• 検索結果がありません。

阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

阿倍比羅夫北征記事の研究史的検討

著者 熊谷 公男

雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学

号 16

ページ 1‑24

発行年 1986‑03‑01

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024194/

(2)

阿 倍 比 羅 夫 北 征 記 事 の

研 究 史 的 検 討

熊 谷 公 男

(3)

めに

日本書紀

以下

書紀の斉明紀は阿倍比羅夫が蝦夷

粛慎を討つたという有名な話があるが︑この話は

書 紀

の記事自体まざまの疑問があるうえ

飽田

浮代

津軽

あるは渡嶋とい

た︑奈良時代いても完全中央政府の支配下最北の地域の蝦夷と実体不明の粛慎とを討たとる記述あるため

これまで種

の議論を呼び︑多く

人びと

て取り上げれてきた

私は︑この比羅夫の北征の間題を考えるは︑津田左右吉氏以降の多くの先学がそうしたように

まず第

書紀

﹂ の

関係記事の文献学的考察をぉこなうことが不可欠であると考える

そこで小稿では

比羅夫の北征記事自体を文献学的考察した研究を取り上げ︑検討してることしたい

1

阿倍比羅夫の北征記事ついては︑古く本居宣長が

古事記伝

﹁ 一

度のことなりけむを︑異なる伝よりて︑まぎれて

複数

記事

たとして︑

書紀

の記載に疑問を投げかけて以来︑今日までさまざまな議論がなされて

昭和

初年

丸山二郎氏は斉明紀の三ヶ年

記事は

事実こ

出来事なのではなく︑斉明四年以前から

北進関する幾多のものをここまとめて掲げた

ではないかとした ︵︐

M

︑氏の論説は rこれらの記事中あるいく

かの不合理なも

いて

疑問を発した

ま ︵

a ﹂

で︑比羅夫の北征記事はじめて系統的な史料批判をぉこなったの

︵ 3

︶は津田左右吉氏であ

(4)

津田氏は史料

A

C

D

E ︵

巻末関係史料

覧参照

以下同じ

︶を際対書︑すの倍

陪阿は照纂編紀てるよこと

部︶臣

征討関する二

つ の

史料があ

︑ 一 つ

は主将を単阿陪臣と記し

征討の日的を蝦夷としてあり︑他の

は主将を阿際引田臣比羅夫︑征討の日的を粛慎と記してあ

として

Aと

D

は前者︵これを甲とする︶︑

C

E

は後者

これを

とする︶

の ︑

異なる二

つ の

系統

史料

て記述されたとする考えを示した

右の甲の史料は征討自 体

経過を記すが

︑乙

の史料は

征討の結果として

捕虜もしくは土宜の献上関する

記録とられるという

かくて︑ 津田氏にいては︑斉明四年紀の

A

C ︑

五年紀の

D

E

は︑それぞれ同

の事実の記録ほかならず

粛慎はすなわ

ち蝦夷の異称ということなる

津田氏の見解は

みたように︑斉明四年紀と五年紀関してはまこと明快であるが︑考察が六年紀

変して難渋となる

六年紀では

F

を甲︑

G

よる記事と認定する

ところが

︑ F

は甲

史料でありながら︑征討の 対象を粛慎とし︑しかもそれを蝦夷と区別してるという︑津田氏の前記の見解と矛盾する記述

ている

このア ポリアを津田氏は︑粛慎の名称の適用範囲が時代

ていくん変化したとう想定をすること

て乗り切ろう とする

津田氏は粛慎を渡嶋︵氏よれば飽田

浮代

津軽地域の総称︶の蝦夷の雅名と解するのであるが︑遠征当時の 政府

記録から出たと考えられる

乙 の

史料はこの原義

対して︑遠征からしばらくた

て記事をまとめ た甲

史料の筆者は︑四年

五年

遠征で服属した蝦夷と六年の征討てもなぉ完全服属しなかった蝦夷とを区 別し

後者のみを粛慎と呼んだ

であ

本来よりも粛慎とう呼称をせまく限定して使用してるとうのである

ようして︑津田氏は阿倍比羅夫の北征記事は甲

・ 乙

二つ

系統分けられるとする立場をと

たうえで

斉明

(5)

四年 '五年 '六年は甲

・ 乙 一 つ

の対応する記事があり

三対の記事はそれぞれ同

一 の

事実もとづて いると考えた

である

したが

て津田説よれば︑比羅夫の違征は三年間に三度あったことなり

年ごと

目的

が奥地進んでい

たと解するのである

津田氏の方法は

村尾次郎氏の

阿倍比羅夫の北海行

いては

筋よりも︑まづ史料としての整理が先決条件で ある

という言葉端的表われているよう

その後

研究大きな影響を及し︑津田説

根幹をなす甲

・ 乙

二系統 論は坂本太郎氏発展的に受け継がれていく

津田氏

史料批判でも

とも間題となる

村尾氏も指摘しているように

記事の年紀をまったく疑うことなく

四年紀の

A

C

︑五年紀

の D

E

を対応する記事と認めたことで

粛慎

=

:幅の蝦夷とする氏

見解も結局はこの対応

関係を主たる拠りどころにしているとい

てよい

現在にいても粛慎を蝦夷

異称とする見解をまま見受けるが

対応関係が成立しないとすると

粛慎

1 1

蝦夷とする載極的根拠はま

たくなくな

てしまうこと注意すべきである

いうまでもなく︑これらの記事

年紀の信懸性は自明

こととはいいがたく

C ・ E ・ G

は同時重出とみるの が現在では通説とな

ているくらいである

かりに津田氏

ごとき対応関係が認められるとしても

︑ F

では明らか渡 l

E の

!

