――目次――
1,
口絵,故木村泰賢教授
2,
部派仏教における分別上座部の地位とその宗義の定め方,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.1-6.
3,
梨倶吠陀における「死不可避」観,故木村泰賢先生の霊前に捧ぐ,福島直四郎,Naoshirō
FUKUSHIMA,pp.7-18.
4,
木村泰賢君の追懐,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.19-22.
5,
故木村教授の構成力,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.23-32.
6,
木村博士と耶古美翁,金倉円照,Enshō KANAKURA,pp.33-46.
7,
私の接触した木村泰賢君,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.47-58.
8,
巴利論蔵の研究について,長井真琴,Makoto NAGAI,pp.59-66.
9,
木村泰賢君の業績,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.67-78.
10,
「印度六派哲学」における一功績,山本快龍,Kairyū YAMAMOTO,pp.79-81.
11,
木村先生を憶ふ,寺崎修一,Shūichi TERASAKI,pp.82-88.
12,
線の太い学風,干潟龍祥,Ryūshō HIGATA,pp.89-90.
13,
木村教授の思ひ出,池田澄達,Chōtatsu IKEDA,pp.91-93.
14,
故木村泰賢先生を偲ぶ,宮本正尊,Shōson MIYAMOTO,pp.94-98.
15,
木村泰賢先生略伝,稲葉茂,Inaba SHIGERU,pp.99-102.
16,
故木村泰賢教授の著作目録及びその解説,西義雄,Yoshio NISHI,pp.103-115.
17,
残されたその面影,正木春枝,Harue MASAKI,pp.116-120.
18,
開闢神話の構成と神々の追加(下),原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.121-132.
19,
ヨハネ黙示録の理解へ,富森京次,Kyōji TOMIMORI,pp.133-146.
20,
カントが宗教に対する態度―Schmallenbach, H., Kants Religion―,成田恵門,Emon
NARITA,pp.147-154.
21,
姉崎博士の切支丹研究第1期の完成―A Concordance to the History
of Kirishitan Missions.
―,松崎実,Minoru MATSUZAKI,pp.155-160.
22,
常盤博士の『仏性の研究』について,坂本幸男,Yukio SAKAMOTO,pp.161-167.
23,
大乗仏教への歩み―D.T.Suzuki, Studies in the Lankāvatāra Sūtra の出版について―,龍山章真,Shōsin
TATSUYAMA,pp.168-172.
24,
新刊紹介,pp.173-184.
木村泰資教授
節究
l やノu
∵
.近時、彿致研究の進捗に伴ひて、部派倣故に封する考察も亦、盛なるに到った。乍併、各部泥
は相互にいかなる交渉と関係とを持ちながら、その登へる形にまで進展したかの経過となれば、
部振彿教に於ける分別上座部の地位とその宗義
の定め方
故 木 村 泰 賢
=の論文に1政教接が去ろ五月十盲、宗教争論座記念官主催の記念宗教聾大骨に=於′\安来され㌣あで、拳的尤 ものご︰してl工、教授最後のものでぁる。 徴表時間が超時間l=限定されてゐ㍗右の拳骨のtわに書かれtものである上−こ、教授の阿毘蓮磨論垂ら研究−二於ける 部況沸教の研究は、教授が晩年に於て、殆んビ全力か傾倒されモ1いはれイ1ゐろ。=の⋮スクリブ1ほ、勿論=れ 丈で立汲正論文でわろが、併J草し教授白月が費表される堤合にほ、或ほ未だ手を入れられろのでぁつtかも知れnが.今は如何ミも仕方が互い。
分派竺般の考察が壌想されてゐ・芸で、或ほ雛解克鮎もわら、ユノ思ふが、その鮎に、教授の著、﹁阿見蓮唐絵の研ぎ、
殊lニその第二編キ二軍一編の三軍ぜ知る=ミl=よつて多少に頑l工るゝでわらう。︵鱒鱒草しるす︶ 都濃儒教lこ於ける分別上座部の地位モモゐ宗義の定めガ Jクク未だ判明ならぎるものが砂くはない。
蓋し、各部次の博へる部派系固守Qものは、何れも真の歴史的系統を京すものではなく、寧ろ
各部派が系固上最も高き且っ古き地位を占むることを誇示するの意固が強く作用した結果として
案出されたものであるからである。殊に徒凍、部族洗出の次第を明にする唯一の詮であるかの如
くに考へられ凍った異部宗翰諭の如きは、その最も甚しきものでぁる。之は全く設一切有部の構
成空荷むるの手段として編成されたものなることは、少しく批判的に之を研究する人の何人も容
易に気附き得べきめで所る。加ふるに、之ほ私が他の場所で屡々論じた所であるが、各部派の立
脚地へ㌧るものは、決して初めより確定したものではなく、長の年月を経る中に、各々の間にかへ与
りの螢連鼻蓬ぁり、而もその費蓮嘩蓮に際して、各部涯の問に相互に反撥もあれば交渉もあら、
影響もあらて、次第に燭自の方向に大成したものであることは、零ふべからざる串賓である。異
部宗輸論に紹介された各部派の宗鶉軌の如きは、私見を以てすれば、恐らく大毘墳沙諭 ︵A.P
持=三以後に於ける固執せる部派的克見を紹介したもので、断じて各部疾の宗議は初よト∫ののやぅ打了ものではなかった。従って異に部派偶数の費遷を研究せんが虐めには、侍統詮は勿論一様の
史料として参照しっゝも、必ゃしも侍統詭に拘泥することなく、寧ろ各部派各自の立脚地を明に
すると同時に、各派相互の間に於ける思想的関係一ぞ尋ね、以てその連絡と開展との次第を明にす
部涯彿放た於ける分別上座部の地位モモの宗義の定め方 2α)である。従って部派偶数を研究するには、先づこの根本上座部のいかなるもの打了るかを明にして
か∼るの軒この先決闘怯であらねば凍ら閃。長都宗翰論は所謂、雪山部を学之に擬したけれ・ど
も、之は勿論、信用し得ざる所であるが、私を似て見るにー勿論制限附であるけれどもー南
方上座部の宗義、殊上その七諭に表はる∼ものはや∼之に近いものであるまいかと思ふ。
蓋し、南侍の所謂分別上座部なるものも、今の形に整ふまでには種々の璧慧壷てゐるけれど
も、その宗義は楓本七論による限り比較的素朴で月珂耶︵竺蔓・︶及び律以上に出づると思はる
ぬ所と思ふ。
数研究の方針としては、思をこの鮎に致さねばならぬことだけは、飽く皇で単著の忍めねばなら
るの必要がある。勿論、貰際をいへばこはかならに困難な事業であるけれども、ともかく部族倣
〓
