[題名]
近代能楽の展開
―明治期における享受者・能役者・作品の変遷を中心に
[提出者氏名]
佐藤和道
目次
序
第一部伝統芸能「能楽」の誕生第一章「能楽復興」―その実態と検証第二章明治期における享受者の変遷をめぐって 第三章近代能楽の転換点―明治三十七年における池内信嘉と坪内逍遙の言説を中心に
第二部能役者の再序列化―囃子方と地方の役者を中心に
第一章近代における能役者の盛衰 第二章大鼓葛野流の近世と近代 第三章加賀藩町役者の展開
第三部「世阿弥発見」―その時と意義第一章吉田東伍と近代能楽研究の黎明第二章吉田東伍の芸能史研究補説『観智院過去帳』記載の能役者第三章「世阿弥発見」その後―世阿弥伝書の受容をめぐって 付章一義経伝承と能
付章二曽我伝承と能
結論
資料編注 266182939394888105105117141149
162180
197
201240
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がある。また引用文を除き敬称は省略した。数字は原則的に漢数字で表記するが、
西暦・頁・叢書番号の表記は、位取り記数法(例:一〇)で記載した。
序
演劇は多くの要素から成り立っている複合芸術だが、原理的にいって、演劇を成立させるうえに必要にして十分な基本的要素は、俳優、戯曲(あるいは作者)、観客の三つで、これらを演劇の三要素と言う。さらに、それが実現される物理的空間、すなわち劇場を加えて四要素とすることもある。((1
能は、室町期以来およそ六百年の歴史を持つ演劇である。室町前期に観阿弥・世阿弥父子によって大成された後、様々な変化を経て現在まで演じ続けられてきた。能と同じように長い歴史を持つ演劇は世界中に数多くあり、その中には現在でも演じられているものも存在するが、能のように大成以来一度の断絶なく演じ続けられてきたものは、決して多くない。能の場合は、観阿弥・世阿弥以降、記録の多寡はあるが、一度として長期の空白期間を持っていないことが諸史料によって裏付けることができる。しかも現存する世阿弥自筆能本などに拠る限り、テキストの変化は語句レベルに留まっている。このことは、演出に応じて大きく書き変えられることが多い演劇においては希有な事例であり、能の持つ大きな特徴ということができよう。 )河竹登志夫『演劇概論』)
そうした特色によって、能は、現在では歌舞伎などと並ぶ日本の代表的な伝統芸能に位置づけられている。学校教育では教科書に必ず掲載され、カルチャーセンターや一般向けの解説書等でもしばしば取り上げられるなど、伝統芸能としての能に対する潜在的な関心は決して低くない。それにも関らず、一般の人々にとって能は謎に包まれた存在である。多くの場合、能を実際に観た経験を有する人はごく稀であるし、歌舞伎などとの正確な違いを説明できる人もほとんど見当たらない。一方、同じ伝統芸能である歌舞伎は、映画やテレビドラマ等、マスコミへの露出度も高く、能に比して一般の目に触れる機会も多い。歌舞伎を生で見たことがなくても、著名な歌舞伎役者の名を挙げる事 は、能役者の名を挙げるより容易であろう。その要因としては、歌舞伎は元々庶民の芸能であり、能が武家や公家など支配階級にある人々に供するための芸能であったことがしばしば指摘される。しかし、能が「謡曲」として江戸時代の庶民にも深く浸透していたことは、現存する謡本の流布状況や俳句などの文芸作品への影響から見ても明らかである。謡は江戸時代の主に都市部の庶民における文化的バックボーンとして広く共有されていたはずであり、そうした状況が変化したのは、明治以降の能の在り方に起因する所が大きいと考えられる。そこで本研究では、伝統芸能としての能の在り方を形成したと考えられる明治期に焦点を当て、江戸期以前から明治期を経て現代に至る変化の諸相を考察したい。先に、能は発生以来継続して演じられ、テキストについてはほとんど変化しなかったと述べたが、冒頭に掲げた如く、能を演劇的な諸要素(俳優・戯曲・観客)から分析すれば、時代と共に変化した部分が少なからず存在する。例えば、第一の要素である能役者(俳優)については、世阿弥と同時代には諸国に猿楽や田楽の座が多数存在し、室町将軍の愛顧を巡って凌ぎを削っていたが、能を愛好した豊臣秀吉が大和猿楽四座を保護する政策を打ち出したことにより、諸座の役者は観世・宝生・金春・金剛の四座の中に再編される。さらに秀吉の方針を受け継いだ徳川幕府によって、能は幕藩体制の中に組み込まれ、能役者は幕府や諸藩及び禁裏のお抱えとなる。その結果、役職は原則的に世襲され、能役者の地位は固定されたものとなった。さらに喜多流を含めた五座の家元を頂点とするヒエラルキーが形成され、その内部にある者だけが能役者として認められたのである。一方、作品(戯曲)についても、室町末期までに新作活動は終息し、江戸期以降はそれまでに作られた作品が繰り返し演じられるようになった。江戸前期には、将軍などパトロンの好みに応じて、廃絶作品の復曲や既存作品に対する演出の工夫が行われたため、所演作品や演出も流動的であったが、次第に固定化が進み、江戸後期までにほぼ現在の形に近いものが確立する。つまり、役者及び作品については、
時代を経るに従って固定化、限定化の方向に進み、現在の基本的な枠組みは江戸末期までに成立していたのである。しかし、明治時代以降、能がその姿を全く変えなかったわけではない。特に、第三の要素として挙げられた観客(能の場合は劇場における観客に限定されるわけではなく、少数の貴族や武士が能を観たり習ったりしていたので、広く享受者と称することにする)については、むしろ江戸時代以降に大きく変動した。室町以来、江戸時代に至るまで能の享受者は支配階層にあった武士や貴族(公家)が中心であったが、明治維新によってそうした人々が政治的・経済的実権を喪失したため、次第に振興の中流層が享受層の主体を占めるに至った。こうした能の享受者の交代は、能の経済的基盤が変動したことを意味しており、役者や作品の位置付けにも影響を与えている。本論では、そうした明治時代以降における変化の諸相について、役者・作品・享受者それぞれの観点から解明することが大きな目的である。そのためには、近代において最も大きく変動した享受者の変化について考察することから始めるべきであろう。そこで第一部では、明治期において能が「式楽」から「能楽」へと変容していく過程を、従来能を支えていた皇族や公家、大名といった少数の大パトロンが力を失い、代わりに中流階級が勃興してくるという、享受者の変遷に着目し考察を試みる。明治期の能楽に関する先行研究には、池内信嘉『能楽盛衰記』(能楽会、一九二六年)や古川久『明治能楽史序説』(わんや書店、一九六九年)などがあるが、このうち『能楽盛衰記』は、明治後期から大正にかけて能楽復興に尽力した池内信嘉(一八五八年~一九三四年)が自身の見聞や関係者の記録に基いて編纂したもので、近代能楽史研究における基礎的史料として位置づけられている。