阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
著者 熊谷 公男
雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学
号 16
ページ 1‑24
発行年 1986‑03‑01
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024194/
阿 倍 比 羅 夫 北 征 記 事 の
・研 究 史 的 検 討
熊 谷 公 男
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
は
じ
めに﹁
日本書紀﹂
︵以下﹁
書紀﹄と略す︶の斉明紀には阿倍比羅夫が蝦夷・
粛慎を討つたという有名な話があるが︑この話は﹁
書 紀﹂
の記事自体にさまざまの疑問があるうえ︑
飽田・
浮代・
津軽︑
あるいは渡嶋といっ
た︑奈良時代においても完全に中央政府の支配下に入らない最北の地域の蝦夷と実体不明の粛慎とを討つたとする記述があるため︑
これまで種々
の議論を呼び︑多くの
人びとによっ
て取り上げられてきた︒
私は︑この比羅夫の北征の間題を考えるには︑津田左右吉氏以降の多くの先学がそうしたように︑
まず第一
に﹁
書紀﹂ の
関係記事の文献学的考察をぉこなうことが不可欠であると考える︒
そこで小稿では︑
比羅夫の北征記事自体を文献学的に考察した研究を取り上げ︑検討してみることにしたい︒
1
阿倍比羅夫の北征記事については︑古く本居宣長が
﹁
古事記伝﹂
で﹁ 一
度のことなりけむを︑異なる伝によりて︑まぎれて﹂
複数の
記事になっ
たとして︑﹁
書紀﹂
の記載に疑問を投げかけて以来︑今日までさまざまな議論がなされている︒
昭和の
初年に︑
丸山二郎氏は斉明紀の三ヶ年の
記事は︑
事実この
三ヶ年の
出来事なのではなく︑斉明四年以前からの
北進に関する幾多のものをここにまとめて掲げたの
ではないかとした ︵︐M
︑氏の論説は rこれらの記事中にあるいくっ
かの不合理なもの
につ
いての
疑問を発したに止
ま ︵a ﹂
もの
で︑比羅夫の北征記事にはじめて系統的な史料批判をぉこなったの︵ 3
︶は津田左右吉氏であ
っ
た︒
津田氏は史料
A
とC
︑D
とE ︵
巻末関係史料一
覧参照︒
以下同じ﹁
︶を際対書︑すの倍︵
陪阿はに照纂編紀てにるよことっ
部︶臣の
征討に関する二つ の
史料があつ
て︑ 一 つ
のには主将を単に阿陪臣と記し︑
征討の日的を蝦夷としてあり︑他の一
つ
のには主将を阿際引田臣比羅夫︑征討の日的を粛慎と記してあっ
た﹂
として︑
AとD
は前者︵これを甲とする︶︑C
とE
は後者︵
これを乙
とする︶の ︑
異なる二つ の
系統の
史料によっ
て記述されたとする考えを示した︒
右の甲の史料は征討自 体の
経過を記すが︑乙
の史料は﹁
征討の結果としての
捕虜もしくは土宜の献上に関する﹂
記録とみられるという︒
かくて︑ 津田氏においては︑斉明四年紀のA
とC ︑
五年紀のD
とE
は︑それぞれ同一
の事実の記録にほかならず︑
粛慎はすなわち蝦夷の異称ということになる
︒
津田氏の見解は
︑
右にみたように︑斉明四年紀と五年紀に関してはまことに明快であるが︑考察が六年紀に及ぶと一
変して難渋となる
︒
六年紀ではF
を甲︑G
を乙
による記事と認定する︒
ところが︑ F
は甲の
史料でありながら︑征討の 対象を粛慎とし︑しかもそれを蝦夷と区別しているという︑津田氏の前記の見解と矛盾する記述になっ
ている︒
このア ポリアを津田氏は︑粛慎の名称の適用範囲が時代によっ
ていくぶん変化したという想定をすることによっ
て乗り切ろう とする︒
津田氏は粛慎を渡嶋︵氏によれば飽田・
浮代・
津軽地域の総称︶の蝦夷の雅名と解するのであるが︑遠征当時の 政府の
記録から出たと考えられる乙 の
史料はこの原義によっ
ているの
に対して︑遠征からしばらくたっ
て記事をまとめ た甲の
史料の筆者は︑四年・
五年の
遠征で服属した蝦夷と六年の征討においてもなぉ完全に服属しなかった蝦夷とを区 別し︑
後者のみを粛慎と呼んだの
であっ
て︑
本来よりも粛慎という呼称をせまく限定して使用しているというのである︒
こ
の
ようにして︑津田氏は阿倍比羅夫の北征記事は甲・ 乙
二つの
系統に分けられるとする立場をとっ
たうえで︑
斉明阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
阿信比羅夫北征記事の研究史的検討
紀
の
四年 '五年 '六年には甲・ 乙 一 つ
づつ
の対応する記事があり︑
この
三対の記事はそれぞれ同一 の
事実にもとづいて いると考えたの
である︒
したがっ
て津田説によれば︑比羅夫の違征は三年間に三度あったことになり︑
年ごとに遠
征の
目的地
が奥地に進んでいっ
たと解するのである︒
津田氏の方法は
︑
村尾次郎氏の﹁
阿倍比羅夫の北海行につ
いては︑
話の
筋よりも︑まづ史料としての整理が先決条件で ある﹂
という言葉に端的に表われているように︑
その後の
研究に大きな影響を及ぼし︑津田説の
根幹をなす甲・ 乙
二系統 論は坂本太郎氏に発展的に受け継がれていく︒
津田氏
の
史料批判でもっ
とも間題となるの
は︑
