第二章 クザーヌスにおける理性の普遍性と哲学の複数性 ││﹃信仰の平和﹄を中心にして第三章 ︿他者﹀の豊饒性Ⅲ 語りえぬものへの︿開かれ﹀と︿閉ざされ﹀第一章 西田幾多郎におけるクザーヌスとの出会い第二章 東 アジアにおける︿知恵﹀概念の伝統とクザーヌスの︿知恵﹀概念││︿知恵﹀と︿道﹀︑︿無学者﹀と︿愚人﹀第三章 西欧における﹁開かれた世界︑開かれた書物﹂Ⅳ 大きな物語の改訂第一章 ︿文明の衝突﹀の時代の宗教的寛容論第二章 ︿文明の衝突﹀を超える視点終章 現代に生きる中世
以上のような構成からも明らかなように︑本書は多岐にわたるテーマから成る浩瀚な論文集である︒初出データによれば︵五〇五︱五〇八頁︶︑それらの執筆時期は過去二〇年にわたり︑想定読者︵聴き手︶を若干異にするものも混在し︑そのためテーマとしても現代日本の企業活動から西欧中世の宗教思想にまでまたがる︑かなり広範な領域をカバーする個別の論考の集成である︒したがって︑本書全体に著者の一貫した論点を読み取ることは必ずしも容易ではない︒以下ではまず︑各章の論点をごく大まかに追いながら︑本書の全体像を浮き彫りにしてみたい︒
まず序章では︑グローバリゼーションの進行に典型的に表れ 八巻和彦著
﹃ ク ザ ー ヌ ス 生 き て い る 中 世
││ 開かれた世界と閉じた世界 ││﹄
ぷねうま舎 二〇一七年四月刊A5判 五〇九頁 五六〇〇円+税
島 田 勝 巳 本書は︑日本におけるクザーヌス研究の第一人者として長年にわたり活躍してきた八巻和彦の論文集である︒本書の構成は以下の通りである︒
序章 中世から現代を読む││グローバリゼーション︑アイデンティティ︑そして普遍的正義Ⅰ 破局の諸相第一章 原発破局﹁フクシマ﹂の原因を探る
││哲学の視点からの一考察第二章 現代日本におけるアイデンティティの分裂第三章 日本社会における︿社会崩壊﹀と企業活動第四章 近代的思考様式の限界についての一試論 ││﹁科学・技術﹂との関わりを中心にしてⅡ 他者の衝撃第一章 ﹃信仰の平和﹄におけるタタール人像
││︿破局﹀のただ中での︿他者﹀への眼差し
と︿永遠﹀の世俗化﹂といった事態が持つ問題性がクザーヌスを参照しつつ論じられる︒そのうえで第一章において述べられたような日本的﹁科学技術﹂の問題性が改めて指摘され︑さらに近代の機械的自然観や人間観によって失われた︿質﹀的思考の回復の必要性が唱えられる︒
第Ⅱ部﹁他者の衝撃﹂を構成する三つの章では︑クザーヌス思想に依拠しつつ︑︿他者﹀をめぐる思索が展開される︒第一章では︑一四五三年のコンスタンティノープル陥落をうけて執筆されたクザーヌスの﹃信仰の平和﹄において︑西欧中世では否定的な存在であった﹁タタール人﹂がむしろ肯定的に描かれていることの意義が論じられる︒著者によれば︑﹁儀礼の多様性の中に唯一の宗教が存在する﹂︵religio una in rituum va-rietate︶という命題によって︑クザーヌスは地理的および社会階層的という二重の意味において︿他者﹀であるタタール人を︑﹁覚知的無知の思想を身につけた素朴で実直な存在﹂︵二〇〇頁︶として捉えることができた︒第二章では︑クザーヌスがスコラ学的な﹁哲学﹂の概念に代えて提起した﹁知恵の愛求﹂︵amor sapientiae︶なる概念の三重の含意︱神の﹁創造主としての知恵﹂︑人間の﹁精神としての知恵﹂︑世界の﹁秩序としての知恵﹂︱について論じられる︒さらに︑愛求の対象たる知恵は唯一であるにもかかわらず︑知恵の愛求としての哲学は必然的に多様な形態をとるとするクザーヌスの主張は︑︿文明の衝突﹀の議論が喧しい現代においても大きな意義を持つと著者は主張する︒第三章では︑現代世界における︿他者﹀排除の動向が概観されたうえで︑著者自身の︿他者﹀の定義が提示され