所で、然らば右の見地よbして部派偶数はいかなる順序で費達したかといふに、勿論、その一
一をこ∼で追随することは困難であるけれども、私は極めて大雑把に、之・芸の如くに観察して
ゐるものである。即ち
根本上座部
都農儒教−こ於ける分別上座部¢地位モモ望不義の定め方︷
布部又は確乎部系の諸派︵賓在諭的立脚地︶大衆部系の諸派
︵観念論的立脚地︶ 劇け部振儒教に於ける分別上座部の地位寸Jその宗義の定め方
四
ゝ特殊的意見なるものは極めて砂いからである。即ち七論に表はる∼紳畢的意見も種々の法養を
整理し分類し解辞する上に於ては経詑以上に額璃的なるものとなってゐるけれども、その宗義内
容となれば布部の三世賓有諭の如き、博子部の有我諭の如き乃至大衆部の侭名論の如き、特殊的
意見の著しく表はる∼ものなく、経詭にぁる法相を而も表面的に解辞し整理したものに外ならね
圭一白ひ得べしと思ふのである。この意味に於て、私は南方の分別上座部は諸部泥中の随一なると
同時に亦諸部泥中に於てその最も古い立場を代表するものと見てゐるものである。従って亦部派
沸教の研究には、何より先にともかく南方涙の確定的数理を定むるの必要あることも亦改めて言
ふまでもない所である。たゞ怪むのは私の知れる限りこの見地よゎしたる南方分別部に関する研 .究を試みた成積が一つも衷はれてゐないことである。
三
然らばこの南方上座部の立場をいかにして、決定的に定むべきかといふに、之には積極的方法
と消極的方法との南面あり、而も雨着粕侯って初めて完全に近い宗哉が得られやうと思ふ。
積極的方法とは七論中諭事︵K邑l首註−1u︶の一を除いて他の六論と丼びに無持邁論︵P鼠撃てbFidF阿m品管︶の宗義を経めることで、更に少しくだけてはゐるけれどる之にミサソダ王閉経写・
︼ind名声寧○の詑などを参照して種々の方面よりその法相論を見ることであ・る。 ノ 2(ほ消極的方法は諭事︵舛邑・冒註︼岩︶ を利用して南方上座部派の非とする主張を調べて、その耗
極的宗鶉の限界を定むることである。蓋し諭事は何時頃、何虞で製作されたものであるかに関し
ては、異論を挟むべき除地があるとしても、ともかく分別上座部は之によりて他派と白沢との限
界を定めんとしたものであるから、たとひそこには、自派の積極的意見を提出せぬとしても、之
によりてこの派の許さぬ数理を知ト、之よりその裏面に捗りて、本派の■積極詭を知り得ることに
なるからである。而も諭事はこの中に部派偶数間に取扱はれた種々の重要数理を論じてゐるので
其中は表はる∼題目だけを整理してもせ派な数理諭を組織し符ペき鮎に於て、分別上座部の数理
凄定むる上に於て絶射的に必要な材料であると同時に、諭事を利用することは亦絶射的に必要な
方法であらねばならぬ。然らぎれば、他の諭書によりておぼつかなくも本派の立場を想定した.所で、更に進んで、その立場より或る種の理論を生み出すか否かといふことになれば、之を制限的
に定むる方法が有せぬことになるからである。
この意晩に於て私は、率直に云へで分別上座部の宗義を定むる.の第一催件は先づ諭事によーりてその非とする数理を定め、然るに後にこめ積極詮を詞ぶべきもので、而もその積極論なるもの
は、毘崩伽論︵5b一1p厨エを中心として、之にミ.リンダ王閉経などを塵照することによつて、大憶の見普を得べきものと確信してゐるのである。
部振儒教た於ける分別上座部の地位≡ての完哉の定めカ 五 盈ほかくして得られたる結果は典へられた一q尼何耶以上に多く出する所なき、或る意酸からすれば
瑳健託たると同時に、或る意味からすれば申凡なる訟とだえごナとは言ふまでもない所である。併
し特色あぇ諸部派の吏張に射して、基本的棟準を見め待る斯に於て、宗輸論が有部宗轟を棲準と
して訪部派の特色を見んとしたるに封七て、一暦畢術的に意義のぁることであらねばなちぬ。こ
れ私は ー一見すれば斯畢の専門家、には分り切ったやう写1とで、而も未だ何人も試みざる研
究法一でこゝに提唱する所以である。
部振彿故に於ける分別上座部の地位ミその宗葛の宜元方 ′ 六 20塵リグ・デューダは死及死後の存在に閲すろ深刻な帝都的思索一で多く介んでゐない。勿論リグ・デュ
ーダにも、抑.ぷ空l芸p邑︶.舛.芦00ご5ぎk弓m且−H●冨︵Puru瑠崇︻エ︶H﹂巴︵字音p註︶− 只・−琶︵学則⊇呈tp︶の如き哲畢的名篇は存す一〇が、之等は常第十巻に属する比較的新しい蕗歌である。一般には死に封する恐怖、長寿の希求を述べ、現世に於て幸福な生産を終った後はヤマ王の
支配下に天界の歓楽を享受する事を願ってゐる︵特に両州・〓∽・γご参照︶。然しリグ.・デューダ中に佳死に関する深刻な考察が乏しくとも、之を以て直に上古印度の膏畢思想界の合致を推断し
難いものがある。何となれば一方に於丁リグ・デューダ讃歌全憬の性質及目的がかゝる問僅と密
接な関係一でもたなかった事を考慮に入れる必要がぁり、他方に於てこの欠格はある程度までアク
ルア・デューダによつて補足されてゐるからである。・然し弦では問題を出水るだけ局限tて、人間 が#瞼的に締約し得る一兵理たる﹁死不可避﹂﹁生者必滅﹂の軌念が、リグ・グェーダに於て如何に 梨倶吠陀に於けろ﹁苑不可避﹂毅梨倶吠陀に於ける﹁殖示可避﹂観
・・−・故木村泰資先生の霊前に捧ぐ
福 島 直 四 郎
七 悪道表されてゐるかを瞥見したいと思ふ。
勿論この観念を最簡虚に説明するものは、m弓鼻白長与と云ふ畢語である。\E弓−Erl死
すト、人=喜一βmri盲−与妄言旦誉語根か畠で、1死すべきものLへ毒邑訂妄意映
し、巳−一室ぎ竿2与苫こ2首二−−亡20邑i㌔せ聴牲とする紳︵d⋮︶に対して1人﹂を意眈する。但しこれは銅品度に限らす、買邑又=−喜享弓巨・−旦︵<*︼音︶毎号‡苦ち且の扇
′ す如く他の印欧話語にも其類例を見る事が出水る。然し吾人の問題は寧死不可避の覿念をリグ・
デューダ詩句の間に見出す事にある。 ÷その時︵=重富の太初に於て︶死もなかりき、不死牒なから畠﹂︵2喜ur邑阜㌢−1芦
夏山舛・−芦ご︶と暫撃砕人は謳ったが、ヤ=ゴm芦︶が最初の死者として共進を拓いて以凍
人間は落に死の緊縛を脱する串が出凍ない。
擁・−Pご昌⋮Ogぎmpr邑昌⋮i邑⋮意g買yぎ萱b−−点く=こ
y旨封。風写.rくepiぎ与pPreyrlre旨j告ぎ昔paこ−箋買≡阜こ\ ︵ヤマは我等の焉に︹死の︺造を見出せし最初の老なり。この領域は奪遺せらるペきに ぁらす。我等の父親の赴きし虞王、兄孫も亦各自の路を辿ヱし赴く。︶†マの邁︵Ⅰ・芦
. 梨倶吠陀l二於ける﹁死不可避﹂叔 八 β0βヽ のed・ノ、・SeFr監er Die ur∽−︶r・GCttheitde:邑・Y昌芦l︸・岩盤照︶故に葬蓬のあった時、死が画その邁を
迫って締って凍るのを恐れる。
