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佛教学研究 第60・61号 017井上, 陽「「仏牙舎利」攷」

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(1)

「イム牙舎利」孜

は じ め に

井 上 陽

(龍谷大学非常勤講師) 1F

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呈繋経』は,ブッダ入滅後,ガンガー河中流域に

8

乃至

1

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基の舎利塔が 建立された旨を述べる。もちろん,『浬繋経』に説かれる「舎利八分」およ び「舎利塔建立J の内容が必ずしも史実に射している一一経典は史実を述べ るものではないけれども一一わけではない。 IF~皇薬経」が言及する 8 乃至 10 基の舎科塔の内,考古学的に関連づけられるのはピプラーワーとヴァイシャ ーりーの舎利塔のみで,これとて滅後当時の舎利塔と断言できない。 しかしながら,その後の各地への広がりを鑑みると,如来の遺骨(舎利) と,それを内包するストゥーパ(塔)が仏教伝播の先鋒となったに違いなし 裏を返せば,舎利塔があれば,その時代その地域に仏教が根付いたことを証 明する。もちろん, Fj皇繋経』はブッダと同時代のものとは考えられず,後 代の経典制作者が編纂し,教団に承認されたものであることは言を待たない。 一方,舎利塔重視の傾向は最初期の仏教からるったし,確かに経典を歴史学 的・考古学的に立証することは誠に菌難であるが,このような竪史的背景が 1).1呈繋経』成立に影響を与えたと考えても差し支えあるまい。 ここに扱おうとする問題は,史実と IF~呈繋経』の関に横たわる隙間を埋め 合わせようとするものではない。まして歴史的背景をもとにlF

i

呈繋経』の成 立とその周辺を解き明かそうとするものでもない。ただ,現存可呈繋経』中, ノマ-1)本,サンスクリット本,チベット本,『根本説一切有部毘奈耶雑事』 末に付された傷文が解せない。明らかに「舎利八分」には登場しない「弘牙

(2)

「仏牙舎幸IJJ孜 舎有J (ニ仏牙,歯牙,仏歯など)を突如言及する。後代の単なる付加とも 思えない。ここを出発点として論を進める。 もっとも,この「仏牙舎利」に関しては,

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.

Strongストロングの先行確 究がある。ストロングの研究は,「仏牙舎利」をめぐって展開された文献学 的手法によるー仏教史の構築であり,かつブッダ緩の抽出である。もちろん 多分に参揮した。が,撞稿ではあくまでも問題の出発点を『浬繋経』末に付 された信文に量き,ここに登場する「仏牙舎利」が,飽のどの信仰と関連す るのかを探り,あわよくば,さらなる展開を提示できればと考えている。

1

.問題の出発点

論をまず「舎利八分」および「舎和磨建立」と,その後の偶文の確認から 始める。 7~''/ダ入滅ないし舎利塔建立を説く『浬繋経』には以下のものがあ る。

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(DN (PTS) II, no. 16, 141-142; 167) 二『パ-1)~.呈繋経』 2.r (2)遊 行 経J Ir長河合経』巻4 (仏陀耶舎・竺イム念訳,大正 1 27c; 28a-29a) 3.!Fイム殻泥

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豆経』巻下(白法祖訳,大正 1 169a-b; 173a-174c) 4.Ir般泥

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亘経J 巻下(失訳,大正 1 186c; 189a -190c) 5 Ir大殻j呈繋経』巻下 (i去顕訳,大正 1 206a-207c)

6. Das

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,edited by E. Waldschmidt (Berlin 1951.Teil II

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SS. 358-360; 408-451) =サンスクワット本

7.Ir根本説一切有部毘奈耶雑事』巻37,巻38-39(義浄訳,大正24, 394a-395a; 400b-402b) 二 f雑事』

8. Dul ba phran tshegs kyi gzhi (P. No. 1035. Vo1.44, p. 226. Ne 260b5

(3)

Waldsch-f{ム牙舎利」孜

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=チベット本 ブッダの入滅ないし舎利塔建立を述べるものは上記以外にもある。もっと も,ブペソ夕、の入滅は自身の口からこれ以上「法J が説かれないことを意味し, それ誌「法」の軒絶を意味する。出家者をして一大事であったし,このこと が多くの経典に説かれたとしてもなんら不思議で、はない。が, Fj呈繋経」と してその形態を保つのは上掲

8

本に尽きる。 1 F

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呈繋経」諸本を通じて,ブッダの葬送は転輪車王と同じ方法で執り行わ れ,遺った舎利〈ニ遺骨〉を仲裁にあたったバラモン僧がS部族に均等に分 配したこと,それをもとに

8

部族が建立した舎利塔,バラモン僧が分自己の際 に復用した瓶に付着した舎利をもとに建立した瓶塔,火葬に遅れてやってき た

1

部族が残りの灰を集めて建立した灰塔の計

1

0

基の舎利塔が繁華な四つ辻 に建立されたこと,舎利塔を供養する者は,現世での多大な福利と死後の生 天が約束されることを述べる。付言すれば,『パーリ j呈繋経」を除くすべて の1F

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呈繋経』は,ブッダの舎利を国持したクシナーラーのマッラ族とそこに やってきた 7部族との関で,舎耗争奪をめぐる一触即発の危機を缶える。こ こに並々ならぬ舎科への執着が窺える。舎利が亡きブッダを偲ぶ縁として尊 重されたというよワか,むしろ,フゃツダを含め聖なる者の舎利には何らかの 超越的な威力を持ったものであるという理解を抜きにしてこの執着は納得で きまい。 問題はこの後である。 fパー 1)1.呈繋経.J],サンスクワット本,チベット本, F雑 事J は,最後に同ーの傷文を載せて絡めくくる。いま,『パ-1)~.呈繋経』 の偶文は以下のように述べる。 具眼者の舎利は 8ドーナ量 ジャンブディーパで、7ドーナ量を供養する ラーマガーマの諮ナーガ王が最勝者の残りの 1ドーナ量を供養する

(4)

-120-「イム牙舎幸IJJ孜 1童牙は三十三天で侯養する 1量牙はまたがンダーラ市で供養する 1童牙はまたカワンガ王国で供養する I量牙をまた諸ナーガ王が供養する

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この優文は明らかに直前の内容と魁語をきたす。亘前では

8

部族の舎利磨 と, ドーナの瓶塔,残りの

1

部族の灰塔の計

1

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基の舎利草子しか述べない。そ れにも関わらず,亘後でそれまで無言を貫いた仏牙舎利(二歯牙〉を登場さ せ,三十三天,ガンダーラ,カリンガ,諸々のナーガによって供養されると いう。ここで,なぜ「仏牙舎利」を登場させたのか。余りにも唐突過ぎる。 その必然性を解せないし,前後の脈絡を探るには情報が少なすぎる。 もとより,経典の伝承誌テクストの受け渡しでなく,師匠から弟子ヘヨ伝 されるものであり,その段階において改編・増補を余儀なくする。吋呈繋経』 とて,その例に漏れず, fパーリ

i

呈繋経』に限っても,その成立当初からい ずれかの段搭において倍文が付加されたに違いない。事実,後述するように 5世紀のフゃッ夕、ゴーサがそのことを述べる。 とにかく,重前の内容と儀文の問題点を指摘する。 問題点

1 8

つの舎利の内,ラーマガーマの舎利のみを別扱い 問題点 2 瓶塔・灰塔の欠知 謂題点3 三十三天,ガン夕、ーラ,カリンガ,諸ナーガ王が供養する仏 牙舎利 問題点4 ラーマガーマとは加の仏牙舎利を供養するナーガ王の存在 信文亘前でiま

8

部族の舎利に詰何ら区別はないが,儲文ではラーマガーマ

(5)

-121-「仏牙会幸IJJ孜 の舎利と,それを除く他 7部族の舎利とを区別する(問題点 1)。ラーマガ ーマの舎利は「ジャンプデイーパ(関浮提=この世界)J とは異なる世界の こととして扱う。この特別視はアショーカ王の八万四千塔建立の伝説を補助 隷とすれば想、集はつく。アショーカ王はナ-jf王が守護するラーマガーマの ストゥーパのみ舎利を取り出すことができず,残りの 7つの塔から舎利を取 り出して八万四千塔を建立した, という話である。 さらに,直前ではバラモン僧の瓶塔と,遅れてやってきた 1部族の灰塔を 述べるが,信文ではこれらを欠如する(問題点

