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防穀令事件と日清戰爭

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

防穀令事件と日清戰爭

宮本, 又次

https://doi.org/10.15017/4355394

出版情報:經濟學研究. 13 (1), pp.89-107, 1945-03-30. Society of Political Economy, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

/. 

一︑朝鮮市場と日清戦争

日浦戦喰を引笞起

た原因の一っに︑朝鮮市場をめぐる日清の

.尉立のあったこごは

於て諭辿せる所であ

る︒

︵﹁

朝鮮

貿易

市揚

の消

長と

H洞

蛾争

﹂繹

涜史

研究

第三

二巻

︱̀

]一

琥︶

清國と日本さが紙

に開浩を行ってゐたに拘らす︑牛獨立國朝鮮はなほも鎮國の眠りからさめなかつ

一八

0

年︵嘆延元年︶

露國軍艦が元

山に来り

通商を求めた際にも大院君は之を拒絶

した し︑

國屈の

この数徒はフランスの保

織﹄

を うけてゐたから︑一八六六年︵慶

カトリック敦徒三

萬をも弾駆

してゐる︒

應二年︶にはフラ

ンス

艦隊の来寇さなり

︑︐更に一八七一年︵明

治四

年︶にはシャーマン琥事件︵一八六六年︶

による米國艦隊の来寇があった︒併し乍ら向ふ見すの鎖國朝鮮はこにもかくにも▼

が出来た︒これにも拘らす︑恰も大院君の一時的失脚があり︑これは大いに日本に幸ひして︑

防 穀 令 事 件 と 日 消 戦 争

}

l

• 本

防 穀 令 事 件 と

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Jれを撃撰する︑こ

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本は江

紙に別の機會に

 

(3)

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(4)

︒ 同 年 五 月 の 米 韓 通 商 條 約 は

︑ こ れ は 第 二 開 國 さ も 云 へ よ う︒恰も一八八

0

年以来︑浦國も索業に於て新しい段階に入つた︒鑽山・鐵道の開設にさもなひ︑

僚勢力の増大を来し︑その膨眼し行く官吏商業脊へ本は︑納鮮市場を日本の獨占から奪還せんとした︒

韓宗属闘係を将確認せんtせるものである

︒かくて壬午・甲巾附事

焚の間に中國朝鮮商民水陸貿易窄程 の締結さなり︑他方では米韓條約が李氾章を仲介さして締結せられ︑附度にわたつて浙納の宗主樅が認

定さ虹た︒この間李鵡章ごその輩下の官僚どは外國資本ご拘合して納鮮に於ける勢力を張らんとしたの

である︒湖鮮の誨闊行政すら李鴻章の股心獨人メルレンドルフの掌握する所であった︒

.治的姿れは今や一帰されんとするに至り︑従っ.て執鮮市場を獨占し来った日本衰本も︑浙國商業資本の

進出によって︑脆くも敗退せんとするに至った︒濡國商業資本は︑

織貿易を奪ひ︑上栂より直接朝鮮に輪入せ

しめ た︒

まづ外國森金巾の日商の手による仲

には金巾純輪入額の八五

%︑八六年︵明治十九年︶には九三%が浙商の手に仰した︒浦瑚は京城貿易を開始し︑仁川を押へ︑元山

を製ひ︑途には日本の牙城である釜山にさへ肉雌

した

︒ に賎ふこ

e

が出来る︒日滑ょりの楡入額の割合を合計百ビせば︑明治ヤ八年︵一八八五年︶以後二十五年

して

ゐる

n

︱八九二年︶迄に於て︑滞國が一九%より四五%に増高せるに野し︑我が國は八一%より五五%に低減︒

仲畷貿易に脳する限り︑日本人の商品は香池又は桑浩ーー上栂ーー長崎又は祉戸ーバ

l仁川 而國の地位鰭個は朝鮮綸入貿易の統計上に明白 一八八五年︵明治十八年︶

朝鮮の欧米列強への市場間放であった︒

かくて日本の政 湘 大官 ー

(5)

r~

ー京城の痙路セさつてゐる。これに討し支那人の商品は香浩又は桑浩ー—ー上海ーー仁川ーー京城であ る︒だから中間商人の手をへること少く︑大分有利であったわけである︒併し乍ら日本には新たな親洲 開制が成熟しつゞあった︒云ふまでもなく

南業壼本主義への進展が進展

しつ:あったのであら︒

は従来日本が行ってゐた英國

製金 巾の商業

資本主義的仲粛貿易セ奪ひとつて進出したが︑

や新生日本は専ら自國製品を以てする輪

出に轄じたのである︒帥ち日本綿業の急逃

/ なる痰展は︑自國産

の白木綿及び金巾を以て︑

朝鮮市場を開拓

したので

ある

國内市場の狭殿性は日本産業にこつて大

きな

鋏陥であった︒一ざうし・ても外國市場を追求せねばならぬ運命を裳初から持つてゐたのである︒

業はかくして金巾製織を緊急課題と

し︑これは初めから大癖業こして痰生すべきであった︒

正にかAる闘係の表現であったわけである︒

. 

