寺年中行事の中で位置上昇する。そして山科・大坂本願寺という儀式空間の成立が﹁報恩講﹂の展開契機であったことは間違いない。戦国期本願寺は報謝行、 つまり宗祖親鷲への宗教役勤仕を行動原理とした。とすれば、その本願寺が全構成員あげて行う教団法要﹁報恩講﹂ のカタチには、教団の全体像そのものが顕われていると考えてよいだろう。すなわち﹁報恩講﹂研究から、本願寺教 団史論を導くことができる。﹁報恩講﹂の史的研究は近年ようやく充実してきでおり、それだけに教団史論もあらた め て 論 じ 直 す べ き 段 階 と 思 わ れ る 。 戦国期本願寺教団史論は一向一挟研究と密接に関係しながら一九九
O
年前後までに大きな到達点を見たが、近年は 一向一挟研究とともに停滞状況にある。これに対し筆者はさしあたり大阪本願寺時代︵一五三二|八O
︶ に 注 目 し て 、 本願寺﹁戦国期宗教﹂論の構築を課題としたい。そこで一つの鍵になるのが本願寺門跡成である。 永禄二年︵一五五九︶、本願寺顕如は勅許により門跡になる。﹁門跡﹂とは法流の相承を指す意味から貴種が住持す る寺院の称といった語感であるが、本願寺教聞においては長らく宗主を指す語として使用され様々な歴史的課題を含 む。しかしながら﹁戦国期﹂に﹁本願寺﹂が﹁門跡に成る﹂ということは、当該期の国制・社会上の明らかな画期で あり、それと共に本願寺教団史における歴史的意義もあらためて建設的にまとめる必要がある。 小稿では、門跡成を経て勤修された親鷲三百回忌﹁報恩講﹂に注目して、﹁教団﹂の確立と門跡成による組織変容 の一端を検討することになる。仮に﹁教団﹂の内と外という表現を取るならば、内の検討に相当するが、内と外を結 ぶものとして﹁報恩講﹂という場が想定される。まずそこから始めたい。順序としては、まず親驚コ一百回忌に至る本 願寺報恩講の展開を概観し、次に﹃今古独語﹄の報恩講をめぐる叙述を再検討する。そこには特に儀式装束をめぐっ て 院 家 、 一家衆、御堂衆といった教団内身分の相互関係に微妙な緊張関係が窺えるのである。そこから更に御堂衆に ついて検討を加え、最後に本山寺院﹁本願寺﹂を場とする寺院組織・教団構造について試論する。 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九
二、戦国期本願寺報恩講の展開
l大坂時代・親鷲三百回忌
ここでは、大坂本願寺における報恩講の様相とその展開を確認しておきたい。草野顕之氏は、戦国期本願寺教団に おける年中行事の確立と教団体制の強化を結び付け、永正期と永禄期の二段階を措定し、後者に門跡成による儀式改 変の画期を指摘する。儀式論から教団論を導き出す方法も含め、小稿の前提となりうる研究であるが、門跡成以降の 見通しに課題を残している。大坂本願寺時代の教団展開と年中行事の充実に関し更なる詳細分析が必要であり、その 上で、門跡成をある意味はじまりとする教団展開を近世教団論との連続性も含め総合する必要がある。 ﹃私心記﹂や本願寺証如の日記﹃天文日記﹂を分析すれば、大坂本願寺時代の報恩講が、親驚の命日である十一月 二八日を結願日中とする一七日法要として、毎日の日中には﹃報思講式﹄︵式文︶拝読・勤行、逮夜・朝勤には正信 偶念仏和讃・御文拝読を中心にした儀式次第を持ち、二一時法要の基本形を持っていることがわかる。﹁朝勤|斎日 中|非時|太夜|斎勤行|改悔︵讃嘆・談合︶|非時勤行﹂といった一日の流れに関しては既に確認されているが、 各々の内容と性格、全体構成上の位置付けなどは更に検討を要する。特に報恩講夜の様相については、改悔、二五日 の御伝紗拝読などは儀式次第としてある程度明瞭なものの、通夜・談合などは自主的かつ緩やかな印象のある信仰風 景である。これらを包括するところに報思議の全体像が感じられるが、小稿では一点、報恩講期間中の﹁勤稽古﹂の 存在だけ指摘しておく。﹃私心記﹄からは、報恩講直前、あるいは二六・二七日の太夜前後に勤稽古を行う様子が窺 ︵ 日 ︶ える。これらは宗主証如の指示により特に本願寺常住二家衆であった光応寺蓮淳︵蓮如六男︶、実従のもとに一家 衆・御堂衆を集め行われたようである。勤稽古は本願寺儀式周辺に見られる日常風景でもあるが、ここには本山儀式 の執行準備における宗主|一家衆|御堂衆・坊主衆の基本階梯を見ることができよう。二八日の結願日中には、宗主による式文拝読に、 一 家 衆 の 巡 讃 に よ る 式 問 和 讃 、 御 堂 衆 に よ る 式 間 伽 陀 が つ く 。 昔 一 石 座は宗主が御影前、御堂衆は外陣。巡讃一家衆は、内陣南一を一家衆最上座として南北交互に座配、巡讃は南一から 南二、=一、そして北へと差定される。この形態はおそらく山科本願寺時代には成立していたものと推測されるが、大 坂本願寺時代に至って、それは人的かっ形態的にも充実度の高さが感じられる。 天文二三年︵一五五四︶八月に証如が没し、顕如が宗主となるが、同年報思講では二家衆宿老実従が儀式主宰者を 代行している。翌年には顕如の出仕が始まるが、当初は実従、祖母慶寿院の補佐をよく受けていたことが窺える。門 跡成の翌永禄三年、まず本宗寺証専・願証寺証意・顕証寺証淳が院家となり、同年報思講に、従来、報思講では依用 しなかった﹁素絹﹂を装束とし、そろって内陣﹁南上座﹂に出仕した。比較的若年の彼等はこれまでその座次は必ず しも高くなく、ここに院家制度という新しい価値観の導入が想起される。続いて、従来、本山儀式役に重き位置を占 める順興寺実従・教行寺実誓・慈教寺実誓・常楽寺証賢が院家成りし︵参考資料 1 ︶、来たる﹁御遠忌﹂に向け本願寺 は 歩 み を 進 め る 。 永禄四年親驚三百回忌は、御遠忌として通常と異なる儀式内容が用いられることとなり、この改変内容には門跡成 が大きく影響している。﹁御仏事ノ儀当分門跡ニナシ申サレ﹂とあるように、本願寺は報恩講を門跡寺院格の仏事法 会としての整備をはかったのである。周辺にもその影響は見られ、永禄三年︵一五六
