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「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論に よる日本語主語論への一提案

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「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論に よる日本語主語論への一提案

著者 岡, 智之

雑誌名 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I

巻 57

ページ 97‑113

発行年 2006‑01

その他の言語のタイ トル

There is no 'subject', but Place' : A

Proposal to discussion of Japanese Subject by Ontology of Place

URL http://hdl.handle.net/2309/1169

(2)

1.はじめに

日本語に主語という概念は不要であり,主語を廃止 すべきであると唱えた三上章(13,19)の主張が 言われて久しい。最近でも金谷(22,23,24)

が三上の主張を継承し,従来の主語擁護論(柴谷,仁 田など)に対してさまざまな反論を加えており,稿者 も基本的にこれを支持するものである。本稿では,金 谷 が 言 及 し な か っ た 主 語 必 要 論 と し て,主 に 尾 上

(24)の主語論について反論しながら,主語不要論 の擁護をおこなう。この際,これまでの主語必要論の 暗黙の前提になっている「主語(主体)の論理」に対 し,西田幾多郎が提唱した「場所(述語)の論理」(場 所=述語から出発し,その場所において包み込まれる 主体や客体(存在者)について論じる論理)を対置 し,「場所」と「存在物」の相互作用から両者を統合 しようとする「場所的存在論」(城戸23)の立場か ら,日本語主語論への一提案を行っていきたい。

2.金谷(22,23,24)の主語不要論

金谷の三冊の著作,『日本語に主語はいらない』

『日本語文法の謎を解く』『英語にも主語はなかっ た』は,実に痛快な書であった。『いらない』では,

「英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の

「主語」信仰を完璧に論破する,すべての日本語話 者,必読の書」と編集者が表紙に書しているように,

これは,三上章の代表作『象は鼻に長い』に匹敵する

ような問題提起の書である。三上章は「日本語学の 父」として,現代日本語学の確立に大きく貢献したと 言われているにもかかわらず,そのメインの主張であ る「主語廃止論」は,日本語学界,言語学界では,い まだにまともに受けいれられていないのが,現実であ る。いや,学校教育でいまだに旧態依然の「主語論」

がまかり通っている現実こそ問題なのである。金谷の

「主語論3部作」は,従来の主要な主語必要論に反駁 を加え,「日本語に即した,借り物でない文法」を一 般読者にも平易な書き方で明らかにしている。もちろ ん,言語学,日本語学を専門にしている者にも,十分 刺激的な学問的水準も持っていると思われる。ただ,

金谷が,遠くカナダのモントリオールで教えており,

これら3部作が,論文や専門書ではなく,一般書であ ることから,学界関係者からは無視ないしは,まとも に取り上げられていないのが,現状である。稿者も

「日本語に即した,借り物でない文法」を目指す立場 から,金谷の主張を支持し,それを原理的に「場所的 存在論」という立場から,展開しようと考える。この 際,筆者自身が大きな影響を受けた尾上圭介の文法 論,また,認知言語学を批判的に摂取し,乗り越えて いくことを目指していく。

さて,前置きが長くなったが,金谷の「主語不要 論」について,紹介し,検討していきたい。

まず,『いらない』第2章「日本語に主語という概 念はいらない」(57)では,「日本語にも,英仏語と同 じように主語がある。すべての文は主語と述語に分解 することができる。そもそも,主語とは人類のすべて の言語に共通する普遍文法の一要素である。だから日

「主語」はない,「場所」はある

〜場所的存在論による日本語主語論への一提案

留学生センター**

(2 0 0 5年8月3 1日受理)

There is no ‘subject’, but ‘Place’, ~A Proposal to discussion of Japanese ‘Subject’ by Ontology of Place~ / Tomoyuki OKA

** 東京学芸大学(14―81 小金井市貫井北町4―1―1)

(3)

本語の他動詞文の語順はS−O−Vであると言える。S が主語である。ただ,日本語の主語は,省略されるこ とが多い。」という主張を誤りとし,事実は「日本語 には主語の概念は不要である。日本語の構文は朝鮮語 や中国語などと同じく,述語だけで基本文として独立 している。言語類型論(タイポロジー)における語順 比較では,世界中の言語をS(主語)をあたかも普遍 的事実のように扱っているが,実は主語の概念は普遍 的ではないから,抜本的な改正が必要である。」とす る。(傍線部分は誤植と思われる。「世界中の言語でS

(主語)があることを」であろう。

言語類型論的に,主語が普遍的な概念でないこと は,最近では,大堀(22)などが述べていることで ある。たとえば,能格型言語(オーストラリアのジル バル語)は,対格型(英語や日本語)と,文法関係の あり方が異なるし,活格型(アチェ語)では,意味役 割から独立した文法関係を設ける必要はない,つま り,文法関係としての「主語」は不要である言語もあ るという。(大堀は文法関係としての「主語」は普遍 的なものではないから,ある構文において優先的な位 置をもつ名詞句を「軸項」と呼ぶことがふさわしいと している。)角田(11)は,主語の強さは世界の言 語で異なり,英語が主語性が一番強く,タイのリス語 では主語を設定する理由がまったくないらしい。日本 語は主語性という点では世界の言語の中で,真ん中程 度に位置するという。(角田は,主語性の基準に柴谷