以上は

輸入の方

主さ

して見し

ものであるが︑楡出貿易では日本が駆倒的に優勢であり

︑明治十八年

, •

十七年︵一八

︵一

八五

年︶

り午`九年にかけて︑日本側の入超に轄じ︑殊に朝鮮米の尉日輸出は明治二

︐九

0

年︶

の 経憐恐慌

以後断然増加した︒これは遅れた日本

農業

の生森

力を柿ふものであった︒第一國立

<

銀行を

背景§

して

山経由で行はれたわけである︒日本米穀廂人は南鮮から北鮮まで活動し︑商取引形 態による鮮米

輪出を行った︒

9 日本資

本は生産へ喰ひ込み行き︑土地の獲得が促進された︒こ

C

稼な

日本

・ の 疲 展は既に一方では明治二十二年九月

︵一

八九

︶ の 咸 鏡道監司による防穀令の疲布ざなっ

て現は

 

.  . 

穀 令 事 件 と 日 浦 戦 墳

日本紡蘇

日清戦喩は Jれに反し今 消國

︑ ↑

(6)

\ 

\ 二︑防

れ︑米穀の厨日輸出禁止ごなって︑日本商

人に

打撃を典へた︒

︑因の一さなってをり︑又他方に於ては南鮮に於ける急激なる農村の階級分

化を促し︑後

の東學黛の乱の

基因ごなりしものである︒防穀令事件は外交問題であった

さ共

f1商業貿易史上よ

b

も注目すべぎもの

なのであった︒こAに︑特に日滑戦琲経惰史の一節さして取り上ぐる所以のものがある︒

穀 ︐

令 の

所謂防穀令事件は明治二十二年九月咸鏡南道元山を中心ご

して

起った問題である︒

京城の氣及びその後の結果は︑著しく我が國民を刺戟したが︑

我が政府は内治主義を持して動かす

明治十七年甲巾七二月の京城の髪に於ても同様であった︒所謂恥ありと雖も忍び︑

義ありさ雖も起たざ ヽ

る趣があった︒それはその頃︑日支同盟論すら陰然さして榛頭

しつ

Aあったからである︒而も朝鮮に於 ける日滑雨國の勢力の懸隔は︑日に月に甚だしく︑志士をして棟慨せしむるに足つ仁︒退嬰外交に封す

ろ民論の激昴があり︑殊に自由窯感の大井憲太郎の大阪事件などもその一の現はれどして注目すべきもの

であった。防殻令なざも嗚鮮の辮日侮説ど日滞闘係の尖銑化を表明する一つの示現だったわけである。

元山は明治十三年五月一\ 日を以て︑明治九年江華條約の結果さして開浩せられたが︑︑その初めは︑居

留地貿易の範園をいです︑邦人は租界さ租界外の狭少なる間に行里するにさゞまり

︑ た

ゞ客主の箭らせ

H

浦 戦 争

制 定

. 

この防穀令事件も亦且消戦奇の経清的原

• l 

1)渡泌幾治郎、一般 史、(現代日本文明史)三

00

頁以下、三〇六頁

ヽ~

(7)

る商品をまち︑或は買川に来るをまつの外は︑附近の市場に於て少贔の買付けに従事したにさゞまつ

.︐ た︒大豆界の烈鉦忽稲せられる富ぷぬいが︑大豆蜘出を元山に於て開始したのも︑その始めは︑この様

に開市緑に買集めを行ったものであった︒その後︑彼女にならって︑大豆購買者が次第に玲加し︑

師に安憤なる大豆を買集めて︑之を飩國に楡送するこさが増

して 来た︒この事は自家用以外

︑別に販路

なきものつど田心ひし帆鮮此民に一大刺戟を典へ︑

lこの峨方の大豆の耕作は年を逐ふて反別を珀

︑同時に 南額を増加するに至った︒明治二十年頃には元山に於ける内地商店は競ふて大豆の買占輛送をなし︑近 きは永興及び咸興

︑遠苔は咸北に危瞼を胃して店員を派造

し ︑

之に放壼する金額が頗る巨額に上ったので

ある︐大豆のみならす︑米穀その他の穀物にも及び︑

9 本裔人

はこれ等の買集めに際

︑その牧稜期以

前に

.︑後日牧穫の全部叉は一部を引渡すべ苔契約の下に︑︑

農民に前代金を為す方法をとるを恨用手

段ご

したつこの方法は多く血哀民の窮乏期に契約せられたから︑

買手に派り布利なる條件なるご共に

9

年の豊 凶の如何に拘らす︑商品を入手し得るの便があった︒且つ叉内地に於ける外國人の土地所布の公認せら れざりし以前に於ては︑之れを以て殆ざ士地所布に匹敵する効果を牧むるの一方法であった︒

