九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
An Analysis of Democratic League of East Manchuria
金, 哲
九州大学大学院法学研究院
https://doi.org/10.15017/3925
出版情報:法政研究. 71 (4), pp.107-136, 2005-03-09. Hosei Gakkai (Institute for Law and Politics) Kyushu University
バージョン:
権利関係:
論 説
はじめに
一民主大同盟の創立
二 民主政府の成立
三 民主大同盟の﹁解散﹂
むすびにかえて
東満の民主大同盟に関する考察
論 説
東満は︑旧満州において東に位置しており︵現延辺朝鮮族自治州︶︑朝鮮民族を社会基盤とする民族地域である︒東
満は︑戦後の東北地域において唯車初から︑中国共産党組織が組織された地域であり︑後の東北地域の国共内戦にお
いて︑中国共産党を支え︑国内の有名な根拠地になる︒この意味で︑東満における中国共産党を考察することによって︑
地域からの視角ではあるが︑中国共産党の政策の一側面を指摘できると思う︒そして︑時期的にも一九四五年から一九
四九年までは︑中国共産党研究史上において空白の時期であるために︑東満からの視角ではあるが︑研究史上の空白を
埋めることにしたい︒
筆者の研究時期および研究対象は︑一九四五年の東満のソ連極東軍による解放から一九四九年の中華人民共和国の成
立までにおける東満の中国共産党であるが︑本論においては︑一九四五年から一九四六年までに朝鮮民族を中心として
組織されていた民主大同盟を中心に考察を行なうことにしたい︒というのは︑筆者が東満における中国共産党に関する
史料−一九四六年一二月の﹁吉林省委群工会議﹂の記録を﹁発掘﹂したからである︒この会議記録には当時の中国共産
党吉林省トップであった周保中による民主大同盟に関する報告が記録されている︒その内容は︑﹁延辺民主大同盟は朝
鮮民族を中心として組織された団体であった︒⁝延辺民主大同盟は軍の建設︑政権の樹立︑土地改革の推進などにおい
て︑決定的な役割を果たしており︑最初のある時期には実際の政権の役割もしたのである︒⁝中国共産党の工作の推進
においても︑延辺民主大同盟からは何の阻害も受けてない︒⁝民主 大同盟が引き起こした歴史的役割と功績は不滅であ
︵1︶ る︒﹂というものであった
この史料からわかるように︑朝鮮民族を中心として組織された民主大同盟は︑東満の全地域において軍の建設から︑
政権の樹立︑土地改革の推進などの活動を積極的に行い︑戦後の東満において︑決定的な役割を果たしていたことが確 はじめに
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
認できる︒この報告は︑すなわち︑当時の中国共産党吉林省トップであった周保中も民主大同盟が東満において果たし
た役割を大きく認め︑評価していることを意味する︒しかし︑筆者は︑今までの先行研究において︑管見の限りではあ
るが︑民主大同盟に関する以上の内容は確認することができなかった︒つまり︑先行研究において︑民主大同盟に関す
る研究論文はまだ一つもないのである︒にもかかわらず︑民主大同盟に関する内容が簡単に書かれているのは︑いくつ
か存在する︒
例えば︑﹃中国朝鮮族歴史足跡﹄編集委員会の﹃勝利﹄において︑民主大同盟が中国共産党の指導下で成立され︑中
国共産党の政策を積極的に実施していたという内容が善かれており︑その﹁解散﹂についても︑一九四六年八月に︑そ
1二 の歴史的使命を終焉させ︑﹁自己解散﹂したと叙述されている︒また︑曹龍浩︑朴文一の﹃邁向二一世紀中国朝鮮族発
展方略研究﹄においても︑中国共産党組織と民主政権が建設されるに従い︑民主大同盟が歴史的使命をすでに達成した
︵3︶ ので︑一九四六年七月に﹁解散﹂を宣告したと叙述されている︒
しかし︑以上の内容とは違って︑安華春の﹁試論解放戦争時期東満根拠地的建設問題﹂において︑東満における一九
四五年から一九四六年までを﹁初創時期および基本建設時期﹂と位置づけていたにもかかわらず︑民主大同盟に関する
︵4︶ ことは叙述することなく︑中国共産党の指導だけが叙述されている︒また︑金昌国の﹁解放戦争時期建立東満根拠地的
歴史考察﹂と朱相吉の﹁論延辺土地改革的歴史意義﹂および金泰国の﹁論東北解放戦争時期東満根拠地的歴史地位与作
用﹂においても︑民主大同盟に関する内容が叙述されなければならない時期および政策があったにもかかわらず︑叙述
︵5︶ することなく︑東満における中国共産党の指導だけを描いている︒
このように︑中国国内において善かれた民主大同盟に関する叙述によると︑民主大同盟は中国共産党指導下で組織さ
れた団体であり︑その歴史的使命が終焉したので︑﹁自己解散﹂したというものである︒そして︑その﹁解散﹂時期に
おいても︑それぞれ明らかに違っていたが︑引用注による解釈を行なっていないため︑なぜ違うのかが明らかにされて
論 説
いない︒
これに関連して︑日本における先行研究には︑鶴嶋雪嶺氏の﹃中国朝鮮族の研究﹄ と大村益夫氏の﹃中国の朝鮮族﹄
がある︒鶴嶋雪嶺氏は︑この本において︑簡単ながら︑民主大同盟は朝鮮民族を中心として組織された団体であり︑後
︵6︶ の中国共産党政権の樹立における社会基盤を作ったことを説明している︒そして︑大村益夫氏は︑中国共産党の指導下
︵7︶ における民主大同盟として︑叙述している︒しかし︑日本における先行研究においても︑民主大同盟の具体的な組織方
針︑解散理由︑解散時期などが明らかにされていない︒
以上のように︑中国国内では︑東満における中国共産党に対し︑ポジティヴな面だけを描いて︑その正当性を強調す
ることが一般的な叙述である︒日本国内では︑中国政府による公開された史料の制限があるため︑数多くの研究者は︑
史実に基づいた詳細な実証研究ができない状態である︒
そこで︑本論では︑戦後の東満において︑決定的な役割を果たしていた朝鮮民族を中心とする民主大同盟について︑
考察していくことにしたい︒とりわけ︑ここでは︑東満という民族地域において︑民主大同盟が果たした役割および活
動に着目し︑それらを実証的に明らかにしたい︒具体的には︑民主大同盟がいかなる時期に︑どういう人々によって創
立され︑いかなる組織方針を持ち︑いかなる政策を制定し︑執行および実施したのか︑そして︑東満において︑民主大
同盟がいかなる役割を果していたのか︑さらに︑なぜ﹁解散﹂したのかを実証的に明らかにしたい︒
最後に︑本論において︑利用する史料に関して若干説明しておきたい︒すなわち︑本論において︑利用する史料は︑