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︶には﹁他衆多候﹂ゆえ、儀 式次第に浄土三部経の依用を増やす、あるいは永禄四年二月には儀式内容・装束に関する談合が実従を中心に一家衆 の問で持たれていることなどが確認される。報恩講を中心に本願寺教団の法要行事全体の他宗対応、通仏教適応化が 進められていることが見てとれよう。 親驚三百回忌の様相については冒頭の﹃今古独語﹄も参照されたいが、コ一月に繰り上げられて十昼夜法要が営まれ た。日中には浄土三部経読諦と行道が︵結願日中のみ式丈拝読の後、行道︶、式丈拝読は初太夜を除く太夜に行われ、 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九参考資料 1 蓮如⑧ 戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって 本 願 寺 系 図 抄 ー ー 永 禄 年 間 段 階 の 院 家 ︵
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内 の 数 字 は 本 願 寺 歴 代 ︶ 長 女 如 慶 尼 ︵ 常 楽 寺 蓮 覚 室 ︶ i l − − 知 覚 1 1 1 実 乗 蓮四割︵光教寺︶|南関櫨 実 如石 ⑨莫」
実 円 京 日 証如⑮I
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i
−−ー顕如⑪ 九 四 ︵ 常 楽 寺 ︶ 円 ︵ 本 宗 寺 ︶ | | | 実 勝 ( 本 ’三云 刀'寺
− 本 徳 寺︵
i享 顕 証 寺国
恵 ︵ 願 証 寺 ︶ 八男 蓮芸︵教行寺︶ 九男 実賢︵称徳寺︶ ︵ 慈 教 寺 ︶ | | | 佐 増 十 男 実悟︵願得寺︶ ︵順興寺︶|ム鱗轍︵本善寺︶朝勤は両堂勤、阿弥陀堂にては讃仏偶・念仏百返、御影堂にては正信偶・念仏和讃が勤行内容であった。日中に正 信偶勤行が行われず、式文拝読が太夜に、そして太夜後の改悔も不執行、朝勤においても御文の拝読が省略されるな ど、本願寺特有の儀式・勤行の簡略化が特徴的である。親鷺三百回忌報恩講そのものの評価は最後にも述べたいが、 儀式執行においては法要次第以上に、出仕者の座配と装束の変化がおそらくこの御遠忌において自に見える一番の画 期であっただろう。そこで、次には装束の依用問題をめぐる﹃今古独誼巴の叙述に注目して検討してみたい。
一
一
、
﹃
今
古
独
語
﹄
の
叙
述
﹁今古独証巴には﹁翌年ハ行道コレナシ、衣裳ハ去年ノ如、ン、勤行ハ例年ニカハラス、﹂とあり、永禄五年︵一五 六二︶以降の報恩講は通常通り、再び日中に式文拝読を行う勤行次第がとられたようである。永禄四年の儀式次第自 ︵ 幻 ︶ 体が一般化したわけではないということになる。ただし﹁聖道ノ衣裳シカルベキ﹂とされた装束はそのまま本願寺の 儀式装束として定着がはかられる。﹃今古独語﹂の永禄四年から九年にかけての報恩講をめぐる叙述には、実はこの 装束の問題が大きなウェイトを占めて述べられる。ここには何か重大な問題が見え隠れするように思われる。そこで まず以下に依用装束の変遷をまとめ︵参考資料 2 ︶、検討を加えてみたい。ちなみに、以下に登場する装束のランクは ﹁法服鈍色|素絹裳付|直綴﹂、袈裟は﹁七条袈裟︵金欄柄袈裟︶|織物袈裟︵綾袈裟︶・絹袈裟|白袈裟・布袈 裟 ﹂ と な る 。 まとめてみると、変遷にもいくつかの画期が見られる。まず、親鷲三百回忌を第一段階として押さえておくと、門 跡成以前の本願寺における一般的な法要儀式装束は日中に裳付衣・青袈裟、太夜・朝勤には白小袖だったようでbm
から、永禄四年段階における法服・七条袈裟という日中装束は明らかに門跡格を意識した権威的な装束であった。法 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九 五戦国期本願寺﹁報思講﹂をめぐって 九 六 参考資料 2 永 禄 四 | 九 年 の 儀 式 装 束 変 遷 表 ( 『 今 古 独 語 」 よ り 作 成 ) 禄 永九 ( 証如十 禄永 永禄 氷禄 永禄 ( 親驚 J¥ ム 五 四 永禄一っ 年 九禄永コ一 年 年 年 年 四百
き
思
年 里 月 斎 日 夜太 太夜 日 朝勤 日 夜太 日 斎 太 日 中 中 中 中 .夜 中 非 時 非 時 太 朝勤 非時 . 夜 朝 勤 綴直 裟 素 綴直 絹素 綴直 絹素 服j去 ※ 裟 素 j去 ( 素絹 j去 −絹 去 年 −絹 月民 紫裟袈 月民 来 裟袈日 絹 袴 . 絹 袈 裟 綾裟袈 絹袈裟 裟綾袈 七 絹 袴 . 七 七 家衆院 織 帖 袈 裟 ノ 織 袈 帖 ・織物袈 袈帖 物 日京 物 袈 ン 袈 裟 絹袴 裟 裟 絹 袴 絹袴 来袴日 ( L一一一
一