2

)。これもアショーカ王の 八万四千塔建立の伝説と通じょっか。この伝説中,アショーカ王が開けたの 辻ラーマガーマを除く 7つの舎利塔で,瓶落と灰塔の言及は見あたらない。 しかし, 5世紀の法顕, 7世紀の玄笑

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J:,瓶塔もしくは灰塔の伝聞を残して いる。この問題江別項巨を建てて論じる必要があろう。いまはその余裕はな い。論を先に進める。この欠如は単なる不注意による艶揮ではなかろう。 ここで最も問題とするのが,三十三天(=切利天),ガンダーラ,カリン ズt

ナーガ王の「仏牙舎利」の供養である〈問題点 3)。ガンダーラ,カリ ンガでの仏牙舎郡の洪養はこの世界のことである。枝末の問題を指摘するな ら,先のラーマガーマとは別に,仏牙舎利を供養するナーガ王とはいかなる 存 在 か 〈 問 題 点 刊 誌 , も ち ろ ん こ の ナ- Jゲ王による供養も別世界のことか。 もっとも,仏典には数々のナーガ王が仏教を守護するものとして扱われ,ま た,インド各地出土の龍蓋を背負ったナーガ王復を藍みれば,ラーマガーマ に隈らず,仏教におけるナーガの特異性iまさして問題にならないのかもしれ ない。 この世界以外のに着目すれば,三十三天の仏牙舎利も然りである。三十三 天といえば六欲天のひとつにして,その主は膏釈天でみる。その源流をバラ モン伝統中に求める帝釈天は,仏教に取ワ入れられてからもブッダの伝記の 重要な{場面で護法神として登場する。三十三天の仏牙舎利もこの一連のもの か。 もとより,なぜ,それまで言及しなかった「仏牙舎利J を突如登場させる

(6)

「仏王子舎利j 孜 のか。これが,本稿の出発点である。

2

.パーリ註釈書の理解

このことに関して,

5

世 紀 の パ ー リ の 註 釈 家 ・ ブ ッ ダ ゴ ー サ は 彼 の 著 作 Fスマンガラヴィラーシニー』で以下のように述べる。 しかしながら,これらの優文はタンパパンニの長老たちによって語られ たものでるる。

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partII, edited by Stede W. (Pali Text Society, London: 1931, 1971) 615) これでは何の説明にもならない。ブッダゴーサの註釈はあまりに箆略的す ぎる。が,問題はある。もし『パーリ浬繋経」末の偏文が,ブッダゴーサの 言うとおりタンパパンニ(スリーランカー)の長老たちによって語られたも のとするなら,まず,傷文の情報は彼ら独自の考えなのか。そうでなかった ら,彼らはどこからその情報を得たのか。いずれにしても僑文とその直前の 内容との離蕗に気付かなかったのか,など,いくつかの疑問が浮かぶ。 しかし,この優文をスリーランカー上産部だけの問題としては扱えない。 既述の如く,この傷文は fパ-1)

i

呈繋経』の他,サンスク 1)ット本,チベッ ト本, f雑事』といった有部系の 111呈繋経』にも説かれていることも考え併 せねばなるまい。もう少しパーリの伝承をみていく。『スマンガラヴィラー シニ-jJ は仲裁のバラモン僧・ドーナに関して興味深い話を述べる。 ドーナは彼らに同意して金の升 (suvanna-dona) を開けた。王たちは そこにやってきて,升の中の金色の遺骨(占latu) を見て「世尊,一切 知者よ!以前,私たちはあなたの三十二大人相をそなえ,

6

色の光明に

(7)

「仏牙合手IJJ孜 錦られた仏,金色の身体を見ました。でも,いま金色の遺骨が遺るのみ です。世尊よ,これは正しいことではありませんJ と悲泣した。その時, バラモン(=ドーナ〉はかれらが取り乱しているのを知って, (如来の〕 右の歯牙を寂って伎のターバンの中に隠した。その後, (彼は〕等しく 公平に

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つに分配した。すべての遺骨はおよそ

1

6

ナー 1) (斜)の量であ った。それぞれの国のものは 2ナーワずつの量を得た。バラモンが遺骨 を分配していた関,帝釈天が r天界の疑念を取り除くための西聖読のこ とわりをあらわすのに,誰が,世尊の右の歯牙を取ったのだ』と思案し た。バラモンがそれを取ったとのを晃て,彼は思った,『バラモン辻歯 牙にふさわしい崇敬をむけることはできないだろう。私が取

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戻そう』 と。彼誌ターバンの中から歯牙を抜き取り,金の瓶の中に入れ,天界へ と持っていき,チューラーマニ・チェーティヤに納めた。 遺骨を分配した後, しかしそのバラモンはその歯牙をみること誌なく, F誰が私から歯牙をとったのだ、

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と,なぜならすでにそれを取られた のだから,たずねることもできなかったo f私にも分与をくれ』とさえ も言えなかった。なぜなら,熱心な人々に『確かに遺骨を分配した』と 嘘をついていたのだか,「確かに,あなたは舎利を分配しました。あな たは何かを欲しいといって始めたことに気づいていないので、すか」と。 彼は考えた, f如来の舎和を分配するときに集った,舎利を入れたこの 金の瓶だ。我はこれの記念碑を造ろうs と。そして彼は言った, fみな さん,この瓶を私に与えてくださいj と。

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注百すべきは, ドーナが舎利を八等分する前,あらかじめ仏牙舎利を自ら のターバンに隠したこと,それを帝釈天に見つかり取り上げられたこと,仏 牙舎利を取り戻した帝釈天は天上に送ってフゃッダが出家したときの髪ととも に供養した点で、あろう。 いったい,ブッダゴーサはどこからこの情幸良を得たのか。ブッダゴーサ自

(8)

-124-「仏王子会科」孜 身の創作とも考えiこくい。しか七ながら,

4

本ある仏牙舎利のうち,帝釈天 の住む三十三天のものについては,この註釈を鵜呑みにすれば納得できる。 しかし,これでは仏牙舎利

1

本について説明したにしか過ぎない。残り

3

本 はどのように理解すればよいのか,まだ疑問は残る。これに似た話が法蔵部 所伝「遊行経J に出てくるが,これについては後に述べる。 もっとも,「仏牙舎利」については,水野弘元の論考がある。いま,これ に

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這ってスリーランカーの伝承についてみていく。水野は,スリーランカー 資料をもとにしているがそのソース辻分からないとしながらも,スペンス・ ハーディま.

Spence Hardy

が著した F仏教綱要

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に興味深い記述があるとして,「仏牙舎手

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に関する情報を揚げる。が,こ れは先の fスマンガラヴィラーシニ-JJ の内容を踏襲したものである。しば らし水野の論考にしたがって,スリーランカー上座部の伝承をうかがう。 スリーランカーにもたらされた仏牙舎利は, もともとカワンガ冨にあった。 その由来は古代シンハラ語 F弘牙史』に書き伝えられ,夕、ンマキッティとい う学告によって

1

3

世紀初めにパーリ語訳され,現存『仏牙史』として現存す る。そのIi'仏牙史J に述べられる仏牙舎利伝来の話の要約は以下のとおワで ある。 ① ブッ夕、の火葬後に残った舎利の中から,左の仏芳だけをケーマとい う阿羅漢が分担以前に取っておき,カリンカ9国王ブラフマダッタに 与えた。 ② カ1)ンガでは盛代の王が仏牙を供養したが,グノ、シーヴ王の時,ジ ャイナ教徒の一大臣は仏牙に疑念を懐き王に質問するも,王iま種々 の奇跡、を示して大臣を仏教に転向させた。また,異教徒たち誌これ に納得せず,王はすべてのジャイナ教徒を匡外追放した。 ③ カ 1)ンガ国を去ったジャイナ教徒たちはマガダ国のパンヅ王に助け を求めた。パンヅ王