筆者が収集した延辺朝鮮族自治州楢薬局所蔵の未公開史料が主である︒筆者は︑こうした未公開史料に基づいて︑束満
における民主大同盟に関する研究史上の空白をできる限り埋めることにしたい︒
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
︵8︶ 一九四五年八月八日︑ソ連が日本に宣戦布告し︑ソ連極東軍が満州の日本関東軍に対し総攻撃を開始した︒日本関東
軍は︑第一方面の軍司令部を牡丹江から東満の敦化に移転させ︑東満の地形を利用した最後の防御線を作り︑徹底的な
抗戦の構えを見せた︒八月一〇日︑ソ連極東軍第二五軍は春化︑長峡︑敬信の三ケ所を連続突破し︑嘩春を簡単に攻略
した堕一言の大磐峻において︑日本関東軍第一三師団の徹底的な反撃を受けたのである︒この戦いで︑ソ連極東
軍第二五軍は︑二日間において一〇〇台の戦車を損失しながらも︑大磐峻防戦を突破することができなかった︒
ソ連極東軍第二五軍は︑爆撃機六〇機を新たに要請し︑大磐峻防御線への集中爆撃を行なった末にようやく守備軍の
︵10︶ 降伏で︑大磐峻防御線を突破することができ︑図門方向へ進むことができた︒その一方︑羅子溝方面から侵攻を開始し
h‖︑ たソ連極東軍第五軍は八月一〇日に東寧︑綴芥河などの辺境地域を攻略し︑羅子溝方面へ向かったが︑こちらも二日
︵13︶ ︵12︶ からは徹底的な反撃を受け︑激戟の末に七二頂子防御線を突破し︑東大拉子を攻略した︒さらに︑一四日には太平峻に
︵14︶ おいて︑半日の激戦を行なった末に二︑一〇〇名の犠牲者を出しながら︑ようやく羅子溝を攻略した︒このように︑ソ
連極東軍は日本関東軍の徹底的な反撃によって︑重大な犠牲を払いながら︑八月二〇目になって︑ようやく安図を除い
︵15︶ た東満全地域を攻略することができたのである
しかし︑ソ連極東軍が解放させた東満地域における指導権は︑一九四五年八月一四日に締結された﹁中ソ友好同盟条
︵16︶ 約﹂により︑中華民国政府に属することになった︒つまり︑この協定により︑ソ連極東軍は東満における指導権を中華
民国政府に移譲させ︑把握させることになった︒ところが︑東満には中華民国政府から︑代表者および軍は直接派遣さ
れなかった︒なぜなら︑国民党がソ連極東軍からの満州における主な接収地域を南満︑西満︑北満に置いていたからで
ある︒すなわち︑国民党からすれば︑東満には代表者と軍を直接派遣しなくても︑東満を占領するのは︑ただ︑時間の
一 民主大同盟の創立
論 説
︵17︶ 問題であると判断したからであった︒
そのため︑東満においては︑ソ連極東軍が暫定的に政権運営を行なうことになり︑満州時代の間島省の元省長である
︵19︶ ︵18︶ 厳太東を再び省長に任命し︑間島省臨時政府を発足させた︒厳太東は︑すぐさま︑各市︑県における行政機構の不備に
︵20︶ 対し︑従来の間島省行政職貞を最優先に採用することにし︑行政職員の人事の発表も行なった︒そして︑臨時政府の方
針を﹁帝国主義の束縛から完全に解放され︑平等︑自由な新国家建設に努力する︒⁝ソ連極東軍の命令に従い︑軍事品
の供給を徹底的に行なう⁝︒そして︑現在は暫定的な臨時の人事であるが︑近い将来には人民代表大会を開き︑代表委
M矧円 貞会を設置し︑民衆の参政を実現する﹂とした︒
しかし︑日本の敗戦にともない東満の各地域では︑農業地をめぐる衝突が相次いで発生し︑それは激しい武力闘争に
まで発展した︒臨時政府は︑社会秩序を安定させるために︑早急な解決策を提出しなければならなかったが︑成功する
ことはできなかった︒当時の束満における農村をみると︑農業地は全部二四五︑二二七隋 ︵一階=三〇〇〇坪︶ で︑
︵22︶ ﹁公有地﹂が一九四︑二二一隋を占めていた︒つまり︑東満における農業地には﹁公有地﹂が圧倒的に多く︑農業地の
︵23︶ 七九%を占めていた︒しかも︑この﹁公有地﹂を耕作していたのは日本民族と朝鮮民族だけであった︒さらに︑東満は
農村人口が圧倒的に多い農業地域でもあり︑全人口の九〇%を農村人口が占めており︑その中の八〇%を朝鮮民族が占
︵24︶ めていた︒このことから︑東満における社会基盤が朝鮮民族であることが確認できる︒
間島省臨時政府は︑東満における社会秩序の安定のために︑﹁地主に関する布告﹂および﹁公有地関する布告﹂を発
︵25︶ 表したが︑臨時政府はソ連極東軍を後盾としていただけであり︑東満地域における社会的支持基盤はかなり弱かったの
︵26︶ で︑東満地域で発生した数多くの農業地をめぐる衝突を根本的に解決することができなかった︒
これに対し︑朝鮮民族を中心とする職能・社会団体は東満において社会的支持基盤が強かった︒すなわち︑これらの
職能・社会団体は︑東満の解放をきっかけに︑東満の社会基盤である朝鮮民族を中心に各地域において︑自発的に次々
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
彼らはすぐさま龍井で︑緊急会議を開き︑以上の六つの指示に関する内容を再確認し︑全允弼︑金東友が武装に関す
る活動を︑他の人は朝鮮民族を中心に組織拡大に関する活動を積極的に行なうことにし︑東満地域における各職能・社
会団体とも積極的に連絡を取ることにした︒ と組織された︒管見の限りでは︑龍井で最初の職能・社会団体が組織された︒
ソ連極東軍が東満に対し︑総攻撃を開始したことを︑ラジオで聞き取った龍井の全允弼︑金東友︑妻泰山︑朴根植︑
愈日焼︑妻東柱︑金承浩︑愈哲煩などがひそかに﹁ソ連極東軍歓迎会﹂を組織し︑﹁日本帝国主義の打倒﹂︑﹁ソ連極東
︵27︶ 軍勝利万歳﹂︑﹁朝鮮共和国万歳﹂などのビラを印刷し︑配布した︒日本が敗戦すると彼らは︑活動を公然として行ない︑
︵28︶ 労働者︑農民︑教育者などを積極的に動員し︑組織の拡大を図った︒八月一九日︑彼らは﹁ソ連軍歓迎大会﹂を開き
ソ連極東軍駐延吉総司令部に ﹁ソ連極東軍勝利﹂という文字が入った旗と祝辞を呈上することを決め︑組織の朴根植を
︵29︶ 延吉に派遣した︒
︵30︶ ソ連極東軍駐延吉総司令部は︑代表者として延吉に派遣された朴根植に対し︑以下の六つの指示を出した︒
一︑ソ連極東軍の東北に駐在する意義を宣伝すること︒
二︑今後の組織の活動は必ずソ連極東軍総司令部の同意を得て行なうこと︒
三︑派閥的な思想を持たないこと︒
四︑政治活動は人民の本意に従い実行すること︒
五︑活動を行なう際に必ず徹底した階級意識を持つこと︒
六︑本組織の団体名︑綱領を必ずソ連極東軍総司令部に呈上し︑登録を行なうこと︒
︵31︶ 論 などが率いる職能・社会団体との連絡が取れたのであった︒しかし︑彼ら以外にも︑東満にはさまざまな職能・社会団
体が組織されていたため︑八月末には菱東柱︑池菩謙︑達文鏑︑南昌珠などが延吉で会合を行ない東満地域における各