ている価値の一元化︵普遍的正義の主張︶という現代的趨勢に鑑み︑﹁︿絶対﹀を降りまわすディスクールをできる限り相対化する﹂ための方途が概観されている︒そこで著者の批判の矛先は︑ある集団や個人が﹁普遍的正義の体現を主張すること﹂︵二四頁︶に向けられているが︑この論点は本書に通底する著者の基本的なスタンスと言える︒そうした居丈高な主張に対し︑著者は特に一五世紀の思想家ニコラウス・クザーヌスによる︑﹃知ある無知﹄︵, 1440︶における﹁覚知的無知﹂や︑﹃信仰の平和﹄︵, 1453︶における︿多様な儀礼の中に一つの宗教が︵存在する︶﹀といった教説に︑普遍的正義や絶対性の主張を相対化し得るような視座を求めている︒
第Ⅰ部﹁破局の諸相﹂の第一章では︑二〇一一年の東日本大震災以後の日本が︿破局﹀に陥っているとの認識から︑日本の杜撰な原発政策の要因の一端が自然科学と技術との関係性をめぐる特殊日本的な性格にあることが︑西欧との比較を通して批判的に論じられる︒第二章では現代日本におけるアイデンティティ・クライシスの諸相が概観され︑特に戦後日本のアイデンティティを根拠づけたものとしての﹁日本国憲法﹂とその平和主義の理念を称揚する立場から︑第二次安倍政権に対する痛烈な批判が展開される︒第三章では︑現代日本における企業文化のあり方が﹁ゲマインシャフト﹂の衰弱と﹁ゲゼルシャフト﹂の卓越という古典的類型の視点から批判的に捉えられ︑さらに個人化の趨勢に抗う共生の可能性が模索される︒第四章では︑近代的思考様式の典型としての﹁質の量への変換﹂や﹁︿無限﹀
ったのかを描き出している︒第二章では老子とクザーヌスとの思想が比較検討される︒著者によれば︑地理的にも歴史的にも大きく隔たったこの二人の思想家は︑共に学問的探求の限界を意識しつつ︑絶対者としての︿道﹀あるいは︿知恵﹀の前に謙虚であるべきことを説いた︒理想的な人間像として︑老子は﹁愚人﹂を︑クザーヌスは﹁無学者﹂を掲げながらも︑前者がその孤独性を強調する一方で︑後者はむしろその孤独性を克服した姿として捉えられる︒第三章は︑おそらく本書の副題の含意をもっとも良く伝える論考であろう︒ここでの議論の基点は︑西欧における﹁世界︵自然︶を書物とみなす﹂思考伝統である︒著者によれば︑西欧中世においては︑書物は権威への註釈というかたちで︑また世界も﹁神によって秩序が与えられた完結したもの﹂として︑いわば︿閉ざされ﹀の状態にあった︒それが一五世紀後半から始まる大航海時代の幕開けによって︑地政学的にも世界観︵自然観︶的にも︿開け﹀がもたらされる︒このように︑﹁現前の世界が﹁開かれた書物﹂であるという思想の成立と相即して︑権威的書物に対する註釈が記されることも︑権威に依拠して自己の主張を正当化しようとするという中世には典型的であった知的態度も少なくなる﹂︵三一八頁︶︒だが著者は︑本来的に読書にはまずは解読のためのコード︑つまり何らかの固定点が必要であり︵=︿閉じた﹀態度︶︑読書を通して新たな地平へと︿開かれる﹀のだと言う︒さらに世界・国家・社会とその構成員との関係についても︑著者は同様な構造を指摘する︒グローバリゼーションに象徴される︿開く﹀ことを半ば強要する趨勢に対し︑著者は﹁自発的で相互的 