しかし、池内が能楽と直接的な関わりを持つようになったのは、明治三十五年(一九〇二)に松山から上京して以後のことであり、それ以前は中央の能とはほぼ無縁であった。また『能楽盛衰記』が基にした記事の多くも、能役者や能楽復興に携わった人 物が往時を回想しつつ後年に綴ったもので、実際の出来事との間には数十年のブランクが存在する。つまり、『能楽盛衰記』は必ずしも一次史料とは言い難い部分を多く含んでいるのである。この『能楽盛衰記』によって語られるのは、明治維新によって危機に瀕した能が、能楽を愛好する皇族や華族の尽力、能役者たちの努力によって復興を遂げるという「再生の物語」であり、明治期の能楽に対する現在の認識も基本的にはこれに基づいている。しかしその一方で、近年そうした「再生の物語」の中に事実との相違や虚飾が存在することが指摘されつつある。実際の所、明治期以降の能役者を支えたのは、皇族や華族など旧来の権力者ではなく、三井や安田といった財閥を始め、「旦那衆」と呼ばれた商家や、知識人層を加えた広義の中流層であったのではなかろうか。さらに、西洋文化の流入によって江戸時代以来の芸能が次第に存在意義を失いつつある中で、明治二十年代以降に高まりを見せた自国文化の尊重とナショナリズムの機運に乗って、巧みに生き延びていったのではなかろうか。そうした視点に立てば、従来の「再生の物語」が綴る、能役者の経済的困窮や壊滅の危機は実際存在したのか、また明治政府や皇族・華族など復興に携わったとされる人々は、本当に能楽の芸術性を認めてそうした活動に従事していたのか、といった疑問が生じる。第一部では、これらの点については、信頼できる史料に基づきつつ、再検証を行うとともに日本が近代国家を構築していく道のりの中で、能がどのようにして「伝統芸能」としての位置づけを獲得していったのか、また、どのような変化に直面し、それを乗り越えて行ったのか、その実態を明らかにすることが大きな目的となる。こうした経済基盤の変化は、能役者にも大きな影響を及ぼした。先述の如く、能役者は幕府や藩から扶持を受け、安定した経済基盤の下で、特定の家柄によって世襲される状況にあった。しかし明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、旧来与えられていた俸禄が停止され、能役者の安定的な地位が失われる事態となった。中には経済的な困窮
から家業を離れた能役者も見られ、結果として消滅した流儀も存在する。一方、存続した流儀の中にも、江戸期に主要な地位にあった役者が能から離れたため、傍系の役者が継承する形で辛うじて存続した例もある。こうした能役者の淘汰と変遷は、経済基盤の喪失によって江戸時代に形成された能役者のヒエラルキーが瓦解し、新たな序列化が進展したことを示していよう。こうした明治以降の序列には、家格や技量といった従来の基準に加え、新たな経済基盤を開拓する能力や、広く愛好者に支持され得るだけの知名度や人脈などが新たな指標となったと考えられる。そこで第二部では、まず現存するシテ・ワキ・囃子・狂言の諸流について、江戸末期から近代にかけての中心的な役者の変遷を概観し、その様相を明らかにする。このうちシテ方五流については、総ての流儀が廃絶することなく、また家元諸家も一応は存続した。その意味では、維新後も江戸期の体制を引き続き継承したと見る事ができるだろう。しかし、シテ方に従属する立場にあった囃子方や狂言方においては、家元クラスの役者が廃業し、有力な弟子によって芸系を継続した例が多数認められる。そうした特徴的な事例の一つが大鼓葛野流である。葛野流は、初代葛野九郎兵衛定之によって創始され、以後明治期に至るまで九代に渡って葛野家が芸事を統括した。しかし、九代葛野定睦の死後大鼓の業から離れ、以後は有力な弟子が宗家職を持ちまわる形となった。当初は葛野の高弟であった津村又喜や植田源蔵がその任を担ったが、両者ともに明治三十年代に没し、その後継となったのが川崎九淵(一八七四年~一九六一年)である。川崎は後に能楽界初の人間国宝指定を受けるなど、明治から昭和にかけて能楽囃子方を代表する役者であったが、もともとは能役者の家に生まれたわけではなく、才覚を認められて松山から上京し、活躍の場を広げながら斯界の第一人者へと至った人物である。それが可能になったのも、明治維新によって江戸期以来の能役者の序列が崩壊したことと無関係ではあるまい。同様の事例は、経済的に困窮した囃子方に多く見られるが、 そうした事態を打開しようとした池内信嘉の活動もまた注目される。明治三十五年(一九〇二)に上京した池内は、能楽館を組織し、囃子方の経済的な支援や師弟の育成などに着手した。その一方で雑誌『能楽』を主宰し、全国の同好の士との連絡の場を創設した。その中で、愛好者と能役者とが紙面を通じて交流することで、川崎のように旧来無名だった役者の存在が全国に知られるようになったと考えられる。第二章では川崎の旧蔵資料を用い、江戸初期から近代に至る葛野流の歴史を概観しつつ、明治維新前後における川崎の事跡について考察していきたい。続く第三章では、加賀藩の町役者の近世・近代の動向を取り上げる。百万石の大名家として知られる加賀藩では、その豊富な資金力を背景に、江戸初期から活発に演能活動を行ってきた。「御手役者」と呼ばれる藩のお抱え役者は、江戸・京都・金沢に存在し、徳川御三家にも匹敵する質を備えていた。さらに、町役者と呼ばれる素人役者も高い技量を備えていたことが知られる。幕末には町役者だけでほぼ全ての役職・流儀を網羅するに至り、中には藩から俸禄や名字・帯刀の権利を与えられ、玄人の能役者に匹敵する扱いを受けていた者もいる。この中には、狂言方和泉流の野村万蔵家や笛方一噌流の藤田家など、明治以後も存続し現在に続く能役者の家となったものもいる。これらは近世から近代における中央と地方との交流や変遷の様相を考える上で格好の事例となろう。さらに、第三部では、能の作品に関する考察へと進む。明治以降の能の所演曲は、先述の如く基本的には江戸後期のものを踏襲しており、大幅な変動があったわけではない。(2)表章「能の変貌―演目の変遷を通して」によれば、明治期には、観世流では従来別組とされた二十八曲と、〈高野物狂〉など七曲が現行曲に組み入れられ、逆に宝生流は稀曲であった三十曲を廃曲とするなど、少なからぬ変動があったとされるが、これらは上演が稀かほぼ途絶えていた作品に関する措置であり、現行曲の八割ほどは影響を受けていない。むしろ大きく変動し
