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か か る ︻ シ ケ イロス︼│││ 一 九 五七年より チヤブルテペツク城の ︿ 革命の 問 ﹀ 壁画プ ロジェクトを開始する ・ ヨ ア ィ ア ス 独裁制か ら 革 命 へ ﹄と 題 す る 作 品 に は 、 総々な場耐が絵巻物のように辿日制している .目 次 メ キ シ コ 壁 画 運 動
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革命の芸術
メ キ シ コ 革 命 前 夜 ロ メ キ シ コ 革 命 18 革命の芸術 22 11壁画運動の先駆者たも
アカデミズムとアカデミアの問題 ロマン主義とコストンブリスタ 素朴画の系譜・日 グ ラ フ ィ ッ ク ・ ア ー ト の 貢 献 I I Iモ
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アカデミアの変貌 46 美術モ,さ天ムへの対応 新しい芸術を求めて 11 54 38 4ぅ う0 2う 26 29IV
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63 壁画運動の受け皿づくり 64 壁 画 の 歴 史 : 河 壁画の材料と技法 的 な ぜ 、 壁 画 だ っ た の か 86 V壁
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209 壁画運動を支えた美術作家たち 210 壁 画 の 第 一 世 代壁 壁 壁 画 面 画 占 置 の の 薮 国 第 の 隊 二 統 派 世 計 。 代 的 分 229 析 226219
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運 動 231 237 壁画の第二世代 あ と が き e l l -凶 メキシコ壁画連動 現代図書バージョン出版によせτ
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地 図 ( メ キ シ コ 市 中 心 部)
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メキシコにおける主要な壁画年 │ │ │ 山 壁両を制作した作家たもが 初登場ナる年の年次別リスト1
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や , 一 、 、 a 、 ナ 九 ・ 刀 メキシコの国家統一と近代化を成し遂げた独 とうの昔からメキシコにはなか 裁者ディアスの 心 は 、 った。デ ィプスおよび彼を取り巻く ク リオl
リ ョ 出身 の上流階級の 人間 た ち は 、 ヨ ー ロ ッ パ 、 とりわけフラ 一 九 一O
年 九月十六日の メキシコ 独 立記念日に 、 ポ ンス文 化に限りないあ こがれと愛着を 持っていた の だ 。 ルフィリオ ・ デ ィアスは政権を握って三五年目の盛大 ディアス自 身はオ アハカ州の貧しい 一農村のメ ステイ な式典をあげた。この日はまた、 ちょうど百年前にミ ー ソ 出身であり 、長年、ゲリラ戦を戦いぬいてきた実 ゲル ・ イダルゴが インディ オやメスティl
ソを集めて 績で最高権力者となった人である。勇者であったが、 ド ロl
レス村で武装蜂起し、 独立運動の端緒を聞いた また野人でもあった。白人の世界に対する彼の好感の 事件から切のよい 、 メキシコ共和国独立百年を祝う日 でもあった 。今 日見られる市街地の飾りつけや祝賀会 示 し かたは 、出 生に対するコンプν
ックスの表れであ る と 共 に 、 一 八八 三 年に結婚 し たカルメン ・ ル ビオと の 開 催 、 軍隊パレ ー ド 、 式典の次第は、すべてこのデ いう、資産家のクリオ1
リョ家庭の出身である女性の ィアス時代に慣習 化した ものである。 影響が大きかったといわれる。 メ キシコの繁栄と進歩は誰 の 目 にも 明 らかなように ディアスの取り巻きのなかで一番影響 力を持って い 思 えた。そ してその繁栄が ディアスによってもたらさ たのは 、 一 般にシエンティ アイコとよば れる、実証 主 れたかのようにも。事実 、こ の 独 立記念 日 の 三 週間前 の大 統領 選挙でも、ディアスは数百万票の圧倒的多数 義を信奉する自 由 主義者たちであった。 社 会の進歩や 経済の発展は社会科学 的 な方法によって解 明 できる法 で再任されているのだった。 則 があり 、この法則を 合理的に分 析で きる 知的エリi
r祭溜に神のように祭ったディアスの肖 傍@jの前で祈る,選挙前の地方ポスたぢJ. ~1n苦rイーホ・デル・アワイソテJ収録,作 者不詳./902年.メキシコ国立新聞雑誌保 存 鹿 蔵 トが政治改革を担うべきであると考えていたシエンテ ィフィコたちは 一 方でディアスの独裁制を批判する ことなく徹底的に利用しながら、自由主義者を自称し ていたのである。 ディアスが、実証主義を理論の根拠とするシエンテ ィフィコたちに洗脳されたのはいうまでもない。オ ー ギュスト ・ コントの主張する実証主義は、ディアスの 敬愛するフランス文化のなかから生れたものなのだか ら。そしてシエンティアイコたちは、 メスティ 1 ソや インディオの存在を社会発展の阻害要因と考えていた。 ディアスが果たした大きな貢献は 、 独立後も内乱と外 国の干渉で混迷し、荒廃してゆくメキシコ社会で、多 分に武力による ものとはいえ、 社会秩序と平和 の 回 復 、 治安の維持に 一 応成功したことにある。その武力が、 今度はメスティ
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ソやインディオ勢力の抑圧に向けら れたが、ディアスは 一 方で、彼らを労働力としても徹 底的に利用した。そして、優れたものとされるヨl
ロ /3一一一革命の芸術 ツパ社会に追いつくことだけを目的とした。かくして ディプスの周辺からは、 かつて行動を共にした軍人や メスティ 1 ソの地方ボスが遠ざけられていった。外 国 資 本 に 犯 さ れ る メ キ シ コ ち、そしてコミッシ ョ ンや賄賂で潤うクリオ 1 リョの テクノクラートであった。聖職者のうち上位の席はヨ 要するにディアスの目指した近代化は﹁西欧化 ﹂ と いうことであり、その近代化の指標は、あくまで西欧 メキシコ出身者は下積みのま まに置かれた。多くの保守的なアシエンダ所有者は、 ーロッパ人で占められ、 の欲望によって正当化された幻想だったのである。デ 実際の経営を支配人に任せ、本人たちはメキシコ市や の進出と土地取得を、 ィアスはあらゆる産業部門への外資の導入、外国資本 ほとんど無制限に許可した。そ マドリッドでヨ
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ロツパ風の上流生活を享受し て い た 。 してこれら外国資本はまさしく近代的な経営方法で産 つまりメキシコという土地を利用して利潤を挙げて 財政を黒字にした。だがその反面、 メスティl