a

実が粛慎と区別されてぉり

関する津田氏

説明はいかにも苦しい

村尾氏が

この方法は無理がある と断ぜざるを得ない

と批判したこともうなずけるのである

ところが村尾氏

批判はこ

とどまらず

比羅夫

征討記事を

引田臣比羅夫の名が明記されてゐるか︑-

e

な いかで二分することは

果たして正しい推測とい

るであらうか

その結果

︑ 乙

史料が捕成土宣の献上だけを伝

(6)

記録であ

たとしなくてはならないのは︑どうも落着かない

︒ 一

応まとま

た記録ならば︑事件の推移全体を︑終始

わた

て書いてこそ自然である

かう考えると︑博

士 の

二分説は首肯致しかねることなる

︒ ﹂

とし︑津田氏の甲 '

二系統論そのも

の の

否定まで及ぶのである

だが︑この点に関する村尾氏

批判はか性急とうべきであろう

r阿倍︵陪︶臣

という表記は特徴的とってよく︑史料

系統を定める

一 つ の

指標になりうると思われるし

︑乙

の史料が 違征の結果としての貢献に関する記録とうことも︑津田氏

ごとくこれを政府側

記録とれば︑

応説明のつくこ とである

そのうえ津田氏は甲

の A ・ D ・ F の

三条

いて︑そ

書出しがずれも同じ

筆致

で︑本文の記述も

違征 の行はれてから幾らか

時日を経過した後

総括的な叙述をしたものであるらし

いとう共通の性格が ることも注意を向けて

︒ ﹁

書紀

の年紀を疑わないことと︑違征の対象が甲と

でちが

るとする点を修正す れば

津田氏の甲

・ 乙

二系統論は十分成立の根拠を有しているとてよいと思われる

津田氏

論考

あとしばらくの間︑阿倍比羅夫

北征記事関してはめだ

た研究はなか

たが︑戦後︑

九五〇年 代入ると相

で重要な研究が発表された

まず瀧川政次郎氏は

斉明五年紀の

D

政所を置いたとある

後方羊蹄

を北海道

余市と考定した論考を発表する

︵︐ M︑そこで阿倍比羅夫

北征記事の史料的性格に

いて

よう述ぺている

︒ ﹁

日本書紀は帝紀及び諸氏の第記を史 料として編纂したも

であるから︑斉明紀に見える比羅夫遠征

記事も朝廷若しくは阿倍氏に伝つた記録を史料として

(7)

作られたもの相違ない

而して書紀算録者

史料を取扱う頗る慎重であ

て我意任せて史料の取捨を行わず︑異 説あるも

﹁ 一

書日

として原史料を悉く掲戰している

故に彼等はまた妄り史料の文章字句を改補することなく

できるだけ史料原文を生かすことを念とした

斉明紀に見える

阿倍臣

が阿倍引田臣比羅夫なることは

書紀編纂者も 見当が

いてたことと思うが

彼等はそ

使用した原史料

阿倍臣

とある

であ

たので

︑ ﹁

阿倍臣開名

と し︑敢えてその名を補うとしなか

たのである

この瀧川氏

見解は

概括的なものではあるが︑

書紀

の編者が 原史料忠実であ

たことを強調する点など︑のち発表される坂本太郎氏の見解基本的

致するとい

てよく︑ 注日価する

ただ

F

いて従軍記者

日録をそ

まま掲載したとする点は津田

坂本両氏の見解と大きく異なる

︒ l

︵ 5

︶瀧

:

氏と同時期発表された田名網宏氏

論考は

史料批判関してはま

たく津田説依拠しているが︑翌年村尾 次郎氏は津田氏の甲 '

二系統論批判を加え︑全面的否定論を展開- :

M-

村尾氏は︑まず津田氏が甲史料とした

A

D の

比較検討を試みる

︒ A

D

は用字の上で異なる点があり︑また

大体の話

筋はほと

であるので︑

A

D

同系ではなく

実は同じ事件を述べたもので

- -

比羅夫

違征は

二回ではなく︑

回であ

たとい結論が出る

と︑別系統

同事重出記事とみる

︒ つ

A

B

の記事内容の比較をぉこな

︑ ﹁

彼解相応じて重複が無いから︑

A

B

は同

史料

前後記事であると考

ても矛盾がない

︒ ﹂

として

︑ A

B

を同系統

前後記事とする

また︑津田氏が

史 料とした

C

'

E ・ G

いては

記事

年次がちがうというだけで︑内容はな類似するので

︑ ぃ

ずれも

於け る同

事件に

て記した数種

年代記風

記録

たもので

原史料

示す年紀よって採録されたため

事件が︑あたかも毎年行はれた

てしま

たも

で︑すべて

F

対応する記事であるとみる

︒ 一

︑ D

(8)