村尾氏も指摘しているように︑
記事の年紀をまったく疑うことなく︑
四年紀の
A
とC
︑五年紀の D
とE
を対応する記事と認めたことで︑
粛慎=
渡 :幅の蝦夷とする氏の
見解も結局はこの対応関係を主たる拠りどころにしているとい
っ
てよい︒
現在においても粛慎を蝦夷の
異称とする見解をまま見受けるが︑
右の
対応関係が成立しないとすると︑
粛慎1 1
蝦夷とする載極的根拠はま
っ
たくなくなっ
てしまうことに注意すべきである︒
いうまでもなく︑これらの記事
の
年紀の信懸性は自明の
こととはいいがたく︑
特に乙
のC ・ E ・ G
は同時重出とみるの が現在では通説となっ
ているくらいである︒
かりに津田氏の
ごとき対応関係が認められるとしても︑ F
では明らかに渡 lE の
!a
実が粛慎と区別されてぉり︑
この
点に関する津田氏の
説明はいかにも苦しい︒
村尾氏が﹁
この方法には無理がある と断ぜざるを得ない﹂
と批判したこともうなずけるのである︒
ところが村尾氏
の
批判はこの
点にとどまらず︑
比羅夫の
征討記事を﹁
単に引田臣比羅夫の名が明記されてゐるか︑-e
な いかで二分することは︑
果たして正しい推測といへ
るであらうか︒
その結果︑ 乙
史料が捕成や土宣の献上だけを伝へ
る記録であ
っ
たとしなくてはならないのは︑どうも落着かない︒ 一
応まとまつ
た記録ならば︑事件の推移全体を︑終始にわた
っ
て書いてこそ自然である︒
かう考えると︑博士 の
二分説には首肯致しかねることになる︒ ﹂
とし︑津田氏の甲 '乙
二系統論そのも
の の
否定にまで及ぶのである︒
だが︑この点に関する村尾氏の
批判はいささか性急というべきであろう︒
r阿倍︵陪︶臣領
﹂
という表記は特徴的といってよく︑史料の
系統を定める一 つ の
指標になりうると思われるし︑乙
の史料が 違征の結果としての貢献に関する記録ということも︑津田氏の
ごとくこれを政府側の
記録とみれば︑一
応説明のつくこ とである︒
そのうえ津田氏は甲の A ・ D ・ F の
三条につ
いて︑その
書出しがいずれも同じ﹁
筆致﹂
で︑本文の記述も﹁
違征 の行はれてから幾らかの
時日を経過した後になつ
て︑
総括的な叙述をしたものであるらし﹂
いという共通の性格がみられ ることにも注意を向けている︒ ﹁
書紀﹂
の年紀を疑わないことと︑違征の対象が甲と乙
でちがっ
ているとする点を修正す れば︑
津田氏の甲・ 乙
二系統論は十分に成立の根拠を有しているとみてよいと思われる︒
.
二
津田氏
の
論考の
あとしばらくの間︑阿倍比羅夫の
北征記事に関してはめだっ
た研究はなかっ
たが︑戦後︑一
九五〇年 代に入ると相つ
いで重要な研究が発表された︒
まず瀧川政次郎氏は
︑
斉明五年紀のD
に政所を置いたとある﹁
後方羊蹄﹂
を北海道の
余市と考定した論考を発表する︵︐ M︑そこで阿倍比羅夫
の
北征記事の史料的性格につ
いてっ
ぎの
ように述ぺている︒ ﹁
日本書紀は帝紀及び諸氏の第記を史 料として編纂したもの
であるから︑斉明紀に見える比羅夫遠征の
記事も朝廷若しくは阿倍氏に伝つた記録を史料として阿信比羅夫北征記事の研究史的検討
五
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
六 作られたものに相違ない
︒
而して書紀算録者の
史料を取扱うや頗る慎重であっ
て我意に任せて史料の取捨を行わず︑異 説あるもの
は﹁ 一
書日﹂
として原史料を悉く掲戰している︒
故に彼等はまた妄りに史料の文章字句を改補することなく︑
できるだけ史料原文を生かすことを念とした
︒
斉明紀に見える﹁
阿倍臣﹂
が阿倍引田臣比羅夫なることは︑
書紀編纂者も 見当がつ
いていたことと思うが︑
彼等はその
使用した原史料に単に﹁
阿倍臣﹂
とあるの
みであつ
たので︑ ﹁
阿倍臣開名﹂
と し︑敢えてその名を補おうとしなかつ
たのである﹂
と︒
この瀧川氏の
見解は︑
概括的なものではあるが︑﹁
書紀﹂
の編者が 原史料に忠実であっ
たことを強調する点など︑のちに発表される坂本太郎氏の見解に基本的に一
致するといっ
てよく︑ 注日に価する︒
ただF
につ
いて従軍記者の
日録をその
まま掲載したとする点は津田・
坂本両氏の見解と大きく異なる︒ l
︵ 5
︶瀧
:
氏と同時期に発表された田名網宏氏の
論考は︑
史料批判に関してはまっ
たく津田説に依拠しているが︑翌年村尾 次郎氏は津田氏の甲 '乙
二系統論に批判を加え︑全面的否定論を展開- :︶ ︵・ M-
︒
村尾氏は︑まず津田氏が甲史料としたA
とD の
比較検討を試みる︒ A
とD
は用字の上で異なる点があり︑また﹁
大体の話の
筋はほとま
じ﹂
であるので︑A
とD
は﹁
同系ではなく︑
実は同じ事件を述べたもので- -
比羅夫の
違征は︑
二回ではなく︑一
回であっ
たといふ結論が出る﹂
と︑別系統
の
同事重出記事とみる︒ つ
ぎにA
とB
の記事内容の比較をぉこない︑ ﹁
彼解相応じて重複が無いから︑A
︑B
は同一
史料の
前後記事であると考へ
ても矛盾がない︒ ﹂
として︑ A
とB
を同系統の
前後記事とする︒
また︑津田氏が乙
史 料としたC
'E ・ G
につ
いては︑
記事の
年次がちがうというだけで︑内容はみな類似するので︑ ぃ
ずれも﹁