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里
裟 イ 裳衣寸 綴直 ※ 裟 (裳付衣 絹素 夜太 絹 袈 裟 絹袴 衆家 綾 裟袈 色鈍 織物袈 を 導 入 ド一一一一一一一一一 付 裳衣 綴直 付裳衣 ) Z間E付裳衣 総 袴 ィ 許ー 御衆且,ill. 本 袈 裟白 * * * * 袈 裟白 ご訂土裟綾袈 布 裟 袈 衣禁止裟袈白 裳付衣 付裳衣 坊主 * * ( * * * * * * ※ 袈 裟白 袈裟白 衆 付 裳 袈 裟 白 絹袴・ 裳付衣 坊 官 衆 * * * * * * * * 付裳 * 袈 裟白 衣服・七条袈裟の着用が許されたのは、行進する宗主・院家衆・御堂衆と南座敷出仕の総一家衆、 つまり内陣出仕者で あり、外陣出仕と目される坊官衆・﹁連経ノ坊主衆﹂は裳付衣・白袈裟であった。家臣的位置にある御堂衆が、主人 族 つまり一家衆と同格の装束を許可された点が注目される。永禄四年十一月正忌では、太夜・朝勤において、院 家 衆 の み が 素 絹 を 着 し 、 一家衆と御堂衆の聞には絹袴着用の有無のみが格差として見られるが、 日 中 装 束 は 一 一 一 月 と 同 様 で あ り 、 更 に こ の 状 態 が 永 禄 七 年 ま で 継 続 し て い る 。 変遷の第二段階は永禄七年を期にした翌八年の再改変であり、ここではまず日中装束について法服・七条袈裟の着 一 家 衆 以 下 は 裳 付 衣 、 用が見られなくなる。そして、院家衆と一家衆の装束を同格とし、御堂衆は裳付衣・白袈裟に揺り戻され格差付けが される。第三段階が翌永禄九年であり、太夜・日中において院家衆のみ素絹・絹袴が許され、再び一家衆との聞に格 差が、そして一家衆と御堂衆の聞には袈裟によって格差が付けられた。 これらは何を意味するのであろうか。単純に新制度導入期の混乱では説明できない問題、すなわち本願寺における 教団内身分の再編成が背景に浮かび上がってくるようにみえる。 永禄四年十一月・永禄九年の格差は、主に院家の問題が判断軸である。門跡成による院家制度の導入は、従来の本 願寺の一家衆体制を保持しつつ行われた。永禄九年段階を例に取れば、前年より第二次院家成りが行われ、顕誓が院 家になったほか、教行寺が実誓から証誓へ代替わり相続、本善寺証珍は実父順興寺実従の院家格を相続している ︵ ﹁ 今 古 独 語 ﹂ ・ 参 考 資 料 1 ︶。院家格の特別化という視点から見る永禄九年の装束差配は、法要儀式においては院家衆 と一家衆に格差を付け、宗主に相伴する斎・非時の際には同格としたものであり、対外的には院家の位置を階層分化 させて見せ、コ家﹂内部においては従来通り、血縁関係が重んじているという使い分けと見ることができよう。 ただし一連の叙述が暗示する問題の主眼は、院家衆云々ではなく、 一家衆と御堂衆の相対関係にあった。永禄四年 十一月正忌に関する﹃今古独語﹄の次の叙述に注意したい。 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 思 議 ﹂ を め ぐ っ て 九 七
戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九 J¥ 浄照坊望申サル、ニヨリ、法服柄袈裟著用ニテ導師勤仕アリ、綾ノ袈裟裳付衣一家衆ノ如、ン、︵中略︶去ナカラ 一家衆絹袴各々著用、浄照坊ハ、望申サレシカトモ、 ソ ノ 儀 ナ シ ﹁所労ノ事﹂によって三百回忌に出仕しなかった御堂衆の長老浄照坊明春が、強く望んで行道導師を勤め、その装束 姿はさながら一家衆のようであったという。明春は更に一家衆のみに許された絹袴の着用を望み、これは許されなか ったものの、御堂衆が一家衆並を望むという状況はそれまで見られないものであった。 更に装束変遷の第二段階、永禄八年の揺り戻しのきっかけについて ﹃今古独誼巴は次のように叙述する。ここから 単純に依用装束如何のみならない問題が窺える。 然ル処ニ、永禄七年十二月廿六日ハカラサルニ回禄ノ事アリテ、御坊中一宇モ残ラス焼失アリシカトモ、程ナク 御再興、造立事ユヘナク成就セシカハ、霜月報恩講ニハ、昔ノ知ク法事執行ヒオハシマス、サレハ近年御一流御 提ノ義ソノ沙汰ナキ事イハレナシ、 コノ耐ヨリ前住ノ御在世ノ如ク、毎朝御法義、御影前一一於テ讃嘆アルヘキ旨、 御 堂 衆 一 一 仰 出 サ レ 畢 ヌ 、 法 事 ノ 作 法 モ 同 、 ︵ お ︶ 永禄七年︵一五六四︶に、大坂本願寺は全焼している。﹁回禄﹂は十二月のことなので復興後の﹁霜月報恩講﹂は永 禄八年のことになるが、この際に、毎朝の法義讃嘆の復活が宗主顕如から御堂衆に指示される。顕如継戦以後、法義 讃嘆つまり改悔︵信心告白︶ の場が疎少になっていたのであろう。顕誓は大坂本願寺﹁回禄﹂の所以をこの法義への 油断に求めている。顕誓からすれば、華美となっていた装束への戒めも、この法義問題、更に大坂本願寺の行く末へ の危機感に直結するものであったに違いない。