道奥国司以下

授位のことがあり︑

F

陸奥蝦夷がみえるので

これを重視すれば︑

D

F

近親関係を考

ることもで きるかもしれない

︒ ﹂

という

村尾氏はこれら

個別的な考察を総合して︑比羅夫の北征記事は

むしろ二系統ではなく︑ さら多く

異る記録

断片から成るも

であること

また︑記事の年紀は疑ひがあると同時

内容的見て

一 の

事件

々 の

断片を

異る筆より︑部分的に記載したものであることが

ほ一

一一

明らかとな

︒ ﹂

という結論を導

き出す

結局︑村尾説は

B ・ D

A

C ・ E ・ G

F

に関係づけ︑さら

D

F の

近親関係

を想定することによ

て︑ これら七

の関係記事

すべてを同

年の

事件収斂させようとするもので︑結論的は宣長説と同じである

説でいちばん間題な

は︑

D

F

との間の

近親関係

なるものが

個別的考察

段階ではその関係を示唆するとどま

て いるもかかわらず︑結論部分ではあたかもそれが証明済かのよう扱われてることである

村尾説は

その論理構 造からい

︑ D ︵

あるいは

A ︶

F

年にける同

事件

であることが証明されないかぎり成

しえないはずで あるが

点が何ら積極的に証明されていない

また

A

D

を別系統

史料とする根拠もいささか薄弱である

用字 法

相違は系統

相違を

Kすとはかぎらないし︑

大体

筋はほとんど同じ

えるかも疑問である︵ただしこの点 は坂本説でも踏襲される︶

したが

村尾氏

違征

回説は成立しがたいとわざるを得ない

しかしながら

村尾説は個

の点では継承すぺきことが少なくない

津田氏の

各記事

年次を疑わない立場

をし りぞけ

︑ 乙

系統

の C ・ E ・ G

を同

事件

異伝としたことなどは

その後の研究引き

がれ︑定説化した観がある

また

後の研究は継承されなか

たが︑私は︑村尾氏が

A

B

史料の前後記事

﹂ の

可能性があることを指

(9)

の研

摘した点は傾聴に価すると考える

︒ つ

づいて︑

九五

年代

重要な研究として坂本太郎氏

を取り上げてみよう

坂本氏は r書紀

﹂ の

斉明紀より前

蝦実関係記事全般にわた

て文献批判をぉこない︑それらが旧辞潤色型

氏族伝承型

造作型

実録型

四種区分できることを示したうえで︑斉明紀

蝦夷関係記事に

いてもこ

四類型を下数にし︑旧辞潤色型以外の三類型は認められる

ではないかとして考察をすすめる

坂本氏は斉明元年是歳条

bを造作型とし︑比羅夫の北征記事関しては氏族伝承型と実録型のも

があ

たとする

氏が氏族伝承型と認定した

阿倍臣が開名

まま

の A ・ D ・ F

の三条で

津田氏

甲系統

史料に

致する

よれば

これら

条は

そろ

て説話的な内容をも

きちんとした記録の体でな

く︑ r論理的考えれば︑

まの合わないことが多

い︑という共通

性格がみられる

そして

よそこうした

らかな︑めでたい物語は︑人

々 の

間に愛調せられ育成されたも

であ

越国守阿倍氏

伝えた物語

としてさわし

という

阿倍氏を開名にした記録が阿倍氏

家記という

は奇異

感がするが

坂本氏はこれを阿倍氏内の布勢臣系と引田臣系の間 に対

を想定すること

て説明を試みている

︒ つ

ぎに坂本氏は

家記にもとづく史料を

書紀

記述︑家記の記述

実際

事実の三段階分けて

考察すべきことを提唱し

まず

書紀

が家記

文を忠実採用したか否か

という間題を考える

この点関しては瀧川氏と同様の理由から

︑ ﹁

編者は辞句に多少の修正を施すぐらいのことはしても

記事

大本を動かすほどの修正はせず家記を採用したに違いない

と考える

︒ つ

ぎに家記が事実を正確に伝えているかという問題であるが︑こ

なると氏は懷疑的で

(10)

