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『宗教研究』日本宗教学会第2回大会紀要(*79号)

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(1)

――目次――

宗教学一般及び方法論

1,

因果律と宗教,帆足理一郎,Riichirō HOASHI,pp.1-6.

2,

教団発展の形式,真野正順,Shōzyun MANO,pp.7-12.

3,

宗教本質論における事実と価値との関係,岡邦俊,Kunitoshi OKA,pp.13-17.

4,

型理学としての宗教学,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.18-25.

5,

宗教現象学における作用側面,佐藤賢順,Kenzyun SATŌ,pp.26-31.

6,

現代宗教の特質,鶴藤幾太,Ikuta TSURUFUJI,pp.32-35.

7,

教義について,上田嘉成,Yoshinari UEDA,pp.36-39.

宗教学特殊問題

8,

宗教々育実際案としての一考察と諸問題,藤本一雄,Kazuo FUJIMOTO,pp.40-51.

9,

神秘信念の発芽二三,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.52-57.

10,1910

年におけるトルストイの世界大戦並に其他の予言について,石田友治,Yūji ISHIDA,pp.58-70.

11,

伝道学の語源及其発達の研究,小松雄道,Yūdō KOMATSU,pp.71-75.

12,

知と信(Wissen und Glauben),守屋貫教,Kangyō MORIYA,pp.76-80.

13,

宗教意識における知覚表象の特質,西沢頼応,Raiō NISHIZAWA,pp.81-85.

14,

宗教意識の発達における児童の秘密性について,関寛之,Hiroyuki SEKI,pp.86-91.

15,

英米宗教哲学の一特質,田淵正範,Masanori TABUCHI,pp.92-95.

未開民族及び古代の宗教史

16,

朝鮮巫俗の聖所,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.96-101.

17,

巫堂について,金孝敬,Hyokyon KIM,pp.102-108.

18,

ケルト族の宗教と聖パトリック,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.109-115.

19,

巫者の女装について,宇野円空,Enkū UNO,pp.116-121.

20,

摩尼教下部讃について,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.122-127.

キリスト教

21,

基督教の社会性について,菅円吉,Enkichi KAN,pp.128-132.

22,

グノーシス研究の資料及び問題,第2世紀キリスト教史再吟味への提案,森敬之,Takayuki

MORI,pp.133-140.

23,

長崎県下旧キリシタンの現状,田北耕也,Kōya TAGITA,pp.141-145.

仏教関係

仏教学一般

24,

仏教学の組織と根本仏教,宮本正尊,Shōson MIYAMOTO,pp.146-162.

25,

仏典における自己批判,大野法道,Hōdō ŌNO,pp.163-167.

26,

国土成仏,椎尾辨匡,Benkyō SHIIO,pp.168-174.

27,

人間学としての仏教学,高神覚昇,Kakumyō TAKAGAMI,pp.175-181.

28,

宗教批判としての末法思想,その序論的考察,戸川霊俊,Reishun TOGAWA,pp.182-187.

初期仏教

(2)

29,

仏伝並びに仏伝文献に現れた修飾化,平等通昭,Tsūshō BYŌDŌ,pp.188-198.

30,

阿育王の伝導事業に対する一考察,木村日紀,Nikki KIMURA,pp.199-203.

31,

部派仏教と大乗教義との交渉に関する二三の実例について,望月信亨,Shinkō

MOCHIDSUKI,pp.204-206.

32,

阿毘達磨論書における空観の意義,特に法空観につきて,西義雄,Yoshio NISHI,pp.207-226.

33,

摩底迦,荻原雲来,Unrai OGIWARA,pp.227-231.

34,

部派仏教規定の仕方,佐藤密雄,Mitsuo SATŌ,pp.232-237.

35,

行(Saṇkhāra)につきて,佐藤良智,Yoshitomo SATŌ,pp.238-242.

36,

仏残食についての信仰とその経済的意味,友松円諦,Entai TOMOMATSU,pp.243-248.

37,

仏教法律における犯罪成立の要件,上田天瑞,Tenzui UEDA,pp.249-258.

38,

数論派の起源について,山本快龍,Kairyū YAMAMOTO,pp.259-263.

後期仏教

39,

支那涅槃宗正系の衰因,布施浩岳,Hirotake FUSE,pp.264-267.

40,

一大乗,日本仏教の基本として,花山信勝,Shinshō HANAYAMA,pp.268-275.

41,

方広(Vaipulya)の研究,加藤精神,Seishin KATŌ,pp.276-282.

42,

那爛陀寺創建の年代考,神林隆浄,Ryūzyō KANBAYASHI,pp.283-289.

43,

所謂笈多訳金剛般若論に関する疑義,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.290-293.

44,

人及び人生中心の聖典としての法華経,山川智応,Chiō YAMAKAWA,pp.294-297.

日本宗教史

45,

日本古代宗教における自然崇拝の特性,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.298-302.

46,

日本寺院法の性質,細川亀市,Kameichi HOSOKAWA,pp.303-307.

47,

温泉神社の研究,加藤玄智,Genchi KATŌ,pp.308-313.

48,

統制,黒住宗武,Munetake KUROZUMI,pp.314-314.

49,

明治維新と神道思想,宮地潜,Sen MIYAJI,pp.315-319.

50,

中世的寺院形態の成立,圭室諦成,Taizyō TAMAMURO,pp.320-324.

日本宗教学会第2回大会記録,pp.325-337.

Posted in 1933

(昭和8)年

(3)

−因果観念の景教史的理展

宗教の池原を集するに、原始人は知的好奇心Q満足のために宗教を菅生した?ではなく、∴日常生活の茸際的要求か

ら、異常な力に援助を求めようとする、それが宗教を産み■出したのである。孟ば、宗教の起慮とな・りし内面的、心理

的理由は古来畢者の想像せし如く恐怖ではなく、寧ろ援助を求むる心にありといはねぼならす、その外的表現は魔術的

因果関係に最もよく現はれてゐる。原始人が崇拝又は貴重する魔の宗教的翳象は、いつも魔術的寒行力をもつといふ信

仰から溢れたものではなかった。彼等が供物を捧げて今年の稔の豊かならんことを斬るにも、叉フェチシュ︵木片や石 塊︶を撫で1敵に桐が超少−或は味方に勝利が来らんことを斬るにも、そこに因果関係を認めたからだ。

後世、魔術が集囲的に箕習されて公共的要素を加へると同時に、それが書々人間の意志を成すにあらす、紳の意志に

従って効果をもたらすと信じられるに至って、魔術は奇蹟となつた。奇蹟は要するに紳Q名にょつて神聖化された魔術

だ。それが国英貌念を離れたものでないことは云ふまでもない。

虎が、魔術的因果祝念の今;流れは奇蹟とは全く類を異にする輪租の詮となつた。エヂブト及びインドに行はれた

由果樺と浣二敦

因 果 律︰ビ 宗 教

帆 足 哩一郎

(4)

因果律と素数 輪廻持生の信仰は倫理的要求から出たものであつて、前世の菜によつて今生Q相を作男、今生の業は更に後生の這命を決 定するといふ覧取は、鮮鮮に郁レ妄撃あつたインドにおいて−覇和好の法則即ちダアマの親念となつた。ダアマ如 プラ▼ ち法は宇宙の絶封着であつて、斬っても願つても之を妊げる事はでき牢七不思議なことには、梵はもと新穂の紳化さ れたもQであつて、此鮎において草薙門は他に類例のない特色をもつてゐるのであるが、しかも後世、ダ7マの取念を 蟄生するに至って、全く新帝的要素を排除し、情意によつて曲げることQできない永久不襲の因果洗剤となつた。 インドに於ける此Q因果取は、近代科挙の因果的自然法と相通するものであつて、此部において沸教の因果取は極め て近代的と云へる。西洋諸国においては、十六せ紀以釆、自然科挙の賛達に連れて、不可壁の自然法や因果則の取念が 泡少、これがクリスト教の奇蹟取と封立するやうになつた。そして、従来、単に驚異といふ意味に過ぎなかった虎の寄 席が生に初めて自然法を在げて行はれる慶の神意に基づく事件を意味するものとなつた。以来、奇蹟を倍することは自 然法Q不可津軽を炭ふもQとな少、自然法の絶覿性を侍することは奇蹟の否定とならぎるをえなくなつた。し

〓 因果應報と倫理の棋糠

原始人の宗教生活における因果的要求は、上述Q如く、隆史的に二つの流れとな少、一は因果律を無硯した奇蹟の取 念となp、他は因果律に依壊し窄目然法の貌念とな少、五に封立せぎるをえなくなつた。科草丈化の向ふ虎、今日、奇蹟