年にも拘らす穀物は比較的廉慎に輸出せられたから

朝鮮の峨方官吏は之が輸出に闘し︑屈

3諜税をな

す様になり︑叉防穀令なる條

約上の椛利を主張するに至った︒これは明治十五年の﹁韓美條約﹂第八款

に﹃如朝鮮固︑因有事故︑

恐致境内訣食大朝鮮園弗

︑主︑暫稔ぷ米狼出國︑

続地方官照鉗後︑由美國官員轄

九四︐

f

︑ し

かくて凶 甘片

n ‑ ' ・  

2)高尾新右術門、元山痰展史、一九頁、二八頁 3)朝鮮史學會、朝鮮史大系、最近世史、一一六頁以下

4)四方博、,朝鮮に於ける近代衰本主義の成立過程、朝鮮社會網涜史研究、

一九二頁

(8)

筋在各口美國裔民︑

九韮

一休姦辮︑惟於已開仁川一池︑各邑米根特行禁止﹄さあり︑

規則﹂第三十七款に﹃若シ朝鮮國水旱或

C兵擾等ノ事故アリ︑境内鋏食ヲ致スヲ恐レ︑

粗ノ輪出ヲ繁ゼント欲竺^︑須ク其期二先立ツ一ヶ月前=一於テ地方官ョリ日本領事館一芯皿知スベシ︑然

ルトキ2豫メ其期ヲ在各池ノ日本商民二轄示シニ憫泣守七シムベー

シ ︒ 諜スト雖烹右シ朝鮮國

二災荒アリテヽ進ロヲ要シ或︿日本國二災荒アリテ出ロヲ要スルトキ︿知照ヲ経 テ進出税ヲ免ズベシ﹄さあるを根拙さするもので︑これは他國ビの條約中にも含ま九て︑朝鮮政府は凶

敏時に於ける穀物輸出恭止の椛利を保留したのであった︒

り︑勘<pこも地方的凶作は頻繁であった︒これに尉日反感も加はつて︑

て日本公使さの間に凶作の程度に闊し論噴せねばならなかった︒

は︑その尤なるものであったのである︒

さが出来す︑叉輸閉せんさ

して

準備したものが

防 殻 令 事 件 と 日 滸 戦 弔

朝鮮政府暫ク米 米穀類合進口出ロトモニ五分税ヲ

明治二十二年三南地方︵南部朝鮮

︶の

旱害のため胡鮮政府が特に米穀の輸入税を免除するや

︑同年は咸

. 

南北地方に於ける大豆豊作なるに係らす

︑咸鋭追藍司︵観察使︶趙茉式は凶作を名として令を下して大豆

の楡出を砧

止し︑尋いで一般的に朝鮮政府は同年十一月以降一個年間穀物類の輸出を禁止した

Qこれは

正しく我廂人腿迫の底意を以て︑なされたもので︑果然我が商人は紙に買牧を約した米穀を受領するこ

全然手をつけるこさが出来な

9

なるど云ふ布様であっ

明 治 二 十 二 年 元 山 に 姻 用 さ れ た そ れ

Jの梱利は圃索3濫用され︑従っ

元 来 朝 鮮 は 凶 年 三 年 鉦 さ 稲 せ ら れ る 楳 で

あ  

翌年の﹁日本人民貿易

5)前掲四方氏論文

6)鼎軒川口卯吉全集第四巻、四五六頁ヽ.

