宗教と心理療法
一 一 三 願 転 入 と カ ウ ン セ リ ン グ ・ プ ロ セ ス 一 一友
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は じ め に 現代社会においては,その構造が複雑化するに従い,人々の悩みも多岐にわ たり,その解決の方法として,臨床心理学への関心が強まってきた。わが国に おいても,カウンセリングを中心とした心理療法が盛んになってきた。 心の悩みを解決する方法としては,わが国では,江戸時代から寺請制度によ り檀家と寺との結びつきが強くなり,檀家の人々の悩みには住職が応じること が多くなっていた。特に,浄土真宗においては,信仰上における質問や疑問に 一対ーで対応する御示談という習慣があり,そこで人々の悩みも相談されるこ とが多かった。 しかし,第二次世界大戦後の社会変革により,このような制度や習慣も稀薄 となり,現在では,人々の心の悩みはもっぱら精神科医や臨床心理士などに託 される場合が多い。 一方,物質文明が発達し科学万能の世の中となり, 日常生活においては利便 性が最優先される時代であるが,物質文明が豊かになればなる程,人間として の精神的豊かさが失われ,宗教がより強く求められるようになってきた。 カウンセリングを中心とした心理療法も仏教を中心とした宗教も,いづれも 現在の人々の悩める心,あるいは病める心に解決方法をみいだすためのもので あることには間違いない。 そこで本稿では,仏教とカウンセリングの接点と相違点を明らかにするた め,仏教では親鷲聖人が宗祖である浄土真宗(以下,真宗という〉を,カウン セリングでは, カール・ロジャース (c.Rogers, 1902-1987)が開発した非指 示的療法 (Non-Directive Therapy;以下N.D.T.という〉をとりあげ,両 者を比較検討してみたい。 - 2ー宗教と心理療法(友久〉E
仏教と臨床心理学
仏教は,よく知られているように紀元前5世紀頃,インドのゴータマ・ブッ ダ(以下仏陀という〉により説かれた教えであり,その後中国を経て,我が国 には西暦5
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年に, 百済の聖明王により仏像と経論を朝廷に贈られたのが最初 とされる。 その後,飛鳥時代には,聖徳太子が仏法興隆の詔や十七条憲法を発布し仏 教信奉を勧奨した。また,奈良時代には,東大寺の鹿舎那仏金銅像(大仏〉が 造立されるなど,鎮護国家のために仏教は利用され,広まっていった。また, 平安時代になると,最澄や空海がそれぞれ天台密教・真言密教を伝え,特に天 台密教では,法然や親驚がそこに学ぶこととなった。 鎌倉時代となり,比叡山から下山した法然は浄土宗を親驚は浄土真宗を聞 き,これらはわが国の大衆仏教の主流となり現在まで続いている。 仏陀の教法を一口で云うことは出来ないが,一般には,変わらない真理の法 (ダ、ルマ・達磨〉が説かれたとされ,それを三法印または四法印とL、う。三法 印とは(1)諸行無常 (2)諸法無我 (3)浬繋寂静であり,これに一切皆苦を加えた ものが四法印である。 これに対して心理学すなわち,人の心を客観的に捉えようと最初に試みたの は,1
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世紀のドイツの生理学者ヴント(
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である。彼は, 心とは何かという命題に,生理学のような自然科学的方法を用いることで,そ れを客観的に明らかにしようと試みた。彼の学説は,構成主義と呼ばれ,人間 の認識(認知〉は心的要素が集まって構成されたものであり,人聞にはこれを 統合する能力が備わっていると考えた。 これに対して,2
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世紀に入札人間の心の不安や悩みを解決するための心理 学的アプローチが研究され始めた。それは,心理学と精神医学を結ぶ新しい分 野の学問すなわち臨床心理学であった。この分野で最初に開発されたのは,精 神分析と呼ばれる学問内容でS
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により開 発され,今日の心理療法(精神療法〉の先駆けとなった。 その後,人の心に対する関心は,臨床的なアプローチにおいても,病理的な 面にのみ重点を置くのではなく,健康的な面へとその視点を変えていった。こ のような流れの中から生まれたのが C. ロジャースのN.D.T.である。 龍 谷 大 学 論 集 -3一E
浄土真宗と来談者中心療法
はじめにで、述べたごとく,ここでは,仏教として真宗を,カウンセリングと してN.D.T.を取り上げ,両者を比較検討する。 く対象〉 まず,それぞれの対象となる人々であるが,いづれも,心に何らかの悩みを 持つ人々が対象者になるという共通点がある。 しかしその悩みの内容は,真宗においては,宗教上の悩みであり具体的には 生老病死,特に死に対する解決方法を求める悩みであり,これを求道とL、う。 言い換えれば,仏となる(成仏〉ベき道を求めての悩みである。これを浄土真 宗ではr