クリエーチ′・ヴ

は迷信として斥けられぎるをえなくなつたが、全く奇蹟的要素のない世界に、創造活動妄るものがありうるであらう か。今の、創造活動なるもQが人類の興味に穎著なるものである以上、固定不牽、千篇一律の自然法的因果律が厳正に

(5)

必然に行はれると見ることも、不可能となりはしないか。 エヂブトやインドにおける輪廻持生の因果貌は宗教的要求と同時に、倫理的要求から絶つた。菩人菩報を享け悪人悪 報を受くべきであるといふことは、人間の道徳心に深く喰い入つた信億である。現せの萱輪の困が不明である場合、そ れは前世の功徳に上ると見、現世の罪菓が、従つて、後生の悪報となるべしと信することは人類通有の道徳取に基づく もQだ。大野カントでさへも、此世における田臭應報の不調和なる寄算に基いて、その厳正に行はるべき後生即ち墨魂 ● ボ大事ユL主卜 不滅を要請するに至つたのである。 虎が、因果應報の厳正を期待するこ上は原始道徳には邁はしいものであらうけれど、今日の豪速した倫理税において は、国展應報の厳正は所笹、道徳を功利化する結果となる。そは勿論物質的な功利視ではないが、〓榎の精紳的功利主 義に堕する。なぜなら、人間の専行が、後日、此せにおいてか、彼のせにおいてか、何れの時か必ず、それ粕嘗Q善報 を以て酬ひられるものであるならば、人は事報を日常に功徳を樹てることゝなり、叉現世の罪悪が、永遠Q将来の何れ の時にか必ず惑報を以て酬ひられるといふやうに因果関係が厳達であるならば、人間は悪報を恐れて罪恵を恨むといふ ことになるからだ。尤も、報酬が物的で手近なものである場合と、地獄極楽Q取念の如く、彼Q世Q間膚で、時間的の 隋りが甚大である場合と、その功利税は全く同lとは云へない。が、苛も因果應報が転封の蕨正さを以て行はれるとい ふ鮎においては、時間の捕りは問題でなく﹁此場合、人間が耗虞な倫理的努力、即ち徳のために徳を樹てるといふ純度 な動機から道徳行為をなすことは、所詮本質的に不可能となる。 自然法的因果律の患封必然に行はれる世界を想像せよ、人間は異に自由意志を以て行扮しうるであらうか。凡てはな 因果律と宗教

(6)

るべくしかならぬ。大法輸の韓同する靡、只そこに鮭封の服従卸ち奴隷生活があるだけだ。東洋文明が従来遅々たる歩 みを蓬ぶに過ぎなかつたのは、この因果律の転封性に封する信仰に打負けて、人間的自由意志の活躍を著しく阻専され てゎたからではあるまいか。

三 国東洋の絶封性と宗教の吾定

置黒律の鮭封性は人間道徳の純眞なる動横を阻害し、自由意志の棍嬢を危くするばかりでなく,義教Q存在理由を結 局否定することになDはしないか。といふQは、敢て因果的自然法を注げる虎の奇蹟がなけれぼ、宗教の存立を危くす るといふが如き意味からではない。クゴアの云ふが如く、大河に架けた梧が人間意志に七って自由に屈曲し、橋下に胎 が通る時は、橋旺猫背の如く曲わ、凍上に人が通る時は叉平坦に復するが如きもnであつたならば、至極便利なやうで あるけれど、梼上を渡る人の意志と棒下を通る船主Q意志と同時的に働いた場合、災約は忽ち二者何れQ上にも落ち る。揺の橋たるはその曲らない堅資性にあるとするならば、自然に一定Q珪則があることは宇宙秩序Q推持Q上から昔 然要求さるべきことだ。故に膏等は奇蹟を排する。

けれど宇宙が範封必然の法則に解られ、因果聯韻の厳正不可避に行はれる世界であつたならば、宗教Q必要は結局絶 無となるのではないか。 字膚の大法は絶封不襲のも写、その因果的運行は宇宙の太動から決定的なものであるt想像せよ。法則は尺複を意 味する。反復なき現象を法則化することはできない。故に宇宙に絶封の大法ありといふことは、宇宙が同じ事の反復さ 因果律と宗教

(7)

れる世界であることを意味する。反復は即ち磯城Q特色であつて、昔インドの天才は因果Q法則を草輪に零へた。げに そQ通りであつで、因果律Q厳正さは宇宙妄車輪的に磯城化するものである。そこで、宇宙に機械的な因果律が厳正に 行はれる場合、科挙研究Q本質上、因果的自然法を全部知悉することは不可能でなく、人生Q問題として落木の事件を

支配せんとする因果的努力は、凡てそれ料亭的因果律の研究に向けられ、宗教は何等之に貢献する領域をもたないこと

になる。

カントの云ふ如く自然法は物理的外面世界のことに属し、それは全く機械的に宿命的に決定されたものであるが、倫

理倒内面世界には先験的な理性あわ、そこに自由の領域があると見るのは、決して道徳Qせ界を自然法から礪立させる

練兵とは私らぬ。先験的な理性は即ち内界の自然洗であつて、そこに理性の決別あゎ、法則は反復的であつて、自由未

決定の存在を認容しえないからだ。

宇宙が因果的自然洪の不可欒に行はれるせ界であ少、叉それが内面的にも絶封理性の規定する虎であること、ヘエゲ

ルの云ふが如きものであるならば、そこに宗教の存在理由はない。科畢と哲畢とはあらゆる法則左見出して、人生の行

途を適確に規定し支配することができるはすだ。然るに、曹挙が一切の精紳現象を合理化することを過去において成就

しえなかつたやうに、将来においてもそれは恐らく不可能であらう。ぼかりでなく、因果律の厳正に行はれるとされて

ぁる物質界においてさへも、︵イゼン・ハ7ク芸ふが如く、和衷感か要素ありとす差らば二言笑怯において法

則的運行を拭けるものとは容認すべきであらうが、因果律の絶封厳正に行はれる世界と見ることはできない。

因果的反復以外に伺未決定の要素の働く歯、そこに創造活動が可能なのであつて、創造活動Q存する慶、宇宙は全部 因果律と宋政 五

(8)

因果律と宗敦

合理化叉鱒因果律化するととはできない特色をもつてぁることを認めねばならぬ。合理化、因果律化の不可能なる虚、

そこに信仰的直覚Q働く飴地がある。ルウタ7が云つたやうに、信仰竺種の胃酸だWa鼠∽だ。をこに人生の運命が

何者にも宿命づけ、蓬命づけ、秩定されてわない自由の領域をもつ。自然界が厳正不可努の因果律に支配されてゐなが

ら、人間なる自然の一存在に、長の自由が獲得されるはすはない。

もしそれ、宇宙が本質的に情意を快く理智のみの存在であるならば、因果律的自然法や理性の法則は絶封必然に行は

れるであらうけれど、苛も人間が理智よゎは寧ろ情意的な生命である以上、宇宙の本質を絶封理性と見るは所詮不通嘗

で、因果律の絶封性も之を挺香せねばならぬ。書等は寧ろ原始婆森門に挿少て、宇宙を芳成組絃と見ることなく、そは

本質的に新帝即ちプラマであつて、絶間なく新奇な新求願望をもち、そQ箕現のために躍進する創造活動と見るべきで はないか。創造的進化の世界は反復不可能、珠見不可能、その現象は一同的に猫自lのものであつて、到底因果律の厳正 に之箪規定しうる虎にあらす、サバチエQ所謂欣求郎宗教Q存在理由を多分たもら世界といはねばならぬ。

(9)

〓︶ 票数々園は一般に、如何にその頚巌の経過を辿りゆくものであるか、その原則的形式とも考へらろ1ものに就て、一 のスキッッエを試みて見たいと思ふ。 教幽の頚展を、夫れを囲むところQ一般社命の史的蟄展の事柄若しくは法則に伐て僻持することは、一般に為されつ ゝあるところであるが、たゞ夫れのみでは不充分である。なぜなれば、数困は宗教的信念なる特有の契横に依て結びつ けられたる特殊なる配合であつて、其の馬に外的に一般社食の中に存しっ1犬れと区別し、時に封心止さへしているから てある。敢幽融合を理解するためには、それを教圃として集結せしめている特有の本質信念の特徴が考慮されねばなら ナ、特に、共歴史を理解するためには、教団の歴史に於て、後代の致綻等は如何なる仕方において英数圃の本質信念を =∴誹し把瞑して行くかゞ綻志 せられ、それに基て考察せられねばならぬ。何となれば、数圃の歴史とは、か1る把捏の ザ∵しなく繰返され行く過程と見る事が出家るからである。l 致闊巧奥 の 形式