舛●−00●柏註︰mrマ○すp乱己FyOpぢ呂tOy乱piすdr糾g︼一首Pp.y与prPt竿コ已ヒ.d邑h到nぷ\ ︵爾等は死の足跡を滑しっ∼、更に長寿を得て速水れるが故に。︶賓際内岩恥・坪は葬 迭後のぎti打弓日昌 てゐる。内岩加●S●ご●−讐こ且dy担ppdpl−1iy竜Pyit⊇lいR−ヂH訂t−=欝F崇ng空家百壷 p●冨−冨−C㌢−1d︰崇e旨ind・H已ten・巨d出鎗芝t喜囁乳br賢dlep・−岩垂照。ヤマが死の先例を開いた拳は次の辞句によつて最も明瞭である。
Aづ●舛七Ⅰ︻︻・00・−㌘3m茎−引rp pr邑1∋一mO m弓マ引1−獣l苫ナpr童ギpづr已F誓10︼ekさm et蔓一\
・さ虔Y㌢F乳g冒⋮1こ邑n暮y買巴Fr昔≡⋮息到牒Pづ訂ミ
︵應死者中最初に死せる者、かの世界に最初に赴きし老.人間の召集者、ディアスァク ーの子ヤ†王を祭具を以って培崇せよ。︶次に引用する一句は甚難解である。
輝く●舛●−野人rde扁bl一y阜kpm弓rnざこ阜官1m−一且錯乱k芦m2月t已かー1到一首七三 梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂観 βク7梨倶吠陀に於けろ﹁死不可逢し載 b首民七註Fy鼠P2pk叫乍く旨r乳Epr官−iこ、−−Eaニ2≦E−︶r邑斉iこ\ ︵︹ヤ†ほ︺赫々の虐に盲己の︺死を選べ♭、後裔︵人間︶の焉に不死を選ばざりき。︹所
々は︺聖茸ブリ♪スバティをして祭祀せしめたり。ヤマは︹人間の焉に︺愛すぺき現身
を棄てたら。︶Aく・Hく呂Ⅰ・P亡に従って詳解する方が邁に容易であるが、今はリグ・ブ。−ダの椎
威を重んじて之に依つた。e︰e︻声く・H・−ドーいA≠−声Cit・。︰言−眉註ry忠臣Ptl了 亡u訂r菩・僻−J已一己㌍︰亡訂rdiの苧itik︷︼蔑穿くedp・寮監袋p・畠﹂き○︼de−1訂rgRく.・要。ニⅠ・冒−E参照。オルデンベルヒの如く﹁︹創造主︺は細々の焉に儲を選べり﹂
と解する革も勿論できる。若しこの解群が正しいならば醐も亦初に於て昌弓官では
なかったが祭祀のカで不死を得た事になる。ブラーフマナに於てはかゝる考も決して
珍しい串ではない。例へば、 許
こ芦−・ド一拍︰2r官亡⋮阿品red号副腎与︵管玉太初に於て神々は星卓∴号
き。︶TS・≦H・Pドごy旨笹邑mPl雇y帥。葺かde古式reぎn ︵太初に於て神々も
亦質に人間の如く然れり。︶僻監1elJきー=ブどeエ已ぎ⋮r G琴−−・d∴−1d●ヨ㌢邑itニー. −畠持参照。 2(冶現世に富貴の専き今フする者は死後不死を得る事疑へこ。
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避L載警ば人間もこの嘗於て不死姦られるか去ふ問塩が菅。−芦くーⅠⅠ・・畢臼︰脚
馬首昌宏巨岩=巨意二己1ぎ督旨ェyCtいr邑計m乙e碧\︵我等はツーヱ酒を飲めり、
而して不死となれゎ。我等は芸に膚せ♭、・而して神々呈出せ乞︶然しこれはツ
マ酒の効験を誇張したもので、畢酪酎裡に軽食した死後の理想である。只死後に於て
を巽ってゐる、例へばRく㌧T・芦¢︰のみ人間は不死を得る。現世に於ては音義の寿が理想であつた。詩人は常に甫歳の蕃
瞥ぎ三日21瞥乙0訂de畠y已r⋮乳象三宅撃Ft21邑巨、
plltrぎy旨⋮iどOb−−弓邑im勘巳㌢d−−y宗l致嘗yurg邑与\\︵赫々よ、首歳をして前途にあらめよ、爾等が我等の肉燈を老衰せしむる迄に、また
男子が父となる迄に。中途に於て我等り寄を省する勿れ。︶餌芦edO−1苧家t−1く邑O 一皿deHm﹁イ・2者已亡●可■参照。 百歳の蕃は賓にこの世に於ける不死である。訂・H・−・P‡1dl−1芦illld盲llCェ;どr邑ぎを已二冒乙昌盲−β書邑Pmぢ讐・盲旨m
︵無限無窮の不死は賓に有年の期間に等し。︶ 一一訝杵ふ.P00︰邑−M↑箋⋮富−i−くiニ・芸・︶ミ;︼l昔︼訂ijぎti笹1−㌢′it■乙昌㌻ヨ 占.n註︵次に盲歳又はそれ以上生くる者はかの不死を待。︶ 弾ト音i︰こ訂d邑rinedu買ri評ep・芦01de亡訂rg︰せiの謬ligぎd偏つedpp・㌶?参照。 ヤマの道は絶射である。それ放この鮎に於て人間は長官・b呂d−⋮﹁死に属する者﹂である。 Rく.づiIHJP柏柏︰ye2.dd11i m.1マ各Pnd一1P召註it箋巨岩弓与sm乳\
pr芸‡;首jぎ籍tiret呂ミ、
︵アーデイトヤよ、我等は箕に死を免れざる人間なら。我等の寺を長からしめよ︹我等 が長く︺生き得んが虐に。︶ブルーテグスとクルアシーとのあはれにも美しい封話は次の
H.器.︼00︰itit召l d宅診imp臣u:意こ皇−em eすd bl一等乳 m寺島巳1d11与\
pr告訂de忌n︼一Pま甘y昏ti笥弓gP三ノ、書風2.d鳥獣ヾ\
︵之等の紳は汝にかく云ふ、汝は未だ死を免れぎる着なり。jダーの子よ︵1−ブルーラ ブこ、汝の子孫をして祭具を以って紳々を祭らしめよ。汝も亦天界に於て草葉するを
払留舛.P∽.ヲ夢ヨ号一rde喜を弓it−itt一喜eく≡弓1:n書乳㌢rI芦・b︼−邑雪盲. 得む。︶ブルーテグスも天女との撥一ぎ遂げる焉には先づ肉身を棄てねばならぬ。
梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂親
高きも崩しきも、富めるも貧しきも竺様に死を同邁する事ほ出水ぢい。
禦倶吠柁に於ける﹁死不可避L叔諷ど二訂m昔Pb−奇b−−⋮嘗き訂l喜=1琶p芳言P許岩⋮−12賢r怠mrぎ藍、 ●
y賢くptヨm旨mbb曹≡邑風蔓pま宣yp賢r忠臣号藍yOJ与藍き書
く帥k弓m名節岩戸︵死は赫々に云へ㌔かくの如くしてはあらゆる人間は不死となるべし、然らば何物
か七が檻曹たるべしやと。赫々は云へり、爾後何人も肉身を具して不死たるペからす。
汝これを︵肉身︶汝の配管として取る時、或は知識によう或は洋行により不死たら得る 者はその肉身を素腹して不死となるペしと。︶参照TS・≠−・≡︰苫邑邑m曹b邑1弓PS艮官−苫p聖書⋮p弓音声
房・Ⅰ・P.PA︰m昔亡S已β苫ニ喜一︼叫P苫ニOk旨 ︵ヤ†は死を免れざる着金てに対してま宰樺を確保す。︶ 一 ︵何となればこの世界は死に緊縛せられたるに似たり。︶㌢苛nb呂旨声に対して軸は岩音b邑huである。
Rく・舛・声ひ已︰昏≡e忌21ヱ督−−Pムー1象岩音邑う与︵彼女︵=Adl−着後
二
に苫群にして不死性なる郁々生せ㌔︶ 一三 クJ∫アク〝ヴ・デューダ、ヤデュル・デューク、ブラーフマナに於ては、リグ・ブェーダに於けるよりも
多く生死の問膚に観れてゐるが、容想的要素を多分に食み、論理的兢﹁を軟いてゐる。生死の問
題に直面し、徹底的な詔故に向つて邁進したのはク.ごシャドに於てでぁる。然しこれ等の各
▲ ヽ一四
● 梨倶吠陀にぬけキ死不可避L観 宅・舛・−−↓・−pbn≡⋮、d毛息二童乙訂巨idノ已h己rd・du⋮監i官1pp牒邑喜・ti日章⋮ご ︵赫々は儀のみを以って人を殺すものにあらす。食足れる者にも亦諸々一の死は近づ⊥ 俄は死の一因である、許H.≡.−︰llをe︼−p河芸−夢見r中堅こ︼−古壷l芦iく臣巨首さE鼠dP瞥巨lypy抑嘗臣y糾Fim号u宍賓に太初に於てほこ∼に何物もありぎりき。宇宙は