ある

三ヶ条

うち

﹁ A ・ D

は阿倍臣が船師百八十艘を以て蝦実を伐つたこと

蝦夷を整し郡領を定めたこといて全 く

致して

いるが

これは

事実は

出来事であ

伝承

それが二年のことのよう延ばされたので はあるまいか

として

事件の記録とみる

ただし︑

F

は対象を粛慎国とし

船数もちがうことを以つて︑こは別

事件とする

かくて坂本氏は

初め蝦実を平定確保した

段階があり

次にそを根拠として粛慎を伐

段階が あ

という二度

征討説を唱える

である

年紀

いては

︑ 一

回目をd

B

関連から

A

を正しいとて四 年とし

二回日を

F

G

によ

て六年とする

︒ 一

津田氏が

史料とした

C ・ E ・ G

いてはこれを実録型と認定したうえで

も六年の粛慎征討の政府

記録の断片とるべきもので︑原史料に年時が明記されていなか

たため

︑ ﹁

書紀

の編者が阿倍氏

家記の年次を基準 として諸所配置したために混乱が生じたとする

さら

津田氏が系統を明言しなか

B

も︑

郡領

﹂ の

叙位

賜物 が詳細に記されているので︑政府記録と認定し︑年時も大体信用できるとみるのである

以上が坂本氏

阿倍比羅夫征討記事に関する見解の大要であるが︑坂本説

の特徴は津田説

・ 乙

二系統論を 基本的引き

っ つ

氏自身が

私見は記載

年時

いてはかなり懷疑的な立場をとり︑修正を敢てしたが︑蝦夷 と粛慎とは峻別するという基本的な態度で展開した

と述べているよう

津田氏が

書紀

﹂ の

年紀を疑わず

粛慎を蝦夷 の雅名としたのとは対照的な立場をと

たことある

既述

ごとく

村尾氏が

書紀

の年紀を極端なまで疑い

諸 史料を

一 つ の

事件帰着させる所論を展開したが︑坂本氏はかかる立場を

限定的ではあるが︑継承したとみること ができる

特に

C ・ E ・ G

を同事重出とみる点は村尾氏とま

たく同じである

また

Aと

D

つの事件もとづく

(11)

-

E

十 記事とる点粛慎と蝦夷を峻別する点でも村尾説と同じである

要する坂本説は︑研究史的は津田説を基本的 継承し

っ つ

も︑村尾説を部分的に取り入れて︑津田説

弱点をたくみ補強したも

と評価できよう

とはいえ︑坂本説が両説の単なる折衷説でないことはむろんである

津田氏のいわゆる甲史料を阿倍氏

家記もと づく記事と認定したのは氏

創見とい

てよい

萌芽は瀧川説られるが︑これを史料系統論のなか明確 位置づけ

具体的論じた

は坂本氏をも

て嚆矢とすることができよう︵なぉ

関名の理由に

いては︑その後若干の 疑問も出されているよう

︑ 必

ずしも説得的ではない︶

また︑こ

間題に関連して

︑ ﹁

書紀

﹂ の

編者が原史料の文章か なり忠実であ

たことを明快論じた点も尊重されるべきであると思われる

坂本氏が結論として四年の蝦夷と六年

粛慎の二度の征討があ

たとしたことも︑

A

F の

すべて

史料

年紀を疑うことなく三度の征討があ

たと考える 津田説と︑すべて

史料を

年にける同

事件

﹂ の

記録とする村尾説くらぺ︑はるか無理が少なく︑それだけ 説得力富んだも

にな

このよう坂本説は多くの点ですぐれてり︑現在の通説たるさわし

内容をも

るが︑万全とうわけで はない

例えば氏が

A

D

を同

事件の記録とみる点である

最大の根拠は︑二つ

記事の内容が類似すると

︵8︶ことである

これは佐藤和彦氏も指摘しているように

村尾説を継承したも

であるが︑坂本氏は村尾氏

ごとく単な る同事重出とみる

ではなく

︑ ﹁ 一 つ の

事件が

ばされて四年と五年とかけられた

︵傍点

1

引用者

と︑両者を同

事 件

前後記事と考えるのである

だが︑この点は積極的証明されてるとはいいがたい

確か百八十艘とう船師

︑然津自扱に多氏田

取多ふ語実に数師れ︑自

が数て数

致すた体

船の不ては数例傍徴くがをしがもと

もしこる ︵ 9︶

(12)

の ﹂

としているよう︑事実とはみなしがたい

実体

ない数字である

そのような数字

致しても同

事件か否かの 判定材料とはなしえないと思われる

さら

蝦夷を一 Eaし郡領を定めた

ことも全く

致するとするが︑一整応の対象

ている

A

では渡嶋蝦夷であり︑

D

では飽田

淳代

津軽

胆振組

蝦夷である

︒ A

の渡島蝦夷を

D

の各地域の蝦夷 の総称とみれば両者は

致することなるが

周知

ごとくそ

こと自体さまざまな議論のある大きな間題である

郡領を定めたことも双方記載があるが︑

A

は浮代

津軽

郡領を定めたとするの対し︑

D

は問'0

蝦夷

進言

か か

和静を政所として ″郡領〟を置いて帰つたとあり︑明らか異な

た内容

てい ︵

a ︒

と も︑

A

D

を単なる同事重出ではなく

事件

前後記事とみる

であれば︑絶対ありえなとはいえないが

両 者が同

年の

事件であることを積極的証するも

は何ひと

ないといってよく︑そう考えることも不可能では

ないという程度

仮説すぎな

佐藤和彦氏はこの両記事を比較検討して︑

A

・ D

は同事重出ではなく︑斉明朝の北

方違征記事

の ス

I の

中で

それぞれ異なる位置

役割を占める

ことを主張している

要する

A

D

を同時 重出とすることは多く

無理があり

坂本氏

ごとく同

事件の前後記事とみるしても︑決め手欠け︑

仮説た

︵=︶るにとどまるとるべきであろう

坂本氏が

A

D

事実は

出来事であったのを︑伝承の間それが二年のことのよう延ばれた

と考える背 後には

阿倍氏の家記由来するとする史料全体対する氏

認識がある

坂本氏よれば

A

'