(18,15)の統語テストを利用しており,日本語 に主語を設定する理由があるとしているが,その統語 テストの妥当性そのものが疑わしい。)ここで言える のは,英語という言語に特殊に発達した統語的機能で ある「主語」の概念を基準に,それを世界の言語に当 てはめていくという異常さである。これを金谷は「英 語(エゴ)セントリズム」と揶揄している。まず,日 本語の事実の上に立って,文法を見ていくべきであ る。金谷が最初にあげるのが,友達の家に招かれて クッキーを食べたときの発話,「おいしいー!」とい う文である。英語やフランス語ではItCeという主 語がないと文が成り立たないが,日本語ではこれだけ でりっぱな文なのである。「このお菓子は」とか「こ れは」といった「主語」はいらないのである。また,

主語が省略されたと考える必要もない。「暑いね」「1 時だよ」などの文も同様である。

金谷のあげる「主語の条件」は4つだ。

(あ) 基本文に不可欠の要素である。

(い) 語順的には,ほとんどの場合,文頭に現れ る。

(う) 動詞に人称変化(つまり活用)を起こさせ る。

(え) 一定の格(主格)をもって現れる。

英仏語では,これらの条件を満たすから「主語」を 設定する理由がある。しかし,日本語においては,こ のどれもが当てはまらないのである。(あ)日本語の 基本文は主語を含まない。名詞文(赤ん坊だ),形容 詞文(愛らしい),動詞文(泣いた)は,例文だけを 見ると,主語が省略されているように感じるかもしれ ないが,文脈に支えられればこれだけで立派に文とし て成り立つのである。また,「秋刀魚を三枚におろし ます」「電源が入っているか確かめる」「どうして来な か っ た ん で す か」「黒 板 に『明 日 は 休 み』と 書 い て あった」「いい陽気になりましたね」など「主語なし 文」は日常山ほどあるのである。(い)日本語では語 順にそんな制限はない。(う)日本語には人称変化と いう意味での活用はない。(え)「は」や「が」以外が

「主語」のマーカーとされる場合がある。「田中さん にこの問題は解けない」「花子さんの学んだ大学」「豊 島区では,ただいまボランティアを募集しています」

など,英仏語では主格が主語であるが,日本語では

「主語」(=動作主体)と解釈できる名詞句は,ニ,

ノ,デもありえて,一貫していないのである。以上の ように日本語に「主語」の構文的証拠は見出せないの である。

三上章は,主述関係を否定し,題述関係を主張し た。が格の名詞句は単なる「主格補語」に過ぎず,

「は」は主題であって,「主語」ではない。日本語に 主語は無用であり,その基本文は「述語一本立て」で あるとする。この三上の主張に対し,生成文法を信奉 する人々から反論が出た。その代表的な主張が柴谷

(18,15)の「再帰代名詞」と「尊敬表現」であ る。

まず,「日本語の再帰代名詞である『自分』は,意 味的に主語に一致する」というものであるが,

太郎が花子を自分の家で殴った。

太郎が花子が自分の妹より好きなこと

という例文で,自分は「主語」である「太郎」との み一致するというものである。

これに対して,そもそも出自が外来の名詞の「自 分」はその振る舞いが西洋語的な「再帰代名詞」とは まるで性格が違い,同じレベルで比較する正統性がな い,また,「再帰的な語法」という発想そのものが日 本語には希薄で,その存在理由も日本語では不要であ る,とその議論の前提自体を問題にする。さらに,久 野,柴谷の土俵に立ったとしてもその反例が示され

(4)

る。

花子は悲しかった。太郎は自分のことを考えて いなかった。

父は祖母が自分の家に来ていることを,前から 非常に嫌がった。

では,後の文の自分は「太郎」ではなく,「花子」

になり, では,自分は「父」でも「祖母」でもなく,

「語り手」であるという。

日本語に存在するかさえ疑わしい「再帰語法」を持 ち出し,それに相当するかも検証されていない「自 分」という語を再帰代名詞とした上で,単文に絞った わずかの例を挙げてその照合性を主張しているのであ る。よしんばそうした特殊な表現においてのみ「主 語」のコンセプトが必要であるとしても,その事実を 持って,それ以外の大多数の文にも「主語必要論」を 主張してはいけないだろう,と金谷はいう。

次に,尊敬表現である「お〜だ」や「お〜になる」

も「主語」に照合するという問題を挙げる。

山田先生が花子をお叱りになった。

山田先生が花子がお好きなこと

の「お叱りになった」や「お好きなこと」という尊 敬表現は,主語である山田先生にのみ照合するという ものである。

これに対する反論は,尊敬表現の「お〜だ」や「お

〜になる」が意味上の行為者や状態主に一致するの は,考えてみれば当然のことである。柴谷らは「意味 上の行為者や状態主」をいったん仮説として「主語」

と命名し,発話された単文にそれら形の一定しない名 詞句たちを「再発見」しているにすぎない循環論法で あるということだ。また,

この地方は,お米がよく出来る。

山田先生は,英語がよくお出来になる。

最初の文の「出来る」の「主語」が「お米」である ならば,次の文の「お出来になる」の「主語」は明ら かに「英語」であって,「山田先生」ではない。「山田 先生」を「主語」と見るには「意味的に解釈した上で,