ソやイ メ キ シ コ 人 と い ﹀ う つ 音 を 嫌 悪 さ ﹀ え え す る 人 々 に よつて、メキシコは統 一 国家と キ品、 A , - a V 3 、 pv し ふ / カ 業を振興し、交通網を整備し、輸出を増加させ、国家 ンディオたちは土地を奪われ、独立前にもまして困窮 しての休面を保っていたということである。先に述べ し、飢えるようになった。しかも、外国資本の支配と、 た選挙の得票数が、賄賂と暴力に基づくまったくでた ディアスの専制のために才能を伸ばせないでいる新興 らめなものであったことはいうまでもない。 の中間階級の不満は増大する 一 方 だ っ た 。 一 九 一O
年の独立記念日にディアスを祝ったのは、 生 命 ド ぢ 外 に 何 も 持 た な い 農 民 や 労 働 者 た ち 一 日 一 は失った勢力を回復した聖職者組織、ディプスの で は 、 メキシコの国民と呼べるような人たちは 一 体 数回にわたる土地法改正であらたに国土の 三 分の一を どのような状態におかれ、何を考えていたのだろう。 獲得したアシエンダの領主のうちの保守層、国土の 一 まず、当時の全人口の八四パーセント以上を占めて 五パーセント弱を握り、鉱山や石油、流通業や水道、 いた農業従事者は 地域差はあるにせよ、平均すると 電気、鉄道などの公共事業を牛耳る外国資本経営者た 実にその九九・五パーセントが土地を持っていなかったとされている。 つまり農民のほとんどすべてが、 オンとしてアシエンダに拘束されこき使われていたと いうことである。彼らの賃金は、 独立以前の十八世紀 末当時のままに置かれていたという。 一 方で物価は、 十九世紀末までの 一 世紀の聞に たとえばトウモロコ シは約 二 倍、小麦粉にいたっては約七倍に上昇してい た。ペオンたちは賃金の前借りという形で アシエン ダの独占的に経営する小売庖からその日生きるための 食料を手にしたが、この借金は増えるばかりで、まだ 生れぬ子供にまでそのつけは因された。こういった忍 ぺ rアシ工ンダ領主の綴暴J.ポリク口三ア 工房レプリカより,$セ・ガダルーペ・ポ サダ.1910年頃,亜鉛版にピュラン直彫り パベル・チーナに印刷,個人蔵 耐の極限にまで追い つ められていた農民は、自由とい う言葉も知らずに自滅するよりも、まず戦ってから死 ぬ道を選ぶようになった。局地的ゲリラの域をでなか ったとはいえ モレロス州で次々にアシエンダを襲う 貧農出身のエミリア
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ノ・サパタの反乱の勢いは激し く、同じ境遇で苦しむ各地の農民は、自分たちも何か できると感じはじめていた。 季節労働者が混じるため数字は確定できないが、当 時肉体労働就業者の 一 四 1 五パーセントに達していた といわれる鉱山および 工 場労働者は、 さらに増える傾 向にあった。たしかに鳥 業 ペ オンより給料はよかった が、労働条件は劣悪で組合結成の動きはことごとく演 され、指導者はあっさりと殺されたし、事故に対する 補償など経営者は考えもしなかった。ここではいつ反 乱が起こってもおかしくなかった。 徴兵制 に よ って狩りだされる兵士たちの待遇もひど いものだった。 人数合わせのために有無をいわさず、 へフェ・ポリテイコ 地方行政担当責任者)が若者を兵 役に送り込 む 一 方、治安維持のために犯罪者、政敵、 浮浪者 も 徴兵され、獣のように劣等祝されたインディ 15一一一一革命の芸術オも強制的に連行された。給料はまったく名目的なも ので、支給される制服も食事もひどいものであり、内 部での暴行や盗みは日常茶飯事のように起こった。食 料や俸給、軍需品は指揮官によってかすめとられ、徴 中 産 階 級 の 形 成 と 大 地 主 の 不 満 外資を巧みに利用して産業を飛躍的に発展させた結 果、それまで大きな政治力を持つには至らなかった中 こやすために利用された。 産階級と呼べるような層が、厚みと多様性を備えてき た。その大部分はメスティ
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ソ出身者であるが、地方 兵逃れの代償として受けとる賄賂と共に彼らの私腹を し か し 、 メキシコ圏内を移動する兵士同士の聞には の小ボスやアシエンダの現地管理者、教区を担当する 聖職者といったように、基本的には富裕階級について ある種の連帯感が育つようになっていた。それは虐げ られた者同士の共感といってもよいかもしれない。そ そのおこぼれを享受していた従来のタイプの人たちと れまでは狭い地域社会での生活しか知らなかった下層 は異なり、自前の工場を持ったり、知的な技能を活用 社会の人間が、様々な地域の出身者と出会い、異なっ して独立した事務所を構えたり、知識を利用して教育 た方言や風習に驚きながらも、﹁メキシコ的な ﹂ とも呼 や司法分野などに従事する人たちであった。事業拡大 ぶべき喜びゃ悲しみを共有できることを認識するよう や地位向上の意欲に燃えるこの新興層は 一 九 一O
年 になったのだ。 頃にはメキシコ総人口の八パーセントくらいに増えて そしてこの連帯感は旅の先々で出会う貧しい人々や、 いたという。だが才能に対する自信や事業欲が強いだ 行動を共にするソルダデラとの交流のなかからも生れ ふ , ノ 、 ー 一 部 の 上流階級があらゆる特権を握っている窮屈 てきた。兵士たちの誰もが共通の敵を認識しはじめた。 で旧弊の多い社会では身動きがとれず、不満は増大し それは、直接的には私腹をこやす指揮官たちであり、 ていった。都市を中心に、こういった不満を持つ中間 さらには彼らをあやつり、しかも彼らから搾取する外 層の間で、反ディアスの地下組織網が形成されていつ 国資本と、ディアスその人であった。 た 。外国資本とともに特権を享受し、おおいに恩恵を蒙 っていたアシエンダの大地主は、この時までに二極化 ひとつは進んだ外国資本の大土 未来に何の希望も持てないペオンたちが意を決して家 族を引き連れて逃亡し、こういった外国資本の経営す の傾向を示していた。 る鉱山や農園に潜りこんでも、もし成功すれば十分見 い の ち 返りのあるものだった。もともと生命以外何も持てな 地経営の方法を見習い、鉄道の発展に伴う交通網の整 備や市場の拡大に対応して、より効率のよい生産シス かった人たちなのだから。外国資本の経営する鉱山や テムに切り替えていったアシエンダで、労働条件の改 農園は、ディアスの意向を反映して治外法権的特権を 善もある程度進行した。もうひとつは一般の保守的な 一 旦逃げ込んだペオンたち 持っていた。したがって、 アシエン、グ・グループで、時代の要請にあわせて近代 を連れもどすのはアシエンダの領主といえども難しか 的な経営を試みたり、流通機構を改革して市場の動向 った。こうしてアシエンダの領主たちと外国資本の経 に素早く対応するよりも、 メキシコ市やヨーロッパで 営 者 は 、 しだいに反目するようになってきた。 ぜいたくな生活を送るのに忙しかった連中である。こ 外国資本による第一次産業のマーケ ッ トは、園内よ ういったグループに属するアシエンダのペオンたちは、 りも国外の方が大きかった。ということは、国際経済 旧来の極貧状態のままだった。 の動向に直接影響を受けやすくなったということであ しかし外国資本による鉱山や大農園への進出が顕著 る 一 九
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六年にコーヒー恐慌がブラジルを襲ったの なものになるにつれ、これらの鉱山や農園はてっとり を 皮 切 り に 、 一 九O
