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真宗教学研究 第34号(2013)

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ISSN 1346-2156

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信仰と社会

講 演 東日本大震災の東北を訪ねて 鍋 島 直 樹 1 一悲しみに寄り添うー 共業の自覚と「われら」としての二種深信 田 代 俊 孝 9 研究発表 「如来は如来なりjとしての 法蔵菩薩についての一考察 松 山 大 22 浄土宗独立における師資相承の考察 光 川 農 期 37 浄土五視を通して 法然における宗教心の課題 相 馬 晃 54 菩提心廃捨と三心具足 真宗教学学会講演会一宗祖としての親鴛聖人ー 親鷲聖人と無量寿経諸本 大 田 利 生 69 親鷲は「現世往生

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を説いたか 小 谷 信 千 代 77 「即得往生Jの誤解に基づく謬説の解明ー 真宗教学学会福井大会記念講演 宗門白書と宮谷法含 蓑 輪 秀 邦 114 教えが伝わるー浄土の秩序と裟婆の論理 門 脇 健 125 2012年度教学大会発表要旨 141

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真 宗 教 学 学 会

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講演 真宗大谷派教学大会 二

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一二年度

東日本大震災の東北を訪ねて

| | 悲 し み に 寄 り 添 う | | 東日本大震災の東北を訪ねて 人は思いもかけない大災害や死別に突然遭遇し、悲し みに暮れる時もないほど、その日を生きていくことに困 窮することがある。しかし、人生の危機に直面して、は じめて本当に大切なものを求める。絶望の閣の中でこそ 希望の光を探す。 三

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一一年一一一月一一日午後二時四六分、観測史上初の マグニチュード九の東日本大震災が発生した。地球の自 転がわずかに速くなり、一日が百万分の一・八秒短くな るほどの大地震だった。三陸海岸の津波の高さは一

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メートル以上、岩手県宮古市では陸をかけあがった津波 の遡上高さが四

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・一メートルに達した。警察庁によれ ば、二

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一二年三月一一日の時点において、死亡者一五、

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八五四人、行方不明者三、一五五人である。東日本大震 災から一周忌を経て、あらためて言葉にできないほどの 無念さや悲しみがあふれでくる。お亡くなりになった一 人ひとりにかけがえのない人生があったことが偲ばれる。 この悲しみと悔しさを忘れず、悲しみから生まれる大切 なことを私たちがそれぞれ受け継いでいくことができれ ば と 思 う 。 大切なことは、あらゆる支援活動を相互に尊重しあう ことである。西本願寺を初め、世界各地での追悼法要も、 義拐金活動も、被災者の受け入れや物産展も、被災地現 地でのボランティア活動も、すべてが価値ある支援であ る。東日本の復興のために各々が努力し、深い悲しみを

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2 縁として、日本、世界が支えあい、 とを願って生きたい。 大災害などの危機に際して重要なことは、災害を人々 がいかに乗り越えてきたかという歴史の検証であり、困 難のたびに人々を支えてきた日本の伝統文化を守ること である。そして、蓄積された地域社会の人々の交流を大 事に育んでいくことである。また何よりも、現場に行っ て初めて見えてくる知見を尊重しあうことが必要である。 そこに日本の学術の果たすべき責任がある。東日本大震 災の際に、日本人が、礼節を保ち、暴動や略奪を起こさ ず、支えあって生き抜く姿に、世界中の人々が賛辞を送 った。阪神淡路大震災の際にも、暴動がほとんどなく、 悲しみをこらえて支えあう日本人の姿を、世界のメディ アが報道した。その慈しみはどこから生まれてくるのだ ろうか。丈学作家の村上春樹氏は、−一

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一一年六月九日 にスペインでカタルlニャ国際賞を授賞した際、記念ス ピーチのなかで、日本人の誰もがもっている無常観が、 忍耐強さ、礼節さ、支えあいの心を生み出していると話 した。日本人には、仏教の諸行無常の真理が示すように、 はるかいにしえから受けつがれてきた無常の人生観があ る。桜が咲いて散り、紅葉が赤く染まって散るのを見て、 一つになっていくこ 自らの人生をふりかえるように、世間のうつろいやすさ、 命のはかなさを知っているから、つらい時に人々は支え あうことができるのであろう。 死別の悲しみに寄り添う ﹁愛別離苦はあらゆる苦しみの根本である。愛が深け れば深いほど、より一層憂いや苦しみも深くなる o ﹂ と 経典に説かれている。私たちは別れの後で、はじめて愛 の尊さに気づく。仏教は、紀元前五世紀に、釈尊によっ て説かれた。釈尊は、生老病死の苦しみのありのままを 知り、泥の中から咲く蓮の花のように、悲しみを転じて 真実の生き方を聞くことを明かした。それは悲しみから 逃避して生きることを教えたのではない。泥なくしては 蓮が咲かないように、悲しみゃ煩悩があるからこそ、人 は大切な愛情の深さや心の粋に気づき、悲しみの中にこ そ、その人にしかないかけがえのない花が咲いていくこ とを教えている。 それでは、鎌倉時代に生きた親驚の思想を手がかりに、 仏教からみたグリ 1 フ・ケア、弔いの心をたずねてみた い。親驚は、師、法然のもとで学び、﹁摂取不拾﹂、すな わち、煩悩をかかえた私をだきとって捨てない仏の本願

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を信じ、念仏して仏に救われていった。光に照らされて いる自己を知り、白然のあるがままの姿で、仏の大悲に 身をまかせた時、真の安心がもたらされたのである。親 驚は、災害に遭い、思いもかけない死別に直面して悲し む人々に寄り添い、﹁臨終の善悪を問わず﹂と語った。 いかなる死もそのまま大悲にいだかれていると人々に伝 え た 。 東日本大震災の東北を訪ねて 具体的に、親驚は、三つの角度から、死別の悲しみに 寄 り 添 っ て い る 。 第一に、悲しい時には涙を抑えなくてもかまわない、 泣きたい時には涙すればいい、と説いている。なぜなら、 仏が救おうとした人聞は、もともと嘆き苦しむ凡夫なの ですから、平静を装い、無理に悲しみを押しとどめる必 要はないのである。 第二に、悲しむ心を少し休ませてください、 い る 。 と説いて 3 ﹁かなしみにかなしみを添ふるやうには、ゆめゆめ とぶらふべからず。もししからば、とぶらひたるに はあらで、いよいよわびしめたるにであるべし。 ﹃酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほど になぐさめて去るべし。さてこそとぶらひたるにて あれ﹄と仰せありき。しるべし o ﹂︵﹁口伝紗﹂︶ この﹁憂いを忘れる﹂ことを意味する﹁忘憂﹂という お酒の呼び名は、魅力的である。つらいときに、もし ﹁忘憂﹂というラベルを貼ったお酒のボトルがあれば、 思わずそのボトルをつかんで、ごくごくっと飲んでしま いそうである。でも飲み過ぎには注意しましょう。ジ ュースやお茶でもいい。家族や心を許せる人たちと飲み 物を酌み交わすと、ほっとして、自然に笑顔が生まれて く る 。 この弔いの伝統は今も生きている。仏教では、人が亡 くなった後、通夜、葬儀、中陰法要、年回忌、命日、彼 岸、盆などの法事がある。季節のめぐる中で、僧侶の読 経を聞いて、遺族は亡き人を偲び、お酒や料理を家族縁 者にふるまう。遺族は法事を縁として、亡き人から受け た愛情を確かめ合い、慰めあってきた。 第三に、死を超えた依りどころが心の中に生まれると、 悲しみを乗りこえてゆけるようになると、説いている。 この死を超えた依りどころとは、別れによっても消えて しまうことのない真実である。愛する人は今も心に生き ているという、確かな粋が心に育ってくることである。 愛する人の真心はあなたの心にぬくもりとなっているこ

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4 と だ ろ う 。 仏教では、死別しても、極楽浄土でまた会えるという、 ﹁倶会一処﹂の世界を説いてきた。死ぬこと自体は決し て不幸ではなく、人間の思いの及、ばぬ死の彼方は、仏の 光に満ちている。あなたが苦しいとき、またうれしいと き、亡き人は仏となって、あなたを慰め、微笑んで、あ なたが誰であるか、どこへ行くべきかを示してくれるだ ろ 、 っ 。 古い星と新しい星が、銀河系の中で同時に憧いている ように、人は誰でも、限りなき光に包まれて、亡き人と 一緒に歩むことができるだろう。 第六回ボランティア ー一三日

