九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
醒世姻綠傳の話
松枝, 茂夫
https://doi.org/10.15017/2556562
出版情報:文學研究. 32, pp.73-112, 1942-12-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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1 ・叩齋志異といふ本を私は前から好かぬ︒勿論叫亘一千何筋の話を全部該んだ上でさういふのではない︒虫がすかい
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といふのであらうか︑三編と綾けて談む氣がしないのであった︒いやらしい︒何かしらんが︑べとノ︑したやうな感
1じが先きに立って︑た営もういやらしい︒私は必ずしも﹁五通﹂といった思ってもいやらしい脚を取扱った禰々につ
いて云ってゐるのではない︒全体から受ける感じがさうだといふのだ︒このあひだもⅡ加田さんにそのことを話した
ら︑目加田さんはあまり養成できない風であった︒﹁瞳人語﹂といふのは戒みましたか︒ある男がどうやらし王岡目に
なった︒ところが或日ふと氣がつくと︑左右の雁の中にそれ人〜何物かがゐて︑刑方しきりに話し合ってをり︑﹁どう
もかうまっくらではやりきれないなあ︲どうだい一つ外へ遊びに行つ一﹂みようぢやないか﹂などと雪ってそのうち
●に鼻の中がむづ1入したかと恩ふと.何やら雨方の鼻の孔を抜けて出て行ったけはいである︒大分たってから蹄って
來てそれ人1同じ道を通って元の雁の中に納まり.﹁久しく花幽を兄に行かぬうちに蘭がすっかり枯れてしまってゐ
た﹂などと話してゐる︒この男はかねて蘭をこよなく愛してゐたのだが︑失明してからは心にもなく打棄てLゐたの
醜世如維仰の話七三g一七七七︶
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醒世姻縁傳の話
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であった︒そこでさっそく妻にさういって確かめさせると︑果して枯れ.てゐたので︑不思議なこともあるものよと思
った︒やがて妻は夫の鼻の孔から出入りしてゐるものの正体が豆粒ほどの大きさもない小人であることを發見した︒
りそれから更に二三日たって︑男はまた小人たちの問答をきいた︒﹁燧道がひどく速廻りなものだから不便でいけない︑
門をあけようぢやないか﹂やがて右の雁の中から︑﹁こちらの壁は堅くて駄目だ﹂といふと︑左の方で︑﹁ぢやこちら
をやってみよう︑︽どうせ一緒に暮すことにすればい上わけだ﹂といふやうなことをいって︑左の雁の内側駐引掻くや
うな感じがしたかと思ふうち︑左の目がバツとひらいて物が俄かにはっきり見えるやうになった︒そしてそれはいは
ゆる菰瞳で︑さてこそふたりの瞳人が一つ雁の中に同居してゐるのだとわかった︒それ以後この男は︑叶目は依然つぶ
れてゐたけれども︑滿足に二つの目をもった人糞よりもすっとよく物を兇ることが川来るやうになったといふ話であ
る︒どうですとの話は︒北原白秋の洗心雑話だったかに引いてありますよ︒さうノ︑そ躯から叉こんな話もある︒紹
介者は佐藤春夫だったかしらん︒題も忘れましたが︑何をいはれてもケロJ1笑ってゐる女の話がありましたね︒あ
れなんかほんとうに氣持のよい︑うれしくなるやうな話であった︒白秋とか非夫といった人はさすがによい目を持っ
てゐますぬ︒ごみだめからでも眞珠を捜し川す︑えちいものです︒・さう事を分けていはれてみると︑私は︑例によっ
て︑一言もない︒うむといったきり︑頭でも掻くより外に手は出ないのである︒あわてて︑蹄ってから珈齋を引き出
して︑そのケロノ︑笑ってばかりゐるといふ美しい女妖の話を捜してみた︒すぐにみつかった︒﹁嬰寧﹂のことである
に相違ない︒誼んでみると成程おもしろい︒そしてどうも昔一度よんだらしい記憶さへかすかに甦って來て︑今更な
がら舌打ちされるのであった︒これなどは恐らく珈齋中でも屈指の名捕ではあるまいか︒ついでに佐藤さんの﹁玉替
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花﹂をとり出してバラj︑誠みかへしてみる.﹁維衣の少女﹂﹁懇するものの道﹂﹁碧色の菊﹂﹁流諦の肺﹂いづれもみ
な卿齋のものである︒そして︑雀だ残念ながら︑みなよい︒柳齋に︲かういふ詩趣豊かなものもあったのかと一寸見返
る氣持にならざるを得ない︒これはどうだノ︑と叩齋の中から一筋為変を取り出して黄めつけられると︑いくら不遜
の私でも成程御尤もJ1とたごもう頭を掻いて引退る外はないのである︒だが︑・それでも依然として︑私の頭のどこ
かに︑なほ承服しえない︑何か割りきれないものがあるのを私はどうすることも川来ない︒珈齋には変に詩趣に富ん
だ面白いのが少くない︒だが︑それはそれとして明かに認めるにしても︑珈齋を全体として涜うてゐる側かいやらし
い感じ︑それを私はどうすることも出来ないのだ︒
〆一なぜだらう︒姑らく妄りに之を雑く心の餘裕が私に峡けてゐるのだらうか︒さうではあるまい︒さうは恩ひたくな
︑い︒豆棚瓜架下の.百物語に初手から怖毛をふるって寄りつか砲仲間の一人でもないつもりだ︒事斑︑珈齋には夜半便
所に起きるのをためらはせるやうな恐ろしい話はいくらもない︒九とへぱ﹁挑皮﹂といったやうなものは︑考へれば
老へるほど恐ろしい話で︑ある男が自分の錘してゐる女の部屋をそっと覗いてみたら︑鋸のやうな歯をむき出した青
面の厩鬼が︐人間の皮を椅子の上にひろげ︑彩筆でもってそれに目鼻をかいてゐて︑それを頭からかぶると忽ちきれ
いな女になったといふのであるが︑こんな恐ろしい話は柳齋ではむしろ例外に脇しよう︒これだって日本の怪談を恩
へぱ笈は何でもないのだ︒珈齋に出て來る狐狸のお化は十中の九までがひどく人間味を帯びてゐて︑愛化にはつぎも
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のであるぺき妖氣を全然もたず︑毫もその異物たるを憂えしめない︒しかも婚しいのは彼等が大抵濃かな愛怖の持主・であることだ︒例の酒好きの狐のお化なんか︑私だって︑車生ならすとも.︑これと管蚫の交りを結ぶのに時路するこ
醒世如縁仰の話七五︵三七七九︶
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▲ り丈畢研究第三十二稗七六︵三七八○︶
とはあるまいと思ふし︑いはんや色っぽい女に化けて出て來られた日には︑相手を異物と万変承知でゐながらついで
れノ︑と深みにはまってしまふ多くの男雄のだらしなさを︑私はむげに非難することはできない氣がする︒靭術の狐
狸は︑多くの場合︑徳性に於いても人間より優れてゐる︒商林靜夫氏がうまく書いてゐる︒﹁普通吾々が考へる狐はぬづ︑︑︑人間をだますものと理解されてゐるが︑柳齋志異の狐の枇界では︑狐と人との關係は峻盈逆になってゐて︑人間にあ
ざむかれ︑蕊切られ︑傷付けられるものは殆ど狐の側にあるやうに取扱はれてゐる︒叉︑裏切られた狐述は︑多く?