学校文法的(意味上の行為者や状態主)という」主語 を再発見しなくてはならないのだ。としている。

稿者もこの議論を支持する。また金谷が挙げていな い反論をすれば,「尊敬表現」の統語テストはそもそ も「主語」に尊敬すべき対象である人が来なければ成 立しないものであり,無生物には適用できない。

*この計算機は,ルート計算がお出来になる。

また,他の統語テストとして,等位構文においてφ

(ゼロ)となったり,φの先行詞として働く,という ものを挙げている(柴谷15)

太郎がやって来て,φあいさつした。

これに関しては,角田(11)が反例を挙げてい る。

与作がこの木を切って,φ倒れた。

この木は与作が切って,φ倒れた。

最初の文では,倒れたのは与作と解釈されるが,次 の文では,倒れたのは木である。とすると,省略され たのは「主語」ではなく「目的語」となってしまう。

このテストでは,「主語」という統語的機能よりも,

「ハ」という情報構造が優先されることになる。

また,同じく角田(11)があげる「主語」は数量子 遊離が適用できる,というテストに関しては,

五人の学生が昨日図書館で本を読んだ。

学生が昨日五人図書館で本を読んだ。

私は昨夜三軒の飲み屋に行った。

私は昨夜飲み屋に三軒行った。

のように,数量子遊離はガ格にもニ格にも適用でき るので,「主語」認定の根拠にならない。(これを主語 とするならばニ格も主語になることになるが,これは 認められないだろう。

結局,このような統語的テストをいくら出してきて も,それが一部の文にだけ適用できるだけでは,「主 語」という統語的機能を日本語に立てる根拠はあまり ないように思われる。

柴谷(18)は三上章の主語論を批判して次のよう に言う。

「三上の主語廃止論の弱点は主格と主語を余りにも 強く結びつけて考えたところにあって,その論法は主 格と主語とはあくまで相対的な関係にあるとする我々 のような理論に対しては効力がないということにな る」とし,その根拠として,主格(ガ格)以外に与格

(ニ格)にも,尊敬語化現象や再帰代名詞現象が適用 されるので,格範疇以外に文法関係としての「主語」

という範疇を認める以外にないということを言う。

先生に英語がお分かりになる(こと)

先生にお金がたくさんおありになる(こと)

この与格構文においては,先生が尊敬語に照合する から「先生に」が主語で,「英語が」「お金が」は主語 ではない,ということになる。これに対する反論とし ては,丹羽(14)が述べているように,「先生に」

と「英語が」には,それぞれ意味範疇として,<場所

―主体>と<主体―対象>の二つの組み合わせを考 え,格標示は前者に従い,尊敬語の尊敬先は後者に 従っていると考えればいいのであって,「尊敬語現象 のような限られた範囲にしか生じない現象を説明する には,それに見合った限定的な説明のほうがふさわし

(5)

く,範疇を一つ増やすという文法現象の記述装置一般 に関わる説明を持ち出すまでもない」という意見を支 持する。再帰代名詞などの統語テストも同じように限 定された範囲でしか生じない現象であり,意味範疇や 情報構造の観点からの説明が可能であり,「主語」と いう統語範疇をふやす必要はないと考える。

結局,統語範疇としての「主語」を設定する根拠は 薄弱であり,文法的機能としての「主語」という概念 は不要ということになる。

3.尾上(24)の主語必要論

今までの主語必要論は,統語的テストを通して,日 本語の主語性を認定するというタイプであったが,尾 上の場合は,山田文法を継承する伝統的な国語学の立 場からの主語論である。主語と述語との統一から文が 成り立つという伝統的な見解に立っているわけである が,多分に哲学的な原理論がその背景にある点,その 原理的背景を批判しなければ,その主語必要論は批判 できないと思われる。

3.1 主語論の前提となる事実

尾上は先ず主語論の前提となる五つの事実を挙げ る。

[事実1] (他のモノなり事態なりへの配慮がなけ れば)主語は「Xガ」あるいは「Xハ」と いう形で表示されるのが普通である。

あとの4つの事実もそうだが,尾上の論法は,先に

「主語」なるものを認めて,それを既成事実とする論 法であり,「主語が不要である」とか,「主語がない」

とする論をあらかじめ排除してしまっている。「猫が 遊んでいる」や「地球は丸い」の「猫が」や「地球は」

を主語とするのは,小学校の国語教科書にも書かれて いるような定義であるが,それが普通であるからと いって事実としてしまうのはいかがなものか。普通の 一般人の了解という意味でいうなら「主語」に括弧く らいはつけて欲しいものだ。

[事実2] 形容詞文,存在詞文,大多数の自動詞文 の格項目としては主語だけがあり,他動詞 文と少数の自動詞文の格項目としては主語 以外の項もある。ただその場合でも主語項 は他の格項目(ヲ格項,ニ格項)に対して 優位に立つ。