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まチャッタヤーナといっ小王を遣わせて仏牙を

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「イム牙舎事IJJ孜 捕獲しようとする。が,グハシーヴ王辻小王iこ仏牙の奇跡を示し, 役も仏教に転向させた。 ④ マガ夕、国のパンヅ王はカ 1)ンガからやってきたグ、ハシーヴに冷遇す るも,イム牙の奇蹟に多くの異教徒は仏教に転向する。しかし,パン ヅ王

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ままだ自らの信仰を捨てなかった。 ⑤ が,さらなる仏牙の奇蹟を巨の当たりにすると,さすがのパンヅ玉 もチャッタヤーナの勧めもあってついに仏教徒になる。 ⑤ グハシーヴ王は西インドのウッジェーニ一国王ダンタクマーラに仏 牙を奉じてスリーランカ一国王にこれを託すように頼んだ。 ⑦ この時,スリーランカーの仏教に

3

派あったが,最も有力だった無 畏山寺仏牙を託し祭事やその世話を依頼した。平案辻王宮内の仏牙 寺に安置されるが,毎年春になると域内を一巡して無畏山寺に留ま ワ,そこで祭事しを行うことが習わしとなった。 スリーランカーへの仏牙舎剥イ云来の話は吋、史sの「キッティシリメーガ ヴァンナ章」にも述べる。水野は史実か否か疑問はあるとする。しかし,仏 牙舎利が早くよりスリーランカーで珍重され,祭礼を仔っていたことは,

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世紀の法顕の記録, 7世紀の玄突の伝間を鑑みれば納得できるし,現在の仏 歯祭(ペラヘラ)に通ずるものがある。ある程度の史実を反映しているので はないか。事実,『仏牙史』の内容は, fパー 1)

1

呈繋経』等に付された健文中 のカリンガの仏牙舎利を理解しやすくする。 7世紀に玄突がカリンガを訪れ た捺,仏牙舎利について何も語らないのは上記のような経緯があったためで あろうか。 それほどまで仏牙舎利に執着せしめるものは何か。今一度,信文に立ち返 れば,ガンダーラ,カリンガといい,およそ仏教が開花した中心ではないし, 三十三天,ナーガ王にしてもこの世界以外として扱っていることが気がかり である。八分された舎利はすべてブッダが宜接教化したガンガー河中流域の

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「イム牙舎利J孜 「中心」に集約されるのに対し,これらはブッダの教化とは直接関係のない, いわば「辺境j もしくは「別世界j である。

3

.パーリ本以外の「浬繋経」の伝承

先達の如く,『スマンガラヴイラーシニー』の内容と共通する話が,法蔵 部所伝の「遊行経」にも説かれる。 その時,諸国の王は香姓に命じた,「お前は我らのために仏舎利を分け て均等に八分しなさい」と。香姓辻諸々の王の言葉を開いて,舎利のと ころに行って頭面をもって礼拝しおわると,おもむろに前にゆき,仏上 牙を取り片方に別にして置いた。まもなく使者を遣わせて仏上牙を持っ て,阿関世王のところに行かせるために使者に言った,「お前は私から の伝言であると〔次の言葉を)大王に申し上げなさい,『起居は軽やか で遊歩詰すこやかでしょうか。舎利はまだ届いておりません。期待され ておられることは計り知れないことでしょう。いま使者に如来の上牙を 持たせましたので,あわせて供養して心からの望みをなぐさめください。 明星のでる項,舎利の分配がおわりましたら,私自らが献上しましょ うμ と。その使者は香姓の言葉を聞くと,すぐに南関世王のところに 行って申し上げ、た,「香姓バラモンが訪ねることは計り知れません。 f起 居辻軽やかで遊歩はすこやかでしょっか。……明星のでる頃,舎利の分 配がおわりましたら,私自らが献上しましょっ μ と。その待,香姓は

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瓶 で

1

石(餅〉ほど受けると舎利を分けて均等に八分し,人々に言っ た,「よろしければ,この瓶を項けるか皆さんで話し合って下さい。自 らの家に落を建てて供養したいので、す」と。 。 (大正 1(1) 29c20-30a5) 舎利八分に仲裁のバラモン香姓が関わるまで、はいい。問題はその次である。

(11)

-127-¥ 、 、 、 、 「イム牙舎利J孜 「おもむろに前にゆき,仏上牙を取り片方に別にして量いた」というの詰, 先の fスマンガラヴィラーシニ-.JIと通じる。次に「遊行経」は阿関世王を 登場させ,仏牙舎利を臆したのは彼が香姓に依頼したかに思わせる。これ註 Fスマンガラヴィラーシニー』にはなかった内容である。しかも,舎利八分 の際にマガダ国の阿関世王も登場させるわけだから,都合,彼は 2麓の舎利 を千尋ることになる。 しかし,儲文の問題を解くには至らない。「遊行経」で述べられる内容辻, あくまでも,香姓と仏牙舎利との関係で為り,三十三天,ガンダーラ,カリ ンガ,ナーガ王の仏牙舎利を説明するものではない。 ところで,仏牙舎利は出てこないが,舎利八分にあたったバラモンに関し て『仏般泥沼経』巻下に興味深い話がある。 天 帝 ( イ ン ド ラ 二 帝 釈 天 か け は S王がともに誇っているのをみて, 〔自らも〕舎利を得て国に婦って供養しようと患い,党志に変身した。 名前を屯屈といい,合掌して夜明け前に

8

菌の王に言った,「私の言葉 を開きたまえ。おもうにブッダがおられた頃,王たちは尊き〔ブッ夕、 の)教えを奉じて,需に慈しみをもって恵みをもたらしていた。それ, 人々の主たるものが誇つようなことがあってはならない。平等にフ‘ッ夕、 の舎利を分けよう。〔それぞれの〕国土にみな宗廟(=舎利塔〉を建立 せよ。人々の盲冥をさとらせ,ブッ夕、がいることを知らせよ。これを仏 教の糸口し,大いなる語を得させよ」と。天・神鬼・龍・諸王・多くの 人々はみな言った,「よいかな屯屈よ,あまねく衆生に福田を施しまし ょう J と。ともに屯屈に請いて〔舎利を〕平等に 8つに分けた。屯屈は 自ら天上の金瓶でもって,中に石蜜を塗り,それにくっついた舎初をえ た 。 … 。 ( 大 正1(5) 175a9-17) もっともこのバラモン僧の名前や出自については異国がある。杉本卓夕刊は,

(12)

-128-「仏牙舎利J"5.)( 仲裁のバラモン告がパーワ:本のドーナ

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,サンスク 1)ット本のドームラ サ・ゴートラ

DhumurasaGotra

は罰一人物であろうと述べるが,漢訳本に 出てくる「香姓J i屯毘J i毛頭震」までが一致するか判定しにくいとする。共 通項を求めれぼ,仲裁にあたったバラモン僧というぐらいで,問題

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まあるに せよ,いまはひとくくりにしておく。 II{ム殻泥沼経』巻下が,仲裁のバラモン屯屈を天膏,一一問題はみるがひ とまず一一つまり膏釈天の化身として扱う点は詮目に値する。者釈天までも が舎利に執着をみせる点で fスマンガラヴィラーシニ-J1と重なる。 ここまでの問題をひとまず整理する。『パーリj呈繋経』末に付された倍文 は,ブッダゴーサによればスリーランカーの長老によって語られたものとす る。が,わてー 1)

1

呈繋経s以外に,有部系の IIt呈繋経』もこの偏文を説くこ とから,①必ずしもスワーランカー上座部のみの問題として誌扱えず,イ昌文 はスリーランカーの長老が語る以前,少なくとも 2部派間共通のソースがあ るニと。一方,スリーランカー内の伝承を紐解くと,(2)傷文に述べもれるカ リンガの仏牙舎利については納得できること。また,③ r遊 行 経J の仲裁の バラモン憎が仏牙舎利を分配前 iこ取り出す話と, Fイム般j尼

