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[Jj 美 太宰に関する一般的な評価が先入観として深く私の中に あった。何回かの自殺未遂者、敗北の文学とその文学を立 証した彼の自殺ーーその系譜は逆説的な強さとしてさえう つらない女々しい程の﹁弱い男 L の印象を私に与えた。若 い女性のように書き競っていく彼の表現に魅力を感じたこ ともあったが、あるあでやかさを秘めたその魅力も彼の実 生活のあでやかな弱さに圧倒されたか根をおろさなかっ た。それ程彼の文学と彼の生活は一体をなしていた。反語 と逆説と嘘に埋もれた彼の作品は、読者をごまかさない正、 直さをその中にもっていた。そのような底抜けの正直さ、が 私に安心を与えたために私は気安く太宰をえらんだのであ ろう。そうとしか考えられない。私は土日も今も、太宰のよ うな男性にささやかな同情以外のなじものも感じないのだ か ら l l i o 私はあまりに長くこの﹁弱い男﹂につきあいすぎたよう だ。私は彼を越えなければならない。しかも早急に 1 1 1 0 一人の人聞が自殺するという事件は、重大なことである が、作品を通して社会と交流する芸術家の自殺事件は社会 的な幅を持つてなお一一層重大な事柄である。だから太宰の 生涯とその作品が彼の死によって死の時点から逆登って評 価されがちであることはやむを得ない事柄であろうが、私 は太宰に於る﹁死﹂の意味があまりに強調されすぎている ように思う。無論論理的帰結が﹁死﹂であったということ は、その論理の中に一貫して死、か流れていたのであるから 太宰の﹁死﹂を過少評価してはならないが、太宰の自殺は あくまでも太宰の結末であって、その結末から全てを逆展 開して論ずるのでなく、一人の人聞が成長展開していく過 程を追いながら、太宰に於る悲劇を探ることの方が、私に はより人間的な様な気がする。歴史に﹁クレオパトラの 鼻﹂を推量するのは愚劣であろう o しかし、太宰は必ず死 ななければならなかったと無条件に最初から決めてしまう のはあまりに太宰に不親切ではなかろうか。何故なら、そ のような決め方は、太宰が生きようとした努力を過少評価 するであろうL
、又は太宰の苦悩を﹁悲惨な光景しであっ たとか、﹁勝利なき戦い﹂とかいう種類のオーバーな、私 達の日常生活とは程遠い何か異質な苦悩として描き出して いるから。私はまず太宰を私と無縁なものにしたくない。 優れた作家が私達と異なると同じ程度にしか太宰も私達か ら離れていない。だから私は、何か苦しい事柄にぶつつか った時、やろうかやるまいかと本達が悩むように太宰も死 ぬか死ぬまいかと悩んだことをまずふまえたい。実際私達で 支 で え 、 死にたいと思ったことがないこともないのだから そして太宰は自分の背後に死の影を引いていたとはいえ 死ななくてもその人が白らに誠実である限り﹁太宰﹂でな くなることはない。死んでも生きても太宰らしかった。 また一両自殺した事によって神格化された太平の伝説を 私達の身近な側に引きおろして平凡に彼の映像を探ろう。 逆説家を論じるのに逆説をもってせず、私達の日常平凡な 願いと祈りを太宰の中に見出す努力をしてみよう。そして なお太宰は異常であり、神格化さるべき人間であるならば 彼は一体私と何の関係、があるというのだ。 太宰が二十三年に園子と里子を抱いている一葉の写真が ある。楽しい親と娘の風景。この可愛い娘を残して太宰は 死んだ。娘の母を彼は裏切りつづけ、自分の肉体をも裏切 り続けた。そこに一体どのような理由があったというのか。 私は彼の精神的苦悩の記録をどれだけ読んでも、それを 合理化し、私を説得出来る何ものも発見出来ない。 私は﹁彼は、やはりまちがっているのではないか﹂とい う疑問を高く揚げたい q 彼 の 純 真 な 正 直 さ と 、 自 虐 性 、 が 、 全てを正当化したかに見え、誰しもそこに引きづり込まれ るのであろうが、私の父、がそのように生き死に、私の夫が そのように生き死ぬことをどのようなことがあっても許せ 永いのだから、やはり私の平凡な立場をしっかりと守り続 け た い と 思 う 。 健康であることを批評の土台とすることが、久しく軽蔑 されていたようにも思う。しかし、未来に生きようと願う 若い魂が﹁健康でありたい﹂という平凡な土台をもって、 かなめ 批評の要とすることは、当然な事柄ではないだろうか。 