たのは、能に対する位置付けであろう。明治二十年代になると、日本文学に対する再評価の動きが起り、「日本文学史」と題する書が次々と発表されるようになる。そうした動きは日本文学のカノン化をもたらすものであったが、その中で能は必ずしも主要な位置を占めていたわけではなかった。例えば、明治二十三年(一八九〇)刊行の『国文学読本』(芳賀矢一・立花銑三郎、冨山房)は、古典文学の諸作品を作者順に掲げたアンソロジーであるが、そこには「無名氏」の作として「謡曲鉢の木」が掲げられている。また、同年に刊行され、日本文学史の嚆矢とされる『日本文学史』(三上参次・高津鍬三郎、金港堂)でも、能の作者は無名の僧侶とされ、文学的価値は低いものとされている。こうした能に対する評価の低さは、作者中心の近代的な価値観に起因し、能の作者が不明とされたことが大きく影響していたと考えられる。そうした状況を一変させたのが、明治四十一年(一九〇八)の吉田東伍による世阿弥伝書発見である。吉田東伍(一八六四~一九一八)は、『大日本地名辞書』の業績で広く知られる明治・大正期の歴史・地理学者であるが、その一方で、世阿弥伝書の存在を明らかにした『 能楽古典世阿弥十六部集』は、近代能楽研究の嚆矢として高く評価されている。そもそも現在知られる世阿弥の事跡は、世阿弥伝書の記述に負うところが大きいが、その世阿弥伝書自体は、世阿弥の子孫に当たる観世家や姻戚関係にあった金春家にのみ伝承され、秘伝としての扱いを受けたため、両家の当主や時の権力者などごく限られた人々にしか見ることが許されなかった。またその内容も、作品・演出の固定化が進んだ近世以降の能役者には非実用的なものであり、ほとんど顧みられることはなかった。そうした「忘れられた」存在であった世阿弥伝書が再び日の目を見ることになったのが、吉田の『世阿弥十六部集』刊行だったのである。現在では常識となっている能の作者としての業績や、『風姿花伝』を始めとする高度な能楽論書を著したという事実は、この『世阿弥十六部集』刊行によって初めて明らかにされたが、これに よって世阿弥という高度な教養と理論を備えた能役者の存在が知られることとなり、能を芸術として再評価する要因の一つとなったと考えられる。第三部では、まず、吉田東伍の事跡や世阿弥伝書発見の経緯をたどりつつ、吉田の実証主義的な研究手法が能楽研究に与えた意義について考察する。吉田の研究手法は独学によって培われたものとされるが、一方で明治政府による修史事業の中核を担った重野安繹や久米邦武との交流も知られている。彼らはあまりに急進的な主張から国学者や水戸学者からの反発を受け、修史事業からの離脱を余儀なくされたが、そのことは在野の研究者によって始められた能楽研究に実証主義をもたらすこととなり、後の世阿弥伝書発見を導いたと考えられる。次いで第二章では、新潟市の吉田文庫に所蔵される吉田の自筆ノートを用い、吉田の志した芸能史研究について論じる。これによって吉田の芸能研究が、歴史史料を中心とした実証主義的なものであり、近世の随筆や故実書の域を脱していなかった当時の研究水準を大きく上回るものだったことが明らかになろう。さらに第三章において、『世阿弥十六部集』の刊行後、それがどのように受容され、位置付けを変えていったのかを、日本文学史に関する諸書や、大正教養主義と呼ばれる人々の発言を通じて考察していく。加えて付章では、能の作品のうち、源義経、曽我兄弟を題材とした諸作品について、成立時から近世・近代に至る歴史的な変遷について論じ、具体的な作品の受容と位置付けの変動を明らかにしたい。
第一部 伝統芸能「能楽」の誕生
第一章「能楽復興」―その実態と検証
はじめに
明治大帝の践祚以降明治十年までは欧化主義の時代で、能楽の沈衰は其の極に達し、これを業とする者は流離転蓬、具に辛酸を味わったのであった。幸にして明治十二年青山御所に御能舞台が建ち、次で能楽社が設立せられ、こゝに斯界は初て一条の光明に接し、更生の思ひをなしたのであった。明治二十二年憲法発布の前後からは国粋保存の声が朝野に高く、古美術の保護や古書刊行等が続々行はれたが、能楽はさして振はず、岩倉右府の薨去、英照皇太后の御登遐、日清・日露の戦役等は何れも其の進路を阻んだ。征露後国威は著しく揚り、我が皇国の地位は世界列強の班に列し、民心漸く怡楽の時を得るに至り、斯道も大いに隆興するやうになったが、其の流行は広く薄い傾向で、実質の上から見れば、能楽の前途は未だ容易に楽観を許されない。((3)『能楽盛衰記』二頁)右に掲げたのは、池内が『能楽盛衰記』の冒頭で述べた一節であるが、ここには明治における能楽の様相が端的に総括されている。これによると、明治維新によって式楽制度が崩壊し、かつてない危機にさらされた能は、英照皇太后や岩倉具視をはじめとする篤志の人々の援助によって危機を乗り越え、復興への道を歩み出したとされる。その象徴的な出来事が、明治十二年(一八七九)の青山御所能舞台の建設であり、明治十四年の能楽社設立であったという。ここから読み取れるのは、明治維新によって崩壊した式楽としての能が、伝統芸能「能楽」 として復興を遂げるという「(4)再生の物語」であろう。しかし、この「再生の物語」に対しては、近年になって疑義が呈されつつある。
実際のところ、「明治十年の前後」の能楽界は「殆ど一人の謡ふ者なく舞ふ者なく」という状態にはなかった。明治四(一八七一)年に明治政府が解雇するまで、朝臣願いを提出していた能楽師たちには、江戸幕府のそれを引き継ぐかたちで手当てがあり、手当てが打ち切られた後数年には、各流派による盛んな能会が開かれている。皇族や公家、旧大名、すなわち明治政府の有力な支配層にも謡を指導する能楽師たちが、真に困窮を極めていたという記録は多くない。そして、岩倉具視の旗ふりを待つことなく、明治政府の要人たちは能楽へとかかわり続けていた。((5)田村景子「近代における能楽表象」)明治維新の混乱期に、いくつかの流儀が滅亡し、また能役者としての家業を廃した者がいたことは事実である。また能役者の中には経済的困窮を味わったものも少なくなかったはずである。しかし、右に指摘される如く明治十年(一八七七)代には既に能の催しは数多く行われていた。その中には、明治政府の国賓饗応能や皇族の行幸・行啓の催しも含まれており、決して能が完全に沈黙していたというわけではない。本章では、まずそうした明治維新後の能楽の実態を検証し、その実像を明らかにしていくことを目的としたい。実際にこれまで言われている「能楽の危機」はどのようなものであったのか、復興の立役者とされた岩倉具視、さらには岩倉の尽力によって能楽復興のシンボルとなった芝能楽堂の実態は如何なるものであったのか、これらの点について解明を試みたい。
一、明治政府と能―国家に無益な遊興具
明治維新によって能が受けた打撃には、大きく分けて次の二点が挙
げられる。第一には、能役者がそれまで得ていた俸禄を失ったことであり、第二には維新による混乱・政情不安によって、能を演じる機会が失われたことである。まず第一の点について確認しておきたい。能は、江戸時代には幕府の式楽として定められていたため、能役者に対しては一般の武士と同様に幕府や藩から俸禄が与えられていた。しかし慶応四年(一九六八)五月十五日、明治政府は朝臣となることを願い出た者については旧来の本領を安堵するとともに、それ以前の俸禄を家禄として引き継ぐという通達を出した。その一方で、駿府への移封となった徳川家からは、同年六月五日に能役者の解雇が通達されている。(6)倉田喜弘『明治の能楽㈠』(Ⅵ頁)に引かれた諸史料には以下の如くある。徳川亀之助方ニテ扶持イタシ候分相除、朝臣ニ相願候モノ共、姓名、格式等相認、可差出候事。(『江城日誌』)