︵32︶ 職能・社会団体を統一する活動目標を決定し︑準備委員会も設置した︒
当時︑東満地域の人々は解放を迎えると食糧倉庫︑武器庫を攻撃し︑食糧や︑衣服︑武器などを取り︑地域を中心に
︵33︶ 自己武装し︑防御隊を作った︒そのため︑解放から二〇日間も経たないうちに︑東満全地域に労働者︑農民を中心とす
︵34︶ る各職能・社会団体が組織され︑自己武装による防衛隊も次々と組織されたのである︒
そして︑九月に龍井で︑龍井︑延吉︑朝陽川の労働者︑農民︑青年団体の代表者が集まり︑労農青組織準備委員会
︵35︶ ︵労働者︑農民︑青年組織準備委貞会︶ を設置し︑九月一九日には延吉で東満における各職能・社会団体からの六〇〇
︵36︶ 名にものぼる代表者が参加した労農育代表大会を開いた︒東満における各職能・社会団体の会員はこの際︑すでに︑三
︵37︶ 万名にものぽり︑各階層の割合を見ると︑労働者が二五%︑農民が四五%︑青年が二〇%︑その他が一〇%であった︒
大会では延辺労農青総同盟委員会が組織し︑東満における労︑農︑青の職能・社会団体を統一指導することになり︑
︵38︶ 以下のような延辺労農青総同盟の綱領も発表した︒
説
一︑全国の統一団結︑和平民主の建設を擁護する︒
二︑広範な民主原則のもとで︑国民大会を開き︑中華民国民主聯合政府を建設する︒
三︑国連との一致団結︑相互合作を擁護し︑国際的な和平と安全を保障する︒
四︑中ソ間の友好と聯盟を強化する︒
五︑日本軍閥主義とファシズム主義と断絶し︑根元からなくし︑日本の残存勢力を粛清する︒ こうして︑和龍からは全尚根︑妻錫鉱︑延吉からは池喜謙︑佳文鏑︑池章勲︑朝陽川からは南昌抹︑金希文︑金龍雲
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
以上のことから︑延辺労農育総同盟は民主政治による聯合政府の建設を目指し︑そのための綱領を制定したことが確
認できる︒つまり︑民主主義に基づいた自治政府の建設が延辺労農青総同盟の最終的な目標であったことが確認できる︒
そして︑この綱領では︑東北地方の土地の問題に対し︑はじめて﹁耕者有其田﹂の実施を公布し︑貧農と雇農に対する
救済も公布したのである︒
そして︑延辺労農青総同盟委員会は︑朴俊権︑朴根植︑愈日焼︑愈哲換︑妻東柱︑妻錫鉱︑妻泰山︑池喜謙︑池章勲︑
荏文鏑︑撞虎林︑李柱弼︑南昌沫︑金希文︑金忠之︑全尚根︑金展杢︑韓束宇︑高尚浩︑玄昌南︑許鎮︑馬駿︑朴風官
︵39︶ など三〇名で構成され︑委員長には池喜謙が選出された︒ ■小︑ 一〇月二六日︑延辺労農青総同盟委員会は拡大会議を開き︑延辺労農育総同盟という名称を延辺民主大同盟と改名し︑
︵41︶ 延吉︑和龍︑嘩春︑江清に︑各民主大同盟本部を設置︑区と村には支部を設置した︒この際︑民主大同盟の組織は︑東 六︑新民主主義的な三民主義を擁護する︒ 七︑言論︑出版︑集会の自由︑人権の尊重︑男女平等を擁護する︒ 八︑東北各地で人民の民主主義的自治政府を建設し︑各市︑県︑省の国民会議は民選にする︒ 九︑スパイと売国者を逮捕し︑人民裁判にかけ︑処罰し︑その財産と土地を没収し︑・人民に支給する︒ 一〇︑中国国内にある日本の財産と土地を没収し︑人民に支給する︒ 一一︑﹁耕者有英田﹂︵耕す者が土地をもつ︶を実施し︑農村合作組織を発展させる︒ 一二︑小作料と利息を減少させ︑さまざまな雑税と雑役を免除する︒ 一三︑民族的文化を発展させ︑教育を普及させる︒ 一四︑貧農︑雇農を救済し︑労働者の生活を改善し︑災難民を救済する︒
論 説
満の全地域に組織され︑固い支持基盤も築いた︒さらに︑民主大同盟の会員はすでに一四万五〇〇〇名にものぽってお
︵42︶ り︑その中で朝鮮民族の会員が一三万七〇〇〇名にのぼり︑九四%を占めていた︒このことから︑延辺民主大同盟は朝
鮮民族を中心として組織された団体であることが確認できる︒
︵43︶ 各市︑県の民主大同盟の主要委員に︑和龍は金東俊︑金農杢︑金東根︑金吉杢︑金弘杢︑朴在権︑妻錫鉱︑全尚根︑
延吉は池章勲︑李春秀︑李相浩︑李商杢︑超雄天︑金東和︑妻滑龍︑厳波︑玄民樹︑廉承日︑江清は柳龍権︑太容浩︑
桂一︑撞寅泰︑撞徳進︑曹龍杢︑李東錫︑金光赫︑金鎮相︑嘩春は金光寅︑金京道︑黄貞淑︑貴方秀︑陳進三︑安図は
許世傑︑全利雨︑教化は林民鏑︑金燦海︑安国根︑高在風が選出された︒
そして︑延辺民主大同盟は︑地主の小作料徴収について︑﹁上等地は三−七制︑下等地は二−八制﹂︑労働者の労働時
︵45︶ ︵44︶ 間について︑﹁八時間労働制﹂︑日本の残存勢力と﹁土匪﹂に対し︑徹底的な粛清を行なうことなどの決議案も採択した︒
さらに︑当時の東満において影響力を持っていた新聞である﹃光復報﹄ と ﹃韓民報﹄ に対し︑直接接収を行ない︑民
︵46︶ 主大同盟の機関紙として︑﹃延辺民報﹄ という名で発行することを決定した︒また︑東満の交通手段において︑最重要
な鉄道に関しても︑直接接収を行なったのである︒当時︑東満における鉄道というのは︑交通上において重要な役割を
︵47︶ 果していただけでなく︑経済建設においても重要な役割を果していたため︑延辺労農青総同盟は︑妻東柱を派遣し︑国
︵購︶ 民党と関係があった監視部長王鴻遠を追放し︑東満における鉄道権を奪回した︒そして︑一〇月一五日には延辺労農青
︵49︶ 総同盟の指導下で︑延辺鉄道工人会が組織され︑京図線︑朝開線︑青道線︑図佳線の四つの鉄道労働者と職員全員が会
︵50︶ 貞となった︒延辺民主大同盟の影響力および支持基盤は︑東満の全地域において︑拡大しっつあったのである︒
これに関連して︑東満における中国人 ︵漢民族︶ を主とする地主︑富農は国民党支持を公然と表明し︑ソ連極東軍の
︵51︶ 許可を得て︑東浦の各地域に漢民族を中心とする組織を組織し︑治安維持会を設置し︑自己武装を行なった︒漢民族を
中心とする組織は︑安図︑敦化︑延吉︑龍井︑明月溝︑老頭溝︑東盛湧︑羅子溝︑江清︑大興清までに拡大されただけ
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東浦の民主大同盟に関する考察(金)
一九四五年一一月中旬︑東満における影響力が強くなってきた民主大同盟は︑ソ連極東軍からの許可を得て︑間島省
︵55︶ 臨時政府に対する政権の直接接収を行なった︒すなわち︑ソ連極東軍は社会的支持基盤が強い延辺民主大同盟に東満に
︵56︶ おける指導権を移譲させ︑東満の社会秩序を安定させると同時に軍事物資の提供も行うことにした︒民主大同盟は事実
上東満の政権を掌握することになったのである︒
しかし︑延辺民主大同盟は︑政権接収後︑東満における民主政府の成立を提案し︑延辺民主大同盟の延吉県政府会議
︵57︶ 室で︑一一月二〇日に各職能・社会団体の代表者を招集し︑東満において︑はじめてとなる東満代表大会を開催した