る︒それによれば︑﹁︿他者﹀とは︑各自がその時点で重心を置いているアイデンティティの範囲で︑︿自己﹀ではない存在のことである﹂︵二二六頁︶︒ここから著者は︑人間を重層的なアイデンティティを持つ存在として捉え︑したがって︿他者﹀との交わりもまた重層的なものだとする︒また︑そうした︿他者﹀とのあるべき関係性のモデルを︑著者は自らのクザーヌス解釈から︿楕円の思考﹀と名付けている︒著者によれば︑﹁クザーヌスは︑人間各自の精神の働きを表象して︑円形の広がりをもち︑その円形の中心に思考の主体たる各自が位置し︑その作用形態としての円は精神が向かう対象の遠近に応じて大きさが変わるとする︒つまり︑精神としての各自は︑大小無数の同心円の中心に位置していることになる﹂︵二三六頁︶︒この視点から著者は︑自己と︿他者﹀の関係性を二つの中心を持つ一つの楕円としてイメージしつつ︑この交わりの関係に入ることの意義を強調する︒
﹁語り得ぬものへの︿開かれ﹀と︿閉ざされ﹀﹂と題された第Ⅲ部の第一章では︑西田幾多郎の著作におけるクザーヌスへの言及箇所を追いながら︑西田とクザーヌスの比較対照がなされている︒著者によれば︑西田は﹃善の研究﹄を含む計五篇の論考と一篇の講義草稿でクザーヌスに言及している︒西田の﹁絶対矛盾的自己同一﹂とクザーヌスの﹁対立の一致﹂︵coinci-dentia oppositorum︶の類似性については西田自身が良く自覚するところであったが︑著者は両概念がそれぞれ置かれていた複雑な意味連関や発展のプロセスにも留意しながら︑西田がいかにクザーヌス思想との対決を通して自らの思索を深めてい
終章﹁現代に生きる中世﹂では︑まずは西欧中世に胚胎した制度として科学・技術︑代表制民主主義︑大学が取り上げられ︑それらがそれぞれのかたちで近代西欧に継承された経緯と意義について論じられる︒続いて︑巨大システムとしての﹁現代﹂を生み出した思想的骨格として合理主義︑人間中心主義︑個人主義が挙げられ︑ここではむしろそれらの否定的側面が批判的に検討される︒著者によれば︑西欧近代が中世の知性︵intel-lectus︶概念から理性︵ratio︶概念を切り離したことで︑神と人間とを区別しつつ神との関係に道を開いておくための能力であった理性が︑むしろ人間を動物から区別するための能力に変容した︒著者はこれを近代哲学による﹁理性の囲い込み﹂と呼び︑それを克服しようとしたフランクフルト学派の近代理性批判や︑ディルタイの﹁歴史的理性﹂︵historische Vernunft︶の議論に賛同しつつも︑両者の限界も指摘している︒つまるところ著者の主張は︑他の人間や動植物等のいわば水平方向の︿他者﹀に対してだけではなく︑垂直方向の︿他者﹀たる︿超越﹀に対しても﹁開かれた﹂理性の必要性を唱えるものであった︵四一四︱四一五頁︶︒
以上︑極めて大まかにではあるが︑各章の論点を追ってきた︒先に触れたように︑執筆の時期や機会を異にする論文の集成という本書の性格上︑そのテーマの多面性に起因する一貫した論点の見出し難さについては︑むしろ不可避的と言わざるを得ないのかも知れない︒本書において﹁自らが設定した課題﹂について︑著者自身は旧著﹃クザーヌスの世界像﹄︵創文社︑二〇〇一年︶の﹁あとがき﹂で﹁残された課題の一つ﹂として な︿閉ざされつつも開かれる﹀というプロセス﹂︵三三一頁︶の重要性を強調する︒
﹁大きな物語の改訂﹂と題された第Ⅳ部は︑S・ハンチントンの﹁文明の衝突﹂論を批判的に論じた二つの論考から成る︒第一章では︑︿文明の衝突﹀の時代の宗教的寛容論の一例として︑クザーヌスの﹁本有的宗教心﹂︵connata