七年にはアメリカ合衆国の経済が ばゃい労働力確保の手段として、時には一般のアシエ おちこみ、その影響が国際市場にはねかえり、果物、 ンダの十倍以上の給料を払って労働者を集めた。国際 サ イ ザ ル 麻 、 木 綿 、 タバコなどメキシコ産品の国際価 的な市場を持つ海外資本は、それでも能率よく運営で きれば十分もうかったのである。数世代にわたって借 格は下落した。 アシエンダは打撃を蒙ったが、 とりわ け影響の大きかったのは、近代的経営を目指して借金 金に拘束され、現在の生活も食うのにやっとの状態で、 をしながら体質改善を図っていたアシエンダで、厳し 17一一 一革命の芸術rアシ工ンダ在視察する領主とその妻J, 画集r考古学的信画的主題在求めての旅J 収録,カルロス・ネベル,1日34年頃,リトグ グラフ,メキシコ国立図書簡蔵 くなった銀行の取り立てににっちもさっちもいかなく なった。ディアスはこれに対して何の救済措置もとれ アシエンダの近代化に批判的だった保守的 なアシエンダ経営者と、寡占体制をさらに強めようと なかった。 する外国資本の圧力があったからである。 要 す る に 、 独立百年祭を盛大に祝っているその時点 で は 、 ヨーロッパかぶれしたディアスにも、また彼の 取り巻き連中にも、誰もが愛想を尽かしていたのだっ た。しかし大分もうろくしてきたとはいえ、ディアス の権カはまだ強かった。大統領選挙で彼の獲得した投 票数がまったくのでたらめであることはいうまでもな 、 AT 、 し カ そういう操作をする余力は残っていたのだ。か くして革命という道が選択されるようになる。
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年十 一 月二十日にメキシコ革命は始まる。だが、この日に民衆が一斉に武力蜂起したとか、ディ アスが政権の座から引きずりおろされたというわけで はない。この日は大統領選挙に立候補したフランシス コ・マデロが選挙直前に不当逮捕された折、牢獄から 反ディアス勢力の結集を呼びかけ その 一斉決起に指 定した日であった。この時点で呼びかけに応じたのは 少数のゲリラ・、グループだけだったが、この日を契機 に様々な英雄、悪役、端役が歴史の舞台に登場し、そ れぞれの役を演じていった。 政 治 改 革 か ら 社 会 革 命 へ 北部の大地主たちの利益を代弁するパスクワル・オ rj寅説するフランシスコ・マデロj,;t¥セ・ ガダルーペポサダ,1910年頃,木版画, 国立芸術院 成 軍の指揮官としては有能だったが革命の意義 をまるで理解せず、反革命的に動いたビクトリア
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ロ ス コ 、 ノ・ウエル夕、菜食主義者で精神力は強いが政治力に 乏しか ったマデロ、農 民の夢を現実のものにすべく疾 風のようにモレロス州をかけめぐり、 アシエンダを襲 うエミリアl
ノ・サパ夕、豪放で陽気な性格から万人 に愛され、今でも伝説に、詩に、歌に語りつがれる、 チワワ州から北上しようとしたパンチョ・ビリャ、強 力なヤキ族のインディオを引き連れ、最後には労働者 や農民を組織化するのに成功するアルパロ・オブレゴ ン、自らは地主でやや前時代的であったが、自由と独 立という高い理 想のために戦い、何よりも外国の干渉 を嫌うメキシコ人の心情を代弁したベヌスティアノ カ ラ ン サ 、 アメリカ合衆国の利益を確保しようと反草 ム叩の糸を引き、逆に失脚してしまうアメリカ合衆国大 使へンリl
・ウィルソン等々。だが真の主役は、 まで銃も剣も持ったことのなかった農民であり、 ディオであり、労働者であった。そしてディアスの独 裁体制への反発から始まった自由主義的な政治革命は、 こういったもっとも抑圧された階層の人々を巻きとむ そ れ イ ン 19一一一革命の芸術子 工 臼 歴 街 は 別 立 靭左門阿国 制 J 引 停 城 大川ソ山川 後 ぺ 人 ベ の ヨ 宕 テ 旋 チ 列 レ 九 ン 作 りヌ ントを掌握する。この過程で明らかになってきたのは、淵パ中山ヤ 司 る J , チ 市 わ ノ 市 蔵 一 す -コ 館 一づにアシ物 件 下 リ キ 鰐 り の 三 メ 史 ことによって、やがて社会経済構造を根底から変革す る社会草命へと発展していった。 メ キ シ コ 人 の た め の メ キ シ コ 一 般に 一 九 一
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年から 一 九四O
年までの時代が革命 時代と認識されている。このうち最初の十年間が革命 の 動 乱 期 、 一 九 二O
年以降が制度的変革のプログラム を実行してゆく期間と理解されている。このメキシコ 革命動乱期の十年間は、 パ 夕 、 さらにマデロ、 カ ラ ン サ 、 ビリャなどの革命諸勢力、 それにウエルタ等の 反革命勢力の利害と野心が複雑に交差し、武力闘争と、 革命の到達点をどこに設定するかという議論が錯綜し た最初の五年間と、改革のプログラムを具体化してゆ く段階に入った後期の五年間に分けられる。この後期 一九一七年の憲法制定である。 一 九 一 五年 一 月、首都メキシコ市の制圧に成功した の象徴的な成果が、 カランサは、その年の秋までに国土のほぼ九O
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セ 革命勢力のうち、弁舌よりも行動を好み、執務室に座 って政務を取るより野や山をかけめぐることに才能を サ 発揮し、何よりも最下層の人々の心を代弁するサパタ やビリャと、本質的には支配者であり、政治的かけひ きを心得ていたカランサやオブレゴンとの対立である。 歴史のパラドックスとして興味深いのは、結局ビリャ やサパタは政治の舞台からは退けられ、最後は暗殺さ れてしまうのだが、逆に政権を握ったカランサやオブ レゴンが、負けたはずのビリャやサパタの改革の理念 を実現してゆかねばならないはめに陥ったことだろう。 革命動乱期を通じて明らかになってきたことは、 メ キシコという国民国家にはインディオも含めた国民像 の形成が必要なこと、国民の大多数を占める農民の利 益を要求する民族意識が十分に育ってきたということ である。この民族意識は、植民地時代末期から独立期 にかけて目覚めたクリオl
リョたちの国家観とかメキ シコ人意識とは異質なものである。近代化のモデルを 西欧型工業社会に求め、国土を外国資本に売り渡して まで西欧至上主義を貫いたディアスへの反発から生れ たメキシコ革命は、また西欧型の近代化には邪魔にな るとされた伝統的な村落共同体や土着のインディオ文 化を再認識し、 メキシコ人のアイデンティティの一部とすることであった。だがこのことは、植民地時代以 対する討伐軍の派遣であっても変らなかった。この点 前のインディオ世界にまで戻ることでもなければ、三 では対立する革命勢力同士も一致して反米、外国勢力 世紀にわたる植民地時代を否定するものでもない。メ 排除の姿勢をとり、 メキシコ人としての民族意識を高 キシコ人の自己認識の原点を、 インディオ世界と西欧 揚させる結果となった。 世界の混血するメスティ
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ソという性格に求めたとい 壁画運動は メキシコ革命の過程で明確に形成され うことである。 てきた、このような新しいタイプの民族意識を高揚す この意味でカランサがいかに進歩的な姿勢を取りつ る文化活動であり、革命を国民全体の共有財産として づけようと、時代おくれの十九世紀的国家意識しか持 歴史の中枢に刻みこむ作業であった。それと共に、長 ち合わせていなかった。政治的な嘆覚をもってこの事 らく文化的な支配を続けてきた西欧に対する、 ィl