教 団 螢 展 の 形 式

眞 野 正 順

(10)

︵〓︶ 成立宗教は常に自家に於て宗教の究党なる本質が最もよく具現せらると云ふ確信を基として成立しで 信を快いては.人が教徒として一の成立宗教の中に属することも、また、其宗教が敦輿としで社食の中に存接すること も不可能である。そして、か1る確信の内容は一粒に英数囲の教組の人格内容に向つて集注せしめられる。即ち、その 最高と信ぜらる1数圃の本質信念は、更に教組の人格に於て最もユく具現せらると確信せられ、か1る確信に放て数圏 は成立するのである。 されば、数社に取ては、教組はまた数囲の本質信念を把捉するための理想的日榛となり、常に教組の人格内容を通じ て、英数観の本質を獲得せんと努められる。この際、教徒と教組との間に営まる1理解Q仕方は、たとへぼ、かのボ.ハ ーミンの捷唱せる宗教心理畢的循環にも似たる形式を取る。即ち、人ははじめ教組の人格内容の中に一、.自己の傾向に基 て何程か理解し把挺するところあるや、それを奉じて安生活む中に踪少来る。そしてそれを範として安生活の中に生を 営める問に、おのすから、その信念内容に裁て更に深き意味を見出すか、或は何か満ち足ちぬ感を生する。この時、教 徒の脹は直ちに模範としての教組へと再び振返えさせられる。そしてこ1に新たなる深度に於て、はじめに束附かざり し教組の人格横倍を新たに見出し、かくして更に豊かにせしめられたる信念を以て再び安生括へと蹄つて行く。この楼 咤∵教組に依て自己を深められて安生活に入り、安生活に依て更に豊かにせしめられたる自己を以て再び教組に近づく ヽヽヽヽヽヽヽヽ 圭雪雲教徒の敵組への反寮内薄の努力は、その経りも知らず無限に繰返さる1ものであつて、これ故国宗教のもつ一 故国蟄展 の形式 八

(11)

ヽヽ▼ の特質である。 この反覆¢無限性の択抜は、教組人格の理解が単なる史茸の客取的把捏でなくモモの憤値的解明に外ならぬ事情に 基く。およそ、横倍財は、あたかも、物部それを照し出す七ころの燈火の角度Q如何によつて限りなく英姿態を壁じて 現はれ来るにも宰へらる1ものなるが如く、理想目榛となれる教組の人格内容も亦、それを把捏せんとする教徒の人格 的内容の進展と照麻して、限りなき意味を新たに開展し出すもQであつて、数社に於ける理想の進展は、直ちに教組そ れ自らの意味を深むること1な少、かくて、如何に致徒Q人格内容が進展すればとて、教組は共産毎に新に起り来ると ころQ限りなき意味を鼓するものとして前面に立ち現はれ、深まり近づくと共に無限に新たなるもの現はれて、これを ヽヽ■ヽヽヽ 把乱せん止する追求は、遮にその終結を見ないのである。かくて、教組は教徒に取ては求めて果て⊥なき永迭の目擦で ヽヽヽ.ヽヽ あり、近づくと共に更に深きへと後逸する永遠の耐秘として、常に其前面にあつて輝くのである。 この事は、一面より見れば、教徒が自ら蟄展しいだせるところの理想宅教組の像の上に貼附して行くことに外なら ぬQであるが、然も海、この教徒の理想産出は、常に自己を教組に移入せしめ、教組の鳳値的立.場を根基として展開し いだすものなる限少、それは決して、教徒個人の悪意的貼附で旺ない。むしろ、数圏の本質信念の立場よりすれぼ、教 組によつて初めて鮎ぜられたる本質の芽が教徒を通じて営むところの自然的生長に外ならぬことゝなるのである。 さて、上記しばらく救国の個人をかりて塞いたところの経過は、やがて直ちに全教囲がその全睦史相をもつて螢むと ころのものに外ならない。一瞬の停まる時を知らず常に新たなる暦を以て更生し来るところの人類歴史の畿展は、救国 Q先躍等が既に教組に裁て作りなしたる理解の諸相を岨噛しつゝ、更に新たなる立場より.其上を超えて教組に近づかん 敦囲資長の形式 九

(12)

一〇 教団蟄展 の 形式 とし、近づかんとする事に依て、却て更に新たなる数組の窓色を重ねるのである。かくて歴史を鮭る悶に、教圃の中に はさまぎまの税野よりする教組理解の諸相が産出せられ、累琉せられ来る。そして、この理解の柾々粕こそは、やがて 故国に於ける教理の種々なる立場をつくる因子となるのである。 ヽヽヽ かゝる間−姦意を要すべき現象として一月砺とせられつゝありし教組は、次第に、ありしところのもQより離れ て∴禦ふかところ数禦と評絆するの現象を生する。〓甲宗教が、異なれる時代異なれる地方・民族の内に流侍する 問には、教組の言詮・事蹟の中、教組が出生せL時代と環境とに於てのみ昧意ありし部分は次第に翰象せられ、普遍的 に意養ある部分のみ、教組Q本質として、力強く蕃かる1は自然であるが、更に先の串柿に基て、それが更に規想的に 濃化せられ蟄展せしめらる1事に伐て、現茸典解約なる歴史的教組の萎は崩れて、ナザレのイ土スは囲境を超えて救世 Q紳子となり、肉身の襟曇はおのづから法身の伽陀へと欒貌するのてある。そして、この数軋の欒貌は、ますます其㌫ 数の流通性を横ぐるに至ると共に、ますます教組理解の自由を解放し、それの結果たる教理の多岐性と照鯨しっ1、天 白らも亦努化の道を辿るのである。 ︵三︶ この教組理想化の現象は、原則として旺、それが督該時代社台の要求に飽和する時に至つて暫く休止し、更に時代遮 りて社台が新たなる立場によつて其要求を刷新し来ると共に活動は再び開始せられて、新たなる理想的要素は更に教組 Q上に附加せられる。そして、この教組に於ける理想要素Q脾史的異境は、その教組の人格内容に於て飽和し縛らるゝ

(13)

防雪で、その昔呈と累積せられて血書るものであり、教組あ人格内包が、どこ喜.か1る警鮭和に堪え縛 らるゞか、共程度に於て、其宗教の持続生命と凍布範囲とが測らる1澤であるが、やがて、こQ教組に於ける理想内容 Q有機憬的自然増大が抵崩せらる1に至るか。或は、雑多なる理解諸相が過多に群生して其問に毒せる統一が見通し 舵はぎるに至るか。或は、英語和が互に矛盾し相耕して全く相容れざるか。等の現箕に立到ることに依て、途にこ、に

ヽヽ

ヽヽ

教鞠の分裂もしくは欒質が惹起せらるゝのである。 その方向は大侵攻の二の何れかを取る。一には、先時代迄の間に教組の上に構成せられたる理想化形態が、攻略代の社 食Q要求に取て遽に堪え難き存在となる場合である。蓋し歴史は必ずしも常に漸進的有機恐的成長の道を取らない。む しろ屡主将詳法的飛躇をなすものであつて、前社食に於ける理想的徳目が、後代の社食に取ては、却て共伸展する生命を 萎縮せしむる樫桔と欒することがあり、社命の進展はたゞ前時代に於ける慣位Q打破に伐てのみ彗み得ろこと墟あるか らである。前時代に於ける教組の理想的形態が新時代に於て堪え難き存在となる場令、教組の埜命がとの時代に過剰す るために、過去の形態は打却されねばならぬ〇 ヽヽヽヽヽヽ 夜露せんとする形式を取て現はれる。即ち、かの﹁敬弧にかへれ﹂の運動となつて表現せられる。然しながら、この場 今教組原始態への復障運動は、決してそれが揚言するが如き畢なる教組の原始的現蜜人格に夜露する事に伐て満足す るものでない。むしろ、堪え難き中間形態を拭除することに伐て、未だ加工せられぎる素朴なる数机錯殆態に遣つて、 モこに斬らしく時代に通厳したる理想化的作柴を自由に行使せんが焉の放である。 二には、前時代の理想形麒が打破し難き迄に固化せるか、或は、教組の人楕内容が逢に新たなる理想化的加工に堪へ

救国塩展の形式

(14)