3

亘経」の帝釈天が 舎利を求める話の 2タイプがあり,再者を折衷した形が,「スマンガラヴィ ラーシニ-.JIの内容であること。これに付随して,④イム牙舎利をめぐって, 仲裁のバラモン僧と帝釈天の関係は経典男で異なり必ずしも一定していない こと,あたりが指摘できょうか。

4

.道宣が授かった仏牙舎利

論は中国へ飛ぶ。イム牙舎利iこ関して,南山律宗の開祖・道宣

(

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にまつわる話が患い浮かぶ。彼は玄突が婦朝し翻訳事業をはじめた時,

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人 の筆録者の 1人として任命され,また歴史・護法に関する著作も多い。なか でも F四分律行事室長』を著したことで有名であり,その功績は藤善真澄の言

(13)

「仏牙合手IjJ孜 葉を{昔りれば句、乗経典であるべき F四分律』に大乗的な解釈を施し,仏法 東伝にこのかた異文化の融合過程で生じたさまざまな事実を加味しながら, 中国社会に見合った戒律の再構築を試みた」と評される。のみならず,霊験 豊かな人物でもあった。 端扶元年

(

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8

)

,賛寧等撰 F宋高僧{云』巻

1

4

の道宣の霊験に,彼が毘沙門 天の子・部町太子から仏牙舎利を受け取ったという話がある。 〔道宣辻〕西明寺で夜道を歩いていると,前の階段にあった物につまず いた。が, (誰かが〕手を添えてくれて空を踏んだが害誌なかった。よ くよく振り返って見ると,それは少年であった。道宣は不審に尋ねた。 γ誰がこんな夜中にいるのか」と。少年はいった,「某は常人ではありま せん。毘沙門天王の子・那托といいます。護法のために久しく和尚を擁 護しておりますJ と。…(中略)…太子はいった,「某は仏牙を持って います。宝として久しく持ってきましたが,頭や眼といえども捨てるも のです。あえて〔神仏に〕奉ることをせず,道宣さまに授けましょう」 と 。 道 宣 は ま も り と ど め 供 養 し た 。 ( 大 正

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那 托 と 仏 牙 舎 利 を 示 す 資 料 は こ れ が 初 出 ら し い 。 こ の 話 は 威

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)

,志磐撰 II{ム祖統記』巻

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南山律学・九祖高山道宣律師」の項も 同様に,道宣がイム牙舎利を授かる話(大正

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を語る。 この那托太子は四天王の内・北方を守護する毘沙門天(多関天)の五太子の ひとワとして知られ,仏法を守護する善神である。那吃太子はサンスクリッ ト名を

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と い い , 那 羅 鳩 婆 ・ 那 羅 鳩 鉢 羅・那托主巨襲爆・部吃

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具伐羅・那吃鳩該羅に作り,那E毛と呼ぶ。当初はさし て目立った存在ではなかったが,中富に流入してからは F西遊記J やず封神 演義』などでの活躍によっ有名になる。ここで那吃は,中国化した毘沙門天, つまり李天王(ニ托塔天王李靖〉の子・中壇元帥として語られ,李天王と那 托の父子の関係については「那托間海J という題で知られる。もっとも,こ

(14)

r{ム牙舎利」孜 の部托は仏教とともに中冨に伝えられたが,現在で辻だれも仏教の神と志わ ないようである。 仏教の中に那吃を求める。神龍元年 (705),J吾の義浄 (635-713)訳『大 孔 雀 呪 王 経 』 巻 中 に 「 捺 羅 槙 按 羅 ( = 那 吃 ) は 迦 畢 試 に 住 むJ (大正 19 (985) 466b12) とし,これに対[Jちする唐の不空 (705-774)訳 円 ム 母 大 孔 雀 明 王 経 』 巻 中 に も γ那 吃 矩 議 曜 は 迦 畢 試 に 住 むJ (大正19 (982) 425 b18) とする。これ以上の情報を再経典中から導き出すことは函難であるが, 那吃が毘沙門天の子であることを念頭に置けば,後述の如く,玄突の迦畢試 (カーピシー)の伝聞とつながる。 論を道宣と仏牙舎利の関係iこ戻す。この話は多岐にわたる展開を経て日本 にも伝わる。そのひとつに謡曲『章駄天』がある。さいわい樹下文隆の論考 があるのでこれを頼りに論を進める。謡曲 F章駄天』は f能本作者注文』に 観世小次郎信党作とされる31曲のうちのひとつで,その内容は以下のとおり である。 }吾土,南岳道室律師(ワキ)のもとに,何処からともわからない男(前 シテ)が毎朝食事を施しに現れ,律師に奉仕するので,不審に患った津 師が名を問うと,北天の太子那托(章駄天)であると答え,律師の求め に応じて,釈尊入滅時に足疾鬼が奪った牙舎利を取り返し北天に安差し た有様について語り,衆生済度のため律師に与えることを約して培え去 り(中入り),律師が舎利札文を請していると,やがて章駄天(後シテ) が牙舎利を持って飛ぴ来たり,牙舎利を律師に与えて,牙舎利を安置し たこの寺の守護神となることを示し,また北天に婦っていった・・。 ( 部は筆者) この話は中入り前後の 2つのからなる。前半は道宣律訴を給仕するものと して那吃が登場し,律訴に仏牙舎利を授けることを約束。後半詰那吃の代わ

(15)

「イム牙舎利J孜 りに章駄天を登場させ,かれが律師に仏牙舎利を授ける,という内容である。 これは『宋高僧伝』巻14および1f

1

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祖続記』巻29の話とは異なる。先では 道宣に仏牙舎利を授けたのは那托であり,主駄天を登場させない。しかし, 謡曲「章駄天」では,仏牙舎利を保持するのは北天(毘沙門天=多間天)の 那吃であり,道室に仏牙舎利をもたらしたのは章駄天である。もっとも謡曲 f事駄天J の話の流れを汲み取れ試,新たに章駄天を登場させるものの,那 吃と同一視しても不思議はないかもしれないが,果たしてそうか。 先に註記したが,章悪太天は南方増長天の八大将軍の 1人にして,四天王の 三十二将軍神の筆頭に歪かれ,北方を守護する毘沙門天の子・那吃とは方角 も違うし,どうやら別の尊格のようである。南方を守護する章駄天が北天に 婦るというのは理解しがたい。ちなみに謡曲 τ舎利』は泉涌寺の仏牙舎利の 話であり,道宣を登場させないが,足疾鬼から牙舎利を奪い返すのも,それ を与えるのも章駄天の役目になっている。ここでさらなる論を挟むべきであ ろうが樹下の論に委ねる。 もっとも,謡曲 F幸駄天』は,『宋高僧イ云』巻14お よ び f仏 祖 統 記 』 巻29 にはない話を盛り込む。ブッダ入滅時に足疾鬼から取呼戻した弘牙舎利を北 天に安置した話で、ある。この話は「遊行経J や fス マ ン ガ ラ ヴ ィ ラ ー シ ニ -.JIが伝える内容とも異なる。むしろ,亘後で述べる F大 般j呈繋経後分』巻 下「聖極郭潤品」の内容と近い。 ここで注目すべきは,那吃が北を守護する毘沙門天の太子であり,それが 牙舎利を与えることである。 r~しというのがひとつの鍵になる。

5

.漢訳仏典中の仏牙舎利

道宣が亡くなる数年龍,

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年から翌

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年にかけて,若那践詑羅

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が寵海で訳した f大般注繋経後分』巻下「聖躯郭諸品」もイム牙舎利に関 する伝承を語る。

(16)

「仏牙舎幸IJJ孜 その時,幸釈は七宝の瓶と供養のそなえを持って茶昆所に着いた。その 〔火葬の〕火

i

まその時自然iこ消えた。帝釈はただちに如来の宝桔を開け て仏牙を請い求めた。が,楼逗は〔帝釈に〕尋ねた,「あなたは何をす るのか」と。〔帝釈は〕答えて言った,「イム牙をもって天に還り供養した いので、すJ と。楼逗拭言った。「たやすく岳分で、取ってはならない。大 衆がともに分けるのを待つべきであるJ と。帝釈は言った,「仏は先ほ ど私にひとつの仏牙を与えると言われました。そのために私誌ここに来 たのだから,火

i

まおのずと消えたので、すJ と。帝釈はこの語を言い終わ り,宝棺を開けて仏の口の中から右上顎の牙舎利を取り出し,ただちに 天上に還って塔を建て侯養しょっとした。しかし,その時,ふたりの捷 疾羅剥が幸釈の後ろに身を隠していた。まわりの皆に辻〔その姿は〕見 えなかった。その時, (捷疾羅斜は〕一対の仏牙を奪い〔逃げ去ってい った