死によつて蔽ほれた歩、即俄によつて。何となれば死は俄なればな♭。︶死は多様である アグルヴ・デュークは盲愛種の死︵1−−号雪pekp腎ぎー且を殻く。聖書m㌢ldゴ1eAt−1革卓・く乱⋮已tFeG。p巨岩邑l巨牒pp・声参照。
人力により神意に反して死を回避する事は出水ない。 R<∵舛・㌶・¢=lpdeY阿冒.2註∃pt蟹日雀訂ぎ副書lエ号註\ ︷已訂y且脚≦.さ.薫訂\\ こ−ろ▲ヾ︼も ︵たとヘ音のいのちあトとも前の意に反きて生くる能は㌢かくて彼は︵我はこ侶件 と別れたり。︶ 21月典について詳論するのは本文の範囲を起ゑる事に誉。それよhソ‘b、夏至若に生者必滅の
警サンスクリッ品有尊琵毒法によつて謳つ雷の︰㌫貰憂いから、思ひつくま∼に教
例を奉げて見る。
これについて想起するのはぎd音n⋮t旦h㌢⋮=︵c=㌢三書名どtdCk邑正
吉−−etm−d睾redO乱2nrぎ阜訂iden−⋮、p・−↓︶である。 喜一⋮芦i.−日昌−−讐苫dllruく昌琶p琶iti喜nI蔓●首−−ご与・苫喜㌢−1:左cdい ● をー昌監督どmbI敦賀臣民臼−巴eくPg邑−註\t岩鼻・首m眉を巨軋ぎ⋮書p阜邑12邑ぎサミt㌘
︵賓去れ宮人間の死は必然なりと知るべし。生者に射して喜ぶ勿れ、叉死者に封して悲む
t畠E巴芦−室己1賢箋、旨e−1︰室F㌢citum︰邑−鼓ミ
j盲導こ−ニFruくC⋮号1rd−−r−1三三呂m⋮暮雪Cミ
匡藁葺ld乳釘I1.彗︰︵何去れば生者の死は必然な♭、死者の生も亦必警わ。故に汝は同讐べからぎる事妄
して悲むペからす。︶=l賢壱乱・旨乱⋮・監∴に︵≡已−r⋮の付りにー一言︶誉−阜
tぎーied■ゴ旨慧⊆−甥戸山堕呂−︹Ⅰ︰く宮家m苫巨声寧梨倶吠陀に於けそ死不可避﹂観
﹁ βJ3一大 梨倶吠陀に於ける﹁死不可蓮﹂観
勿れ。生物は忽然として凍り、勿然として去る。故に貴君は生者と死者とを達観す。︶
C已呂d Die已七山nd・T乱打11・und出金t邑21笥g各r賢0訂p・︼可サーひ参照。 宣已−馴b︼−宅.p訂H・G−怠︵宮11t︼i−1gk H−乙・S勺1彗230︶︰ Pく臥31㌢−1id−−21P酔夢rさir g巴−t雪盲m i−12︼一罫−を与\ 弓p甘芦b︼一号i−−y弓t訂≦i琶富官ne︼−pま︷︼y邑の\\ 芦rく邑こハ叫ぎilまー︼副審−−t2㌻j封t尾篭ヨ弓眉己i−d一≡一書一一1\ ︵人骨この世に於て死すべきは必然な♭。必然の事に対して悲嘆する事なし。︶ ブ↓已l旨−1●舛lく︼諾−︵冒︼1tl・〇p・註・当〇・G¢〓︶︰ p腎腎pどil〓︼Okeぎーil−夢d掛邑一ぎar息邑g§一弓一\\ ︵すべて作られしものは蓬に破壊され、生れし老の死は必然ぢり。この世に於ては、動物も 不動物も決して永存せす。︶ ≡已一抑b︼−・舛Ⅰく・念−e訂・−Rぎ羊.乱・謬−各﹂l・只事∵岩︼乙・〇享・・H・ご・−・ごっtっ・︵要一−こ●〇マCF 当○●雷畠︶竜呂tr斧−一・ed・Her邑︼宍道HI﹂彗︵=ⅠIOp=乙・Ⅰ︻・−雲︶﹂ハ墓−賢H●柑○乙当已こ 夢コd︼ハ瑚童ぎ試−1ie2苫すpp訂n釧n試す笹muee︼一r芦葛サ\ 箪㌢でg帥まp空でgぎ罫ヨ罵昔鉾.nt2巨つ2一号ぎm\\ ヽ 鼠は死は不可避と悟っても悲しいのは人情でぁる。
﹁畢びの容儀き人︵訂tr告阜︶、苦行の徳の虞き人、もの背紋とたのむ人、行浮く思慮深く、厭 はす授け導く人︵p弓Op許腎2i−・邑す︶一世の師表、稀有の英傑の、齢もなんぞかくは点き、あヽ愚 しの造物まよ。︵dF賢廿粁ilF巨富誌.tく葛餅g旨字音打与ぎt邑rg1−号l嘗廿︶﹂崇︼1戸H−乙・S−責●競訂・ G・〓・l⋮参照寧邑ユ1罵iヨti瞥邑訂ed・PEc−−字●悪−乙●宕−巳−gぎ一声 ﹁ほかならぬこの君のみの逝くなれば、︵y己it登箋i≦巳≡琶日b−1雪e≡−呂l y詮ypk薫きiこ わが高なきを人なとがめそL。︵uce㌢裟r昌dぎ1㌣yukt昌m已−葛.弓ib訂云∵巨岩阜嵩藍墓●○−︶●賢 . ︵﹁常老骨亜、高者亦堕、合食有離、生者有死。L法朝露︶塵照已d巨.弓≒gped●tib●芦田岳kl︼ ︸・持タロく甘ペニY彗こ書こ票Ⅵ試已一ぎIlI・p・−琵こぶ字鼓七Pk・ed・H已・dy l︶・−芦 l±ぎp乙払ped・冒すぎー・iく・ヨー已・哲︼計gd Iく●㌶︰ 筆i−y&C︼1⋮乞y兵還声望i−乳e蔓己賢ub−−羊5≡ヒ\2−邑kr・己1息ヽ届ylこ≡こu芦2苫○ニく鼻声m昌−ミ
︵機意生者必滅、合着常離︶併催敢文革中から諸行無常に関する章句を奉げれば殆んど際限がない。
梨倶吠陀に於けろ﹁死不可避r載 βJβ梨倶吠陀に於ける﹁死不可避﹂叔 甥〇.父ご戸 田Ptヨ到Y已・GO−r●ⅠⅠ●∞P︼00︰ ざをrudP︷鼠つPぎyP已−−抑m⋮一意与づl一n与\ 琴丘首et等号n与k乳敢己出⋮畏ぎ籍m≡讐呈苫\\ ︵瀧つ瀬と流す涙のかひしぁれば、零をかぎ♭に焚かざらめやも。︶ 追記、先生な追悼了0に芹の感想文わ以つて†ろー‡余の本意にわらす、恰竺文を操つて京樽の誠を致†ヾ壷、期日切迫 Lて意な鼓さざる所草し、梵文の邦謀−‡たゞ通譲な易がら・しめんが秀のみ、故に慨常に原文み並詑ぜり。吠陀語わア クセントは印刷上の困難一で慮りて之み省けり。 英館英くぼ堰けよ。 ︵昭和五・六・二〇記︶ βJβ
妨 崎
正 治
無常迅速とはいひながら、木村奉賛君が優に先って逝かれるとは、
こちらが先に死んで、その記念か何かで水村君が痛快な評論をしてくれるだらう、中には下手の
梼好の婿棟には憎まされた位の事も交へてくれると考へてゐた。をれに、こちらが生き残って、
木村君の死後にその追懐を述べるとは、如何にしても存外であるが、今はそれが事斉である。
此の追懐には、敢て木村看の徳を讃へる秀でなく、又その批評をするのでもない。現に君の死
に先つ二日前にも談論して、その研究問題について考を交換Lてゐた事、中葉木村君について考
へてゐた事を中越ペで見やう。それについて一つお断り又お詫をする事がぁる。先月徳井寺†の
葬儀に、小野塚組長の弔鮮を代讃した場合、式場に行ってから、その文章を読むで見ると、文中
に﹁君資性温厚﹂云々とあつたが、どうも木村君を形容するに不適曹だと考へた、木村君自らがそ
れを開いたら失笑する事と思ひ、その場で﹁剛毅潤蓮﹂と換へて葡むだ。組長の旨を矯めるにも曹
るかとは思ったが、どうしても﹁資性漁厚﹂とは云へへ与かったので、此の如く諦みかへ、而して後
木村泰賢君の追懐木村泰賢者の追懐
βノアに組長に事後承諾を求めた女第である。
木村君の性質が潤蓮でぁつた通♭、をの思想は明快、而してそれにしつかbした拳闘的素養を
鼻へ、研究と思想と共に、いかにも潤連無碍であつた。木村君は畢着で又思想家であつた。
単著としての研究の成績については、今一々之を列塞するには及ばないが、材料を集めるにも、