「格項目としては主語だけがあり」というのも,正 確に言えば,「格項目としてはガ格項だけがあり」と するべきであって,「ガ格に立つ項が主語である」と

いう自らの規定を先に前提としてそれを事実としてい る点がおかしい。また,「暑いね」「もう10時だ」「夏 になった」のようにガ格項が現れない文があることを 尾上は認めないのだろうか。とすれば,尾上は日本語 の事実を見ていないことになる。また,「この町には 温泉がある」という存在文の項は,存在場所を表す状 況語であって,格項目の外に数えるべきである,とす る。一般には,これをニ格=場所格とするのが普通で あり,尾上のような立場もありえるだろうが,それを 事実としてしまってはまずいと思う。他動詞文と少数 の自動詞文はガ格項以外の格項目があるのは事実とし て,ガ格項が他の格項目より優位に立つかは,検討の 余地があり,あらかじめ既成事実とはできない。「先 生には英語がお出来になる」では,ニ格項とガ格項が どちらに優位があるかは一概にはいえない。(柴谷は ニ格項に優位があるとして主語としたが)また,「豊 島区では,ただいまボランティアを募集しています」

の文では,ガ格項はなく,デ格項が文頭にたっている ことからしてもヲ格項よりも優位にあるということも できる。

[事実3] 主語は,述語に対する意味関係(広義の 意味役割)の観点から見れば,きわめて多 様であって,意味の観点で主語を規定する ことは不可能である。

この点に関しては,尾上は正しくこれを事実として 認定できる(主語=ガ格項と仮に認めたとして)。一 般にガ格は主格とされるが,その主格という意味は,

「主体」とりわけ「動作主体」という意味役割を典型 的なものとして考えるところからくるものであろう。

「鳥が飛んでいる」の「鳥」は「動作主体」である。

一方,「机がある」や「水がほしい」などは,それぞ れ「存在物」や「欲求の対象」であり,明らかに「動 作主体」とは意味的に異質であり,これらの意味役割 の共通性を表面的な意味のレベルで求めることは不可 能である,ということは認められる。ガ格を「主格」

と呼ぶ用語法自身が,すでに「主体」という意味役割 を含んでおり,その用語法自身が問題になってくるの である。(ガ格を「第一格」あるいは「名格」と他の 呼び名で呼ぶか,ガ格という名前のままにしておくか の二案が考えられるが,本稿では,ガ格のままにして おくことにする。

[事実4] 一文の中に二つの主語を持つといえる文

(二重主語文)がある。

これは「〜ハ〜ガ」構文あるいは「〜ガ〜ガ」構文 のことであるが,これを最初から二つの主語があると して事実としてしまってはいけないと思う。確かに二

(6)

重主格というのは,日本語の文としてはあまり落ち着 かない感じがするが,事実としてはありえるだろう。

しかし,これをあらかじめ「主語」としてしまうのは いただけない。この「二重主語構文」については,後 で論じていきたいと思う。

[事実5] 平叙文,疑問文には主語はあるが,命令 文には(原則として)主語は現れない。

こ れ も,「主 語」=ガ 格 項=主 体 と 仮 に 認 め た 上 で,事実として認定できる。命令文に主語が現れない のは,英語の場合でもそうであって,これは言語普遍 的な事実として認めてもいいだろう。「お前はここに いろ」とか「お前が(自分で)やれ」という風に「X ハ」や「Xガ」が現れるのは,特に命令相手を指定し たり,行為者を強調したりする場合であって,普通の 場合のことではないのであって,これを命令文の主語 とはいえない,と尾上は言う。とすれば,同じ論理で

「故郷が懐かしい」という情意文では,普通情意の主 体は一人称者(「私」)で,それが言語上現れないこと が普通であるから,(現れる場合は特に情意の主体を 強調する場合であるから)情意文も「主語」が現れな いということを認めてもいいのではないだろうか。

このように,尾上は「主語」を既成事実として前提 としながら,内容的にも3つの事実は,事実として認 定するのは難しい項目であった。さて,次に尾上の主 語の規定に入る。

3.2 主語の規定

まず,尾上はライオンズがいう主語の三つの側面と して,論理的主語,主題的主語(心理的主語),文法 的主語をあげる。「論理的主語」は,本来,判断の主 辞をさすものであろうが,英語では動作主としてイ メージされているものである。しかし,日本語の「主 語」が意味役割では規定できない以上,論理的主語の 観点からは主語を規定することはできないとする。ま た,「主題的主語」は,表現・伝達の心理的中心項と いうことであって,主題とか題目とか呼ばれるもので ある。日本語ではヲ格項やニ格項も「Xハ」という題 目語の形をとることがあるから,題目語と「主語」は 別に規定されなければならないから,主題的主語の観 点からも,主語は規定できな い と す る。「文 法 的 主 語」は,統語的主語と形態上の主格語という二つの観 点がある。統語的主語とは,ある名詞項が必ず語順上 の特別の位置(例えば文頭)にあるとか,動詞を支配 するというような,統語上の観点における文中の特別 な成分として認定されるものであり,日本語では名詞 項の文中での語順は基本的に自由であり,また動詞支