御領地高相定候ニ付テハ、多人数之御家来御扶助御行届難相成候間、不便至極ニハ思召候得共、無御拠、御切米御扶持方御役金等都テ諸手当向迄、当六月ヨリハ御渡方相成兼候ニ付テハ、銘々進退之儀勘弁イタシ、朝臣相願候共、御暇相願候共、決着之処、頭支配ヨリ速ニ承リ糺申聞候様、可被致候。(『太政類典』一―一六四)
(7)『梅若実日記』によれば、五月末の段階で大総督府から朝臣への本領安堵の通達があり、六月三日には観世大夫から座員に対し徳川家からの解雇予告の廻状が為されている。一大総督府より別紙之通被仰出候旨御目付中より御達。〔挿入紙〕此度格別之朝恩を以御所領下賜難有御請被遊候得共是迄多人数之御家来ハ迚も御撫育難被遊候ニ付以来ハ路々之高ハ不被下御役相勤候者ハ御放念被下候役御免相成候者ハ御扶助未被下候様其余ハ御行届被相成分ハ此程相達候通リ。鎮台府より被仰出候趣 も有之。朝廷江御扶助之義御願相成候処是迄之侭ニ而候御扶持ハ被下候哉之趣ニ付心得違無之様可被致候。六月一徳川亀之助駿河国府中之城主ニ被仰付領知高七十万石下賜候旨被仰出ル事。但駿河国一円其余ハ遠江駿奥両国ニ於而下賜候事。(『梅若実日記』慶応四年五月二十九日条)
四時比日吉邦太郎廻状持参致ス。即刻春日市右衛門方ヘ送ル。此廻文ハ観世太夫之心得之差出シ事ニテ上より御沙汰ハ未タ無之事。
一今般徳川家御高格外御減ニ相成候ニ付是迄之通御扶助難相成御様子ニ相見ヘ候間銘々心得之見込書面ニ御認メ早々拙宅迄御遣シ可被成候。一読之願之所モ可有之候間無油断早々被申越可被成候。
六月朔日連名観世太夫(『梅若実日記』六月三日条)その後六月七日になって前述の『太政類典』と同様の解雇通達が届けられ、九日には以後の身の振り方について相談している様子が記されている。
今般被仰出候朝臣相願候共御暇相願候共決心可申上之義ニ付分家近右衛門・徳太郎・学三郎・兼太郎・勘之丞六人被参。内談ニ及候処先今日之処ニ而ハ徳太郎・兼太郎・勘之丞三人ハ御暇願之決着。拙者并近右衛門ハ朝臣ノ決心ニ談ル。
一観世銕之丞殿・日吉孫三郎両人被参ル。右御両人ハ朝臣之願今日出ル由。(『梅若実日記』六月九日条)『明治の能楽㈠』には、東京都公文書館所蔵『朝臣姓名』に観世銕之丞を始めとする能役者の名が見えることが指摘されており、多くの
役者が朝臣となることを選択したようである。朝臣となった能役者は、他の武士たちと同様に身分に応じて士族と卒に分類され、明治政府の機構に組み込まれた。しかし財政の逼迫した明治政府は、それまでの方針を改め、士族の俸禄削減(秩禄処分)へと踏み切ることになる。それに先立って、明治四年(一八七一)十二月には能役者の解雇が決定された。能役者・碁・将棋の者、十一月二十七日、二ケ年分御宛行方被下、御暇相成候事。右御布令相成候由。(『金港雑報』十八号『明治の能楽』㈠所収)
八半時過東京府より使参リ左ノ通リ。
御用ケ条明廿九日第十二字出頭可致候也。 辛未十一月廿八日 東京府右ノ趣ハ先刻(薄々)承知ニ付九時過鉄之丞殿同道ニ而源次郎ヲ遣ス(差出ス)。碁将棋能役者絵師古筆見本阿弥等御暇出ル。
為生産本資弐ヶ年分禄高一時ニ下賜暇申付候事。
辛未十一月廿九日東京府右ノ御書付被下。(『梅若実日記』明治四年十一月二十九日条)この時から能は数百年続いた公的な庇護を失い、自活の道を歩むことになったのである。東京では、すでに明治初年から(8)梅若実や金剛唯一によって稽古能が催されていたことが知られているが、後年雑誌『能楽』に寄せた梅若実の回想によれば、その際に僅かながら入場料収入を得ていたことが分かる。明治二年になってからは、徐徐と自宅で稽古を始める様にもなり、元の弟子内や其他の人々がポツ/\見に参る様になり、囃子方の人も集って来て、拍子盤の時もあり又時としては道具を使ったりして、毎月三度位宛袴能を遣って居ました、其節見に来る人は各々の志しで、塩せんべいを持て来るもあれば、最中を持て来る 人もあると云ふ様の塩梅でしたが、弁当まで梅若で出させては気の毒だから、面々に幾千宛か出し合すことにせうと云ふ相談が見に来る人の間で出来たそうで、一人前一朱づゝ持って来る様になりました、是れが此能楽で見物人から金を貰ふと云ふ始まりでしたが、其人数は僅かに拾人や拾五人位のものでした、其時分は今の一噌要三郎の実父で同じく要三郎と云ふた人と、太鼓の家元で金春惣次郎と云ふた人と、此二人で惣て会計の世話をして呉れて、盆節季に残る金が、壱両や壱両二歩位ありましたのを、誠に雛鶏を育てる様に思ふて貯へたのでありました((9)梅若実「維新当時の能楽」)また『梅若実日記』にも、早い段階から頻繁に旧大名家や公家の屋敷へ稽古に赴いている記事が見えるほか、自宅での稽古能に訪れた華族から数百疋の収入を得ている様子が見える。さらに梅若家では、明治五年(一八七二)三月から四月にかけて晴天十五日の勧進能を開催し、総額六百二十両もの収入を生み出している。
十日興行惣寄高金六百弐拾六両三分也。但シ諸入用右ノ通リ。 一金百両。惣人数ヘ挨拶其外諸買物共不残。 一八拾九両弐分三朱。同様出勤ノ人数ヘ挨拶ノ残金。外ニ関岡ノ分。 一三拾壱両弐分二朱三匁弐分五厘。大工其外入用。
一七拾七両三分壱朱弐貫三百拾文。板橋方買物。 一弐拾両弐分三朱。板木其外入用。
一三拾両也。青山様拝借物金。 一弐拾両。板橋江歩割。
一四拾両。八ツ割鉄之丞・六郎・新作・金五郎・九郎兵衛・要三郎・清五郎・惣次郎八人ニ而五両ツヽ取。
一三拾両。惣人数江増金内地方へ拾両也。
差引〆金百八拾四両弐分弐朱也。借財方ヘ返金。
一二月一九日 一一月一八日 八月一八・一九日 七月八日 六月七日 四月一〇・一八日 明治一二年二月二六日 一一月二〇日 明治一一年七月五日 二月九日 明治一○年二月三日 一〇月一三日 七月四日 五月五・一八日 明治九年四月四・五日 明治八年四月一八日 明治六年九月五日 明治五年一〇月二〇日 明治二年七月二九日 【表1】明治初期における天皇御覧・国賓饗応能
青山御所行幸能 有栖川宮邸行幸能 岩倉具視邸行幸・行啓能 前アメリカ大統領グラント将軍饗応能 ドイツ皇孫ハインリッヒ饗応能 前田利嗣邸行幸・行啓能 リード卿饗応能 青山御所行幸能 青山御所舞台開 東大寺行幸能 桂宮邸行幸能 中山忠能邸行啓能 中尊寺行幸能 静寛院邸行幸・行啓能 岩倉具視邸行幸・行啓能 九条道孝邸行啓能 ジェノヴァ公饗応能 ロシア親王アレキシス公饗応能 エジンバラ公アルフレッド饗応能
一二月一五日 一二月五日 一一月一四日 九月二三日 七月一一日 七月六日 五月二一日 五月一三日 四月一六・一七・一八日 明治一四年三月一三日 七月一七 六月九日 五月八日 四月二六日 四月一日 明治一三年二月二八日
青山御所行幸能 芝能楽堂行啓能 イギリス皇孫アルバート、ジョージ饗応能 黒川能行幸能 浅野長勲邸行幸能 青山御所行幸能 芝能楽堂行啓能 島津忠義邸行啓能 芝能楽堂舞台披 ハワイ皇帝カラカウア饗応能 桂宮行幸能 寺島宗則邸行幸能 大木喬任邸行啓能 青山御所行幸能 細川護久邸行啓能 九条道孝邸行啓能