場合︑相手の人間を恨みつ上も懸産として断ち難い執著を感じてゐる︒叉狐が人問の批判考の立場に立って︑醜い人
間性を痂烈に批判し輕蔑する場合も多い︒﹂︵中園文學第六十二號﹁柳齋志異の狐達﹂︶
いくら狐逹が妖氣を失って人間化されてゐたとしても︑叉その徳性が人間より優れてさへゐたとしても︑要するに
異物は異物であってみれば︑これと洲れノ︑しい交りをするのは︑それこそいやらしいことではないか︒殊に人間に
對する彼等の姿態が.価の淫蕩な蝸姉の感じ﹂︵商林氏︶を與へるのだとすれば︒文化の燗熱頽陵期によく見られる
所謂エログロ趣味の現はれに外ならす︑金瓶梅や三言二拍等のみに限らず明末文學を通じて感ぜられる一・極の氣分を
これは代表するものではないか︒怪談なら怪談らしく︑挫冊の研守朏番を瓜込みさせるやうな︑三閏六千の毛孔が一
︑齊にきゅうと引きしまるやうな︑さういったうんと物恢ぃ奴ならまだしもよいのだ︒それがでれノーとすぐ妥協して
しまふ︑あの生ぬるい肉的な感じ︑それがいやらしいのではないか︒確かにこれは一つの重要な理由になる.だが︑
まだノー︑それだけでは私の感じを碗明し足りない︒
︑蒋者茄松齢の人間がいやらしいからだ︒蜜は蒲松齢の經歴をよくも調べてみない前から私はさう決めてしまってゐ
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たのだった︒彼が柁柵に片疋を突込んだやうな齢になってもなほ進取の念を絶ちえずに科畢場裡に街径したといふ一蕊を忠つただけで︑迄の不運な寓年落第生を哀れむよりは先きに︑茄松齢といふ男が度しがたい因業おやぢとして私
には想像されるのであった︒昔から談墓なんといふ語があるのでもわかる通り︑一般に塞誌銘なんてものは信用ので
きぬものときまってゐるが︑張元の﹁柳泉荊先生墓表﹂もどうやらその例に洩れ砲︒少くとも﹁紳幽に入り柳ち斥け
らるるや慨然として曰く︑それ命なるかなo是をもて決然捨て去って益ご難に古文辞に力め﹂云糞はいかにも怪しい
ものだ︒こんな嘘っぱちを書くものだから﹁先生は性撲浮︑交遊に能く︑名義を亜んじ︑而して孤介峨直︑尤も時と
相怖仰すること能はす﹂といふやうな文字に對してまで︑つい私は胴に唾を附けてかLらうとし︑因業おやぢといっ
た恐らく不常な冠を彼の頭にかぶせたくなってしまふのだ︒彼自身の作った﹁元配劉蹄人行蛮﹂に擁れば︑彼の謹劉
氏は至って温良で無口.なっ比しみ深い良斐であったらしく︑その間に四男一女を怖け︑家の幕しは机噛以上に裕かで 句
あったやうだ︒彼の子供述はみな出来がよかったのであらう︑彼が八十の醜にはすで・に長男は鹿生に袖せられてを︐
︑三男四出みな進撃し︑長孫すら早くも童子科第一席に及第してゐた︒それなのに彼はよい年をしながら孫子のやうな
ものの柵にまじって毎年交交試聡をうけに行き︑みっともないからもうおよしなさいと妻から糊止されてもきかなか
ったの若しも試鮠蓮がおよるしかったら今頃はとうに台開に列していらっしゃる筈です︒山林自ら樂地あり︑何ぞ必
ずしも肉を以て鼓吹し快と鰯さんや︑とまさかそんなむづかしい言葉は使はなかったらうが﹁行笈﹂にはさう設いて つ
ある︒だが︑ひたすら名利にこがれた彼の耳には︑折角の妾の忠言も聞えはしなかった︒自分の子や孫にさへ入閲で
きたのだから︑その父であり剛父である自分に及節の望みがないとはどうしても老へら・奴なかったのも無班はない︒
醒世姻緋僻の話︲七七︵三七八一︶
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文學研究第二千二鞭七八︵三七八二︶
時には︑今年は必ず及第するよ︑その證搬にはしか人︑のめでたい前兆があった︑とそこはお得意のお伽噺︵多分?.︶
を一くさりやって巽にへつらったこともあった︒岬には︑かうして苦鍔して試騎と受けるのも結局は豪別さんのため
だと云はんばかりに﹁穆如たる肴︑夫人となろを欲せざるか﹂とにやノー︑笑ひながらいったこともある︒それに對し
ぎりえて彼の妻は﹁我に他の長なし︑た噌止足を知る︒全一手一係よく普香を繼ぎ︑衣食は凍餓に至らず︑天の賜厚から歩
と篤さす︒自ら凧ふに何の功徳ありてか尚峡望を存せんや﹂と錘凹へてゐる︒こ上らはどうみても妻君の方に軍配をあl
げざるを得ない︒かうして彼は﹁年七十にして途に歸老し︑復た他遊せず﹂と自・分で云ってゐるが︑それさへ果して
どうだか疑へぱ疑はれるのであって︑彼は死ぬ僅か四年前に︐︵彼の卒年に開しては七十六歳説と八土ハ歳就と二説あ
り︑胡適は前説を是なりとしてゐる︒︶始めて歳貢生と成ってゐるやうな始末だ︒まことに往生際の悪いことであつfq11
ザゥた︒私の斫謂因業おやぢの稲も嚢んざらでもないやうな氣がする︒
狐は胡と音通じ︑卿齋の狐の話はみな浦朝を罵ったものであるといふ説がある︒これくらゐ出鱈目なコジッケはな
い︒彼は明朝に生れたとはいへ︑彼五歳︵或は十五歳︶の時に明朝は事変上すでに滅びてしまってゐるのだから︑彼
があのやうに熱心に受けたのはみな清朝の試嶮であった筈だ︒役人となって出世さへ出來たならば︑それが明朝であ
らうと浦朝であらうと︑彼にとってはどうでもよかったのではないか︒﹁而してその生平の佗際志を失ひ︑泄落鯵塞
せるにより︲時事を怖仰して悲恢感慨.叉以てその志氣を激するとと有り︒故にその文章は頴發蓄竪︑恢諭魁蝿も
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ねる︒いはんや彼を以て﹁清初飢離の時事を目撃し︑狐鬼に假借して一書に蕊成し︑以て孤憤を好ぺて験識する煮﹂
となす新世説の説の如きは全く附會の説であると私は考へる︒新世読は史に︑卿齋志異が四庫全書の説部に牧められ
9なかった所以は︑その﹁維刹海市﹂の一則が︑﹁減人を識調し︑時政を非刺するの意を含有せる﹂が爲であるといってゐ
