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Vol.66 , No.2(2018)056北野 新太郎「唯識三性説におけるakaraとbhavaについて――識転変の〈内〉と〈外〉とをめぐって――」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

唯識三性説における AkAra と bhAva について

―識転変の〈内〉と〈外〉とをめぐって―

北 野 新 太 郎

0. 問題の所在 初期唯識思想における唯識三性説の思想構造について考える

さいに,AkAra(=AkRti)と bhAva という言葉の対照関係は,非常に重要な意味を

もってくるといえるであろう.MSA(=『大乗荘厳経論』)第XI章においては,〈幻

術の喩え〉によって虚妄分別と二取との関係についての説明がなされている.そ

のMSA第XI章の第19偈においては,「AkRti(=AkAra)はあるが,bhAva はない」

というのであるが,「仮説の所依は依他起性」であるという三性説の基本的前提

条件に沿って考えた場合,その場合の AkAra(=AkRti)は依他起性の領域内に位置

づけられ,それに対して bhAva はスティラマティがTriMCikAbhASyaで依他起性の

vijJapti(=AkAra)と区別して使用する遍計所執性の vijJeya と同様,(〈外に〉構想さ

れた)遍計所執性である,と考えるのが自然であると考えられる.本稿の目的は, 遍計所執性に対応する形で使用される bhAva という言葉が「AkAra の向こう側」 に構想(実体視)されたものであるという点,換言すれば,grAhya-grAhakAkAra (g.g.a.)を依りどころとしてその〈向こう側〉に grAhya-grAhaka-bhAva(g.g.bh.)が 構想(実体視)されている,という点に焦点づけをすることを通して,初期唯識 論書における識転変の〈内〉と〈外〉に関する問題についての考察を深め,唯識 三性説に関する未解決の重要な問題であるところの上田・長尾論争の解決に近づ くことに他ならない.

1. AkAra はあるが,bhAva はない MSA第XI章においては〈幻術の喩え〉

によって虚妄分別と二取との関係についての説明がなされている.そのMSA第

XI章の第19偈においては「AkRti(=AkAra)はあるが,bhAva はない」とされて

いる.

「それの形象1)(AkRti/AkAra)はそこにある.しかしそれの実体(bhAva)は存在しない.そ

れゆえに,あることとないこととは幻術などにおいて示されるのである.」(MSA, p. 59, ll. 22–23)

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「所依のない仮説はない」,「能遍計があり,所遍計があるときに,遍計所執性 がある」という唯識三性説の基本的前提条件に従えば,AkAra は依他起性の領域 内に位置づけられるべきもの,bhAva は遍計所執性ではないか,と考えられる. 『成唯識論』によれば,「行相(AkAra)」は「見分」であり,それは「了別」すなわ ち vijJapti であるとされるから,それは依他起性の識の側のはたらきに他ならな い.それに対して,bhAva はスティラマティが vijJapti とは区別して使用する外 界対象として構想された viJeya(遍計所執性)と同じものを意味しているといえ る.ここでわれわれが注意すべき点は,「所依のない仮説はない」といわれる場 合の「所依」は,唯識三性説の段階においては,abhUtaparikalpa(=vikalpa)の 「内部」にしか存在し得ないものであるが,その abhUtaparikalpa 自体は,虚妄分 別の状態にある「識よりも外に」対象を構想している,という点であろう.この ことについては,以下の3, 4をみていただきたい. 2. AkAra=見分=vijJapti 『新導成唯識論』の63頁の6行目に「不可知執受  処・了」とある.これは無論,TK(=『唯識三十頌』)第3偈ab句の「そして,そ れ(アーラヤ識)は,[はっきりと]認知されない執受と場所(器世間)とを識別す るはらたきを有するのである」(Tbh, p. 19, l. 9)という一節の玄奘訳であるが,「了 (=vijJapti)」のところに傍 があり,「行相・見分」とある.「了」とは「了別」 のことであり,対応するTK第3偈ab句のサンスクリットをみればわかるよう に,vijJapti のことである.要するに,唯識派においては「アーカーラ」すなわ ち行相とは,vijJapti と同義であり,対象を識別するはたらき,すなわち,見分 の側に属するはたらきに他ならない,ということである.それに対して bhAva は vijJAnAt pRthag arthAstitvam abhiniveCanti(MVT, p. 17, ll. 25–26)といわれるように「識 よりも外に」構想された遍計所執性を意味している,ということになるであろ う. 3. 識より〈外に〉構想されたものについて スティラマティは,MV(=『中 辺分別論』)第I章第3偈に対する TIkA の中で,虚妄分別が識よりも〈外に〉対象 を構想する,ということを以下のようにいっている. 「なぜならば,対象などとして顕現する識を愚者たちは,眼病者にとっての毛髪の網 (keCoNDuka)などのごとくに,識より外に(pRthak)存在する対象であると(識よりも外の 対象の存在性を)執着するからである.」(MVT, p. 17, ll. 25–26) この場合の「愚者たち」の意識状態と,虚妄分別の構想作用は同一であるとみ