生死出ずべき道」 とか「生死出離の一道」を求めてと言う。 また 「後生の一大事」の解決ともいう。この後生とは,来世または後に来るべき生 涯とはいうことで,死後が一大事ということであるが,稲城 (1998)によれば これは死んでから先の心配ではなく, w後生の一大事の解決が,そのまま今の 世の生き方の本当の答えを見つけることにつながる』という意味内容である。 そして, この悩みは全ての人が生来性に持っている人類共通の悩みである が,それに気づく人と気づかない人があることも事実である。 これに対して, N.D.T.における悩みは, IFいろいろな個人的な問題』であ る。ロジャースがシカゴ大学のカウンセリングセンターで仕事をしている時に 出くわした人々はr
学習上の問題,妻との問題,雇用主との問題,自分自身 で抑えることのできない奇怪な行動,あるいは恐ろしい感情に'悩んで・いる」な ど千差万別の悩みを持っていた。 このように,来談者中心療法の対象となる人々の悩みは, 日常生活を送る上 で差障りとなる悩みであり,それは各人によって異なる個人的悩みであり,後 天的にこの世で獲得された悩みということができる。 く方法〉 この悩みの解決方法といえば, 真宗においてもN.D.T.においても, 特別 のもの (ex.薬など〉を使わず,主にことばをもってその手段とするのである。 その方法は,特別の方法を用いるのではなく,相談あるいは談話など,話すこ とと聞くことが中心である。すなわち,本来,人に具わった五感を通して,問 題の解決を計ろうとするという意味においては,両者は同じ手段と方法を用い - 4ー宗教と心理療法(友久〉ていると言える。 しかし,その具体的な方法では両者は異なる。 真宗においては,生死出ずべき道である死に対する解決を求める〈求道〉時, 自分の能力では,それは解決出来ない問題であることに真に目覚めることが必 要であり,自分の力〈自力〉ではなく仏の力〈他力〉によってのみそれは解決 されるというのである。 何故かというと,阿弥陀仏〈以下,仏という〉は,人聞を含めた生きとし生 ける者〈衆生〉は,自分の力では往生すること〈死を解決すること〉は不可能 であることをまず見通(観見〉された。そして, 仏はそのことを哀れみ〈持 哀),我々に代わり,人聞が往生するための願を起こし修行を積み, その願と 行を成就し,その成果である功徳を我々に与へ,その功徳、により我々人聞を往 生させよう(救おう〉とされた。このことが,真宗の教義の依りどころとする 経典(所依経典〉すなわち仏説無量寿経(大無量寿経または大経とも言う;以 下,大経という〉に説かれている内容である。 そして,真宗では「聴聞」といって,
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このことわり〈理〉を聞きひらく時, 信心は起こる〈聴聞〉なり」と云うのである。この聴聞の「聴」は,聴き分け, 知り分けるという意味,すなわち大経に説かれている教義や内容を聴き分け, 知り分けるという意味である。また聴聞の「聞」は聞こえた時という意味で, 何が聞こえた時かというと,仏の功徳を我々に与えんとしたまう呼び声,すな わち南無阿弥陀仏という仏の呼び声〈名号〉が聞こえた時という意味である。 この仏の呼び声を,真宗では「いただきもの」とも「いただく」とも言うので ある。 親鷲は,教行信証の信巻に『しかるに「経J(大経・下〉に「聞」といふは, 。) 衆生,仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり』と述 べている。また,大経の下巻には『其の名号を聞きて信心歓喜す』とあり,聞 という意味には,単に聞くだけではなく,疑いのない信ずる心と L、う内容が含 まれているのである。それ故,聞即信と言って,聞こえた時が信じられた時と もいい, 仏の我々人聞を救うという呼び声が聞こえるのであり, 仏のこころ 〈本願他力〉をいただく(聞こえた〉とも言うのである。 すなわち,真宗においては人の力で救われるのではなく,仏の力で救われる のである。 そして, ガンジス川の砂の数よりも多い神仏のなかで, 自分の力 (自力〉では救われない我々人聞に代わって,願を起し行を修し我々を救うと 誓われたのは, 阿弥陀仏ただー仏なので, この仏を真宗の本尊とするのであ 龍谷大学論集ー 5ーる。 これに対して,いわゆるカウンセリングでは i傾聴」が大切とされる。こ れは,クライエント側の傾聴ではなく,カウンセラー側に求められる傾聴であ る。 N.D.T.では,このことを「積極的傾聴」とL、う。 積極的傾聴というのは, N.D.T.においては極めて重要なカウンセラーの (5) 態度で, ロジャースの出世作である『カウンセリングと心理療法(1942).JIに おいて述べられたものである。この主な内容は,カウンセラーは,クライエン トのことばの表面的な意味や客観的事実にのみ心を奪われるのではなく,クラ イエントの立場になってその感情を共感しようとしなければならないというこ とである。 そのためには,ことばの背景にある感情や気持を無条件に受容し,共感的に 理解することが大切であり,またクライエントにその受容し共感したことを如 何に伝えるかということが要点であるとするのである。すなわちクライエント を理屈で捉えようとするのではなく,気持ちで受け止めそれをフィードパック することが大切であるとした。また,そのためには,単にことばだけのやり取 りではなく,ことば以外のノンバーパルなコミュニケーションも重要としたの である。 