るが︑これ亦甚だ謂はれなき説であると思ふ︒右の一則は馬駿といふ商人が腿風に遇って中剛から二繭六千里離れた
大羅刹國へ漂着し︑更に龍宮に入り浦鮎になって中國にかへる︒大羅刹國の風習は悉く中図と正反對で︑中図で美男
子といはれた彼がと凡では化物あつかひを受け︑顔に墨を塗ると急にちやほやされるといふ工合に.美醜の観念が全
然逆である︒こんど初めて誠んで︑鏡花縁の女子國は案外このへんから来たのではないかなどと思って面白かった︒
しかしこれがどうして清朝を談つたのであるか私には解せない︒いはゆる女の男装は滿洲婦人の旗袖を楓刺したもの
だといふのは︑どこを指していったのであらうか︒また清朝の役人たらんことを志望して試験を受けてをりながら︑
どうしても・ハス出来ぬからといって︑満朝を談刺したのだとすれば︑禰萄を酸いといって悪態をついた狐に湘松齢が
なってしまふわけで︑それこそへんな話ではないか︒また恩ふに凹雌全番は︑さういふ嫌疑が有ったにせよ無かった
にせよ︑柳齋のやうなものを收めるほど小説に對して寛容ではなかったらう︒四庫杢害の総雛修たりし紀文逹公が︑
慨りに彼の珊齋ばりの小説集たる閲微草堂筆記を全書完成以前に作ってゐたとしても︑果して自らこれを凹庫に入れ
たかどうか︑雀だ疑問としてよいであらう︒︵ついでにいふが︑私は閲微車堂筆記を珈齋よりは優位に世くものであ
る︒鋤波の意の弧まったのは一寸困りものだけれども︑何よりも柳齋のいやらしさの見られないのを取るのである︒
やはりこれは作考の人物のくらべものにならぬ立派さに因るのであらうか︶
醒世如縁傅の話︽
七九︵三七八三︶ ●■11IⅡI
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文畢研究.節三十二稗八○︵一一毛八四︺
私は湘松齢の人物のいやらしさを證搬立てようとして︑科畢の一僻盈取上げ鬼の竹でも取ったやうに色凌に云って
みたが︑外によい材料がないからでもあるがどうもこれだけでは大した誰明にならないやうだ︒科畢に封する徴時の
人共の老へ方は︑私ども・時代を異にし剛を異にする人洲には恐らく想像もつかないことであって︑祁松齢一人を雌ふ
ととはあまりに同怖を欠いた仕打であるに和迷ない︒私ははじめ珈齋のいやらしさの理由として︑作若の抱いてゐる
因果思想心或はそれに瀬する封建的な狭く暗い思想を数へようと豫定してゐたが︑これは一府苛酷な要求であったや
うに恩ふから引込めることにした︒因果思想はいやらしいものだが︑今日でさへも非常に屡凌もてはやされる︑心想で
あってみれば︑三一首年昔の人がこれをば堅く循じて疑はなかったのは無理からぬことと言はねばならぬ︒哀小修の
日記を識んで︑ひどくそれが目ざわりになって︑かういふ物の解った人にとってさへ時代池念を超越することの如何
に難いかを洪歎したことがある︒いはんや苅松齢に於いてをやである︒暦代傳奇に兄られるやうなあの商い︑純乎と
して純なる︑たビひたむきに熱烈なる︑しかもあくまで伸びJ1として克澗なる統帥を︑明清時代の人に求めるのは
初めから妊迦な相談といふものであった︒Q
卿齋をはじめから目のかたきにしてしまって遮だ申諜ない次第であるが︑I卿齋暢やらしさの理山惟もっと外
に在りはしないか︒では凹亘一千一筋を全部誠破してわかる虫で考へてみるに越したことはあるまい︒しかし︑私は
柳齋はもう澤山だ︒かういふ文語体の文章といふものは︑どんノー頁を繰って談むわけにいかぬものだ︒どうも辛熱
汐げくさくていかん︒それでは白話体のを誠むととにしようか︒術松齢の著諜は柳齋志異八巻︵或は分って士ハ巻とも鰯
す︶だけではない︒魯迅の小説史略に擁れば︑珊砺文集四巻︑珈齋詩集六巻の外に︑省身録︑懐刑鋒︑朧宇文︑日用
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わかりきった話ぢやないかといふ人があらう︒たごこれだけの事に思ひ及ぶのに甚だしくひまがか比つたのはぺひと
へに私の文章に對する眼識の不足の故である︒そこへ行くと︑白話文なら剣に見分けがつきやすい︒作新の感愉なり
思想なりが︑白話文となると︑どうしても秦凹嶋路侍に出て来ずにはゐないからだ︒白話文と古文の相異職について
藥堂先生がうまいてとをいってゐた︒﹁白活文は袋のやうなものだ︒何を入れても差支へないが︑全然何も入れない
と困る︒そして何を入れても原物の形は外からそっくり見える︒これに反して古文は箱のやう政もので︑四角なもの
姑しかはいらない︒側いものは詰められぬ︒だが何といってもそれを空のまLに︑何も入れないでおくに越したことは
ない︒﹂勿論︑卿齋志異の古文は決して無内容ではない︒それどころか︑作者の話題は永久に謎きることがないかとさ
へ見られる︒その上その罐もこれに随って黄に驚くべく逹者だ︒笈によくしゃべる︒しやくりまくってゐる︒これを
〆悪達者といふ︑と又愉まれ口になるが︑私はさう譜はうと思ってゐる︒珈齋文章のいやらしさは︑つまりそこから来
︑圃︑
てゐるのだ︒私は柳齋の白話文を誼んで︑はっきりそれを知った︒
さて柳術白話融文は六綿の鼓詞を韓めたものだ︒太鼓を伴奏にして節をつけて語る韻文の部分を主とし︑その合間
食々に説明の地の文を入れた︑いは■浪花節と同じ形式の一種の語り物で︑文字を知らぬ人々を相手に誘って聞かせ
るものであるから︑まづ側よりも平易であることが第一要件であり︑下世話に瞳ちるのは毫もいとはないわけのもの
●ではあるにしても︑よくまあ︑かうも︒へら/︑しゃべれるものかと私は舌藍巻かざるを得なかった︒中に就いて東郭
外傳といふのが一番長篇だ︒これは孟子の例の齊人有一妻一妾の章を語ったものであるが︑たったあの百七十字そと
/︑の文句に︑尾に鰭を附けも附けたり︑ずる#Iするノ︑無應五十頁の長さに引伸ばしてゐるのだ︒大分品の下っ
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に