ソ文化の挑戦でもあったのだ。 メステ 態を把握したのはオブレゴンである。オブレゴンは労 働組合と農民連合の組織的な支持を受け、 カランサを 追放するとともに、 一 九 二O
年 、大統領に就任する。 こうして 一 九 一 七年憲法を現実に適用する政治プログ革命の芸術
ラムを実行する時代に入ったのである。 メキシコ革命動乱期に民族意識の形成を促した他の アメリカ合衆国の武力干渉や、ドイツの 要因としては、 武器供与があった。なかでもカランサは、 一般のメキ メキシコ革命の中心になって動いた人々は、ディア スの独裁制の時代に生れ育った人々であり、ディアス シコ人の心情を代弁すべく、あらゆる外国の干渉を露 ベラクルス港封鎖のように革 命軍に有利な申し出であっても、政敵であるビリャに によってもたらされた繁栄の恩恵を理解すると同時に 骨に嫌悪した。それは、 その限界も見極めた人々であった。 メキシコ革命は単なる政治革命ではなく、社会改革であると共にメキシ の国民の貧困を生み、 独立戦争を通じて獲得した民族 コ独自の文化体系を再構築しようという意図も持った、 そして人聞が人間として存在する権利までを抑 意 識 、 文化革命であった。ディアスの採用した西欧工業化社 圧する機能しか果たさなかった。ディプス時代に生れ 会を指標とする近代化路線は、 メキシコを西欧化する 育った文化人たちはこの事実をはっきりと見定め、新 ことを目的とした。そのため極端な外資導入政策がと しい社会の基盤となる思想 ー ー ー ナショナリズムを高揚 られ、その利益がディアスと彼を取り巻く 一 部の上流 し、人間性を回復し、実証主義に代わるものーーを一 階級の人々に集中したため、大多数のメキシコ人のナ 斉に追求しはじめた。その組織的な動きはディアス政 シヨナリスティックな心情を刺激し、 権 の 末 期 、 一 九
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年から十年の間にあらわれてくる。 反発を生んだの だ。ディプスの政策の骨格を形成したのは、 美術作家、文芸作家、思想家、評論家などの若い知識 コントの 実証主義を実践しようとするシエンティアイコと呼ば 人の動きが活発になってきた。革命は知識人にとって れる人たちであったが、ディアスに対する反感はこう も必然的な結論だった。そして必要であれば.、自らも いった思想的な面にまで向けられた。たとえディアス 武器をとったのだった。 を追放したとしても、 それが単なる政権交代でしかな 大事なことは、この時点で突然新しい時代を象徴す かったならば、何も解決しないだろうということが次 るような芸術が生れ、壁画運動に集約されていったと 第にはっきりしてきだのだ。 いうわけではないことである。少なくとも美術に限つ 新 し い 思 想 の 模 索 て言えば、十九世紀末から二十世紀初頭、そして一九 二0
年代の壁画運動へと 向う動きは、 それまでの流れ こうして文化人の問では、実証主義哲学に代わる思 との断絶ではなかった。時間の幅を短くとっても独立 想の模索が始まる。実証主義の内容がどのように優れ 達成以来、美術作品の制作の現場で日々作家が悩み、 たものであれ、 メキシコではディアスの不正と大多数 そのなかから見出してきた表現の帰結でもあったのだ。 23一一一革命の芸術壁画運動の核心に触れる前に、もう一度、十九世紀か
ら二十世紀に至るメキシコ美術界の様子を辿ってみよ
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可能になったものであ る 。 ア カ デ 、 、 、 ァ の 歴 史
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スペイン王室は一 七OO
年 以 来 、 それまでのハプス ブルグ家支配からフランスのブルボン家支配へと移つ ていた。有能なフェリペ五世(在位 一 七001
四 六 年 ) メキシコに最初の美術アカデミアが設立されたのは、 につづいて 、 ブェルナンド六 世 ( 在 位 一 七 四 六 1 五 九 一 七八五年 のことである。植民地時代の 頂 点にあった 年 ) 、 カルロス三世(在位 一 七 五 九 i 八 八 年)の治世 が つ この時期、経済力の面ではラテンアメリカ植民地でも づく。この期 間に スペイン宮廷の雰囲気 は フ ランス 群を抜き、本国スペインと肩を並べるほどに成長した 風に変っていった。そして当時のフランス宮廷美術文 との自負が、人々のなかに生れていた。しかし、同じ 化 を支えていたのは 、 アカデミアの作家たちであった。 ス ペ イ ン語を話し 、 カトリック信仰を共にしてはいる 十 六世紀 以 降 、 、 ギ ル ド と は 別の 美術教育を 提供す る よ ものの、文 化 面ではいまだ本国並みには達していない と感じていた。この分野では、まったくの輸入過剰で うになっていたアカデミア は、、ギリシャ時代以来ルネ サンス期までつづいた伝統から変質し、組織と規範を あったのである。 しかも、大西洋 をわたるぶんだけ遅 持つようになり、 その基準に達した人々だけが会員に れてはいってきた し 、 量 一 も限られたものだった。 メ キ なれるシステ ムをと るようになる。そして 十八世紀 に シコにおけるアカデミアの設立は、文 化面 で西欧と同 なると、王立 施設 として機能するに至る。 等の水準を求めるこうしたメキシコ人の心情と、世界 スペイン で最初の アカデミアが設立され たのは 一 七 の歴史は 西欧を中心に形成されてゆ くという、西欧自 五 二年 の こ と で 、 マドリッドにアカデミア・デ・サ 身の自負に基づいた文 化 拡張の欲望が重なりあって、 ン ・ フ ェ ルナンド が創設されたのを皮切りに、 一 七五三年にはパレンシア、 デルのデッサン、 および生きたモデルを使った人体デ 一 七七五年にはバルセロナ、 七七八年にはサラゴサと相次いで設立された。十八世 ツサンなどの授業があった。こうして現実の社会とは 紀後半には西欧中で百以上のアカデミアが生れたとさ 無縁なギリシャ、 そしてやはりギリシャ、 ロ ー マ 時 代 、 れている。 ローマ美術の復権の意味を持つルネサンス時代の作品 ラテンアメリカでは一番早く、 一 七八五年に設立さ が模倣され、現実にはめったに存在しないプロポ