(3)

てよいであろう. 4. ヴィカルパと顕現は同じ場所(識転変の内部)にある スティラマティ は,TriMCikAbhASyaにおいても,以下のように「そのヴィカルパよりも外の存在 であるかのごとくに執着して」といっており,虚妄分別自身よりも〈外に〉対象 を構想する,という,虚妄分別の認識の特徴について説明している. 「そこにおいて,自我などのヴィカルパの習気が生長し,色形などのヴィカルパの習気が 生長することによって,アーラヤ識から自我などとして顕現するヴィカルパと,色形など として顕現するヴィカルパとが生じるのである.その自我などの顕現と色形などの顕現と をそのヴィカルパよりも外の存在であるかのごとくに執着して,自我などの仮説と色形な どの仮説とが,無始時以来,外界の自我も諸存在もないにもかかわらず起こっているので ある.」(Tbh, p. 16, ll. 2–7) この箇所で重要なポイントは二つある.一つ目は,① 先に3で確認したこと

と同様であって tasmAd vikalpAd bahirbhUtam ivopAdAya といわれることから確 認できるように,虚妄分別の状態にある識が,それ自身よりも「外に」対象を

構想している,ということである.二つ目は,② スティラマティによって AtmAdinirbhAso vikalpo rUpAdinirbhAsaC cotpadyate といわれていることから確認で

きるように,ヴィカルパと顕現(nirbhAsa)は「同じ場所」に位置づけられてい る,ということである.ヴィカルパと顕現(nirbhAsa≒AkAra)とが主観・客観関係 で向かい合っているのではなく,ヴィカルパと顕現は〈同じ場所〉に存在し,そ のヴィカルパが,以下に5で確認する yad vikalpyate(TK第17偈)と主観・客観の 関係で向かい合っているのである.この構造自体は,所謂「安慧の一分説」の構 造と一致しているといえる.顕現と AkAra をほぼ同義であるとみた場合,「仮説 の所依」自体はヴィカルパと「同じ場所」にあることになる.そして,まさにこ のことが唯識三性説の段階の認識の構造の特徴であり,われわれが唯識三性説に ついての透明な理解を得ることを困難にしていることの原因でもあるのである が,そのヴィカルパ自体は未だ認識主観としての意味を失ってはおらず,その ヴィカルパと,主観・客観の関係で向かい合うのは,アーカーラではなく,識よ

りも外に構想された vijJeya であり,bhAva であり,次にみるTK第17偈の yad

vikalpyateである,ということになる.そうした場合には,上田義文のいう「能

縁が有(=依他起性)であり,所縁は無(=遍計所執性)である認識」という認識の

構造と一致する認識モデルが(「ルビンの壺」のような「だまし絵」における「図」と

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5. yad vikalpyate は識より〈外に〉構想されている 上記の3, 4でみたよう な「虚妄分別自身よりも〈外に〉対象を構想する,という,虚妄分別の認識

の特徴」を踏まえた上でTK第17偈をみてみると, yad vikalpyate は,vikalpa

(=abhUtaparikalpa)によって「vikalpa よりも〈外に〉構想されたもの」であること がわかる. 通常の読み方に従って作ってみた私訳 「この識転変は構想作用である.それによって構想されたものは存在しない.それゆえに, この一切のものはただ識のみのものである.」(Tbh, p. 35, ll. 8–9) 阿(ほとり)理生氏の解釈に従って作ってみた私訳 「この識転変はヴィカルパである.それ(ヴィカルパ)に基づいて(それよりも外に)構想 されたものは存在しない.それゆえに,この一切のものはただ識のみのものである.」 後でみるTK第28偈以降の段階の意識状態とは異なり,TK第27偈までの意識 状態としては,虚妄分別の状態にある識転変は,それ自身よりも〈外に〉対象志 向性をはたらかせる性質を有している.そしてこのような認識主観によって,そ れ自体よりも〈外に〉構想された対象(vijJeya)こそが,上田が「能縁が有(=依 他起性)であり,所縁は無(=遍計所執性)である認識」という場合の「所縁」に 他ならないのである.また,先にみた「色形などとして顕現するヴィカルパ」と いうスティラマティによる表現からもわかるように,ヴィカルパ自体は,①それ よりも〈外に〉対象志向性を向けるはたらきと,②感性的質料因とでもいうべき ものをそれ自体の内部に有する,という二つの性質を自己矛盾的二重構造的に併 せもつ性質を有するものである,ということがわかる.この点がわからなけれ ば,上田・長尾論争は解決できない. 6. 遍計所執性の vijJeya スティラマティは,TriMCikAbhASyaの中で(認識の内 部にある vijJapti という言葉と区別する意味で)vijJeyaという言葉を,全部で五回, 使っているのであるが,それはスティラマティによれば,遍計所執性であり, 〈外界対象〉を意味する言葉として使用されている. 「そしてこのようにすべての所識(vijJeya)は,構想されたものであるから事物としては存 在しないのである.しかし,識(vijJAna)は縁起したものであるから実物として存在する と認められるべきである.」(Tbh, p. 16, ll. 15–16) ここでは,説一切有部や中観派に対して唯識派の立場を示す意味で上記のよう