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いあたりを見ると︑確かに彼は驚くべき一種の才能の持主であった︒大衆作家としての資格を十二分に具へてをり︑
彼をして今日在らしむれば︑支那でならさしづめ張恨水︑我國ならば吉川か三上か將た白井か︑いやノー︑中きてれど
〆ころではない超弩級の大流行作家になったであらうことは間逹ひない︒おっと︑冗談ではない︒現に彼の珈齋志異は
む一言年来﹁家盈一本を藏せざるはない﹂といはれるまで支那の民衆の愛減しておかぬ苫物であり︑四部土剛の素説もろ
くにすまぬうちから人に隠れて愉み見するのは殆どきま2Lとの本であった︒我國に於いても︑支那の小詑といへぱ
昔からやはり卿齋が一番有名ではないか︒彼こそは東洋に於ける肢大の迩僻流行作家であった︒私のいひ方は逆であ
亙
った︒
閑話休題︒以上︑前世にしては大分長くなった︒これからいよノ︑本題の鯉世姻縁傳の話に入らうと思ふ︒
私はこの百繭字からある長たらしい小説を︑いやらしいj︑と思ひながら︑十何日もか上ってそれでも兎に角よみ
了へた︒蔵み易い白話文ではなかった︒例によって変に自由自在な華使ひで︑滑糯百出の遊墜一服︑山東方言がふん
だん虻はいってゐて︑その黙︑金瓶梅詞話に使はれてゐることばと祁似た所が多い︒珈齋白話祇文にある塒立勤の附
註で得た方言知識ではまだ足らず︑潅いところに手の脳きかぬるじれったさを始維感じさせられた︒小耽中の人物に
は殆ど一人として愛すべき人物︑尊敬に他する人物は兇岱らない︒むしろ唾棄すべき人物︑憎盈しい︑淵蒋なまで傭
為しい人物によって洲たされてゐる︒そして彼等の話すことばといへぱ︑二言目にはピーといふあの瀧狼なきたなら
しい語が出るのだ︒かういふ狸蕊語をことさらに口や華に上せるのは.これは明末の風潮の黙らしめたものであらう
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ノ.文學研究節三十二稗八四︵三七八八︶
か︒それとい︑山東あたりの人はそれを本来のきたない意味でなしに︑た蛍バカャローといったぐらゐの意味で脚常
使ってゐたのであらうか︒さういへぱ紅椣夢の溌人林雄玉でさへ﹁放庇!﹂といったことばを平然と使つでゐる︒三
年の懇も一時にさめる何とも興ざめなことばで︑我々としてはこれも雲ハヵと課す外はないのであるが︑支那人はどう
もさういふ鮎にはあまり祁經を働かさないものらしい︒さうは思っても︑二言目くらゐにそれが出ると︑やはりよい
気持はしない︒弊々︑その他まだ文佃は洋山あるが︑とにかく何とか彼とかいひながらも︑色々な意味で非術に面白
く感じてとうj︑おしまひまで戒み︑筋の發展が気にか上って御飯に立つことを面倒がつたことさへ幾度かあったと
ころを見ると︑私の趣味もよほど低級であるのか︑或は大衆作家としての茄松齢先生の腕前がよほど峻いのか︑どっ
ちかだらう︒恐らく雨方だらう︒
この小説は夫端間の宿命的な祁刺を描いたものである︒いや相刺といふのは常らぬ︒夫を刺する忰蕗の州である︒
支那のいばゆる﹁拙内﹂とか﹁柏老婆﹂なるものは︑亭主を尻に敷くといったことばで考へられるやうな生易しい明
朗なものではなささうだ︒子剛く︑女子と小人は餐ひがたし︑これを近づくれば不遜なり︑これを連ざくれば則ち怨
む︒してみればそれは聖人すら恐怖し給ふ所であった︒淡の商肌や宋の陳季常や明の戚繼光將軍を畢げるまでもない︒
心・王陽明のやうな豪傑でも斐悲には頭があがらなかったといふ話を︑たしか野漉細かでみて苦笑したことがある︒支那
は一般に男尊女卑の図だといはれてゐるやうだが︑必ずしも事変はさうであるまい︒紅模夢なんかを戒んでもわかるゞ
通り︑家庭内に於ける母権乃至主鰄椎といふものは︑むしろ非常に弧大なのが杵迩のやうに忠はれる︒兜愈女卑なん
〃てのは︑大綬あれは女椛の仲張を押へるために老へ出された男の思想なので︑もとj︑女性に對する男性の恐怖心に
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︒根ざしてゐるのではないか︒この小説に現ほれるじゃ﹄〜馬は︑蚤ことに遡寸をして戦喋せしめるに足るものでぁ一っ =
て︑それは前生での仇を討つために︑再びこの世に生れがはって夫となり妻となったのだと作満は老べてゐる程であ
る︒それはいふまでもなく作粁の誇張である︒笑ひを催さざるを得ないまでに不脚然に誇張さ塁しゐる︒けれどもそ︲
れが作者の傭はらぬ氣持に袈付けられてゐるととも亦確かであらう︒まあそれは大概にして次に大概の荒筋を述べる
ことにする︒
肢初に﹁酬起﹂と稲する序批がある︒小説の主題を理論的に︵?︶碗明したものである︒作蒋はまづ孟子のことば
を持ち出す︒君ナに彗藥といふものあり︑それは第一に父雌仏に存して兄弟仲のよいこと︑堕一に仰いで天に槐ぢず
傭して人に昨ぢぬにと︑笙一歴天下の英才を得て之を教育することと孟子は言うてゐるが︑作荷にいはすれば.もう
一樂を添へたいところだ︒すなはち慶明盛徳の妻がそれで︑︑これあって始めて前の二薬も成就するわけである︒作者
は古い故事を色盈あげて識明してゐるがそれは街略する︒ところで古来盗妻にぶつ︑かるのは中々容易でない︒夫妻と
いふものは前生から定められてゐるもので︑月下老人の赤い繩でもって昭凌裡に足と足とを結ひつけられた以上は︑
どんなに海山を隔てLゐようが︑仇同士であらうが︑二人は夫婦とならないわけにいかぬ︒しかしともかくさういふ
因縁で夫婦になったのだから︑あらゆる鮎で釣り合ひ︑仲よく蕊して行けさうなものであるが︐変際上十人のうち八
九人までは恩はしく行ってない︒これはどういふわけだらうか︒アタマの釣り合はね夫婦がある︒容貌の釣り合はい
夫婦がある︒夫が妻を憎み︑或は妻が夫を鵬げる︒或は夫が妻を棄てk郵薯を園ひ︑或は妾が夫にかくれて怖夫をこさ