太宰について論じる前に私は﹁評論﹂ということをもっ と考えたくなった。批評し論評する為には批評する者の位 置 と 主 体 が い る 。 未来に生きる青年の健康さを私の位置にするからには、 その内容を明かにしなければならない。 昭和三一十七年代を二十一才に生きる青年の精神的な健康 さとは何であるか。そして昭和初年から二十年代に青春を もった H 失われた青春 μ の健康さとは何を意味したのか。 その時代の健康さと太宰の精神生活はどのような関係にあ っ た の か 。 | | 。 - 36 -私は自分の精神生活が非常に主観的、主情的であるのを 知っている。鏡に向って時聞をかけて丹念に仕上げた自分 の顔をある喜びをもってみつめている時、ふと何か悪い思 い出がよぎると、私は発作的に髪をばしゃぽしゃにしてし まったりする。しかも、そのようなことをしても別に自分 はヒステリー患者ではないし、誰かが窓の外から自分を突 然 呼 ん で も ﹁ な l に﹂と笑いながら答えることが出来るのだ と自分の理性を失わずに髪をぽしややはしゃにするのであ
ないのだから、やはり私の平凡な立場をしっかりと守り続 軍 軍 竃 醤 童 書 審 議 讃 蓮 華 義 母 パ 語 長 4 3 3 3 広 告 司 剣 山 一 1 3 p m N 3 3 者 M 司 令 a p L 1 0 三 る。そのような仕草は若い時よぐある、ある性的なものまで 含めたいらだたしさなのだと、物分りのよい連中は判断す るのだが、そのような人達は決して理性的なものと主情的 なものの矛盾にみちた精神生活を体験することのない人達 で あ ろ う 。 愛することの中にも憎しみを覚えなければならない近代 人の二面性、そのように矛盾に満ちて、とぎすまされては 屈折する近代人の精神は、健康であるという批評の位置を 非常に不安定なものにする。では一体、動揺し、矛盾を感 じないことを健康であるというのか。 とすれば太宰のように転々とするものは自分がひらき直 って﹁失格﹂と主張するまでもなく﹁失格﹂を主張出来る 主体をも持ち得ない程の不健康、腐り切った堕落者といわ なければならなくなる。 武者小路の精神生活は俗にいわれるように健康であった か。なる程、彼は動揺していないし、矛盾すらも感じない ように見える。だが彼の天才的な人聞の信頼感はどうも ﹁馬鹿一﹂じみて、白痴に矛盾がないように武者小路には 動揺がなかったなどと変な皮肉を口にしたくなるような健 康きであるようだ。 い っ た い 、 一 こ の 文 明 と 野 蛮 と 、 平 和 と 殺 り く と 、 搾 取 と 抵 抗とのすさまじいばかりの時代に、何等の内的動揺も、矛 盾も感じることのない人を健康と言うことが出来るであろ と自分の理性を失去すに室主じ
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ト うか。そうではない。若い感受性は一枚の新聞の中に無数 の矛盾を発見する。そしてその矛盾は自分の生活のありょ うは、一体これでいいのかと私に迫る o これでいいという 私の願望、いやそうではないというあのひきずり込むよう に私に呼びかけてくる。 H 正義 μ とやらの息吹き かも私はその苦悩を、動揺しているが故に不健康であるな どとは少しも思わない。 私にとって健康とは明らかである。苦悩を真正聞から苦 悩としてとらえ、これを克服する為に、回避する事なく、 決して死んだりして回避することなく闘うことである。健 康とはそのようなものではなかろうか。そして そのような闘いの事ではなかろうか。 H 未来に連去る健康 さ μ とは、未来に必らず勝利し、心ゆくまで喜び笑う者の 持つ精神の内容ではなかろうか。 不幸な時代に生きた太宰は不幸であったが、なによりも 太宰が不幸であったのは、生きて闘うことを美しいことで あると理解出来なかったことである。 文芸−評論家にとって太宰ほど論じやすい作家はあるま い。太宰の特街と思われるものはあまりに明白であるか ら。何回も何回も同じような調子でほめられては、最後に ちょっぴりけなされて、一評論家から非常に甘やかされてい る太宰の特徴を、私も担刷り上げなければならない。 太宰評論の土台は竜井勝一郎氏、福田恒存氏、奥野魁男氏、佐古純一郎氏らの活躍によって既に固まったかに思え る。批評限に乏しい私は、諸氏の論文を読むとその卓見に 圧倒されて、彼らが引いた軌跡から一歩も踏み出せない醜 態を今、さらしている。