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シ れたメキシコのレアル・アカデミア・デ・サン・カル ヨンと骨格や顔立ちをもっ 人物像を配した 美術作品が ロ ス に は 、 マドリッドやパレンシアのアカデミアです 制作されていった。 でに教鞭をとっていた現役の美術作家が招かれた。で は、アカデミアの教育とはどのようなものだったのだ 、 ギ リ シ ャ 、 ローマという過去の遺産を共有しないメ キシコで、しかも国民の大多数がインディオというメ ろ ﹀ フ か 。 キシコで、古典美術を自らの美術表現として受け入れ アカデミアの美術規範は古典主義に依っている。 つ るという奇妙な現象が生れたわけだ。だが、この新古 ま り 、 、 ギ リ シ ャ 、 ローマ時代の作品を理想美の規範と 典主義は純粋に美術の問題として受け入れられたとい して、まずこの美の水準に達すること、 そしてこの理 うよりも、社会的な要請だったという面を見落として 想美を西欧文化の古典として次の世代に伝えてゆくこ とにあった。このため一般にはアカデミアの美術を総 はならない。 新古典主義とフランス文化崇拝 称して︿新古典主義﹀とか︿アカデミズム﹀とよぶ。 典型的な教育プログラムとして、遠近法、素描、解剖 学、幾何学、建築学などがあり、技術修得のために、 西欧においては宮廷文化の担い手として発展した新 古典美術も、メキシコでは独立をめざす新生メキシコ の文化の指標となったのである。ここに至る背景には 版画(まだ油絵を描くための下絵的性格を残していた)、 そしてギリシャ、 大きく二つの理由が考えられる。 ひ と つ は 、 十八世紀 ローマの彫像からかたどった石膏モ 27ー十一壁画運動の先駆者たちに頂点を究めたバロック様式の美術に誰もが見飽きて いて検討するほどの余裕と理解力はなかった。 きたことである。そしてこのバロック美術は、どんな ア カ デ 、 、 、 ァ 雲 南 の 矛 盾 に素晴らしいものであろうとも、植民地文化の象徴で あ り 、 独立をめざすメキシコには否定すべき過去のも メキシコにおけるアカデミアの活動は、こうしてギ のとなったのである。こうしてバロック美術を悪しき ルド職人制にかわる唯一無二の美術教育機関として活 発になり、新古典主義様式の作品が都市のモニュメン もの、反古典的なものとして退ける新古典主義の立場 に共鳴する傾向が強まった。極端な例としては、バロ ック建築物や美術品の打ち壊し運動が展開されたりし 公共施設の装飾として、また個人の肖像画 として制作されるようになった。肖像画の場合、モデ ト と し て 、 た。そこまでゆかなくとも、建物の内外装や、華美 ルとなった人からは、 その顔立ちも衣装も現実の姿と 色のバロック式レタブロが、しばしば新古典主義様式 はかけはなれた西欧古典の意匠で描かれたわけだが、 の物に置き換えられたりした。 描かれた人はそれが自分の理想の姿、将来のメキシコ そしてもうひとつは、 フランス革命の勃発である。 人のあるべき姿を写す鏡として受け止めたのだ。 人民の蜂起から憲法の制定という 一 連のプロセスを、 し か し 、 独立を達成するという政治過程のなかで、 メキシコ人は自分たちのこれからとるべき道の先駆的 その独立の精神的表現として考えられた新古典主義は 自己矛盾に陥る。非西欧社会におけるアカデミアの教 なモデルとして見ていた。この意識はすぐに、フラン ス文化の崇拝の念へと拡大してゆく。そしてフランス 美術を支えてきた新古典主義をとりいれることこそ、 育は、西欧の美術文化の正当なものをいまだ︿西欧化﹀ されてない固に伝える啓蒙的精神に支えられていた。 フランス人のように自由と独立を達成し、 メキシコ人 こ の た め 、 アカデミアの教師はまず西欧人でなければ の文化的基盤を築く早道だと考えたのだ。そこには、 な ら ず 、 どのように才能のあるメキシコ人が、 どれだ 新古典主義がフランス社会で笑際に果たした役割につ け長く修練を積んでも、主任教授として教える立場に
立つことはなかった。またあらゆる自己表現も、テー た。そしてその教育プログラムも、また生れてくる作 マの選定にあたっても 、古典 の規範から離れることは 口問も、新古典主義の理念を反映した以前のものとは異 許されなかったし、教師たちに既知の西欧の歴史にの 質なものに変っていた。 っとった題材でなければいけなかった。アカデミア教 この新生アカデミ ア の 変化に大きな影響を与えたの 育は結局、西欧拡大の意図を助長し、非西欧社会の隷 は、旧のアカデミアの閉鎖期間にほぼ対応して、 メ キ 属化を推進したにすぎなかったし、そこで学ぶ生徒た ちは、現実のメキシコ社会との対応を欠いた教養主義 シコのみならずラテンアメリカ中に渡来してきたロマ ン主義の波である。 に陥ったのだった。したがって、独立を求めるメキシ コの国民意識とは無縁なものとしてしか機能しなかっ たのである。
ロ マ
ン
主義と
コ
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ト
み
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独立運動の過程で、敵対するスペイン本国は教師を 引き上げさせ、その派遣をやめた。そして政治的混乱 も激 しくな っ た こ と か ら 、 アカデミアはついに閉鎖さ れ る 。 一八四八年にサン夕日アナ将軍の尽力によって ロマン主義のロマンという言葉の語源をたどってい アカデミアは再建され、以後アカデミアはメキシコ革 くと、中世フランス語の俗語で書かれた騎士道物語の ム叩の試練を受け、何度も教育内容や名称を変えながら ような文学を指していたらしい。やがてこういった文 も今日まで存続する。 サンタ ・ アナはアカデミア再建 学に見られる伝奇、空想、至高の愛、精神的な理想の に あ た っ て 、 探究といった要素が強調されるようになって、 ︿ ロ マ ン その中心となる教師を西欧か ら 招へいし たが、あくまで新生メキシコのアカデミアへの教師と メキシコの美術を振興するために呼んだのだっ ティックな﹀という形容詞が登場してくるのは十七世 紀になってのことであり、とりわけ自然賛美と感情表 し て 、 29一一一壁画運動の先駆者たち現、夢想とか幻想、叙情的な光景の描写にこの傾向が るいは時代 的な個性に積極的 な美を発 見していった 。 市 の 発 展 と 、 示される。十八世紀になると、農村や漁村に対する都 その都市における一部の上流階級の聞の、 こうして古 典主義の合理性 に対抗する非合理的なもの 洗練され近代化されてはいるが人間性の疎外につなが の追求、文明 化された社 会に対立する自然と、そのな かでたとえ貧しくても人間らしく生きている人たちの るような社会とか文 化のあり方に 反抗して、恋愛物や 姿の追求、神秘的な世界へのあこがれと、その延長と 人生の苦悩を綴る自伝物や、さらに神秘主義と結びつ いた、理性や合理主義よりも感情や想像力を重視する ロマン主義が生れる。 してのエキゾティシズムやオリエンタリズムの追求と ロマン主義は啓蒙思想とも結び したがって ロマン主義美術のテ
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マ と な っ た 。 ロマン主義は反古典主義という大まか いったことが っき、芸術をより自由な世界へと開放する革新的思想 な共通基盤はあるにせよ、 そ れ は 、 いわば精神のあり として、合理的普遍性よりも主観、 既成の規範に追従 ょうとか人生の基本的態度の表 明 で あ り 、 ゴチック様 するよりも想像力の優越を主張した。美術の分野にお いては、古典主義と対立するとともに、 既成の社会休 式やバロック様式などと同じような、 なるものが存在したわけではない。新しい主題の発見 ロマン主義様式 制への反抗と徹底した自我への執着という特徴が明ら がそのまま新しい美術の表現様式を生んだわけではな かになってくる。 く、初期には、 ロマン主義者たちも、自分が美術の訓 十八世紀の後半になると、 ロマン主義は多くの場合、 練を受けたアカデミアの新古典主義の伝統技法を踏襲 国民的な国家統一の意識のもとに発達したナショナリ ズムと並行して発展するようになる。つまり美術にお し て い た 。 いては、西欧共通の理想の美の形態としてギリシャ、 コ ス ト ン ブ リ ス タ が や っ て き た っとする立場に対して、民族的、地域的、 ローマの古典的伝統があり、この美のみが普遍性を持 土着的、あ 西欧のロマン主義者たちは、こうして西欧には見ら れない珍奇なもの、めずらしいもの、未知のもの、よ'M軍鶏湯の光康J.画集rメキシコの市民, 軍隊,霊勝者の衣裳J収録,クラワディオ・ リナッテイ.1日'28年,リトグラフ,メキシ コ国立図書館蔵 り強い刺激を求め、 冒 険とロマンの旅にでていった。 その活動範囲は、初めはアフリカや東洋であり や カt てラテンアメリカにも目が 向 けられるようになった。 やがて十九世紀になると、 ロマン主義者たちが大挙し てラテンアメリカに渡来し、 メキシコからアルゼンチ ン へ 、 ブラジルからグアテマラへといったように、 人の作家が植民地時代には考えられなかったスケール で旅をした。彼らは各地に滞在して、 その土地の自然 ゃ、上流階級から 一 般 大 衆 、 インディオの日常生活を 描 き 、 さらにはジャングルのなかにうもれ 、 土 地