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r~呈繋経後分』は震典がなく中国制作であるとも言われ,その成立に関し ては問題があることは付言しておしその上で論を進める。 ここには情報のj昆乱が認められる。幸釈天がブッ夕、の口から取り出したの は仏牙舎利ひとつであり,捷疾羅剰が奪ったのは 2つのイム牙舎利である点で ある。 ここに登場する楼逗は仲裁のバラモン僧・ドーナのことであろう。仏牙舎 利をめぐって泣『スマンガラヴィラーシニー』と多少の異国がある。 r大 般 j呈繋経後分』巻下

i

ま,その主導的立場を楼逗とし, 1.ム牙舎利を求めた帝釈天 辻伎の許しを得てブッダの口中より取り出す流れになっている。一方, fス マンガラヴィラーシニ-J1は主導的立場を帝釈天とし,仲裁のバラモン・ド ーナから仏牙舎利を取り上げたとしていた。このぐらいの立場の逆転はあり 詩そうなことだけれども,この意味で, Ii{ム般泥沼経』巻下の帝釈天と屯屈 の同一視は興味深い。

(17)

「イム牙舎手IJJ孜 また, F大 般j呈繋経後分』巻下の f(捷疾羅裂は〕一対の仏牙舎利を奪い 〔逃げ去っていった)J というのは一連の話の中で新たな要素である。この 醤所は謡曲 f章駄天』と通ずる。また, F宋高僧

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云』中,道宣が仏牙舎利を 授かったという説話のように,おそらく,部吃が捷疾羅剥(=足疾鬼)から 仏牙舎利を奪い返し道宣に授けたという話が, Fj呈繋経後分』巻下と謡曲 F章駄天J の関に組み込んだとすると涜れができる。 同じ唐代には,帝釈天と仏牙舎利を示す資料はいくつかある。道室と近い ところでは,同じ酉明寺にいて阿関梨智首門下の同学たる道世の著述にも伝 えられている。総章元 (668)年に撰述された守去苑殊林』巻37に F大集経』 の引用として以下のことが述べられる。 また, F大集経』には〔このように〕言われている。「切利天城の東の黒 明富のなかに仏髪の塔がある。域の高の鹿j長国のなかに仏衣の塔がある。 城の西の歓喜園のなかに仏鉢の塔がある。域の北の駕御匿のなかに仏牙 の塔があるi と。 (大正53 (2122) 578b20-22) 同じ道世が撰述した『諸経要集』巻 3 (大正54 (2123) 19c20-22)にも, これと全く同文を述べる。ここで『大集経』の引用とするが,劉宋・元嘉元 年から18年 (424-441),曇牽蜜多が翻訳した f観虚空議菩華経』の説く「天 上の四塔J (大正13 (409) 679c18-22) を受けたのであろう。 仏 牙 舎 利 は 帝 釈 天 の 住 む 切 利 天 〈 三 十 三 天 〉 の 可 し で あ る 。 弓 し と い えば,部吃を子にもつ毘沙門天である。

6

.仏牙舎利の聖跡

いったい,インド及びその周辺に仏牙舎剥の塔はどれほどあったので、あろ うか。周知のごとし実際に仏牙舎利が供養されたことは中国の求法僧たち

(18)

-134-「仏牙会幸IJJ孜 が伝えるところである。

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世紀も末,

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歳にして長安を出発した法顕

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で仏歯(仏牙舎利)の塔一一仏牙舎利辻

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本あるはずなのに

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箇所で しか述べないのは気になるが について述べる。この内,獅子国の仏牙舎 利に改めて論を加える必要もなかろう。残された掲叉国と那掲国に絞って考 えたい。 -タシュクルガンの仏牙舎利 於麿国(カノレガリクの南のマムク一帯か?)での安居を終えた法顕は, 25

E

かけて場叉国(タシュクノレガン〉に到ワ,慧景らとも会った。そこで般遮 越師(五年大会〉に出くわしている。法顕は掲叉国の王の般遮越揮の子細を 述べた後,この国の仏教について以下のように述べる。 その国には仏唾壷がある。それは石で作られており,形(色)は仏鉢に 似ている。また,仏の一歯が為って,その震の入はその仏歯のために塔 を建てている。 1000余人の僧徒がいてことごとく小乗学である。 〈大正51 (2085) 857c18-20) 法顕に遅れることおよそ100年,神亀元年 (518) に宋雲と憲生は京師j各陽 を出発し,当時の西域の情勢を伝える。それLt, 6世紀中頃に楊街之が撰述 した IF~各陽如藍記』巻 5 に付載される。それによれば,彼ら辻出発した翌年 の8月,朱駒波国(カノレガ1)ク か ?)から漢盤陀国(タシュクノレガン一帯〉 に入っている(大正51 (2092) 1019a26-b14)。しかし,ここでは仏牙舎利 のことはおろか,仏教の情報を何ひとつ伝えない。 7世紀,婦冨の途についた玄笑も鵡盤詑国(タシュクノレガン)に寄ってい る。仏教に関して法顕と共通するのは「小乗教の説一切石部を習学してい

(19)

r.{ム牙合手IjJ孜 るJ (大正

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一日)ぐらいで,仏教が盛んなことは缶えるもの の,イム牙舎利については何ら述べない。 このことは 5世紀の法顕の時代にはあった仏牙舎利が,宋雲,窓生の頃か, 遅くても玄突の頃には無くなったことを意味するのか。次のナガラハーラの 玄突の伝聞はこれを物語る。 -ナガラハーラの仏牙舎利 j去顕は掲叉国で慧景らと出会うが,烏英国(ウドゥヤーナ=スワーりで, 慧景,道整,慧達の

3

人法先発して那掲国(ナガラハーラ〉へと向かう。彼 らはそこで仏影,仏歯,項骨を供養したが,うち慧景は病にかかり仏鉢寺で 病没したという。ここから法顕ほひとりおくれて那掲国へと向かいJ;j、下のよ うに述べる。 ここ(重量羅域)から北に1由廷のところに那議国城にたどり著いた。こ こは菩寵がもと銀銭で5茎の蓮華を実って定光弘を供養したところであ る。域の中にはまた仏歯塔があって,項骨のやり方のように鉄養する。 (大正

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アフガニスタンのジェララバード盆地に位置するナガラハーラは, f』燃燈 仏授記j の故地として語られる。事実,この物語を表現したレリーフが広義 のガンダーラから多数出土している。特にこの那掲冨域は,ブッダが前註に ちいてバラモンの青年学童であったとき,燃燈仏を供養するために一女から 蓮華を購入する場面に比定されている。 これと同じく

6

世紀のlF

i

各揚伽藍記」巻

5

にも那迩羅阿国〈ナガラハー ラ)のところで仏牙舎利のことを述べる。ただし,この菌所は楊街之が撰述 する擦に参照した F道栄伝』が述べるものである。それによれば「那掲域に 仏 牙 と 仏 髪 が あ っ て 宝 箱 に 入 れ て 報 タ に 供 養 し て い るJ (大正

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とする。細かなことであるが,『仏国記』にはみられなかった

(20)