配と見られるような現象もない(尾上は柴谷らの「述 語の尊敬語化」や数量詞遊離などは,主語の動詞支配 というような統語的規定の根拠にならないと明確に批 判しており,この点は金谷と意見を同じくする)こと から,統語上の概念として主語を規定することはでき ないとする。以上に関しては,稿者もすべて支持しう る意見である。しかし,その結論として,結局,残る のは,形態上の観点のみであるとし,「ガ格に立つ項 が主語である」としてしまったことは,大きな問題性 を持っているといえるだろう。尾上の論では,「太郎 には子供が二人いる」の「太郎に」はニ格であるの で,「主語」にはならない(柴谷は,「主語性」をもつ と言うが)が,これが「太郎は子供が二人いる」のよ うに,「太郎が」というガ格項として解釈されると「太 郎は」は主語になるのだろうか。「太郎に」であろう が,「太郎は(が)」であろうが,「いる」と呼応する のは「子供」であって,「太郎」ではない(「太郎がい る」のではなく,「子供がいる」のである)から,「太 郎は」は主語でないことになるのではないか。この問 題は,また「二重主語構文」への批判として後で述べ ていきたい。

3.3 主語の内実

次に,尾上は,主語の内実を語る。これは厳密に言 えば,ガ格項の規定である。「月は(が)まるい」と 言う時,「月」について「まるい」ということを語る。

「猫がねずみを追いかけている」という時,登場人物 は複数あってもそのうちの「猫」を状況描写の中核項 目として,「猫」の運動として語る。「モノを中心とし て,基盤としてこそ,事態は認識される。そのような 事態認識の中核項目ないし基盤が主語なのであり,事 態を語る言語形式としての文に(意味として)主語と いうものが必 ず あ る と い う 理 由 も こ こ に 求 め ら れ る。」とする。一見,当然と考えられるような主張で あるが,これこそ,批判されるべきモノ(実体)中心 的世界観である。尾上と同じモノ的世界観に立つ竹林

(24)はこういう。「述部で語られる事態が認識さ れるためには,原理的に,それらの主体が先に認識さ れている必要がある。「犬が走っている」という事態 は,「犬」をめぐって,その存在の在り方として「走っ てる」という動作が認識されるのであり,その反対で はない。」しかし,逆の見方もあるのである。何かが 走っているという事態の認識が先にあって,それから その何かが析出するという事態認識がありえるし,む しろその方が根源的ではないだろうか。たとえば,

「雨が降る」「湯が沸く」のように,降雨という事態

(7)

以前に「雨」という実体は存在しないし,「沸く」と いう事態以前に「湯」という実体も存在しないのであ る,そのような文もあるのである。また,幼児の事 態認識は,漠然とした事態が先に認識され,そこから 普通名詞で呼べるようなモノの認識があとでおこなわ れる,という報告が見られる。モノ的世界観に対し,

これはコト的世界観と呼ばれる。哲学者の広松渉が 唱えたものであり,ソシュールの言語観もそのような ものであったという。モノ的世界観からは,主語=モ ノが,述語=コトに優位に立たざるを得ない。後で述 べるが,主語論理から脱却するためには,コト的世界 観に立つ以外ないであろう。尾上は,主語の内実を次 のようにまとめる。

「一文の内容を認識の側面で言えば,事態認識の中 核項目,認識の対象が主語であり,その対象について 認識する内容が述語である。存在の側面で言えば,状 況の中に中核として存在するものが主語であり,その 在り方(運動も含めて)が述語である。」要約すれば,

主語の内実は,認識の側面で言えば「認識の対象」で あり,存在の側で言えば「状況の中に中核として存在 するもの」ということになる。

例を挙げれば,「鯨 は 哺 乳 動 物 で あ る」と い う 文 は,「鯨」は「哺乳動物として存在する」という主語 の存在の仕方を語る文である,とする。これこそ,主 語を中心に主語の属性として物事を語る「主語論理」

にほかならない。次項で述べるがこれに対する「述語 論理」(述語が主語を包含する)という見方がありう るのである。

3.4 主語項の絶対性

結論として,「本質的な意味で述語文といえる文,

すなわち平叙文と疑問文においては,意味として主語

(主格語,ガ格語)を持たない文はない。」とし,「在 り方を承認する文において,その在り方をもって存在 するもの,認識の対象がないということはありえな い。」と,主語項の絶対性をいう。これは,尾上の主 語論を継承したと考えられる竹林(24))もまった く同じである。すなわち,「主部とは,文あるいは節 においてそれについて或る事柄の実現性の在り方が語 られる対象である。日本語の文は全てこの主部を有す る。」という。「主語」を「主部」と言い換えようが,

「意味的に」という注釈をつけようが言っていること は尾上と同じである。

しかし,「すべての文に主語がある」というのは,

事実と反する。主語(ガ格語=認識の対象)がない文 がありえる。それは,尾上がいう「寒い」「曇ってい

る」「涼しい」「明るい」などを述語とする文(気候・

天候・体感温度・明るさの文),いわゆる無人称文で ある。尾上はこのような文について,「そのような在 り方で存在するモノが指摘しにくい場合もあるが,そ のような場合には事態発生の場を事態認識の基盤とし て主語に立てることになり,やはり主語を持つことに なる」としている。

しかし,事実として「寒い」はそれ自体で文であ り,主語はない。状況全体を体感してそれを表出する 文であり,認知主体は状況(場)の中にあり,しかも 言語化されない。「私は寒い」とは普通言わない。

「札幌は寒い」では,「札幌」という場所の属性を述 べた文になるだろうが,ここで問題にしているのは,

今,ここの現場で発話者が体感して発する文である 尾上は「ここは寒い」の「ここは」が主語であるとす るのであるが,これは状況語(=場所)であり,主語 ではない。寒い戸外に出たときに発する言葉として