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イ ンディオ以外はその場所も知らないほどに忘れ去られ てしまったスペイン人到来以前の土着文明の遺跡を探 検 し 、 題材とした。こういった作家たちのことを、ラ テンアメリカでは一般にコストンブリスタと呼んでい る アカデミアで教えるべく渡来してきた新古典主義者 と 冷 地 い 、 コストンブリスタは集団で行動したわけでも なければ 一 貫した美術の教育システムや教育の場を 確保したわけでもない。その態度も基本的には西欧社 会に対して向けられたものであり 、 この点だけをとら 31一一一壁画運動の先駆者たちえ れ ば 、 アカデミアの新古典主義者と同根ではあった。 いうのは、考えられない事実であった。肌の色の違い にもかかわらず、以後のラテンアメリカ美術の発展に や骨格の違い、食生活の違い、生活様式の違い、熱帯 大きく貢献する結果となったのはどうしてだろうか? 植物やめずらしい動物の存在といったものが、西欧か ロマン主義者が少なくない旅費をかけてまでラテン ら見て特殊であればあるほど、西欧人の好奇心をそそ アメリカに渡航し、絵を描いたということは、損得を り、価値があることに、 コストンブリスタたちは気づ 抜きにした個人的な願望は別にして、そういう費用を いたのである。こうして彼らの活動は、結果として、 かけても見合う程度の市場が、すでに西欧には存在し 現地人のナショナルなものの自覚、自国のアイデンテ たということだ。事実、 コストンブリスタはラテンア ィティと結びつく風景の発見、独自の歴史によって発 メリカの風物や生活光景を描いては、 タ ブ ロ
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の 形 で 、 展形成されてきた個性的な文化と生活様式の積極的な せげる画集の形で出版したりした。この事実は、ラテ 評価、さらには遺跡の発掘を通じて、植民地時代以来 無視されつづけてきた植民地時代以前の土着インディ 版画の形で西欧に送り、また解説を付けて、部数のか ンアメリカ人には驚きであった。 アカデミアの教育で オ諸文明の価値の再発見へとつながった。 は、西欧の普遍的価値である古典様式を模倣すること こそ美術の唯一の方法であり、扱う主題も西欧の伝統 内 発 的 な 美 術 表 現 砂 羨 め て のなかで生れた神話や聖書、歴史に由来するものに限 コストンブリスタたちの存在は、 独立時の国家意識、 るとされていたからである。美術の工房から足を踏み 国民意識とあいまってきわめて重要であったが、同時 出し、誰でも目にする日常のラテンアメリカの風景や に限界も存在した。彼らによって発見されたラテンア 生活光景を美術の題材として描いていいものだとは思 わなかったし、しかもそれらの作品がラテンアメリカ 内ならいざしらず、西欧の市場で十分に価値を持つと メリカの風景や風俗も、所詮は西欧人の目を通じて発 見されたものであり、あくまで西欧人にとって興味深 いもの、重要なものだけが扱われたわけで メキシコ人の美術作家が内発的な動機や表現衝動によって本当 素朴画とよばれる系譜の作品である。 に欲するものを描いたわけではなく、メキシコ人美術 作家にはまだ無縁な世界であった。もうひとつは、こ ういったコストンブリスタの動きが、独立を達成した
素
朴
耐
の
系
譜
メキシコの文化が西欧の独立諸国家と肩を並べるほど に成長した結果であり、 そう認められたからだとメキ シコ人を誤解させたこと、 メキシコに必要な美術作品 はこういった人たちによって賄われると思わせてしま メキシコ市にアカデミア ・ デ・サン 一 七 八 五 年 、 ったことだろう。この意味でアカデミアの新古典主義 カルロスが創設されて以来、プエブラ市やグアダラハ 教育と同様、形こそ違え、あくまで西欧による世界支 ラ市といった地方の主要都市にもアカデミアの分校が 配の欲望の 一 形態を表明したものであることには気が 設立されるようになっていった。こういった分校では、 つかなかった。 基本的には新古典主義の教育がなされたわけだが、教 いくら修業を積んでも究極 的には自立の道を閉ざされ、また階級社会や職業的制 師の実力はメキシコ市のアカデミアに比べて概して劣 っていた。そもそもメキシコ市のアカデミア ・ デ ・ サ アカデミアにおいては、 約があって外国人コストンブリスタのように自由気偉 ン ・ カルロスにしても、 きわめて高尚な理想に燃えて な旅も生活も許されなかったメキシコ人美術作家は欲 渡航してきた第一世代の講 師 たちが帰国し 、 世代が変 求不満な立場に置かれたわけだが、 それでも徐々にメ るにつれ、本国のアカデミアではあまり通用しないよ キシコ的な美術表現の道を模索しはじめる。そしてそ うな二流の美術作家たちが講師として送り込まれるよ の突破口は、意外な方向から登場してきた。 市の美術に対する地方のプリミティビスム、あるいは うになってきた。そのころには、 ペ ルl
のリマ市やエ メキシコ クアドルのキト市などラテンアメリカ各地にもアカデ 33一一一 壁画運動の先駆者たち、ァが設立され、講師の絶対数が足りなくなり、二流 といえども受け入れなければ必要な講師数を確保でき なくなっていた。 ロマン主義の台頭によって、才能あ る人ほどかつてのように新古典主義に魅力を感じなく なってきたことも、教員不足の背景としであった。 地方のアカデミアでは 事態はもっと深 刻だ った。せ っかく地方の有力者の肝煎で実現したアカデミアだが、 肝心の教師がそろわなかったのである。こうして地方 のアカデミアは、 メキシコ市のアカデミア・デ・サ ン・カルロスで学んだメキシコ生れのクリオ