このことは,悩みを通してクライエントが真の自分をみつけだすために,そ れまで、被っていた偽りの仮面を脱ぎ捨てる必要があり,また, 自身による自己 への気づきである自己洞察が深まるためにも必要不可欠なことである。クライ エントが,カウンセラーから本当に理解されていると感じる時は,理屈で理解 され指示される時ではなく,自分の気持ちをくみ取り,信じて見守ってもらえ る時である。このことにより, クライエントは,自分のあいまいな感情や気持 ちがより明確になり,それをより正確にカウンセラーに伝えようとすること で,益々自己洞察が深まっていくのである。これは, クライエントがカウセン ラーから理解され(感情も含め〉信じられていると感じることにより,さらに 強くなっていくのである。 このように自己洞察が深まると, クライエントは真の自己に気づき,自己の 内なる可能性に気づき,将来への希望が持てるようになり,自信も湧いてくる のである。そして,このことが本当の自分らしい自分,すなわちロジャースの いう自己を拡大し,分化し,自律的になり,より望ましい成熟を遂げることで ある自己実現へと導くのである。 しかしこのことは,真宗のように,仏の力〈本願力〉言い換えれば,人聞を - 6ー宗教と心理療法(友久)
超えたものの智慧により目覚めさされるものではなく,人(カウンセラー〉に より気づかされるものであるため,また次の悩みが生じる可能性を含んでし、る のである。 ここが同じように悩みが解決されたと言っても,生死の問題が解決された場 合と,この世の問題が解決された場合との違いであると筆者は考えている。 そこで,次には,真宗の行者の歩むべき道,すなわち親鷲が歩んだ道である 「三願転入」と, ロジャースが歩んだ道「カウンセリンクeの過程」について, それぞれの著作を参考にしながら検討してみたい。
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浄土真宗の過程
真宗の行者が,浄土に往生するために辿るべき道は,親鷲が辿った道と同じ である。親驚は,西暦1173年京都の日野の地に誕生し 9歳の春,僧になるた め得度をし その後29歳になるまで, 天台密教の総本山である比叡山延暦寺 で,自力の修行を励んだ。しかし悟りを聞くことが出来ず, 自分の力では悟る ことが出来ないと諦め,堂僧を勤めた延暦寺を離れ下山した。そして京都の六 角堂に参寵し,聖徳太子の夢告により法然の門に入札専修念仏により, 29歳 にして倍りを聞いた。 このことを親驚は,顕浄土真実教行証文類(以下,教行信証という〉化身土 文類六において, wしかるに愚禿釈の驚,建仁辛酉の暦,雑行を棄てて本願に (6) 帰す。』と述べている。また, 親驚は, この間の心の変化を「三願転入」とい う形で述べているので,次に詳しく検討してみたい。 く三願転入〉 親驚は,教行信証・化身土文類六において,三願転入を『ここをもって愚禿 釈の驚,論主の解義を仰ぎ,宗師の勧化によりて,久しく万行諸善の仮門を出 でて,永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して,ひとへに難,思 往生の心を発しき。しかるに,いまことに方便の真門を出で・て,選択の願海に 転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて,難思議往生を遂げんと欲す。果 遂の誓(第二十願),まことに由あるかな。 ここに久しく願海に入りて,深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために, 真宗の簡要を掠うて, 恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛 しことにこれを頂戴するなり。』と述べている。 これを現代語に訳すと次のようになる。 wこのようなわけで・,愚禿釈の親驚 龍 谷 大 学 論 集 ー 7 ーは,龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ,曇鱒大師や善導大師などの祖師方の導 きにより,久しく,さまざまな行や普を修める方便の要門を出て,永く,双樹 林下往生から離れ去り,自力念仏を修める方便の真門に入って,ひとすじに難 思往生を願う心をおこした。しかしいまや,その方便の真門からも出て,選択 本願の大海に入ることがで、きた。速やかに難思往生を願う自力の心を離れ,難 思議往生を遂げようとするのである。必ず本願他力の真実に入らせようと第二 十願をおたてになったのは,まことに意味深いことである。 ここに久しく,本願海に入ることができ,深く仏の恩を知ることがで、きた。 この尊い恩徳に報いるために,真実の教えのかなめとなる文を集め,常に不可 思議な功徳、に満ちた名号を称え,いよいよこれを喜び,つつしんでいただくの である。』 これが,いわゆる三願転入といわれる記述であり,親驚聖人の入信の道程す なわち浄土真宗の行者の辿るべき道筋を表したものである。 この三願というのは,真宗の所依の経典である浄土三部経のうち,親鷺が真 実の経として最も重要視した,大経の巻上に説かれている阿弥陀仏の四十八願 のなかの,第十八願・第十九願・第二十願のことである。 また転入というのは,転捨帰入の略で,自力の行と信を捨てて,本願他力の 世界に入ることを意味している。また,親驚の浄土和讃の中に『定散自力の称 名は,果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入す る』とあり,この「真如の門に転入する」のところに