同一
年に於け る同一
事件にっ
いて記した数種の
年代記風の
記録﹂
によっ
たもので︑
原史料の
示す年紀によって採録されたため﹁
唯一
回の
事件が︑あたかも毎年行はれたやうに﹂
なっ
てしまっ
たもの
で︑すべてF
に対応する記事であるとみる︒ 一
方︑ D
には道奥国司以下
の
授位のことがあり︑F
に陸奥蝦夷がみえるので﹁
これを重視すれば︑D
︑F
に近親関係を考へ
ることもで きるかもしれない︒ ﹂
という︒
村尾氏はこれらの
個別的な考察を総合して︑比羅夫の北征記事は﹁
むしろ二系統ではなく︑ さらに多くの
異る記録の
断片から成るもの
であること︑
また︑記事の年紀には疑ひがあると同時に︑
内容的に見て︑
唯一 の
事件の
種々 の
断片を︑
異る筆により︑部分的に記載したものであることが︑
ほ一一一
一一
明らかとなつ
た︒ ﹂
という結論を導き出す
︒
結局︑村尾説は
B ・ D
をA
に︑C ・ E ・ G
をF
に関係づけ︑さらにD
とF の
間に﹁
近親関係﹂
を想定することによっ
て︑ これら七つ
の関係記事の
すべてを同一
年の一
連の
事件に収斂させようとするもので︑結論的には宣長説と同じである︒
氏の
説でいちばん間題なの
は︑D
とF
との間の﹁
近親関係﹂
なるものが︑
個別的考察の
段階ではその関係を示唆するにとどまっ
て いるにもかかわらず︑結論部分ではあたかもそれが証明済みかのように扱われていることである︒
村尾説は︑一
その論理構 造からいっ
て︑ D ︵
あるいはA ︶
とF
が﹁
同一
年における同一
事件﹂
であることが証明されないかぎり成立
しえないはずで あるが︑
この
点が何ら積極的に証明されていない︒
またA
とD
を別系統の
史料とする根拠もいささか薄弱である︒
用字 法の
相違は系統の
相違を一
Kすとはかぎらないし︑﹁
大体の
話の
筋はほとんど同じ﹂
といえるかも疑問である︵ただしこの点 は坂本説でも踏襲される︶︒
したがっ
て︑
村尾氏の
違征一
回説は成立しがたいといわざるを得ない︒
しかしながら
︑
村尾説は個々
の点では継承すぺきことが少なくない︒
津田氏の﹁
各記事の
年次を疑わない立場﹂
をし りぞけ︑ 乙
系統の C ・ E ・ G
を同一
事件の
異伝としたことなどは︑
その後の研究に引きつ
がれ︑定説化した観がある︒
また
︑
その
後の研究には継承されなかっ
たが︑私は︑村尾氏がA
とB
を﹁
同一
史料の前後記事﹂ の
可能性があることを指阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
七
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
八 摘した点は傾聴に価すると考える
︒ つ
づいて︑一
九五〇
年代の
重要な研究として坂本太郎氏の
論報
を取り上げてみよう︒
坂本氏は r書紀﹂ の
斉明紀より前の
蝦実関係記事全般にわたっ
て文献批判をぉこない︑それらが旧辞潤色型・
氏族伝承型・
造作型・
実録型の
四種に区分できることを示したうえで︑斉明紀の
蝦夷関係記事につ
いてもこの
四類型を下数にし︑旧辞潤色型以外の三類型は認められるの
ではないかとして考察をすすめる︒
坂本氏は斉明元年是歳条
の
bを造作型とし︑比羅夫の北征記事に関しては氏族伝承型と実録型のもの
があっ
たとする︒
氏が氏族伝承型と認定したの
は︑
阿倍臣が開名の
ままの A ・ D ・ F
の三条で︑
津田氏の
甲系統の
史料に一
致する︒
氏によれば︑
これらの
三ヶ条は﹁
そろっ
て説話的な内容をもっ
ており︑
きちんとした記録の体でな﹂
く︑ r論理的に考えれば︑つ
じっ
まの合わないことが多﹂
い︑という共通の
性格がみられる︒
そして﹁
およそこうした︑
おおらかな︑めでたい物語は︑人々 の
間に愛調せられ育成されたもの
であっ
て﹂
︑﹁
越国守阿倍氏の
家に伝えた物語﹂
としてふさわしぃ
という︒
阿倍氏を開名にした記録が阿倍氏の
家記というの
は奇異の
感がするが︑
坂本氏はこれを阿倍氏内の布勢臣系と引田臣系の間 に対立
を想定することによっ
て説明を試みている︒ つ
ぎに坂本氏は︑
この
家記にもとづく史料を﹁
書紀の
記述︑家記の記述︑
実際の
事実の三段階に分けて﹂
考察すべきことを提唱し︑
まず﹁
書紀﹂
が家記の
文を忠実に採用したか否か︑
という間題を考える︒
この点に関しては瀧川氏と同様の理由から︑ ﹁
編者は辞句に多少の修正を施すぐらいのことはしても︑
記事の
大本を動かすほどの修正はせずに家記を採用したに違いない﹂
と考える︒ つ
ぎに家記が事実を正確に伝えているかという問題であるが︑この
点になると氏は懷疑的である
︒
三ヶ条の
うち﹁ A ・ D
は阿倍臣が船師百八十艘を以て蝦実を伐つたこと︑
蝦夷を整し郡領を定めたことにおいて全 く一
致して﹂
いるが︑
これは﹁
事実は一
年の
出来事であっ
たの
を︑
伝承の
間にそれが二年のことのように延ばされたので はあるまいか﹂
として︑
同一
事件の記録とみる︒
ただし︑F
は対象を粛慎国とし︑
船数もちがうことを以つて︑これは別の
事件とする︒
かくて坂本氏は﹁
初めに蝦実を平定確保した一
段階があり︑
次にそれを根拠として粛慎を伐つた一