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リョた ちの絶好の就職先ともなった。しかし又聞きの又聞き :・と新古典主義の規範が伝えられてゆくに従って、 たとえば同じ遠近法の扱いにしても細部については甘 いものになったり主題や題材の扱いにしても正当的 な解釈とは、ずれた勝手な解釈になりがちだった。 新 興 の 美 術 芳 野 者 た ち 結局、新古典主義の正当的なものと照らしあわせで 評価できる人も、論じあう美術家仲間も、地方にはき わめて少なかったのである。だが地方の美術品購買者 F喫煙するメキシコE里村の女位と牛飼い の男J.画集F考古学的絵画的主題在求め ての旅J収録,カルロス・ネベル.JB34iF頃. リトグラフ,メキシコ国立図書館蔵 であったブルジョワ層には、様式上の正当性などあま り大きな問題ではなかった。何よりも、獲得した富と 栄華にふさわしく邸宅を飾ったり、教会に寄付したり する美術作品の絶対数が足りなかったのである。また こういう地方のブルジョワにとって、西欧の伝統に準 拠しているだけの、彼らにとってまったくわけのわか らない作品よりも、 どこかに自分たちの親しんだ風景 や人物の顔、植物、果物、動物がすこしでも登場した り、また華美な装飾性のあるものの方が親近感をもて たのだ。地方のアカデミアの存在は、その教育内容が 徐々に変質していったとはいえ、それまでほとんどチ ヤンスのなかった地方の在住者にも美術教育を受ける 機会を増やし、またわざわざメキシコ市まで出かけた り、法外な価格に比してつまらない輸入品を待たずと も、手軽に作品、が手にはいるシステムを築いたことで 評価できるが、この遺産をメキシコのナショナルな表 現やメキシコ人の感性にぴったり合うものに変えてい ったのは、非アカデミックな美術作家たちであり、 日 曜画家というような人たちであった。この点に言及す コストンブリスタの果たした役割について、 る 前 に 、さらに述べてみよう。 コストンブリスタたちはもともと、人間性を疎外し てゆくような都市生活には、あくまで西欧との対比で 面白いものか、金銭的な目的で上流階級の人々の肖像 画を描く以上にはあまり興味がなかった。それよりも 地方を旅行し、珍しい風物や庶民の生活を観察したり、 ピラミッドなど古代土着インディオ文明の遺跡を発掘 したり、あるいはまだ紹介されたことのないインデイ オ部族を訪れたりというような、冒険心や知的好奇心 を満足させるものの方に興味を持った。このため 地方 にあっては、あらゆるものが題材となった。果物や野 菜、地方色豊かな衣装、 アシエンダの支配者からペオ ンに至るまでの生活、闘牛や男女の交際、賭けごと、 酒場の様子、街の物売り、子供の遊び、 の 行 事 等 々 、 お祭りや各種 どれも西欧人の目には素晴らしく面白い ものだった。また 地方に住 むメキシコ人にとっても 、 馬の上で、街角で、 野原で、酒場の一角で、あるいは 台所の片隅でスケッチする画家の姿は、また印象的な ものだったろう。 r聖母に感謝する一家J.エルメネヒルド・ プストス.1879年,錫板に油彩.国立芸術 院蔵,奉献函 日 曜 画 家 非 暴 朴 画 の 誕 生 決定的に大きかったのは、 絵を描くという作業には 西欧の歴史や西欧古典の知識はかならずしも必要でな いこと、信仰があれば聖書図像学の知識もいらないし、 愛と悲しみを知っていれば肖像画を描くのに解剖学の 山 や 川 の発する自然の声が 聞こえれば 知識もいらず、 遠近法の知識もいらないということがわかったことで ある。すなわち、 人生のなかで出会う楽しいことや悲 しいこと、怒り、信仰の告白を何かに表現して残して おきたいという衝動、美しいとか素晴らしいと感じ心 に満ちた感動を何かに記録しておきたいとき、絵具と 絵筆を取れば絵が描けるという簡単な事実を、 コ ス ト ンブリスタの活動を通じて認識したことだ。こうして、 かならずしもアカデミックな訓練を受けたわけでもな ければ、初めから美術作家をめざしたわけではない日 曜画家のようなひとが、積極的に絵を描きはじめ、 発 表していった。そしてその頃にはまた、 そういう感動 を共有したいと考える観客、すなわち購買層が成立し ていたのである。
こういった絵画を 一 般に素朴画と呼んでいる。素朴 画を扱う主題や目的でさらに分類すれば、ボデゴンと 呼ばれる静物画、家庭用の祭壇に飾ったり教会への寄
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進の際に奉納する奉献固と呼ばれる宗教画、家族や知 人、それに依頼のあった人のために描いた肉像画、 そ れに風景画などにわかれる。重要なことは、 メキシコ 人がメキシコ人の肖像やメキシコの風景、 日常生活や グラフィック・アl
ト と は 、 一般に版画をはじめと 風習を描くことにためらいを感じなくなったことだろ して、大量印刷をも可能にする現代のあ らゆる印刷術 を使った芸術表現と定義される。今日では公共デザイ ぅ。そしてこの傾向は、西欧崇拝の呪縛が少なかった 地方の生活のなかから発展していった。ここに初めて、 ンや企業の P R 活動と結びついた視覚的表現の意味が 大衆性を獲得したメキシコ国民の絵画が誕生したこと 強くなってグラフィック・デザインという概念となり、 に な る 。 さらにマス・メディアとのかかわりの過程で領域が広 がり、視覚情報を中心とするビジュアル・デザインと 絵画のメディア性をとりあげて考えた時、十九世紀 いう概念に置き換えられる。その一方で、 日本ではよ 後半から大衆の間で重要な役割を演じるようになって りア1
ト的な個性的表現を強く残すものにはイラスト き た の は 、 いわゆるグラフィック・アートの分野であ レl
ションという言葉を使って区別しようとしている。 る。そしてこの分野から、後の壁画運動の理論を構築 し か し 、 マス・メディアがまだ今日ほど発展していな するのに重要な指針を与えたホセ・ガダル 1 ぺ・ポサ かった 二 十世紀初頭までは、木版画、銅版画、 の 金 属 版 画 、 その他 、 ダ が 生 れ た の だ っ た 。 および石版画を指し、 メディアとしては ポスターや新聞、本の挿絵や表紙、画集などがあった。さらに範囲を広げれば、西欧やイスラム文化圏に古く からある装飾文字や、中国とか日本の書も含めること に 対 応 す る 。 しかし素描と同じく、美術作家はやがて、湧き上が が で き る 。 るイメージを手早く、 そして直接的に表現でき、しか 版 画 と い う ジ ャ ン ル の 独 立 も複製が可能であるという利点から自らも版を彫り、 印刷工程にも手を染めるようになる 。 一方、彫師のな 版画は一般に水彩画と同じく、独立した作品として かにも他人の作品を注文通りに彫るだけでは飽きたら 観賞されるようになったのは意外と最近のことで、だ ず、自らも自分のイメージを表現するようになる。こ いたい十八世紀も後半になってからである。言うまで うした両者の歩み寄りにより、版画という独立したジ もなく、これ以前に版画が制作されなかったわけでは ャンルが成立していった。それと共に美術作品として ない。しかし 、それまで の版画や水彩画は 、 あくまで の質も向上した。 タブロ
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画や建築・彫刻の下 絵、あるいは本の文章の 補助、壁紙や衣装のデザイン見本という位置づけしか 美術の 一 ジャンルとして成立した版画に対して、十 とりわけその複製制作を可能にする 九世紀になると、 なされなかった。 アカデミアの教育でも版画は、油絵 特徴に注目が集まり、 マス・メディアへの対応が考え 具で大画面のキャンパス画を描いたり、彫刻作品や建 られるようになった。 ひとつには、素描のような自由 築、都市計画のイメージを固定する基礎的な技術教育 な筆致と多彩な色の表現が可能な石版画の技術の発展 のひとつであり、独立した講座として成立してはいた という現象があり、たとえばフランスのロl