'

(9)

︑ 防 穀 令 事 件 の 糎 過

は︑韓廷に迫つて該令の撤回を求めたのであった︒

ソ) 

協議更にさ

A

の は

椛臣悶應植の寵を受けてゐたものであるため︑韓廷は言を曖昧にして容易に應ぜす︑

至って︑該禁令を解き︑叉趙乗式を江原道蓋司に左遷したさ稲したけれざも︑此間我が商人の受けた損

害十四萬一千六百餘圃の賠倍については︑何等應する所がなかった︒會

明治二十三年十二月︑辮理公使河北俊弼は近藤に代つて朝鮮に赴任したが︑翌年三月任地にて卒去 し︑梶山鼎介再び之に代り︑談判をつゞけたから︑韓廷も遂にその理に服し︑損害金の内六萬園を賠償

︑ せんと譲歩した9

併し甑に三ケ年の年月を綜過し︑損害の元利を合算すれば質に二十萬園以上にも逹し

︑元ゐる︒これに厨し六萬間

Iさはあまりにも懸隔があり︑到底容認し得る所ではない︒ 翌二十三年四月に 我が公使の抗議により︑韓國政府は直ちに解焚の令を疲したが︑全く有名無賓に終り︑す︑他の穀物にも及んで賓買麻季止は峻烈を極め︑之がため禁を犯したる鮮民は厳刑に虐せられ︑農民は空しく穀物を擁して苦しんでゐた︒邦商の担害を蒙りしこさまた言をま

たな

い︒

而も趙は韓廷の 大豆のみなら

\ 彼地の

九六

ヽ.

︑ ︐

て︑損失を被むる者が甚だ多かったのである︒

此の法令は素より條約の違反であって

︑職樅を

濫 用 した不法の令である︒そこで代理公使近藤箕鋤

7)前掲朝鮮史大系、最近世史ー一七頁。松下芳男、

l)前掲日消戦争前後、三〇頁

日洞戦争前後、二九頁以下

.•,

(10)

す︑時日は続過した︒この間の事梢については`明治二十四年の東京日日︑

ゐる

明治二十五年十二月十六日︑政府は梶山公使を罷め︑新たに大石正己を民間に撃げて朝鮮辮理公使ご ︒

なし︑意を決しで解決の事に賞ら

しめた︒大石は翌一月任地に着し︑早速防穀令の損害賠償の談判を開

V

べ<韓廷に迫った︒之れに尉し外務省督辮乗趙稜の答へし所を︑明治二十六年五月十七日の東京日日`めの記事によって示して見よう︑﹃趙秤辮云

へらく︑納鮮政府に於て賠償の責あるこさは夙に認め居れり

さ雖も︑紙に取調べのため︑吏員を派逍

した

れば

︑ 来るニ・三月頃は蹄京復命すべければ其れ迄の間猶

︑豫ありたい﹄︒その後の経緯をなほも同﹁東京日日﹂の記事によりて示せば次の如くである︒

﹃然れごも大石氏は深く政泥に緊みる所あ九ば︑向町を憲して談判遅延の不可なるを詮き︑

'  

其後数回談判を試みたるも︑趙督辮は派遣吏員調査復命の日を待たざる可からざるを僻柄として確答 せざりしが二月末日に至り︑俄然此言を取消し飽まで和協を得るの道を盛すべければ今より更に十日間

の猶

豫を乞ふ︒然らば︑三月八

H

を期して瞑賠償金額に附さ︑確答すべき旨明言したるに因り︑

趙骨辮食言更に前議を醜さんごす︒ むを得すー肯諾して堅く後を約して別かれたり︒ 望に應ぜざりき︒

'r,

九七 公使は止 彼が猶豫の 時事新報其他が服3

報じて

2)明治編年史、第八巻、一三二頁、二四八頁

3) 明治編年史、第八巻、四ー五頁、四—六頁

(11)