︵60︶ ︵59︶ ︵粥︶ 大会には︑延吉県から妻東柱︑劉傑民︑王品一︑林啓学︑嘩春県から黄道珠︑肖茂燥︑江清県から手薄︑李東石︑和龍
︵62︶ ︵61︶ 県から全尚根︑董玉昆︑間島市から池菩謙︑劉彰令︑民主大同盟の代表として朴根植︑愈哲換︑李春抹︑李忠振︑申泰
︵64︶ ︵63︶ 海︑婦女代表として雀賢春︑周恵民などが参加した︒ ︵52︶ でなく︑それを支える漢民族を主とする数千名にものぽる武装部隊も組織することができた︒さらに︑東満各地域に散
︵53︶ 在していた漢民族を中心とする武装勢力らも︑彼らの支持を表明していたため︑漢民族を中心とする武装力は東満にお
いて最大にまで成長することができた︒
その結果︑東満地域には︑朝鮮民族の勢力と漢民族の勢力による対立が生じることになった︒この際︑江清︑和龍で
はすでに︑激しい民族対立が発生し︑武力闘争までに発展していた︒そのため︑延辺民主大同盟の全允弼︑金東根︑声
君埜などは︑東満各地域において︑民主大同盟の組織の積極的な支持のもと︑朝鮮民族を中心とする防衛隊を積極的に
︵54︶ 組織し︑民主大同盟を支えることにした︒
二 民主政府の成立
論 説
さらに︑この大会には︑朝鮮民族でもあり︑ソ連極東軍将校でもあった妻信奉を利用し︑東満において九年ぶりの組
︵65︶ 織の再建に成功した中国共産党の代表も参加した︒このことは︑西満︑南満︑北満と違って︑中国共産党が直接政権運
営に参加したことを意味する︒大会では︑民主政府の成立を全会一致で可決し︑民主政府−延辺行政督察専員公署の成
︵66︶ 立を決定すると同時に延辺政務委員会も組織した︒
民主政府は︑社会秩序を安定させるために︑各市︑県から提出されたさまざまな問題に対し︑積極的に取り組み︑解
︵67︶ 決方法を提出した︒つまり︑各市︑県から提出された鉄道問題︑食糧問題︑﹁敵産処理問題﹂ ︵敵が残した不動産︑財産
などの問題︶︑日本人問題︑間島市改称問題︑延和県境界問題︑婦女運動問題︑江清県の﹁反動分子﹂問題︑満州時代
の記念碑問題などに対し︑民主政府が積極的に取り組み︑すぐ結論を出したのである︒さらに︑民主政府は︑東満の全
︵68︶ 地域に対し︑﹁中韓同胞へ告げる書﹂も発表し︑民主政府の成立を公表すると同時に民主政府に対する支持も訴えた︒
︵69︶ そして︑延辺政務委員会第一回会議において︑民主政府の施政方針と組織の構成を討議︑決定した︒民主政府の施政
方針からは︑民主政府が民主主義に基づいた政権運営を行なおうとしていたことが確認できる︒また︑会議では︑孫文
の﹁中国領土内に居住する者はすべて中国国民である﹂という言葉を引用し︑﹁東満における朝鮮民族は中華民国の国
︵70︶ 民である﹂ということも全会一致で可決された︒
︵72︶ ︵71︶ 次に︑民主政府は︑延辺政務委員会の選出方法と行政機関の構成も発表した︒すなわち︑延辺政務委員会の選出方法
というのは︑各県の代表︑各組織の代表︑軍の代表︑婦女代表︑青年代表などによる投票で︑政務委員一三人を選出し
︵73︶ ︵専員︑副専貞も含む︶︑政務委員会を組織することであり︑行政機関の構成というのは︑民政課︑財政課︑建設課︑文
︵74︶ 教課︑総務課︑工商管理委員会︑敵産処理委員会︑延辺公安局の設置であった︒
このことに関連して︑東満における行政区域も新しく設定された︒延吉県は四市一八区−延吉市︑龍井市︑図門市︑
明月市︑月晴区︑長安区︑春興区︑煙集区︑太陽区︑太平区︑風寧区︑福興区︑石門区︑裕広区︑錫麟区︑朝陽区︑平
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
︵75︶ 安区︑徳新区︑光開区︑智新区︑三合区︑勇新区︑嘩春県は一市八区−嘩春市︑春化区︑勇智区︑興仁区︑鎮安区︑崇
︵76︶ 祀区︑徳恵区︑敬信区︑純義区︑江清県は一市七区−江清市︑春明区︑春華区︑春興区︑春耕区︑春光区︑春芳区︑春
︵讐 ︵77︶ 融区︑和龍県は一市九区−和龍市︑明新区︑和新区︑頭道区︑西城区︑磯城区︑東城区︑勇化区︑徳化区︑崇善区︑安
︵79︶ 図県は四区1安図区︑両江区︑万宝区︑永慶区︑教化県は七区−大石頭区︑沙河沿区︑大浦柴河区︑維新区︑南黄泥河
︵80︶ 区︑大平嶺区︑城関区に設定されることになった︒
︵凱︶ そして︑民主政府は東満の全地域に向け︑﹁延辺行政督察専貞公署布告第二号﹂を発表した︒主な内容は︑民主政府
の施政方針︑間島省臨時政府の廃止︑民主政府が東満の五県における最高行政機関となることなどであった︒
しかし︑民主政府の政権運営が順調に行なわれたことはなかった︒民主政府が成立されたこの年は︑東満において何
︵82︶ 十年ぶりにあった自然災難の年で︑農業に大きな打撃を与えた年であった︒そのため︑東満の全地域は︑深刻な食糧不
足が生じ︑社会的にも不安が広がっていた︒さらに︑成立したばかりの民主政府の組織全体が大きな財政難に陥ってい
︵83︶ たため︑その政権運営も厳しい情況に置かれた︒
︵84︶ この当時︑東満にはいくつかの銀行が存在していたが︑銀行は一銭もない情況下に置かれていたのである︒また︑鉄
道︑電話などによる収入があっても︑それは鉄道︑電話の復旧事業の補助の費用にするだけにとどまり︑工場の生産の
︵85︶ 復旧建設には︑また民主政府が補助を行なわなければならなかった︒そして︑民主政府の主な収入源として税収と﹁敵
産処理﹂があったが︑税収は︑従来の一九種類から五種類までに激減しただけでなく︑最重要な酒における税収はソ連
︵87︶ ︵86︶ 極東軍に抑えられており︑﹁敵産処理﹂からも業務を維持するぐらいの収入しか得られなかった︒
民主政府は︑厳しい財政状況にあわせ︑民主政府の職員の大幅の削減を行なわざるを得なかった︒民主政府における
職員を一七〇名から一二〇名までに︑各県における政府職員を一二〇名から八〇名までに︑各市︑区における政府職員
︵88︶ を一二〇名から二五名までに削減し︑職員の給料も大幅に削減せざるを得なかった︒
︵89︶︵90︶ 論 糧不足の解決に全力を挙げた︒民主政府は︑延吉県の貧困者に対し︑三五トンの食糧を配給︑そして︑生活が困難な鉄
︵91︶ 道労働者に対し︑五三トンの食糧を配給︑農民に対し︑民主政府の東満各地域における食糧倉庫を開け︑救済を行なっ
︵92︶ たのである
さらに︑民主政府は吉林方面から食糧五九トンを購入し︑東満各地域において︑原価による販売を行なうと同時に︑
︵93︶ 東満における地租の徴収も停止させ︑徴収された金額は︑全部返納させた︒特に﹁土匪﹂の被害が多い江清県において
︵94︶ は︑食糧の徴収などは完全に免除された︒このような︑民主政府の一連の政策の実施により︑東満の社会秩序は安定す
ることができ︑民主政府も東満において広範な社会的支持基盤を築くことができた︒