それらの論文の書き写しではあま りに才がない。太宰を読後感想では、おそらく論文の体裁 さえ整わないに違いない。しかし、出来る事といえばまず とぎれとぎれの読後感を、とぎれたままに書き記すことで あるようだ。それを体系づけるのは次の段階である。 一 、 太 宰 の H 純粋 μ について ﹃汲み取り便所は如何に改善すべきか?﹄といふ書物を買 って来て本気に研究したこともあった。 自分の精神生活の悲惨さを述べる為に、さりげなく自分 を卑下して、読者の痛いまでの同情を期待した一行であ る。ヴエルレエヌの﹁撰 Jばれてあることの悦惚と不安と二 つ我にあり﹂という詩をこの小説の巻頭に掲げる程自意識 の強い作者、が、下品とされる内容を真っ向に振りかざした 姿は、ユーモアというよりもむしろ読者への計算されたポ ーズがあるように思える。 ﹁ お 手 洗 い 改 善 ﹂ と い う よ う な 薄 い パ ン フ レ ッ ト を 、 ﹁ 汲 み 取 り : ・ ﹂ と い う 書 物 を 1 1 1 研究 1 1 あ っ た 。 ﹂ と い う 位 の 操 作を彼はいつもやったのではないか。一種の誇張を通して それをシニカルなユーモアに仕立て、その誇張された皮肉 な世界があたかも太宰そのものの世界であるかのような 錯覚を彼は読者に与えさせたのではないか。︵私がこのよ うに皮肉に太宰を眺めるのは、文才があるにしても、作家 と言われるが故に私達と隔たった異常な精神生活を送るな どとは考えられないからである。私は太宰を神格化してい るヴェールをはぎとって、私達と同列に彼を据えたいので ある︶それば山りではない。そのような書物を買って研究 したその時、このことを作品化しようと念頭に置いて、改 めてその本を読んでいったのではないか。 同じ作品の﹁思い出﹂のところに次の一節がある。 うしろで誰か見てゐるやうな気がして私はいつでも何か の態度をつくってゐたのである。私のいのちのこまかい 仕草にも彼は当惑して掌を眺めた。彼は耳の裏を掻きな がら咳いた。などと傍から傍から説明句をつけてゐたの であるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とか いふ動作はあり得なかったのである。このようにはりつ めた精神は太宰特有のものではない。 - 38ー それは個を探り、自我を見つめる近代人の精神生活であ る。自分の行動、自分の感情をはっきりつかんで走り、泣 くことは作家の必要条件でもある。 ﹁何かの態度をつくって﹂いるのはポ 1 ズである。﹁傍 から傍から説明をつけていく﹂のはどのような時にも自分 をみつめることの出来る自意識である。その自意識は﹁汲 み取り!﹂﹁本気に研究﹂するもう一歩奥の意識であ 、z fど
る。奥の意識と﹁研究する﹂までの間隔、﹁研究する﹂から ﹁本気に|||﹂をつけ加えるまでのもう一つの間隔それら の間隔を縫って、太宰の気弱な、しかも読者に甘えたポー ズが表れたと私は思う。 彼には数回の自殺未遂の経験があり、失恋と計合法活動 の経験もあった。なによりも、自分自身の肉体と実生活か ら聞いた思念であるという自己のデカダンに対する白信、が あった。また他方、 ダンテボオドレユル 1 私。その線がふとい鋼鉄の直線 のやうに思はれた。その他は誰もいない。 という種類のうぬぼれがあった。 自殺という存在否定の行為を繰り返し乍らも、自分に 対する自信は弱虫は強い奴に負けて泣いイも当然ではない か、というような逆説的な論理をくりひろげたようである。 見苦しくっつこかされた男が何となく笑った。それがポ ーズであり道化ではないのだろうか。そして﹁お手洗改 善﹂を﹁汲み取り便所は
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!一という種類の道化を売り物 にしたのではないか。 ミイラとりはやがてミイラになってしまった。平野謙は 名著﹁新生論﹂の中で、 なせ藤村は﹃新生﹄を書いたか。答は一見明瞭である自 己表白による自己救済と。あらゆる﹃新生論﹄がその線 に沿って書かれ、芸術的価値以上の宗教的価値までがそ こに発見された o h O ム μ と問題を提起し、藤村が姪との不倫な関係をどのように非 人 間 的 に 処 理 し た か を 。 − その犠牲の上に書かれた﹃新生﹄発想の奇怪さを断罪した が、私は太宰にも断罪すべきいくつかの内容があるのでは ないかと思う o 彼のいわゆる﹁純粋﹂なるものがそれである。 僕は何故小説を書くのだろう。新進作家としての栄光が はしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きに して答えろ、どっちもほしいと、ほしくてならぬと、あ あ僕はまだL