彼れより求めたる最後の猶豫期卯ち三月八

日は

白駒過隙の間に鎖盛

した

り︒

は言ふも愚か︑

趙督辮は更に驚くべき照會を寄ぜ

前任閾督辮より朝鮮政府に賠償の

エ只

る旨を認めた

る公文を︑梶山公使に送り︑叉自分よりも

賠信の責あ

るは同より

論な

しさまで明言

したるに拘ちず︑今

に至り

︑胡鮮政府の行為は條約逃犯

にあらざるも︑事の妥

鴬に

終了せん

こさを望むに因り︑一

金四萬七千 餘 園 を 辮 償 せ ん ご 巾 し来れり︒是れ醗然ビして前

言を食むものにて︑北ハ精神を窮む

れば︑道理はごもあ

れ︑四

萬六千圃は我商民

に悪典する料

に ︑

もれにて納得せよといふにすぎざり苔0

̀

大石公使はこの不法なる照會に接するや否や

直に馳せて統署に至り

︑北ハ不裳を詰貢論駁したる上︑

'︐

照會は一と先つ彼れに突き戻したりごは雖も

.︑共 後再三送付し来り

我は共都度跳

ね返したり

9﹄

時に哀冊机は依然公使さして京城にあったが

︑此

間に調停に立たんとして来た︒﹃條約上の曲は勿論 朝鮮政府に在り︑然れざも我が要求せる丈けの金額は償ふ能はざるに由り

最籾の如

く韓廷より

︑六萬

圃を出さしめんとまでは線りを戻すこさを得たる上︑前項の四萬七千圃の昭會も其似韓廷に戻し切りビ なりたるが︑斯くては梶山公使在任の時さ

︑何

の礁歩もあらざれば

唯 だ 共 内 意 を 湖 し て 止 み に き

︵五

・ 一

七︑

H

日︶とある︒

強硬な

る大石は明治二十六年三月廿五日にも︑親しく國

王に謁し︑之を迫

b

次長川上操六の胡鮮に来るや

︑大 石は川上に従つて國王に謁見し

︑川上の退去後も殿中に畜こゞまり︑

更に五月四日参謀本

部 然れども

賠償金額の確答

4)明治編年史、節八巻、四一七頁

¥  

(12)

事絃に至るや大石は

︑もは

や折術の餘地な苔ものさし

︑こ

れより先

韓國回答せすば

︑ 断 乎鯰還せよ さの外務省の電訓もありし故︑公使舘の國旗を撤し︑腔に飼朗の途につかんせ仁川に向はんさした︒

判は謡に決裂せんとしたのである︒併

し韓廷はその日の午後に至り

︑.急に使臣を公使館に送り︑

諭を

r l J

しいでた︒こA

於て我は之を容れ︑要求を減じ︑賠債金額を十一萬圃さし︑その巾六紙園は三 ケ月以内に之れを牧め︑残額は年賦さするこどに決して︑辛じて談判が成立した︒

時に五月二十一日︑

る所がない︒ J虞せられた︒

︑ 防 穀 令 事 件 の 落 着

九九

譲歩の 談'

かヽる非常手役を以て︑日本の決意が帆鮮國王に逹せられたのであるが

︑ こ の時に於て未だ國王は

防穀令事件がかくも切迫せりどは知らなかったといふ︒この叫却大石は回答を二週間以内さして要求した のであるが︑その二週間は忽ちにして純過し︑最

終目の五月十七日が来た︒

し︑南廷叔

を之れに代へ︑更に十九日までの猶1 1

をもごめ

t ゜

︵五・一七︑東京日︶

~

さて十九日になったが︑なほ韓廷は答ふ

5)明治編年史、第八怨、四一六頁

l)明治編年史、第八巻、四一八頁、四二0

Jの時韓廷は趙乗稜を免職

'

石 穀 しま令 平 談 然 判 ビ の し 決 て を 之 求 を め 見 て 返 たし 王9こし

さ奏

云 諸 ふ し

官 韓玄 廷

映 の ',

蓮百.

は 官 大 皆 石 色 の を 言 焚 を じそ 9

の 大

・ま 石 ヽ の

繹 蒻

に 鉦

奏 を

せ 咎 し め が た

I

I.

忠、

直を

ち 決 に せ 刑 る

に 大

(13)

要求額八百七十七圃四十五錢七匝

︵乙

︶黄

` 

(一)庄野嘉久蔵•吉妻俣蔵

・河内雹一の分

:r.

のヽ分

︵甲

︶合

計十四萬七千百六十八此三十二錢二厠 は︑事々に陰悪を加へるに至ったこごは云ふまでもない︒

我が國がこの

談 判

に於て要求せし

賠位額 の原要求は次の如くであっ

5

. 

︵甲

︶咸

要求額元利合計十四萬千四百四十二園二十四錢七匝

︵二︶大塚榮四郎分

要求額五千七百二十六闘七錢五雁 鏡

︵一︶梶山新介外四十餘名分

'  

, 

}ム

の 分

景の故に韓國の態度に横暴なるものがあったのであ

る ︒

. 

2)朝鮮史大系、 、最近泄史、 一 七 頁

3)東京日日、明沿二十六年五月二三日東京日日、

鼎軒田口卯吉全猿、第四巻、四三三頁

さればこの間の事情を反映して︑

H

清間の

空氣

/ .防栽令疲令してより正に五年目であり︑

損害賠償の談判を開始

してより︑三年を数へてゐる︒

懺 昧 凱 逹

及 巡

び 外 容 交 易 顧 に

間 決

米屯~

人 ざ 1 ) り

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ょ の る 背 さ 後 考 に

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官 `間

哀 曖 10 0 

︱ ‑ A

るゴ ー

朋治編年史第八巻、 四ニー頁

~

(14)

 

' 

