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博 士 ( 文 学 ) 麻 生 博 之

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Academic year: 2022

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博 士 ( 文 学 ) 麻 生 博 之

学 位 論 文 題 名

否定弁証法の射備I ――アドルノにおける自己反省の論理ト一 学 位 論 文 内 容 の 要 旨

  本 論文 は、20世紀のドイツにおいて哲学・社会学・美 学などの広範な領域にわたり多彩 な思 索を 展開 したTh. W.アド ルノ の思想にっいて、のちに「否定弁証法」(die negative Dialektik)として結実してゆくその哲学的思考の射程を 、とりわけ「自己反省」(Selbst‑

ref lexion)と いう 概念 に視 点を しぽり見きわめようと するものである。中心的な課題と なる のは 、「概念によって概念を超え出ようとする努力 」というきわめて逆説的な成り立 ちの うち にアドルノが設定する否定弁証法という哲学の あり方にっいて、一方ではへーゲ ルを はじ めと する ド イツ の哲 学的 諸理 論と の関 連に おい て、 また他方ではJ.ハーパーマ スな ど現 代の諸理論家たちの批判にこたえるかたちで、 「自己反省」をめぐる論理のうち にそ の実 質を さぐ る こと であ る。 おも なテ キス トと して は、M.ホルクハイマーとの共著 r啓蒙 の弁 証法 』(Dialektik der Aufklarung、1950年代 以降 のいくっかの哲学的著作、

そして後期の理論的主著「否定弁証法 』(〃egaとjyeDjajeんHDが もちいられる。(全体は 五っの章から構成される。)

  ま ず第 一章では、アドルノの哲学のひとっの基盤をな す現実に対するその批判的洞察を

「啓 蒙の 弁証法』のうちに見さだめながら、自己反省を めぐる端緒的な構想を確認するこ とが 課題 となる。そのためにまずは、のちに否定弁証法 として主張されるアドルノの哲学 的思 考と の関連も視野にいれっつ、『啓蒙の弁証法』の 基本的なモチーフが確認されたう えで、同書において展開される歴史哲 学的な構図が、とりわけ「自然」(Natur)と「自然 支配」(Naturbeherrschung)という複雑に絡みあった概念にそく して再構成される。その うえ で、 いわぱ新たな野蛮へと転化した自然支配のあり 方に対抗する方途として主張され る「 啓蒙 の自 己省 察 」(dieSelbstbesinnungderAufklarung)という構想にっいて、否定 弁証 法に おいて求められることになる思惟の自己反省と の微妙な差異と連続にも着目しな がら その 実質をとりおさえつつ、しかしなお啓蒙の自己 省察というこの方途のうちに、い わぱ 自然 支配の他者としての自然をめぐりいくっかの困 難が孕まれうることを確認する。

(2)

  第 二章 では 、「 否 定弁 証法jへ とい たる アド ルノの思索のなかでさらに展 開された「思 惟の 批判 的自 己反 省 」(die kritische Selbstreflexion des Denkens)とい う構想にっい て、 まずr啓蒙 の弁 証法 』に おけ る自 己省 察概 念との連続性に着目しながら その実質を確 認し 、そ こに 孕ま れ うる困難をあらためて整理することが主題となる。まず はじめに「否 定弁 証法 」と いわ れ る哲学のあり方がごく大まかにおさえられながら、その 媒体とみなさ れる思惟の自己反省があくまで「批判 的」なものとして位置づけられることが確認される。

次に 、カ ント にお け る「超越論的主観」、またへーゲルにおける「自己意識 」の捉え方に 向け られ たア ドル ノ の批判的な視点をふまえながら、自己反省を遂行する主 体が、身体を 伴っ た個 体の うち で 完結しえない運動として思惟を遂行してゆく、いわぱ非 同一的な主観 のあ り方 のう ちに 想 定されていることが確認される。そのうえで、批判的自 己反省という 構想 に対 して なさ れ うる批判として、アドルノの哲学を、逆説的なあり方か ら脱すること なく 、結 局は 非合 理 的なあり方に帰結するものとして断罪するハーバーマス の所論を概観 することを通じ、啓蒙の自己省察と同 様、思惟の批判的自己反省とレゝう構想にも伴われる かに 見え る困 難、 っ まり自己反省の(起点)と(帰着点)をめぐる困難につ いて整理が行 なわれる。