右諸入用ノ内より手前方へ拾両請取。是ハ十日ノ間之雑用トシテ取。源次郎事不金ニテ勤居。此度増金ノ内より壱両弐分取。(『梅若実日記』明治五年四月四日条)この勧進能によって、梅若家は諸費用を差し引いても百八十両余の収益を得たことになるが、(10)その一方で、生活に窮して入水や身売りをする能役者もいたと伝えられている。明治維新によって能役者が幕府の扶持を離れたことは、江戸時代以来の序列とは関係なく、自活の努力に成功した者と、そうでない者との格差を生むことになったのである。次いで、第二の演能機会の問題について見ていきたい。先述の如く梅若や金剛においては明治初年より私的な催しが行われていた。またそれとは別に、来日した国賓に対する饗応能や皇族の行幸・行啓能など公的な色彩の強い催しも行われており((11)『明治天皇紀』や『明治の能楽』から知られる明治初期における主な催しを挙げると【表1】の如くである)、能は完全に沈黙したわけではなかった。(12)明治二年(一八六九)七月、欧米諸国の王族として初めて明治天皇との接見を果たしたのがイギリスのエジンバラ公アルフレッド王子であった。この前代未聞の事態に直面した明治政府は、二カ月にも及ぶ議論の末、最終的に王子を国賓として迎えることを決定したという。外務省編纂による(13)『日本外交文書』には、連日種々の芸能によって饗応が実施されたことが記されている。英王子接待日課 七月廿二日 一英王子同国軍艦ガラチアニテ夕第二字横浜へ著 ママ
但領客使伊達従二位随使中島中弁同所へ出張之事
(略)同廿五日 一高輪八ツ山下ニテ送神祭執行 一延遼館門下ニテ路地祭執行 一第九字王子横浜出発陸路ヨリ延遼館著
(略)同廿六日一延遼館ニテ槍剣試合同廿七日一芝増上寺見物帰後太神楽同夜手品芸同廿八日一第一字参朝但領客使大原正四位衣冠著用誘導王子ト同車○王子帰館後兵部卿宮小直衣著用労問一夕放鷹夜〔手躍三調子鳴物〕同廿九日一赤阪和歌山藩邸ニテ能狂言但日本料理被差出八月朔日一延遼館ニテ相撲一三条右大臣岩倉大納言徳大寺大納言大久保参議広沢参議副島参議松平民部卿鍋島従二位池田従二位尋問〔何レモ狩衣著用〕一同夜花火奏楽同二日一打毬軽業漁猟夜席画(以下略)この時王子は、(七月)二十九日に赤坂の紀州藩邸において弓八幡・羽衣・小鍛冶・経政等を観覧しているが(『明治の能楽』㈠六頁『明治新聞』)、滞在中には他にも武術・太神楽・奇術・放鷹・舞踊・相撲・花火・奏楽・打毬・漁猟などの様々な雑芸を見物している。このうち太神楽、独楽、奇術などの雑芸は早くから海外でも上演されており、外国人にも注目された芸能であったが((14)『芸能の文明開化』)、
そうした雑芸とともに能を供したことは、明治政府が能をそれらの雑芸と同列視していたことを示していよう。また明治五年(一八七二)にロシア皇帝の第三皇子アレクセイ大公が来日した際にも、能に並んで(15)「各種ノ本邦独特ノ遊芸等」が行われ、明治六年のイタリア・ジェノヴァ公に対しても「打毬、ホウロク、調練、能狂言、其他種々の雑技」(『明治の能楽』㈠)によって饗応が為されている。つまり、国賓に対しては能を含めた諸芸能によって饗応するのが慣例となっていたが、能はそうした日本らしさを持った雑技・雑芸の一つに過ぎなかったのである。こうした事実は、明治政府が能を政策上それほど重視していなかったことを示したものであろう。政府にとって能は徳川時代の遺物であり、近代国家の運営には無用な代物であった。そうした態度は、明治四年(一八七一)に東京府から出された通達からも窺うことができる。当府貫属士族卒ノ内、用達町人ノ類ニテ能役者本阿弥等并元長袖ノ者ト相唱ヘ候画師・古筆見・連歌師・囲碁将碁師・楽人ノ輩、一昨辰年鎮守府へ被召出禄高等高等外士卒同様被下置、以後御官支配附ヨリ当府貫属ニ相成候。右ハ全体其業ヲ以従来禄高取来候処、一体政府ノ職ニ非ズ、全徳川氏内家ノ職務用達、且連歌師・能役者・囲碁師等ノ如キニ至テハ畢竟遊興具ニシテ、抑御一新ノ際旧幕臣ノ輩朝臣ニ被召出候儀ハ、政府ノ人タルヲ以テ御扶助相成候儀ト存候処、其政府ノ人ニアラズ且其職業ノ御用モ無之、一般ニ被召出候儀ハ、全ク当時兵馬倥偬混雑ノ余リ被召出済相成、今日ニ至リ右同様ノ者、当府ヲ初京都・大坂府等ニモ有之、前件被召出候者ヲ口実ト致シ種々苦情申出、其処置困入候次第ニ候。(『明治の能楽』㈠二一頁所引『公文録東京府之部二』傍線私注)右は、能役者と並んで刀剣鑑定の本阿弥家、画師・古筆・連歌師・囲碁師などの芸能者を挙げた上で、彼らは政府の職ではなく徳川家が私的に雇っていたものであり、所詮は「遊興具」に過ぎないと断じてい る。これが当時の政府が能を含めた諸芸能に対して抱いていた認識であり、政府が積極的に保護すべき対象として考えられていたわけではなかったのである。一方、明治政府が芸術政策の柱に位置づけたのは主に美術と音楽であり、特に音楽の分野に関しては雅楽がその中心であった。(16)塚原康子によれば、明治国家による音楽政策は、
(一)国家儀礼・国際儀礼に伴う音楽の制度化 (二)国民教化のための国楽の創成 (三)音楽教育制度の確立の三点にあったという。雅楽は、近代天皇制が形成されていく過程で、その宮中祭祀及び神社祭祀の際の儀礼音楽を担うと同時に、西洋音楽の伝習によって、在来音楽と西洋音楽の橋渡しとしての役割を求められた。そこで明治三年(一八七〇)には雅楽局が太政官に設置され、雅楽の伝習の一切は政府によって管理された(明治三年十一月七日付太政官符)。さらに明治七年になると海軍軍楽隊に倣う形で、西洋音楽(欧洲楽)の伝習が開始され、『君が代』を始めとする儀式唱歌が創出されるに至ったのである。こうした雅楽諸家への対応は、西洋諸国の制度を取り入れた明治政府が、雅楽を国家にとって必要な芸能と考えていたことを示しており、国家に無益な「遊興具」とみなされていた能とは大きく立場を異にしていたといえるだろう。以上の如く、明治維新後の社会において、能は幕府からも新政府からも十分な援助を受けることができなくなり、自活の試みに失敗した能役者は次第に淘汰されていくようになる。そうした時期において能楽の必要性を認識し、それを保護しようと試みたのは、旧来から能を愛好していた皇族であり、公家や旧大名家を中心とした華族であった。次節では、視点を皇族・華族へと移し、その対応を見ていくことにしたい。
二、能楽復興の立役者―岩倉具視