︑ 防 穀

の 再 登

︵二︶佐竹甚三・士井亀太郎分

萬皿

は一

︱︱

ヶ月

彿

茂額は五ケ年賦

︑ ︵乙︶合計七萬三百四十六同七十四錢六匝その中︵甲︶に討して九萬圃

︑︵`乙︶には二幽園を支彿ふことになったもので︑

︵乙︶の二抵闘は六ケ

年賦にて賠俯することになってゐた︒これに 封し田口卯吉博士の如ぎは﹃今ま要求額の牛額にて結了するとは

り︑抑も外交の談判は絲日に於て雌花をぷ以貨するとは異なるべ

し ︑

過常ならば︑︿ホ菊は我政府の朝鮮に財する友情の載きをm心はすんばあらす︒

事賓ならば

余輩は彼の梶山新介初め共の他の被害

の損失を憫まざるを得す﹄

十七

日疲

行︑

・紐・六七六所城︶さ辿ぺて批判してゐる︒.

かくて防穀令事件は一應解決したが︑幾干もな

く再び防栽令が喚せられることになった︒

朝鮮政府は韓底九月十一日

︑︵

日本

肝明

治二

十六

年十

1

十日

︑英韓條約第五款及び日本人貿易規則第三 十七款により米穀輸出梨止令を痰布するに至った︒まづ各國公使に姐知

し ︑ 防 故 令 事 件 と 日 油 戦 俯

要求額六萬九千四百六

十九此二十八錢九匝

/ 

1 0  

夏に八道の牧州府縣へ平口ね I 

︵明

治二

十六

五月

≪  サ布し又最初の要求額にして 故に圧布し最籾の要求額にして呆して

余 鉗 は 其 慈 味 を 解 す る 能 は ざ る な

︵ 甲

︶の九萬

O O

の中六

4)東京綽演雑誌、第二七巻、

I)  2) 3)十一月三日朝野新聞、明治編年史、第八巻阻八三頁

(15)

<告文を漿し︑各國領事には各通商浩監理使より通知せしめた︒

一ケ月の後を期じ米

穀輯 出禁止の専を日本領事舘に近知し来ったのは韓暦九月十

1日の午後三

時過であった︒

條約面によれば︑豫告期眼日数の計邸は各國領事に通知の裳日より起算すさあったが︑

り ︑ 監理使は前日の公文は鉗誤の筋ありとて撤回し︑更に通知日郎ち韓暦九月十二日より

起募し

て一ケ

月の後より賓施する由を日本領事に通告し来った︒卯ち韓暦九月十二日より起算し三十日の後︵日卒暦十

}

一月千九日︶より三浩に賓廂することヽなっ→.

仁川監碑使の公文は箪に賓施期日を示して︑何時迄施行するやセ云はす︑

帥ち無期限であった︒然ら

ば韓政府は永久施行する秋りなりやさ云ふに︑

外務衛門某官より某韓官に褻令のこさを報じ来れる署中

.に﹃出米暫禁﹄の語あるを見れば︑米穀を暫く槃止せんとするものを推定される︒又﹃穀誤輪出稔ぷ止﹄

竺云つてゐるが︑米・大豆

・小

豆・

変共他凡ての穀物の轍出を禁じたのではなく︑

旨︑その後各税闘に泊知

して

来た

に依れば﹃人民の困苦を舒ぶる﹄にあるが︑

︶ 

べて

ゐる

敷へて︑

/ 

?'

‑月

‑=

日︶

は次

の如

く述

然らば何故︑先屁談判落着せしばかりの防穀令を再び痰するに至ったのであらうか︒朝鮮政府の公文

その碑由につぎ︑

﹁朝

鮮新

聞﹂

米のみを梨止する 翌十二日に至 而して仁州監理使が韓暦九月十

H

より

0 1 1  

̀  

‑4)同上明治編年史、四八四頁、(朝野新聞、十一月三H)

. 

(16)

穀物の輸出を紐ぷ止して國内の在米を培さしめ︑

H

 

ありしかば︑漢城府を冊界と心得居る執鮮政府の諸大臣は︑

' .  