へる︒さういった夫婦の仲述ひは一体何に原因するであらうか︒作者によれば︑それはす今へて前生前枇の郡なのであ
擁枇姻縁傳の話八五.g一七八九︺ 1 1 1 1 1 1 − Ⅲ Ⅱ 0 冊
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文畢研究鋪三土一脚︸八六9毛九○︶
る︒築共の中に走ってゐたことが︑一分一厘の狂ひもなく此世に於いて現はれたまでだ︒世の中には世群持ちがよく︑
切姑によく仕へ︑夫を敬ひ子を愛し︑︑和蝿同士の折り合ひもよく︑商事きちんノーやって行く理想的な良妻がある︒
さういふ夫姉は前世に於いて意氣投合した友達か︑或は恩竺につながり合った知己であったのだ︒.或は義侠によっ
て救はれた恩を報ずるため︑或は負依を価ふために夫婦になった唾もある︒或は前世でやはり仲のよい夫婦︑或は兄弟
であったのもある︒だからさうして漆の如く膠に似たる好姻縁を成し得たのである︒これに反して︑前世に於いて︑
自分の弧いのを笠に蓋て弱い奴をいぢめ︑弱い奴は恨みを飲んで泣き膣入りするとか︑計略でもって財産を横領した
り生命を奪ったりするとか︑互ひにさういふ大きな辿恨を抱いた仇同士が︑今世に於いて夫婦になる場合がある︒さう
いふ因縁づきの仇同士がどうして反って夫縮になるのか︑そんな零ハヵた事はないと云ふ人もあらう︒一体世の中に夫
婦くらゐ親しいものはない︒父母兄弟といふものは天合の親であるとはいへ︑その間には爲さんとして露しえない︑
云ふに云はれぬことがいくらもある︒ところが父母兄弟に對しては云はれぬことでも︑夫妻の間なら心おきなく打明
けられるものだ︒しかしながら︑事礎世の中には︑夫婦くらゐ桶み合ふものも亦ないのである︒なぜか︒︑
君臣の間ならば︑桀村のやうな皇帝であったにせよ︑こっちが役人にさへならなければそれまで瓦それでも怪し
からんとはまさかいふまい︒親子の間ならば︑啓艘のやうなひどい父母だったにしたところが︑それも韮のうちに倉
己一〆隠︲庫を作らせたり︑井戸を稜へさせたりするだけで︑夜になれば一息つくひまはあらうといふものだ︒だから前世での
仇を打つのに︑稠人の中で報復するの物足らぬはいふ迄もなく︑たとへ君臣父子兄弟朋友となったところで︑心ゆく
qらまで報復することは出来ない︒どうしても夫婦になるに限るのである︒こ上で作者はうまい警句を吐く︒曰く︑夫婦
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死にたいといへぱことさらに生かさうとする︒果仙不腰の鈍刀でもってその頚の根っこをゴシj︑やって︑これをこ
などなに叩き砕かすにはおかぬ︒かうした報復こそ︑かの閻雌王の刀の山︑剣の林︑十八重阿鼻地獄にも勝るもので
はないか︒
かういふ原理に基いて︑話が二世に亘るから︑この限世姻縁傳は大きく二段に分れる︒第一回から二十二回までと︑
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二土三回から妓後の百回までと︒
時は木朝正統年間とある︒なぜ﹁本朝﹂と芥いたらうかび作老は明亡の年に僅か五歳又は十五歳であったのだから.
それ以前にこの小説を書いた筈はなからうo通民氣取りに身は清朝に在っても心は明朝の入たるをほのめかしたのだ
らうか︒或はた営脅物に時代を着けるためにさうしたのだらうか︒︑一疑冊である︒虎は山東武城縣︒こ型に晁源とい ふ若宥があったo・一寸見た目には眉目秀麗な好青年だが︑アタマが悪く學問の方は空きし駄目である︒因みに︑この 小諭に現はれる主人公株の人凌は︑狄希陳だって犯梁だって︑みな例外なしに容貌はよいがアタマが悪く︑正面から試 駿を辿って行くには不得意な連中ばかりである︒作着の事遂思ひ合はせて苦笑される︒この若若︑︒その上に渦〃子な もので︑すっかり溺愛されて立派などら息子に川來上った︒父は地思孝といひ︑これが亦語多分に洩れぬ前年落鋪群生
融枇姻維仰の活八七︵三七九一︶.
iの仲は︑たとへぱ喉首にできた癖のやうなものだ︒切取れば生命があぶないし︑礎しておけばそれこそ厄介千
ろものだ︒斐間は逃れるに庭なく︑夜になれば一脳我慢が出来ぬ︒役所の法律も施す手はないし︑父母の威光
立たぬ︒兄弟も助けることは出来ぬ︒隣近所の人糞は徒らにつまらぬ取沙汰をするだけだ︒扣手に脳り殺され
されたところで誰ひとり間に立って止めてくれる新硲ない︒生きたいといへば相手はととさらに取り殺さぅと
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であるが︑或年ひょんな事から一両何の引立を談り︑華亭縣の知縣といふ大した役人の口に見ん事ありついたり郷里
ではその留守毛を巡って大へんな騒ぎ方︒今まで百文一音文の金を倍りるさへ容搦でなく︑・一二雨の倍金をやいノ︑
麦め立てられてゐたのが︑今は手の平を返したやうに︑百噸でも二百胴でもどうぞといつ一﹂向ふから持って来る︑用
人に使ってくれと頼みにくる︒十日もたぬうちに︑家人数十病︑金は数千雨に達し︑晁源はみなからちやほやされ
て蟹淫一陳べ放蕩はますノーつのる︒さあさうなると貧乏時代に茂った妾が急に鼻につきだして来た︒妻は計氏とい
って平凡な女であったが︑晁源の目からは天香陶色に兄え︑かいて少からず槐れをなしや打たれても聡られても右難
く頂奴するばかりであったのが︑こんどは立場が反到になった︒何かといへば︑廿を釣ら¥フとしたりきれもの逓振︐
︑〆まはしたりした計氏のおどしの一手も︑今は少しもこはいどころか︑早く死ぬぱよい︑そしたらもつと身分のよい家
からきれいなお姫様を黄ふさと炭首する始末で︑はては同じ家にゐながら夫姉別膳し︑計氏はその日の食ふものにさ
へ困るに至る︒一方晁源は妾を取換へ引換へ︑とう︐I︑小珍断といふ馴染の女役者を八百雨の大金で妾にし︑やくざ