ところが、その顕誓が永禄十年︵一五六七︶には宗主顕如より塾居処分を受けることになるのである。﹃顕誓領解 之訴状﹂という史料によれば、御堂衆光徳寺乗賢が顕知に顕誓の法義解釈に異ありと進言したことによるようだが、 ︵ 幻 ︶ 仮にこれが政略的な事件であったとしても、法義をめぐり御堂衆をして一家衆を訴える論理的状況がありえたという ︵ お ︶ こ と が 問 題 で あ る 。 ところで、顕誓のみならず一家衆からみた御堂衆への危機感は、実従、実悟︵蓮如十男︶ の叙述からも窺えるもの であった。永禄四年十一月正忌の日中においては内陣北座に院家衆が、内陣南座には御堂衆が着しており︵﹃今古独 語﹄︶、これに関し実従が﹁御堂衆各内陣居候、知何﹂と疑問を呈し、また御堂衆の担当であった御堂荘厳や改悔の不 執行に関しても不審の意を示している。石山戦争下の天正三年︵一五七五︶、願得寺実悟が著した﹃山科御坊事件汁其 時 代 事 ﹄ ︵ 二 ・ 一 一 了 五 ・ 四 五 ・ 四 六 条 ︶ 、 あ る い は 同 八 年 著 ﹃ 本 願 寺 作 法 之 次 第 ﹂ ︵ 五 一 ・ 九 一 了 二 一 六 ・ 二 一
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斜 ︶ に も 一 家衆側から御堂衆、あるいは教団儀式のありょうをめぐる批判的言説が見出される。 以上のことから、門跡成以降の本願寺において、 一家衆と御堂衆が一種の緊張関係にあったことはまず間違いない だろう。更にそこには、教団体制そのものの問題が浮かび上がってくる。顕誓が指摘した、内心における﹁御提﹂ ︵法義︶、外見における﹁衣裳﹂︵装束︶といった具体的問題は、顕如継職以後、特に門跡成以降の本願寺の教団存立 基盤をめぐる問題を象徴するものでもあった。結論の一つとして、本願寺における門跡寺院システムの導入は、従来 の一家衆体制を保障する権威付与ではなくて、新しい組織的価値観の注入と考えられる。つまり、本願寺は門跡成に よって﹁御開山ノ御チノし刊﹂に基づく教団理念︵一家衆体制︶に完結しない組織体系的な教団存立の方向性︵門跡 体制︶が問われた。これらのせめぎあいの一表象が﹃今古独話巴︵顕誓︶ の 叙 述 、 だ っ た の だ ろ う 。 このような見通しを今一つ確実にするために小稿では以下、本願寺における御堂衆がどのような位置にあったか、 宗主や他の教団内身分との関わりといった問題を押さえてみたい。 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 九 九戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 思 講 ﹂ を め ぐ っ て
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四、御堂衆について 本願寺御堂衆については一般的に知られている割に、歴史的研究にはあまり専論がな時。宗主・一家衆・下問氏・ 坊主衆個々の存在形態の分析から教団全体の支配構造への言及は進んでいるが、御堂衆や、寺院の世俗的運営部分に 関わる殿原・青侍・綱所・仲居などへの注目、すなわち本願寺の寺院構造の研究には検討の余地が多く残されている。 このような研究状況の中で、本願寺の寺院内組織と身分制を中世諸寺院の形態に比較して論じた片山伸氏の研究は 注目に値する。ただし氏は、本願寺御堂衆は本来、御堂荘厳に従事し宗教的行事に参ノ加しない俗的身分であり、実如 期以降、勤行・教学等にも関与することになった、と捉えている。しかしながら御堂荘厳の行為自体、宗教的行為で あるし、報恩講に出仕することからすれば、御堂衆はもとから重要な宗教役を担う寺院内身分と見なくてはならない。 ︵ お ︶ 御堂衆をめぐる理解が錯綜するのは、役掌や担い手が時代によって変容していて通史的把握が難しいためでもある。 ここでは、個別検討の必要性から大坂本願寺時代の実態に限定して御堂衆の儀式と法義の担当状況を、 一 家 衆 と の 関 係性を考えながら押さえておきたい。 まず、御堂衆は一般に﹁六人供僧﹂︵﹃本願寺作法之次第﹄第一条︶と言われるが、史料上、天文四年︵一五三五︶段 階では三人︵西宗寺祐信・浄照坊明春・賢勝︶、天文十五年︵一五四六︶までは四人︵浄照坊・賢勝・超願寺・盛光 寺祐心︶しか確認できず、翌年には逆に八人に倍増している︵前掲四人、明覚寺行心・九条西光寺・光徳寺乗賢・正 誓︶。永禄四年段階に至って浄照坊明春・法専坊賢勝・光徳寺乗賢・明覚寺行心・教明・教宗の六人が御堂衆とされ る︵﹃今古独語﹂︶ので、実悟はその状況に基づいて記したに過ぎない可能性もあろう。大坂以前においても六人とい う実態は確認できず、また実際に御堂衆の役掌を滞りなく遂行するには逆に相当数が必要だったであろうという推測も可能ではあるが、課題にしておきたい。 次に担い手であるが、大坂本願寺時代の御堂衆は坊主衆より御堂衆一老が推挙してその役にあたっている。それ以 前を見るに、蓮如以前の本願寺では御堂鐙役を下関氏が勤めていたこと、蓮如期には常随弟子が御堂衆であったこと、 天文二年段階では下問丹後も御堂衆を勤めていることなどが知られるが、 つまりは御堂衆の身分や役掌を固定的に捉 えない方がよいということであろう。鐘役の諸問題もまた別に整理すべきと考える。 さて、既に問題にした法義についてであるが、蓮如の常随弟子慶開坊龍玄の法義への精通、あるいはまた近世初期 の学寮・学林において御堂衆が法義教学を担う印象からすれば、大坂時代においてのみ、御堂衆が法義を担当しない ということはないだろう。問題なのは一家衆とのバランス如何ではないだろうか。そこで史料を押さえてみると、例 えば﹁私心記﹄に見える聖教相伝においては、近一家衆のみに教行信証の広本伝授が行われ、同時に講義を受けてい ︵ 却 ︶ る御堂衆クラスにはそれがないようで、ここでは確かに一家衆