これに関連して︑この時期というのは︑﹁中ソ友好同盟条約﹂に基づいて︑ソ連極東軍が西満︑南満︑北満における
中国共産党組織の撤退を命令していたため︑中国共産党は相次いでこれらの地域から追い出される一方︑国民党は逆に
︵95︶ これらの地域におけるソ連極東軍からの政権接収を積極的かつ活発的に行なう時期でもあった︒国民党は﹁南満︑西浦︑
︵96︶ 北満における指導権の接収が完全に行なわれれば︑東満の豆満江まで︑一気に攻めることができる﹂と宣言した︒
当時のこれらの情況は︑東満における漢民族の武装勢力に勢いを与えたのである︒なぜなら︑国民党が東満において︑
政府軍を直接派遣したのではなく︑東満における漢民族の武装勢力に対し︑国民党政府の所属軍として命名し︑所属軍
︵97︶ 隊としてのすべての権限をも与えたからである︒そのため︑東北地域における国民党の優位の立場は︑東満における漢
民族の武装勢力にも勢いを与え︑国民党正規軍が東満まで必ず攻めてくることを確信し︑民主政府に対する攻撃や朝鮮
民族に対する攻撃を活発化させたのである︒
︵錮︶ 最初︑羅子溝で一〇〇名にものぼる被害者を出したことをはじめ︑東満の全地域において︑朝鮮民族と民主政府組織
︵99︶ を攻撃目標とした襲撃事件が相次いで発生し︑その被害者は二八九名にものぼっていた︒さらに︑延吉県三道湾の銭輔
説
ところが︑民主政府は︑厳しい財政状況に陥っていたにもかかわらず︑社会的な安定の維持︑回復に中心を置き︑食
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
興は︑明月市の警備隊隊長孫長祥︑第六連指導員金一俊と八道区の民主大同盟委員長達成学など︑一〇人余りを銃では
︵州︶ なく︑長刀で刺殺する残虐な事件も発生した︒
︵肌︶ 和龍県︑安図県においても︑漢民族の武装勢力の攻撃による︑何十名にものぼる人々が殺害される事件が発生したし︑
教化県においても︑漢民族を中心とする武装勢力が国民党支持を公然と表明し︑民主政府の警備隊を襲撃し︑一三〇名
︵10Z︶ にのぼる犠牲者を出した事件が発生した︒また︑抗日聯軍の幹部でもあり︑ソ連極東軍の将校でもある李文章が教化県
︵M︶ における漢民族の武装勢力に殺害される事件が発生した︒一連の漢民族を中心とした武装勢力による残虐な殺害および
攻撃はこの時期に最高潮に達し︑東浦の社会全体に大きな恐怖感を与えた︒
︵104︶ その当時︑未満における主な漢民族の武装勢力といえば︑教化県には劉化一の武装勢力と絶大作の武装勢力︑安図県
︵107︶ ︵106︶ ︵105︶ には大地主単葉釣の武装勢力︑和龍県には審迎春の武装勢力︑建言県には銭鏑輿の武装勢力︑江清県には安振有の武装
︵川︶ ︵11D︶ ︵109︶ ︵摘︶ 勢力︑馬菩山の武装勢力︑王慶雲の武装勢力︑桃玉齢の武装勢力などがいた︒しかし︑未満における漢民族の武装勢力
︵112︶ というのは︑各地域に分散しており︑その活動も完全に一致して︑統一的に行なわれる活動ではなかった︒すなわち︑
互いの連携および援助ができない状態であった︒
︵113︶ 民主政府は︑漢民族の武装勢力に対する徹底的な粛清を行なうことを決定し︑粛清方法も決定した︒つまり︑民主政
府は︑漢民族の武装勢力に対する粛清を行なう際に︑武装力および規模が小さい武装勢力から︑一つずつ粛清すること
にした︒以下において︑粛清過程を簡単に叙述することにする︒
︵114︶ 民主政府が︑最初に粛清をはじめたのが︑和龍県の零迎春の武装勢力であった︒そして︑次に︑延吉県の銭鋪興の武
︵116︶ ︵m︶ 装勢力︑荘清県の四つの武装勢力に対する粛清を行なった︒だが︑安図県と教化県における漢民族を中心とした武装勢
力というのは︑上述した各県の漢民族の武装勢力とは情況が違った︒
︵117︶ 安図県においては︑日本の敗戦にともない漢民族の地主を中心とした﹁臨時県政府﹂が発足されており︑主にこの政
論 説
︵118︶ 府の発足を支持し︑支えていたのが︑大地主単乗釣であった︒彼らは︑民主政府の発足当時から政権の接収に対して︑
徹底的な反対を表明してい璽さらに︑安図県の地形は防衛に適していたため︑民主政府は︑一九四六年三月に南満の
楊靖宇支隊と李紅光支隊が二道白河から攻撃を開始︑東満の邦会魁が警備隊二つを指揮し︑五道陽盆と大拉子から攻撃
を開始する両方面から包囲する方法を採用し︑一〇日間におよぶ総攻撃の末に︑ようやく大地主単乗鈎を逮摘し︑処刑
︵120︶ することができた
最後の敦化県というのは︑東満と西満の境界線であっただけに︑東満防衛の最前線であっただけに粛清は簡単におわ
ることはできなかった︒民主政府は︑教化県における漢民族の武装勢力に対し︑総力を上げ︑集中して︑総攻撃を行
︵121︶ なったが︑漢民族の武装勢力の徹底した抵抗を受け︑一ケ月におよぶ総攻撃は失敗に終わり︑数多くの犠牲者も出した︒
そのため︑民主政府は︑ソ連極東軍に援助を要請し︑戦車二台と﹁カチュウシャ﹂砲を借り︑ようやく教化県における
︵122︶ 漢民族の武装勢力を粛清することができた︒ここで︑ソ連極東軍が民主政府に戦車と武器を貸したのは︑前述したよう
︵123︶ に︑教化県の漢民族の武装勢力によって︑ソ連極東軍将校であった李文章が殺害されたからであった︒
こうして︑教化県における漢民族の武装勢力に対する粛清が完全に終結したことで︑民主政府の東浦における漢民族
の武装勢力に対する粛清は民主政府の完全な勝利でその幕を閉じることになった︒このことは︑漢民族を中心とする武
装勢力の粛清により︑東満における全地域は完全に民主政府の政権下に置かれることも意味した︒すなわち︑民主政府
は東浦における最大の反対勢力の終焉により︑東満において自らの政策を制定および実施することができた︒
民主政府は︑解放されてから東満において︑長く解決することができなかった農業地問題に積極的に取り組むことに
した︒前節で説明したように︑東満における農業地というのは︑全部二四五︑二二七隋︵一階=約三〇〇〇坪︶ で︑一
九四︑二二一階を﹁公有地﹂が占めていた︒すなわち︑﹁公有地﹂に関する問題を解決することができない限り︑東満
における農業地問題が解決することができない情況であった︒
71(4・122)490
東満の民主大同盟に関する考察(金)
︵124︶ 民主政府は︑各県︑市︑区政府の関係者および民主大同盟の関係者を招集し︑緊急会議を開き︑東北地域において︑
︵描︶ ︵126︶ ︵125︶ はじめてとなる﹁延辺専区粗田条例﹂と﹁公有地処置管理条例﹂および﹁公有地処置細則﹂を制定し︑公布した︒すな
わち︑民主政府が詳細な条例および補則を公布したというのは︑東満における農業地問題の解決のために必要不可欠な
規則を提供したことを意味した︒