らじらしい嘘を吐いている。このような賠 には、人はうかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘 だ。僕は何故小説をかくのだろう。困ったことを言いだ したものだ。仕方がない。思わせぶりみたいではあるが、 仮に一言みたえて置こう。﹁復讐 o ﹂ この一文は﹁復讐己という言葉で止まっているが、太宰 の作品の中で到る所に表れる、どこまでもどこまでも自分 の心情を表白していく内面告白を、人は彼の純粋のあらわ れであるという。だが、見落してならないことは、その ような内省の奥にやはり作家としての太宰が冷たい顔をし てつったっているという事である。彼は﹁津軽﹂の中で、 自分が御飯の為に兄や兄の家族のことを筆にすることを苦L
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し 、 まことこの答案に誤りはないしむと書いている。しかも、彼は、苦しむ自分と自分をと りまく兄と兄の家族の種類の事を真正直に告白したであろ う。しかもその時読者は、太宰は﹁純粋﹂に告白している という事に酔ったとしても、太一宰の﹁痛み﹂を理解出来な かったに違いない。純粋とか正義とかいうものが行為を伴 なわず、人々の心情でのみ理解される時、それは非常に空 疎なものになる。あんなにも太宰と読者の間にあった共感 が空政な純粋という単なる讃辞に終った時、太宰は人聞の 世界には﹁私﹂以外に純粋なものは存在しないと誤解した に 違 い な い 。 ミイラとりはまさしくミイラになった。 純粋を守る為には純粋を破壊するものに闘わなければな らない。太宰の致命的失敗は読者によりかかった甘えで、 自らを作品の上であまりに﹁道化﹂させたということ、 道化﹂の証しとして実生活を﹁道化﹂たということにまず ある。そして、純粋を守る為の闘いは俗世間に対するもの であるなら、は、俗世間に外向的に立向かわなければならな かったのに、それを放棄し、自問的自虐的になったことに ある。その自虐的になった姿が又一 i 道化﹂であったとする ならば、太宰の悲劇は宿業的なまでに彼の一中に根をおろし ていたことになる。﹁道化﹂の一結末を知った太宰は読者と 自分のくい違いをなげかざるを得なかった。 僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を早熟だと噂し た。僕が、なまけもののふりをして見せたら、人々は僕を なまけものだと噂した。←僕が小説を書けないふりを したら人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つき のふりをしたら、人々は僕を、嘘つきだと晴晴した。僕が金 持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと附噂した。 僕が冷淡を装って見せたら人々は僕を冷淡なやつだと 噌した。けれども僕が本当に苦しくて、思はず附いた時 人々は僕位、苦しい振りを装ってゐると唱した。どうも く ひ ち が ふ 。 「 太宰治の作品と生活を、ポーズだと一言って批判し、後に 太宰からしつこくつつかかられたのは志賀直哉である。 あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぜほけたよ うな。あの人より若い人にはそれ程気にならないかも しれないけと、こっちは年上だからね。もう少し真面目 にやったらよかろうという気がするね。あのポーズは何 か弱さというか、弱気からくる照れ隠しのポーズだから
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T マ ペ これに対して太宰はよく知られているように、﹁如是校 一間﹂︵昭和二三年三月︶で志賀にかみついた。その論争を弊 理するのが目的でないからはぶくが、﹁自己肯定﹂老大家か ら H 君の自己否定はポ i スだげといわれてむきになった太 平は、実にいやらしい程の悪口をそこで叶−き出している。 ﹁如口元我開﹂では冒頭寸志賀直哉というのが﹂とあり﹁こ - 40一