段階が あっ
た﹂
という二度の
征討説を唱えるの
である︒
その
年紀につ
いては︑ 一
回目をdやB
との
関連からA
を正しいとみて四 年とし︑
二回日をF
やG
によっ
て六年とする︒ 一
方︑
津田氏が乙
史料としたC ・ E ・ G
につ
いてはこれを実録型と認定したうえで︑
いずれも六年の粛慎征討の政府記録の断片とみるべきもので︑原史料に年時が明記されていなか
っ
たため︑ ﹁
書紀﹂
の編者が阿倍氏の
家記の年次を基準 として諸所に配置したために混乱が生じたとする︒
さらに︑
津田氏が系統を明言しなかっ
たB
も︑﹁
郡領﹂ の
叙位・
賜物 が詳細に記されているので︑政府記録と認定し︑年時も大体信用できるとみるのである︒
以上が坂本氏
の
阿倍比羅夫征討記事に関する見解の大要であるが︑坂本説の
第一
の特徴は津田説の
甲・ 乙
二系統論を 基本的に引きつ
ぎっ つ
も︑
氏自身が﹁
私見は記載の
年時につ
いてはかなり懷疑的な立場をとり︑修正を敢てしたが︑蝦夷 と粛慎とは峻別するという基本的な態度で展開した﹂
と述べているように︑
津田氏が﹁
書紀﹂ の
年紀を疑わず︑
粛慎を蝦夷 の雅名としたのとは対照的な立場をとっ
たことにある︒
既述の
ごとく︑
村尾氏が﹁
書紀﹂
の年紀を極端なまでに疑い︑
諸 史料を一 つ の
事件に帰着させる所論を展開したが︑坂本氏はかかる立場を︑
限定的にではあるが︑継承したとみること ができる︒
特にC ・ E ・ G
を同事重出とみる点は村尾氏とまっ
たく同じである︒
また︑
AとD
を一
つの事件にもとづく阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
九
阿倍比-
E
夫北征記事の研究史的検討十 記事とみる点や粛慎と蝦夷を峻別する点でも村尾説と同じである
︒
要するに坂本説は︑研究史的には津田説を基本的に 継承しっ つ
も︑村尾説を部分的に取り入れて︑津田説の
弱点をたくみに補強したもの
と評価できよう︒
とはいえ︑坂本説が両説の単なる折衷説でないことはむろんである
︒
津田氏のいわゆる甲史料を阿倍氏の
家記にもと づく記事と認定したのは氏の
創見といっ
てよい︒
その
萌芽は瀧川説にもみられるが︑これを史料系統論のなかに明確に 位置づけ︑
具体的に論じたの
は坂本氏をもっ
て嚆矢とすることができよう︵なぉ︑
関名の理由につ
いては︑その後若干の 疑問も出されているように︑ 必
ずしも説得的ではない︶︒
また︑この
間題に関連して︑ ﹁
書紀﹂ の
編者が原史料の文章にか なり忠実であっ
たことを明快に論じた点も尊重されるべきであると思われる︒
坂本氏が結論として四年の蝦一夷と六年の
粛慎の二度の征討があっ
たとしたことも︑A
〜F の
すべての
史料の
年紀を疑うことなく三度の征討があっ
たと考える 津田説と︑すべての
史料を﹁
同一
年における同一
事件﹂ の
記録とする村尾説にくらぺ︑はるかに無理が少なく︑それだけ 説得力に富んだもの
になっ
ている︒
このように坂本説は多くの点ですぐれており︑現在の通説たるにふさわし
ぃ
内容をもっ
ているが︑万全というわけで はない︒
例えば氏がA
とD
を同一
事件の記録とみる点である︒
その
最大の根拠は︑二つの
記事の内容が類似するという︵8︶ことである
︒
これは佐藤和彦氏も指摘しているように︑
村尾説を継承したもの
であるが︑坂本氏は村尾氏の
ごとく単な る同事重出とみるの
ではなく︑ ﹁ 一 つ の
事件がの
ばされて四年と五年とにかけられた﹂
︵傍点1
引用者︶
と︑両者を同一
事 件の
前後記事と考えるのである︒
だが︑この点は積極的に証明されているとはいいがたい︒
確かに百八十艘という船師﹁
︑然津自扱に多氏田︑
取多ふ語実に数師れ︑自の
が数て数一
致すた体の
船の不ては数例傍徴くがをしがもとぃ
もしこる ︵ 9︶の ﹂
としているように︑事実とはみなしがたい︑
実体の
ない数字である︒
そのような数字が一
致しても同一
事件か否かの 判定材料とはなしえないと思われる︒
さらに﹁
蝦夷を一 Eaし郡領を定めた﹂
ことも全く一
致するとするが︑一整応の対象になっ
ているの
はA
では渡嶋蝦夷であり︑D
では飽田・
淳代・
津軽・
胆振組の
蝦夷である︒ A
の渡島蝦夷をD
の各地域の蝦夷 の総称とみれば両者は一
致することになるが︑
周知の
ごとくその
こと自体さまざまな議論のある大きな間題である︒
また ″郡領〟を定めたことも双方に記載があるが︑
A
は浮代・
津軽の
二 ″郡〟の ″郡領〟を定めたとするのに対し︑D
には問'0免蝦夷
の
進言によっ
てか か
和静を政所として ″郡領〟を置いて帰つたとあり︑明らかに異なっ
た内容になっ
てい ︵a ︒
もっ
と も︑A
とD
を単なる同事重出ではなく︑
同一
事件の
前後記事とみるの
であれば︑絶対にありえないとはいえないが︑
両 者が同一
年の一
連の
事件であることを積極的に証するもの
は何ひとつ
ないといってよく︑そう考えることも不可能ではないという程度
の
仮説にすぎない︒
佐藤和彦氏はこの両記事を比較検討して︑﹁
A・ D
は同事重出ではなく︑斉明朝の北方違征記事
の ス
トーリI の
中で︑
それぞれに異なる位置・
役割を占める﹂
ことを主張している︒