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なことがいわれているのであるが,vijJeya という言葉は〈外界対象〉の意味で 使用されており,それは「構想されたもの(遍計所執性)」であり,同時に先に確 認したことからわかるように,虚妄分別自身は,そのような「存在しない外界対 象」を「ある」として対象志向性を〈識よりも外に〉執着する性質を有している ということが確認できる.また,ここでは遍計所執性を〈識よりも外に〉位置づ けている点が特徴的であるといえるであろう. 7. 心よりも〈外に〉認識しない意識状態について スティラマティは, TriMCikAbhASyaにおいて,TK第28偈を示した直後の説明箇所で,以下のように いっている. 「教説という所縁,あるいは教誡という所縁,あるいは自然的な色声等という「所縁を識 が」心より外に「認識しない」[すなわち]見ない,とらえない,執着しないときには,対 象を如実に見るからであって,生来の盲目のようにではないのであるが,そのときには, 識の執着を捨てていることと,自らの心法性において定まっていることとがあるのであ る.」(Tbh, p. 43, ll. 12–15) 先に,3, 4で確認した「識より外に」対象の存在性を執着する(vijJAnAt pRthag arthAstitvam abhiniveCanti)認識とは異なり,ここでは,入無相方便の修習の結果とし

て,「心より外に認識しない(bahiC cittAt nopalabhate)」認識の在り方が示されてい

ることが確認できる.このことは,逆にいえば,われわれの通常の認識,すなわ ち迷いの意識状態においては,認識主観は対象を心よりも「外に」認識するもの であるということを示している,といえるであろう.スティラマティにおいて, 3, 4で確認した「識より外に」対象の存在性を執着する認識の状態と,ここで確 認した対象を「心より外に認識しない」状態とは,対照の関係を有しており, TK第28偈以前の迷いの認識においては,上田のいう「能縁が有であり,所縁が 無である認識」の方に〈焦点づけ〉する形で,認識の形態が示されていることが 確認できるのである. 結論 「仮説の所依は依他起性」ということと,上田のいう「能縁が有(=依他起 性)であり,所縁は無(=遍計所執性)である認識」という表現は,実は,全く矛 盾していないのである.上田のいう「能縁」は,それ自体が「仮説の所依」を包 摂するところのものなので,それ以外に「仮説の所依」をたてる必要性はないと いえる.「仮説の所依は依他起性」であるが,その「仮説の所依」は,TK第17偈

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それ(vikalpa)自体よりも〈外に〉対象を構想しているのである. 上田は,その vikalpa と「〈外に〉構想されたもの」との関係に「焦点づけ」を して考えているが,それに対して,長尾や竹村は「vikalpa の内部に存在する能 遍計と所遍計」との関係に「焦点づけ」をして考えているため,議論自体が完全 にズレた状態になっており,そのことも,上田・長尾論争が解決されないことの 原因の一つであるといえるであろう.また,本論中でも述べたように「ヴィカル パ自体は,①それよりも〈外に〉対象志向性を向けるはたらきと,②感性的質料 因とでもいうべきものをそれ自体の内部に有する,という二つの性質を自己矛盾 的二重構造的に併せもつ性質を有するものである」といえる. 1)アーカーラ(行相)=見分という立場にたてば,tadAkRti を「それ(象や馬)を認識す るはたらき」と考えることもできるであろう. 〈一次文献と略号〉

MSA MahAyAnasUtrAlaMkAra: Exposé de la Doctrine du Grand Véhicule. Tome I, Texte. Ed. Sylvain Lévi. Paris: H. Champion, 1907.

TK (Tbh) TriMCikAbhASya. VijJaptimAtratAsiddhi: Deux Traités de Vasubandhu, ViMCatikA(la

Vingtaine) accompagnée d’une Explication en Prose et TriMCikA (la Trentaine) avec la

com-mentaire de Sthiramati. Ed. Sylvain Lévi. I. Paris: H. Champion, 1925.

MV MadhyAntavibhAga-bhASya. Ed. Gadjin M. Nagao. Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1964. MVT MadhyAntavibhAga-TIkA: exposition systématique du yogAcAravijJaptivAda. Ed. Susumu

Yamagichi. Nagoya: Hajinkaku, 1934.

〈参考文献〉

阿理生 1991「『唯識三十頌』 のvikalpaについて」『宗教研究』287: 208–209. 〈キーワード〉 唯識三性説,AkAra,bhAva,abhUtaparikalpa,vikalpa,識転変

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