また︑民主政府は︑六六︑六六七隋の農業地を無代価で︑一〇万人にのぼる土地がないまたは少ない貧農と雇農に分
︵129︶ ︵128︶ 配し︑五月までには東満における農業地問題をすべて解決したのである︒民主政府による土地改革は︑東満の農村地域
における安定を維持および保証し︑民主政府の農村地域における支持基盤も拡大させた︒このことから︑東満における
土地改革というのは︑通説のように中国共産党が最初に行なったのではなく︑民主政府が行なったことを意味し︑中国
共産党による土地改革というのは︑民主政府が開始した土地改革の延長線上あることを意味する︒
しかし︑ここで注目すべきことは土地改革における民主大同盟の役割である︒つまり︑民主政府が条例および補則の
確実かつ順調な執行および実施を保証するためには︑民主大同盟の役割が必要不可欠であった︒以下において︑民主政
︵刷︶ 府が条例の実施のために行なった決定をみることにする︒
一︑各県政府は︑県長︑政治委員︑建設課長︑民政課長︑民主大同盟の責任者などが参加した公有地処理委員
会を組織し︑﹁公有地処置管理条例﹂および﹁公有地処置実施細則﹂に依拠し︑各県における公有地の処
理を行なわなければならない︒
二︑各県政府は︑各市︑区および民主大同盟の責任者を招集し︑討論︑研究を行ない実施方法および実施段階
を決定する︒
三︑各市︑区政府は︑各町および民主大同盟の責任者を招集し︑討論︑研究を行ない実施方法および実施段階
論 説
このことから︑民主政府の条例の実施において︑民主大同盟が重要な役割を果したことが確認できる︒すなわち︑民
主大同盟が土地改革において果たした役割というのは︑成立したばかりの民主政府と大衆の間において︑民主政府の政
策の執行および実施を行なったことである︒つまり︑民主政府の政策の執行および実施には︑東満における民主大同盟
の役割が必要不可欠であり︑民主大同盟の各組織および各会員の積極的かつ活発的な利用が必要不可欠であった︒
しかし︑このように民主政府の政策の制定︑執行および実施において︑重要な役割を果たしていた民主大同盟であっ
たにもかかわらず︑ソ連極東軍の東満からの完全撤退により︑﹁解散﹂されなければならなくなったのである︒
︵131︶ 一九四六年五月三日︑東北地域におけるソ連極東軍の撤退が完全に終わった︒ソ連極東軍の東北地域からの完全撤退
︵132︶ は︑国民党と共産党の東北地域における指導権争いを激化させ︑一触即発の状態にした︒しかし︑中国共産党は︑すで
に一九四五年の末から︑東北地域における国民党との内戦は避けられないと判断し︑東北地域における﹁独覇﹂ ︵中国
共産党だけの独占︶方針から﹁優勢﹂ ︵東北地域における優勢をもつこと︶方針に変え︑ソ連極東軍の撤退の時期を基
︵133︶ 準とし︑強固な根拠地と部隊の建設のための準備を確実に行なうことにした︒以下において︑東満における中国共産党
の再建を叙述する︒ を決定する︒
四︑各町は農民および民主大同盟の責任者を招集し︑会議を開き︑﹁公有地﹂ の処理と﹁春耕運動﹂ ︵春の生産
運動︶ の具体的な計画を討論し︑決定する︒
三 民主大同盟の﹁解散﹂
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
すなわち︑東浦における中国共産党の再建は︑九年もの歳月を要した︒つまり︑東満において︑中国共産党が行なっ
た﹁反民生団﹂闘争によって︑中国共産党の自らの力では︑東満における中国共産党の再建は︑事実上無理であった︒
こうした状況において︑満州における中国共産党の再建は︑ソ連からの抗日聯軍の幹部に任されることになった︒な
ぜなら︑ソ連極東軍が解放した地域において︑中国共産党が直接政権の接収を行なうことができなかったため︑中国共
産党中央東北局はソ連極東軍の軍籍︵軍の在籍証明︶ と軍街︵軍における職務の標識︶をもっていた抗日聯軍の幹部に︑
︵134︶ 東北地域における中国共産党の再建を指示しなければならなかった︒
︵136︶ ︵135︶ そして︑朝鮮民族であり︑ソ連極東軍の将校でもある抗日聯軍の妾信泰が周保中の指示により︑九月一八日に朴洛権︑
︵137︶ 任哲など三〇名の隊員を連れて︑東満の延吉に到着し︑中国共産党の再建を行なうことになった︒一〇月二〇日︑妻信
︵138︶ 泰は東満において︑九年ぶりとなる中国共産党組織−延辺委員会を組織し︑書記に就任した︒
しかし︑東満における中国共産党組織が再建されると︑一一月一二日に中国共産党から関内延安の薙文涛を中心とす
る幹部三二名が東満に派遣されそして︑一言一五日︑延安から派遣された幹部は︑萎信泰が組織した中国共産党
︵川︶︵141︶ 延辺委員会を解散し︑新たに延安から派遣された幹部を中心とした延辺地方委員会を組織し︑薙文涛が書記に︑陳坦︑
︵ば︶ 部会魁︑雲青︑董昆一などが委員に就任した︒以上が東満における中国共産党の再建であるが︑これからわかるように︑
東満における中国共産党組織は︑完全に延安から派遣された幹部に把握され︑徹底的に中国共産党の政策が実施される
ことになった︒
これに関連して︑民主政府は︑東満において積極的かつ活発的に行なわれた漢民族の武装勢力に対する粛清および土
地改革の実施により︑東満の全地域を完全に政権下に置くと同時に︑固い社会的支持基盤をも築きあげたのである︒そ
れ故︑ソ連極東軍の東満からの完全撤退により︑民主政府は東満において唯一の政権となり︑民主政府が目指していた
民主政治の実行が実施されるはずであった︒しかし︑民主政府による民主政治の実行は︑延安から派遣された幹部にそ
論 説
︵143︶ の指導権を把握されていた中国共産党の﹁幹強政策﹂ によって︑実行されることはなかった︒
東満におけるソ連極東軍の完全撤退は︑東満における中国共産党に願ってもない絶好の機会を与えたのである︒すな
わち︑東満において︑民主大同盟を中心として成立された民主政府から民主大同盟の勢力を排除することができれば︑
東満における指導権は完全に中国共産党一党のみが把捉することができる絶好の機会が与えられたのであった︒
この時すでに︑中国共産党は︑東北地域における国民党との内戦に備え︑西満︑南満︑北満と違って︑ある程度は基
︵114︶ 礎が築かれていた東満を中国共産党の強固な根拠地として建設することを決定した︒すなわち︑中国共産党が東北地域
における国民党との持久的な内戦に勝利するためには︑南満と北満を連結させる重要な地域であり︑資源も豊富な地域
である東満が︑根拠地としては必要不可欠であった︒
︵145︶ 中国共産党の当時の東満における民主大同盟に関する調査報告書から重要な内容を抜粋してみる︒
以上の欠点というのは︑中国共産党としては絶対的に許容できない性質のものであった︒それは︑中国共産党は組織 一︑中朝民族の団結に問題がある︒民主大同盟は︑その発展範囲を朝鮮民族だけに限定したため︑国民党がこれを突