−二 敦甑静〓収 の形式 難きに至れるかの場合である。こQ場合には、数覿は其Q理想形態と共に止揚せられて、新たらしき人格が、教組の ヽヽ ヽヽ 背後もしくは前面鱒II具瞳的に云へば、紳詩的人物若しくは近時代の教徒の一人が選み出され、新たなる出畿鮎が築 かれて、再び其上に理想化の作莫が加え初められるのである。この場今計数組の全量が全く粗菓せらる1と云ふ形式 計量なく、寧ろ、新宝る教組によつて前摺芸質旦最もよく具現せられて生警るものとせられ、あくまで其含 蓄を預想せられつ1新宗教分立に赴くのである。 ︵後年に裁てほ、.特に忘許香・歴史の家屋形態と照臆するところ多いのであるが、‡になるのを恐れて関係せしめなかつた。 この事ほ他日教理の賛昆を諭ずろ搾含に謳りたいJ

(15)

私は此の小論文に放て次の如き問題に簡れて見たいと思ふ。

︵イ︶ 従来論ぜられて居る所の﹁事茸﹂と﹁債値﹂との間には本質的相異が存立して居るであらふか。換言せば雨着は

五に個別猫立して己れ自らの概念を明に認鼓せしめることが果して可能であらふか。

︵ヱ そQ結論と関係して﹁宗教の事茸Jと﹁宗教の慣値﹂とを吟味反省して見庇い。 西洋に於てはカントの﹁第一批判﹂以来此の次の流れを掬むものは、一般に﹁事箕の問題﹂︵Quidf賢辻︶と、﹁榛利 の問題﹂︵G鼠dj邑s︶とを峻別する習慣がある。カントに於いては﹁如何にして先験的綜合判断は可能なりや﹂として、 インハんトホん▲ 謬治の寄算問題と樺利問題とを明かに峻別し、従つて又彼は﹁内容﹂と﹁形式﹂との問題を酷別する。此Q傾きは新カ ント沢、殊に西南撃汲のりツケルトに於て最も蘇かに展開されて居る。彼吐主著表毎扁.撃真裏−野郎シ禦に ナツー丁クんツー丁 於て、﹁自然﹂と﹁文化﹂とをいと見事に方法論的手腕を以て峻別するのである。而してか1る流れを辿る一般思想家 連も亦、課象一般、人生一般の問題に於て同様封立的二元の世界を峻別する。即ち﹁事箕と債値L、﹁規箕と理想﹂、﹁相 封と絶対﹂二現象と賢在L、﹁有限と無限﹂等々と。此の二元的封立のせ界を彼等は本質的に相容れぎる全く別個の存在 であるとするのである。併しながらカントの形式論に封する非難がそのま1之等の二元論に封しても亦云ひ得ないであ 宗教本質論に於ける草丈と侶値との開係

宗教本質論に於けろ事賓ご債値どの関係

邦 俊

(16)

らうか。即ち﹁内笹﹂たき︼形式L、H宥な作はぎる胴式を吾人は県Lて意識L柑ろであらうか、久志諭し得たとして も、モれがどんな意味た持つであらうか。具醗的内容を全く抜きにLて、生けろな孟た且ハ豪と上しIヴ円容を肇痩せず! て、如何にして形式が形式とトU成立するであらうか。軍費と慣帆とに就いても全く同種なことが云ひ狩られるであら

スノ○

空し一般には、帯蛤と現象と上品哀ふ結瞼論の惜他と限界とが、稔りにも轄釈的習慣に押−縮められては居ないであ

らうか。彼等は云ふ、軍資と拾駿と現数とを損扱ふ粁騎論は、管常性虞理性に関しては何等語る草格を有したいとっか

1る安首性に関する問題はたゞ昭り論理的理性的概念的持常に依つてのみょく決京され・るものでかろと。然圭︰人は生

けるなまな生命性と基蒙性は㌍験中に含まるる事茸的なるものより法り目すろことを忘れて瓜なるまい。常晋作上具象

性とを全く外にして生ける賀現の安和、従って如何なる糀の人間的憤値をも認弛すろことは出水な烏かくて串賛と偶

値とは牢〓に峻別さるべきものではないのではあるまいか。カントすら一切の認舐は粁臨と共に和まると云ひ、叉界隈

的素材なしには控除は、そして叉認散は成立しない、と云はぎるを得−なかった。債位を普遍性と必然性の如き先天的抽

象的澹念智に依つてのみ決小長せんとすることは殴りにも革安に封して不忠賓である。かくの如き封立的二元の≠界を主

張する西搾の‖心想と反封な傾向を持つ東洋のm心想、特に俳教のm心想を述べ私の問題を進めて見たい。

彿徽思想にあつては、あらゆる封立的二元が完と相即し、不二であり、問融無碍である、と見る桝に解批虞智の理

想があり、展諦がある。即ち飢倍と反慣値とを一元と見、反債値そのま1の中に償値を見出し、昧識せんとする思想は 俳教思想の持つ一大特色であるC即ち天台に於ける﹁諸法質相﹂、華厳に於ける﹁事理無碍L、浄土思想に於ける﹁撥法 −一し 一・− ′−−− ′ ■l一一ヽ 宗敢串\∴﹁渋けこ・・﹁γ−恥付ト﹂ ト%

(17)

一撃、その外彿敬一股に於ける﹁煩悩郎菩提、﹁婆婆郎寂光土﹂、﹁生死即漫芦、かゝる二元の世界が沸教に於ては、

所謂る﹁即﹂Q関係、﹁不二﹂の関係、又は﹁園融無碍﹂の関係に於てある。換言せば二元がrそQま1﹂l元なのであ ■ る。Aがそのま1Bである。此虚に解散野草の組織としての特徴がある。諸法即ち現茸存在するものそのま1が箕相即 ち理想的雷鳥償倍あるべき相なのである。事理は無碍に相即する、要婆即寂光土であゎ、煩悩はそのま1菩捷である。

生死は叉そのまゝ寂静経典である。磯の深心鱒法の深心と一班である。此の相即不二一恨の思想は前述せる二元峻別の

思想と虞反射Q思想であるが、それは自らの特色と共に多くの難鮎をも内包する。あるがま1Q諸港をそのま1あるべ き箕相とし、安婆をそのま1寂光の浄土と是誕するには陰りにも寄算は恐ろLい時の奏である。 ヘーゲルはカントより離れて彼礪白の思想を持って居た。併L彼の隆史曹畢も私の見るところでは、依然一元の持つ 藩命的憶を解決Lて居ないように息はれる。彼はカント流の二元峻別の思想的悩を一元の絶封精請で解決した。一切の 現象は此の精紳の具象化、現貴化、内容化せんとする﹁クート﹂であり、﹁ハンドルングLである。歴史とは絶封精紳 Q具象化、現安化、内容化である。従つて兵遁的内容ある現資的者はそのま1理性的着である。、この言葉は飴りに美し

い、飴りに魅惑的である。而も生ける現箕は此の言を肯定するには飴りにも非理性的着である。彼の一元論はやがて自

らを汎債値論、汲債値論へと導き入れるカと悩とをそれ自らQ内に持つて居ることはトレルチの指摘Lた通りである。 熱からばか1る相反する二つの思想を如何に見るか。寄算を全く披きにして、具象と内容とを考へすして吾人は償値の 虞諦皇息諭することは出来ない。さあれ寮費と茸相はそのま1債値とすることは許されまい。

私は相異れる思想を次の如く解持する。尊貴と債値とを全く質的に峻別することは誤りである、と共に雨着をそのま

宗教本質論に於ける事態と偵値との関係

(18)

〓ハ

乗数本質論に於ける事貨と償僑との関係

■ 1相空位とするととも不可能である。結論から先きに云ふならば、﹁債値とは寄算を通して起へてあるもの﹂である。 享貰を過して而も超へて償値は存在する。此の働きの本質は、﹁最も直接なる絶封的純粋督我の意隷的行︵自愛︶であ

る。﹂此の自覚、行がー寄算をして債値たらしむるものである。事茸を通さすして人は寄算を超へることは出来ない。人

旺亭葺を通して初めて事箕姦へてある債値を知ることが出来る。償値と違接的純粋自我意放か寄算嘉して超へて

現顕する相である。こQ結玲と関係して、宗教本質論上の課題の一である﹁宗教事資﹂と﹁宗教傍倍﹂とを再吟味した い。但し此虎では1宗教畢﹂と1宗教哲畢﹂と?方法論的範囲に止めておく。姦に管掌者の所論は二示教の本質とか 展理問題並樵利問題は経験と現象と事箕を取扱ふ素数畢︵主として宗教史と宗教心理畢を指す︶の興り知るところでは