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法身のさとりを聞く 身とうつり入るとまうすなり」という左訓があり,このことより,悟りを聞く 身となることを転入と表現されたことがわかるのである。 このように,三願転入というのは,自力の願である第十九の願から,半自力 半他力の願である第二十の願に入り,その第二十の願から他力の願である第十 八の願,すなわち真実の願に転入レ悟りを聞いたとL、う親驚聖人の信仰告白な のである。それでは,第十九の願,第二十の願,第十八の願とはどのような願 なのかをみてみよう。 く第十九の願〉 『設我得仏,十方衆生,発菩提心,修諸功徳,至心発願,欲生我国。臨寿終 時,仮令不与大衆囲韓現其人前者,不取正覚。(たとひわれ仏を得たらんに, 十方の衆生,菩提心を発し,もろもろの功徳、を修して,至心発願してわが国に 生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで,たとひ大衆と囲撰してその人の前に現 - 8ー宗教と心理療法(友久)ぜずは,正覚を取らじ。)jJこれが第十九の願の願文である。 これを現代語に訳すと次のようになる。~わたしが仏になるとき,すべての 人々がさとりを求める心を起して,さまざまな功徳を積み,心からわたしの固 に生まれたいと願うなら,命を終えようとするとき,わたしが多くの聖者たち とともにその人の前に現れましょう。そうでなければ,わたしは決してさとり を聞きません。』 く第二十の願〉 『設我得仏,十方衆生,聞我名号,係念我国,植諸徳本,至心回向,欲生我 国,不果遂者,不取正覚。(たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,わが名 号を聞きて,念をわが国に係け,もろもろの徳本を植えて,至心回向してわが
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固に生ぜんと欲せん。果遂せずは,正覚を取らじ。)jJこれが第二十の願の願文 である。 これを現代語に訳すと次のようになる。~わたしが仏になるとき,すべての 人々がわたしの名を聞いて,この国に思し、をめぐらしさまざまな功徳を積ん で,心からその功徳をもってわたしの国に生まれたいと願うなら,その願いを きっと果しとげさせましょう。そうでなければ,わたしは決してきとりを聞き ません。』 く第十八の願〉 『設我得仏,十方衆生,至心信楽,欲生我国,乃至十念。若不生者,不取正 覚。唯除五逆誹誘正法。(たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,至心信 楽して,わが国に生ぜんと欲ひて,乃至十念せん。もし生ぜずは,正覚を取ら (I~ じ。ただ五逆と誹諒正法とをば除く。)jJ これを現代語に訳すと次のようになる。~わたしが仏になるとき,すべての 人が心から信じて, わたしの固に生まれたし、と願い, わずか十回でも念仏し て, もし生れることができないようなら, わたしは決してさとりを聞もませ ん。ただし五逆の罪を犯したり,仏の教えを誘るものだけは除かれます。』 く自力と他力〉 真宗は,他力の教えであるとよく言われる。この他力という言葉は,真宗の 行者すなわち念仏者以外の人にはよく誤解を受ける語である。すなわち,真宗 の人は,自分の力で努力しないで,他の人の力を借りて往生しようとしている 龍 谷 大 学 論 集 -9一と。しかしこれは大きな誤解と無知のなせるわざである。 もともと他力とL、う意味は,浄土真宗では親驚の言う『他力というは如来の 本願力なり』という意味で,先述したように人と人との関係ではなく,人と如 来(仏〉との関係において作用する,すなわち働くものである。如来の本願力 とは,阿弥陀如来(以下,如来という〉が因位(如来になる前の菩薩の位〉の 時,衆生である我々には,いくら努力しても修行をしても,往生することが出 来ないのが,その本性であるということを見抜いて,我々に代わって我々人聞 を往生させたいという願と行とを起こされた。そして,それらが成就した結果 (満願〉として,如来となり,その成果を衆生である我々に与えて,それで、もっ て我々を往生させようという如来の願(本願〉と,それに働く人間では思いは かることの出来ない(不可思議〉力のことを,如来の本願力と言うのである。 このような如来の本願力のことを他力といい,この他力でもって我々を助け ようとされているのが如来というわけである。この如来のところで,我々を往 生させるために起こされた願と行が成就して,その成果が我らに譲られること により,我々は往生することが出来るようになるわけであるが,この如来の成 果を我らに譲ろうとされることを他力回向という。 回向という語は,サンスグリット語で「変化させるJI結果を得させるJI向 けてやる」などの意味であり,仏教では「自分のためのものを他者のために振 り向ける」と L、う意味に使われる。それ故,他力回向といえば,如来が我々を 往生させるために,如来が代わって成就された成果を,我々に振り向け与えて 下さるという意味になる。 ところがこの時,与えられる我々が,自分の思い,すなわち自力や煩悩が強 いため,如来の本願力すなわち他力を信じることが出来ないのである。このた め,我々はいつまでも往生することが出来ず, この世を含めた迷いの世界を輪 廻することになるのである。 この自力の心を振り捨てて,他力である如来の本願力を信じられるようにな る,すなわち,自力の十九の願から二十の願を経て,他力の十八の願に転捨帰 入することを三願転入というのである。 く三三法門〉 先述した三願すなわち十八の願,十九の願,二十の願は,それぞれ真宗の正 依の経典である,大無量寿経〈大経ともいう),観無量寿経〈観経ともいう), 阿弥陀経〈小経ともいう〉の三経に配することが出来る。 - 10ー宗教と心理療法(友久〕