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一 一 年 一

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月九日 宮城県本吉郡南二一陵町防災対策庁舎三九名の職員 が亡くなった場所︵二

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一 一 年 三 月 一 一

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︶ 故遠藤未希さんのご自宅に訪問した。海岸近くあって、 ご自宅の二階まで津波にさらわれたため、修復の工事中 だった。遠藤未希さんは、三月一一日午後二時四六分の 大地震後、防災対策庁舎の放送室で、﹁六メートルの津 波が来ます。避難してください﹂と町民にマイクで呼び かけつづけ、約四

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分後に大津波が襲ってきて、亡くな った。実際の津波の高さは、気象庁の第一報とは全く異 なり、一六メートルにも及ぶ高さで、防災庁舎の屋上四 階まで水没したため、もはや逃げることもできなかった という。去る五月八日に、彼女たちの追悼法要を、町の 方々から依頼を受けて、私たちがさせていただいた。そ れがご縁となり、一

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月 一

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日に、及川係長の仲介で、 故遠藤未希さんのご自宅を弔問することができた。はじ めにお仏壇にむかいお勤めをした後、宮津和樹さんとと もに、宮沢賢治直筆の﹁雨ニモマケズ﹄の額を、未希さ んのご家族に寄贈した。﹃雨二モマケズ﹄の真意につい て宮津和樹さんが説明すると、未希さんのご両親は喜ん でくださった。なぜなら、未希さん自身が、叔父の清吾 さんたちから﹃雨ニモマケズ﹄を習い、覚えていたから であった。未希さんは﹁イツモシヅカニワラツテヰル﹂ の一段が大好きで、そういう姿勢でピ

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ス サ イ ン を 出 し 、 いつも笑顔で頑張っていたと、ご家族にうかがった。宮 沢賢治の﹃雨ニモマケズ﹄が好きだった未希さんと、そ の詩の額を届けたかった私たちとの気持ちが、思いがけ ず一致してうれしかった。また、何よりも心に感じた話 がある。未希さんのご両親によると、四月二三日に未希

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束日本大震災の東北を訪ねて さんのご遺体がご白宅の沖合で発見され、五月二日に、 そのご遺体が

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鑑定により未希さんご本人であると 確認され、五月三日にご遺体をご白宅に連れて帰った。 その時、不思議にも、横一直線の虹が空にかかったとい う。その虹の写真をお母様が見せてくださった。見たこ とのない、まっすぐの虹だった。お母様はこうも話して くださった。﹁この子はそういう人を助ける役割をもっ てうまれてきたと、思うしかない:::。私のお腹をかり で生まれてきたわが子ながら、未希はもっと大きな、多 くの人々の命を救うという役割をもって、自らの命を全 うしたのでしょう。そう思うようになりました:::﹂と。 時を経ても、悲しみは深くたやすく消えることはない。 折に触れて涙があふれる。しかし、涙は愛情の証しであ る。先だったわが子を思う親の涙である。悲しむこと自 体に意味がある。お仏壇の前で涙を流し、何も言えなく ても、ただ手を合わせることが、亡き人に与えた愛情と、 自分たちが亡き人から受けた愛情をおのずと知ることに なるだろう。そうした悲しみの意味を確かめ合った。さ らに、未希さんのご両親から、仏像の手が一不す印の意味、 中国よりいただいた﹁無畏﹂の書などについて話をうか がった。その﹁無畏﹂の真意について話し合ううちに、 5 ﹁施無畏﹂、畏れることなきことを施すという仏の千は、 いつも笑顔で心配しなくても大丈夫と勇気づける、未希 さん自身の姿と思い重なった。仏の姿や、中固からもら った﹁無畏﹂の書が、遠藤未希さんの笑顔やピ l ス サ イ ンをそのまま表していることに気づいて、ご家族ととも に私たちも心が震えるような気持ちになった。最後に、 宮深さんが持参した大きなこたつを遠藤家に寄贈した。 宮津さんは、スロベニア固寄贈のユニットハウスと平成 の森・仮設住宅に、それぞれ大きなこたつを寄贈した。 一

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月一一日と一一一日は、歌津総合支所、平成の森仮 設住宅へ支援物資を届けた後、津波で行方不明のご家族 の家々を訪問した。ご家族は、無念さや悔しさとともに、 光り輝く思い出を聞かせてくださった。 ボランティア、志願者として活動するに際し勇気づけ られた言葉がある。 それは、赤松徹農学長メッセージ︵四月二八日、龍谷 大学

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︶ で あ る 。 ﹁一人ひとりの力は微力でも、集まれば大きな力に なります。本学の中には、すでに被災地に駆けつけ、 ボランティア活動を行っている学生や教職員もいま す。そのような志と行動力をもっ学生や教職員がい

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6 (左側、遠藤未希さんのご両親、右側から未希さんの祖母、 及川、宮津、 10月10日) (カモメやウミネコに愛される。京都でこの写真を見て、あ る方がこう言ってくれた。「カモメたちは、亡くなった方々 の気持ちをのせてお干しをいいにきていますよ。きっと」と。 その言葉がうれしかった。ホテル観洋にて、 10月12日) ることを、私は誇りに思います。また、現地に行く ことだけが被災地に貢献することではありません。 募金活動に汗を流す学生など、京都にいながら﹁何 かできないか﹂と模索し続け、行動する学生にも敬 意を表したいと思います。全学の構成員のみなさん。 それぞれの事情ゃな場にあった貢献を是非、積極的 に行ってください c ﹂ この言葉は、悩みつつ思い切って現場に立ち向かう力 を与えてくれた。できない理由を探すのではなく、いま 一人ひとりができることを考えて行動することこそが大 切 で あ る 。 村上春樹カタル

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ニヤ国際賞授賞式スピーチ︵六月九 日、スペイン︶、福山哲郎メッセージ﹁生涯を一日とし て生きる﹂︵災害当時の内閣官房副長官、参議院議員と 面談、専徳寺、九月一九日︶、秋元康作詞﹃風が吹いて いる﹄︵﹀同ロお復興支援ソング、一

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月一九日︶など の 三 早 業 が 、 大 き な 音 訓 昧 と 現 場 に 立 ち 向 か う 力 を 私 に 与 え てくれたことである。また特に、浄土真宗本願寺派大谷 光真ご門主の次の言葉は、行動の原動力となっている。 大谷光真﹃愚の力﹄︵文春新書二 OO 九 年 ︶ ﹁阿弥陀如来の慈悲に救われていると知ったものが、 白分の不完全さから目をそらさず、自らができるこ とをする。私の行為が慈悲なのではなくて、阿弥陀 仏の慈悲のなかで、今何ができるかということです。 聖道の慈悲を﹁自力﹂浄土の慈悲を﹁他力﹂といっ てもいいのですが、他力だから何もしないで惰眠を 食っていていいわけではありません。不完全な存在

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であるという白覚のもとにできることからやるので す 。 ﹂ 東日本大震災の東北を訪ねて 7 二 八 O 一 八 一 頁 ︶ (右から遠藤未希さんのご両親、及川幸子、高橋あや、後列、鍋 島、向志の恒松、二O一二年三月三日、「感謝」はお父様、清喜 さんが書かれ、「未来に希望を」とその裏側にお母様が書かれて いる。ご両親の愛情や悲しみが私の心に深く伝わってくる) 第九回

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一 一 一 年 三 月 三 日

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五 日 南三陸町・龍谷大学共催、吹奏楽部演奏会、志津川中 学校体育館、二

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一 一 年 二 一 月 四 日 南 二 一 陸 町 佐 藤 仁 町 長 ご 挨 拶 ご 遺 族 の 悲 し み 、 無念さを胸に復興に尽くしたい。龍谷大学の活動に心か ら感謝。寄贈してもらった﹃雨ニモマケズ﹄の額を庁舎 に 飾 っ た 。 南三陸・気仙沼からの踊りの仲間も参加し、マツケン サンパを踊る 1 会場が一つになる。 その夜、遠藤未希さんの親友、高橋あやさんが、未希 さんのご両親から受け取った着物をきて舞う。八戸小唄。 二

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一 一 一 年 三 月 四 日 ま と め 悲しみは決して消えることはない。私たちが東日本大 震災で亡くなった方々に手を合わせて哀悼し、愛する家 族や故郷を喪失した人々のことを決して忘れず、復興に 取り組んでいく。それがこれからも願われることである。 私自身が、現地に赴いて新しく学んだことは数多い。危 機を乗り越える道は、組望から離脱するところにあるの