「ここが寒い」は明らかにおかしい。「ここが寒い」

などとガ格が現れる発話は特殊な文脈を考えなければ 出てこないものであり,これを「主語」(ガ格項)と はできないだろう。また,「今日は寒いね」という発 話は日常よく出てくるが,この「今日は」(広義の場 所(状況)としての時間)が「主語」になるのであろ うか。「今日が寒い」のようにガ格が出てくる表現は 特殊である。英語の場合は場が主語になりうるとして も,日本語で場主語がありえるのか,は疑問である。

いつの間にか,存在するモノが主語であるという定義 が,場にも拡張されているが,主体(話し手)を取り 巻く環境としての場所は,主語にはなりえない,と稿 者は考える。

もう12時です。

しずかですね。

やっと春になりましたね。

のような文も同様であり,「今はもう12時です。

「この辺りは静かですね。「この辺りはやっと春にな りましたね」の「今は」「この辺りは」は状況語(場 所)であって,主語(存在物)ではない。ガ格が現れ ても特殊な文脈でしかいわないのであって,「?今が もう12時です」「?この辺りが静かですね。「?この 辺りがやっと春になりましたね」「??今日がいい天 気ですね」のような文は稿者には非文に思われる。

図1では,今,ここの「現場」に,認知主体がおり,

「寒い」と発話していることを表している。「寒い」

のは,場所全体が寒いのであり,その「寒い」ことを 認知主体が体感しているのであって,場所の属性を述 べた文ではない。ここでは,「どこが寒い」といった

(8)

 

寒い 

 

現場  

認知主体 

中核的対象が見られないのである。このように,認 知の中核的対象がなく,認知主体がいる漠然とした状 況全体を感じる文は主語がないといわなければならな い。この文は,(現)場」が文になったものといえる だろう。次のような文も同様である。

今日はなんとなく気だるい。

最近,退屈だ。

(雨が降って)憂鬱だ。

無人称文の他に主語のない文としては

「警察では犯人 を 捜 し て い る。」や「私 か ら や り ま す。」などがあるが,尾上の定義では「上の傍線はガ 格項ではないので主語がないことになる。」しかし,

これを無理に「警察が」や「私が」というガ格にして 動作主として解釈する必要はないのであって,デ格や カラ格は明らかに場所をあらわしているのであり,こ の文では動作主体はないのである。

3.5 川端善明の主語論

尾上の主語論は,原理的に川端善明の主語論に依拠 しているといわれる。それで,ここで川端の主語論に ついて一言言及しておきたい。

「文は判断に対応する。…判断に直接対応し,内部 的に二項の対立構造を先ず持つ文の,その二項が,私 の意味における主語と述語である。主語と述語のダイ ナミクスにおいてその文は語り,<私>は語る。」川 端(24:62)

「知られるべき対象」対「知る働き,知る内容」と いう判断の二項的な構造に対応する第一の項が主語 で,第二の項が述語である,という川端の主語―述語 論は,依然,主観と客観の対立を前提とする認識論に 立っており,存在論としては,存在者(モノ)を基盤 とする存在論に立っていると考えられる。また,川 端の「主語」は第一義的に形容詞文の概念であるとす る。確かにこうした定義は判断を表している「海は青 い」のような属性形容詞文や「鯨は哺乳類である」の ような名詞述語文には適用可能のように思われる。

(ただし,「空が青い」というガの文に関してはこれ

が判断を表している文であるか疑問である。)しか し,先ほど述べた「寒い」や「12時だ」のような「主 語」なし文には適用できないように思われる。また,

「旅がさみしい」「別れがかなしい」といった情意形 容詞文は,「知られるべき対象」対「知る働き,知る 内容」という判断の二項的な構造に対応しているの か,検討が必要であろう。(情意形容詞文の主体「私」

が主語になりうるかもまた検討が必要だ。

一方,川端の定義では,動詞述語文の,主語は主格 ではなく,述語に対して内的限定格(主格,対格,与 格)を表すから,主格は主語ということではなく,結 果的に三上の主張した「補語」に格下げされている。

結局,「主語―述語」が一部の形容詞文にしか,適用 できないとすれば,「主語」というものを設定する根 拠自身が薄れてくるのではないか。川端の主語論自身 も問題性のあるものだが,尾上は,川端の主語論に依 拠していると言いながら,あえて,動詞文の主格も主 語であるとして,「主語」項の絶対性を言っている。

全体として,尾上は主語を前提とする主語論理に 立っているため,主語になりえない場をも主語と解釈 する誤りを犯しているのではないか。尾上の主語論に 対する反論は,「二重主語文」の問題などまだまだあ るのであるが,いったん打ち切って,先ほどから述べ ている「主語の論理」に対する「述語(場所)の論理」

とは,いったいどんなものなのか,そして,本稿が依 拠する「場所的存在論」について詳しく明らかにして いきたいと思う。

4.述語(場所)の論理と場所的存在論

場所の論理を初めて明らかにしたのは,哲学者の 西田幾多郎(17)である。中村(19)は,西田の 場所の論理を再評価し,場所の論理が期せずして日本 語の論理を明らかにしたとして,時枝誠記の場面論 や,三上章の主語不要論を評価した。城戸(23)は,