  第三章では、それらの困難のうち、 まず自己反省の(起点)にかかわる問題をとりあげ、

それ に対 する 回答 を 「非 同一 的な もの 」(das Nichtidentische)という概念 の再検討を通 して 探っ てゆ くこ と が課題となる。そのためにまず、非同一的なものという 概念のうちに 見込 まれ てい るひ と っの実質を、実在的な「ことがらそのもの」(die Sache selbst)とい う論 点に そく して 見 さだめながら、さらに認識の成り立ちのうちでこの非同 一的なものの 意味するより具体的な内実が、「経験 」(Erfahrung)の質料として の「多様なもの」、そし てとりわけ身体的な要素として把握される「感覚」(Empf indung)をめ、ぐって考察される。

その うえ で、 この 非 同一的なものが、しかしなんらかの特殊な直接知によっ てのみ感受さ れう るよ うな 、思 惟 にとって端的に他なるものとして想定されているのでは なく、むしろ あくまで思惟の「同一化」(Identifikation)との関わりのうちで こそ意識され、そのかぎ りで 自己 反省 の起 点 とな るも のと みな され てい ることが、とくに「矛盾」(Wlderspruch) という概念にそくして確認される。

  っ づい て第 四章 で は、思惟の批判的自己反省に伴われるかに見えるもうひ とっの困難、

っま りそ の( 帰着 点 )をめぐる問題をとりあげ、自己反省の過程を通じて非 同一的なもの を開 示し よう とす る アドルノの思考を確認することが主題となる。まずはじ めに、思惟の 批判 的自 己反 省と い う方途の成り立ちが、同一化としての思惟そのもののう ちに見込まれ     ―2―

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る批判的な「否定作用」というはたらきに着目しっつ、あらためて概観されたうえで、さ らにこの批判的なはたらきのうちに想定されるより積極的な思惟のあり方をめぐり、「規 定された否定」(die bestimmte Negation)というへーゲルから継承された概念にっいての アドルノ独自の把握が、「弁証法」をめぐるへーゲルの思考との正反両面にわたる関係を ふまえながら考察される。そのうえで、この規定された否定としての批判的自己反省のう ちにこそ、矛盾として意識された非同一的なものを、あらためて具体的な表現にもたらす 概念的媒体、すなわち「布置」(Konstellation)という諸概念の「連関」ないし「相関関 係」の形成が見込まれていることが確認される。

  最後に結語では、以上の考察を総括しながら、恩惟の批判的自己反省をめぐるアドルノ の哲学的思考の射程、いわば否定弁証法の射程を見きわめることが課題となる。そこでは あらためてへーゲルとの関係において、またハーバーマスの批判に応接するかたちで、ア ドルノの主張する自己反省の内実がとりおさえられたうえで、いわぱ「思考の自由」(die Freiheit des Gedankens)を「客観への自由」(die Freiheit zum Obiekt)として捉えか えしながら、この「客観への自由」の実質をあくまで「思惟の批判的自己反省」のうちに 見いだそうとするアドルノの視点が確認されることになる。

‑3―

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学位論文審査の要旨

主査    教 授    高 幤秀 知( 哲 学専 攻)

副査   教授   植木迪子(独文学専攻)

副査   教授   山田貞三(独文学専攻)

副査   助教授   浅見克彦(哲学専攻)

学 位 論 文 題 名

否定弁証法の射程一一アドルノにおける自己反省の論理ー・一

  本 審 査委 員 会 は、 平 成10年12月11日に 発 足 以後 、 通 算4回 の委 員会を開 催し、 論文の内 容と問 題 点に関 する討議 を輜こ なうとと もに、 口頭試問 を実施し て、以 下のよう な評価と結諭に達した。