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8 ではない。絶望に向き合うところに、困難を超える道が 見えてくる。あたかも悲しみからまことの粋が生まれる ように。無常とは、命のはかなさとともに、支えあえば 必ず復興することを教えている。無常の悲しみから人と 人は支えあい、無常の変わりうる世界であるから、支え あえば必ず復興することができる。 最後に、伝えたい話がある。遠藤未希さんのご両親と 交 流 を 重 ね 、 一 一

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一二年三一月三日に、南三陸町のご自宅 でうかがった話である。遠藤未希さんのご両親はこう語 ってくださった。﹁多くの方々が未希の死を哀悼してく ださったことを心から感謝している。それと共に、娘の 未希のとった行動を、美談にしてほしくないという気持 ちもある。未希は津波の恐ろしきを知っていたら逃げた にちがいない。未希が逃げていてほしかった。そんなに 頑張らなくても生きていてほしかった。そう未希の夫も 話してくれた。どうか津波の脅威を伝えてほしい。人間 の騎りを捨て、自然への畏敬を忘れず、大地震や大津波 の際には、誰もがすぐに避難することを教訓として伝え ていってほしい﹂ o そして、未希のお父様、遠藤清喜さ んはこう話してくださった。﹁悲しみは決して消えるこ とはない。季節ごとに娘のことを思い出す。毎日、 そ の 日をなすべきことを果たしてなんとか生活しているだけ である。それから、少しずつこう思うようになった。生 き残っている者には、それぞれ必ずその役割がある。そ う思うようになってきた﹂と。お母様はそのそばでその 言葉を深くうなずいて聞いていた。そのお父様の一言葉に 心動かされた。未希への愛情を胸に刻み、皆様から受け たご支援に感謝して精一杯生きていきたい。そういう気 持であると察する。未希さんのご両親の言葉は、お二人 がこれから進もうとする道を指し示しているとともに、 聞いている私自身にもこれから生きる道として指し示し てくださっているように強く感じた。それから未希さん のご両親は、お二人で﹁感謝﹂﹁未来に希望の灯りをか かげて﹂と書いた木製の置物を見せてくださった。それ は心にぬくもりを与えてくれた。今後も私自身が、長い 時聞をかけながら、東日本大震災の悲しみと無念さから あふれでくる大切なものを、被災地の方々に聞き、未来 の世代に伝えていきたいと思う。

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講演 二

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一 二 年 度 真宗大谷派教学大会

共業の自覚と

は じ め に 共業の自覚と「われら」としてのこ種深信 同朋大学の田代でございます。今、鍋島先生の非常に 感動的なお話をお聞きして、その後で少し趣きの異なっ たお話になるかもしれませんが、お許し頂きたいと思い ま す 。 本日は、﹁信仰と社会﹂というテ

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マ を 受 け 、 ﹁ 共 業 の 自覚と﹁われら﹂としての二種深信﹂というテ l マ を 出 させて頂いております。﹁信仰と社会﹂ですが、これは 安田理深先生のお言葉に、﹁赤表紙と新聞の聞に身を置 く﹂という言葉がございます。赤表紙とは御聖教です。 そして、新聞とは社会です。社会の諸問題を御聖教の上 9

としての二種深信

にいかに聞いていくか、あるいは常に現実社会に対応し、 その根拠を御聖教に求める。さらには御聖教の観念的理 解にとどめず、現実社会の課題を聖教の上に問うていく という一つの方向を私達に教えて下さった言葉が、この ﹁赤表紙と新聞の聞に身を置く﹂という言葉でございま す 。 しかし、真宗学の研究に関わっておりますと、大学の 研究室、あるいは寺院の中だけに留まってしまい、逆に 聖道門化していくようなきらいがございます。そのよう な中で、いかにして現実社会と関わっていくかが重要と なります。これは﹁教化学﹂という一つの学問分野とし て考えることができるのではないでしょうか。

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10 教化学といいますと、かつては伝道の仕方やその方法 論のような受け止め方がなされておりました。現に、私 の学生時代にも教化学という科目が大谷派教師課程等に ございましたが、そこでの印象は、やはり伝道学のよう な趣きがございました。しかし本来の教化学とは、現代 社会の諸問題に対して、仏教・真宗の立場でどのように 関わっていくかが課題となる学問であります。 今から十年ほど前、同朋大学に大学院を作るという話 が出ました。その際に、文部科学省への申請のお仕事を させて頂きましたが、文部科学省は合理的な理由がなけ れば新設を認めません。名古屋の大学が全国から集めら れる学生人口は京都と比べると半分くらいです。さらに 名古屋には名古屋大学や、愛知学院大学に仏教学の大学 院がありました。そのような環境の中で新たに同朋大学 に大学院を作るとなり、丈部科学省にどのように理由付 けをするかが問題となりました。つまりは、設置趣宵を しっかりと示す必要がありました。同問大学はかつてか ら教化学に重きを置いてきたという学風がございます。 しかし、その教化学も先ほど申したように、伝道の仕方 というような感がありました。ですので、教化学につい て再考し、現代社会の諸問題をいかに真宗の教えの上に 問うていくかという方向として受け止め直しました。し かし、教化学という名前で表現すると、受け取る側には やはり従来の伝道の仕方というような形で受け取られが ちになります。そこで、実践仏教学という名前をつけ、 文部科学省に申請いたしました。実践仏教、あるいは実 践真宗を大学院の基本理念、中心とし、既存の名古屋大 学・愛知学院大学の仏教学大学院とは異なった、本学の 独自性を一不し、それが評価され、認可頂いたことでござ います。今回の発表テlマはまさに﹁真宗教化学﹂の テ

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マ で あ り ま す 。 先ほど鍋島先生からご紹介頂きましたような、社会と の関わりについて、私自身も色々と考えております。今 度の震災につきましては、私自身の立場や時間的制約が あり、なかなか現地に行くようなことはできなかったの ですが、阪神淡路大震災の時は、ちょうど池田勇諦学長 のもと、私は教務部長という役職にいたものですから、 大阪の南御堂さんをお借りして、様々な活動をさせて頂 きました。その際のボランティアネットワークシステム ゃ、その後の海外の支援活動等で得た経験をもとに、同 朋大学はレスキュー組織を立ち上げました。その組織で 中心となって活動された栗田暢之さんは同朋学園を辞め

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共業の自覚と「われら」としての三種深信 て 、

NPO

法人を作っておられます。一方、私はずっと ピ ハ

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ラという活動をしております。名古屋別院の支援 を受けて、﹁老いと病のための心の相談宰﹂、あるいは真 宗の教えを学んで実践してくださっている医療関係者で 組織する﹁ピハ

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ラ医療問﹂等のネットワーク組織を作 る な ど し て お り ま す 。 しかし、そういった中で、いつも問われ、また私自身 の課題でもあることがございます。それは、社会事業が 聖道の慈悲ではないかということです。 ﹁慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲と いふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐ﹀むなり。 しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、き は め で あ り が た し ﹂ 11 ︵ 定 本 ﹃ 親 鷲 八 王 ﹄ 四 、 言 行 篇 八 百 円 ︶ ﹁歎異抄﹂にあり、真宗という立場からすれば社会事 業は尊い活動かもしれないが、聖道の慈悲であり、あま り:というようなご批判を頂いたことがございます。 鍋島先生も同様の経験がおありとお聞きしております。 一方では、そういった社会事業は還相回向、要するに 利他教化であり、﹁還相回向の活動だ﹂とおっしゃる方 もおられます。しかし、信心獲得もできない身の上で、 と 還相同向ということも、私としては納得がいきません。 では、私自身がどのような受け止め方をしているのかと 申しますと、テーマに出させて頂いておりますような ﹁ 共 業 の 2目覚と﹁われら﹂としての二種深信﹂、つまり 機の深信から苦悩を共有する立場、そこに同朋・普共諸 衆 生 ︵ ﹃ 浄 土 論 ﹄ ︶ ・ 群 生 海 ・ 群 萌 と い う 視 点 が 見 出 せ る の ではないでしょうか。このようなことをキーワードとし てお話を進めてまいりたいと思います。 ニ 種 深 信 まず、﹁二種深信﹂ということでございます。﹁二種深 信﹂については、私が申し上げるまでもなく、わが身の 罪悪生死を知らせる自身の信知と、仏願の大悲を知らせ る法の深信からなります。機の深信とは、単なる俄悔で はなく、自身の分限を省み、﹁出離之縁﹂なしと知るこ とであります。つまり、罪悪生死を離れることが出来な い罪障の自覚であり、自身の否定であります。従って、 それは憐悔によって減せられるごときものではなく、い よいよその深重なることを感知させられるものでありま す。減せられるどころか、仏に背いていることの自覚で あります。本日の研究発表でもこのようなご指摘をされ