常に限界の弘く、着眼の明敏なるものがあつた。而してその材料や論鮎を纏めては、之を思想で
陶冶し整理するに、如何にも明快であつた事は、その言論のきぴ/\した句調に能く現れてゐた。此の如くにして整へた思想を又現寮生活と聯給して、畢問を活かして行くといふ鮎に於ては、そ
の潤蓮の性格と、明敏の判断が、如何にも活きくしてゐた、此の如き意味で、君は思想家でゐ
︰つた。
此の如き性格、此の如き思想は、君の所謂る新大乗運動の意味であらカであつた。然らばその
思想生活が具にその人の生命と打アり血と打了り、文政曾の活運動に携はつたかといへば、そこには
まだ距離があつた。君は思想家ではぁつたが、まだ宗教家又は貰行家ではなかった。
燭♭距離があつたゞけでなく、恐らく此の如き意味での眞の宗教家、大乗梼紳の行者になる性
格は君の長虞ではなかったかと思ふ。即ち君の性格が信仰の熱に富むだとは云ひ難い方面があつ
たと思ふ。熱情が映乏したといふのではないが、その熱は寧ろ研究に注がれ又思想の整理に注が
( 大村泰賢者の追懐 2J∂妙有の憧れはあつた、然しその前程としての眞室の稀切へ仏健駿があつたとは見えない。﹁新大乗
運動﹂にはその開租の資格を述べてあるが、それは思想としての要素がまで、それに要する性格
や修養紫紺といふ要素は奉げてない。新大索道勒の開祖導師といふ理想が念頭に努発としたこせ
があるかも知れねが、あつてもそれはブラトニックのものであつたと思へる。
君は一生の結論は結ばす王立ったが、.然しその生命が十年二十年延びても君の針路は在凍と大もた座勒なしに進むだかと思へる。暇命ひ又君が長生して終に新大乗運動の行者となり待たとし
ても、それは今考へても詮なき畢で、君の現賓の一生は五十年で終を告げたのであるから今まで
一
の一生の人として君を同風すれば、君はやはり畢着であり思想家であつたのである。
革老としての木村君ほ賓に地盤の弘く且つしっかゎした人で、六涯哲塾から原始沸教、それか
ら部涯彿故に歩を進めて凍た態度は賓に着々歩趨を踏みしめて進むだ賽山家の趣がある。而して
思想家としての限界は一歩一歩高きに登ると共に限界が澗く㍗アり、脚下の瞼難はその鰯に忘れら
れ、金々男を鼓して高きに登った慨があつた。然し脚元についての注意は又益々密になつて、そ
の最後に徒事しっ∼あつた部派偶数の研究は賓に千年の剃錬を拓く心祷で進むでゐたらしい。今
しlT一 ヽ ’J Oれた。もつと長生したらそれが質行に進むだや否や疑問を残して︵恐らく自分自らにとつて︶逝
水村♯贅君の追懐 2Jク東棟蕃茨君今池愴
二二
ざでりの彿政孝牙が単に小義甘しで放してゐた部派彿数の研究㌔君にとつては畢に小薬でなく、
︸1 火薬だ蕃・預備でみ軋.Y又滑撞ぬ皆済であつた庁しい.。虚空琴曲で珊叶は、等考望ハ狩哲塔研究は賓に馬返であづた。とれから森の中にも分け入り、岩
舟悸較ぷサゝが′隼?ゝ■部涯彿致の東食首に埠㌢?ゝあ・つた、商して君の限界は既に入合日の大乗 に進みづ∼あつ・たラ暇命竺﹁堂の巾に等螢臥剣峯には連せすとも、八合口∵までは足を踏ませたか ったd 然し君吋洛南に.は十登仙家の喪物とする階上を撃け見で、それに気の急ぐといふ危険一で持した の.や筏がふうかへ、十葦は漸騰抄明敏なのに乗じで研究に.も思想にも、常に前途を見透しすぎて、時にぽ妙掛埜獲め過、貢の・でなか.らラか・。争の鰯に身心共に除りに之を使ひすぎたのでなからうか
。
身俄も塊失禁芸た率誓を−の襲㌢を頼む心が常に、不幸の死を招いだのでないかと暗まれる。
錦七、汁者の畢閃、ど懸想と璧衰竺鹿渡で絡&もの至サい。感承埼むあれば、又購禿の螢連も
珪期.し得告・部派係数か射落軒で大東の阻展があつた様に、木村琴の新大乗も亦、つゞぐ生命が あ寧lj:邁鱒撃い!与 220ー
この二三年凍、傭徽畢界の大文物一ヤ失ふ事、賓に多い中に於て、更に君を失ったのは、繰返し
繰返上浦惜裳悼の金工堪へぬ。知るも、知ちぬ鳶痛惜し哀悼せぬは無いが、分けても同じく印
度菅単調々簡任王寺居る自分は、.何ともいへ垂鹿愁の備に鍋され、/その週間の如きは、出校はしたものゝ、到底政柄に立っ挙が出水なんだ。白身砂啓に封する過憶は、葬儀の常田、印度哲畢科
一で代来して十君の霞前に捧げた一片の兼併に、その翰廓を揃いてぁるから、先づ之を奉げて、そ
の後に業積の一端に梱れて見たい。
君は印度哲皐界に於骨る一大悪鬼なぇ数十里に且る光管見中天に遺しっ㌔突如として教壇十九年行年五十
顔の一座有終へたりっ敢て長しといふべかちす.、而もその業績に於て制日せしむぺきもの、頗多し。大森経を 綴任し∵六振哲轟の廟究を大成して・∵往々泰西摩界の上に出でたる▲、原始彿俄に射し、滴らしき形式lと内容とを典へて、現代堕罪の朋味七喚起せる∵借謬以東痛んど高閣に束ねられたりともいふぺき阿見澤磨沸教に新生
命を輿へたる、.斯倖第一人者の稀あ.カ。 放水村救援ら績戌カ改元.村教授の構成力
常 盤 大 足
ββJ放水村数授¢払成カ
りニ四
ガの長併は、乱麻の如き教義を整理して.之に清新なる鰹系を奥ふる組織力にあ少。而して之を委表するに一明噺にして情味洗き筆致を以てし、意到り筆随へり。
君は意見ある拳者にして、筆力に加ふるに梯カを以てし、智カに加ふるに情熱を以てし・倍熱のある節男束珪
り.男気の逆る肝単に啓訝の人たるを得す、絶えず思想界の趨勢に留意して時に街頭に立って獅子吼せり。 阿厄の閏に身を起せる君は.先輩に厚く.森に後輩に勤して、畢術の指導を頒す外に、所謂かゆき肝に事の届く同情あり。斯くて君の周囲常に人あ少、君の左右常に事あり。君の最も悲しめるは、時間の乏しきにあり。
君は昨年薮く眼を病みつ.1ありし際、其々たる悪性と、最愛の長子とを・同月同日同時に失へり。この人蛮の 老病死に直面しっ1、婆婆論の国謬に奮闘せる君は、此時既に九腸寸断せしならん。しの忙はしく−この悲し むべく、而も長からざる一生に於ける君の眞室妙有的活動は.一として解脱への道ならざるはなし。唯惜しむべきは、常にロにせる組織彿教拳に謝して、遂に指を染むるの飴年なかりし事なりっ
畢界の鰯に痛惜何ぞ域へん。蕪酢を陳して、故木村奉賛君の墨に告ぐ。
〓
最近種々の苦に直面した君は、之を解脱せんが食に、到底他の想像し得られぬ程の内的経験を
積んで居られたに相違ない.。而も之が鰯に、その固満なる人格は、轟々磨かれ、情調の上に一層
の潤ひを帯ぶるに至り、次第に宗教的色彩一で濃厚ハサらしむる楼にな㌔普通の人には、或は君自
身にすらも、卒常の君であつたら、迷信として顧みぎるべき簿項の車にも、宗教的な深き根底あ
る串を味ふ様にまでなつた。最後の業鮨といふべき﹁本願思想の開展﹂打了る論文は、君の最近の思
エラ念想傾向を知らしむる屈強の資料であ・り、且つ中生ロにせる組織偶数畢の一断片とも見る事が出凍
るものでぁる。元水本願ぢるものは、賓に菩薩偶数の基調を点す重要性を帯ぶるもので、特殊の
菩薩に特殊の本願があら、その中に活きた大乗柿紳が充溢して居ると共に、本願の種々相に、他
経との関係や、その成立の時代や、政令理想・ぞ彷彿せしむるものがある。これに着脱した君は、