-136-「千ム牙舎手IJJ孜 「イム髪J が f道栄伝』に述べられることがいささか気になる。し,ここでは, 宝箱に入れて供養したと言っているだけで,塔があったとは述べていないの も然りである。問題を保留にしたまま論を先に進める。 7世紀,インドを訪れた玄笑もまた那掲羅墨(ナガラハーラ)に立ち寄っ て,法顕同様「燃澄弘授記J の故地として伝える。その中に仏牙舎利の落に ついて以下のように述べる。 城の中には大きな窒堵波(ストゥーパ)の古い基礎がある。これを土地 の人に開いたらこういうことである。「昔はイム歯があって,高くも広く もあり設かで麗しかった。が,今

i

ますでに歯はなしただ古い基礎が残 っているだけである」と。その側 iこ窒堵波がある。高さは30余尺である。 人々の伝えによると,もとのはじまりを知らないので,天から降りてき て,ここに高く基礎したという。人のつくったものと誌思えず,霊瑞も 多 い 。 ( 大 正

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誠に興味深い。 5世紀にあった仏牙舎利の塔が, 6世紀にはただ、宝箱に入 れて供養したとし, 7世紀の玄突の結えになると,仏牙舎利もなく,それを 納めた塔も基壇がのこるのみであるという。ちなみに永徽元年

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,道室 撰 r釈迩方志』にも那伽羅易〈ナガラハーラ〉のところで「域内に大きな塔 の基礎があって,昔は仏歯があった。棋の塔辻30余尺の高さで,空より降り てきたという。人のつくったものではない。霊異も多いJ (大正

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とあるのは玄突のイ云えを受けたものであろう。 タシュクルガンにせよ,ナガラハーラにせよ, 5世紀に法顕が訪れた時代 にはあった仏牙舎利が遅くとも 7註紀には無くなるというのはいかなること か。これについては桑山正進が論考を補助線にすると理解しやすい。 また,玄突は『イム冨記』にはみられなかった縛喝国(パルフ入党結那国

-137

(21)

i1.ム牙合幸IJJ孜 (パーミヤーン),迦逗弥羅園(カシュミール), {I曽伽羅国(ス 1)ーランカ ー)一ーしかも 4醤所であることは誠に都合がよいーーで仏牙舎利について 述べる。 錆伽羅留について辻論を挟む余地

i

まない。縛喝国(パルフ),党街 那国(パーミヤーン),迦湿弥羅闇(カシュミー/レ)に論を絞る。 -カシュミールの仏牙舎利 5世紀の法顕の r仏国記J1, 6 世紀の宋雲と恵生のIT'~各陽伽藍記」巻 5 を みても,隣接するウドゥヤーナおよびガンダーラに寄っているものの,カシ ュミールには行っていない。ここにいうカシュミールとは,現在のス 1)ナガ ル盆地に桓当し,広義のガンダーラには含まれるものの,狭義においては両 者を区別する。だから,法顕にせよ,宋雲と恵生にせよ,イム牙舎利に関する 清報を残していないのは当然のことである。 7世紀,玄突はオクサス河南のパルフからパーミヤーン,カーピシー,ジ ヱララバード盆地,そしてハイパノレ峠を越え,連E湿弥羅国〈カシュミー/レ〉 iこ寄る。カシュミールにおける玄突の記録は多岐にわたるが,仏牙舎利につ いても詳細を伝える。 新城の東南

1

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余呈,旧城主の大きな出の高に常伽藍がある。僧徒は

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余人いる。その窒堵波〈ストゥーパ〉の中に仏牙がある。長さは 1す半 ほどで,その色は黄白色である。あるいは斎日になると時に光明を放つ ことがある。昔,詑利多種が弘法を滅ぽした。憎徒は解散してそれぞれ 適当なところにとどまった。ある沙門はインドの地を遊歴し,聖迩を参 拝して至誠を披寵していた。後に本冨が平定したことを開いてすぐさま 帰途についた。〔その途中〕多くの象の群れが草原や水沢を仔き交い, 走り回って時

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えているのに出くわした。沙門はそれを見るや木に登って 避けようとした。この時,象の群れは集まり走ってやってきて池の本を 吸い込み,樹の程を水漬けにし,協力して据つたので た。(象は)沙門を捕らえ,背 iこのせて進み,大きな林中にいたると,

(22)

-138-riム牙舎幸11J孜 病気の象が療の痛みで援になっていた。この僧の子を引いて苦しんでい るところに〔子を〕やると,枯れた1tが刺さっていた。沙門はそこで竹 を抜いて薬をつけ,

c

自分が着ている〕裳を裂いて,足をくるんだ。別 の大きな象は金函を持って病の象に与えた。象はそれを受け家ると,今 度は沙門に授けた。沙門が函を開けると,それは仏牙だった。多くの象 が取り囲んで{曽辻そこから出るすべもなかった。明くる日の斎会の時, それぞれが違う果物を持ってきてこれを中食とした。食べ終わると,僧 を背にのせて林を出ること数

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里外で下におろし,それぞれ践き札を して立ち去った。沙門はその冨の西の堺までつくと,ある流れのはやい 河を渡ることになったが,中流までわたると,船は転覆してしずもうと した。同じ艇に乗った人々は互いにいった,「今この船が転覆しようと したが,禍は沙門である。きっと知来の舎利を持っていて龍たちがこれ を得ょうとしているのだJ と。船頭が調べたら,やはり仏牙をみつけた。 そこで沙門は仏牙をかかげて屈んで龍にいった,「私法今は汝に子渡す が,久しからず寂り戻すであろう」と。ついに船は河をわたらず,船を まわして去っていった。河を振り返って〔沙門は〕言った,「我には止 めるすべもなく,龍みたいな畜生に欺かれたj と。再びインドにいって, 禁龍の法を学んだ。

3

年の後,また本国立掃ろうと

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lI岸までやってきて, きちんと壇上を設けたので,その龍は仏牙の函を捧げて沙門に授けた。 沙問はこれを持ち帰って,ここの僧都藍で供養を諺した。 (大正

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玄笑が仏牙舎科の伝承を語る前,カニシュカ王の第 4結集の様相を語る。 カニシュカ王は健陀蓬国〈ガン夕、ーラ)から羅漢たちとともに『枇婆裟論』 をつくろうと迦湿弥羅国へ移動する。そのころ,戸外にあった世友辻羅漢た ちと問答の末,伎らの上座となって結集を始め,全三十万額九百六十万言の 経・律・論それぞれの『枇婆裟論』をつくった。そこでカニシュカ王は赤鋸

(23)

-139-「仏牙合手IJJ孜 に論の文をほり,石画に誠封し窒堵波をつくって,この論を持ち出さないよ うに薬叉神に守護させた, という。 玄突は往年の仏法の華やかりし様相を伝えるが,状況は一変する。詑利多 種による仏j去の破壊である。あるいは F蓮華麗経』が伝えるミヒラクラと波 仏のことか。この詑利多種による弘法の破壊によって仏教{曽たちはカシュミ ールから立ち去ってしまう。が,後に国が平定したことを開きつけたある仏 教僧が仏牙舎利一一象に与えられた仏牙舎利をいったんは龍に取られるが, また取り戻すという話は何かを象徴しているのであろ 7一ーを持って再ぴカ シュミールに戻り,仏牙舎有の伽藍を建てて供養する,という。「仏牙舎利j をカシュミーノレにおける仏法再興の象徴として扱う。 もっともず慈恩伝」巻 5では,鶏若鞠罷国(カンニャクブジャ)の仏牙舎 利は戒吾王〈ハノレシャパルタ。ナ)がカシュミールから奪い取ってきたもので ある(大正

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と述べる。 -パーミヤーンの東(おそらくフォンドキスタンか)の仏牙舎利 カシミーノレに至る以前,パーミヤーンを出発し,カーピシーに至る間に, 玄突は仏牙舎利を見ている。桑山は「パーミヤーンの束シバル峠を超えて, コツレバンド川のシャーゲノレドを南に入った)11沢の側の独立丘上のフォンドキ スタンではないか」とする。 玖

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皇繋像)の伽藍より東南に行くこと

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余呈,大雪山をわたち, 東へいくと小さな川沢に達し,泉池は鏡のように澄み,樹林は青々とし ている。伽藍があって,中には仏童と世界の始まつの持(劫初)の独覚 の歯,長さ 5す余り,横幅 4す弱のものがある。また金輪王の歯があっ

三思ゑ三五原設設ゑえ〈商諾迦縛裟(匂

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大河羅漢の持っていた鉄鉢,量

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・9升ばかワのものがある。 すべて三賢者の聖遺物はみな黄金で誠封してある。 (大正