D

'

F

の三条は︑書出 しの

文以外は記録の体をなしてらず︑

定の期間阿倍氏

て愛誦

育成されたわし内容をも

ているというのである

この点は︑津田氏が甲系統の史料関して

書紀

筆致かると

遠征の行はれてか幾ら

(13)

時日を経過した後にな

て︑総括的な叙述をしたらしく推測される

︒ ﹂

と述

ていることを継承したも

られるが︑ かかる両氏の認識は再検討

余地があるよう思われる

A

・ D ・ F

は確か説話的内容の部分が少なくなく

と く

F

などは津田氏が

説話的な二人

老翁

行動

みが際立

て精細に写され

戦役の経

が却

て暖味

とい

てい るとぉりで︑金体が説話的記述

ているとい

てよい

しかし

︑ A

D

はかなり様相を異するように思われる

︒ D

の末尾

道奥と越の国司以下

叙位

部分などは︑佐藤和彦氏も指摘してるよう

明らか記録的内容にな

いるし

同じ

D の

前半

関する部分も︑招いた蝦夷

人数を具体的にあげて

こと細か記して

︑ ﹁

の間 愛調せられ育成させられた

話とするは程遠い内容で

はり記録体とみる

き箇所である

︒ A

では

恩荷

上 を授け

浮代 '津軽二 ″郡〟

″郡領〟を定めたとする部分が記録体とい

てよいと思われるが

これを

B

と比較する と

村尾氏が指摘しているよう

両者よく対応して相

に矛盾

重複がないので

︑ A ・ B

は同系統

連続した記事と みる余地があると思われる

この推定が成立すればむろんであるが

たとえ成立しないとしても

坂本氏が阿倍氏の家 記に由来するとした系統の記事は︑説話的記述のみから成つている

では決してなく︑記録的体裁の箇所が

定部分を 占めていることは否定しがたい

である

私は

坂本説

最大

間題点はここあると考える

系統の史料

説話 的性格のを強調する津田

坂本両氏

見解は再吟味を要すると思われるのである

以上で坂本説

検討を

応終えることするが︑氏

見解はそ

後︑例一一えば高橋富雄氏が

比羅夫遠征記事が︑すくな くとも

二種類の史料から成り立つていること

その

一 つ

が阿倍氏の伝承的な家記群であり︑他の

一 つ

が政府の記録で

一︑-l-

・ ・ .

︵l 2

あることはほまち︐ vのなところであろう

と坂本氏の文献学的考察をほ全面的受け入れたよう

多くの

(14)

研究者

費同を得︑通説化される

である

ただそうしたなかで︑新野直吉氏はAの記事関連して

あたりの原史 料は北征軍の報告公文として

性格を持

ものである

と︑直接津田

坂本説を批判したわけではないが︑

従軍史官

﹂ の

記録もとづく実録的記事とする見解を表明してい ︵

3 ︒

なぉ︑比羅夫

征討記事従軍記者

記事が含まれている考え は

既述のごとく瀧川氏みられ

村尾氏も

書紀の本文の主要記事は

従軍

録事の筆なるものもあ

たと思はれる

︒ ﹂

同様の見解を示している

津田

坂本両氏

説話的性格を強調する見方対して

このよう少なからぬ研究者が

同じ記事実録的性格を認めている

は興味深いことで

津田

坂本説が必ずしも絶対でないことを客観的示すもの

とい

てよいであろう

坂本氏

研究が発表されて以降︑しばらく

間︑比羅夫

北征記事

全体わた

て史料批判を行つた研究は影をひ そめる

︒ 一

九六〇年代

後半に至つて︑杉山荘平氏は

A ・ D ・ F の ﹁

三条はもともと

回かぎり

事件であった比羅 夫北征を骨子とし︑それに従前から越国によ

て行われていた蝦夷経略の諸事実を

説話的な叙述をも

て集成的付 加し内容を充実させ︑あたかも比羅夫北征が三年三回

事件であるか

よう作為した記事で

j4 ︑

﹁ 一

回の事件を三

年三回

事件と作為した

はこ

史料の上進者であるちがいな

とする独自の見解を発表した

これは研究史的

えば

丸山説と村尾説

折衷説というべきものであるが

津田氏坂本氏

研究成果が十分まえられてるとはい

いがたい

(15)

その後井上光貞氏が︑

般向け

書物てではあるが︑坂本説基本的賛同しつ

も︑

比羅夫は四年も五年 も越から現地向か︑五年中央帰還したものと解

して

六年の粛慎の征討と合わせて三度の征討があ

たとい

系十分料可能史思統われ︑坂本氏

定の論えて様同上氏井かた

示提釈解想たもとともきをとごうししう ︶︵ l5

A

D

を同

事件

前後記事とする解釈が必ずしも絶対でないことを示しているといえよう

また井上氏は︑

C

の比羅 夫が生照

一 一

頭と照皮七十枚を献じたという記事関連して︑斉明五年是歳条

高麗使人︑持

照皮

:

f

K価

日︑綿六 十斤

市司咲而避去

高麗画師子麻呂

設同姓賓於私家日︑借官照皮七十枚

而為賓席

客等差怪而退

︒ ﹂

とある話

の ﹁

官二

︒ ﹁

摘書斉年六明べのでを指た

れず同れ羅き献ごいるきこ七しはとともとこらが照皮十枚比夫は

の の

でたじもじ

とと ︶︵ l二-6

一 一

紀年六事記条

是五がれた歳ては年

のえ考年た紀ば高麗使人六朝来

は斉明もこしがらよれとと

とと

C

︶︵ l7

されるぺきだというのである

したがうぺき見解であろう

坂本氏は

C ・ E

G

と同事重出で

六年移されるべきこ とを推定したが︑そ

の 一

部が井上氏

て実証されたのである

比羅夫の北征記事

文献批判関しては︑その後も低調な時期が続くが︑

九八〇年代入り︑再び研究の活発化の 兆しが現われる

︵l 8

︶まず︑佐藤和彦氏が比羅夫

北征記事の史料批判を主題とした論考を発表した

氏はこれまでの諸研究を整理

検討 し

っ っ

︑従来の研究

最大の問題点は

書紀

の段階ける用字の共通性を重視しすぎてる点あるのであり︑まず

書紀

編者の述作

可能性

ある部分を排除し︑残つた記述よって

原史料

信憑性如何とは別︑その

出来事

として

の ス

I

性を検討することが必要であろう

として

関係記事

の ﹁ ス

I

の検討向かう

かくて

(16)

氏は

斉明紀

関係記事から

書紀

﹂ の

編者の述作と考えられる部分をまず除き︑残つた関係記事

すべて

て︑斉 明四年と五年の二度の違征という

﹁ ス

を復原し︑

の ス

I

の中から︑歴史的事実を検出し

それを律令 国家の成立過程の中に位置づけるという作業

課題としてかかげる

氏の方法で疑問思うのは︑この

﹁ ス

I

I

を︑はたして無条件で

書紀

のすべての関係記事相

存在するとてよい︑ということである

︒﹁

スト

という

は︑事実

次元とは異なる

記事

話として

首尾

貫性を

うのであろうが︑然りとすれば︑

書紀

の編 者がどのような原史料をいかなる方針で採録したかとう問題をぬきして

スト

I

を追求することはできない

と恩われる

r書紀

﹂ の

編者が種

の系統

原史料を大幅に改変し︑新たな述作もぉこな

主体的首尾

貫した物

構成したとうのなら

﹁ ス

1

書紀

の関係記事

すべて貫徹していようが︑そうではなくて︑いく

系統属する原史料群大きな修正を加えることなく

原史料を︑そ

あるいは編者の考える年紀したが

て配 列したすぎない

であれば

︑ ﹁ ス

I

を無条件で異な

た系統の史料間まで想定することはできなはずで ある

事件に関する記事いても︑史料的性格を異する場合は︑相

首尾

貫しな内容を含むことは往

してあることだからである

それどころか︑比羅夫

北征記事ては︑津田 '坂本両氏が指摘しているよう

︵l9︶

一 つ

の記事

てさえ

論理的考えれば︑

まの合わなこと

︵坂本氏︶がまま見受けられるのである

こ のよう

はじめから関係史料のすべて

﹁ ス

リー性

が存在することを前提とし︑それを追求するとう方法は 種

の間題があり︑はり津田

村尾

坂本氏らがぉこな

たよう︑まず個

々 の

記事

史料的性格を明らかするこ

とこそが先決問題であ

︑ ﹁ ス

トーリ

I

はそ

あと考察されるべき問題であろう

十五

(17)

ただ

佐藤氏が

スト

I

﹂ の

追求に力をそそいだのは

主として

A ・ B ・ D ・ F

の四つの記事であるが︑このう ち

A

'

D

'