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御堂衆の格差が窺える。次にこれは御堂荘厳の問題 であるが、天文十五年︵一五四六︶、報恩講前掃除における須弥壇掃除役が末二家衆より御堂衆へ移行するといった ︵ω
︶ 役割変更の現象も見られる。天正年間に至っては前述もした通り、御堂衆と一家衆の聞に法義や儀式役をめぐり相当 の 混 乱 が あ っ た よ う に 見 受 け ら れ る ︵ ﹃ 本 願 寺 作 法 之 次 第 ﹂ ︶ 0 断言はし難いが、全体的な傾向としては御堂衆の上昇が うかがえるのではないだろうか。相伝教学はともかく、拡大する門信徒と法義の場で直に接したのが御堂衆であった とすればありえることである。 御堂衆の儀式役をまとめておこう。御堂衆は、宗主やその一族の葬儀導師を勤める他、報恩講においては式伽陀を 担当する。通常の法要儀式における実態は更に体系的に把握しなくてはならないが、例えば、朝勤においては、御堂 衆が法談や調声を担うことが﹃私心記﹄より窺える。 御堂衆を統括する一老役||大坂本願寺においては西宗寺祐信、浄照坊明春、法専坊賢勝、そしておそらく光徳寺 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て。
戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 思 講 ﹂ を め ぐ っ て
。
乗賢||の報恩講における特別な役掌は、初太夜に宗主より直接﹁御伝紗﹄を拝領、二五日夜に拝読、また改悔の執 一家衆を介さず別系統で直接、宗主との連携を持っていると言えよう。 御堂衆一老の儀式作法への精通を示すものとして興味深い史料があるので、次に挙げてみたい︵浄照坊文書A・
B ︶ 。 行も直接指示を受け、これを行うことである。 ︻ 浄 照 坊 文 書 A ︼ 此等之趣、御意に候 可注給候。又、廿八日御式 問、御返事可被申 なとのあそハし候つる 上 候 。 様株、是又くハしく 然 以 飛 脚 ニ 被 申 候 。 可承候。前々此方にての 前住様、此御坊へ 事共、浄、御失念候歎。 被成御出候時、御代々 先年、芳野本善寺殿 御名日朝つとめ、真に させられ候つる哉。又 にて御式あそハし 候つる様株、懇ニ御尋候て 是々にて候つるや。廿五日 可注給候。廿八日之趣 なとニハ、法然上人和 御 思 案 候 て 、 遅 候 様 一 一 候 ハ 、 、 讃、廿二日ニハ太子 先々明日御朝つとめの 和讃なと、引せられ候哉。 様 林 を 具 可 承 候 。 其様林、浄照坊へ 能々御尋候て、急度 廿八日之儀者、跡より重ねて 懇ニ可預注候。不可有御 油 断 候 。 恐 々 謹 言 。 大進法橋御房 十 二 月 廿 二 一 日 大 蔵 法 橋 道 嘉 ︵ 花 押 ︶ 御宿所 ︻ 浄 照 坊 文 書 B ︼ 一 昨 日 被 仰 出 候 被相尋可被申上候。此 つ る 儀 、 以 一 書 より被仰出候。恐々 言 上 之 通 、 懇 ニ 謹 言 。 令披露候。猶又 極月廿五日 道 嘉 ︵ 花 押 ︶ 廿七日なとの御 わさんの様体 海大法 何 と 覚 ら れ 候 や 。 御宿所 浄照坊明春は天文四年︵一五三五︶に御堂衆一老となり、本願寺儀式の執行に関して御堂衆を統括するばかりでな く、宗主証知に近侍して使者・取次・饗応など幅広い役掌を担った。この分限が明春個人の力量に拠るのか、御堂衆 一老の役掌なのかについては更に検討を要するが、御堂衆が使者役を務めることについては他にも散見される。ただ、 天文十九年︵一五五
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︶の顕誓赦免に明春の個人的な尽力があったとされる︵﹃反古裏書﹂︶ことなどから、明春個人 は、証知期の本願寺において突出した存在であったようである。 この浄照坊文書は二点とも年欠であるが、宛名にある﹁海大法﹂は、浄照坊系図によれば、明春の息子﹁海老名大 進﹂と見られ、差出人の﹁道嘉﹂は特定できないが、本願寺家臣粟津氏か下問氏に属する者と思われる。内容は、本 戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって。
戦 周 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て 0 四 願寺のいくつかの年中法要において依用する正信偶や和讃の種類、報恩講の式文持読について証知存命中はどうであ ったか、と明春の記憶を頼って、浄照坊宛に問い合わせているものである。明春は永禄三年に、長らく勤めた御堂衆 一老の座を法専坊賢勝に譲り、自坊浄照坊に隠居したものと見られ、 おそらく親驚三百回忌への不参は老齢による体 調不良のため、そして十一月正忌への出仕は老僧最後の勤仕だったと見てよい。明春の没年自体は系図にも記されて おらず確定できないが、少なくとも永禄十年には没している︵﹁顕誓領解之訴状﹄︶ 0 ただ文書の内容を考えれば、 家 衆宿老として儀式役に重きをなした実従の存命中に式丈拝読の作法まで浄照坊に問い合わせる事は考え難いから、ひ ︵ 叫 ︶ とまずこの二文書は永禄八年か九年のものと推定しておきたい。 