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(24)

-140-r{ム牙会事IJJ孜 『大唐西域記Jj, IF慈恵伝』を通して玄突は,西北インドないしオクサス湾 にかけて,この仏牙舎利を含め,新たな聖遺物を伝える。三賢者の聖遺物と は,ブッダ,劫初の独覚,金輪王の歯で,ブッダを除く

2

者の歯は初めて登 場する。 ところで,仏牙舎利と部派の関係について,これまで述べてこなかった。 が,少しここで論を挟む。玄突が仏牙舎矛せがあったと伝えるところは,迦j星 弥羅国が F婆婆論』を誤作したことから説一切有部,後にみる縛喝冨(パ/レ フ〉が部派は断定しがたいが,おそらくこれも説一切有部,僧伽羅冨はいう までもなくスリーランカー上座部あり, 3つの仏牙舎利が部派(小乗)と関 係している。しかし,パーミヤーン・カーピシ一関で、みた仏牙舎利だけは蔀 派を断定しにくい。しかし,玄突の記録を信じるなら,党街那国の版図に含 まれ,説出世部ということになる。このことからすると「仏牙舎利」は大乗 とのというよりか,なしろ部派(持に有部系)との関連性が強い。この状況 は

q

呈繋経J とその信文の関係と答合する。僑文を付すのは fパーリ j呈繋 経』の他,有部系の可呈繋経』であり,実際に仏牙舎利がある聖跡の部はと 重なるが,全くの偶然だろうか。 -パルフの仏牙舎利 ノてーミヤーンに至るJ;)、前,玄笑i訴事喝国(パルフ)でも仏牙舎利を見てい る。バルフを前後して玄突の記録に自を遣ると,圧倒的にその伝聞が多いこ とに気づく。ノ勺レフが仏教が盈んだ、ったことを忌わせる。イム牙舎利について 以下ように述べる。 伽藍の内の仏堂の中に,仏の謀議(水瓶),量は 1斗;まかりのものがあ る。いろんな色を雑えて光り輝き,金属とも石とも名付けがたい。また 仏牙があり,その長さ

1

寸あまり,揺

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・号分,色は黄白で,糞は党;争 である。また,仏のほうきがあり,迦奪草 (k亙

sa=

マスキ)でつくっ てあり,長さは 2尺強,まわりは 7すばかりで,その柄はいろんな宝で

(25)

「仏牙舎手IJJ孜 錦って為る。担よそ

3

つのものは,六斎がくるたび、に,仏法で結ぼれた 人々は会をなし,陳列して供養する。至誠をかんずるところ,それらは 光明を放つこともある。 (大正

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バルフ城で、の聖遺物はイム牙舎利だ、けで、なく,

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に奉られておワ,それらが光明を放つこともあると いう。これらの聖遺物を奉る納縛僧伽藍は,さらに,毘沙門天が守護するこ とを玄突は述べる。毘沙門天と弘牙舎利の関努が見て取れる。

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.バルフをめぐる詰問題

もう少し論を加える。パルフについてである。 アフガニスタン北部,パルフ

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下流に位置するパルフは,古代交通蕗上の 要衝として栄え,グレコ・パクトリア持代から歴史に登場する。また,これ らの地域はトハ 1)スターンと呼ばれ,中国史書はクシャーン,キダーラ,エ フタノレ,突蕨といった遊牧民が支配してたことを述べる。 今一度,パルフに関する情報を玄突にたずねる。 T大唐西域記』によれば, パルフ域は小王舎域と呼ばれ,土地が豊かであったことを伝える。そのうち, 仏教に関係する内容を挙げれば以下の通りである。

伽 藍

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余力所, I{曽徒

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余人,小乗の法教を習学している。 ② 域 ( 小 王 舎 域 ) の 外 の 西 南 に , 先 の 王 が 建 立 し た 納 縛 告 伽 藍

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がある。 ③ 大雪山(ヒンドゥー・クシュ山脈)北側の論書を作成する諸拐の中 でも,優れた業績をなおざりにしていない。 ④ 名宝でつくられた仏復があって,堂宇は珍しい宝で飾られている。 ⑤ この伽藍には毘沙門天の像があり,霊験豊かで自に見えない加護が ある。

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「イム牙舎利」孜 ⑤ 侮藍の南の堂中に,仏の操鐘,イム牙,仏のほうきがあり六斎がくる と光明を放つ。 ⑦伽藍の北に高さ金制泥で塗られ多くの宝で飾られた二百余尺のスト ゥーパがあり,中の舎利

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ま折々に霊光を放つ。 ③伽藍の西富に精舎があり,多くの年を塵ているが,遠方からも高才 の入が集まった。多くの阿羅漢は浬繋に入ろうと神通をあらわし, その多くのストゥーパ基祉が数百余りある。いまは,僧とは

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余 人である。 上述の他,大都城の西北にも仏教に関わる聖跡を伝えるが今は省く。『慈 思伝』巻5は,上記の他,納縛僧

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藍に般若渇羅(唐に慧性)について f大 昆婆沙論2 を学んだこと,パルフで、有名だ、った小乗の三藤・達摩畢利(唐に 法愛)と達摩鶏羅(唐に法性〉から崇敬されたことを述べるが,大差はない。 これまで仏牙舎利を中心に論じてきた。その中で間接的ではみるが,昆診、 門天も登場した。つまり,道宣にまつわる奇語では,毘沙門天の子・那托が 仏牙舎利を授ける話があった。解釈の幅を広げるなら,毘沙門天と仏牙舎利 の関係も指橋できるのではないか。事実,バルブの伽藍の守護する毘沙門天 復について玄突は以下のように述べる。 この傷藍にはもともと毘沙門天像があって,霊験はあらたかで、呂には見 えない加護があった。近頃,突蕨の葉護可汗の子,建葉護可汗はその部 落の力を傾け軍勢を率いて,如藍を襲って珍宝をう

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まおうとした。ここ (伽藍)から遠くないところで駐屯して野営した。その夜, [津葉護可 汗は]夢を見たo f毘沙門天は言った。「なんじ,どのような力があって 伽藍を破壊するのかj と。そして長い戟で絢曹を貫識した』と。可汗ほ 驚いて自を覚ましたが,心臓が痛む。とうとう群臣に夢で見た誉めの徴 を告げた。馬を馳せて衆常に告げて,機悔謝罪せんとした。しかし,命 令が返ってこない内に命をおとしてしまった。

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-143-「仏牙舎利」孜 (大正

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捧葉護可汗は統葉護可汗の子・座方特勤,すなわち乙枇鉢羅露葉護可汗の ことで,統葉護可汗の時代に西突厭拡張図を広げる。しかし,貞観

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年から

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にかけて内紛が続いたらしく,

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唐書」巻

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および、

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資 治通鑑』巻

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にそのことが述べられる。桑山正進によれば,捧葉護可 汗による納縛信

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藍の攻撃は史書に記されないこととしながらも,「晃沙門 天の神力を説話化した単なるっくりばなしかもしれないが,葉護可j干の子の 葬葉護可汗と,実名をもって語られるところに放置できぬ問題がある」とす る。 パノレフから外れるが,毘沙門天に論を移すなら,カーピシーにも興味深い 記述が『大岩西域記dl (大正

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にある。迦畢試国(=カ ーピシー)の沙治迦寺の仏院東門の南にあった「大神王」は,この寺の宝物 を守っていること,およびその頭上に鶏鵡鳥復があったことなどから,毘沙 門天

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象であったかもしれないという。仮に,カーピシーに毘沙門天像があっ たとし,また毘沙門天の春属として早くより那吃太子との結び、つきが指播で きるなら, f大孔雀呪王経』巻中および Fイム母大孔雀明王経」巻中の「カー ピシーに住む那吃太子」は納得できる。 もっとも,パルフの毘沙門天像について辻,国道勝美辻奇想天外とするが, バルフの毘沙門天に関して,宮崎一定と,それを継いだ佐藤圭西部の論考が 誠に興味深い。が,いまはそれに委ねる。伺よりもここで指摘したいのは, パルフの伽藍が「北方」を守護する毘沙門天にまもられていること,その伽 藍の中には「仏牙舎利」が納められていることのみを指掃するに留める。