明治政府の場合とは異なり、能楽と皇族との結びつきは比較的強いものがあった。そのことは、明治八年(一八七五)から九年を境に年に数回のペースで行幸能や行啓能が実施されていることからも窺えよう。そしてその大きな要因となったのが、能の愛好者として知られた英照皇太后の存在であった。英照皇太后の夫孝明天皇は、又花につけ、紅葉につけ、折にふれてとき/\御内儀御酒宴を催され、両役をはじめ人撰にてめさるゝ度に、いつとても石野基安と狂言せよと御沙汰必あり。(略)謡は人数も多く種々と聞召され、仕舞も同様十分に御覧あり、笛も鼓も聞しめされたり。(『冷泉為理卿記』『能楽盛衰記』六二頁所引)とある如く、能に嗜みがあった人物らしく、その影響もあって、英照皇太后も能に親しむようになっていったようである。(17)『明治天皇紀』の記述から皇族の能楽御覧を調査された奥冨利幸によれば、明治期に行われた行幸・行啓能の計八十五回の記録のうち、実に半数以上(四十七回)は英照皇太后の行啓によるもので、明治天皇の行幸(三十三回)を上回っているという。しかも明治三十年(一八九七)に皇太后が崩御した後は、天皇は記録上僅かに一度(明治四十三年の前田利為邸行幸)しか能を観ておらず、皇太后の能に対する情熱とその影響の大きさが窺える。また能を愛好した皇太后のために、維新後間もない明治三年には慰能が計画されている。皇太后、京都に留守したまふこと久し、是の月、天皇、其の無聊を慰めたまはんがために囃子・能狂言等の御覧を勧めたまふ、右大臣三条実美・大納言岩倉具視・同徳大寺実則連署して書を留守長官中御門経之に致し、聖旨を伝宣し、内々規画経営する所あらしむ、尋いで又実美等、経之をして、皇太后に勧めたてまつるに修学院行啓の事を以てせしむ、皇太后、聖旨を拝し、辞謝して曰く、客歳以来天皇行宮に在して夙夜萬機を総攬あらせられ、宸襟を安んじたまふ暇あらせられざるに、独り遊楽に耽るべきにあら ずと(『明治天皇紀』明治三年四月二十八日)この時は政情不安によって実現をみなかったが、明治八年(一八七五)になってようやく皇太后の実弟にあたる九条道孝邸での行啓能が実現すると、これを皮切りに徐々に行幸・行啓能が催されるようになっていく。そうした中で明治十一年には、皇太后の住む青山御所への能舞台建設が計画されている。その様子を『明治の能楽』から見ると以下の通りである。
青山御所のうちへ御能舞台を新築せらるゝに付き、其木材を工部省より廻さるゝよし。(明治十一年四月十九日『東京日日新聞』)
青山御所内へ建築の御能舞台の落成の上は、東京及び京坂の有名なる能役者・狂言師どもを召させられて、其伎を演ぜらるべき御模様なりと。何ばう目出たき事にこそあれ。(明治十一年四月二十九日『東京日日新聞』)
青山御所は従来御手狭まなれば今度謁見所并に御車寄等が新築になり、又た同所へ仮り御能舞台を取り建られ、聖上より皇太后宮へ御慰みの為御能を進ぜらるゝ思召にて、既に昨日、役者共へ右御用を仰付られしゆゑ、来月下旬には御催になる趣。(明治十一年六月十五日『郵便報知』)
金剛唯一、観世清孝、宝生九郎、三宅庄市の四名は、昨日宮内省へ御呼出しにて、皇太后宮御能用番を仰せ付けられたり。梅若実も御呼出しの処、所労に付、不参せりと申候。(明治十一年六月十八日『朝野新聞』)
この後、七月五日に舞台開が行われ、出演者のうち宝生九郎・観世清孝・梅若実・観世銕之丞・金春廣成・金剛唯一・三宅庄市が御能御用係に任命され、装束料を下賜されている。是れより先六月、金三千円を装束料として御用達清孝等に賜ひ、又本年六月より五箇年間は演能毎に金八十円を装束賃借の料として給することと為したまふ、但し明治十六年六月以降は、前賜金三千円を以て装束を調製せしむ。是れ能楽再興の始にして、全く皇室の庇護に因る、(『明治天皇紀』明治十一年七月五日条)これらの一連の活動は、皇室というよりは、むしろ英照皇太后個人の嗜好に応じた私的色彩の強い活動であったといえる。しかもその活動も、皇室を取り巻く華族側から働きかけられたものであった。(18)
中でも中心的な役割を果たしたのは、当時政府の中枢にあった岩倉具視である。岩倉は、明治九年(一八七六)に実施された初の行幸能を自邸で開催したほか、青山御所への能舞台建設や明治十五年の芝能楽堂建設にも積極的に関与したことが知られている。こうした活動によって、後に池内が雑誌『能楽』創刊号の冒頭に以下の文言を載せた如く、岩倉は能楽復興の立役者として祭り上げられていくのである。公の英邁の資により王政維新の大業を翼けられ其偉勲の赫々として以て万歳に陟るべきは既に世人の熟知する所なるが此の能楽道に取りても永く斯道の守護神として尊敬すべき偉績を奏せられたるものにして彼の衰退せし能楽道の明治十四年の頃より頓に勢力を増し以て今日に至れるは明治聖代の余沢に依ると雖も抑も亦公の厚く此道を保護せられたる功績に帰せざる可らず。今や本紙発刊に当り公の偉績を思ひ追懐の情に堪へず巻首に御肖像を掲げ、尚又左に同公当時の事績を熟知せる人々の談話に因り如何に斯道の為めに尽されたるかの大要を記し以て斯道に志す人々に知らしめんと欲す。((19)『贈太政大臣岩倉具視公』) そもそも能楽に対して保護意識の薄い明治政府にあって、岩倉が能楽に関わることになったのはなぜであろうか。その契機については大きく次の二点が指摘されている。一つは特命全権大使として訪れた西洋におけるオペラの観劇体験であり、もう一つは、明治十二年(一八七九)に来日した前アメリカ大統領グラントの提言である。このうち前者については、池内が著書『能楽盛衰記』の中で以下の如く述べている。此の時に方り、能楽再興の機運を醸成するに至らしめたのは、実に明治四年岩倉具視卿が大使となって欧米視察に赴き、能楽の捨つべからざることに心づかれたのに起こるのである。(『能楽盛衰記』四二頁)岩倉を始めとする百七名の使節団は、明治四年から六年にかけてアメリカ合衆国及びヨーロッパ諸国の視察を実施したが、この時岩倉に随行した久米邦武は、プロイセンで見たオペラについて以下の如く記している。
然るに欧洲の宮殿にある、その壮麗なるオペラ堂を見るに至って、痛切に国民娯楽の必要を感じ、而してかゝる精神上の慰藉から種々な結果を来す娯楽には、一時的流行のもの、今日あって明日なきもの、又は外来の浮ついたものでは所詮立派なものは出来ぬ、怎うしてもシッカリと国民性の奥に根を持って居るもの、即ち日本固有の歌舞音曲でなければならぬ。若し此選択を過まったなら、国民的娯楽の欠乏から、日本は非常な不幸に陥らねばならぬ、と、其処で能楽の芸術的価値を思ふに至った。((20)久米邦武「能楽の過去と将来」)この時久米は、オペラの観劇体験によって「国民的娯楽」の必要性を感じるとともに、それに最適な芸能として「日本固有の歌舞音曲」であり「芸術的価値」を有する能楽が想起されたとする。しかし、この久米の叙述については横山太郎によって こうした「国民のための能楽」という意味づけは、自由民権運動
や日清日露両戦争を経て国民 ネイションがリアルになってきた―つまり広 範な人々によって自らが主体的に帰属する共同体として想像されるようになってきた明治末年という時点からの久米の投影と見るべきであり、明治一〇年代前半までに行われた久米や岩倉の能の復興の構想には、こうした「国民」という契機を認めることは不可能である。(『能楽堂の誕生』)との指摘があり、これをそのまま当時の久米の考えとして認める事はできない。岩倉使節団の公式記録として久米がまとめた(21)『特命全権大使米欧回覧実記』によれば、オペラについては「諸種の芝居中にて最上等なるもの猶我能楽の如し」との感想が記されており、この時久米がオペラと能の相同性を認識していたことは認めることができる。(22)