なく、そは唯合理的認散論のみ解決する資格を有すると。蓋し慣値、本質、桔利、書芸問題は現象の経験的知散を取

扱ふ事安寧、経験科挙とは何等関係無く、如何に心理畢と宗教史がそQ事箕的叙述と詮明とを限り頂く瑞張しても決し ● て之に依て安富性、眞理性、慣値の問題に関しては自ら何等語ることは出来ない、と主張する。是れ全く既述せる﹁事 茸問題﹂と﹁樺利問題﹂とを峻別する停統的傾向に外ならぬ。惟ふに寄算畢経験撃とLての宗教拳に無理な注文をLて

はならぬは勿論、如上の論詮は宗教畢の内容をも理解せざるものにして、たとひ宗教挙が直接宗教現象の展理性や安富

性を蟄見するものでなくとも、事賢に関する息安なる攻究と取察とは、やがて一般法則、普遍的概念智への一助とな

少︹香なくてはならぬものとなる。如何なる事箕を吾人庭呼んで宗教的となすか、の問題、即ち吾人が宗教的と呼び、

或ひは此の名を以て其の他のもQと一應別ち得ることの出来る精紳的過程及び状態の特層なる形式を探究することは、 意致現象としての宗教事象の歓楽には必要なるのみならす、寄算を超へてある慣値評論にも不可妖Qものである。かく

(19)

て宗教事箕は宗教慣値と之れを質的に峻別することは、もう一應考へなほさねぼなる卓こ。宗教慣値と事賓との峻別は 妄断にも近く、飴りにも己れ自らQあゎのま1なる婁を反省せざるものである。宗教慣倍は宗教奉安を全く披きにして あるもQでなく、宗教寄算を﹁通ほLて超へてLあるものである。直接的人間性の一断面が宗教的革質を通して起へて 硯はれる時、そこには宗教的債値がある。要は生ける現箕麒とLてQ全一の生命は、寄算を通Lて超へて自らを完成 L、展開L、創造する。︶ 柔軟本質論に於ける草堂と侶住との開停

(20)

鈴 木 宗 忠

宗教畢に些一Q意味があつて、一は謬−igiO己的灰Chichteであり、二はRe−i乳○ロ班yStema昏であると思ふが、私が こ1で型埋草TypO−○乳e として樹立しょうとする宗教畢は、前者Q意味ではなくして、後者?意味である。 宗教畢が一の科挙として迫つて衆たのは、人の知る如く、前世紀Q七十年代のことで、これは殆ど同時に、二の笹沢

に依つて立てられた。二の笹沢と云ふのは、一鱒言語畢放で、これは官話の研究に由つて、苗代の宗教を費見し、宗教

畢を立てたのであるが、それは大偉に於て、宗教史を以て宗教畢とするものであると見てよからう。他の一つは人類笹

沢で、これは未開人の宗教が原始人の宗教であるとし、これを人類畢的に研究して、宗教畢を立てたのである。この笹

沢の宗教畢は、言語笹沢Q宗教拳とは異り、これは大憶に於て、宗教組織畢であると云ふことが出来やう。現在の宗教 琶と辞するものは、多くはこQ系統に属するやうである。勿静この外にも、心理畢沢と解すべきもQがある。然しその 主流をなすもの鱒寮歌の應用心理畢的研究で、そQ結果から見ると、それだけで宗教畢を組練すをまでには至らなかつ

た。尤もこの畢浜の中には、宗教を原理的に研究するものもあつて、それは素数野草と結合し、票数畢界に非常な影響

型現箪としての宗教串

型理畢ごしての宗教畢

(21)

を輿へては居るが、宗教畢の傍系を作るまでにはならないやうに息はれる〇・かやうに考へて、私は現在の宗教組織畢

は、人類畢汲Q系統に属するもQであると云ふのである。

人類笹沢の宗教畢は、現今に於ては、色々な傾向を持つて居るやうに思はれるが、私披この最も注意すべきものとし

て、三傾向若く鱒三畢波を数へるQである。第一は民族心理笹沢で、とれは原始人の宗教を酪連心理畢的に研究Lて居 る︵Wundt及びそQ系統︶。こQ研究は、心理畢の領域に属するもQで、宗教畢の一事放とは考へられないやうであ る。故に私はこれを今の考察の範囲外に凄く。義二は社食畢放で、これは原始宗教を社食畢的に研究する︵D弓kheぎ 及びその系統︶。この研究は、社食拳の一箪波をなすものであるが、それと同時に、宗教畢に於ても、亦その一挙放と せられる。第三は民族笹沢で、これも原始人Q宗教をそQ封象とすることは、前の爾笹沢と異る所はないのであるがー その方法は、心理畢的でもなく、又社台畢的でもなく、所謂民族畢的で、各民族Q特性Q上から、その宗教の個性を明 にしようとするQである︵Grabner,絆F邑dt及びそQ系統︶。その研究は、本来を云へば、民族畢であるが、第二の社 食畢派Q場合と等しく、宗教単に於ても、亦〓空拳浪とせられる。こゝで人類畢波Q中で、展の素数畢汲とせられるの は、第二の社食畢放と第三Q民族暴政である。故に刹は現在Q宗教畢として、この南畢汲を吟味し、この特色と映鮎を 明にして、こゝから型理畢としての宗教拳を導き出さうと息ふQである。

杜含畢放と民族畢演とでは、その各の主張する宗教畢に相違の存することは無論であるが、然しこの両者に共通な鮎

型埋草としての宗教串

(22)

型瑠撃としての宗教寧 こ0 が二ある。第蒜、宗教畢の板木仮定として、宗教の眞の婁が、未開人の宗教に現れて居るとするトとであり、従つて 第二に、宗教拳の材料として、未開人の宗教を採用することである。この二黙は、確に人類笹沢の宗教畢の特色である が、私見に依ると、これは同時に、その妖鮎でもあるやうに思はれる。 云ふまでもなく、科挙の目的は、それに課せられた封象の眞を捉へる所に存するであらう。故に宗教革も、一の料率 として存立し得る薦めには、.その対象である宗教の虞を捉へることを目的としなければならぬ。宗教畢の封象である宗 教は、これを畢間Q封象として見ると、自然ではなくして文化である。勿論串間一元論MethOきー○乳sc訂rMOn訂m亡ね Q立場から考へると、自然も、文化も、同一封象の程度の差に過ぎないものとなるであらう。けれども私は草間論に於 ては、二元論MethOd010gis註erDua−i∽muS の.立場に立つものであつて、こQ立場から見て、自然と文化との間に性 質の差を認め、宗教をば文化とするのである。然しこの立場を取らない人々でも、宗教が文化であることは、恐らくは これを認めるであらう。こ1で宗教畢の畢間的性質を定める薦めには、文化の特性を考へることが必要である。固より これに就いては、色々な解繹も可能であらうが、三口に壷せば、それは定見性であると云ふことが出来やう。こQ粘か ら見ると、現在Q宗教峯が、未開人の宗教の中に、宗教の長の姿が現れて居るとL、従って未開人の宗教を殆ど唯一の 乗数拳Q材料とすることは、誤って居るとLなければならぬ。何故なれば、か1る考へ方は、文化である宗教の特性た 意貰性を無税するからである。尤も民族畢浜は、宗教を文化歴史的に研究すると云っては居るが、それが未開人中宗 教を材料とする限りに於て、宗教史あ二部分を成すことは出来やう。この意味に於ては、私も人類拳演の宗教研究を 認めないわけではない。けれどもこれが未開人の宗教を材料として、組紐撃とLての宗教畢を立てようとするのを見て

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は、それが虞の意味に於て、文化とLてQ宗教の隆史性を否定するもQとして、断乎として排斥するQである。文化と しての宗教の眞を捉へょうとする宗教組締撃とLては、その材料として、文化人Q宗教を採用Lなければならぬ。換言 すれば、宗教畢Q材料となる宗教は、未開人の宗教でなくて、竪史的宗教でなければならぬ。歴史的宗教とLて重要な 意義を有するものは、決Lて少くはないが、この中で如何Lても考慮に入れなければならぬものは、西洋に於ては、基 督教であゎ、東洋に於ては、彿教である。私はこQ二大宗教が、文化とLてQ宗教の虞を捉へようとする宗教畢の中心 材料であると考へる。然るに人類笹沢の宗教畢は、この中心材料を考慮の中に入れない。これ私が現在Q宗教畢を排斥 Lて、薪Lい宗教畢を樹立しようとする所以でああ。 ≡ 草間一元論Q立場に立つと、自然科挙と文化科峯とQ尾別は、畢に封象の程度上の吏に基くもので、方法の差に依る Qではない。方法の上から云ふと、自然科挙も、文化科革も、同一たもQであらう。然るに畢間二元論の立場に立つ私 は、宗教畢を一の文化科畢とL、こQ性質を明にする食めに、これを自然科挙と封照させる際に、自然科挙と文化科撃