要するに︑A
とD
を同時 重出とすることには多くの
無理があり︑
坂本氏の
ごとく同一
事件の前後記事とみるにしても︑決め手に欠け︑一
仮説た︵=︶るにとどまるとみるべきであろう
︒
坂本氏が
A
とD
を﹁
事実は一
年の
出来事であったのを︑伝承の間にそれが二年のことのように延ばされた﹂
と考える背 後には︑
阿倍氏の家記に由来するとする史料全体に対する氏の
認識がある︒
坂本氏によればA
'D
'F
の三条は︑書出 しの一
文以外は記録の体をなしておらず︑一
定の期間阿倍氏の
人々
によっ
て愛誦・
育成されたにふさわしい内容をもっ
ているというのである︒
この点は︑津田氏が甲系統の史料に関して﹁
書紀の
筆致からみると︑
遠征の行はれてから幾らか阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
十
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
十二
の
時日を経過した後になつ
て︑総括的な叙述をしたらしく推測される︒ ﹂
と述べ
ていることを継承したもの
とみられるが︑ かかる両氏の認識には再検討の
余地があるように思われる︒
A・ D ・ F
には確かに説話的内容の部分が少なくなく︑
と くにF
などは津田氏が﹁
説話的な二人の
老翁の
行動の
みが際立つ
て精細に写され︑
戦役の経過
が却つ
て暖味﹂
といっ
てい るとぉりで︑金体が説話的記述になっ
ているといっ
てよい︒
しかし︑ A
とD
はかなり様相を異にするように思われる︒ D
の末尾の
道奥と越の国司以下の
叙位の
部分などは︑佐藤和彦氏も指摘しているように︑
明らかに記録的内容になっ
ているし
︑
同じD の
前半の
大一要に関する部分も︑招いた蝦夷の
人数を具体的にあげて︑
こと細かに記していて︑ ﹁
人々
の間 に愛調せられ育成させられた﹂
話とするには程遠い内容で︑
やはり記録体とみるべ
き箇所である︒ A
では︑
恩荷に小乙
上 を授け︑
浮代 '津軽二 ″郡〟の
″郡領〟を定めたとする部分が記録体といっ
てよいと思われるが︑
これをB
と比較する と︑
村尾氏が指摘しているように︑
両者よく対応して相互
に矛盾・
重複がないので︑ A ・ B
は同系統の
連続した記事と みる余地があると思われる︒
この推定が成立すればむろんであるが︑
たとえ成立しないとしても︑
坂本氏が阿倍氏の家 記に由来するとした系統の記事は︑説話的記述のみから成つているの
では決してなく︑記録的体裁の箇所が一
定部分を 占めていることは否定しがたいの
である︒
私は︑
坂本説の
最大の
間題点はここにあると考える︒
この
系統の史料の
説話 的性格のみを強調する津田・
坂本両氏の
見解は再吟味を要すると思われるのである︒
以上で坂本説
の
検討を一
応終えることにするが︑氏の
見解はその
後︑例一一えば高橋富雄氏が﹁
比羅夫遠征記事が︑すくな くとも︑
二種類の史料から成り立つていること︑
その一 つ
が阿倍氏の伝承的な家記群であり︑他の一 つ
が政府の記録で︑
. .一︑-l-・ ・ .
︵l 2︶〇あることはほぼまち力︐ vのなしところであろう
﹂
と坂本氏の文献学的考察をほぼ全面的に受け入れたように︑
多くの研究者
の
費同を得︑通説化されるの
である︒
ただそうしたなかで︑新野直吉氏はAの記事に関連して﹁
この
あたりの原史 料は北征軍の報告公文としての
性格を持つ
ものである﹂
と︑直接津田・
坂本説を批判したわけではないが︑﹁
従軍史官﹂ の
記録にもとづく実録的記事とする見解を表明してい ︵3 ︒
なぉ︑比羅夫の
征討記事に従軍記者の
記事が含まれている考え は︑
既述のごとく瀧川氏にみられ︑
村尾氏も﹁
書紀の本文の主要記事は︑
従軍の
録事の筆になるものもあっ
たと思はれる︒ ﹂
と
︑
同様の見解を示している︒
津田・
坂本両氏の
説話的性格を強調する見方に対して︑
このように少なからぬ研究者が同じ記事に実録的性格を認めている
の
は興味深いことで︑
津田・
坂本説が必ずしも絶対でないことを客観的に示すものとい
っ
てよいであろう︒
・三
坂本氏
の
研究が発表されて以降︑しばらくの
間︑比羅夫の
北征記事の
全体にわたっ
て史料批判を行つた研究は影をひ そめる︒ 一
九六〇年代の
後半に至つて︑杉山荘平氏はA ・ D ・ F の ﹁
三条はもともと一
年一
回かぎりの
事件であった比羅 夫北征を骨子とし︑それに従前から越国によっ
て行われていた蝦夷経略の諸事実を︑
説話的な叙述をもっ
て集成的に付 加し内容を充実させ︑あたかも比羅夫北征が三年三回の
事件であるかの
ように作為した記事で一
j4 ︑︶
﹁ 一
年一
回の事件を三年三回
の
事件と作為したの
はこの
史料の上進者であるにちがいない﹂
とする独自の見解を発表した︒
これは研究史的にいえば
︑
丸山説と村尾説の
折衷説というべきものであるが︑
津田氏や坂本氏の
研究成果が十分にふまえられているとはいいがたい
︒
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討十三
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
十 四 その後井上光貞氏が︑