戦国期本願寺の組織制度の存在、完成度を過度に−評価すべきではないと考えれば、単純に儀式執行にあたっても個 人的な力量に負うところが大きかったとも言える。しかしながら、浄照坊明春を中心とする御堂衆は、本願寺儀式に おいて、単に一家衆|御堂衆といった階梯で捉えられるものではなく、独自の位置を既に、あるいはもともと確保し ていたとみてよいのではないか。以上のような実態を持つ御堂衆と、宗主・二家衆との関係を次に整理したい。 御堂衆は、まず本来的に寺院内身分として住職︵宗主︶と紐帯を持つものであり︵住職|堂衆︶、儀式・法義とい う宗教役を明らかに担っている。ちなみに一家衆は本来、親族集団であり、これが強化編成されて惣領︵宗主︶を支 えるところに戦国期本願寺教団の一家衆体制が特筆されるのである︵惣領イエ︶。すなわち、 一家衆、御堂衆とい う概念は、最初から教団内身分としであったわけではなく、全く別の構造として捉えられる。彼らを結ぶ接点は、住 織と惣領が一体化した宗主と、本山寺院本願寺という場であった︵参考資料3︶。 この重層構造が報恩講において如実に顕われていると舌守えよう。報恩講の中心儀式である式文拝読において、拝読 は親鴛影像の御前、札盤にて儀式主宰者である宗主が、式問和讃を内陣にて一家衆が、式間伽陀を外陣にて御堂衆が、 それぞれ担当する。二家衆と御堂衆ともに役掌を明確に分担し、それぞれの性格をもって宗主を支えるということで
参考資料3 〔宗主〕 (住職・主人) (惣領)
画劃~
〔一家衆〕直劃~司
宗主・一家衆・御堂衆関係概念図 A. 戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって 〔本山寺院・本願寺〕 〔一家衆寺院〕 近世本願寺における寺格の一例( Aと参考資料 4を併せて参照) [ 院 家 内 陣 ー 余 問 御 堂 衆 一 廿 四 輩 飛 権 一 院 家 役 僧 平 僧 頭 平 僧 ] B. ある。これが教団法要の儀式的中心となった時、 三者がその執行に不可欠の存在として認識され る 。 す な わ ち こ れ が 、 一家衆、御堂衆の﹁教団 内身分﹂化の契機であり、小稿で綾々述べてき た門跡成を期にする緊張関係の前提となる。五 、
お わ り に 門跡成によって本願寺は本山寺院としての確 立へと向かい、﹁教団﹂はその実質的独立を杜 会に示した。内部構造においては、宗主は﹁上 様 ﹂ か ら ﹁ 門 主 ﹂ へと昇華してその存在を絶対 化し、その下において﹁一家衆﹂や﹁御堂衆﹂ といった概念は、座次概念にも転化しつつ、寺 格に置き換えられて再編されていく。門跡成に よる制度化を契機に、教団における法義・儀式 の体系的一本化が志向され、同じくして教団内 身分序列の二冗化|| 1 これが近世の寺格制度に 連なる||へと向かったと言える。そして小稿一
O 五戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ を め ぐ っ て
一
O 六 で問題としてきた永禄年間の本願寺・報恩講における諸現象は、血縁的支配から教団内身分へという体制的理念の展 開︵転回︶を象徴的に示すものとして見ることができるだろう。 永禄四年の親驚三百回忌は、本願寺教団が門跡成を経て、その戦国期宗教としての姿を明らかに示したセレモニー であった。その前後や背景にひそんだ問題性は、小稿で述べてきた通りだが、それは報恩講の全体的座配からもイ メ l ジできるものである︵参考資料 4 ︶。この座配が戦国期本願寺のヒエラルキーを一不すことも確かであるが、同時に 親驚三百回忌におけるその空間的拡大に、報恩講、すなわち本願寺教団の社会的位置がうかがえよう。 親驚三百回忌には大群衆・他宗僧徒が多く参詣した。これには新しい﹁大坂門跡﹂への社会的な期待感を見ること ︵ 的 ︶ ができる。民衆が本願寺門跡をどう認識したのか、また報思議の概念がどのように認知され浸透していったのかなど、 検討課題は多いが、報恩講は門跡成によって教団法要から更に社会的法会としてあらためて外に聞かれていったので ある。報恩講のこういった而に顕われる社会性が、自己完結性と他者包括性を特に併せ持つ本願寺教団に鋭い緊張感 を与え、新たな展開の契機を促すものなのであろう。 以上、多角的な視座の必要性を確認しつつ、まずは報恩講・門跡成・御堂衆といったキーワードを中心に、教団史 の一考察を行った。永禄年間の本願寺には研究的に﹃天文日記﹂と石山戦争の狭間という印象があり、比較的等閑視 されてきた感がある。しかしながら、門跡成、親鷺二一百回忌といった永禄年間の諸現象は、石山戦争の前提でもあり、 近世教団論の展望へも繋がる、中近世移行期本願寺教団史論の大きな論点であり、小稿はその試論の一段階として位 置 付 け て お き た い 。 最後に数多い課題から二点ほど述べてみる。まず、報恩講は真宗において最重要法事である。本願寺教団のそれに 限らない歴史的研究の必要性がある。更に、例えば儀式作法、法衣等を指標にするなどして、日本仏教史における法 会論と総合していくことなども課題になろう。また、報恩講から教団論を導くとしたものの、小稿の分析範囲は寺参考資料4 A. 天文年間報恩講 戦 国 期 本 願 寺 ﹁ 報 恩 講 ﹂ 局 :内陣 :外陣 北 上 座 (一家衆) (宗主) (御堂衆調声人) をめぐって 御堂内(参衆) B. 親鷲三百凪忌(永禄四年三月) 控 f麦 戸 (御堂衆) 親驚影{象 北 上 座 南 座 敷 南 上 座 礼 盤 (院家衆) 局 (一家衆) (院家衆) (宗主) (坊官衆) (侍衆) 御堂内(坊主衆・相伴衆) 広縁・堂外(他宗僧徒・大群衆) :内陣 :外陣