ま と め

IF~呈奨経J 末に付された傷文を出発点とし,ここに突如言及される「仏牙 舎利j をめぐって論を展開してきた。許された紙数が尽きたのでこれまで論

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-144-「仏牙舎利」孜 じたことをまとめて暮を閉じる。 問題の出発点 iこあげた IF~呈繋経』末に僑文が付されたのは,遅くとも 5 世 紀,つまりブッダゴーサの時代を最下限とする。しかし,それ以前を説明で きる資料辻皆無といってよしノマーリ語資料といい,漢文資料といい,およ そ 5世紀を下るものばかりでる。最初に述べたとおり,これらの資料は, IF~呈禁経』の成立とその毘辺を解明しない。し,歴史的背景が経典或立に影 響を及ぼしたとしても,史実と IF~呈繋経』の間に横たわる際関を埋め合わせ たりしない。が,新たな問題は指摘できる。「仏牙舎利」を通してみていく と,そこに,仲裁のバラモン,帝釈天,毘沙門天およびその子・那吃の存在 が新たに浮上する。一方,地理的問題は,中国の求法僧が

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云えるとおり, 「イム牙舎利J の聖跡、は一一スリーランカーを別にすれば一一いずれも西北イ ンドないしアフガニスタンにかけて関連していることである。しかも,時代 を追って移動する。途中でも述べたが,偽文が述べるイム牙舎利は,いずれも 「辺境J r異世界」で供養される。一方,中国の求法僧が伝える仏牙舎利の 聖致、もまた,およそ仏教の「中心」ではなしすべて「辺境J に存在する。 この一致詰まったくの鐸然で

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まないだろう。 「ブッダの伝記のさらなるひろがり:歯牙のいくつかの伝統」を論じた

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ストロングは,最後のまとめで以下のように述べる。 我々誌,ここに,仏伝の広がりの中に,舎利のひとつの皮肉さを垣間見 ることができる。それは単なる仏伝(あるいは,そのエピソードについ て)の表現ではなく,「象徴的ブッダ」からの解放があり,そして,以 前に詰みられなかった新たな方法で γ実在するフゃツダ」を可能にした。 「現在するブッダ」は,「歴史的ブッダ」が決してなし得なかった新たな ことを,逆説的にではあるが,それを可能にした。

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i{ム牙舎利」孜 確かにストロングの言う通りでみる。「仏牙舎者J をめぐる説話は亡きブ ッダへの渇望とも言える。以前にも論じたが,特に西北インド以西から発見 されている舎利容器銘文には,「辺境J なるが故に聖跡をつくろうという意 図が色濃くみえるものである。歴史的ブッダが直接教化しなかった,いわば 「辺境」というコンプレックスが本来的に誌なかった新たなものを生み出そ うとし,かっ,よワ実際的にブッダを見出そうとする動きは考えてもよいだ ろう。 アフガニスタンという砂漠世界は,仏教の故郷である縁豊かなガンガー河 中流域とは全く異なるものである。し,思索には適さない。より,実

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察的, 可視的,即物的になろうとする額向をアフガニスタンの仏教は示す。このこ とは,遺跡・遺構,あるいはより広範囲にわたって発見されている美術・考 古資料が端的に示している。が,アフガニスタンでみせる仏教とヒンドゥー の同化,および西方世界との退治という流れは意識せねばなるまい。 話題を変える。アフガニスタン南北をつなぐルートは,交易の要衝パーミ ヤーンが酉隈とされてきた。しかし,ごく最近,さらに酉からタンギ・サフ ェーダックとケリガン舎利塔遺跡が発見された。これまで知られることのな かった仏教西伝の可能性を示唆するものである。仏教がどれだ、け酉へ伝わっ たのか。これをもとに龍谷大学は調査を開始した。逢かにトルクメニスタン のメノレブには仏教が伝わった痕跡がある。ありそうにもないことだが,「仏 牙舎利」信仰も仏教西伝の道に沿って移動したのだろうか。後稿を記す。 キーワード:仏牙舎利・1F

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呈葉経

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赫尺天・毘沙門天・アフガニスタン 註 (1) 経典を歴史的立場に立って読みとろうという態度は,特に平

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彰 f初期大乗 仏教の研究』春秋社1968,および¥同 F初期大乗仏教の研究dI 1 • II春秋社 1989 ・ 1990~こ顕著で、ある。このような研究態震は当時としては画期的な方法で あったし,教理的・思想的アプローチ一辺倒であった経典研究を大きく変えた。

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「仏牙舎手IJJ孜 下記正弘IT'

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呈 繋 経 の 研 究 : 大 乗 経 典 の 研 究 方 法 試 論 』 春 秋 社1997はそのこと (10-11)を述べる。しかし,同時に下回は「河合・ニカーヤの中で,ほんら い,歴史的事実を記載する必要からのみ経典としてまとめられたものが,はた いしてどの程度存在するだろうかJ (65) と疑問を投げかけている。経典は, それを担う出家者によって「宗教的価値ありJ と判断されたものに限られるか ら (66),経典を,歴史的背景を明かすための材料として取り上げるには,や はり慎重を鶏さねばならないだろう。

(2) Strong,

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S. [2004J“Further Extensions of Buddha's Life Story: Some Tooth relics Tradition

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Relics 01 the Buddha (Princeton University Press, Oxford) 179-210. (3) ここに挙げた資料辻杉本卓チ

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IT'インド仏塔の研究:仏第崇拝の生成と基盤J 平楽寺書庖1984,297-298に挙げられたものである。 (4) 杉本卓州はこれ以外にも如来の葬送に関する資料として f四分律』巻54(大 正22,966a -c), IT'十言語律』巻60(大正23,446a -c), IT'大般

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呈繋経後分JI 2巻 (大正12,906c以下), IT'仏滅変後指数葬送経JI (大正12,114b以下), IT'大唐 西域記』巻6 (大正51,904b以下〉を挙げる(杉本卓外

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(1984) 298)。また, 下回正弘はこれら以外にも如来の入滅を主題として扱った文献を「浬繋経文献 群 」 と 呼 ぴ , 杉 本 が 挙 げ た 文 献 以 外 の も の を 挙 げ て い る ( 下 田 正 弘 [1997J 61 ; 486-487)。 (5) も っ と も , 下 田 正 弘 は 「 ゴ ー タ マ ・ ブ ッ ダ の 伝 記 を 王 題 と し た 文 献 は … 涯 繋をまったく問題にしていない。…つまり,ブッダの一代記的な文献において させ,入減法関心を惹いていないのであるJ (下田正弘 [1997J 66-67) と述べ, I T '

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呈繋経J 中,ブッダの火葬に至るまでの通程を禅定の一環とみなし,遺骨お よび舎利落はブッダの永遠性の象徴だとする。また,この点を発展させたもの として,入淳崇「ブッ夕、iま な ぜ 火 葬 さ れ た の かJ IT'龍谷大学論集』第457号 (2001) 15-35iJまある。 (6) 山田明爾「インド及び周辺の舎利容器J IT'仏教芸術』第188号 (19ヲ0) 11-26, 「解脱と生天一江南31J3器の初期仏像にいて- Jir日 本 仏 教 学 会 年 報s第59号 (1995) 65-78, r仏 教 文 化 と 僧 団 と 在 家J IT'世界美術大全集東洋編13 イン ドむ)JI (小学館,東京:2000) 337-344などで指摘されている。「舎手IJJの 理 解 については筆者も同じ立場に立つ。

(7) Das Mahφarinirvanasutra, edited by E. Waldschmidt (Berlin 1951.Teil III. SS. 358-360; 408-451)

(8) ラーマガーマのナーガの特異性については杉本卓州 [1984J 334-344に詳し い。また,仏教におけるナーガの役割を詳しく論じたものとして,入津崇「ナ ーガと仏教J IF密教圏像』第6号 (1988) 68-50をあげることができょう。

参照

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