また,それぞれの願に応じて我々衆生も三機に配することが出来る。真宗で は,我々衆生のことを「機」と言うが,機というのは,縁に遇えば発動する可 能性のあるものという意味で,仏の教えという縁に会えばその教法により発動 され仏になれる素質能力を持つ者,すなわち我々衆生のことである。そして, 三願もすなわち邪定栗,不定緊,正定莱,の三つの機に配することができる。 そして,三機のそれぞれが三門すなわち要門,真門,弘願門の三つの門に回 入するので,また三願も三門に配することが出来る。同様に,三機の往生を機 の種類によりそれぞれ三つの往生に分かつことができるので,また三願も双樹 林下,難思,難思議の三往生に配することが出来る。 このように,三願を三経・三機・三門・三往生などに配したものを三三法門 と言い,これを示したものが表
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である。 表I 三 三 法 門一
願 十 九 願 二 十 願 十 八 願一
経 観 経 経 大 経一
機 邪 定 衆 不 定 緊 正 定 褒一
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要 門 真r
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弘 願 門 三 往 生 双 樹 林 下 難 思 難 思 議一
蔵 福 徳 蔵 功 徳 蔵 福 智 蔵 このことを念願において先程の三願転入を見直してみるとr
仏陀の教えを 連綿と親驚まで受け継いでくださった多くの僧侶のなかで,インドの龍樹菩薩 や天親菩薩, 中国の曇鷺大師や善導大師などの導きにより次のような道筋を 私,親驚は辿りました。 まず,さまざまな(自力の〉行や善を修める(十九の顕である〉方便の要門 すなわち双樹林下往生から離れ去り,自力念仏を修める(二十の願の〉方便の 真門に入り,ひたすら難思往生を願う心をおこした。しかし今,速やかに難思 往生を願う(二十の願の〉自力の心を離れ, (第十八の願である)難思議往生 を遂げたのである。必ず(十八の願で、ある〉本願他力の真実に入らせようと第 二十の願をおたてになったのは,まことに意味深いことであった。 そしてその後,深く仏の恩を知ることが出来,この尊い恩徳に報L、るため, 真実の教えの要となる経文を集め,不可思議な功徳、に満ちた,念仏を称え,ま すます喜びを深くして,つつしんで仏の功徳、である念仏をいただくのである。」 龍谷大学論集 -11ーとL、うことになる。
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カ ウ ン セ リ ン グ の 過 程 ロジャースは,1
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年それまで指示的療法が中心であった心理療法の世界 (5) に,N.D.T.
の必要性を強調した。それが「カウンセリングと心理療法(
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である。 彼は,この著書のなかで,カウンセリングの過程として, (1)感情の解放 (2) 自己洞察の成就 (3)終結の段階を述べている。そこでここでは, この過程に順 ってカウンセリングのあり方を考えてみたい。 く感情の解放〉 カウンセリングにおいて最も重要なことは, クライエント (以下, Cl.とい う〉の個人の問題や葛藤の中心となっている思考.や態度,また,感情や情動化 された衝動を明るみに出すことである。 この時, ロジャースは, Cl.こそ最上 の案内人であると述べ, Cl.の心を把握する最も確実な方法は, Cl.の感情の様 式が自由に現されるままに見守ることであるとする。そしてカウンセラー(以 下,C
o
.
という〉は,話の知的な内容だけに注意を傾けるのではなく,表現さ れている感情に注意を払いながら応答する必要があるとする。 また,C
o
.
はC
l.が表現する態度に機敏に反応し,そういった感情を理解し, 明確にすれば,その面接は Cl.主導のものになり,現れる判断材料は Cl.の問 題に感情的に呼応したものになると云う。 そしてカウンセリングの初期段階では,C
o
.
とC
l.の応答量はほぼ閉じぐら いであるが,面接が進行するにつれ, Cl.が自分を自由に表現し, 自らの問題 解決をするようになると,C
o
.
の量的役割はだんだんと減少していくと,デー タを用いて実証している。 また,C
l.の感情様式を辿っていくということがC
l.とC
o
.