一■

とQ直別をば、封象上Q差に節すると共に、方法上の差にも基かせるのである。 初めて草間二元論を基礎づけたサツケルトQ考に依ると、自然科挙は法則の畢で、その方法竺般化であるが、これ に封すると、文化科畢は事茸の拳で、その方法は個性化であると云はれる。表化と云へばーをの意味も明であり、従 ってそQ手技もはつきりして居る。然るに個性化と云へば、そQ意味も、一般化ほどには明でなく、殊にこQ手揖の如 型理串としての宗教串

(24)

二こ 型掲撃とLての宗教単 きは、茸行し難い騒がある。しかのみならす文化科挙が個性化の畢であると云へば、結局これは隆史畢と等しいものに なつてしまふ外ない。然し文化科畢には歴史挙があると共に、組練畢がある。寵者はd㌫Werdendeを研究するもの であるが、後者は d訟GewOrde焉 を研究するものである。サッケルトの文化科畢詮は、これを如何にして詮明すべ きであらうか。彼の詮に色々と難鮎のあるQは、覆ひ難きことであらう。この難鮎を救ふもの㌧は、マクス、ウェーバー Q理想型Id邑t眉玩の概念ではなからうか。私はこれを基礎として、文化科畢を型埋草ぜ旦Ogie として立てよう と息ふ。 文化科拳が型埋草であると云ふのは、自然科挙が法則を蟄見する畢であるQに封して、文化科畢は型を作る畢である と云ふ意味である。型には経験型もあれば、理想型もあるが、こ1で原理とする型は、勿論経鹸型ではなくして、理想 型でなければならぬ。そしてこQ理想型に二種を直別することに依つて、文化科畢に存する塵取畢と組括畢との直別を 基礎づけょうとするのである。即ちその一喝、具橙的理想型で、これを作らうとするQが匿史畢である。他の一は、耗 聯理想型で、これを作らうとするのが組織畢である。文化科拳としてQ鹿央畢は、具脛的型理畢と云ふことが出来るな らば、文化科畢としてQ粗放畢は、純粋型埋草と解すぺきであらう。 四 これを今の間番とする宗教科挙に就いて考へると、宗教の具偲型を作るのは宗教史であ少、その純粋型を作るQは宗 教畢である。

(25)

景教史が旦憶的型理撃とLて、宗教の具憾型を作る七云ふのは、文化としての環教の特性をげ、成るべく晋作の婁を くづさないで、概念に梢成しょうとすることである。そして宗教の文化としての特性は、他誓ぺ化と等しく、その胚変 性に存するが直に、その特損存の姿の型を作ると云ふのは、宗教の隆史毎に外去らぬ。1これが釦ち宗教史である。眈に宗 教史の笹岡的性質が、宗教の貰#の姿の塑を作るに在る以上は、その間怒となるものは、個々の宗教でなければなら ぬ。.何故なれば、宗教の賓存の姿は、個々の宗教を離れては考へられないからである。故に︷ホ禁史は何々の宗教の椿根 畢であつて、宗教這の監妃撃と云ふやうなもので軋ない。尤もある宗教を中心として、脚々の昇教をこれに閑聯さ せ、この経史畢を作り、これ皇示教史とすることは、革に可能であるのみでなく、叉必要でもあると考へる。榊へば基 暦数を中心として、西洋の許諾故をこれに開聯させ、基骨教の匹∵㌍草を作り、これを西洋宗弊捏、とするが如き、く彿歌 を中心として、東洋の諸宗教をこれに闘聯させ、俳教の脛史箪を作り、これを冤洋宗教兜とヱゎが布き、むに、ノ六竜再 開洋の宗教史を結合して、宗教史概詮とするが如きも、何れも里宗教史であると∴︷ふべきである。 宗教革も、宗教史と等しく、共に型理畢ではあるが、然しそれは完数史のやうに、異標的製理畢ではなくして、純棒 型理嘩である。故にそれは宗教の賓存の姿の型を作らうとするのではたくLて、その純粋な姿の刑宕什らうとすろので ある。∵ふこの場合に於ても、宗教お文化の特性とLての掟史性が、その中心㍊念で番号:一は、小心封か占場へ=に号† ると異り・抽はない。た三示教むにやては、宗教の過去が問題となるのご㌧∴∵ 小高敢鐸に於てし、∵㍑む抑末∴トH∵ なろべき▼∵ある。宗教むに於ても、既に述べたやうに、基邪教や抑敢がその中心となろべき㌻∴ホ、宗吾将に一三し も、同様に基督数や叩数が、その中心となるべきである。然し宗教むは、‡計、の具摂理・キ︰一〓りご﹂Ll一斗ー〓的と㌻ろが廿 隼雄㌧媒之してC宗欽煩 こ一二

(26)

塑埋草としての宗教寧

二西

に、こ1に現れるもQは、基督教や彿数がそれム1に猫特に併有する個性である。これに反して宗教畢は、宗教の純粋 型を作ることを目的とするが故に、基督教や俳数が、宗教の純粋型である宗教性そのもQl上から考へらるべきであ る。尤も何れの場合に於ても、その原理である型は、経験型ではなくLて、理想型であるから、それは宗教の経験的事 安から来るQではなくして、何れも先験的に想定され、これに依つて宗教の事賛が型として作られる.のである。精密に 云へば、純粋型が第一次的のもQで、具鰹型はこQ第一次的のものから、第二次的に浜生すると考へらるべきである。 然L宗教史に於ては、その型が具僅的なものであるから、それは経験的事質に則するやうに思はれるが、宗教畢に於て は、そQ型は純粋的なもQであるから、これは経験的革質から離れて居るやうに考へられる。 然らば型理畢としての宗教科挙は、如何にLて構成せられるであらうか。宗教史のことは替らく措き、今は宗教畢に 就いて考へると、これは現在の彿耶爾教を材料とLて、宗教の純粋型を作るのである。宗教Q純粋型は、宗教の本質か ら起る。私見に依ると、宗教Q本質は、理想Q安視である。或はそれは茸現せられた理想であると云つても、不嘗では なからう。これを分析すると、二の方面がある。一は理想であり、他はそQ箕現である。宗教の本質が、事箕の宗教と

して、その純粋型となるには、理想の方面に於ても、又安現の方面に於ても、二の傾向が考へられる。

先づ理想の方面から始めると、;傾向は、宗教の理想をば、理想とするに止まむないでー更に一歩を進めて、これ

を茸在とするものであるが、現在の宗教に求めると、基督教はこれに近いと云へやう。この鮎から考へると、宗教は

押e巴isヨ となるQである。他Q傾向は、宗教の理想をば、何虎までも理想とするものであるが、現在の宗教に求める と、沸教はこれに近いと云へやう。こQ粘から見ると、宗教はidea−i∽ヨとなるQである。宗教の純粋型としては、理

(27)

想の方面に於けるこの二の傾向は、五に相反摂しながらも、結局は一の理想を完成するに役立つものであ烏と見るぺき

であらう。

次に貴硯の方面に就いて考へると、一の傾向は、理想の賛現が、主として理想から我々に乗るとするものであるが、

とれは所謂他力的宗教であるとせられる。現在の宗教に求めると、基督教は全饅としてこれに近いと云ヘヤう。他の傾

向は、理想の茸現が、主として我々から理想へ向ふとするものであるが、これは所謂自力的宗教であるとせられる。現

在の票数に求めると、梯敦は全饉としてこれに近いと云へやう。勿静基督教にも、他力的方面があるど共に、自力的の

方面もあり、又隣故にも、自力的方面があると共に、他力的方面もある。けれども重篤とし・て考へると、前者は他力的

宗教であれ、後者は自力的宗教であると云うてよからう。宗教の純粋型としては、安規の方面に於けるこの二の傾向は

時には相反封しながらも、又相補ふこともあつて、結局は理想の資現に資するものであるとすべきであらう。

以上誓示教畢に関する私の現在Q立場を述べたもQであるが、極めてその大筋に過ぎない。何れ近い脾釆に於て、 二示教草枕論﹂を公にして、この立場を委Lく述べようと思ふから、この小論放と併せて、笹者並に資際家の御批判を仰 ぎたい。勿論私は宗教笹を細粒する際には、理想とLては、彿耶両歌を同等に取扱ふつもりであるが、私の特殊研究は 主とLて件数であるから、寮費としては、俳教を中心とする宗教挙が出来ることになるでもあらう。然L従来の宗教畢