  「人 類はな ぜ、真に 人間的 な状艫へと踏みいってゆくかわりに、一種の新たな野蛮のうちに落ち込 ん で ゆ く の かJと い う 問 い ー ーM.ホ ル ク ハ イ マ ー 、Th;W. ア ド ル ノ を は じ め と す る 「 フ ラ ンク フルト 学派Jによる批 判理論 のひとつ の原点 をなすr啓蒙の 弁証法 』(1944午 )において発せら れた こうし た問いに 対する 、より深化された批判的応答の内実を、後期アドルノの哲学的主著『否定 弁証 法』(1966年)にお ける思 惟の批判的自己反省の論理のうちに探ること、これが本論文の主題で ある 。『否 定弁証法 』の課 題は「主観のカによって構成的主観性の欺瞞を打ち破ること」にあると、

アド ルノ自 身によっ て記さ れていた 。

  アドルノ独自の((否定弁証法の射程))を思惟の批判的自己反省において把握することによって、一 方に おいては へーゲルとの対位と継承との関係をあきらかにするとともIご丶他方においてはハーパー マス のアドル ノ批判 に応答す るとい う、本論文において設定された所期の課題は、その首尾一貫した 論述 において 十全に 果たされ ている 。アドルノはへーゲルの論理へと回収されるとする粗略な解釈、

また アドルノ はハーバーマスの批皐nこよって克服されたとする安直な解釈はいずれも、その論拠を喪 うのである。ここに本論文の揺るがぬ成果がある。

  本論 文の結語 部分で は次のよ うに述 べられている。思惟のはたらきが、矛盾として意識される非同 一的 なものを 起点と しながら 、同一 化というそれ自身のあり方を吟味し、布置という諸概念の連関に 向け て、みず からを 組みかえ てゆく こと、このことによってこそ、そのものとしては思惟がっくりだ すわ けではな ぃ非同 一的なこ とがら は、な輔開示される、と(本論文99頁参照)。そして、同一化作 用へ といわぱ 命じら れてある 思考が 、概念的な知そのものの動揺というかたちをっうじて、こうした 同一的ならざるものへの行程を開始し遂行する、と把握されているとすれぱ、そこには、「批判理論」

に蒲 いていわ れる《 批判)) という ものの所 在が明瞭 に浮彫 にされて いる、 というこ とができる。

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  この ような積 極的評価のうえで敢えてな錨、議論の余地を残すとされ る論点をあげるとすれぱ、ア ド ルノ のこうし た哲学的試行は、倫理学、美学、社会学そしてさらには 文学、音楽学などの各領域へ と 展開 されてい るのであるが、本論文ではむしろ、そうした具体的展開 への基盤をなすアドルノにお ける((自己反省の論理))そのものを究明することに主要な問題関心が向けられている。そのかぎりに お いて 本論文に はなお、それらの具雉的錯問題領域へと探究をすすめる ことによって、その論理自体 の内実をさ らに充実させてゆくという余地は残されているといえよう。またこのことと関連して、『啓 蒙 の弁 証法』か ら『否定弁証法』への連続性に着目するあまり、それら のあいだの「微妙な差異」な い しは 断絶につ いての論究が、かならずしも充分には分節化されてはい なぃといった問題次元が指摘 さ れる であろう 。自己保存の欲動という生の罪科そのものがもはや、生 とは和解され離いという事態 こ そが 、『否定 弁証法』の段階におけるアドルノにとっての哲学への動 議づけをなしていた。自己保 存 と衝 動という 契機を根こそぎにされた思考は変容し、潜勢カを秘めた まま凝縮されゆかざるを得な い と す れ ぱ 、 こ こ に は な お 考 究 さ れ る べ き 問 題 囲 が 存 在 す る と 考 え ら れ る 。

  さ らに 展開されてよいこう した論点を残すとはいえ、しかしそれらはいずれも、本 論文において達 成さ れた 成果を損じるもので は決してあり得ない。アドルノのテキス卜の徹底的な読 解に基づき、―

方で はド イツ古典哲学に対す るその関係を慎重に考察するとともに、他方では現在の 欧米のアドルノ 解釈 に対 する周到な批判的検 討を踏まえた本論文によってようやく、これまでの日本 における解説的 論評 や個 別的研究の水準を越 えた、本格的なアドルノ哲学研究へのひとっの確実な立 脚点が構築され よう とし てい る、 と 高く 評価 され ると ころ であ る。

  本審査委員 会は、以上の評価に基づき、全員一致して、本論文の著 者麻生博之氏に博士(文学)の 学位を授与す ることがふさわしいとの結論に達した。

参照

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