。
七 C. 永禄四年十一月正忌における内陣・外陣の様相 目後 北 上 座 (院家衆) (宗主) 南 上 座 南 座 敷 | (御堂衆) 局 (下問氏)戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって 0 J¥ 院組織の表層に触れたに過ぎず、今後、教団の身分編成論に踏み込んだ議論が要求される。 もう一つにはやはり真宗の社会的位置である。中近世移行期の本願寺教団に関して言えば、当該期の仏教界編成に どう位置付けられるのか。朝廷、青蓮院門跡や山門西塔院との関係推移などは、門跡成のみならず﹁宗﹂概念の問題 からも不可欠の検討課題である。また文禄・慶長年間における東山大仏千僧会における真宗の出仕という、真宗史上、 あまり知られていないこの歴史的事実が今後、近世仏教諭との課題の連続性も含めて大きな鍵となるだろう。 真宗史をめぐる状況の厳しさを思いつつ、ひとまず欄筆する。諸賢のご教一不を仰ぎたい。 註 ︵ 1 ︶ 谷 下 一 夢 ﹁ 顕 如 上 人 伝 ﹂ ︵ 同 ﹁ 増 補 真 宗 史 の 諸 研 究 ﹂ 一 九 七 七 年 ︶ 、 ﹃ 本 願 寺 史 ﹂ ︵ 一 九 六 一 年 ︶ 、 草 野 顕 之 ﹁ 戦 国 期 本 願 寺教団と天皇﹂︵大谷大学史学論究第四号、一九九 O 年。後に﹃蓮如大系﹂第四巻再録︶が主な先行研究。 ︵ 2 ︶ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹂ 第 二 巻 。 ︵ 3 ︶蓮如四男蓮誓の子。顕警の個人史とその著作物については北西弘﹃反古裏考証﹄︵一九八五年︶、宮崎清﹃真宗反故裏書 之 研 究 ﹄ ︵ 一 九 八 七 年 ︶ 。 ︵ 4 ︶ ﹁ 真 宗 史 料 集 成 ﹂ 第 三 一 巻 。 ︵ 5 ︶ 金 龍 静 ﹃ 蓮 如 ﹂ ︵ 一 九 九 七 年 ︶ 、 遠 藤 一 ﹁ 戦 国 期 本 願 寺 の 閉 幕 と 蓮 如 の 宗 教 活 動 ﹂ ︵ ﹁ 講 座 蓮 如 ﹄ 第 三 巻 、 一 九 九 七 年 ︶ 他 。 ︵6︶本願寺門跡成の教団史的な経緯については前掲註︵1︶谷下著書。もちろん細部に修正すべき点は見出されるものの、 おおよそ今日でも十分通用する基礎検討である。論点としては門跡成を戦国期本願寺の完成と捉える前掲︵ 5 ︶ 遠 藤 論 文 、 本願寺の本山寺院化を評価する青木馨﹁本願寺門主制に関する一考察﹂︵真宗研究第四三輯、一九九九年︶が課題。﹁門 跡﹂の語義については永村虞﹁﹁門跡﹂と門跡﹂︵大隅和雄編﹃中世の仏教と社会﹂、二 000 年 ︶ o 日本史研究における ﹁ 門 跡 ﹂ 論 か ら の 視 点 も 不 可 欠 で あ る 。 ︵ 7 ︶ ﹁ 御 湯 殿 上 日 記 ﹂ 永 禄 二 年 十 二 月 二 七 日 条 。 ﹃ 私 心 記 ﹄ 永 禄 二 年 十 二 月 十 六 日 条 。 ﹁ 今 古 独 語 ﹂ 。 ︵ 8 ︶前掲註︵ 1 ︶ 草 野 論 文 。 ︵ 9 ︶ ﹁ 真 宗 史 料 集 成 ﹂ 第 三 一 巻 。 ︵日︶﹃真宗聖教全書﹂第三巻。永仁二年︵一二九四︶、親鷲一二三回忌にあたって覚知が撰述したこの﹃報思議式﹄や存覚の
﹃嘆徳文﹂など初期本願寺における親驚の忌日法要をめぐる諸問題については、遠藤一﹁本願寺報思議の確立と蓮如の宗 教活動|文明十二年報恩講の歴史的意義﹂︵徳永大信編﹃蓮如上人の総合的研究﹂所収、一九九七年︶。 ︵日︶草野顕之﹁永正十七年元旦ヨリ儀式﹂︵仏教史学研究三 O |一、一九八七年︶をうけた青木忠夫﹁戦国期本願寺報恩講 ﹃ 改 悔 ﹂ に 関 す る 一 考 察 ﹂ ︵ 仏 教 史 学 研 究 三 一 七
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一 号 、 一 九 九 三 年 。 後 に ﹃ 蓮 知 大 系 ﹂ 第 三 一 巻 再 録 ︶ 、 同 ﹁ ︵ 史 料 紹 介 ︶ 本 願寺准如筆﹃慶長期報恩講日記﹄﹂︵同朋大学仏教文化研究所紀要第十九号、二 OOO 年 ︶ 、 ﹁ ︵ 史 料 紹 介 ︶ 本 願 寺 准 如 筆 ﹃ 慶 長 期 報 恩 講 日 記 ﹄ ︵ 其 の 一 一 ︶ ﹂ ︵ 同 紀 要 第 一 一 O 号 、 二 OO 一 年 ︶ に よ る 一 連 の 史 料 紹 介 に よ り 遡 及 考 証 的 に 裏 付 け ら れ 、 前掲註︵ 5 ︶金龍著書、稲城︵藤原︶正己﹁信心と機悔|戦周期真宗の信仰と儀礼﹂︵蓮師教学研究第八号、一九九八 年 。 後 に 同 ﹃ ︿ 語 る ﹀ 蓮 知 と ︿ 語 ら れ た ﹀ 蓮 如 ﹄ 、 二 OO 一 年 ︶ な ど に お い て 承 認 さ れ て い る 。 ︵ロ︶斎については佐々木孝正﹁本願寺教団の年中行事﹂︵同﹃仏教民俗史の研究﹂、初出は一九七八年︶、前掲註︵日︶稲城 論文、頭については早島有毅﹁戦国期本願寺における﹁頭﹄考勤仕の性格と問題状況|﹂︵真宗研究第二六輯、一九八 二年。後に﹃蓮如大系﹂第三巻再録︶、頭人勤行、改悔については前掲註︵日︶青木論文など既に優れた研究がある。 ︵日︶一家衆とは本願寺の宗主一族のことを指す。