一
般向けの
書物においてではあるが︑坂本説に基本的に賛同しつつ
も︑﹁
比羅夫は四年にも五年 にも越から現地に向かい︑五年に中央に帰還したものと解﹂
して︑
六年の粛慎の征討と合わせて三度の征討があっ
たとい立
︒
に系十分料可能史思統われ︑坂本氏の
定の論えてに様同上氏井にかたの
示提釈解つ想たもとともきをとごうししう ︶︵ l5A
とD
を同一
事件の
前後記事とする解釈が必ずしも絶対でないことを示しているといえよう︒
また井上氏は︑C
の比羅 夫が生照一 一
頭と照皮七十枚を献じたという記事に関連して︑斉明五年是歳条に﹁
高麗使人︑持一
照皮一
枚 :称
一
f一 K価
一
日︑綿六 十斤︒
市司咲而避去︒
高麗画師子麻呂︑
設同姓賓於私家日︑借官照皮七十枚︑
而為賓席︒
客等差怪而退︒ ﹂
とある話の ﹁
官二︒ ﹁
摘書斉年六み明べのでを指た︑
れず同れ羅き献ごいるきこ七しはとともとこらが照皮十枚比夫はの の
でたじもじ﹂
とと ︶︵ l二-6一 一
二移に紀年六に事記条
︑
是五がれた歳ては年の
のえ考年た紀にば高麗使人六朝来の
は斉明もこしがらよれとと﹂
ととC
しっ
︶︵ l7されるぺきだというのである
︒
したがうぺき見解であろう︒
坂本氏はC ・ E
がG
と同事重出で︑
六年に移されるべきこ とを推定したが︑その 一
部が井上氏によっ
て実証されたのである︒
比羅夫の北征記事
の
文献批判に関しては︑その後も低調な時期が続くが︑一
九八〇年代に入り︑再び研究の活発化の 兆しが現われる︒
︵l 8
︶まず︑佐藤和彦氏が比羅夫
の
北征記事の史料批判を主題とした論考を発表した︒
氏はこれまでの諸研究を整理・
検討 しっ っ
︑従来の研究の
最大の問題点は﹁
書紀﹂
の段階における用字の共通性を重視しすぎている点にあるのであり︑まず﹁
書紀﹂
編者の述作の
可能性の
ある部分を排除し︑残つた記述によって﹁
原史料の
信憑性如何とは別に︑その﹁
出来事﹂
として
の ス
トーリI
性を検討することが必要であろう﹂
として︑
関係記事の ﹁ ス
トーリI
性﹂
の検討に向かう︒
かくて氏は
︑
斉明紀の
関係記事から﹁
書紀﹂ の
編者の述作と考えられる部分をまず除き︑残つた関係記事の
すべてによっ
て︑斉 明四年と五年の二度の違征という﹁ ス
トーリー﹂
を復原し︑﹁
この ス
トーリI
の中から︑歴史的事実を検出し︑
それを律令 国家の成立過程の中に位置づけるという作業﹂
をつ
ぎの
課題としてかかげる︒
氏の方法で疑問に思うのは︑この﹁ ス
トI
リ
I
性﹂
を︑はたして無条件で﹁
書紀﹂
のすべての関係記事相互
間に存在するとみてよいか︑ということである︒﹁
ストーリー性
﹂
というの
は︑事実の
次元とは異なる︑
記事の
話としての
首尾一
貫性をぃ
うのであろうが︑然りとすれば︑﹁
書紀﹂
の編 者がどのような原史料をいかなる方針で採録したかという問題をぬきにして﹁
ストーリI
性﹂
を追求することはできないと恩われる
︒
r書紀﹂ の
編者が種々
の系統の
原史料を大幅に改変し︑新たな述作もぉこなっ
て︑
主体的に首尾一
貫した物語に構成したというのなら
﹁ ス
トーリ1
性﹂
は﹁
書紀﹂
の関係記事の
すべてに貫徹していようが︑そうではなくて︑いくつ
か
の
系統に属する原史料群に大きな修正を加えることなく︑
原史料を︑その
あるいは編者の考える年紀にしたがっ
て配 列したにすぎないの
であれば︑ ﹁ ス
トーリI
性﹂
を無条件で異なっ
た系統の史料間にまで想定することはできないはずで ある︒
同一
事件に関する記事においても︑史料的性格を異にする場合は︑相互
に首尾一
貫しない内容を含むことは往々
にしてあることだからである
︒
それどころか︑比羅夫の
北征記事においては︑津田 '坂本両氏が指摘しているように︑︵l9︶
一 つ
の記事の
中においてさえ﹁
論理的に考えれば︑っ
じっ
まの合わないこと﹂
︵坂本氏︶がまま見受けられるのである︒
こ のように︑
はじめから関係史料のすべてに﹁ ス
トーリー性﹂
が存在することを前提とし︑それを追求するという方法には 種々
の間題があり︑やはり津田・
村尾・
坂本氏らがぉこなっ
たように︑まず個々 の
記事の
史料的性格を明らかにすることこそが先決問題であ
っ
て︑ ﹁ ス
トーリI
性﹂
はその
あとに考察されるべき問題であろう︒
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
十五
阿倍比題夫北征記事の研究史的検討
十六
ただ
︑
佐藤氏が﹁
ストーリI
性﹂ の
追求に力をそそいだのは︑
主としてA ・ B ・ D ・ F
の四つの記事であるが︑このう ちA
'D
'F
は︑
津田氏が甲史料として一
括し︑坂本氏が阿倍氏の
家記に由来するとした同系統の
史料であり︑また私見によればB
もこの系統に属すると考えられるので︑四つ
の記事は本来ひとまとまりの史料であっ
たことになる︒
そうであるとすると
︑
佐藤氏のこの
四つ の
記事相互の﹁ ス
トーリ1
性﹂ の
考察は同系統の
史料同士
で行われたことになり︑
そのかぎりで一
定の
有効性をもっ
ていると思われる︒
氏はA
とD
を同事重出とみる従来の説に対して︑ A
とD
の r大基﹂