トレツク が、あくまで補助的なものと考えられていた。分業シ が生みだしたような芸術性の高いポスターが作られる ステムもはっきりしていて 、原画を描 くア ー ティス ト 、 ようになった。もうひとつは、新聞のような活字メデ 原画のイメ ー ジを版におこす彫師、 ィアの興隆への対応である。そもそも活字メディアが 紙に印刷する刷師 などにわかれていた。これは日本の浮世絵の制作工程 多数の読者を獲得するためには、 まず信じられないほ 39一一一壁画運動の先駆者たちかった。版画を使ったイラストレ ー ションは、書かれ ンディオの 生 活や、目にするメスティ
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ソ 階 級の風俗 を忠実に描いた作品は、客観的に見れば、富が一部の どに低い大衆の識字率の 問 題を克服しなければならな た内容を字の読めない人に伝えるために不可欠なもの 上流階級に集中するメキシコの政治批判を含んでいた。 となった。社会的事件も政治的メッセージもイラスト 金属版による作品は耐久性に富んでいたため、新聞 を通じて直接的に、そして素早く伝えられた 。 識字率 などのマス ・ メディアに多用されるようになる。こう の低い社会にあっては、新聞のイラストは、記事の補 いった出版物の多くは社会で起きる様々な事件を解説 助というより、それだけで独立した機能を果たしたの すると共に、大衆の不満を代弁し、社会の矛盾を暴き で あ る 。 だし、社会を変革するために、検閲や出版禁 止 の圧力 大 衆 が 大 衆 守 表 現 す る にも体を張って対抗してきた。したがってその記事は もちろん、扱われる版画も社会批判や上流階級を戯画 石版画はロマン主義コストンブリスタが愛用した技 化したもの、貧しい人々の悲惨な生活を描いたものが 法である。各地を旅行するコストンブリスタたちは、 多かった。そしてこれらの美術作家の多くは、大衆と 重くかさばる大きなイ ー ゼルやキャンパスを何十枚も 同じ階級の出身者であり、 アカデミックな訓練を受け 持ち歩くわけにはいかず、 必然的に軽い紙と手早く描 たくとも受けられないような人たちであった。 つまり けるグアツシュのような水彩絵具を携帯することが多 かった。そして多くの場合 、 それら旅先で描いた水彩 ここにおいて 、 メキシコの大衆がはじめて自分たちの 姿、生活、主張を視覚的に表現する道を聞いたともい 画をそのまま石版画の原画として使用し、西欧を中 心 え る 。 に大量に売りさばいたのである。 グラフィック ・ ア 1 卜の分野での先駆者としては コストンブリスタたちが意図的だったかどうかは別 メキシコではいわば辺境地であるユカタン半島の中心 にして、各地を旅し、そこで繰り広げられる貧しいイ 地であったメリダ市に住み、次々と発禁処分にあいなrカラベラ{がいこっjのカタリーナムホ セ・ガダルーペ・ if(サダ句20tl!紀初E買っ,亜 鉛版にピユラ」ノ@l,彫り紙に印刷,メキシ コ国立図醤館滋 がらもゲリラ的に大衆 向 けの新聞を発行しそのイラス ト を 描 い た 、 ガブリエル ・ ビセンテ ・ ガオナがいる。 その活動は 一 八四七年に始まる。十九世紀後半になる とマニュエル ・ マニラがメキシコ 市 で活躍するように なり、大衆向けの新聞のイラストの他にコリドスと呼 ばれる分野での挿絵を多く 手 がけるようになる。 ラは、後で述べるホセ ・ ガダル
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ぺ ・ ポサダと同じく パネガス ・ アロヨの出版 印刷 会社で仕事をし、ポサダ に影響を与えた人である。 ポ サ ダ の カ ラ ベ ラ ( が い こ つ ) シ リ ー ズ ホ セ ・ ガダル 1 ぺ ・ ポサダは十九世紀後半から二十 世紀のメキシコ革命勃発直後までこの分野で活躍し、 生涯に 一 万五千枚以上の作品を残した。扱った新聞の タイトルだけでもざっと十一を数える。これはもちろ ん 、 発禁処分にあい 、 タイトルだけを変えて発 行 した ものも含まれる。ポサダはこの他、 マニラが開拓した コ リ ドスの分野はもちろん、 トランプ ・ カl
ドの図案 などグラフィック ・ デザインの分野でも腕をふるった。 メキシコ市に定着後、 ほとんどパネガス ・ アロヨと共 マ 41一一一壁画運動の先駆者たちFカラベラ(がいごつ)シリーズ,ドン・ギ ホーテとサンチヨ・パンサムホセ・ガタル ーペ・ポサダ,20t世紀初顕,亜鉛版にピュ ラン直彫り.紙に印刷.メキシコ国立図書 館蔵 に働くようになった。この二人の 出 会いによって、美 術を政治や社会批判のメディアとして扱う方法が確立 し た 、 といえる。これはスペインのゴヤやフランスの ド
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ミエに代表されるごとく、西欧では十八世紀以来、 ひとつの伝統ジャンルになっていた。ポサダ自身下層 階級の出身で、 正規のアカデミックな美術教育を受け たわけではないが、その分、民衆の喜怒哀楽や様々な 行事に対して共感できたのである。 ポサダは単に多作の故に 、 また鋭い政治 批判 の故に 評価されたわけではなかった。彼はまたメキシコ独自 の文化伝統を象徴するような、あるキャラクタ ー を生 みだしたのである。それはカラベラ(がいこつ)と呼 ばれるシリ ー ズで、あらゆる人問、貴族であろうと聖 職者であろうと貧民であろうと着飾った婦人であろう と、また動物であろうとも、すべてがいこつの姿で表 す。これは過去に湖るとアステヵ、あるいはもっと古 くまで起源をたどることのできる、生と死が表裏 一 体 となってあらゆる存在物を形成するという二元論的字 宙観の現代の復活であった。そしてこの種の表現を生 む 発 想 は 、 死生観こそ違え、﹁死の舞踏 ﹂に 代表されるように、また西欧にも存在したのだ。ここでポサダは、 に展開されていった美術モダニズムの動きとの対応で 単にメキシコのみならず、西欧にも普遍的な表現を獲 あ る 。 得するに至ったのである。そしてそれが、 アカデミア の教育の成果ではなく、民衆の内発的な発想のなかか ら生れたことに意味がある。ポサダは、 正規の美術教 育を受けなかった大衆の一人として、同じ大衆の感じ たことを代弁して描いた。それが大衆の圧倒的支持を 受けると共に、世界に通用する言語表現を獲得したこ とで、その世界はまさに後の壁画運動が目指した目標 と重なりあい、現在でも高い評価を得ている。 コストンブリスタたちによ って発 見されたメキシコ の風景や風俗の積極的価値、素朴画を通じて見出され た、メキシコ人がメキシコの生活をあたりまえに描く 楽しみと鑑賞する楽しみ、そしてグラフィック ・ ア
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トによって可能になった大衆側からのメッセージの表 現、教育と啓蒙のメディアとしての有効性、こういっ たものが理論的に集約されて、やがて壁画運動が生み だされていったわけだが、この運動に至るまでにはま だいくつかの手続きが必要だった。十九世紀末からフ ラ ン ス 、 ィ、ギリス、ドイツ、イタリアなど西欧で次々 43-一 一一壁画運動の先駆者たちモ
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礼
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化のなかにあって、新古典主義と対等の位置を占める