雫 の男﹂﹁かういふ作家﹂−この者﹂ということになる。 ﹁あいつの書くものなどは詰将棋である﹂﹁旦那芸の典型﹂ ﹁薄化粧したスポーツマン。弱い者いじめ。エゴイスト 0 ・ : ﹂
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﹁ 如 是 我 聞 ﹂ は ﹃ 新 潮 ﹄ の 二 三 一 年 の 三 月 号 か ら 連 載 さ れ 、 六 月 一 一 一 一 日 に 死 ん で か ら 七 月 号 に 最 終 回 が 発 表 された。そこは追いつめられた男の最後のあがきというか 悲鳴というかそういう切迫したものがみちみちて、もはや ポ I ズなどは感じられない。 私は志賀も指摘したように太宰には明かに﹁ポ l ズ ﹂ が あったと思う。そのポ l ズが﹁如是我開﹂ではげおちたの は、志賀という老大家の中に、自分の主体と激しくぶつつ かる何かを感じ、それに必死の抗弁を行ったことにあると 思 う 。 H 敵 μ はあまりに明確であったし、その H 敵 μ を う ちたおす為にはベンをとる以外になかった。闘いが内向的 自虐性から外に向った時、﹁道化﹂と﹁ポ 1 ズ﹂ははげおち た。太宰は死に近づくこの一瞬に起死回生の絶好のチャン スを迎えたのではなかったか。それをつかみ得なかった精 神的弱点は彼独特のあの﹁甘え﹂にあった。 太宰は反論の中で吉﹃シンガポール陥落﹄﹃小僧の神様﹄ ﹃兎﹄﹃暗夜行路﹄などをつぎつぎに挙げ、迂の﹁自己肯 定のすさまじさ﹂を暴露する。太宰が﹁如是我開﹂で志賀に 食いついた言葉には支離滅裂な所がないでもないが、要す るに﹁志賀文学は社会的、人間的に恵まれた環境の中に生 育L
て来た一本調子の作品であって、おそろしく強く自信 を持った骨格があり、芸術家の弱さとは無縁であり、人間 の弱さを軽蔑している﹂といっているが、この指摘はよく 当っていると思われる。 武者小路にしても、志賀にしても、上層階級出身の楽天 性は貧しき者、弱き者に対して同情は示すが、貧しき者と 共に闘うという課題を自らに提起しない。そこには貧しき 者への鈍感ともいうべき残酷な神経が横たわっている。そ れが弱い太宰の神経にかちんときたのであろう。 志賀が太宰のポlズを批判する場合も、その基盤になっ ているのは﹁貴婦人が庭で小便するの e な ん ぞ も 厭 作者がそのことに興味をもっ事が厭なのかもしれない﹂と 前掲の座談会でのべているが、このように志賀自身の貴族 性もしくは貴族的楽天性がその根底になっているのであ る 。 津軽の素封家の息子が明治の貴族に軽くあしらわれたこと も カ ツ γ と き た で あ ろ う 。 だから太宰は貴族作家志賀に対して弱き者む名に於て抗 議したのではあったが、志賀の﹁自己肯定﹂に対して﹁自 己否定﹂を通らなければ作家及び人間としての資格がない というキリスト教的立場に骨の髄まで虫ばまれていた所に 太宰の﹁弱さ﹂と﹁甘さ﹂と﹁道化﹂があった。自己を肯 定する者、それは支配層だけではない。被支配層の中にも自己の将来を確信し、自らの生命と生活に限りない誇りを 抱いていた人達がいたのではないだろうか。非合法活動を 経験した太宰はその事をよく知っていたはずである。 ﹁シンガポール陥落﹂を取りあげて、志賀の思索の粗雑、 無教養、軍人精神みたいなものに満たされたファッショ的 精神構造だと暴露した太宰が、戦争下に於る宮本百合子、 中野重治等の戦いを知らなかったはずはないのだから。 志賀は確かに人間の弱さに無神経であったかもしれな い。しかし一貧しき群の中から生れた作家達は人間の弱さを 理解しながら、なお人間と人間の未来を肯定したのではな かったろうか。そしてそのように人聞を肯定する一群は太 宰の弱さとそこから生れる﹁道化﹂と﹁ポ i ズ﹂を理解し ながらも、太宰を﹁甘い﹂と一評価しはしないだろうか。 その﹁甘え﹂こそ起死回生のチャンスを見逃したのだと 私は先に述べたが、それは太宰、志賀論争の中にもよく現 れ て い る 。 太 宰 は 志 賀 を 敵 と し て 攻 撃 し な が ら 次 の よ う な 事 を 一 一 一 一 口 っ て自己紹介している。 その嫌らしい、その四十才の作家が、誇張でなしに、血 を吐きながらでも、本統の小説を書こうと努め、その努 力が却ってみなに嫌はれ、二一人の虐弱の幼児をかかえ