を 比較し︑両者は別個の
意義をもっ
として︑同事重出説を退ける︒
またB
で淳代・
津軽の両評造に授けた旗や鼓は軍隊の 指揮もしくは識別の
用具であっ
て︑
これは﹁
両評の
蝦夷を兵力として動員しようという意図があっ
たからにほかならな い﹂
と推定し︑
さらに史料D
で飽田・
淳代・
津軽・
胆振組の
蝦夷を﹁
簡集﹂
したの
はその意図の具体化であり︑これらの
蝦夷がF
で比羅夫の
船に乗せられた﹁
陸奥蝦実﹂
に相当するとみて︑A
←B
←D
←F の ﹁ ス
トーリI
性﹂
を検出しようとするのである︒ B
における旗 '鼓の
賜与やD
における蝦夷の ﹁
簡集﹂
を兵力動員に直結させてよいか︑なぉ検討の
余地があると思われるが︑ A ・ B ・ D ・ F
を継起的に関連づけて解釈した視角は継承されるべきであろう︒
佐藤氏は右
の ﹁ ス
トーリー性﹂ の
検出にあたっ
て︑﹁
書紀﹂ の
編者の
述作の
間題を取り上げる︒
氏はまず︑A ・ D ・ F
の 書出し部分を︑ ﹁
記録の
体をしている﹂
とする坂本説に依拠して﹁
書紀﹂
の編者の
述作とみなし︑
つぎにやはり r記録の体をしている﹂
ことをもっ
て︑
史料D
末尾の
道奥と越の国司以下の授位の
記録をも﹁
書紀﹂
の編者の
述作と考え︑さらにはA . D
に共通する﹁
而帰﹂
も編者の
文飾として削除する︒
かくて佐藤氏はA ・ D ・ F
の書出し部分とD の
r而帰﹂
以下を r書紀﹂
編者の述作として削除したうえで
︑ D ・ F
は本来一 つ
づきの ︑
同一
事件の
前後記事であっ
たのを︑
r書紀﹂
が五年と六年の二回に分けて記したと解するのである
︒
このように氏は﹁
書紀﹂
の編者の関与を比較的ひろい範囲に認めようとするの であるが︑まずもって問題となるのは︑かかる見解は﹁
書紀﹂
の編者は原史料に大きな修正を施こすことはしなかったと する坂本説に明らかに抵触することになることである︒
編者が原史料に種々
の手を加えて体裁をととのえたのであれば︑ 何故に編者はA・ D ・ F
では阿倍臣を開名のままにとどめてぉくというような不徹底なことをあえてしたのか︒
この点 にどうしても疑問が残り︑的確な説明が是非ともほしぃ
ところである︒
また︑個別的に検討してみても氏の見解にはい くつかの問題があると思われ︑私としては従いがたい︒
A・
D・
Fの書出し部分が同じ形式であることは従来から注意 されており︑既述のごとく瀧川氏もこの部分は﹁
書紀﹂
の編者の文章とみている︒
この書出し都分の記載と記事の内容の 間に齟齬がみられることは佐藤氏の指摘の通りであるが︑そのようなことは原史料の提出者の述作であったとしても︑ 起こりえないとはいいがたいと思われる︒
またA・
D・ F
から書出し部分をすべて取り除いてしまうと︑むしろ記事と しての体をなさなくなってしまうのである︒
したがって︑この点からも︑書出しの総括的記載は原史料にすでに存在し たとみることも十分に可能である︒
あるいは︑原史料に付せられていた総括的記載に﹁
書紀﹂
が修正ほどこして文章をと とのえたとみることもできよう︒
またDの末尾の部分を﹁
書紀﹂
の編者の述作とみることは一
層むずかしく︑私にはその 可能性はほとんどないように思われる︒
たしかにこの部分は記録体であるが︑そもそも記録体であることが造作か否かの判定の決め手にならないことは︑氏自身が
B
を編者の造作とみていないことからも明らかである︒
既述のごとく︑坂 本氏が阿倍氏の家記に由来するとした史料には他にも記録的部分が存在するが︑それらをも記録体の故をもって一
律に﹁
書紀﹄の編者の述作とみることは不可能であろう︒
また︑書出し部分は記事の総論的性格をもっているので︑のちに手阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
十七
阿倍比-
E
夫北征記事の研究史的検討十八
の
加わることは十分にありうるが︑ D の
末尾の部分をこれと同列に論ずることはできないはずである︒
この部分が造作 だとすると︑ A
やD の
記事には比羅夫の
遠征に道奥の
国司以下が関与したごとき記述がまっ
たくなぃ
にもかかわらず︑
ことさらに唐突な記述を付加したことになり︑
きわめて不自然といわざるを得ない︒
したがっ
て︑この部分は原史料に すでに存在したの
をその
まま採録したとみる方がはるかに合理的である︒ ﹁
而帰﹂
も征討軍の帰還を記すのに必要な辞句 であるから︑
原史料に存在したとして何らさしっ
かえないと思われる︒
以上に検討したごとく
︑
佐藤氏が﹁
書紀﹂ の
編者の
関与を比較的広汎にわたっ
て想定することには種々
の点で疑問があ り︑
私としては︑坂本説の
方が無理が少なく︑
妥当であると考える︒
なぉ︑
佐藤氏がD
とF
を同一
事件の前後記事とみ ることは前述したが︑氏はその
年紀はD の
斉明五年を正しいとし︑さらにC ・ E ・ G の
三条も五年の
こととみなす︒
こ うして佐藤氏は︑
粛慎との戦闘を斉明五年の
こととする独自の
説を提唱するが︑その
根拠はさきに井上氏がC
を斉明六 年の
ことと考定した根拠と全く同じである︒
同一 の
史料を根拠としながら両氏の
考定した年次には一
年のズレがあるわ けである︒