本願寺における常住一家衆の存在は、草野顕之﹁天文期本願寺教団の組織 について﹂︵仏教史学会発表、一九八七年︶において指摘された。一家衆についても同﹁戦国期本願寺一家衆の構造﹂︵平 松令三先生古希記念会編﹃日本の宗教と文化﹂所収、一九八九年︶ ︵比︶天文年間の本願寺報恩講と寺院組織の分析については別稿を予定している。 ︵ 日 ︶ ﹃ 私 心 記 ﹄ 永 禄 三 年 十 一 月 一 一 一 日 条 。 ︵日︶天文年間と永禄年間の座配を比較するとその差異は明瞭である。永禄年間の巡讃衆史料については青木忠夫﹁顕如上人 筆 、 報 恩 講 等 の ﹃ 讃 頭 ﹄ に つ い て ﹂ ︵ 名 古 屋 教 学 第 一 O 号 、 一 九 九 六 年 ︶ 0 ︵ 口 ︶ ﹃ 私 心 記 ﹂ 永 禄 三 年 十 二 月 一 一 一 日 条 他 。 ﹃ 今 古 独 語 ﹂ に よ れ ば 勝 興 寺 慶 栄 も 同 時 に 院 家 成 り し た と 伝 え る 。 ︵ 日 ︶ 前 掲 註 ︵ 1 ︶ 草 野 論 文 。 ︵ 印 ︶ ﹃ 私 心 記 ﹄ 永 禄 三 年 三 月 十 四 日 条 。 ︵ 初 ︶ ﹁ 私 心 記 ﹄ 永 禄 四 年 二 月 十 一 日 条 前 後 。 ︵ 幻 ︶ ﹃ 私 心 記 ﹂ 永 禄 四 年 一 一 一 月 十 八 日 | 二 八 日 条 。 ︵幻︶例えば、行道にしても永禄四年以降、次に史料的に確認されるのは慶長十六年︵一六一一︶の親鷲三五 O 回 忌 の こ と で ある。慶長年間の報恩講の様相を見ても︵前掲註︵日︶青木論文︶、親璽二百回忌の直接的な痕跡はない。 戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって。
九戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって
。
︵お︶青木馨﹁教行寺実誓影像とその周辺﹂︵蓮如上人研究会編﹃蓮如上人研究﹄所収、一九九八年︶を参照。 ︵鈍︶﹃私心記﹂﹁天文日記﹂の天文年間の報恩講記事には装束への言及がほとんどない。よって三時法要の形態を有する他 の 法 要 行 事 の 記 事 か ら 推 測 し た 。 ︵お︶﹁言継卿記﹄永禄七年十二月二七日条﹁去夜々半より大坂門跡を初、悉不残焼亡云々﹂ 0 ﹃ 御 湯 殿 上 日 記 ﹄ 永 禄 七 年 十 二 月二八日条﹁大さかにはかにやけて o ﹂ ︵ お ︶ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹂ 第 二 巻 。 ︵ 幻 ︶ 前 掲 註 ︵ 3 ︶ 宮 崎 著 書 他 。 ︵お︶これらを背景に顕誓史料のテクスト性に注目すれば、﹁反古裏書﹂は善知識顕如宗主︵門跡︶を支える一家衆中心の体 制理念の言説として読み解かれる。この関わりで名畑崇﹁本願寺の御影崇敬と霊場説﹂︵北西弘先生還暦記念会編﹁中世 仏教と真宗﹂所収、一九八五年。後に﹃蓮如大系﹄第三巻再録︶の﹃反古裏書﹂未来記説が興味深い。﹃反古裏書﹄をめ ぐ っ て は 別 稿 を 準 備 中 で あ る 。 ︵鈎︶﹃私心記﹄永禄四年十一月二五l
二七日条。翻せばそれらの役掌を担うのが二ゑ衆ではなく御堂衆であったことの証左 で あ る 。 ︵初︶両史料とも﹃真宗史料集成﹂第二巻。石山戦争下における本願寺の儀式運営状況については青木忠夫﹁本願寺顕如筆 ﹃ 讃 頭 ﹄ 関 係 文 書 者 ﹁ 永 禄 ・ 天 正 期 年 中 行 事1
﹂ ︵ 前 掲 註 ︵ お ︶ 童 日 所 収 ︶ 。 ︵む︶実悟の言説については大桑斉﹁中世末期蓮如像の形成|願得寺実悟の場合﹂︵大谷大学研究年報、一九七五年︶、前掲 註︵日︶稲城著書。しかしながら﹁山科御坊事並其時代事﹄﹃本願寺作法之次第﹄については御堂衆への対抗言説として の 史 料 評 価 が 必 要 で あ り 、 こ の 検 討 は い ま だ な い 。 ︵お︶遠藤一﹁﹁本願寺法王国論﹂への一視点﹂︵北西弘先生還暦記念会編﹃中世社会と一向一授﹂所収、一九八五年。後に同 ﹁ 戦 国 期 真 宗 の 歴 史 像 ﹂ 、 一 九 九 一 年 ︶ 0 ﹁ 一 門 一 家 制 度 ﹂ 説 を 所 与 の 前 提 に し す ぎ る 研 究 史 自 体 が 問 題 で あ る 。 ︵ お ︶ ﹁ 栄 玄 関 書 ﹂ ︵ ﹁ 真 宗 史 料 集 成 ﹂ 第 二 巻 ︶ ︵ 鈍 ︶ わ ず か に 草 野 顕 之 ﹁ 近 世 本 願 寺 坊 主 身 分 の 一 考 察 ﹂ ︵ 大 谷 大 学 研 究 年 報 第 四 二 集 、 衆 の 成 立 と 展 開 ﹂ ︵ ﹃ 講 座 蓮 知 ﹂ 第 三 巻 、 一 九 九 七 年 ︶ 0 ︵お︶片山仲﹁中世本願寺における寺院組織と身分制﹂︵真宗総合研究所紀要第四号、 再 録 ︶ 0 一 九 九 一 年 ︶ 。 日 野 照 正 ﹁ 鐙 役 と 御 堂 一 九 八 七 年 。 後 に ﹃ 蓮 如 大 系 ﹄ 第 三 一 巻︵ お ︶ 前 掲 註 ︵ 川 品 ︶ 日 野 論 文 。 ︵ 幻 ︶ ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 天 文 十 六 年 八 月 三 日 条 。 ︵お︶吉井克信﹁慶開坊龍玄考﹁本願寺蓮如の常随弟子について|﹂︵園田香融編﹃日本仏教の史的展開﹂所収、 ︵ m m ︶﹃私心記﹂天文二三年二月十二日条他。前掲註︵鈍︶草野論文。 ︵