常の事の如く考へ恐悦し居る際に営り︑﹃全羅・

炭尚二道米穀凶作なるに付︑

/ 

民困難の朕啓八道各府州よ

こさを乞ふ﹄の上叢先づ面道監司より来り︑続いて米穀凶作︑飯米鋏乏︑

り到り︑一た上間に速したれば︑國玉殿下は大に憂慮し︑遂に韓暦九月五日右い救惰法を廟堂に御

F

あらせられたり︒此に於て諸大臣は盆

3恐悦し︑﹃米債腔貨︑人民困苦は間ふに足らす︑若し穀物紐乏の

ため

に︑

貢租の十分に微する能はざることあらば政府の一大困難を惹き起すなり

且つ米債謄投人氏窮 恒の極に陥れば︑餘燃未だ消えざる東學窯が此機を利用して人民を数唆して蜂起し︑或は俸給兎角滞り 勝ちにて不千に堪へざる兵士が不稔の拳なごなす恐れなきを保す能はす︑此れ等の患ひを除去するには

以て米債を低下せしむるより外なし﹄ごの説多敷を占

1 0 1 ︱ ︱  

今年の租税を免ぜられん 漢城の米債近古未曾有の高債さなりしを非

百文に迄上り︑近古未曾布の高債を視はし︑峨方も延やて米憤謄貴し︑

氏間窮乏の人民粕々掏々の有様

升三百三四十文のもの五 咋年の米作﹃朝鮮にては凡て一年中の貯蓄米を翌年新救の牧穫迄に食ひ終はるここAなり居れるに︑

は田心ひしよりも不作にして闊間何れも充分の貯蓄をなし置く能はざりし故に︑今年の新穀の出る迄︑食

ひ紋く能はざる所に本年米の賓り方︑時候の腐め粕や迎かりしかば︑地方にては

忽ち在米の欠乏を

し ︑

恢米

にも窮する布様となれり︒地方已にこの如くなれば︑従つて首府なる京

に米

輯送な苔

ため 亦飯米の鋏乏を来し︑遂に白米一升に付百七十文餘の腑費を来し

従来

\ 

(17)

シメ自己ノ倉崩=一貯蔵シ置キ︑ て

ゐる

 

牧めんごの希望が基礎にあったのである︒卯ち地方官はこの令により國内に於ても米栽磁通の途︑絶ゆ るを奇貨とし︑米殻を嬰作の地に買入れー不作の地に齊下ぐるが如笞隈断の業を含み︑

正の利を占むるを例さ

したので

ある

︒これについては紺國大蔵省

編の﹁

韓國誌

喜 政 府 こ 茂

3條約上

椛利ヲ行使シテ米蚊

ノ輸

ヲジ時アリテ十分ノ

H i

A

理 巾 ナ

クぎ

1 7 椛利

ノ濫用

ヲ捻スコトアリ︑父前記公布期限モ正シク逝守ぎフレザルコトアリ︑

.或︿亦中

央政府

二於テ謡

二禁ヲ鮒

キクル後卜雖モ地方官吏︿自己ノ琳横ニョリ法律一一反シテ延期スルコトアリ︒

吏ノ非行ハ殆ド皆私利ノ勁

二出

ヅルモ

ノニ

テ︑前=

7

七記戟スル所アリタルガ如ク︑韓國官吏︿商業=︱ 闊典シテ利ヲ梵ムノ風腎アリテ

穀物輸

出ヲ

禁止スル問

二代

碑者ヲジテ曲底民ノ剌餘

ヲ低

債︱

ーテ

買占メセ

焚令解除ヲ待チ大利ヲ得テ之

レヲ

販訟

バス

二︑防穀令C

共ノ目的タル米債及ビ其ノ他ノ農南物債ノ下落ハ之レヲ見ル能︿ズシテ︑

ニョリテ︑官吏ノ私腹ヲ肥スノミ﹄` `

帥ち 湖鮮側にも相裳の理由があっ

たわけであり︑その上︑

ノ〗県相此ノ如クナルガ故

徒二

農民

ノ損失

此ブ如キ韓國地方官 に皮肉なる観察をなし

Jれによりて不

防穀令痰令については朝鮮地方官が私利を

め︑國王ヴ勅諭に答ふるに米穀輸川禁止の事を以

てしたるなり︒

は寅米の納まらざると

東學窯の暴疲を恐れしここ

︑今回の主因なりと云ふ﹄

以上の如<外面は兎も角︑内面の理由

l

.  

. 

‑ 0

5)韓國誌、ーニ九頁以下

̲

.