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12 ている先生方もおられました。﹁逆対応﹂という言葉で すね。その深重なるを知らせるものこそが如来の大悲心、 すなわち﹁他力の金剛心﹂そのものであります。従って、 ﹁無有出離之縁﹂と信ずる中に、法の深信が顕現し、信 知されるものであります。その意味において二種深信と いえども一つといわねばなりません。 念 仏 そして、﹁一一種深信﹂がはたらく場として、いうまで もなく念仏が二種深信そのものを、はたらきとして持っ ています。それは、宗祖自身の念仏に対する解釈等に、 言及されています。﹁行巻﹂に ﹁ し か れ ば 、 南 無 の 一 言 は 帰 命 な り 。 婦 の 言 は 至 な り 。 また、帰説なり、説の字、説の音、また帰命なり、 説の字は、悦の音、悦悦二つの音は告ぐるなり、述 な り 、 人 の 威 を 官 一 述 る な り 。 ム 叩 の 言 は 、 業 な り 、 招 引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、 百なり。ここをもって、帰命は本願招喚の勅命なり。 発 願 回 向 と 一 一 白 う は 、 如 来 す で に 発 願 し て 、 衆 生 の 行 を回施したまふの心なり。即是其行と言、つは、すな わち選択本願これなり。必得往生と言、つは、不退の 位 に 至 る こ と を 彰 す な り 。 ﹂ ︵定本﹃親驚全﹄て教行信証四八頁︶ と示されます。また、特に﹁尊号真像銘文﹄には、 言南無者といふは、すなわち帰命とまふすみことば 也。帰命はすなわち、釈迦・弥陀三尊の勅命にした がひてめしかなふとまふすことばなり。このゆへに、 即是帰命とのたまへり。亦是発願回向之義といふは、 二尊のめしにしたがふて安楽浄土にむまれむとねが ふこころなりとのたまへる也 ︵ 定 本 ﹃ 親 驚 全 ﹂ 三 、 和 文 篇 九 一 二 頁 ︶ と、知らされるところであります。もとより親驚聖人は、 その﹁命﹂の言に﹁信なり﹂と訓じておられます。阿弥 陀仏の前に、凡夫が自己を凝視して、自己の全体をあげ て、南無し、如来の勅命を聞信するのであります。しか れば、機の深信というも、念仏において自覚される自身 の実相であります。問時に法の深信もまた、如来の﹁発 願回向﹂を義とする﹁南無﹂において信知されるのであ ります。法の深信といえども、念仏の心に感知される弥 陀の大悲心であります。それゆえに、二種深信は念仏の 上に成立するものであり、また、念仏の心において一体 となるのであります。念仏は他力の行として、業苦を感

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共業の自覚と「われら」としての二種深信 知するものの上に、縁としてあらわれます。自らの業苦 を通してあらわれたもう大悲の願心を聞信するのであり ます。白ら行ずるのではなく、如来、われに来たって行 ぜしめるのであります。念仏は愚縛の身の自覚あるもの の上にのみ感知され、道をひらかしめるのであります。 その意味でわれわれをして自力に死せしめて、他力に蘇 生するものであります。 同じく﹃尊号真像銘文﹄には、 称仏六字といふは南無阿弥陀仏の六字をとなふると なり。即嘆仏といふは、すなわち南無阿弥陀仏をと なふる仏をほめたてまつるになると也。また、即機 悔といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち 元始より、このかたの罪業を機悔するになるとまふ す 也 ︵ 定 本 ﹃ 親 驚 全 ﹄ 三 、 和 文 篇 九 二 頁 ︶ とあります。つまり宗祖は善導大師の教えを受けて、南 無阿弥陀仏を称えることは、聞嘆仏であり、即憐悔と感 得されました。これは蓮如上人が﹁﹁南無﹂と帰命する 機と、阿弥陀のたすけまします法とが一体なるところを さして、機法一体の南無阿弥陀仏とはもうすなり﹂と、 機法一体とお示しくださっている通りです。 念仏は法の深信として如来の至徳を讃嘆︵嘆仏︶し、 13 機の深信としてわが身の悲歎︵俄悔︶を信知せるもので あります。つまり、二種深信が﹁他力至極の金剛心﹂で ある限り、念仏を場として届いてくるのであり、念仏の 心、それしかないのであります。われわれは唯一、正信 念仏によって、自我を否定し、他力に生きることができ るのであります。念仏そのものが二種深信を根底に据え て い る の で す 。 現 在 性 同時にその自覚において、現在性ということがござい ます。ご承知の通り、機の深信は、﹁自身は現に罪悪生 死の凡夫にして膿劫より己来、常に没し、常に流転して 出離之縁あることなし﹂と感知されているかぎり、過去、 宿世を背負い、同時に未来永劫を背負っています。自身 の過去、未来の歴史性そのものが、﹁現に﹂という深さ として感知されています。つまり、過去・未来の暗さも、 今、現在の問題となっています。つまり、ここでは﹁常 没常流転﹂の過去を顧み、﹁無有出離之縁﹂の未来を透 視した上で、﹁現に﹂今、存在する罪悪生死の自己を深 信しているのであります。その意味では、︿常なる現在﹀ であり、自らの悲歎があるかぎり、いつまでたっても罪

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14 悪生死の現在であります。機の深信は、常に現在にたっ て、不断に深信されます。要するに、自身は現にという、 その﹁現に﹂という言葉に示される通り、自身が課題に なる時、いつも﹁現に﹂として、自身の上に問われてく る の で あ り ま す 。 一 方 、 法 の 深 信 に つ い て は 、 ﹁ 往 生 札 讃 ﹂ に 、 今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声一 声等に至るまで、定んで往生を得と信知す、乃至一 念も疑心あることなし ︵ 定 本 ﹁ 親 驚 全 ﹄ 九 、 加 点 篇 ︵ 四 ︶ 一 五 六 貰 ︶ と、明確に法の深信の現在性をも語っています。つまり、 過去でもなく、未来でもなく、︿今﹀弥陀の願力に乗托 し、定得往生を信知せよというものであります。この ︿今﹀とは過去に対する今でもなく、未来に対する今で もありません。︿常なるム乙であり、常に彼の願力に乗 托せんとする時聞を超えた今であります。なぜなら、法 とはわが身の存在以前から用意されている常なるもので あります。それ故、わが身が問われている時は常に え乙であります。つまり、この︿今﹀とは自らが虚仮 として存在した無始蹟劫己来の過去を内に含みつつ、そ れ故、現に如来の真実を仰、き、やがて必ず救われるとい う未来成仏の確信にたったえ乙であります。われわれ は、︿今﹀わが身が問題となり、︿今﹀救われるのであり ます。いみじくも、そのことは、親驚自身の獲信の体験 であり三願転入でも次のように語っておられます。 然るに今、特に方便の真門を出でて、選択の願海に 転入せり︵定本﹁親驚全﹄一、教行信証士一 O 九 頁 ︶ ﹁ 今 、 特 に : ・ ﹂ の 今 も 、 ︿ 常 な る ム 乙 で あ り ま す 。 す な わち、臨終の一念にいたるまで、本願の正機となる限り、 常に︿今﹀であります。それは、常に﹁定散自力之心﹂ に堕ちんとする存在であるが故に、常に︿今﹀であり、 常に必ず救われる存在であるが故に、常に︿今﹀でなけ ればならないのであります。 われわれは、常に︿今﹀救われ、信心の喜、びを感得し ます。しかし、現にわれわれにおいては、臨終の一念に 至るまで、定散心間雑するのが常であります。すなわち、 ﹁人のしうしんじりきのしん﹂こそ、わが身の現在にほ かならないのであります。しかし、その悲歎の思いに立 って称名念仏とともに、如来の真実を仰ぐことにより、 ﹁教えざれども白然に真如の門に転入﹂するのでありま す 。 このことは、善導の ﹃ 般 舟 讃 ﹄ に