が対処すべき根 本的な問題についての相互理解を樹立する最も早道であるとする。そしてこの 時のC
o
.
の役割は鏡のようなもので.鏡に映るC
l.の真の姿を示し,C
l.が新 たに認知したこの自画像を利用して自己の再構築を促すとするのである。 そして,C
o
.
がC
l.と伴走することでほぼ確実にC
l.を心の浄化であるカタ ルシスに導くことが出来るという。あまり先を急がず,表現されるものとペー スを同じくして応答できれば, こころの奥底に潜在する問題を,より確実に, しかも建設的に表出させることが出来るとするのである。- 1
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一宗教と心理療法(友久〉そしてカタルシスの効用としては,まず
C
l.は,抑制されてきた感情や態度 からの情動的な解放が得られることである。そして緊張が生み出した感情から 一度自由になると,自己や自己の状態をより気楽にかつ客観的に眺められるよ うになる。そして Cl.はまた, 自由に表現できる機会を得ると, 多くの場合 かつてないほど適切に白己の状況を探究できるようになる。そして Cl.は,あ りのままの自分でいること, また自分独自の成長の可能性を発掘するのであ る。 このように,カウンセリングの第一段階は,まず Cl.の感情を解放すること であり,それにより Cl.をカタルシスに導き,こころの奥底に潜在する問題を 建設的に表出させることである。そして. Cl.は,これまで抑圧されていた感 情から情動的に解放され,自分の置かれている状況の基本的な要素に対する意 識を高め,自分自身の感情を素直に恐れなく認知する能力を増すようになるの である。 そしてこのことが,次の段階である「自己洞察の成就」へと導く。 く自己洞察の成就〉 自己洞察は先述したように,カタルシスの経験から離れて存在するものでは なく,密接に関連し,カタルシスを基盤とするものである。そして, この用語 は,自分自身の経験に新しい意味を認知すること,自分の行為の原因と結果に 新しい関係を見いだすこと,行動による兆候がもっ意味に新たな理解を加える こと,自分の行動様式を理解することなどを意味する。 それでは,カウンセリングにおいて. Cl.にとって自己洞察がもっ意味とは どういうものなのかを考えてみたい。 ロジャースは,まず,過去の事実を新たな関連づけで見直すことであるとい う。自己洞察が Cl.にとって何かしらの意味をもつことは,多くの事例から見 てまず疑いのないことである。そうした意味は,過去の事実を新しい見方で眺 められるほど解放されている過程に,また,あたりまえだと思っていた態度の 聞に新たな関連を見いだす経験や,見J慣れた事象に合意があるのを進んで受容 するといった行為に見いだすことができる。そして,自己認識はカウンセリン グ過程とともに漸新的に増していくのである。 自己洞察が深まれば,次に起こるのは自己受容である。カウンセリングの場 が全てを受け入れるという雰囲気につつまれていれば. Cl.はどんな態度や衝 動でもよりたやすく認知できるようになる。日常に見られるように,社会的に 龍 谷 大 学 論 集 ー 13一受けいれられない感情,あるいは自己に対する理想からはずれた感情を否定す る必要に迫られることはない。 そして, Cl.の自己洞察は漸進的に発展し,以前は認知していなかった新し い関連性,自己のあらゆる面の積極的な受容(自己受容〉目標の選択が初めて 明確に認知される。 こうした新しい自己認識とそれに伴う新しい目標に続いて起こるのが,新L い目標達成のための自己主導的な行動である。こうした前進がクライアントに 新しい自信と独立心を養い,その結果,さらに発展した自己洞察がもたらす新 しい方向づけを強化するのである。 このように,自己洞察が始まることから,以前は認知していなかった新しい 関連性に気づき,自己受容ができるようになり,新しい自己認知とそれに伴う 新しい目標設定,そしてその目標達成のための自己主導的な行動,またこれら による新しい自信と独立心が養われると,カウンセリングは終結の方向に向う のである。 く終結の段階〉 ロジャースは,カウンセリングの終結について,その要約のなかで次のよう に述べている。 Cl.が自己洞察と自己理解を深め, 人生に新しい方向を与える新たなる目標 を選択するにつれて,カウンセリングは終結段階に入るが,この段階はある独 特の特徴をもっ。 Cl.は新鮮な自己洞察を増し,新しい目標に向かい積極的に 行動するにつれて自信を深める。自信が増すと,カウンセリングを終えたいと 望むが,同時に支えを失うことを恐れる。こうしたこ面性がCo.に認知される と, Cl.は自分の目前にある選択をはっきり見据え,自分の問題を独力で扱え るという確信を築くことができるようになる。 Co.は準備ができ次第この関係 を卒業していいのだという自由な思いを促進することによって