しかし、同書に見える他の音楽や芸能に関する記述は、そのほとんどが外交儀礼の場における音楽について記したものであり、また多くの場合、具体的な音楽の内容に言及していない。例えば最も充実した記述を有する一八七二年六月十八・十九日(明治五年五月十三・十四日)にボストンで催された「太平楽会」に関する記述を見ても、具体的な曲名や作曲者・演奏者の来歴に関する記述がほとんどない半面、劇場の建設費用や、歌手の報酬、さらに、当日演奏された「星条旗(The starsplengled banner)」が人々の愛国心を誘発したことなどを実に詳細に記している。つまり、著述者である久米にとって(恐らく岩倉を含めた一行全体の興味も同様であったと思われる)この日演奏された作品や演奏者というよりは、演奏会の予算や規模、さらには音楽による愛国心の高揚など、近代国家における音楽のあり方に関心が向けられており、音楽の「芸術的価値」に関心が払われたとは言い難いのである。能楽に対しても同様で、明治政府の中枢にあった当時の岩倉にとって、オペラや能の芸術的価値は二の次であり、国家として保存すべきもの とは映っていなかったのではなかろうか。一方グラントの提言については、(23)『岩倉公実紀』に詳述されている。前キニ具視ガ米国前大統領克蘭徳ヲ延遼館ニ存問スルノ時ニ於テ、克蘭徳ハ具視ニ問テ曰ク「貴国ニハ固有ノ音楽アリヤ」具視答テ曰ク「朝廷ノ祭式礼典ニ用ヰル所ノ音楽ニ神楽アリ、催馬楽アリ、又舞楽アリ。神楽ト催馬楽ハ我国固有ノ音楽ナリ。(略)中世以降ノ作ニ係ル一種ノ音楽アリ、之ヲ能楽ト曰フ。(略)今日ハ頗ル衰頽ニ傾キタルモ、仍ホ存ジテ世ニ伝ハレリ。其楽器ハ善美ヲ尽スト言フヲ得ザルモ、専ラ歌謡舞態ヲ以テ曲ヲ成シ高尚優美ノ技芸ナリ」ト。克蘭徳之ヲ一見センコトヲ乞フ。具視乃チ克蘭徳ヲ本邸ニ招迎シ、能楽師ニ命ジテ望月・土蜘蛛ノ二曲ヲ奏シ、其観覧ニ供ス。実ニ七月八日ナリ。此後具視華族ノ有志者等ト商議シ、欧洲各国ニ於テ帝王貴族ガ彼ノ「オペラ」ヲ保護スルノ例ニ倣ヒ、此能楽ヲ保護シテ之ヲ永久ニ伝ヘンコトヲ図ルト云フ。(句読点等を私に補う)来日したグラントは明治天皇との謁見を行い、外交問題を中心に意見交換を行っているが、その中でグラントが日本固有の音楽に興味を示し、それに応じた岩倉が自邸に招待し、能を見せたというものである。これについて倉田喜弘は、 能を観たグラントの感想は知る由もないが、右の一節から浮かび上がるのは、自国の文化を大切に、という示唆ではないのか。(略)岩倉は、芸能に「文化」という物差しがあることを教えられたのではないか。そうでなければ、能楽保護の意向を急に打ち出すはずがない。グラントの提言で能楽の新生面が描かれた。(『芸能の文明開化』一七九頁)として、グラントによる提言が岩倉を能楽保護に向かわせた契機と指摘する。しかしグラントが明治天皇と会談した際には、日清両国にお
ける琉球の帰属問題、殖産興業、条約改正問題など、内外の政治・外交問題が主体となっていることから、その関心は、政治や外交、軍事に向けられ、文化は中心的な話題ではなかった。しかも岩倉は、明治十二年(一八七九)にグラントと出会う以前から行幸能の開催(明治八年)や青山能楽堂建設(明治十一年)などによって能楽との関わりを持っていたのであり、グラントの提言を能楽保護の契機として位置づけるのは無理があろう。以上の如く、これまで岩倉については、能の持つ芸術的な価値を認め復興に尽力した人物であると考えられてきた。しかしその契機と考えられてきたヨーロッパにおけるオペラの観劇において、岩倉一行の関心がオペラの芸術的価値に向けられた形跡はない。またグラントの提言についても、岩倉がそれ以前から能楽復興事業に携わっており、これが契機ではないことは明らかである。つまり、これらの出来事は、岩倉を能楽復興の立役者として位置付けるために後付けされた虚飾に過ぎないといえる。そこには、岩倉を能楽復興の立役者として美化しようとする思惑が働いていたと考えられよう。それでは岩倉が芝能楽堂や能楽社の活動に関与した真の理由は何だったのであろうか。横山太郎(『能楽堂の誕生』)は、明治の名人の一人である宝生九郎の至芸に接したことが岩倉が能に関与することとなった直接の契機であり、その時期は明治九年(一八七六)の天覧能とその直後の梅若実邸での月並能観覧ではないかと推測している。確かに明治九年の天覧能を機に岩倉の観能回数は急激に増加しており、また直接岩倉が宝生九郎から能の教授を受けていたことは『能楽盛衰記』の記すところでもある。仮にその指摘に従うならば、近代の能楽復興の歩みは、英照皇太后と岩倉具視両人によって為された私的活動に過ぎなかったということになろう。しかし、岩倉がそうした個人的な理由だけで、多額の費用を出資してまで芝能楽堂や能楽社の活動に関わる必然性は感じられない。むしろ、能楽社や芝能楽堂建設の主体となったのは華族であり、そうした人々との関係について考え てみる必要があるのではなかろうか。次節では、芝能楽堂と能楽社の活動に焦点を当てつつ、運営主体であった華族側と、それを主導した岩倉それぞれの思惑について考察を試みたい。
三、能楽復興という神話―能楽社と芝能楽堂
東京府の一公園たる芝山内に建設せられたる能楽堂は我国能楽再興の紀念として忘る可らざる一大建築物にして今其由来の大要を記せんに明治十三年当時の左大臣岩倉具視公能楽は我国貴紳の遊楽に適当なるを以て其衰へたるを起し再び世に用ゐしめんと志ざゝれ華族及び有志者を奨励し、元金地院の境内たりし紅葉谷の地を相し旧来の諸式を参酌し宮内省内匠課の技師白川勝文氏をして其工を督せしめ一年余の日子と壱万八千余円の資材を投じて建設せしめられたるものにして当時発起人諸氏より東京府知事に呈出せられたる願書及辞令は左の如し。( (24)「芝能楽堂の由来及略歴」)雑誌『能楽』創刊号は、岩倉への賛辞に引き続いて芝能楽堂についても右のように記し、その意義を強調している。
(25)明治十三年(一八八〇)五月、岩橋轍輔・子安峻・小野義真の三名によって、芝公園楓山に高級集会施設である紅葉館の建設計画が持ち上がると、それに連動して九条道孝・前田斉泰・藤堂高潔・前田利鬯ら親能派の華族を中心に隣接地に能舞台の建設が計画された。これが近代的な「能楽堂」の嚆矢となった芝能楽堂である。奥冨利幸は「建物だけでなく、組織としても劇場を目指した初めての伝統芸能専門劇場である。」と述べたうえで、その平面構成は、基本的には青山御所と同様に、伝統的な能舞台と見所である広間が、白州を介して対置する配置がとられたが、脇正面側の重要性の向上に伴う見所の張り出しや、その後の改造による白州部分への見所の設置、そして、硝子板を使った明かり