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念々に称名し、常に機悔すべし ︵ 定 本 ﹁ 親 驚 全 ﹂ 九 、 加 点 篇 ︵ 四 ︶ 二 五 九 頁 ︶ 常に漸惚を懐いて、仰いで仏恩を謝せよ ︵ 定 本 ﹁ 親 驚 全 ﹄ 九 、 加 点 篇 ︵ 四 ︶ 二 八 七 頁 ︶ とすでに示されており、常に︿今﹀漸惚・慶喜、こもご も間断・持続、相まって信心は相続されていくのであり ま す 。 共業の自覚と「われらJとしての一種深信 したがって、日々新たに、常に珍しく信心の浄化はな され、二種深信つまり否定と乗願は帳劫の歴史と、水劫の 未来を背負って、まさに常なる現在の上に体験されてい くのであります。要するに、念仏を場として、そこに ﹁現に﹂、あるいは﹁今﹂という形で自らが問われてく る と い う わ け で す 。 宿 業 15 次に宿業という立場から考えたいと思います。親驚に おけるこ種深信、とりわけ、機の深信は親驚自身の宿業 論の本質をなしております。﹁歎異抄﹄に、 本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり ︵ 定 本 ﹃ 親 鷲 全 ﹄ 四 、 言 行 篇 二 O 頁 ︶ と示されるように、本願によって信知されるものであり ます。本願、つまり法によってわが身の上に知らされる の で あ り ま す 。 聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよ くよく案ずれば、ひとへに親驚一人がためなりけり。 さればそれほどの業をもちける身にでありけるを、 たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさ よと御述懐さふらいしことをいままた案ずるに、善 導の﹁自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、瞭劫よりこ のかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁 あることなき身としれ﹂といふ金言に、すこしもた がわせおはしまさず ︵ ︷ 疋 本 ﹁ 親 驚 全 ﹄ 四 、 言 行 篇 三 七 頁 ︶ と﹁歎異抄﹄にあり、本願による﹁それほどの業をもち ける身﹂の自覚によるものであります。 自身が﹁現に﹂﹁悪性やめがたく﹂﹁ひと千人をも殺さ ん﹂とする身であることは、﹁さるべき業縁のもよほさ ばいかなるふるまひもす﹂るべき身として、宿業の自覚 において信知される立場であります。﹁本願を疑う﹂身 には、﹁ひとを千人殺すところの﹁悪性やめがたい﹂自 己 が 見 え ま せ ん 。 本願に出遇ったものの深信が﹁自身は現にこれ罪悪生

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16 死の凡夫﹂という自覚であり、 元始より己来、一切群生海、元明海に流転し、諸有 論に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽元 し ︵ 定 本 ﹃ 親 驚 全 ﹄ て 教 行 信 証 一 二 O 頁 ︶ という悲歎であります。この悲歎そのものが、本願との 出遇いによって気づかされていくのであります。 このような宿業を背負ったわが身を明らかに知らしめ る根源は、五劫思惟の本願そのものであります。本願に 照らされるわが身こそ、﹁それほどの業をもちける身﹂ であることが知らされるのであります。宿業存在を深く 信知した人ほど、必ず他人の悲痛が共感できるのであり、 そこに人間性回復の道としてのこ種深信の意義がありま す。親驚聖人の二種深信の受け止め方というものには、 まさにそのような立場があると思われます。 ﹁ 共 業 ﹂ と い う 概 念 その業ということについて、仏教には共業あるいは不 共業という概念がございます。これは宗祖の言葉として はございませんが、こういった受け止め方を先学から教 え ら れ て お り ま す 。 これまで、二種深信について、 一応、基本的立場を述 べてきました。それが主体的立場におけるものであり、 わが身一人のうえに信知されるものであることを確認し ました。しかし、それは決してわが身一人だけというこ とではありません。いわば、すべてを負荷した﹁一人﹂ であります。そのことを一示すものとして、親驚には自ら の主体としての﹁われ﹂と同時に、その自覚者のひろが りの連帯としての﹁われら﹂という立場があります。そ の連帯を﹁信巻﹂には、﹁一切群生海﹂と述、べられてい ます。つまり﹁群﹂のことばには、群れなして生きる 人々への広がりがみられ、﹁群萌﹂という言葉を親驚が 好んで用いていることからもうかがい知れるところであ り ま す 。 また、﹁唯信紗丈音亡の﹁愚縛の凡愚・屠泊下類﹂の 釈にも れうし・あき人さまざまのものは、みないし・かわ ら・つぶてのごとくなるわれらなり ︵ 定 本 ﹁ 親 驚 全 ﹂ 士 一 、 和 文 篇 一 六 九 頁 ︶ と﹁われら﹂の立場における罪業の自覚があります。そ こでは、単に﹁われ﹂の集合体としての﹁われら﹂では なく、﹁親鷲一人﹂という主体で自覚することがそのま ま全人類の主体として受け止められているのです。

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共業の自覚と「われら」としてのご種深信 ﹃歎異抄﹄の第九条の唯円との共鳴、さら には、後序に一不される信心同一の立場からすれば、それ は当然と言わねばなりません。親驚の﹁われ﹂の自覚は、 全世界の﹁われら﹂を負荷しているのであります。 親驚が﹁同行﹂﹁同朋﹂という言葉を好んで使われる のも、﹁われ﹂の自覚が﹁われら﹂という広がり、普遍 的連帯をもつが故であります。それは、単に利害を共通 するというものではなく、単に同士ということでもなく、 ﹁われ﹂の主体の普遍性によるものであります。それ故、 ﹁ 同 ﹂ じ ﹁ 朋 ﹂ ︵ と も が ら ︶ と 一 不 さ れ る の で あ り ま す 。 ﹁ 経 典 ﹄ に は 、 ﹁ 十 方 衆 生 ﹂ 、 ﹁ 諸 有 衆 生 ﹂ と い う 言 葉 が ご ざ い ま す 。 十方衆生といふは、十方よろづの衆生也。すなわち われらなり︵定本﹃親驚全﹄三、和文篇九四頁︶ ﹃ 浄 土 論 ﹄ に は ﹁ 普 共 諸 衆 生 ﹂ と い い 、 ﹁ 玄 義 八 刀 ﹂ に は﹁共発金剛志﹂といいます。そこには、﹁共に﹂とい う春属無量の広がりがあります。もっとも、そのことが 大乗の大乗たる所以である。したがって﹁われ﹂の罪業 は﹁われら﹂の罪業となり、﹁われ﹂の課題はそのまま ﹁われら﹂の課題となってくるのであります。したがっ て、﹁自身は現に﹂という文言を﹁われらは現に﹂と主 J h u L ﹂ト品 h り 、 17 体的に広がりをもたして受け取っても親鷲聖人の御心を 解釈していると言えるのではないでしょうか。﹁われら は現に罪悪生死の凡夫にして﹂とこう受け止めても私は 親鴛聖人の立場からすれば二向に構わないのではないか と 思 い ま す 。 そのような共業という概念ですが、少しわかりにくい 概念かもしれませんので、私の経験をお話させていただ きます。今から三十年程前、名古屋にあるある新聞社の カルチャーセンターでいくつかの講座をもっておりまし た。その現地講座で中国の玄中寺に行きました。当時は、 北京か上海で一泊しないと西安より先に行けなかったの ですが、上海で時聞があり、空港のすぐ近くにある動物 園へ、パンダを観に行きました。係の人がその新聞社の 旗をかかげて持っていくわけです。そうしますと、中国 の人はそれが新聞社の旗と知らないですから、みんな見 るわけです。それは中国の方からすれば、戦前の旭日旗 そのものです。ですから、そういう意味では非常に鋭い 視 線 を 感 じ ま し た 。 そのような中で、﹁私は戦後に生まれたので戦争のこ とは知らない﹂とは言えないわけです。やはりその責任 を日本人として背負っていかねばなりません。このよう