これらの成果を総合し,「主語の論理」と「場所の論 理」を統合する弁証法論理,主観的観念論(主観が客 観を構成する)と客観的唯物論(客観が主観に反映す る)を統合する「主客構成関係論」,存在者と場所を 相補的なものとしてこれを統合する「場所的存在論」

を提唱し,これらの論理学,認識論,存在論をまとめ て,「場所の哲学」とする。本稿では,このなかで,

存在論を重視する立場から「場所的存在論」を中心 に,日本語文法論の基盤として,取り入れていく。

まず,「主語の論理」と「述語(場所)の論理」に ついて城戸(23:33−34)は次のように言う。「主 図1 無人称文

(9)

語論理」とは,個々の主体または客体(存在者)から 出発し,そうした主体または客体がおかれている所在

=場所=述語をその主語に属する性質として論じる論 理である。たとえば,「太陽は輝く」という文では,

太陽という主語が輝くという性質を有すると考える。

太陽という主語がまずあって,この主語に包摂される ものとして輝くという性質を述定するのである。これ は,先に述べた尾上の主語論の前提になっている論理 である。これに対し,「述語論理」は,所在=場所=

述語から出発し,その場所において包み込まれる主体 や客体(存在者)について論じる論理である。例え ば,「輝く」という所在=場所から出発し,輝くもの が包摂するものを同一のものとして論じるのである。

主語論理からすれば,女性と太陽は,主語,主体とし ては明らかに異なるものである。しかし,輝くという 述語的同一性のもとで見るならば,女性も太陽も輝く も の で あ り,「太 陽 は 輝 く」「女 性 は(男 性 に と っ て)輝く」故に,「女性は太陽である」という結論を 導く。述語論理は,言語以前のイメージ的同一性を 重視する論理である。また,述語論理は主語論理より も基底的,根底的な論理であり,意識を形成するのが 主に主語論理であるとすれば,無意識を形成している のは主に述語論理なのである。

西田の場所の論理について は 期 せ ず し て,金 谷

(24)においても言及がある。アリストテレスは基 体(個物)を「主語になるが述語にはならないもの」

と考え,「ソクラテスは人間である」という文では,

主 体 で あ る「ソ ク ラ テ ス」(特 殊)は 意 識 の 基 点 で あって全体を統括し,一般的なもの(人間)を内属さ せるとする。これが「主語の論理」であり,これに対 して「主体」(主語)は「場所」(述語)に包摂されて 存在するのだと西田は「場所の論理」を主張した。西 田は日本人としての立場から西洋哲学の「主語の論 理」を批判し,三上はその主語を日本語文法において

「廃止」しようと主張したのである。本稿も,「場所 の論理」を積極的に評価し,「場所的存在論」の立場 から,日本語文法において,最終的に「主語」を追放 しようとするものである。

では,「場所的存在論」とは何か。一般に,存在と いうとまず,存在するものを考えるのが普通である。

これを存在者=存在の存在論と呼ぶとすれば,存在を 成り立たせる場所を基盤として考える存在論は場所=

存在の存在論である。城戸(23)は「この場所=存 在の立場から存在者=存在を考え,存在者=存在の立 場から場所=存在を考える存在論は,広い意味で開示 されるその場所の立場から基礎付けられる存在論であ

るから,これを「場所的存在論」と呼ぶことにする。

(51)と規定する。「個物は常に場所において存在す る。第一の意味での場所=存在は,存在者を存在させ るものとして開示された場所であり,この場所を存在 者として了解することはできない。それは絶対に主語 とならないものと規定することができる。主語となら ないからそれは個物ではなく,場所なのである。主語 となるものは存在するもの=存在者=個物である。存 在するもの=存在者は場所においてある。個物が個物 として存在するためには,常に場所においてという限 定がある。(もう一つの場所は,存在者が存在する時 間的,空間的に限定された場所,つまり場所=時空で ある。・・・場所は個物にはなれず,個物は場所には ならないのである。存在というためには個物がなけれ ばならない。個物があって初めて存在ということが生 じる。しかし,個物は常に場所においてあり,場所に 規定されて存在するのであり,個物と場所とは存在を 規定する二つの欠くことのできないモメントなのであ る。すなわち,存在とは,個物と場所との相補的な相 互作用であると表現することができる。(79)

城戸は,こうした場所の論理,場所的存在論が日本 文化に通底していることをさまざまな例を挙げて論 じ,その中で「日本語」と場所の論理について,次の ように言う。

「日本人にとっては,主体は二の次であり,場所の 規則がどうなっているかが重要なのである。「ここで は」どうなのかが関心事なのである。そのとき,「誰 が」ということはどうでもよい。日本語はそうした日 本人の意識に即して形成されているから,主語のない 文章が十分に成立するのである。日本語は主語から出 発してはいない。そんな個物には関心はない。重要な のはこの場所でどうなっているかという述語の側面な のである。(略)日本語は文法上主語は必要ない,そ れが非論理的だというのは,アリストテレス以来の形 式論理学的思考に基づく偏見であると三上章『象は鼻 が長い』は述べている。この指摘は正しく,日本語の 構造は場所の論理の構造を持っており,主語論理とし ては本来,分かりにくいものなのである。(19)