佐藤氏は井上説には関説していないが︑﹁
書紀﹂
の高麗使人の
来朝記事から︑
高麗画師子麻呂の話が斉明六年の
五月から七月までの
間の
こととみる点は両氏とも一
致している︒
佐藤氏は比羅夫の 一
行が六年三月に出発したとする と︑
右の
期間中に帰還するの
は無理だとして︑
前年に粛慎と接触したと考えるの
であるが︑G
には六年五月のこととし て比羅夫が帰還して粛慎人を基応したことが明記してある︒
氏は何故にこの
記事にふれることなく︑七月までの帰還は 無理だとして五年説をとるのであろうか︒ G
の年紀を否定するに十分な根拠がないかぎり︑比羅夫の帰還は六年五月と 考えてさしっ
かえないはずであり︑
高麗使人の滞在期間にちょうど合致するのである︒
よっ
て粛慎との戦関を五年とする佐藤説は成立しがたく
︑
坂本・
井上氏らの
ごとく六年とみるのが正しいと思われる︒
最後に
︑
いまだ報告要旨しか発表されていないが︑若月義小氏の
論考を取り上げることにした ︵- ︶︒
氏は﹁ ﹁
書紀﹂
の叙述を是認すると七世紀中薬以後半世紀余
の
中断を経た八世紀初葉に至つて概・
棚一
尸の設置を伴う越方面の
征夷が再開され︑ 出羽国の設置をみたことになる︒
しかし︑
この半世紀余りの
征夷の中断は史的過程としては不自然な感があろう︒ ﹂
︵傍点l
原文︶
として︑
r大化改新虚構論﹂ の
観点から︑﹁
七世紀中葉以降の征夷関係史料が﹁
斉明紀﹂
及び﹁
孝徳紀﹂
に配置されたと想定することも可能ではあるまいか
﹂
として斉明朝の
北征記事の検討をぉこなう︒
氏はC
'E
'G
は斉明六年の事実として認めるが︑
A ・ B ・ D ・ F
はそれと全く別個の事件で︑
斉明朝の
史実とは考えがたいとする︒
天武紀十一
年の越の 蝦実の
″建郡〟よりも二十数年前に︑越以北の渡嶋・
津軽において蝦夷の
〟建郡″が実現されたとすることを疑問視し︑さらに rr書紀
﹂
以外の
信憑性の高い史料には︑
斉明朝における渡鳴・
津軽の
征夷・
最実の
″建郡〟の
徴証は認められない﹂
として︑斉明紀の ″建郡〟
の
実年代を天武十一
〜持統十年に引き下げて考えようとする︒
したがっ
て︑氏においてはA
'D ・ F の
阿倍臣は比羅夫とは別人で︑
斉明紀の
編者によっ
て名前を削除されたと考えるのである︒
若月説で第
一
に疑間に思うの
は﹁
半世紀余りの
征夷の中断は史的過程としては不自然﹂
としているように︑
斉明紀の阿 倍臣の北征を八世紀初頭の﹁
概・
概一
尸の
設置を伴う越方面の
征夷﹂ の
先駆とみている点である︒
しかし両者はかなり異なっ
た性格
・ 日
的をもつ
軍事行動とみるべきであろう︒
阿倍臣の
北航につ
いて ︵2 l︶︑ ︵2 2
︶︑
﹁
武装した交易隊﹂ ﹁
地理的探検﹂ ﹁
水軍の
航 海訓能 一
など︑さまざまな日的が考えられてきたの
も︑この
行動が八世紀段階の
〟征夷〟と明らかに異質なものをもっ
ているとみられている証拠である
︒
私は︑別稿で論ずるように比羅夫の
北征は︑
城概の
設置 '棚戸の移配をともない︑
地阿信比題夫北征記事の研究史的検討
十九
阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討
二
〇 域支配
の
確立を日ざした八世紀段階の
″征夷〟どは異なっ
た支配方式の
うえに立つた軍事行動で︑各地の環実集団との間 に貢納関係を基軸とした支配・
隷属関係を設定することを日的にしたもの
と考える︒
この
ような一
隊はしばしば一
見国使 という名で呼ばれ︑貫納制支配の維持・
拡大を意図して七世紀後半に陸奥や南九州・
南嶋などに派適された︒ ﹁
常陸国風 土記 J香島郡条には天智朝に一
見国使が陸奥国に派遺されたことを示唆する記述がある︒
かく考えると︑比羅夫の北征は八世
紀段階の
″征夷〟とは明らかに異質で︑むしろそれ以前の
蝦夷政策を具体的に知ることのできる貴重な事例ということができよう
︒
若月説に対する第二の疑問は
﹁ ﹁
書紀﹂
以外の
信憑性の
高い史料には︑斉明朝における渡島・
津軽の征夷・
蝦夷の 〟建郡〟の
徴証は認められない﹂
としてA ・ B ・ D ・ F
を斉明朝ではなく︑天武〜持統朝の
事実とみる点である︒ ﹁
通典﹂
などの中 国史料の
蝦実に関するきわめて簡略な記述に徴証がないからといっ
て︑﹁
書紀﹂ の
記載を否定しうるのであろうか︒
斉明五 年七月戊實条︵
d︶所引の
伊吉連博徳書には︑唐の
天子の ﹁
環夷幾種﹂
という質間に日本の
使者が﹁
類f
三種一 ︒
違者4 p
加- ︑
次者名
毛
夷 :近者名一 fm蝦夷
一 ︒ ﹂
と答えたという一
節があるが︑この
記述は︑博徳書の史料的価値と相俟つて軽視しがた い意味をもっ
ていると思われる︒
熟・ 一
魔両種の
蝦夷のほかに都加留という一
種を特に設けたの
は︑津田氏も述べていう ように﹁
都加留が一
種特殊の
蝦実とせられてゐたから﹂
と考えられる︒
すなわち︑博徳書の記述が否定されないかぎり︑ 津軽最夷は斉明五年以前に中央政府と接触があり︑ .
それが大和の人々
に最も違方に住む︑有力な蝦夷集団と考えられていたことになる
︒
また斉明元年七月己
卯条︵a ︶
には北と束の
蝦実の
来朝記事があり︑︐ m
養蝦夷とともに津刈環夷が冠位を授けられている