は、西洋に於ては無論めこと、我国に於ても、多くは基督教から出聾して屠るのを悶みると、俳数を中心とするやうな

宗教畢も、我国の宗教畢とLては、却って重要な意義を有するものではなからうかとも思ふ。 型理串としての宗教革

(28)

故に取扱ふ宗教現象畢は成立宗教の意妹内容の理解を日的とする﹁諸宗数の且雨情㍑象甲∴㌧はない。シェーーフー︰ひ

宗教の一切の管掌的及び科挙的取扱ひに封する究極の抑=箪的基礎とした土ころの、人間性モのも口

㌧.拾、的自然的た⊥ 教の本質及び本質関係を問題とする﹁宗教の本質現象痙﹂である。特再尤の、例へげカト=∴ク敦ウ・丹・ポ内申け?イ椚j=・− シ工−ラーの現象畢は歴々かやうな誤解を受けたが童ではなく、自然的紳認識の祝電毎である。右∵、うた正妃味・り∵㍗

現象墜が第一に日的とすることは、宗教的作用と宗教的封象との南方の側面から、宗教の猫立性を間⋮申すろことであ

る︵こ。 宗教は一個礪立の思惟であり認諭である。それは墾止の知識の様相である。文化形態とLての宗教、形而上箪、寄詮 料率は、それ上r−人間精耐に於ける本質的なる三つの認静様相たる宗教的認詰、形而上畢的認散、資罪科畢的認識k封

應する猫特の額域であつて、一を以つて他に代置することはできない⋮。コントの三段階詮の如く、この三者を馴鹿的

に、由ち歴史に於ける同一連接放として同質黎展的に取扱ふことはできない。知識の静態的な、釦ち異質署展的な研群

こそ宗教の猫立性を快復するものである。

さて、認故には凡て作用とそれに封膣する封象とがなければならない。宗教的認識に於いては、それ故に、㍍数的作

宗教現衷毎に於けl・わ作用創面

宗教現象辱に於ける作用側面

佐 藍

(29)

用と宗教的封象とが根瀕的に一つの組合せをなさねばならない。この作用がそれにのみ属する封象を志向することに於

いて封象が輿へられる。宗教の本質現象畢は、意識の根源的なる事茸の一ったる宗教的認故に.於いて、連行される作 用、輿へられる封象、その封象の輿へられ方を研究し、この認識に於ける本質性、本質関係を追究するものである。こQ

現象畢的方法は、言ふまでもなく、シエーラーがフツセルから搭聾したものである。換言すれば、フツセルが論理的認

識論的領域に於いて創唱し採用した方法を、シエーラー峰宗教の領域に於いて通用したのである。フツセルは凡そ意識

とは何物かに就いての意識であると言ふ。意識は封象を志向すること、言ひ換へれば封条に封して志向性を持つこと、

作用を途行することを特色とするもので、無意放といふ意識はあり符ない。かやうに意識には作用︵志向性︶と客埋 ︵志向せられたる封象︶とのあることを見て、生から出蟹して意識の根瀬現象に於いて輿へられるものを記述するもQが

フツセルの現象畢的方法である。シエーラーはこの作用と封象との根源的なる組合せを宗教に於いて油川したのであ

るが、吾貞はこQ同じ説教畢的方法を帯川した二人の思想家の問に存する可成りQ思想的距離を見逃してはならない。

先づフツセルは、現象畢的遣元によつて、常識、自然的態度に於いじ見る箕在、即ち個別的濾性的な事茸を初めとし

て、自然的態度に基づく一切の畢的理詮から、紳の絶封性、超越性に至るまで還元し除去し、最後に現条畢的穣澄とし

て球る純粋意諭に到達し、一切をこれに係はる意味として取るのである。現象畢的研究の領域は先験的意識とそれのう

ちに基礎を持つ純粋の本質性と本質関係とであつた。従つてその考究の範囲は意識内在的なるものに限定せられ、フツ

フェルト セルに於いては慧氷畢は﹁純粋に記述的な・先験的純粋意識Q場を純粋直故に於いて究明すろ・原理﹂⋮であつて、

極めて認識論的取念諭的である。芳しシエーラーがこの立場に其の優に依憑するとすれば、宗教的封象を取扱ふ場合に

宗教現象畢に於ける作用側面

(30)

二八

宗教現象撃に於ける作用側面

も、意故に於いて輿へられる紳の本質及びそれと有限的事物の本質との間の本質関係が問題となる可きで、純粋意鼓に

関する限り、紳の超越性、賓在性に就いては何等の軍富もなし得ない筈である。言ひ換へれば宗教現象畢は紳的なるも

のゝ本質認識を可能とするが、存在認詮を取扱ふ場所ではない事になる。この鮎に、主取主菜的内在静的宗教論に反封

しっゝ而も取念静的な現象畢的方法を採用した磯の宗教曹畢の困難がある。それは封条例面戊取扱ふ場合に特に著Lく 目立つてくる。然し乍ら彼自らは﹁箕在的に向けられた現象畢L︵r2裟stischg鼠chtet2Ph詳○ヨe邑Ogi2︶と言ひ︵等 宗教の作用領域と封象領域とは﹁一つの最根顔的なるそれ自らに於いて終結せる一生佳Lをなすもので、作用はその意

味相観音たる宗教的封象と志向性統一をなすものであるから、両者は分離し難き関係にあり、宗教的作用はその封象を

濠想してのみ可能であゎ、作用の箕在は封象の安泰によつてのみ可能であることを力詮して、安在静的客取主義的立場

に立ってゐる鮎から見て、彼の現象畢は本質認論あみならず存在認鼓をも包括するものと解すべきである。

とQ意味に於いて、彼によれば、作用側面が取扱はれるに先立って、封象側面が取扱はれる可きである。然し、シエ ーラl自らも宗教の諸問題の廣汎なる領野の申から特に宗教的作用のみを取出して充分にこれを論究し、その作用の持 つ意味法則性を明らかにすることによつて、宗教的認敢の猫自性Q一班を窺知しようといふ意園を持ってゐた鮎を考慮 して、立では封象側面に就いては暫く顧みす、作用側面のみを考察するQである。 シューラlQ前提は、宗教的作用は思惟、判断、知覚、記憶の如く、人間意故に構成的に廃するものであるといふこと である。而もこの作用は人間精神の本質必然的な共同の賜︵Mitg賢︶であつて、或る人にょつては遂行されるが、或る 人によつては遂行せられないといふもQではない。生に宗教現象畢の本質法則がある、凡ゆる有限的精神は紳を信する

(31)

か偶像を信するかする︵五︶。かやう窒息味の宗教的作用が他の心理畢的な諸作周や他のノエシス的な諸作用と如何に異る

であらうか。若し単にこの作用が心理畢的詩作用と異ならないならば、宗教が単なる感情、心的状態にしか過ぎないで

あらう。そしてシエーラーの宗教現象畢は記述的宗教心理畢と選ぶところないであむう︵毒それは恰もフツセルの現象 辛がその初期に於いて記述的心理畢であるとQ誤解を受けたのと同校であらう。もしこの作用が他Qノエ支的詩作何

に還元せられて、猫特の意味法則性を持たないならば、宗教は他の知故様相に解滑せられるであらう。シエーラーは、

豪的作用のぜ琴;彗ヒ堅l他の何物からも導出せられず、それ自ら望心向畏つ事1と一郎衝撃れ自らQ眞

理規範、債値規範を持つこと − とを求めようとする。 先づ宗教的作用は心理的作用ではない。願望−憧憬、要求等の如き単なる心的事象は経鹸的な対象か仮想的な封象に レ丁サテー︰ト 向けられるが、宗教的作用の志向する封象は経験的封象とは異る特殊の封余Q本質領域である。.そむ封象の箕在が認め られて初めてその作用伽影許されるQである。それ故に、この作用は心理皐的因果的に導出し得ないばかりでな く、心理的作用Q如く自然法則た依嘘するのではなく自律的なノエシス的な法則に徒はねぼならない。こQ鮎に心理主