religio︶なる概念が提起される︒これはいわばすべての人間に共通する根源的宗教心であり︑宗教間で異なる儀礼の多様性はその現れに他ならないとする︒そのうえで著者は︑譬喩で説かれる寛容論として︑トマス・モア︑ジョン・ロック︑レッシング︑鈴木大拙らの議論を紹介し︑最後には自らが﹁文明の衝突﹂の時代にもっともふさわしい寛容論として︑言語能力とのアナロジーによる寛容論について論究する︒それによれば︑世界中の多様な諸言語が万人に共通の一なる言語能力の発現であるのと同様に︑具体的な宗教システムの相違も︑一つの普遍的な宗教の発現とみなすことができる︒こうした寛容論はリチャード・フッカーやピエール・ベイルによっても説かれているが︑著者はそれをまさに現代世界において復活させるべきだとする︒続く第二章では︑︿文明の衝突﹀論が一定の支持を受ける歴史的・社会的要因についての言及がなされ︑さらにそうした状況を克服するための方途が模索される︒ここでも著者は︿閉じる﹀と︿開く﹀の対比を用いながら︑現代世界を席巻する過剰流動性を防止するためには︑﹁新たに獲得した多様性を包摂するために再び︵以前の場合とはまったく同じ状態ではないが︶︿閉じる﹀必要が生まれてくる﹂︵三八二頁︶と主張する︒
いて表明された宗教的寛容論であろう︒実際に︑二〇一一年の東日本大震災以後の日本の状況を﹁原発破局﹂として捉え︑そこに近代以降の世界がはらんでいた諸問題の凝縮した姿を見ようとする著者の問題意識は︑一四五三年のビザンツ帝国陥落という現実を深く思想的に捉えようとしたこのクザーヌスの著作から根本的なインスピレーションを受けたものである︒
クザーヌスの﹃信仰の平和﹄を宗教的寛容論の先駆的形態として捉える読解は︑特に真新しいものではない︒むしろ著者の独自な視点は︑本書第Ⅱ部第三章に見られるように︑﹃信仰の平和﹄におけるタタール人像に注目し︑それを著者自身のクザーヌス解釈の鍵概念でもある︿楕円の思考﹀という論点から捉えていることにある︒︿楕円の思考﹀については先にも触れたが︑この文脈では︑西欧中世においては明らかに否定的な意味を帯びていたタタール人像をクザーヌスがむしろ肯定的に捉えられたのも︑この思考によるものだと著者は捉えている︒﹁この︵楕円の︶思考は︑二つの対立する極︑すなわち立場が︑思惟の中で互いに歩み寄り︑一致するか︑少なくとも調和に至る思考の営みである︒そして︑これは総体として︑真の意味での︑またそれゆえに現代にも妥当する︑寛容の思想の基盤を形成しうるものであろう﹂︵二〇〇頁︶︒著者が﹁六〇〇年後の現代にも通用する思想﹂として捉えるクザーヌスの思想の一端を︑ここに見ることができる︒
だが︑こうした読解とは異なった解釈も可能ではないか︒評者自身はこのテキストを︑西欧中世末期における新たなキリスト教護教論の試みとして捉えている︒﹃信仰の平和﹄では︑諸 記した︑﹁クザーヌスの思想を二一世紀に生かすこと﹂であったと述べている︵五〇三頁︶︒これは実に野心的ではあるが︑同時に実に困難な課題でもあろう︒﹁まえがき﹂ではより具体的に︑﹁現代が陥りつつある袋小路﹂を照射し︑そこからの脱出の方途を模索するために︑中世末期という時代に視座をとり︑特に中世と近代の境界に立つとされるクザーヌスの思想が果たしうる役割について考えてみた︑と語っている︒それは︑著者にとってクザーヌスという思想家が︑﹁一四五三年にビザンツ帝国︵東ローマ帝国︶がトルコの軍事的侵攻の前に崩壊したという︑西欧にとっても一大︿破局﹀である歴史的事件に直面する中で︑周囲の人々との反応とは正反対の︑六〇〇年後の現代にも通用する思想を構築した人物なのだからである﹂︵一頁︶︒ では︑クザーヌスにおけるこの﹁六〇〇年後の現代にも通用する思想﹂とはいかなるものなのか︒その鍵となる概念︱﹁覚知的無知﹂︵知ある無知︶︑﹁対立の一致﹂︑﹁無限﹂︑﹁知恵﹂︑﹁無学者﹂︑﹁信仰﹂︑﹁他者﹂︵他性︶︑﹁知性﹂/﹁理性﹂といったクザーヌスに由来する諸概念︱は本書全体に散りばめられている︒とはいえ︑それらが何らかの明確な像を結ぶような議論が展開されているわけでもない︒それらはたとえば近代の自然科学・技術が批判的に論じられる場合に︑あるいは老子の思想との比較が論じられる場合にといった具合に︑個別の議論の文脈の中で参照されている︒