辿中に取巻かれて毎日どんぢやん騒ぎ︑或日のこといさ人か趣向をかへて雍山といふ虎へ狩狼としゃれ込み︑小珍謡
も男装して馬にのって出かけた︒
さてもこの山の洞に千年の劫を經た牝狐がゐた︒いつも女人に化けて村人をたぶらかしてゐたが︑かねトー北派の/
男つぶりに惚れていつか物にしようと思ってゐた矢先とて︑今こそよい折とばかりに︑さっそく若い女に化けて沁源
の馬の前後に附きまとってゐたところへ不運にも鷹や猟犬にその本相を看破られ︑驚いた拍一十に狐の正体を現はし︑
晁源ののった馬の腹の下に逃げこんで発源に救命を求めた︒しかし地源は無情刻薄な男だものだから︑忽ち一矢の下
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んだ時狩が選りに選ってひどい簸で︑ろくに診もせぬうちから将虚ときめてかLってゐる盤梅であったが︑それでも
まぐれ髄りに一と月餘りで全快した︒兇舞にも來なかった汁氏とは完全に沢絶した︒さて妬んだ狐の皮をみるにいかjrにもよい毛皮なので︑馬の敷物にするつもりで家人に持たして皮匠へ走らせる途中︑大きな鳶が塞巾より飛び來って
毛皮を掠って行ってしまった︒除夕の夜へ兇源の夢枕にその岨父が現はれて︑彼が狐を殺したことを堂め︑また計氏
を虐げる不心得をさとして︑﹁前世ではお前は計氏の妻であり︑計氏はお前の夫であったのだ︒しかるにお前が計氏を
愛せずこれを欺いた爲︑この世で計氏はお前の妾に生れがはってお前に報復してゐるのだ︒前泄でいぢめた上に今枇
でも又いぢめると大愛な事になるぞ﹂と戒しめる︒馬の坪に念佛である︒
父兆思孝は華亭の知縣として人民を苦しめることしか知らなかったがへんにw運がよく︑胡旦・梁生といふ二人の
役巻の手引で司雌鐙王振l禰名な明末の磁官の大親分lE干雨の賄賂睦つかって︑北京に近い北迩州の知州に
榮縛した︒そこで地源も妾の小珍刊をつれて北京に入り︑うまく立廻って図子朧の學生となり︑毎側赤ゲット振りを
發雛しながら遊び呆けてゐる︒折から也先入冠して趣塊俄かに念を告げ︑太朧王振は自ら大功迂立てんとて帝に税征
をす上め︑大小の群巨は大いに動揺す︒この有様と凡て韮源は宙を捨て親を怜てて小珍部と共に郷里に逃げかへる︒
この子にしてこの父あり︑兄思孝も︑この際役人どころでない︑也先の攻めて来ぬうち隆一千六計逃ぐるにしかずとァ
病と稲して辞職願を出し︑その卑劣な態度は淵励の弾劾する所となった︒時に天子の親征黄現して忽ちにして土木の
鍵となり︑帝は也先の軍に捕へられ王振以下主だった蒜はみな殺されて︑こ上に王振の息のか上った連中は悉く打倒さ
醒世姻総惇の話八九︵三七九三︺
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〜丈學研究第三十二稗九○︵三七九四︶
れ︑胡・梁の二人も今は世逓忍ぶ日蔭新の身の上となり沁思孝を秋って来る︒刻薄な韮思孝は勿論よい顔は見せぬ︒
しかしその二人は中央の要人になほ知己が多く︑その手迩でれいの弾劾の事も事なく濟んだので︑叉も手の平をかへ
したやうに二人を下にも世かすちやほやする︒
さて郷里に雌つた妃源と小珍奇だが︑小珍孫は計氏のもとに二人の尼が出入りしてゐるのを奇復として︑道士和尚
と姦通してゐると言ひふらし︑晁源と二人で計氏の追ひ出しを策する︒計氏は門外に飛び出し隣人に向って示威通勤
を行ったが失敗︑二人への面當てに首を釣って死ぬ︒計氏の変家で二人を告訴したけれども︑韮源が役所の上下に賄
賂を使った爲︑裁判は反って晁源の勝訴に蹄して︑こNに小珍冴は天下晴れて正妻に直った氣で大得意︑兄派を尻に敷
くことは昔の計氏以上だ︒そしてへはやく計氏の柁迩捨てl来るやうに晁源にいひつけてゐるうち︑俄かに亡姉計氏
の魂が小珍好に乘り移り︑自分で自分の頬ぺた注ピチヤノ︑と猿の尻のやうになるまで殴りつけながら﹁賊賎淫姉!
忘八淫婦!﹂と脇る盤が︑いつの間にか計氏の蕊そのま上になってゐる︒しまひには﹁淫婦の毛を老れ!淫婦の蒲物
は剥ぎとれ!﹂といって︑自分の頭毛を釜り︑着物を脱ぎ︑ズボンまで脱がうとする醜態である︒そこで妃源が﹁お
前の爲にお經を十日間よんでやらう︒舘桶も二百雨出して買ってやらう︒巻き上げた土地もお前の父に返すことにす
る︒その通りしなかったら︑俺に乘り移ってもよい﹂といふと︑小珍寄は﹁あなたに乘り移ったとて何にもならぬ︒
あなたこそ私の本當の仇なのだ︒あなたの蓮ももう︒永いことはない︒今にまもなくひどい同に含はせてやる﹂といふ
やうな事をいふ︒やがて正氣に戻るが︑かうした發作は毎日おこり︑ひどくなる一方である︒
その後︑貧官が退けられて再審が行はれた結果︑小珍絲は死刑の宣告を受けて獄に投ぜちれる︒しかし妃源が獄中
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の役人にたんまり袖の下をつかませたので︑彼女は特別室を新築させて何一つ不自由はなく
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女王気取りにみんなを頤で使って蜜澤三味︑要含はしょつ中ひらくし︑晁源はよく裳泊りして行く︒獄官の中には早
くも彼女とよいことしすまた奴さへ少くないといふ始末である︒
王振の残蕪に對する追求はいよI︑ひどくなり︑晁思孝父子は叉も梁・胡の二人を荷厄介にしはじめ︑折から通州
に来てゐた兄源の策で↓巧言を以って二人を通州郊外の香殿寺といふお寺に追ひ桃ひ︑二人の所持全ハ百一千雨と全
部横領してしまふo今まで塊思孝の政治顧問として一切を代って虚理してゐた刑皐門といふ理想的な幕寅も愛想をつ
〃かして去ったのでその後趙晁源が引受けてやったところが︑公文書一つ滿足に読めぬやうな彼の事だから︑忽ちヘマ
百出︑はては瞳職罪に間はれて監察御史の弾劾を受けた︒五千餘金を張って運よく晃思孝の命だけは取りとめ︑一家