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18 な経験は実は韓国でもございました。ヨスという町にあ る霊亀庵というお寺へ参りました。そこの先鋒に戦時中 は日本に向かって拝めということで、向日庵と改名させ られていたと書いてありました。当時、日本は朝鮮半島 を植民地化して、そのようなことがありました。そのこ とに対して、あからさまな批判はございませんが、鋭い 視線を感じました。﹁私は戦後生まれですから何も知り ません﹂と言いたいですが、それでは通りません。知ら ないことでも日本人として業を共にしているわけですか ら背負っていかなければなりません。われわれは、被害 者意識だけを強調したくなりますが、われらは現に罪悪 生死の凡夫であり、罪悪をおかし続ける加害者であると いう視点も、この﹁共業﹂にはあるのではないかと思い ます。蛇足になりましたが、そのようなことを感じまし た その﹁共業﹂という言葉について先学は、﹁五濁の共 業の身の発見﹂と教示しておられます。これはかつて専 修学院におられた長川一雄先生からご指導頂いた言葉で ございます。ともに凡夫であり、ともに宿業存在である という中で、﹁われら﹂が課題になるとき、﹁共業﹂とい う点で普遍性、社会性をもってくるのである。親驚の用 いる﹁群﹂あるいは﹁海﹂にはこのような普遍性、社会 性が領解できると思われます。 ところで、その機の深信には﹁自身は現に:・﹂と﹁自 身 ﹂ と 一 不 さ れ 、 法 の 深 信 に は 、 ﹁ 衆 生 を 摂 受 し た ま ふ ・ : ﹂ と﹁衆生﹂と一不されます。上にも述べたように、機の深 信の﹁自身﹂は主体の表現としての﹁自身﹂であり、言 葉を変えて言えば﹁他人事ではない、自分自身だ﹂とい う、﹁われ﹂という意味と了解できます。この自身こそ 一切の衆生を代表するものであり、一切衆生の業縁にお いて、一切衆生の内に見出されたものであります。煩悩 も罪悪も、人間関係なしではありえません。故に、それ は、﹁社会的煩悩﹂﹁社会的罪悪﹂をも、自身の身の上に 受け止めているのであります。社会を他人事ではなく、 自身の問題として受け止める立場の﹁自身﹂であります。 ﹁ 社 会 的 罪 悪 ﹂ 、 ﹁ 社 会 的 煩 悩 ﹂ 、 ﹁ 社 会 的 宿 業 ﹂ を も 自 身 という立場で受け止めなければならないのであります。 われわれは、ともすると宗教は個人の問題であり、社 会的罪悪を非個人として、眼をそらしがちであります。 しかし、自身が問題となるとき、白身を含む社会も問題 となってきます。個人も社会も一切において﹁自身は現 に﹂と感知せずにはおれないところに、機の深信の意義

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共業の自覚と「われら j としての二種深信 があるのです。そこに﹁衆生を摂受したまふ﹂という法 の深信がそそがれるのであります。 ﹁われ﹂の問題は、法が﹁われら﹂︵一切衆生︶を救 うという限り、当然﹁われら﹂の問題となってきます。 ﹁われ﹂の身の自己否定は自ずと﹁われら﹂の身の自己 否定とならねばなりません。それ故に、﹁われ﹂の救い は﹁われら﹂の救いとなるのです。 われわれは、﹁南無﹂の自覚を通して、﹁われら﹂の社 会が悲歎されてくるのであり、﹁阿弥陀﹂の救いは﹁わ れら﹂一切衆生を正機としているのであります。念仏を 場として、如来真実が届き、われらの社会的罪悪が自覚 させられてくるのであります。それは、同時に時間論に おいても同じであります。社会的煩悩、社会的罪悪もま た、流れ行く今ではなく、︿常なる今﹀にそれが課題と なっていかなければならないのであります。われわれは、 臨終の一念に至るまで本願の正機である限り、常に﹁現 に ﹂ 今 あ る ﹁ わ れ ﹂ ・ ﹁ わ れ ら ﹂ H 個人・社会の罪悪を悲 歎しつつ、如来真実に問われ続けなければならないので あ り ま す 。 二種深信は、﹁われ﹂の深信から、﹁われら﹂の深信へ と深さとともに広がりを持ってくるのであり、本来この 19 ような普遍性をもっているのであります。 ところで、上にも述べましたように、わが身の宿業の 信知とは、法との出遇いによって成り立つ自覚であり、 破劫己来の宿業を背負う罪濁の身が全面的に否定される ということは、法との値遇を場として成就する事実であ ります。きれば、﹁われら﹂の立場における機の深信は、 そのまま、﹁われら﹂における共業の感知であります。 現 に 親 驚 自 身 、 うみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたる ものも、野ゃまにししをかり、とりをとりて、いの ちをつなぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつく りてすぐるひとも、ただおなじことなりと。さるべ き業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし ︵ 定 本 ﹃ 親 驚 全 ﹄ 四 、 言 行 篇 二 二 一 員 ︶ と﹁われら﹂の立場で宿業を感知しておられます。﹁わ れ﹂における宿業の感知は、その個々の主体的立場の連 携として﹁われら﹂においてもなされ、それこそ﹁共発 金 剛 志 ﹂ で あ り ま す 。 われわれは、真宗の立場から信仰を個人の内面に留め るものとし、社会的諸問題と無縁のものと考えがちであ ります。しかし、少なくとも真宗が﹁大乗の至極﹂と標

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20 せられる以上、最も大乗的であるはずであります。その 意味で、真宗の﹁信﹂が社会的、普遍的なものとして受 け取られなければなりません。 現に経文には、﹁共発﹂﹁同発﹂﹁一切﹂と伺っていま す。蹟劫より流転を繰り返してきた人聞社会そのものの 上に、宿業を感知し、﹁われら﹂のなせる社会の倣慢を 惚じ、社会的罪悪の悲歎を通して、社会の救済を願わね ばなりません。そこに社会の救済があります。二種深信 の立場を再考することにより、﹁共業﹂という言葉を キーワードに信仰の社会性をその普遍性、苦悩の共有性 から領解してきたようなことでございます。 諸 仏 最後に﹁諸仏﹂についてお話させて頂きます。親驚は、 ﹁ わ れ ﹂ ︵ 白 身 ︶ の 主 体 の 自 覚 が 、 ﹁ わ れ ら ﹂ ︵ 衆 生 ︶ へ と 普 遍 化 し て い く 様 を 、 ﹁ 同 行 ﹂ ﹁ 同 朋 ﹂ さ ら に 、 ﹁ 親 友 ﹂ と い う 一 一 一 一 口 葉 で 一 不 さ れ て い ま す 。 そ れ は ﹁ 真 の 仏 弟 子 ﹂ の ﹁サンガ﹂であり、もとより、その基本的考え方は﹃大 経 ﹄ に 学 ば れ て い ま す 。 もろもろの如来とひとしといふは、信心をえてこと によろこぶひとを、釈尊のみことには、見敬得大慶 則我善親友とときたまへり。弥陀の第十七の願には、 十方世界元量諸仏不悉苔嵯称我名者不取正覚とちか ひ た ま へ り 。 ︵ ︷ 疋 本 ﹁ 親 鷲 全 ﹄ 三 、 書 簡 篇 七 一 頁 ︶ 信心の人を﹁如来とひとし﹂とし、さらにその世界を十 七願の諸仏の世界とみています。信心を同じくする﹁わ れら﹂を親友、あるいは諸仏とき口い、それの帰する世界 と み て い ま す 。 親驚は﹁唯信紗文意﹄において、第十七願の心を﹁十 方 世 界 普 流 行 ﹂ ︵ ﹃ 五 会 法 事 讃 ﹄ ・ ﹃ 唯 信 紗 ﹂ ︶ に 確 か め て お ら れ ま す 。 十方世界普流行というは、並目はあまねくひろくきわ なしといふ。流行は十方微塵世界にあまねくひろま りで、すすめ行ぜしめたまふ ︵ 定 本 ﹃ 親 驚 全 ﹄ 三 、 和 文 篇 一 五 七 頁 ︶ と 一 不 さ れ る ご と く 、 第 十 八 願 の ﹁ 乃 至 十 念 ﹂ の 念 仏 は 、 第十七願の﹁諸仏称名﹂においてはじめて、具現化、普 遍化され、第十八願における﹁われ﹂の自覚がそのまま、 第十七願諸仏によって流行せられ、﹁われら﹂として普 遍化するのであります。それが諸仏称名の願意であり、 そこに真宗における信仰の広がりと社会性をみるのであ り ま す 。