F

津田氏が甲史料として

括し︑坂本氏が阿倍氏

家記由来するとした同系統

史料であり︑また私見によ

B

もこの系統属すると考えられるので︑四

の記事は本来ひとまとまりの史料であ

たことなる

そう

であるとすると

佐藤氏のこ

つ の

記事相互の

﹁ ス

1

﹂ の

考察は同系統

史料同

で行われたことなり

そのかぎりで

有効性をも

ていると思われる

氏は

A

D

を同事重出とる従来の説に対して

︑ A

D

r大基

を 比較し︑両者は別個

意義をも

として︑同事重出説を退ける

また

B

で淳代

津軽の両評造に授けた旗鼓は軍隊の 指揮もしくは識別

用具であ

これは

両評

蝦夷を兵力として動員しようとい意図があ

たからほかならな い

と推定し

さら史料

D

で飽田

淳代

津軽

胆振組

蝦夷を

簡集

した

はその意図の具体化であり︑これら

蝦夷が

F

で比羅夫

乗せられた

陸奥蝦実

に相当するとみて︑

A

B

D

F の ﹁ ス

I

を検出しようとするのである

︒ B

ける旗 '鼓

賜与

D

ける蝦夷

の ﹁

簡集

を兵力動員直結させてよいか︑なぉ検討

余地があると思われるが

︑ A ・ B ・ D ・ F

を継起的に関連づけて解釈した視角は継承されるべきであろう

佐藤氏は右

の ﹁ ス

﹂ の

検出あた

て︑

書紀

﹂ の

編者

述作

間題を取り上げる

氏はまず︑

A ・ D ・ F

の 書出し部分を

︑ ﹁

記録

体をしている

とする坂本説依拠して

書紀

の編者

述作となし

つぎにはり r記録の体をしている

ことをも

史料

D

末尾

道奥と越の国司以下の授位

記録をも

書紀

の編者

述作と考え︑さら

A . D

に共通する

而帰

も編者

文飾として削除する

かくて佐藤氏は

A ・ D ・ F

の書出し部分と

D の

r而帰

以下を r書紀

編者の述作として削除したうえで

︑ D ・ F

は本来

一 つ

づき

の ︑

事件

前後記事であ

たのを

r書紀

が五年と六年

(18)

の二回分けて記したと解するのである

このよ氏は

書紀

の編者の関与を比較的ひろ範囲認めよるの である︑まずもって問題となるのは︑かる見解は

書紀

の編者は原史料大き修正を施こことはしなった する坂本説抵触することなることである

編者が原史料

の手を加て体裁をとのえたのであれば︑ 何故編者はA

・ D ・ F

では阿倍臣を開名のままとどめてぉくとうような不徹底なことをあてしたのか

この点 どうしても疑問が残り︑的確な説明是非ともほし

ところである

また︑個別的検討してても氏の見解 くつかの問題があると思われ︑私としては従がた

A

D

Fの書出し部分が同じ形式であることは従来から注意 れてり︑既述のごとく瀧川氏もこの部分は

書紀

の編者の文章とている

この書出し都分の記載と記事の内容の 間齟齬がれるこは佐藤氏の指摘の通りであるが︑そのようなことは原史料の提出者の述作であったしても︑ 起こりえないとはいがたと思われる

またA

D

・ F

から書出し分をすべて取り除てしまうと︑むしろ記事と しての体をなさなくなってしまうのである

したがって︑この点かも︑書出しの総括的記載は原史料すで存在し たとることも十分可能である

あるは︑原史料付せられていた総括的記載

書紀

修正ほどこして文章をと とのえたることもできよう

またDの末尾の部分を

書紀

の編者の述作とることは

層むずしく︑私はその 可能性はほとんどなよう思われる

たしかこの部分は記録体であるが︑そもそも記録体であることが造作か否

の判定の決め手ならなことは︑氏自身が

B

を編者の造作とことらも明かである

既述のごとく︑坂 本氏が阿倍氏の家記由来するとした史料は他も記録的部分が存在するが︑それをも記録体の故をもって

書紀の編者の述作とることは不可能であろう

また︑書出し部分は記事の総論的性格をもってるので︑の

十七

(19)

比-

E

の研

加わることは十分にありうるが

︑ D の

末尾の部分をこれと同列に論ずることはできなはずである

この部分が造作 だとすると

︑ A

D の

記事には比羅夫

遠征道奥

国司以下が関与したごとき記述がま

たくな

にもかかわらず

ことさらに唐突な記述を付加したことになり

きわめて不自然といわざるを得ない

したが

て︑この部分は原史料 すでに存在した

をそ

まま採録したとみる方がはるか合理的である

︒ ﹁

而帰

も征討軍の帰還を記すの必要な辞句 であるから

原史料に存在したとして何らさし

かえないと思われる

以上に検討したごとく

佐藤氏が

書紀

﹂ の

編者

関与を比較的広汎わた

て想定することは種

の点で疑問があ り

私としては︑坂本説

方が無理が少なく

妥当であると考える

なぉ

佐藤氏が

D

F

を同

事件の前後記事とみ ることは前述したが︑氏はそ

年紀は

D の

斉明五年を正しいとし︑さらに

C ・ E ・ G の

三条も五年

こととなす

こ うして佐藤氏は

粛慎との戦闘を斉明五年

こととする独自

説を提唱するが︑そ

根拠はさきに井上氏が

C

を斉明六 年

ことと考定した根拠と全く同じである

一 の

史料を根拠としながら両氏

考定した年次には

年のズレがあるわ けである

佐藤氏は井上説は関説していなが︑

書紀

の高麗使人

来朝記事から

高麗画師子麻呂の話が斉明六年

五月から七月まで

こととみる点は両氏とも

致している

佐藤氏は比羅夫

の 一

行が六年三月出発したとする と

期間中帰還する

は無理だとして

前年粛慎と接触したと考える

であるが︑

G

は六年五月のこととし て比羅夫が帰還して粛慎人を基応したことが明記してある

氏は何故

記事れることなく︑七月までの帰還は 無理だとして五年説をとるのであろうか

︒ G

の年紀を否定する十分な根拠がないかぎり︑比羅夫の帰還は六年五月と 考えてさし

かえないはずであり

高麗使人の滞在期間にちょうど合致するのである

て粛慎との戦関を五年とす

(20)