破口とし︑反動的な宣伝攻撃を行ない︑中朝民族間の摩擦を引き起こした︒
二︑組織力が散漫である︒数字的な量だけを追求し︑質を重視しないため︑質的に悪い者も入ることができる︒その
ため︑民主大同盟の幹部は︑青年幹部以外には︑帰順者が多く︑労働者︑農民は少ない︒
三︑階級性がない︒このことにより︑入ってきた質的に悪い者による撹乱および破壊を受けやすい︒各組織の責任者
に普遍的に残存勢力と階級異議分子が存在するのも問題である︒
四︑官僚主義傾向が強い︒
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
︵146︶ 内における党員と幹部間題を最重要問題として取り扱っていたからである︒また︑中国共産党の政策および路線は︑中
︵147︶ 国共産党の党員および幹部を通して︑執行および実施するのが基本である︒そのため︑中国共産党の政策と路線の執行
および実施において︑中国共産党の党員および幹部の役割が必要不可欠である︒
このことから︑中国共産党は︑民主大同盟における団結性のなさ︑組織力のなさ︑幹部の質の低さ︑階級性のなさ︑
官僚主義傾向の強さは中国共産党の政策と路線の完全なる執行および実施において︑障害になると判断していたが︑他
︵描︶ 方︑民主大同盟内における会員は︑必要な支持基盤であるとみなしていたのである︒
一九四六年五月二三日︑吉東分省委は︑﹁政治的に問題がある分子は ﹃洗刷﹄ ﹇洗い流す﹈ しなければならない﹂とい
︵用︶ ︵用︶ う指示を出した︒この指示をもとに︑東満における中国共産党の方針が制定されることになった︒その主な内容は︑
﹁民主大同盟における広範な会員は善良であるが︑その指導者には多くの問題が存在する︒指導者において︑良い指導
者は吸収し︑培養することにし︑悪い指導者は ﹃洗刷﹄する︒会員において︑できるだけ多くの会員を ﹃農会﹄ ﹇農民
︵151︶ 会﹈ に参加させることにする︒﹂というものであった︒
こうして︑東満における民主大同盟に対する中国共産党の﹁解散﹂政策が実施されることになった︒中国共産党は︑
民主大同盟の指導者を教育するという名目で通知を出し︑民主大同盟の指導者を訓練所において教育を行なったのであ
︵152︶ る︒そして︑この訓練所において中国共産党の徹底的な教育を受けた後に︑積極性または指導性が認められた民主大同
︵153︶ 盟の指導者は︑中国共産党に入党することができ︑中国共産党の部隊または各県における政府に送られることになった︒
すなわち︑この訓練所において︑積極性もなければ指導性もないと判断された民主大同盟の指導者は︑﹁洗刷﹂され
ることになったのである︒この民主大同盟の指導者に対する基本方針は︑民主政府内における民主大同盟の指導者から︑
各県︑市および区における民主大同盟の指導者までに順次に行なわれることになった︒当時の中国共産党の報告書によ
ると︑民主大同盟の指導者の大多数は︑中国共産党の部隊に送られ︑東北地域における国共内戦に参加させられたので
論 説
一九四五年八月二〇日︑東満の全地域は︑ソ連極東軍の東北地域への侵攻によって︑解放を迎えた︒朝鮮民族を中心
として組織された各職能・社会団体は東満において大きな影響力を持っており︑自発的に統一した延辺民主大同盟をも
創立させ︑綱領を制定し︑組織活動をも開始した︒
この民主大同盟が︑後に東満における政権を掌握することになったが︑民主政治の実行を目標とし︑民主政府を成立
させたのである︒また︑東満において︑部隊を建設し︑国民党支持の漢民族の武装勢力に対する徹底的な粛清を行い︑ ︵154︶ ある︒
東満における中国共産党の民主大同盟の指導者に対する基本方針の実施により︑民主政府および各県︑市︑区におけ
︵捕︶ る民主大同盟組織は︑指導者がいない情況に置かれ︑組織だけが形として︑残されていた︒すなわち︑民主大同盟は
﹁有形無権力﹂ の状態に陥り︑自然消滅されなければならない情況に置かれることになった︒東満において︑民主政府
の政権の基礎を築き︑実際の政権においても重要な役割を果たしていた民主大同盟は︑中国共産党の言葉を借りれば
︵156︶ ﹁解体﹂されなければならなくなった︒こうして︑東満においては︑民主政府における民主大同盟を﹁解散﹂に追い込
むことに成功した中国共産党の一党支配体制が確立されることになった︒
これに関連して︑東満において︑一党支配体制が確立したことで︑東満の中国共産党組織の上級で︑指導的立場にあ
る吉林省政府︑省委員会および部隊が八月一七日に東満への転入を行い︑﹁延辺行政督察専員公署﹂とともに工作する
︵157︶ ことになった︒このことは︑東満における中国共産党が︑直接中国共産党中央からの指示を受けることを意味し︑中国
共産党の絶対的な政策が東満において︑徹底的に執行および実施されることも意味したのである︒
むすびにかえて
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東満の民主大同盟に関する考察(金)
東満の社会秩序の安定を確保し︑土地改革の順調な実施を保証した︒すなわち︑民主政府は︑戦後の東満において︑政
権を掌握しており︑東満における社会安定および建設に大きな影響力を与えており︑東満における社会的支持基盤も固
く築き上げることに成功していたのである︒
しかし︑ソ連極東軍の東滞からの完全撤退により︑民主大同盟は民主政府の成立および民主政府の政策の実施などに
おいて︑大きな役割を果たしていたにもかかわらず︑事実上の﹁解散﹂に追い込まれた︒すなわち︑延安から派遣され
た幹部にその指導権を完全に把握された東満の中国共産党組織は︑中国共産党の政策の徹底的な執行および実施を行な
い︑東満において︑一党支配体制を作り上げたのである︒
彼らは︑最大の勢力である民主大同盟の指導者を学習の名目で︑中国共産党の訓練所へ送り︑積極性または指導性が
認められた民主大同盟の指導者だけを選んで︑中国共産党へ入党させ︑中国共産党のために利用した︒そのため︑指導
者をなくした民主大同盟は︑組織だけが残されることになり︑事実上自然消滅として﹁解散﹂されることになったので
ある︒
こうして︑民主大同盟を事実上の﹁解散﹂ に追い込み︑東満において一党支配体制を樹立した中国共産党は︑後には︑
支持基盤の維持︑確保および拡大に全力をあげることになった︒民主大同盟の﹁解散﹂により︑大衆との連結の柱をな
くした中国共産党は︑後に東満における中国共産党政策の徹底的かつ絶対的な執行および実施のために︑エ作隊を組織
し︑東満の全地域に派遣し︑大衆とのつながりを確保しょうとするが︑それは︑無残な失敗におわることになるので
あった︒