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む す び 以上、信仰と社会という視点から二種深信の立場を改 めて確認しました。それは、念仏によって常なる現在の 上に信知されるものでありました。﹁歎異抄﹄において は、特に宿業の自覚という点にまで展開され、限りなく 自己を否定することによって得られる本願乗托の立場で あ り ま す 。 し か し 、 共業の自覚と「われら」としての二種深信 このような立場も、個人の内に留まるもので はありません。﹁群萌﹂といい、﹁同朋﹂と言われるよう に、﹁われ﹂から﹁われら﹂へと普遍化されるものであ ります。共業の身の自覚、さらには、共に引き起こす罪 悪︵社会的罪悪︶の自覚が、共に救われる世界、つまり 十方衆生の救済︵社会的救済︶を成就します。まさに、 ﹁共発金剛志﹂の立場であります。﹁われ﹂から﹁われ ら﹂への普遍化、社会化は、親驚の諸仏理解にも見られ るところであります。要するに、苦悩する人に寄り添う。 鍋島先生もおっしゃっておられる、悲しむ人に寄り添う。 寄り添うというのは苦悩を共有するから、寄り添うこと ができるわけです。共有化していくということは、私は 機の深信の﹁われらとしての機の深信﹂、そこにおける、 21 ﹁共業の自覚﹂から、そういった方向性がでてくるので はないかと自分自身受け止めているようなことでござい ます。こういったことに対して、理屈づけは不必要とい う考えもあるかもしれませんが、﹁赤表紙と新聞の聞に 身を置く﹂、つまり赤表紙、お聖教でやはり、きちんと そういった裏付けをしないといけないと思います。そう いう意味で、共業としての身の自覚をしたときに、立ち 上がらざるをえないのです。そのことが言ってみれば ﹁社会的実践﹂になるのではないかと受け止めさせてい ただいていることでございます。ご批判、ご質問等のご 教授をいただけたらと思います。長時間になりましたの で、ひとまずこの辺で終わらせていただきます。どうも ありがとうございました。 註 ︵ 1 ︶安田理深﹁赤表紙と新聞﹂﹃曽我量深説教集﹄第七巻 ﹁ 月 報 ﹂ ︵ 法 蔵 館 ︶

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としての法蔵菩薩についての

考察

は じ め に 筆者はこれまで﹁観経﹄と二河警を背景とした、曽我 量深︵以下は曽我︶の思索の一端を明らかにすることを 試み、曽我の法蔵菩薩論への道程、またその内実につい ての考察を行ってきた。この中で、本稿では改めて曽我 が提起した、法蔵菩薩と如来の関係性について考えてみ たい。もっとも、その視点の中心は、これまで行ってき た﹁地上の救主|法蔵菩薩出現の意義|﹂︵以下は﹁地 上の救主﹂︶やその前後の論考ではなく、後年の論文 ﹁ 白 証 の 三 願 に つ い て ﹂ ︵ ﹁ 見 ﹄ 大 一 二 年 三 月 ︶ を 中 心 と し た曽我の論考等としたい。そして、曽我が法蔵菩薩につ いての一連の循環的思索から歩みを進めた経緯に注目す ることにより、法蔵菩薩論の深化の展開を伺いたい。

さて、本年の学会開催テ

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マである﹁信仰と社会﹂に ついて、社会とは、どこか自分とは関係のないところに 存在し、そこで起きる事象を社会現象として傍観者的に 捉えるべきではなく、自らもその中に組み込まれその一 端を担っているという自覚が、社会を構成する我々には 必要と考えるのである。一方、信仰を考える際にも自ら を中心に考え、信仰の対象を作りだし、あたかもそれが 天賦の才をもつものとして、その信仰対象に全能観を抱 きつつ憧憶しでも、実際には信が疑へと変化することは ﹁観経﹄に於ける章提希夫人が実例を示している。宗教 は一人一人の問題であると同時に、白道の前に立つ時に は自らしか存在していないため、こころの作用によって 宗教は生み出されるものであると考えるところである。 このように社会と信仰を捉えるとき、筆者は何らかの

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「如来は如来なり」としての法蔵菩薩についてのー;考察 変化が曽我に起こったことにより第四の命題が湧き上が ったと考えている。その変化とは、社会の苦悩に対応す べき宗教の存在と、自己に内在する宗教に於ける思索と の隔たりではないだろうか。また、この思索とは、それ までの常識として教えられていた宗学への疑問と社会に 流布し始めた思想変化によって形成されたため、これら の変化と相倹って曽我の思索を展開させ、法蔵菩薩につ いての循環的思索を一段跳躍させたと考えるのである。 そこで、本稿の考察手順として﹁我﹂と﹁如来﹂の関 係を考察しつつ法蔵菩薩論へと到った展開を、確認の意 味を含め、改めて初めに見直す。そして曽我の思索が社 会等と交流している様子を、先行研究を参考にしながら 検討し、後年の﹁如来は知来なり﹂とした命題における 法蔵菩薩と如来についての思索の意義を考察したい。 法蔵菩薩論の概観 23 筆者は前掲拙稿に於いて、曽我が法蔵菩薩論を感得し た時期を一般的に理解されている﹁地上の救主﹂以前に、 主に二河警と﹁観経﹄を背景としてなされたとの私見を 述べた。それらの時期は大正二年﹁精神界﹄に﹁地上の 救主﹂が掲載されたことを中心とするが、その以前にも 萌芽を見出しうることができると述べたところである。 これらの中、法蔵菩薩論の形成過程にあった曽我は ﹁ 暴 風 紋 雨 ﹂ ︵ ﹃ 界 ﹂ 明 四 五 年 一 O 月 ︶ に 於 い て 、 我は如来を汝と呼ぶに止まらず、如来を直に我と呼 ぶ 。 自力教の人は直に﹁我は如来也﹂と叫ぴつ﹀得意が れ り 。 浄土余宗の人は﹁如来は如来也﹂と叫びっ、現世を 徒 に 悲 観 せ り 。 我等は﹁如来は我也﹂の妙旨に驚くと共に、﹁我は 畢寛我にして如来に非ず﹂と自覚す。 ︵ ﹁ 一 O 五 如 来 は 我 也 ﹂ ﹃ 選 集 ﹂ 四 ・ 三 四 O ︶ と、﹁我と汝﹂、すなわち衆生と如来の関係性をまとめて いる。最初の一文は通常の主客関係に於いて主体を表す ﹁我﹂が、如来を客体として﹁汝﹂と呼ぶ関係を超えて、 宗教的主体として仏道を歩むものは、如来が我となる不 可思議を前提として掲げている。その内容を以下に述べ ているが、﹁我は如来也﹂とは、自らが成仏することを 喧伝する自力教についての批判であろう。そして、﹁如 来は如来也﹂とは、浄土余宗の人が称しているのは臨終 来迎の如来であり、全く衆生との隔絶を示唆しつつ、人

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24 聞が肉体的に死に直面する時にのみ、存在の確証を得る ことが可能とする如来の理解である。このような宗教心 の帰結として、日々の生活を営む我々には如来の実在は 理解不能であり、﹃大経﹄第十九願の臨終現前を侍み現 世を悲観する機について述べていると考えることができ マ 匂 。 これらに対して、最後の丈にある﹁如来は我也﹂、﹁我 は畢寛我にして如来に非ず﹂という思索も前文同様に衆 生と如来の隔絶を前提としてはいる。だが、この論義が 後の法蔵菩薩論に繋がったことは言を侯たないであろう。 それは大正二年の論考﹁地上の救主﹂に於いて、﹁如来 我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり﹂という法蔵菩薩 の感得となったのである。 これら当該論考についての筆者の見解は前掲拙稿に掲 げているが、ここでは真宗の教学として、より一般的に 容認されるであろう、先学の解釈により、曽我の法蔵菩 薩論の要点を挙げておきたい。 曽我は若い時から法蔵菩薩に関心を持ち、法とは固 定しない生々流転で、蔵は阿頼耶識で平等の眼で万 法を受け取っていくことだと考え、自分自身の心の 深いところに仏を見出していくのが法蔵菩薩だとみ た 。 本 著 ︵ 昭 和 三 七 年 米 寿 記 念 講 話 ﹁ 法 蔵 菩 薩 ﹂ ・ 筆 者 註︶は青年期から唯識学を講じ、論理的思考にもす ぐれた著者の教学なり信仰なりの到達点として、記 念塔的意味を持っている。 彼は如来と自己とは不離なものとみ、﹁自分を信 ずるということと如来を信ずるということとは、一 つである﹂とのべ、自己を本当に信ずるからこそ、 仏は自分を本当に信じ、仏の願力は自分を救済して ︵ 2 ︶ くれるのだといっている。 このような法蔵菩薩論についての理解もまた、全く首肯 すべきである。筆者の見解とは異なる部分もあるが、曽 我が領解した法蔵菩薩の内実を、真正面から我々後学の 者に示してくれている。この解釈はしかし、大正初期に 於ける法蔵菩薩論の思索を超えて、晩年における曽我の 法蔵菩薩領解についての要点である。それゆえ、次節以 降で考察する﹁如来は如来なり﹂とした思索への一言及は 直接的にはなされていないのである。 曽我の思索とその影響 前節に於いて曽我の法蔵菩薩論について概観した。そ のうえで本稿に於いて一課題として考えるのは、大正一二