一方には駿連史的見地に立って、大乗沸教理想に一種の系統を輿へ、他方にはその温穂的文化的
意鶉を費揮するに力め、頗る抽の廃った労作である。これ、君の組織力と拳凰と・ピ代表せしむペ
き屈強の論文で、そのヰに見ちれる自信と雄梓と情熱とは、賓に畢界の甚大な輿眈を喚起した。
君が自任してあ㍗りし沸教一ぞ現代に活かす一事は、この一袋だけでも頗るその任務一ピ鼓したものと
言はねばならぬ。その畢界に昇へた刺激は、必す長く結くであらうから、これを止揚すべき研究
が出凍るであらう。而して之を止揚すべき作物が出凍れば、君は必ず地下に破顔するに相違ない。
君は元水準界の凍振トを似て自任して居た。云々の方向へドン′く開拓の歩を進めて、千載荒蕪
の土地を、大マカに掘りかへして行く。勿論自分でも、其中に種々の政情があら、補正を加ふペ
き鮎の多々一のる串は認めて居る。然し大館の構造に於ては、大なる自信があつた。君の性質は、
君の開拓した跡を、そのま∼に追随するだけでは、一時は満足しても、結局は満足せぬだらう。
その中にあろ妖艶を指摘し、不十分を精錬して、二盾の農はしいものに作卜上げる時に、君は始
故木材教授の構成力 β凰ヲこ竺柴は、暫畢界の東洋アーベントに於て講演せるものを、更に一段の研磨を加へ亨、
公論﹂に教表したものでぁる。東洋アーベントには、自分も出席し三人であるが、古き経典に
.・1薪らしい壁命を輿へた鮎に於て、他の心を動かした。然し率直に大僅から冨ふと、本願の取扱に
於て、昏初より三相の憬定があると言ひ.たい。第一は、本願の数は次第に六の.倍数を以て準鳶†ものであるといふ暇定である。撃一は、般若系と往生系とが互に競って加上したといふ侶定があこ
る。第三は、是等兢寧加上と見らる∼一群々正系として、これに洩rLたものを傍系とする椴定で
ある。つま㌔この論文の組織は、是等三偶の仮定の上に生かれたものでぁるから、この僻定がモ■
許さるゝ時は、畢界の承認を待や㌻が、然しいづれも重大な問塩でぁるから、之を許容せ犯人に
は、疑問醇出のものとなるを免れない。概評すると、この論文ほ、先つ一個の企麟々妾出して、
こり金岡の下に材料■ぎ蒐集したのである。活き′1したカぁる構造を焉せろ鮎に於ては、何人の
追随・でも許さぬ朗で、君の行き方は、所謂六紅を註辞去号三方法であ一〇。たしかに有力㍍二の行
う方で、興味と問題とを輿へた鮎に於ては、無上の好果を奉げたと言ってよい。然し之を畢的の
の輿へた問題に、多少礪れて見るのは、此際君に対する追憶に相應すると恩ふ。
三
二六 故木村軟投の構成力めてよき後扱者を得たと考ふるに初速ない。奥療と問庖とを輿ふるのが、君の長所であつた1君
だ4むのどするにづきては.、、滑規多む精練を要しはす皇い、か、と息ふ。
本悪感若隼㌣苛酷馨しだ与いぶ鮎に琴しば、、−恐らぐは何人も異論ほみ訂よい?首藤か敷金
隠本生ぼ於や熟し■佗串を遥握芯唱導しっ.ゝゝ威る乱分璧耳殊に本生の著眼に敬意を鼓する。本生よ髄犬琴へ政特同に、、し疲暮思想喧叙訪左ペからざ古事打、∵今夏に之を首ふの要がない。然し﹁般
若㌧¢生に於も誉堅ガ温点だ↓示品㌧教場で薫初の打の・どす今のは、研究の除地があ告又、﹁小
\
口旗廣ハ品皇室扮前後はヾ容易に淡せ・られ近称鬼平み年か=ら、哀願の故によつて、一些町疑問な くへ・ぷ厨犬後と噺貰すむ評にも行ぐ牽い空軍にべ般若﹂r−ご附する二単打けでむ、既に例題がある。呪府管舷現象ど桂生来どの垂線噺徽取乱像何題や↓澄粟㌧膠撃との陥係問題や、﹁文殊﹂と﹁斐
師し㌧どみ究球肝退聖璧元﹁蒜・以上−畔併発歓要す彗﹁踏襲い亡ば十二願がみ㌔﹁勝塵﹂には、十願が夢軒誓文殊揖豆もヤ嘩が疎炉ヰ艶師㌧、に配せい巌が李α。﹁勝貞﹂の十大厩には、六の倍数な
ら好鮎汀於てヾまた﹁犬晶竺二十願の後頓る.ペ.阜郡−に於で、土重町疑問がみ\臥楼に1文殊﹂の十廊曙﹁無巷等し■の四十八腐の後往′肇ペを斯け放で、女六町虐政なら氾鮎に於て二壷の疑問が
起る・ヱJれを傍系どア薮蕃輿肝附けで仕舞ふのでば、′轟的降潜むしで落ち付かない。威風軽旨貸い、でご・一七で願中斗㌔特に士義教別恥じ、浄土の荘偉から十八願を見たのは
よ扁おして▼も∵之七般若系に尽せしむを啓由が升らぬ。∴J′の阻は、1無量書取﹂や﹁文殊浄土攣や 放水村数疫の線条 ク2ご放水村教授の績鹿力
▲ヽ J二八
﹁染師経﹂と共に、蓋、往生系に威せしむるが至曹であらう。之を特に般若系としたのは、1年等螢撃の二十四願を以て、之に加上したものと鬼んとした斯から凍たものに外ならぬ。
また﹁軸足毒痙﹂の岡本典繹の中に於て三十六願が必要な焉に、彼の時代の評を古き形とし、又
四十八願を最後とせんが焉に、肯き繹を始外患想とする上にも、触⋮理が見られる。二十阿、三十
六、四十人は、岡本異渾の開合の相違である。是等の中に、般若系との間の折衝から死去加上の
企囲がぁろと見るは如何であらう。その計書的陶集に入らぬ研から、唐謬三十六願につきては、
﹁本廟の欺及その性贋からして、疑もなく四十八願設の前に成立した原典が、長く保存されて、
偶々漢辞さるゝの運命.逢ふたものに相違がない﹂といひ、梵文無量寄経の四十六原につきては、﹁編輯者は、三十六厨 ㌻から四十八厳に進むる途中に、従妹の慣例的約束藍心れて、四十六
歎で満足した結果でぁるまいか﹂と言って居る。ヌ、﹁文殊師利伸土俵津軽﹂と、1薬師経﹂とについていへば、﹁薬師経﹂一ざ以て﹁阿閻経﹂を改造したものと見るのでぁるから、これは先づ一應の
説明がついたとしてヰ﹁文殊経﹂に至っては困る。この経の中にほ、その潜幸品珊陀彿割に封
比して居るから、曹然﹁無慮毒痙﹂の廿四顧乃至四十八願を預想するものとせねばならぬ。
君の傍系託の起るのは、これによるのである。君の正系なるものは、蓋、般若の六願、三十廟、
無量毒の二十四原、何十八願を根幹として、是等の中に六の倍数加上一宮妾出したのでぁらう。こ
ヱガ組織は困凝である。映陥を指摘するは容易であTる。以上の如くに言へばとて、自分は、この・論
文の侶僅に盲目なものでは無い。
四
この論文に於ける長所は、本願を以て浄土建設の園集とし、本願思想の開展は、要するに理想
的国家観の螢逮に外ならぬと見て、詩経に於ける本願の意義を開拓して、これを賓生層に即せし
めた、造億的文化的宗教的意義の上にぁる。申明にして蛮術塊を含んだ筆敦により、諸鐙の本願
捏アりの困難な問題を倖ふと言は
の前後を判断する標準とし、ヌ、般若系を往生系の折衝によつて屠々加上したものと見る事は可
ば、是等詩経は、恐らくは左の如き順序・で以て開展したものでぁらうから、本願の教を以て、そ
由が分らぬ。本願加上詭は、文殊の一握だけに於ても、撰かざるを待ぬ。自分の見所を似てすれ
たのでぁる。捏盤や勝星は、傍系の中に属せし空しも可いだらうが、文殊を往生系以外とする理
れによつて﹁略ば同じ思潮に属する諸霹典﹂と制限を附して、之孟系とし、他を悉く傍系とし膠
放水村数按の嬢成カ 1阿閑 0 6 31小品 大品− −i−!