る佐藤説は成立しがたく

坂本

井上氏ら

ごとく六年とみるのが正しいと思われる

最後

いまだ報告要旨しか発表されていないが︑若月義小氏

論考を取り上げることにした ︵- ︶

氏は

﹁ ﹁

書紀

の叙述

を是認すると七世紀中薬以後半世紀余

中断を経た八世紀初葉至つて概

の設置を伴う越方面

征夷が再開れ︑ 出羽国の設置をみたことなる

しかし

この半世紀余り

征夷の中断は史的過程としては不自然な感があろう

︒ ﹂

︵傍点

l

原文

として

r大化改新虚構論

﹂ の

観点から︑

七世紀中葉以降の征夷関係史料が

斉明紀

及び

孝徳紀

配置された

と想定することも可能ではあるまいか

として斉明朝

北征記事の検討をぉこなう

氏は

C

'

E

'

G

は斉明六年の事実と

して認めるが︑

A ・ B ・ D ・ F

はそれと全く別個の事件で

斉明朝

史実とは考えがたいとする

天武紀十

年の越の 蝦実

建郡よりも二十数年前︑越以北の渡嶋

津軽いて蝦夷

建郡が実現れたとすることを疑問視し︑

さら rr書紀

以外

信憑性の高い史料

斉明朝おける渡鳴

津軽

征夷

最実

建郡

徴証は認められない

として︑斉明紀の 建郡

実年代を天武十

〜持統十年引き下げて考えようとする

したが

て︑氏いては

A

'

D ・ F の

阿倍臣は比羅夫とは別人で

斉明紀

編者

て名前を削除されたと考えるのである

若月説で第

疑間思う

半世紀余り

征夷の中断は史的過程としては不自然

としてるよう

斉明紀の阿 倍臣の北征を八世紀初頭の

設置を伴う越方面

征夷

﹂ の

先駆とみている点である

しかし両者はかなり異な

た性格

・ 日

的をも

軍事行動とみるべきであろう

阿倍臣

北航

いて ︵2 l

︶︑ ︵2 2

︶︑

武装した交易隊

﹂ ﹁

地理的探検

﹂ ﹁

水軍

航 海訓

能 一

など︑さまざまな日的が考えられてきた

も︑こ

行動が八世紀段階

征夷と明らか異質なものをも

いるとみられている証拠である

私は︑別稿で論ずるよう比羅夫

北征は

城概

設置 '棚戸の移配をともな

十九

(21)

〇 域支配

確立を日ざした八世紀段階

征夷どは異な

た支配方式

うえに立つた軍事行動で︑各地の環実集団との間 貢納関係を基軸とした支配

隷属関係を設定することを日的したも

と考える

ような

隊はしばしば

国使 という名で呼ばれ︑貫納制支配の維持

拡大を意図して七世紀後半陸奥南九州

南嶋など派適された

︒ ﹁

常陸国風 土記 J香島郡条は天智朝

見国使が陸奥国派遺されたことを示唆する記述がある

く考えると︑比羅夫の北征は八

紀段階

″征夷とは明らか異質で︑むしろそれ以前

蝦夷政策を具体的知ることのできる貴重な事例ということ

ができよう

若月説対する第二の疑問は

﹁ ﹁

書紀

以外

信憑性

高い史料は︑斉明朝にける渡島

津軽の征夷

蝦夷の 建郡

徴証は認められない

として

A ・ B ・ D ・ F

を斉明朝ではなく︑天武〜持統朝

事実とる点である

︒ ﹁

通典

などの中 国史料

蝦実関するきわめて簡略な記述徴証がないからとい

て︑

書紀

﹂ の

記載を否定しうるのであろうか

斉明五 年七月戊實条

d︶所引

伊吉連博徳書は︑唐

天子

の ﹁

環夷幾種

という質間日本

使者が

f

三種

一 ︒

違者

4 p

- ︑

次者名

:

近者名 fm蝦夷

一 ︒ ﹂

と答えたという

節があるが︑こ

記述は︑博徳書の史料的価値と相俟つて軽視しがた い意味をも

ていると思われる

・ 一

両種

蝦夷のほか都加留という

種を特設けた

は︑津田氏も述べていう よう

都加留が

種特殊

蝦実とせられてゐたから

と考えられる

すなわち︑博徳書の記述が否定されないかぎり︑ 津軽最夷は斉明五年以前中央政府と接触があり

︑ .

それが大和の人

最も違方住む︑有力な蝦夷集団と考えられて

いたことなる

また斉明元年七月

卯条︵

a ︶

には北と束

蝦実

来朝記事があり︑

︐ m

養蝦夷ととも津刈環夷が冠位

を授けられている

この記事は百済調使も見えている

天智朝以降時期をさげて考えることは不可能である

参照

関連したドキュメント

いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

視することにしていろ。また,加工物内の捌套差が小

なお、具体的な事項などにつきましては、技術検討会において引き続き検討してまいりま

また︑以上の検討は︑

向井 康夫 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 牧野 渡 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 占部 城太郎 :

人類研究部人類史研究グループ グループ長 篠田 謙一 人類研究部人類史研究グループ 研究主幹 海部 陽介 人類研究部人類史研究グループ 研究員

人類研究部長 篠田 謙一 人類研究部人類史研究グループ グループ長 海部 陽介 人類研究部人類史研究グループ 研究主幹 河野

1、 2010 年度 難治 性疾 患 克服研究事業研 究奨励分野第一次公募で 181 件を採択..