義的主取主義的宗教論に封する彼の銃い封立が見られる。

次に宗教的作用は他の、論理的−倫理的−審美的なノエシス的志向的作用群からも直別せられねばならない。この作 用は他の諸作用Q鄭鮮す句ナ威ではない。との′階用の充重な意味内容は他Qノエシス的諸作用の意味内容から作り出さ

れることはあゎ得ない。然らば、宗教的諸作用を他のノエシス的作用から引博す模敢は何であるか。鼓に於いて三つの

撰論が奉げられてゐる。英一は、志向が世界を超え掛るととである。こQ作用に於いては、経験的、有限的、偶盆的な 宗教現象亭た於ける作用側面

(32)

三〇 宗教現象撃に於ける作用川面 る一切畦.世界﹂の理念に結合され、志向はこQ﹁世界﹂を超え出る。琴一はこQ作用は﹁締約なるもの﹂︵d試G芹−ic訂︶ によつてのみ充足されることである。凡てこの作用によつて醍験されるものは、有限的経験的せ界の何れにも該督しな い。故にこの控除に於いて輿へられるものは、箪に油極的にしか表現せられない。例へば﹁寄き現はせないL﹁言ひ現は せない﹂﹁測り知れない﹂﹁限りがない﹂等々。第三は、宗教的作用はその封象からQ反作用、封作用を要求することで ある。かやうな反作用は締約人格的なる存在者の自己開示、即ち自然的啓示によつてのみ人間に典へられる。換言すれ ば、宗教的作用はその封森が人格として啓示せられる時、初めて充足せられるのである。この鮎に宗教上他Q知識様相、 例へば形而上撃との本質異別性が存する。形而上畢は封象に自賛的に近づき諭詮的合理的にこれを堪えるのであるが、 対象の人格性は形而上畢的認劫の到達し柑ぎる限界である。然るに宗教にとつてはこの人格性がアルファでありオメガ 丁である。封象を人格的なるものとして捉えること∼は、紳と世界との脚係をむ取的象徴的に払え㌃ことである。宗教 的作用の特色は直接的直観的非合理的なる鮎に存する。 以上によつて宗教的紳認識に於ける作用が他の詩作用と異る猫自性を持つことの一般を素描し得たと信する。かやう にして彼望示教的作用に於ける直取的非合理的直接的要素を示すことによつて、宗教の猫立性を確立しようと試みた。 然L乍ら既に開設した如く、後に於いては作用側面は封象側面の賓在によつて規定せられて.ゎた。紳に就いての凡ての 知識は紳によつての知識である。これが宗教的作用Q本質公理である︵七︶。故に彼Q立場はカンJ倒構成主義やジンメ ル的内在的宗教論に封立する容取主義的有両論として特色づけられる。 さて宗教現象畢は宗教的認識の猫自性を確保するものであるが、そQ認詮に於ける作用は、他Q羅作用と共に人間の

(33)

人格Q中に基礎づけられてゐる。−人格は異軽的詩作用の具煙的なる・それ自ら本質的なる存在統一﹂であり、﹁人格は たゞ志向的詩作用の途行に於いて安泰する﹂︵八︶。生に宗教現象撃と曹畢的人間拳とQ親逝な関係が求められる。 更に又、文化社食畢の一翼としての宗教社食畢は、文化としての宗教の猫立位を前掟として世襲するものであるか ら、宗教社食畢はこの鮎に於いて宗教現象畢を前捷とする享。 ︵︼︶ M買絆hele:くOmEwigenim mensc訂n、−叢−、S●当■・ ︵〓︶ M胃絆Fder︰D︰eWi仏SenShOrmen巨ddieGese−1scF巴t,−黒岩−S・詮● 人≡︶ H症Ser汀−deem2einerreiロ告Ph許OmenO−Ogie.−苫N−S●苦,忘−寧 ︵四︶ Pdeu宮beLebenderGegenw邑こ苫♪S●−芦 ︵五︶ く0ヨ野村en■−S.盟芦 ︵六︶ RObe巧[Win筈rも宗教的作用を心理的作用から院別するに努力したが、彼の方法は全くフッセルの範観を出ない。彼はこの ヽヽヽヽ 非心理的宗教作用の研究を現象撃的宗教心理撃として経験的宗教心空拳から区別してゐる︵苫ぎ0ヨenO−0恕eundRe−.giOn ↑器−、S・−“●︺ ︵七︶ ibid・S・∽芦 ︵八︶ 絆he−er︰DerFOrma−ismusinderEtE−ハunddiemateri巴eWe旨萱k、−叢可−S−宣言声 ︵九︶ なほ大正大堅々輯第十四輪牧戟拙稿﹁シューラーの宗教現象畢Lに於て宗教現免撃全般の開簡を取次ってあるから御参看 を煩ほしたい。 漬か八司盈肇に於ける作用棚田

(34)

現 代 宗 教 の 特 質

鶴 藤 幾 太

現代生活の根底をなすものは、何と育つても科挙である。そQ成果よりするも、その方法よりするも、科畢を証れて 現代人Q生活は存在し得ない。現代人の生活は科挙に依つて完全に統忘られて居るのである。そこで宗教のことを考 へる場合にも、科畢との関係−言ひ換へれば、俗生活と宗教生活との関係、更に言ひかへれば、知と信との問題1

を如何に見るかに依って、宗教に二種の別を生じて来る。一は知と信とな以て全然矛盾¢関係に立つものとなすもの

で、他の一は之を段階的に見るのである、即ち前者にあつては、宗教とは不合理なるが故に我れ之れを信サるのであ

る。科畢は無論合理的のものでなくてはならぬ。而して宗教は不合理であるとすれば、この雨着の間には矛盾の.関係以 外の何物も存L得ない。何故世に比理知に矛盾する宗教といふ如きもQが存するかと言へば、人間の生活に矛盾の根接

安んじて生きて行くことが出来ない。斯かる考方からすれば、宗教とは現箕の苦界に封する逃避的安息所を意味するも

があるからである。現せの俗生活は苦悩に充ちて居る。この苦界に封して何虎かに之を蓮れる場所がなくては、人間は

ので.あるから、随つて科畢・理知・俗世とは全然別異のものとならざるを得ぬのである。

然しながら、現安逸避の斯かる二元的宇宙取人生取に、現代人は果して満足し得るや。高に思量の生活をしなが

ら、そのすぐ他面では不合理の生活をすると音ふ風に、一個人の生活が合理と不合理の矛盾⊥た二重生活に分裂すると

現代宗教の職質

(35)

いふことは、統一を求めて止まぬ人間の本性に反する。然も此の異常な分裂を敢てしなければならぬ所以のものは、合

理Q生活が苦痛であつて其苦に堪へ得られす、其から遁れ救はれんとする強烈な本能的要求がある故であらう。斯かる 状患を言ひ表はしたものが、﹃不合理なるが故に我れ之を信す﹄といふ言葉であつたQである。即ち信は人間の本能的要

求なのである。人間の生きんとする本能的要求は超合理的なものである意味においで、不合理をも信じ得るのである。

けれど不合理が信ぜられん為には、一方合理Qカが易いか、他方合理に打克つ程度に迄不合理的︵本能的︶要求が強めら

れるかの何れかを必要俵件とする。而して不合理的要求を強める原因は、合理的生活に於ける苦痛である。この事を反

面から言ひ換へれば†合理Q力が強いか若しくは合理的生活に於ける苦痛が弱いならば、宗教は信じ得られぬことゝな

る。これ知信分恕あ二重生活的菅宗教が、現代に於いて其勢力を央堕せざるを得ない所以なのである。何となれば現代

は科挙文明萬能の時代として、合理のカが強く、合理的生活に於ける快梨の埠加︵即ち苦痛の減少︶せる時代であるか

らである。

そこで現代に於いても宗教なるものが必要であるとすれば、其は知信分離の宗教にあらすして、知信合一の宗教でな

くてはならぬのである。これ現代宗教Q第一の特質である。知信合一と言っても、科挙を以て直ちに宗教とすることの

出来ぬ望一口ふ迄もない。科畢と宗教とは飽く迄も英領城・本質・任務を異にする。並で知信合一といふのは、知と信とを

矛盾分裂の関係に見す、上下の段階的関係に於いて見ることを意味するのである。即ち知窮つて信に入るのである。科

畢的知識は決して萬能でない。料率には限界がある。そこに曹畢や宗教の必要が生するのである。而して哲畢と宗教と

の差は、前者は知の問題に限らる1に封して、後者は情意的要求を併せ清見せLめる併にある。

現代宗教の特質

参照

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