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年三月発行﹁見真﹂に掲載された﹁自証の三願につい て﹂に於いて述べている一文である。それは、 明治四十五年の七月﹁我は我なり、如来は我なり、 されど我は如来に非ず﹂と叫んだ語の意義は今更に 深く感ぜしめられる。それは今や第四の命題として ﹁如来は如来なり﹂に到達せしめられた。 「知来は如来なり」としての法蔵菩薩についての 考 察 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 四 ・ 六 四 ︶ と、先に示したものと同一文であり、浄土余宗の人の発 言であると、曽我自身が領解していた﹁如来は如来也﹂ である。このことが、今や真宗に於いて法蔵菩薩を考え るためには必須のものになったと曽我は論じている。こ れらの異同について考えていこうとするのである。 そこで、予め考えるべき要素を四点挙げたい。第一に 曽我の時代社会への対応、第一一に境遇の変化、第三にこ れ ら 論 考 前 後 で 語 ら れ て い る 言 葉 が 宗 学 の 一 言 葉 に 加 え 、 哲学・唯識の言葉を含むように変化した点、第四に知来 と法蔵菩薩についての明確な峻別である。 25 ハ 門 社 会 へ の 対 応 それでは、考えるべき要素の第一から第三をまとめて 考えてみよう。というのも、﹁一はじめに﹂で提示し たように、社会と個人を切り離して考えることは実際的 ではないと考えるからである。 さて、曽我が社会へ機敏に対応している様子を表す言 葉に﹁赤表紙と新聞﹂がある。これは安田理深︵以下は 安田︶が、師として尊敬していた曽我の生活態度につい て述べていることは周知であるだろう。この話は常に社 会に対応し、その根拠を聖教に求めて、自身の立脚地を 教えとすることを表している。一面では曽我のことを正 しく理解していると思われる。しかし言葉のひとり歩き は危険であり、また、曽我がこの態度を終生していたの でないことも注意すべきである。そこで、このことばに ついて幾つかの事例により考えてみたい。 まず、﹁新開﹂として表現されている社会に於ける出 来事について考えてみよう。ここでは特に、特徴的な事 例として戦争に関して考えてみたい。先行研究は日露戦 争に対して、曽我が﹁平和論﹂を唱えたとしている。ま た同研究は、一連の日蓮論に収まっている論考の中の ﹁ 敵 は 善 人 也 、 友 は 悪 人 也 ﹂ ︵ ﹁ 選 集 ﹄ 二 巻 所 収 ︵ ﹃ 界 ﹄ 明 一 一 一 七年七月︶︶に於いて、社会倫理や国家政治と宗教との関 係性について、宗教と諸問題を別次元のこととして理解 する方法を述べているとし、

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26 曾我は、精神主義は本来、このような世俗の最大権 威に対し、十分批判性、指導性をもつことがなけれ ば、真の主観主義を確立しえないことを、主張しよ うとしたものと推察する。 として、単純な異次元とするのではなく、宗教的次元か らそれらに対して関心と批判を継続するべきもの、宗教 が積極的指導性をもつべきもの、と曽我が主張している と指摘している。さらに第一次世界大戦についてはその 当 時 、 ﹁ 法 界 と 衆 生 界 ﹂ ︵ ﹁ 界 ﹄ 大 六 年 七 月 ︶ に 於 い て 、 今日の世界の大戦乱を見まするに、一神教も自力的 宗教として、多神教である事を知り得ませう。独人 の神も、英人の神も、同一なる耶蘇の神であるやう であるが、しかし同一の神を推し立て、相争ふ事は、 その神観の実相が、多神教である証拠であります。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ コ 了 二 三 九 ︶ のように、一神教の神と多神教の神についての思索とし て、戦争についての考察をしていることを、先行研究以 外の事例として指摘することができるのである。 この他にも、﹁暴風駿雨﹂を執筆するより前であるが、 社会対応の例として、思索としての﹁日蓮論﹂を曽我は ﹁精神界﹂上で連載している。日蓮論の背景を日蓮の配 流地が曽我の故郷新潟であることに求める先行研究もあ るが、社会の風潮として日蓮論が盛んになっていたこと に対応していることも指摘されている。この指摘のよう に、国粋主義的な時代の気運に対して曽我は日蓮論を書 いたと考えることもできるのではないだろうか。 さらに、初期論考では足尾銅山鉱毒事件についても言 ︵ 7 ︶ 及するなど、社会に応答し、そのことによって思索する 姿勢を曽我の論考には見出すことができるのである。 ( ニ ) 思 想 へ の 対 応 一方の﹁赤表紙﹂と表現されている聖教を考えてみた い。ことばのひとり歩きの危険性を先に言及したが、曽 我が真宗の聖教だけを読んでいたと考えている人はいな いであろう。真宗の聖教が曽我の根本であることに異存 はない。だが、筆者が﹃真宗聖典﹄の何処を探しても、 法蔵菩薩阿頼耶識論の端緒を見出すことはできないと思 う。このように、曽我の思惟を形作ったものとして、真 宗の聖教以外にも唯識の影響があったことを考えること ができる。曽我自身が、若い頃から唯識に親しんだとも 発言しており、その影響は考えるべきである。 さらに、唯識以外の思想による啓発も考えることがで

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「如来は如来なりjとしての法蔵菩薩についての一考察 きる。多くの先学は、清沢満之︵以下は清沢︶が曽我に 多大な感化を与えたことを指摘している。これについて も全く否定できないところである。 しかし、これら唯識と清沢による影響のみが曽我の思 索を形成したとも思われない。それどころか、この他に も曽我の身近にいた暁烏敏や金子大築︵以下は金子︶ら との交流、香月院深励を初めとした真宗学者からの影響 は無視ができないのである。曽我が一人孤独に思索して いる新潟時代でさえ、金子との文通を通して思索を進展 していることは、金子との書簡集﹃両眼人﹂︵春秋社、一 九八二年︶に於いても認められるのである。順であれ逆 であれ、様々な教一不を多くの学友に与え与えられている ことを認めることができる。 ところで、法蔵菩薩論として﹁地上の救主﹂を発表し ている時期の前後、曽我は故郷新潟に居を構え﹁田舎土寸 の研究生活﹂者として、また﹁食雪鬼﹂として生きてい る。当時は研究の対象が真宗の教えへと向かっており、 純粋に真宗学に没頭したのであろうと想像するところで ある。すなわち、社会からの刺激が少ないために専ら真 宗の教学をその対象として、それまでに蓄積された思索 と荒野に生きる現実をも糧とした考察を縁とすることに 27 よって、法蔵菩薩論が生み出されたと想像するのである。 それでは、大正二年に法蔵菩薩論が発表された後、本 稿の課題となっている、第四の命題が生まれる大正二一 年までの曽我の境遇を考えてみよう。曽我は新潟での生 活の後、東京に移り、東洋大学と日本大学に於いて講義 をしている。大学での担当講義だった唯識論を思索の基 底としていることは上述しているが、この時期に、哲学 の影響を受けていることを、筆者は以下検討したい。 菱木政晴は曽我の哲学に対する態度について、早い時 期から哲学の言葉で浄土を説明しようとしており、それ は清沢と軌を一にするものであると指摘した上で、 曽我の西洋哲学理解は昨今の﹁﹃ヒューマニズム﹄ 批判者﹂とさほど隔たりはないと思っている。実際、 戦前・戦中・戦後の曽我のさまざまな発言を総合し てみれば、西洋ヒューマニズム、あるいは人権思想 についての根本的無智、または、誤解があると断ず ︵ 日 ︶ るほかはないからである。 と位置づけている。そして清沢は哲学にふれているが、 清沢には﹁国家や社会を形成する主体としての人間につ いての考察から近代の西洋哲学が生じている﹂という視 点が抜けており、曽我も同程度であると指摘している。

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