蹄郷する︒二子年の殺人商安E一鳶雨の金を蓄めこんだので︑五千舸位つかっても別にこたへぬわけだ︒ところで兄
夫人は梁・胡二人に對する地源の無愉な庭世に終始反對してゐたが︑悪い夢をみて一切を知るや︑早速使ひを香雌寺
Lに馳せ二人を念地より救ひ出し︑且自分の鵬繰金の中から六頁一子雨を出して返す︒二人は夫人の傭深い振舞に涙を
こぼして感謝する︒かくて二人はそのま土その寺に僧となり︑名も梁片雲︑胡無騎と改めた︒︲
故山に嫌った晁思孝六土一震︑年甲斐もなく夫人附の小間使泰鴬を妾にしたいと言ひ出し︑とうノ︑これを正式に
妾にしたが︑二ケ月もた上ぬうち︑かりそめの風邪にか上り例の嬢先生にかけたところ︑叉ぞろ腎虚と兄立ら収︑そ
のためポックリ死んでしまふ︒ついでその葬式がすんで︑晁源は雍山の田舎の莊鬮に勘定を取りに行き︑そこに在る
自分の持家を借りてゐる小鴉兒といふ皮匠の妻が一寸澁皮のむけてゐるのに迷ひ︑小鴉兒の眼を愉む仲となり︑つひ
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/〃に小鴉兒の知る所となって︑嫉妬の匁に臥してしまふ︒
・かくて晃家の父子相繼いで死し︑數寓の家財を擁しながら後棚がない︵春鴬はすでに雌娠五ヶ月の腹をかLえてゐ
たが︶の莚奇伐として︑晁家の速い親戚︑即ち妃思孝の族弟兆思才と族孫地無坐といふ二人の無頼が旗頭となり︑多
くの仲間を語らって晁家に乘り込み︑蛤夫人に家財の分配筵迫り︑村の顔役たちの仲裁も物かは︑家人を袋叩きにし
りてとう〃︑家を占領し︑あらゆる家財道具をどんJ1持ち出す︒幾両の︵まさか︶人々はた■あれよI〜といって見
︽てゐるばかり︒偶為その表を通りかLつた知縣の徐文山が中にはいって騒ぎを取鎮め︑厳垂に兇徒一味を虚罰してく
れたので一家は虎口を免れへ以後さすが無頼の徒もWく姑家に寄りつかない︒
さて通州香殿寺の傭梁片雲はかねjが︑胡無弱に向って﹁犯夫人は千百人中の女菩薩であるから︑あの祥総の腹に出
來るのは必ず女兒でなくて男兒に逮ひない︒我堂は夫人の思惑を數交受けた︒自分はその徳に報ゆる麓に︑夫人の息
子に生れがはるつもりだ﹂といふやうな事を話してゐたが︑果して彼が剛寂すると同時に武城縣では赤龍が厳氣づい
て男兇を生んだ︒そのとき兇夫人はうつら﹄〜まどろんで片雲が訪ねて来た夢を見て︑その兇が叶雲の生れがばりで
あることを信じ︑片雲の姓を取って︑子供に﹁地梁﹂といふ名を附けようと考へる︒ところで早速徐知縣にも子の生
れたことを知らせると︑その時知縣は吉服を藩けて縣學の明倫堂の上梁︵棟上げ︶を経って師宅したところであった
ので︑名を﹁晁梁﹂とつけるやうにといって細の品を送った︒夫人は偶然の一致︑故なきにあらすと喜ぶ︒恩ひなし
か赤ん坊の顔は蹄雲と瓜二つだ︒﹁小和尚﹂と呼んで可愛がる︒小和尚減月の幌に︑妃夫人は韮思才等族中八人の肴に
各交田五十畝︵合せて四頃︑一千六七百胴に街る︶その他雑糀銀子を分ち與へ︑いるノーと仁慈の行爲が多いので︑
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その郡を州いた徐知縣は大いにこれを笈縦して﹁女中義士﹂の川字を題した服額を兄家の門に懸げさせた︒
以上が塑一土一回までの荒筋で︑前段はこ上に一先づ経る︒二土二回以後は話が二つに分れる︒一つは武城縣に生
き婚つた兇夫人や妃梁等の話の綾き︒もう一つは姑源やその姿汁氏や妾小珍孫や雍山の牝狐や︑それら前段に於いて
すでに死んた人掩が︑みな場所とかへて繍江縣︵滋閖の東方百十里︶に生れがはり︑相寄って仇敵伺士となる︑その
連中の話だ︒勿論︑小説の主流を成すのは後蒋である︒一ろの話は娘後の銘百回に到って始めて結びつきはするが︑
それまでは全く征關係︵少くとも表面上︶に赤絲と白絲を繼り合はしたやうな具合に交互に語られてを︐︑赦者にと︲
って多少とも蚊はしく感ぜられないことはない︒それで今は話の便宜上︑まづ武城縣の後日諏の方を全部片附けてか
ら紬江縣へ移ることにしよう︒
さてかの小珍奇は沁源の死後も相獲らず淫蕩な獄中生活を綾けてゐたが︑つひに兇夫人の知る所となって︑仕送り
もとめられるし︑附添の二人の女中をも取り上げられて︑彼女もさすがにこれには弱った︒一夜︑女囚牢から火を發
し︑その焼跡から女の死体が一つ發兇され︑小珍孫の姿が兄えないので︑てっきり小珍野の死体であると儒ぜられた
が︑いづくんぞ知らんそれこそ彼女がかねて出来合ってゐた職吏の張瑞凧なるものと示し合はせての蝉脱の汁であっ
たのだ︒かくて彼女は潜かに朕の家にかこはれることになるが︑結肋悪逆誌きて鰐兇し︑二人とも刑死し︑沁漉と小
珍苛との公案はこ上で経る︒︒︵弟五十一川︶
次に春総は十六歳のとき北忠孝の妾となり︑思孝の死後沁梁を生んでからも塊夫人に仕へて子供の養群側に餘念がな
く︑税が将嬬をす上めても総かすに雌後まで節を守る︒︵もつとも再僻問題に對する作考の見解は非常に寛容で︑こ
鯉︑世姻縁仰の話九三︵三七九七︶
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文・學研究︒節三十二岬九四︵三七九八︶
れは禁止や弧要をなすべきでなく︑冗しく本人の自由意志にまかす今へしといってゐるのは正しい︶地梁も生れつき孝
心あつく︑母兇夫人が重病を忠つた際など︑股の肉を切って療さん戸一と苑決心し︑祁明を感ぜしめて忽ち飛氣が治っ
たやうな事もあった︒しかしアタマは大し一しよい方でなく︑十六歳のとき府老に四番で及第して入蕊したのも︑蜜は
︲往年の名附親の徐知縣が︑偶ご學道となって山東地方に出張してゐた︑その引立てによったものであった︒晁梁が入
Q畢すると︑﹁晁梁は本當は俺の子だ﹂といひはる無法者が現れて︑裁判沙汰となり︑無茶な知縣の判決︑また例の沁思