だが︑そのなかでも本書の論点にとって明らかに格別な重要性を持つと思われるクザーヌスの視座は︑﹃信仰の平和﹄にお
否かは別として︱を持っていたことは疑えない︒著者のような読解が︑近代におけるクザーヌス研究に黎明をもたらしたE・カッシーラーから︑今日のクザーヌス研究における大家の一人であるK・フラッシュに至るまで︑一定の位置を占めてきたのも事実である︒
いずれにせよ︑こうしたクザーヌス解釈の文脈に著者の立場を位置づけると︑その特徴も浮かび上がってくるように思われる︒二〇世紀初頭以降のクザーヌス研究における重要な解釈の枠組みとしてあったのは︑中世/近代という時代区分であった︒それをあえて大胆に図式化してみると︑クザーヌスを﹁近代の先駆者﹂として理解する立場は︑彼の思想をより哲学的基調の強いものとして捉える傾向が強く︑逆に彼を﹁最後の中世人﹂として捉える立場は︑その神学的性格を強調する傾向が強かった︒前者の代表がカッシーラーであり︑その現代的後継者がフラッシュであろう︒一方︑後者の代表はH・ブルーメンベルクであり︑またかなり異なった意味においてであるが︑米国の気鋭の研究者D・アルバートソンもおそらくはこちらに位置づけられるであろう︒本書の著者の場合︑クザーヌス思想をより哲学的観点から理解しようとする点では前者の立場に位置づけられようが︑クザーヌス思想の時代性をめぐる理解に関しては︱本書のタイトルが端的に物語るように︱むしろ両義的な立場にあると言えるであろう︒だが︑まさにこうした著者の両義的な眼差しこそが︑本書の多面性とともに︑その歴史的射程の広さをも可能にしているように思われる︒ 民族を代表する賢者たちが︑御言葉からペトロへ︑そしてパウロへという順番で対話を進めていく︒対話の主要なテーマは唯一神信仰︑三位一体論︑キリストの受肉と復活などであるが︑つまるところクザーヌスは︑あらゆる宗教がこうしたキリスト教の根本教理を暗黙の前提とすることを解き明かそうとしていると理解することもできる︒その意味では︑﹃信仰の平和﹄を︑﹁宗教﹂︵religio︶という概念的装いをまとったキリスト教的弁証論の最初期の一例として読むことも不可能ではないだろう︒
また︑本書では触れられていないが︑クザーヌスのイスラーム論である﹃コーランの精査﹄︵Cribatio Alkorani, 1460/61︶では︑より論争的にコーランの批判的検討がなされている︒そこには宗教的寛容論の先駆者とは異なったクザーヌス像が見えてくるだろう︒もちろん︑その点は著者も十分に承知しているはずである︒実際に︑こうした読解を提示したL・ハーゲマンの﹃キリスト教とイスラーム││対話への歩み﹄︵八巻和彦・矢内義顕訳︑知泉書房︑二〇〇三年︶を訳したのも他ならぬ著者自身であった︒クザーヌス思想に対するこうしたクリティカルな読解は︑まさに著者が問題とする﹁西洋対イスラーム﹂という今日の﹁文明の衝突論﹂的な文脈においてこそ︑尚のこと必要とされるものではないだろうか︒
とはいえ︑むしろそうした解釈をあえて封印してでも本書のような議論を提起した点に︑クザーヌス思想のアクチュアリティを探ろうとした著者の意欲の深さを見るべきなのかもしれない︒確かに︑西欧中世末期という時代性からすれば︑﹃信仰の平和﹄が極めて先駆的な視点︱それを宗教的寛容論と捉えるか