注 ︵1︶ ﹁吉林省委群工会議﹂一九四六年一二月︑延辺朝鮮族自治州楷某局所蔵︒
論 説
︵2︶
︵3︶
︵4︶
︵5︶
義﹂ ︵﹃民族史碩士論文集﹄一九九一年︑所収︶︒
︵6︶ 鶴嶋雪嶺﹃中国朝鮮族の研究﹄関西大学出版部︑一九九七年︒
︵7︶ 大村益夫﹃中国の朝鮮族﹄むくげの会︑一九八七年︒
︵且 延辺朝鮮族自治州党史工作委員会﹇以下州委と略す﹈﹁ソ連遠東軍﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵9︶ 州委﹁解放嘩春﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵10︶ 州委﹁大磐峻戦役﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵11︶ 州委﹁解放東寧﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵12︶ 州委﹁突破七二頂子防戦﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵13︶ 州委﹁解放東大拉子﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵14︶
︵15︶
︵16︶
︵17︶
︵18︶
︵19︶
︵20︶
︵21︶
︵22︶
︵23︶
︵24︶
︵25︶ 中国朝鮮民族足跡編集委員会﹃勝利﹄民族出版社︑一九九二年︒ 曹龍浩︑朴文一﹃邁向二一世紀中国朝鮮族発展方略研究﹄遼寧出版社︑一九九七年︒ 安華春﹁試論解放戦争時期東満根拠地的建設問題﹂︵延辺歴史研究所﹃延辺歴史研究﹄延辺人民出版社︑一九八八年︑所収︶︒ 金昌国﹁解放戦争時期建立東満根拠地的歴史考察﹂︵﹃延辺大学学報﹄一九八四年︑所収︶︑朱相吉﹁論延辺土地改革的歴史意 ︵﹃中国朝鮮族史研究﹄延辺大学出版社︑一九九四年︑所収︶︑金泰国﹁論東北解放戦争時期東浦根拠地的歴史地位与作用﹂ 州委﹁解放羅子溝﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ 州委﹁解放延吉﹂︑﹁解放龍井﹂︑﹁解放和龍﹂︑﹁解放敦化﹂︑﹁解放図門﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ 州委﹁中ソ友好同盟条約﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ 州委﹁国民党部隊的東北進軍﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ 州委 州委 同右︒ 州委 州委 同右︒ 州委
州委 ﹁東満的人口調査統計﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ ﹁間島臨時政府関与地主的布告﹂︑﹁間島臨時政府関与公地的布告﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ ﹁間島臨時政府的基本方針﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ ﹁東満的土地調査統計﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ ﹁声太東﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒ ﹁間島臨時政府﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
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東滞の民主大同盟に関する考察(金)
︵26︶ ﹁土地紛争﹂一九四五年一〇月︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵㌘ 州委﹁ソ連紅軍歓迎会﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵舗二 州委﹁歓迎ソ連紅軍大会﹂︑延辺朝鮮族自治州楷薬局所蔵︒
︵29︶ 同右︒
︵30︶ 注︵24︶の史料を参照︒
︵引こ 州委﹁東満的社会団体﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵32︶ 注︵24︶の史料を参照︒
︵33︶ 州委﹁解放後的東満情況﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵34︶ 注︵28︶の史料を参照︒
︵聖 ﹁労農育組織委員会的設置﹂一九四五年九月︑延辺朝鮮族自治州楷薬局所蔵︒
︵36︶ ﹁労農育代表大会﹂一九四五年九月一九日︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵37︶ 州委﹁東満的社会団体会員統計﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵38︶ 州委﹁延辺労農青総同盟的綱領﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵39︶ 州委﹁延辺労農青総同盟会員名単﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵40︶ ﹁延辺労農育総同盟拡大会議﹂一九四五年一〇月六日︑延辺朝鮮族自治州楢案局所蔵︒
︵41︶ 同右︒
︵望 州委﹁延辺民主大同盟会員統計﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵43︶ 州委﹁延辺各県民主大同盟会員名単﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵44︶ ﹁土匪﹂は︑普通は人々に被害を与える﹁反動分子﹂および﹁悪党分子﹂を指すが︑この論文において︑東満における︑漢民
族を中心とする武装勢力を指すことにする︒
︵45︶ 州委﹁延辺民主大同盟決議案﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵46︶ 州委﹁延辺民報﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵47︶ 州委﹁委棄柱﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵48︶ 同右︒
︵49︶ 州委﹁延辺鉄道工人会﹂︑延辺朝鮮族自治州楷案局所蔵︒
︵50︶ 同右︒