採りをとって白州の野天を覆い、能舞台と見所の空間を一体とする室内化は、能楽堂の近代化を最も象徴する変化である。(『近代国家と能楽堂』一二一頁)と指摘している。貴人を中心としながらも一般客を想定した公的な色彩の強い「劇場」として作られた点で、芝能楽堂は私的な演能場に過ぎなかったそれまでの能舞台とは、一線を画する存在だったのである。さらに芝能楽堂の建設と同時に、その運営機関として能楽社が設立された。能楽社設立の目的には(26)「能楽ノ芸道ノ維持」が掲げられ、設立意義を記した「能楽社設立之手続」には、明治初期における能楽の歩みを総括するとともに同社の重要性が高々と謳われている。 能楽人ノ内実ハ至極困窮ニ陥ヰリ追々廃滅ニ及ブ姿ニテ御催能モ永続無覚束ヲ以テ宝生九郎、梅若実両人総代トナリ芸道維持之御仕法被相付度宮内省ヘ願出ントスル由岩倉殿被聞及角テハ御舞台御建進ノ詮モ無之且久シク朝廷幕府ニ採用シタル芸道廃絶ニ及ブ時宜ニ迫リテハ其儘ニ差置キ難ク乍併其比西洋ノ風儀追々ニ伝播シ彼諸国ニ於テハ声楽舞曲ハ人心風俗ニ大関係アルモノナルヲ以テ政治家学士ミナ演劇ニ心ヲ用ヰルトテ在京官員ノ内ニハ歌舞伎芝居ノ改正ニ心ヲ入レ新富座芝居ヘ主上御臨幸ヲモ可奉願勢ニテ或ハ猿楽ハ古ノ芝居ニテ已ニ時好ニ後レ今ハ芝居ヲ以テ之ニ代ユベシト謂フモノモ有之。素リ歌舞伎芝居ノ体面甚淫蕩ナルモノニテ貴人ノ賞翫スベキモノニ無之且維新以来上下検束ナクナリ華族ノ少年輩狭斜声妓ニ身ヲ持崩シテ是ガ為メニ家ヲ滅スニモ至リ甚ダ憂フベキ風習ニテ何トゾ其風ノ増長セサル様ニト配慮スルノ際若シ猿楽ヲ維持スル端緒ヲ啓カバ頓テ芝居ヘ臨幸ヲ促ス作俑トモナラン歟ト色々懸念セラレ(略)猶又外国公使其ノ他外国人ヘ面会ノ時彼邦ニテ帝王宮中ニ設ケタル芝居舞台又民間ニ行ハルヽ芝居及ビ官ヨリ此等ノ芸道ニ保護ヲ加フ情実等モ諮問サレシニ彼国ニテ帝王ノ宮殿ニ設クルハ「オペラ」ト称スルモノニテ専ラ歌謡ヲ以テ成リ高尚優美ノ芸ニテ一 般ニ行ハルハ「セートル」ト称シ民間ノ状態ヲ演ジテ面白キモノナリ。故ニ「セートル」ニハ上下種々アリテ盛ンニ行ハルレドモ「オペラ」ハ流行盛ンナラズ総テ高尚ノ美術ハ自然ニ衰頽ニ傾キ易キモノナリ故ニ上流ノ人ハ常ニ保護ヲ加ヘテ其ノ高尚優美ヲ保存セシムルヲ図リテ帝王貴族ノ財産ヨリ「オペラ」ニ寄付スル金額ハ頗ル莫大ナルモノニテ又其俳優ニハ特別ノ権利ヲ与ヘテ之ヲ優待スル等ノ由ヲ述ブ。是ニ因リテ猿楽能ノ維持ハ已ムベカラザル事ト確認セラレタレドモ国事多端ノ際公然官ヨリ之ニ保護ヲ加フル儀ハ到底行ハルベカラザルヲ以テ責テハ同志ノ華族申合セテ姑ク此芸ノ廃滅ヲ支ヘテ折角建造セラレタル御能舞台ヲ保続シ大宮御所ヘノ御孝養ヲ奉助時節ヲ待ベシト勘考セラレシハ(以下略)(『能楽盛衰記』八九頁)ここには、明治維新によって危機に瀕した能が、西洋におけるオペラ保護の例に倣って、篤志の貴紳によって保存されるという「再生の物語」が示されている。この「再生」という神話の中で、華族を中心に結成された能楽社は、その象徴的存在として位置づけられたのである。この時岩倉は、能楽堂の建設に対し、現場に通って直接指示を下すだけでなく、建設に不足分の費用約数千円に私費を投じるなどして積極的に計画を推進した。そうした犠牲を払ってまでも華族を復興の主役に位置付けたのには、当時岩倉が華族制度に強い関心を抱いていたことと関連があるのではなかろうか。岩倉は明治九年(一八七六)に創設された華族会館館長として、華族制度の確立のため第十五銀行や学習院の創設など様々な政策を実施した。当初岩倉は、伊藤博文らによって示された華族を貴族院議員として政治に参与させる案には反対で、むしろ政治に直接関与せず、「皇室の藩屏」として皇族をを支えるヨーロッパの貴族像を理想としていた。華族は上流階級としてそれに応じた責務を果たすべき存在であり、能楽の再生に携わることは「欧洲各国ニ於テ帝王貴族ガ彼ノ「オペラ」ヲ保護スルノ例」(『岩
倉公実記』)に倣い、華族が果すべき責務に相応しい事業として映ったのではないだろうか。つまり岩倉にとって重要だったのは、能楽自体の保護以上に、それを華族に担わせることにあったのではあるまいか。岩倉は、能楽の再生を華族の責務として位置付けることで、華族制度確立の一助とするべく画策していたと考えられるのである。
(27)一方、芝能楽堂建設を提案した華族側にも別の思惑が存在した。そもそも紅葉館の建設は、当時東京府が推進した都市の整備計画に則り、明治十三年(一八八〇)三月より紅葉山の整備が開始されたことに伴ったものである。東京府は旧来からの景勝地の保全と、外国人のための迎賓施設建設の意向を持っており、それに沿った形で和風建築の社交施設が計画されたのであった。つまり芝能楽堂はそれ自体が独立して計画されたのではなく、既存の計画に便乗したものであったといえる。能楽堂建設の発起人となった華族はいずれも江戸期以来、能の愛好者であった大名や公家であったが、維新以後は自身の技芸披露の場の確保に窮していたらしく、(28)しばしば玄人の催しにも参加していたほどであった。そうした華族たちにとって、芝能楽堂建設には自らの演能場を確保しようとする思惑があったと考えられる。しかも明治十年代になると、後に初代総理大臣となる伊藤博文や外務卿井上馨らによって欧化政策が進められ、明治十一年にはガス灯などを備えた洋風建築の新富座が開場し、同十六年には欧化政策の象徴とも言うべき鹿鳴館が完成している。こうした政策とは対極に位置する能楽堂建設には、紅葉館の如き政府の承認を得た計画に便乗するのが得策だったのであり、「能楽保存」はそのための大義名分として利用されたに過ぎないのではあるまいか。明治十五年、芝能楽堂は華々しく開場し、「能楽再生」の記念碑となった。横山太郎は、すべての流派の代表的演者―しかも明治期を代表する名手たちーがそろい踏みして芸を尽くしたこの催しは、近代能楽史上最大の画期をなすとみなされてきた。というのは、この能楽堂の誕生 が、明治維新によって武家のパトロネージを失い崩壊した能狂言の再生を象徴する、神話的出来事として能楽史に登録されたからである。たとえば、池内は上述の番組表を紹介した明治三五(一九〇二)年の記事のなかで、「以上三日こそ、実に我国能楽中興の記念と認むべき能楽堂落成開業に伴へる能楽にして、一時時勢の変遷の為め中絶の姿なりしも、其内に潜める勢力は俄然として顕れ出で如何に立派なりしか」とコメントを付している。(横山太郎「能楽堂の誕生」)と指摘しているが、岩倉具視によって作り上げられた再生の神話は、後々まで能楽史上における重大事として語り継がれていくのである。
おわりに
しかし、能楽社の試みはうまくはいかなかった。明治二十年代後半には、芝能楽堂自体が経営上の困難から運営に支障をきたし、実質的にその機能を失うこととなった。従来世人の見て以て一世の美観とせし芝能楽堂も、亦前日の如くなる能はず、勢力ある能楽師は、各我が一流の下に割拠して一般の発達を顧みるに暇なく、催能の数の減ずるのみならず、其催さるゝ能楽も、亦昔日の如くなる能はず、随て能楽堂の営繕も不行届となり、今や雨漏の個所二十余個所に及び此の堂々たる能楽堂に於て、雨中の演能さへ覚束なく、或は危険の個所さへ生ずる迄に腐朽に傾きしを見ては、覚へず涙襟をうるほさゞるを得ず、(略)其一方たる紅葉館を見れば、毫も衰退の状なきのみならず、次第に家屋は拡張せられ、五十余名の女中と称する者は、各々綺羅を飾りて、朝より来客を迎へ、電灯輝き、絃歌湧き、其盛衰の状、恰も昼夜の別あるが如し、((29)「芝能楽堂と紅葉館」)芝能楽堂の挫折は、その経営の主体を担った華族の限界を示すもの