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l.を援助す る。通常,カウンセリングは双方にある種の喪失感をもたらして終るが,同時 に,独立は成長に向う健全な進歩であるとL、う相互認識も伴う。カウンセリン グが成功裡に終わらなかったとしても,建設的な形で終ることも多い。 このように,カウンセリング過程は,感情の解放からカタルシスが生じカ タルシスの経験から自己洞察が進み, 自己受容, 自己認知を通して, 目標設 定, 目標達成への方向に行動が移ると,終結ということになる。 このようにカウンセリング過程においては, クライエントは終結に向うこと - 14ー宗教と心理療法(友久〉となるが,カウンセラーは,経験を積むに従って徐々にその態度すなわち接し 方に変化がみられるようになる。現に, ロジャースも初期は,そのカウンセリ 4時 ングを,非指示的療法 (Non-directivetherapy)と呼んでいたが,それが来談
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者中心療法 (Client-centeredtherapy) となり, 晩年には, 人間中心的関りω
(Person-centered approach)すなわちアプローチへと変化している。 これは,初期には,それまでの医者や心理土からの指示的な治療方法に対し て,指示をしない療法ということに重点が置かれていた。しかしその後,指示 をしないということから,悩みの相談者であるクライエントを中心に考えた療 法に移行したが,この時はまだ療法すなわちtherapyであった。しかし晩年に は, クライエントすなわち悩める人だけでなく.person (人間〉を中心とした 療法ではなく approach(関り〉へと変化していった。ロジャースは晩年には, 第三の心理学といわれる人間性心理学から第四の心理学といわれる, トランスω
パーソナル (Transpersonal) 心理学へと移行しいわゆるスピリチャリティ (Sprituality)への関心を強めている。 その理由や詳細は別稿に譲りたいが, クライエントのカウンセリング過程も 重要だが,カウンセラーの内面の変化も, このN.D.T.においては重要な課 題である。 羽田心と気づき
仏教の目的はr
悟りを聞いて仏になる」ことであるo このことを転迷開悟 すなわち迷いを転じて悟を聞くとも,成仏するとも云う。 真宗では,成仏するとはあまり云わないが,真宗の求道の目的は,先述した ように,如来の本願他力の我々人聞を救うと L、う呼び声を聞くことであり,そ れによって本願他力を信じて疑わね身になることである。この時, 自分の意志 すなわち自分の心(自力〉で聞くのではなく,向こうから聞こえてくるすなわ ち如来の方から回向される(他力回向〉呼び声を聞くのである。 この回向のことは,歎異抄16条において『一向専修のひとにおいては,回心 といふこと,ただひとたびあるべし。その回心は, 日ごろ本願他力真宗をしら ざるひと,弥陀の智慧をたまはりて, 日ごろのこころにては往生かなふべから ずとおもひて, もとのこころをひきかへて,本願をたのみまゐらするをこそ, 伺 回心とは申し候へ。』とある。 この回心と云うは,我々の聞く側すなわち,い ただく側の人聞の心のことであり,回向というは,与える如来の側からの表現 であり,その内容は同じである。 龍 谷 大 学 論 集 ー 15ーそれ故,回心すなわち我々に他力回向されるのは,ただ一度だけであるとい うのが,真宗の大きな特徴である。すなわち本願他力の仏の呼び戸を聞く(仏 にあう〉のは,唯一度であるというのである。その理由は,他力回向の真実に 具わる三信のなかに,相続心があり仏を信じる心が常に絶ゆることなく余念の 雑わることがないことによるのである。 また,その回心は,弥陀(如来〉の(人聞を超えた〉智慧(他力〉をたまわ りて(回向されて), 日ごろの心(自力の心〉では往生出来ないと思い, 自力の 心をひるがえして本願をたのみまゐらする(本願を信じる〉をこそ,回心すな わち,いただいた信心と言うのである。 これに対して,
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の目的は,各個人の持つ悩みを解決することだけ ではなく,悩みをもたらしている原因である自分自身に気づき自分自身を知る ことであり,その結果として悩みが解決されるのである。このことを一般に, 自分探しとか自己発見というが, ここで最も重要なことは, 自己への「気づ き」である。 先述のカウンセリングの過程も, 2JJIの表現をすれば, 自己への気づきから気 づきへの過程で、あると云っても過言ではない。 これを,真宗の回向と比べると,回向は仏との関係により他力回向され,自 力から他力へと転入することであるが,N.D.T.