 

(18)

ゐる

I

﹃以て宿念を漏らしたるこごにて︑

帥ち朝鮮内部の事情によりて防

殻 令

疲せられる傾向があり

強めたのであった︒田口卯吉博士の如きは前回の防穀令に討しても

1 0

五 事大田心想によりその背後にある清國への敵意を

﹃然らば則ち日本政府より戟鮮政府

に鉗する最後の手段は如何にすべき乎︒唯だ干文に訴るの一方あるのみ︑若し然るが如きことあらば支 那政府も必す傍観せざるべし︒然らば則ち

天津

にも

罪を投するある.のみ︒此決心なくして︑

逹せんと欲す︑是れ河水の滑むを特つに均し︑如何に口辮を費やすし︑焉ぞ目的を逹するを得んや︒

本男兒は決して此の如き婦人的の外交策に廿んぜざるべきなり﹄と頗る強硬なる議論を吐いてゐたが︑

今回の防

穀令に酎

しても﹁

朝鮮再び防穀令を痰す

﹂なる論文を﹁

東京経涜雑誌

﹂第

六 九 八

銚︵明治二十

六年十月廿八日︶に戟せ﹃朝鮮國が我が國に野し憔然たるもの多しとし︑

種たの事例を學げ

︑防

穀令

も亦

一場

の 耀論の能く解除

し得ぺきこどにあらざるなり﹄

し︑豊作たるに拘らすか

Aる學に出でし

朝鮮の態度に疑ひを持ち

ゐる︒叉凶款の認定法に闘し規定せざるためこの様になるので

あると論じ︑ が國に於ては︑討日悪感情を表はすものさ見膀であり︑

さ手痛く指摘

これは凶

款以外に源因があるさ見て 強硬なる言葉を以て結んで

﹃蓋し天

下の事禰縫より非なるはなし︒分

裂すべき

ものは︑速に分

裂せしむべきなり︒

の闘係の如きは︑賓に幾度か分裂せんさしたるものなり︒是れ登に久しく涌縫すべけんや︑ 我邦と朝鮮ご

く一

繋し

我寇見を

一概に侮日の虚僧さは云へ

ない

が︑

6)鼎 軒 町 噂 吉 全 集.、第四巻、叫三二頁 7)鼎軒田口卯吉全集、第四巻、四五七頁

(19)

/ 

防 穀 令 事 件 と 日 活 戦 争

て以て多年の翌結を散すべし︒︑ 若

し支那にして之

を應按せん乎︑

宜<又一撃すべぎ也

勢にては辿も手強き訂抗をなすべきにあらす︑而して我邦も亦大に戦ふものにあらす

戦維を行はん乎︒豚来北ハ利の彼我の政浩上計會上及び貿易上に及ぽすこさ極めて大なり︒雷雨は以て大

欺洲諸國今

H

の 氣を清淫にすべし︒東袢今げの因衝姑息病を掃はんさ欲せば︑少くとも二惑半を要す︒

強 大 を 致 す 所 以 の も の 戦 喰 の 利 亦 典 り て 力 あ る な り

防穀令にからんで討鮮・釘滑の脳係は︑重大なる危機に臨んだのである︒

この防穀令に詞し`我が執ゲは厳直に抗議し︑釜山・元山の附浩に於て米の輪出のみを和添止するを認 め︑大島公使は︑仁川の一浩に於ては一切防穀せざることを要求し︑朝鮮叔

1 1辮交渉事務はこのこどを國 王に執奏することを約した︒叉釜山・元山の附浩に輯入する米はその闘税を免除すべ

しと定められた︒

常時我が商人が我が國へ多く輪出せしは大一豆であって︑米は

従たるものであったから︑米のみの防禁さ

なれば︑.餘程緩和されたわけである︒兎も角多少さもに水"千鋏食の事洒が認められたため︑この位の妥

協はせねばならなかったのである︒

その後我が國は隠忍自重︑朝鮮政府の倣慢不遜の所銹あるに韻叉︑

我が商民

然れざも一たび 外交的交渉を続けたが︑遂に明治

二十七年捻暦二月一日

(H

府 一

1一月七日︶より出米繁令を解くべ苓旨を︑瞥辮交渉泊商事務より迎知し来 り︑解禁さなった︒而もか

Aる過秤を通じて︑載平への危機を学んだことは申すまでもなく︑

今日支那國の形

1 0

8)鼎軒田口卯吉全集、第四巻、四五 七 頁、四五八頁

9)明 治 二 十 六 年 雌 二 十 九 日 、 束 京 日日、明治編年史、第四翁、四七七頁

(20)

 

たのであった︒

︑︵ 本稿 は學 術研 究會 議︑ 戦弔 網滸 史研 究の 一粗 材で ある

︒︶ ヽ

. 

•.

\ 

\ 

‑ 0

︐ 

の損害は民論にも反映し

︑ひいては朝鮮事大思想の北日後にある涸國への不満を培ったのであっ

た ︒

︑かくて通商貿易上の問題より

防穀令事件は外交問題さなり

︑やがて

H

清戦竿への原因の一っさ

なっ

¥

I

参照

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