2RU l l 486 q] 4 ウリ放水村数按の構成力 ▲ \ 三〇 を縦横に解剖して凍って、或はオルデンベルグ教授を引き、・或はラーマーヌジャ派の二派を引き、
或は大日加水中心の大慶茶席に開設し、或は絶封他力敦に開展すべき理由に説き至り、さては又
阿育王の法王思想から、我が聖武帝の法界稼超的政道軌に論及し、而もまた人種平等や、階級撤
靡やより、交通設備、下水設備にまで舌及するといふ様に、到れり亜せりの脂力筆力の活躍は、
賓に君の書斎と術萌とを億ぬるの長所を示して居る。彼が如き羅列的本願を、斯くまでに現代化
し得る手腕は、他に求め得られない。こ∼に君の猶撞の舞婁があγり、こ∼に畢徒の驚喜がある。 ′ 君が始終口にする眞容妙有は、翠なる峯理容諭で無くして、この本願中に見らる∼如き最高の浄土ぉこの世に建設したい希望を吐露したものと見る挙が出奔る。即ち眞容妙有の好模本を、本願
思想に見出し、これを横線として、自分の渾偶因土の理想を語ったものである。この論文は、君
の博畢を語るが、その博畢は所謂天の博畢でなくて、悉く地に接しての博畢であつて、正に君の
活きた単著としての結論と見得るまでの成培をあらはして居る。論文の終りに、何程か通俗化し
た旨を断はつて居るが、そは謙遜の意味をもこめて居るのでぁつて、君はこれに対して頗る誇り
を威じ、其後文化的解辞の誼を能く繰り返したのであつた。如何に本願を現代化するに注意した
かの一端を、今更ながらこ∼に一言観れて見る。先つその道徳的意義を陶揚せる中に於ては、本
願中に現はれた浄土に、道徳的秩序の完備を見るとて、これについ
βガ.
射する注文を、本願に託して語ったものに外ならぬと考へ直すに至って、その中に妙味を掬すろ
した時には、頗る突飛と恩はれ、蔑分か滑稽をも戚じた事であつたが、然しこれは君が賓敢曾に
便なからしめんの願に、下水設備塞を見、五通の厳に通信機閲集を見るといふ状藤である。一見
に交通設備集を見、光明無量の厳に、燈火設備尭を見、八功徳水の厳に、上水設備集を見、大小
思想統一実を見るといふ行き方である。.又、文化的意義を牌揚せる中に於ては、地中や金地の願
厳に階叔撤廠塞を見、衣食住自然成就の厳に、経済不安除去妾を見、異端なからしめんの願に、
而して将士に於ける国民相互の関係l二ついては、悉皆金色の厳に人種平等集を見、天人喪差別の
的道徳的交渉あ云三とを見、ヌ、一々の浄土に王名排斥の上の法王政治になつて居ることを見、
様になつたのである。君の意ぺ要するに、﹁現賓生活に射する理想を投影したのが、渾土の思想
でぁるから、之を再び現賓生活に戻して、之を解辞するの必要が一のると同時に、更に進んでその
賓現化に努力すべきは、本願を信するもの∼義務である﹂といふにある。その宗数的意義を間揚せる中に於て、他力宗教のラーマーヌジャ振の中から開けた猿仔︷猫仔
の二派を奉げて、之を一般的浄土教と、絶封他力敦とに封比し、而して無量書経の第十人願の唯
除五逆誹訝正法の文句に関して、至心懐悔によつてこれを通過すべしとするも、俄悔に精進する
の要がある。俄悔の必要なしとするも、本願を素直に信愛するを必要とするとて、飽くまで絶対
放水村数按の構成力 動沙三二 放水村教授の構成力
無催件の救済が本願の主意でない事をま張して居るが、本願の岱伍が他力的にある事を強調して
居る所に、君の最近の心境が自然に語られて居る様に思ふ。又、俳改革的立場車間揚せる中に於
ては、本願の趣旨は一乗にあγり、従って浄土の衆生は悉く菩薩たるべきを締過とするとて、こ∼に上求と下化との関係に於て二種の回向を持ち出し、最後に不住軽重を以て本願の結論とすべき
︼
に推し進めて居る。君の没我的修養後に凍る賓生活は、恐らくは﹁悲華経﹂の四法怠堕にあらゃ
して、四法精進で、これが君の目標であつたらう。 五君の行き方の一は不要の材料を捨てるといふにあつた。捨てねば明快な組織が得られぬからで
ある。捨てゝ捨て∼、最後に残した資料を、妾出したる横国の上に鮎綴するから、その資料が斬
らしい味とカとを得て、賓に光彩を放つ。こ∼に古き偶数が斬らしく行アり、現代化して凍ろ。君の得意の舞婁は、こ∼にある。開拓の功績は、君の専有であつた。忌惇なく言へば、君の論文殊
に﹁本願思想の開展﹂は、車術昧の溢る∼ものであつて、論理的のもので無い。理論的に組み立
てられた形式を取って居るが、内容は東洋痍の猛るゝ宗教的塾術的作品であるL三吉ひたい。この
中に盛られた票数炊が大に畢徒をひきつけたので一のる。之一ぞ解剖する時は、疑問百出するが、斯 の如き萎縮的作品は、解剖せすして、このま∼として昧ふ所に、力強いものを威受するのでぁるっ まヲり金 倉 固 席
末村博士の数あ畠挙動中﹁六況哲畢﹂が其の王座の一を占有すると世人に認められてゐること
は、博士の功績を讃嘆し化多数の弔新中、特に歎阿該菩が呼耕せられたことからも明でぁる。逆
算すれば此の書の初版は十五年前に剖夙に付せられてゐるから、備に今日此の中に幾何の不満を
我々が螢見しても、必しも直に博士の功業に職瑳を輿ふるものとは速断し得ない。否寧ろ其の不
満足が畢術の進歩に立脚する際には、該著が種々の粘から此の進歩を刺戟した事に鑑みて、却っ
て之に歴史的な意義すらも附興するであらう。殊に此の書が印度哲畢に閲し、畢界及び廉く世間
を啓蒙した功伐は、柄として看過し得ない。此の瓢我が印度暫畢研究史上に於て、該書が既に古
典の位置を占むると焉すも、敢て溢英之言では無いと信する。
さて﹁六況﹂の彗一口にも断られし如く、博士の備緻の一は﹁達意的に講究する﹂にあられしが
如くである。其の鰯には無論﹁出水得る限り内外畢者の研究の成横を塵照﹂せられたであらうが
﹁本書はもと著者が大串院在畢中の致究の結果を整理Lせられた物に他ならないから、自ら﹁幾
大村博士ヾJ耶首実薪木村博士と耶舌芙須
ク3J三四
木村博士亡耶古美音
多の映鮎あるペし﹂とせられし革も、必しも儀虐的な謙譲の訴のみでは無かったであらう。惟ふ
に六涯哲畢を概観するが如きは、印度暫畢に没頭せる畢匠が凡そ畢生研鐙の成果として世に問ふ
性質の著述では無いか。各派が一千年乃至二千年に近い畢事史を有し、唯だ其の一派を攻究する
に年生を献ぐるも伺足らすと考へられる各派を︹試にガルべ教授の教諭に於ける研究を思へ︺大
串卒業後数年間に全部研尋し、一著作として判別するが如きは一種の畢術的冒険といふ可きであ
らう。従って其の中に幾多の破綻を生することも自明の理である。言ふ迄も無く、それは単に研
究者り組織的頭脳に左右せられる問題では無く、組織以前に隷想せられる資料研審上の時間的制
約を曹然安く可き性質の研究であるからである。然も木村博士が斯くの如き困難を敢然排除し、
対質料観上単著の本質哲も問はる可き冒険を突破し、良く﹁六涯哲畢﹂を大成せられし男気は、
博士の如き天才を待って始て可能の事でなければならない。併し如是幾分の無理を推して此の書
を成されし事情を翻って考ふれば、それは又時代の要求であつたとも言はれ得る。﹁六派哲畢L以
前に出版せられた所謂外道哲畢の概観書としては、井上㈲了博士の﹁外道哲畢﹂︵明治井年︶や、翌年印度宗教史の一部分として論及出版せられた柿崎博士の﹁印度宗教史考﹂等が軟へられるで
ぁらうが、之等の著書に比して凡二十年以後に至る期畢研究の概状を一般に侍ふる物として、博
士の1二鳩卓畢﹂ほ出色の大作であ♭、且っ其の出版は極めて時宜を得たる物と言ひ得る。昔時
β3β本書が洛陽の市僧を高からしめ博士自ら﹁意外の歓迎﹂に驚かれたことも、如是事情を考慮に入