才や晁無塾等のわるい親戚がこれを利剛しての煽動などがあり︑一時は大愛な騒ぎであったが︑それも無班に納まっ
て︑翌年かねていひなづけの姜氏と結好式を學げる︒ところが弛梁は全くのねんねえで︑今まで雁憧れた泳兆夫人の
・庇床にへばりついて死んでも洞腸に入らうとせぬ︒とど妾小姐の膣床を北夫人の部屋に持ちこむといふやうな洲甜な
一事件がある︒それでもそこはよくしたもの︑きっちり一年目には虞白く肥えた赤ん坊︵全苛︶が生れる︒これも兄夫
J人の高徳の然らしめたものであらう︒地夫人の仁慈は年と共に深くなり︑先に武城縣に鱗雌があった時には︑率先し
て施荊所を設け︑七ヶ月間に八千四百石の米穀を貧民に施したし︑また兄思才や晁無曇の徒が機會ある毎に騒動を惹
きおこしても︑夫人は暴に報ゆるに徳を以ってしてよく大事に至らしめずにすんだ︒ついで戊化に四年︑山東一帯に
〜再び大飢燦がおこり︑多くの百姓は食ふ物がなく︑つひに人相食むの惨状を呈したのだから︑貢と納める餘裕など勿
〆凸︑論ありはしない︒にも拘らず縣官の徴求きびしく︑未納者は棚にかけられ十人が十人とも死ぬ有様を︑見るに見かねた
晃夫人は︑尭梁と相談して未納の糧米蛮数を調査せしめ︑凡そ一千三百餘石を自ら代納してやったのである︒この寅
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讃すべき行爲には︑あまり循良でなかった知縣もさすがに面映ゆく︑老夫人の誕生帆の日に老夫人と晁梁とにそれ︲トー
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﹁菩薩後身﹂﹁孝義純怖﹂と題した門服と贈った︒その事は史に天子のお坪にまで逹した︒かくて兄夫人は百五歳とい
ふ長荘と以って光榮ある晩年を雑り︑死後は天榊の宣により峰山の山主といふ祁様に封ぜらたが︑それは進だ盤験
あらたかな艸様で︑人民の深く信仰する所となったのである︒また晁梁は母の死後︑通州の香厳寺へ行って胡無溺に
會ひ︑自分の前身たる梁片奄一房法身を埋葬し︑夫婦ともそれ人〜庵を建て上修行をすることになる︒︵九士一画︶
以上で大体武城縣の話を経った︒次に誠肛縣に移る︒
︲一体この繍江縣といふのは附近一瀞山水明媚.人怖に鮎極めて傭い地方であるが︑ぞこから四十里離れた明水鎮と
いふ村に狄以外といふ金持と︑解教授と呼ばれるもと衰州府畢教授をつとめた人とが隣り合って住んでゐた︒狄画員外
には狄希陳といふ息子があり︑群教授には素姐とよぶ同じ年の娘があって︑六歳の・時から婚約關係に在る︒ところが
どういふものか素姐は希陳が嫌ひでたまらぬ︒希陳が遊びに來たと聞くと︑すぐに門を閉めて賑れるのであった︒母
が子供のくせにといって叱ると︑素姐は﹁何故かしらいが︑あの人を見るとへんにムヵ/︑するのです﹂といふ.﹁今
にあの人がお婿さんになったらどうする﹂といふと︑﹁そしたら私︑狭間でなければ夜あの人を打ち殺してやります﹂
といふo蜜にひどい話であるが︑後でわかる通り︑狄希陳は変は晁源の生れがはりであり︑詳素岨は沁源に射殺され
た牝狐の生れがはりなのだから︑無理もないわけだ︒
さて械江縣の民風は時代が下ると共にだん・I︑悪化し︑從来の淳い人燗美は更に見られなくなったので天地がこれ
と怒ったものか︑天災地妖しきりに起り︐大磯燦に兄舞はれる︒貧乏人は樹の皮︑葉︑草︑草の根を食べ誰すと︑屋
根の腐草を臼で磨り水でかきまぜて食ふ︒山の白土を掘って来て烙って食ふ︒こんなのを食ふと大抵死ぬのである︒
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配世姻維徳の話九五︵三七九九︺
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仕方なしにこんどは死人の肉を切り取って食ふ︒しまひには生きた人川植食舞︒文字通り弱肉強食︑それこそ食ふか
食はれるかで︑父子兄弟夫婦親戚の川︑什肉相殺し合ふに至った︒食ふ方では﹁赤の他人に食はれるよりは自分の竹
肉を救った方がましぢやないか﹂とリクッをつけ︑食はれる方でも﹁どうせ殺されなくても餓死するにきまってゐる︒
生きて苦しむよりは早く死んだ方がましだ︒・人助けにもなる﹂とあっさり諦めてゐる始末だものだから︑いくら役所で
取締っても追付きはせぬ︒諜塾の先生が生徒莚煮て食った例なども川てゐるが︑それなどは悲惨を通り越して淵稀で
ある︒lこ上らの話は必ずしも全然根搬のない事ではないらしく︑孫借節が洲川・章邸等の府縣志を引川して詳し
く考證してゐる︒これは確かに食人肉群俗に開する一軍要文献たると失は歩︑故桑原隙賊博士や鳥山喜一孜授に献呈︑
いたしたいところだ︒もっとも上海の嶋共山先生の如きは︑支那には文章文化と生祈文化と二つある︑日本の支那研ワ
究家はただ支那の文献のみを偏削し︑それに盛られた文章文化を研究するばかりで︑もう一つの︑もつと大切な生活
文化の方は全く兇ようとせぬ︑それが如何に確かな事漉であっても文献に現はれぬ限り見一Lも見ぬふり︑聞いても聞
かぬふりをする︑といってか鯉人〜慨慨してゐられる立蟻がら.この間もさる雑誌︵中凹文學︶に鳥山敦桟の食人肉
の風習についての論文︵﹁支那・支那人﹂所收︶に對して反對を咄へてゐられるのを兄た︒現在上海の街上には無数の
難民の餓死新がごろI︑稗がってゐるが︽飢餓の極︑人間を食ったといふ話は未だ嘗て一つも叩かぬといふ事礎を證
擴にして︑一二の例外はあるかも知らんが︑さういふのは少くとも瓜智としては絶對に存在しなかった︲といふのが
老板の主張の大旨である︒残念ながら私は元来きはめて中途半端な人間に川来てゐるものだから︑さてどっちの胴肌
をぬいだものかとうるノ︑するばかりであるが︑ただ︑昔食ったら今も食ふ筈だ︑今食はぬから昔も食はなかったに
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