では,C
1.がC
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(人〉を通 して自己への気づきが始まるのである。そして,その気づきが次から次へと継 続することにより,カウンセリング過程は進行するのである。また,カウンセ リングにおいて悩みが解決されたとしても,人間として生活を送っていると必 ず次の悩みが生じるのである。 それ故,回向はただ一度で,生死の問題に対しては,その解決はAllor Non であるが,カウンセリングにおける問題解決は,次々と新たな気づ、きが必要と なっていくのである。その結果,人格は陶冶され人間としての成長は期待され るがその気づきはエンドレスに続くのである。 その理由は,真宗における回向は,人間であるが故の自力の心が,他力回向 に目覚めることにより,他力(仏の本願力〉の心に転入(三願転入〉するので あるが,カウンセリングの気づきは,人と人との関係なので,この転入がみら れないからである。それ故,カウンセリングにおける繰り返す気づきにより, だんだんと人間的にも成長し, 自己の悩みの根源は,生来性にもっている死に あるという気づきが生じた時,カウンセリングから宗教への転換が起こるので ある。 - 16ー宗教と心理療法〈友久)刊 お わ り に 仏教もカウンセリングも人の心の悩みを解決させるものである。本稿では, 仏教として真宗を,カウンセリングとして
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を取り上げ, その両者を 比較検討し,その接点と相違点を明らかにしようと試みた。 まず,それぞれの対象者は,真宗では宗教上の悩みを持つ人すなわち自分の 死についての解決を求める人であり,浄土往生を求める人である。これに対し て,N.D.T.
では, この世の悩みすなわち自分の生き方に悩んでいる人や日 常生活を送る上で差障りとなる悩みを持っている人である。 また, 宗教的な悩みは, 人聞が生来性に持っている人類共通の悩みである が, カウンセリングの悩みは, 後天的に獲得された個人個人異なる悩みであ る。しかしいずれも本人では解決されない悩みである。 具体的な悩みの解決方法は, 真宗では聴聞であり,N.D.T.
では積極的傾 聴であり,いづれも話すことと聞くということが中心である。しかしその聞 く側は,真宗では悩める信者であり,N.D.T.
では相談を受けるC
o
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である。 また,それぞれの目的はというと,真宗では,成仏することすなわち他力本 願を回向されて阿弥陀仏と一体になり正定粟不退の位に入ることであるが,N.D.T.
では,C
l.の感情が解放されカタルシスを得て自己洞察が深まり, 新しい自信と独立心が芽生え,人生の目標が設定されそれが達成される,すな わち自己実現することである。 また, 真宗では法を鏡として自己に目覚め,N.D.T.
ではC
o
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を鏡として自己に気づくのである。 尚,本稿は,龍谷大学2
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年度短期圏外研究(研究課題:宗教とカウンセリ グの接点についての研究〉における研究成果である。 註 (1) 稲城選恵:真宗用語辞典・蓮如篇,法蔵館 (1998),60頁(2) Rogers, C. R. What ItMeans to Become a Person, In Moustakas. C. E. (Edふ The Se!,fHarper and Bros, (1956) pp.195-211浪花博訳,人聞の生成の意味する
もの,村山正治編訳,ロージァズ全集12 人間編,岩崎学術出版社 (1967),115-137.頁
(3) 浄土真宗聖典(註釈版〉本願寺出版社 (1988),251頁
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向上, 41頁(5) Rogers, C. Counseling and Psychotherapy, New Concepts in Practice, Houghton Mifflin (1942),末武康弘・保坂亨・諸富祥彦共訳 ロジャース主要著作集
カウンセリングと心理療法,実践のための新しい概念,岩崎学出版社(2005),佐治守 男編友田不二男訳,ロージァズ全集2 カウンセリング,岩崎学術出版社 (1966) (6) 前掲書(3) 472頁 (7) 前掲書(3) 412-413頁 (8) 浄土真宗聖典・顕浄土真宗教行証文類(現代語版〉本願寺出版社 (2000),528-529 頁 (9) 前掲書(3) 568頁 同 前 掲 書(3) 18頁 帥浄土真宗聖典・浄土三部経(現代語版〕本願寺出版社 (1996),29-30頁 同 前 掲 書(3) 18頁 帥 前 掲 書 帥 30頁 同 前 掲 書(3) 18頁 帥 前 掲 書ω 2 9頁 帥 前 掲 書(3) 190頁 納金子大栄,大原性実,星野元豊編,真宗新辞典,法蔵館 (1983),185頁
開 Rogers, C. Client-Centered Therapy, Houghton Miffiin(1951),友因不二男 編 ロージァズ全集3 サイコセラピィ(1966),畠瀬稔編訳 ロージァズ全集5
カウンセリングと教育 (1967),畠瀬稔編訳 ロージァズ全集7 プレイグループセ ラピィ・集団管理 (1967), 伊東博編訳 ロージァズ全集8 パースナリティ理論 (1967),友田不二男(編) ロージァズ全集16 カウンセリングの訓練 (1968)岩崎 学術出版社に分収
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Rogers, C. Client-Centered Therapy, In Arieti, S. (ed), American Handbook。
fPsychiatry III, Basic Books (1964)帥 Rogers,C. A Client-Centered/Person-Centered Approah to Therapy, In Kutash, 1.& Wolf, A. (eds) Psychotherapist's Casebook. Jossey-Bass (1986) 帥友久久雄臨床心理学の変遷とその「気づき」について一心理学視点と宗教的視点
からー龍谷大学論集第463号, 42【61頁 (2004)
帥 前 掲 書(3) 848頁
キーワード カウンセリング非指示的療法三願転入