れゝば曹然の結果であつたらう。斯く時代の要求を達観するに敏なられしことは博士の一時微で
良く時世に順應せられし患度は博士卒去の直前まで偲然と指摘し得る所である。
木村博士の宏業を侍ふるにほ他に多く邁皆の人がぁると思ふから、予は﹁六派哲畢﹂に開聯し
てボン大畢の耶舌英数授︵IHeコ毒ごこ邑bi︶と博士の関係を一言して追悼の意を表したい。耶窟
が康鰯な印度畢海に棉して、殆ど其の所有る部門に先駆者として活動し、基本的な業辟を残され
しことは、今日萬人の等しく訟軋る所である。倉は木村博士とは畢風も著しく異♭、︵例せば博士
が尋問の研究を費表せられるに蕾っても、伺﹁通俗書たる﹂ことを期せられしに反して、耶劣は
純然たる科単著の立場を守㌔未だ嘗て通俗書の如き物を殆ど︼部も出版してゐぢい。併し其の
研究部門が多岐に捗り、又多少意味は異るが互に先壌者として活躍せられし鮎に於て、両者に一
脈相通ずる物が存する。耶毅にほ蚤く﹁印度背畢に於る紳観念﹂︵明治十年哲寧日報第九黎所載︶
の論文がふ∵り、稜期の名著﹁印度人紳観念の者達﹂として結貫すべき胚種をなし、初期より哲単
に関して必しも無関心で無かったことを表してゐるが、始はまとして者邪教それに連関してアバ
ブワァムシア、更に梵文革、吠陀年代論等の研究を螢表して、畢界の耳目を聾勒した。恐らく斯
くの如き方面の畢者と皆時認められてゐたと言よことも一の理由と成って、我が印度膏畢の啓蒙
木村博士ミ耶育英寮 β33木村博士ミ耶首天爵
三六
期に於て、耶窟は殆ど顧慮せられてゐない。試に木村博士の﹁六派哲畢﹂を播閲すると、若し予
の見落しが無ければ、耶裔の名は教諭を諭せられる下に一、二同︵一四七、一七四頁︶引照せら
ヽヽヽ れてゐるに止る。然もそれは論及の燈裁から見て恐らく所謂孫引きであアり、又各項目の終に附せ
られた引用書の﹁証﹂記には、一同も耶易の名を蓉見し待ない。翻って耶倉が印度膏畢の研究に
断然一新時期を劃せしめた米国東洋協骨雑誌所載の﹁暫畢経典の年代﹂諭の出版時日を勘へると
それは明治四十三年である。耶窟の斯論は固よ♭今日では修正せらる可き諸斯を合んでゐるが、
従来単なる想像的立論に止ってゐた所謂六顕哲畢の経典成立に騙し、如何に之を科挙的に根接つ
くべきかに就いて、一の方向指示を奥へた極めて重大な業蹟である。其の重要性は、蕩の論文費
表以後六仮の経典乃至畢派の成立に関して論及する老は、賛否の如何に係らす、一度は此の研究
に触れざるを得ぎる程であ♭、又革質誰もが必す之に開設し、之を出費鮎として論じてゐる。然
るに今木村博士の﹁六派哲畢﹂の出版を見ると、耶窟の斯論費表に遅れること五ケ年なるにも園
はらす、其の中に於て一箇所も之に論じ及ばれ無かったことは、讃者をして頗る奇異の戚を生せ
しめすには措かない。之は塁に塞げた理由の外に、我が印度畢の黎明期が其の組織の範例を、ま
として狗逸仙の﹁一般哲畢史﹂や馬易の研究、特に今の場合その﹁六派暫畢﹂に求めた眉でもあ
らう叉木村博士の性格が其の畢夙に反映し、大綱を掴むに急にして、細則を捨て、腐られ無かつ
ク∂きた鰯でもめらう。之は博士論断の資料に大倍須要な畢行本は網羅せられてゐても、定期刊行物等
に螢表せられた重要な文献が多く逸せられてゐることからも知られる、併し所論の内容は必しも
漫の大少に依て鼎の軽重を問はる可き性質の物では無いから、耶窟の該論文を看過せられし如き
一
は、今日から考へても僻多少の遺憾が残らないでは無い。予が特に斯く言ふ所以は﹁出凍得る限
り内外尊者の研究の成績を参照﹂せられし中に、若し米国案洋協令妹誌に五年前螢表せられてゐ
た印度学研究の此の蔽薯な紀念塔が見落されてゐなかったならば、博士の﹁六派哲畢﹂の少くと
も畢派経典の
へしめたであらうといふことである。
博士は其の畢蹟から推して見ると﹁六派哲畢﹂を一樽期として、以後は彿敦の研究に向はれし
ものゝ如くである。併し必しも﹁六派﹂を全く放棄せられたのでは無く、後に至っても﹁教諭派
に於旦二徳の意義﹂を宗教研究琴一故に螢表せられ、更に最近には﹁稔伽終に及ばせる偶数の彰
響﹂︵大正十五年十月﹁思想﹂特輯戟=昭和五年﹁宗致畢論集﹂︶を世に問はれた。後者は恐らく博士の六涯哲単に関する最後の研究で一のる。乃・で今此の諭を探って見ると、流石に此虞では上述耶蕩
の論文にも観れられ︵思想七七頁︶一大派哲畢﹂の足らざる所を禰はんと努めてゐられる。又﹁教諭−稔伽思想の原形を沸教より肯しと考へて、迄に偶数は直接稔伽紅からで無いとしても、少く
木村博士号耶音芙爵 235木村博士ミ耶古美音
′三八
もその先蕪思想から脱化したもので、稔伽経と沸教との間に類似鮎あるは、偶々右の澄明を提供
するものであるといふのは、近代に於る印度思想研究家の好んで主張した所である﹂とし、セー
ナー、テーゼンドララーラ・ミトラに相次いで耶青菜窟も其の一人として馨げてゐられる。即ち
其の文に﹁近い所ではボンのヤコービ徽授もこの意見に傾いてゐろことは、文献上からしても
︵Die穿dlrietenderR・G声d・W訂㌣旭2G賢㌢ge−−︶字P⊥1ぎKl読汚−父岩]Re詩−︶私自身氏と詩論し化際の言明によりても明である﹂星亨フてゐられる。博士が耶劣を訪問せられた時期は、略
ば大正十年前後かと思ふが、それは彼の﹁阿毘温磨の研究﹂の原稿を龍勒に於て整理せられし後
﹁かと想.像せられる。何れにもせよぎソは見畢的放行の程度で、長期の在留では無く、其庭で特に或問塩を研錆せられたのではなからう。此の穿は其の後予が一年有年除ガンに於て殆ど隔日耶窟
に師承せるに開はらす、談一度も木村博士に切れられざれしことや、其の期間中僅に象の後任キ
ルフル教授が﹁木村氏は愉快な人物だ﹂の意を一同表詮せし事が博士に閲して予の聴き持し風聞
の殆ど全部なる
耶劣の議論も事真如何なる程度に行はれしや予は明に之を知らない。さて上引文中博士が援引せ
られた月沈原科畢協骨々報に、耶倉の論文が上梓せられたのは、明治二十九年に相督する。此の
論の要旨は、先づ始にガルペ氏制澤の﹁怜俵異質義月光﹂の序文を批評したもので、諭旨を八項
β3βに争りそれに射し七項の反対意見と一項の賛成意見が並べてある。次いで倣敦の十二縁起がマハ 餌
トブハーワァクに説かれた一種の教諭思想よト凍れることを諭吉せんと試られたものである。斯
くの如きは耶窟狗自の見鮎では無く、又偶数に対する蕩の造詣を提示する代表的な論文とも予は
考へないが、ともあれ、原始偶数の思想が所謂教諭幹伽の古形から影響を受けたといふ立論は、
現形の稔伽経が彿敷からの影響を合ひといふま張とは、夫々の成立年代一宮考慮に入れゝば、更に
矛盾する物で無いことは明白である。木村博士の所論は、高野に於て﹁参考書の鉄乏に苦みなが
ら、恵率に筆を﹂とられた点か、此の速の行文ど考察とは何となく十分に行き届いてゐないやう
に威せられる。
昨年耶劣はブロイセソ畢士院骨報に於て﹁原始稔伽設に就て﹂の一論文を費表せられたが、其
の内容には大村博士の前記の論文と交渉する所もあり、興味も多いから、次に此の鮎を略述して
見る。耶蕩の言ふ所では﹁我々にも、文一千年以前以凍印度人自身にも、ヨーガの根本作品とせ
られj物はバクソデヤリのヨーガスーツワァであり、それはヨーガブハーシュヤと共にバークン
デヤーフム・ヨーガシアースッワァムと耕せられてゐる物である。併し此の中では既に漁伽と教諭
とが完全に融合し、其の焉にヨーガシアースッワァは章後の題目に自身セナームクフヤプワァケ
チャナムと挿す左程に成ってゐる。それは教諭経の註梓家が、経をサームタフヤプワァプチナス
水村博士ミ耶青菜者′