認知言語学者の池上嘉彦(20)においても,<環 境論的自己>から<場所>としての自己という概念を 提起している。「<環境論的自己>という概念を成り 立たせている視点も,<主体>と<客体>の対立を超 越する契機を与えてくれる。何よりも先ず,自己は環 境の中に埋め込まれた存在として捉えられる。環境の 中で自らが動く時,環境において起こっていると認識 される変化は,他ならぬ我が身に起こっている変化の

(10)

指標である。「眼前の壁が自分のほうへ向かってく る」という言語表現)…<環境>という概念自体がそ こに埋め込まれている自己への関与ということを含意 している限り,環境で起こっていることは,とりも直 さず,自己において起こっていることでもある。一歩 進めば,出来事は環境においてではなく,自己におい て起こっているのであるということも出来よう。…出 来事が出来するのは環境という場所ではなくて,自己 という場所においてではないかということである。こ のような捉え方は,自己と環境とを対立したものとし て措定し,自己が環境に対して働きかけ,自らの意に 叶うように変えていくという図式とは鮮明に対立す る。後者では自己は何かを<する>主体である。前者 では,自己は何かが出来する−つまり,そこで何かが

<なる>−場所である。」言語的には,後者は,英語 のような<する>型言語であり,前者は日本語のよう な<なる>型言語,それも「場所においてコトがな る」という表現を好む日本語において表れているので ある。それはまた,<主語優越型言語>と<話題優越 型言語>という言語類型としても表れる。

東京は人が多い。

象は鼻が長い。

という文においては,東京という<場所>において は,<人が多い>という<コト>が成り立つというこ とである。一方,後者の文も,比喩的に象という領域 において,<鼻が長い>という<コト>が成り立つと 解釈できる。つまり,この場合の象は<場所>の概念 の比喩的拡張であると捉えることができる。すなわ ち,<話題>とは,<コト>が成り立つ<場(所)>

なのである。このような観点からすれば,尾上が上の 文を「二重主語構文」などとしたのは,日本語の論理 からすれば,合わないものであり,<東京>という場 所をもモノ化してとらえる「主語の論理」からの強引 な解釈であろうと思われる。

さて,このように,日本語は「場所(述語)の論理」

に貫かれており,そこから日本語の構造を見ていくこ とがきわめて,日本語の論理にあった自然な見方であ ることを見た。次に,国語学や日本語学の中で,「場 所の論理」と通底するものとして提起された場面論に ついて見てみる。

5.国語学における「場」の理論

西田の場所の論理は直接日本語の問題について言及 したものではないが,一方で国語学の中では,時枝

(11)や 佐 久 間(19),三 尾(18:23)の 場

面論という形で場所の論理と軌を一にした指摘がなさ れている。さらに最近の日本語学の中でも,「場交渉 論」として,「場」の考え方を日本語研究に応用して いくメイナード(20)の取り組みがある。

日本語研究に「場」の理論を初めて導入したのは佐 久間鼎だとされる。佐久間(19)では,「発言の場・

話題の場・課題の場」を提起している。「発言の場」

とは,表出や呼びかけが行われる場であり,発言者が 話手としてひとつの極を形づくり,これに対してもう ひとつの極に話し手がいて,この両極が焦点的な位置 を占める場である。次に「話題の場」は,情景が視聴 の知覚面の前面に立ちはだかる場合で,共同の場を構 成するために,その情景を言語化して話題とするとき に成り立つ場である。そして,「課題の場」とは,題 目を解答請求のために提出し,それによって緊張状態 を起こし,それが解決を要請することにつながる場の ことである。日本語においては,課題の場を設定し,

その範囲を確立し,言明の通用(妥当)する限界を明 示する働き,すなわち題目の提起を行うのが提題助詞

「は」の働きというわけである。佐久間は日本語の

「ハ」が「課題の場」を設定するという提起をしたと いう点で独創的な点があるが,その三種の場は,別々 の場として捉えられていて,それらがどのような関係 にあるのかはっきりしないのが難点である。特に,

「発言の場」と「話題の場」の違いがはっきりしない のである。むしろ佐久間が以前に述べた「現場」と「話 の場」という概念のほうが分かりやすく思われる。

一方で,三尾砂(18=23)は,「話の場」とい う概念を提起し,場と文の相関原理から文類型を提起 している。

「話手の「つもり」の発生から言の実現までを言語 行動というならば,次のように話の場を定義すること が出来よう。

あるしゅんかんにおいて,言語行動になんらかの影 響をあたえる条件の総体を,そのしゅんかんの話の場 と い う。(23)「話 の 場 も,話 手 と い う 主 体 が 中 心 で,場は話手の作用を受ける被動の場であると,かん たんには考えられがちである。しかし,話における場 はあべこべであって,話手は場から働きかけられるも のである。場が能動で,話手は被動なのである。場が 話手に影響をあたえる,すなわち場が話手を規定する のである。話手は場「において」話しているだけでな く,場「によって」規定されているのである。ゆえに 話の場というのは,話手を被動主体として,その主体

「に」影響をあたえる限りの勢力けんをいうのであ る。いいかえると,話手に影響をあたえる限りの力の

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