い.(BBh 4.7) また『菩薩地』の「所知障浄智所行真実」(jñeyāvaraṇaviśuddhijñānagocaratattva)では 次のように述べられている. さらにそれ(所知障浄智所行真実)とは何か.菩薩や仏世尊には,法無我に悟入す る た め に,悟入した2)純粋なる[智],すなわち,不可言なる自性を有すること (nirabhilāpyasvabhāvatā)にはじまり,仮説たる語の[発働の根拠としての]自性 (prajñaptivādasvabhāva)を分別せず平等なる智によって3)[捉えられている]領域・対象 がある.それは,知られるべき究極なるもので,最高で無上なる真如であり,それ(真 如)から,正しい法の思択が完成し,越え出る必要がない.(BBh 2.2.4.2) これらの記述に見られる prajñaptivādasvabhāva を「仮説たる語の[発働の根拠と しての]自性」とした.この複合語における svabhāva の解釈はパーニニ文法学に おける pravṛttinimitta の概念を適用したものである.パーニニ文法学において,例 えば,我々が「牛」という言葉を或る牛に適用できるのは牛 A,牛 B において牛 以外のものにはない牛の普遍(jāti),あるいは共通性(sāmānya)を根拠とするから であり,それが「牛性」(gotva)としての svabhāva である.すなわち,パーニニ文 法学における svabhāva は語が発働される根拠(pravṛttinimitta)とされているのであ る.そして凡夫は逆に,「牛」という語から自性としての牛性が実在すると考えて しまうのである.しかし菩薩や仏世尊はそのような自性を分別せず,一切を言葉 によって区別することなく平等に見るのである4). そして『菩薩地』は語の発働根拠としての自性の非存在と,言語表現を離れた 「ものそのもの」としての vastu の実在を述べている. 次の両者は,この法と律から外れていると知られるべきである.[一方の者は]色等の諸 法,[すなわち]「色」等[と言語表現された]vastu に関して,仮説たる語の[発働の根 拠としての]自性(prajñaptivādasvabhāva)を有するという自相(svalakṣaṇa)について, 非実在のものを増益することから,執着する.また,[他方の者は,世俗においては]仮 説たる語の因相としての基体(prajñaptivādanimittādhiṣṭhāna),仮説たる語の因相としての 拠り所(prajñaptivādanimittasaṃniśraya)となっており,[勝義においては]不可言なる本 質を有すること(nirabhilāpyātmakatā)という点で勝義的実在である vastu を損減しつつ, あらゆる点で一切が無であると否定する.(BBh 5.3.1) まず,ここで「仮説たる語の因相としての基体」(prajñaptivādanimittādhiṣṭhāna)と解 釈した複合語について,先に見た「仮説たる語の[発働の根拠としての]自性」 (prajñaptivādasvabhāva)と比べるとき,svabhāva が nimitta に置き換えられているよ 『菩薩地』における「余れるもの」(本 村) (173)
『菩薩地』における「余れるもの」
本 村 耐 樹
1.はじめに
瑜伽行派の主要文献の一つである『中辺分別論』(Madhyāntavibhāgabhāṣya)では, 虚妄分別(abhūtaparikalpa)とそこにおける空性(śūnyatā)の二つが「余れるもの」 (avaśiṣṭa)として実在することが述べられている.これは瑜伽行派が阿含経典の 『小空経』(Cūḷasuññatasutta)における「余れるもの」の理論を,瑜伽行派独自の空 性理論に当てはめたものであることはよく知られている.これまでの瑜伽行派に おける「余れるもの」に関する研究者の理解は,この『中辺分別論』に基づいて なされてきた. 一方,『中辺分別論』より古い成立とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)の 『菩薩地』(Bodhisattvabhūmi)においても,『小空経』を基にした「余れるもの」に 関する空性理論が展開されている1).そこでは,言語表現を離れた「ものそのも の」としての vastu の実在と,そこにおける仮説(prajñapti)の問題が扱われてお り,多くの研究者は『中辺分別論』に基づいて,『菩薩地』における「余れるも の」はこれら vastu と仮説の二つであると理解しているようである. 本論文では,この『菩薩地』における「余れるもの」の解釈について,当該箇 所に述べられる svabhāva の解釈を検討し,『菩薩地』における「余れるもの」は 「ものそのもの」としての vastu のみであり,仮説は「余れるもの」ではないとい う見解を提示する.2.
『菩薩地』における svabhāva
『菩薩地』「真実義品」では法無我について次のように述べられている. さて,その菩薩はその深く悟入した法無我に関する智によって,不可言なる自性を有す ること(nirabhilāpyasvabhāvatā)を如実に知り,いかなる法を,どのようにも分別しな い.[菩薩は]vastu そのもの(vastumātra),真如そのもの(tathatāmātra)を把握する他な (172) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月い.(BBh 4.7) また『菩薩地』の「所知障浄智所行真実」(jñeyāvaraṇaviśuddhijñānagocaratattva)では 次のように述べられている. さらにそれ(所知障浄智所行真実)とは何か.菩薩や仏世尊には,法無我に悟入す る た め に,悟入した2)純粋なる[智],すなわち,不可言なる自性を有すること (nirabhilāpyasvabhāvatā)にはじまり,仮説たる語の[発働の根拠としての]自性 (prajñaptivādasvabhāva)を分別せず平等なる智によって3)[捉えられている]領域・対象 がある.それは,知られるべき究極なるもので,最高で無上なる真如であり,それ(真 如)から,正しい法の思択が完成し,越え出る必要がない.(BBh 2.2.4.2) これらの記述に見られる prajñaptivādasvabhāva を「仮説たる語の[発働の根拠と しての]自性」とした.この複合語における svabhāva の解釈はパーニニ文法学に おける pravṛttinimitta の概念を適用したものである.パーニニ文法学において,例 えば,我々が「牛」という言葉を或る牛に適用できるのは牛 A,牛 B において牛 以外のものにはない牛の普遍(jāti),あるいは共通性(sāmānya)を根拠とするから であり,それが「牛性」(gotva)としての svabhāva である.すなわち,パーニニ文 法学における svabhāva は語が発働される根拠(pravṛttinimitta)とされているのであ る.そして凡夫は逆に,「牛」という語から自性としての牛性が実在すると考えて しまうのである.しかし菩薩や仏世尊はそのような自性を分別せず,一切を言葉 によって区別することなく平等に見るのである4). そして『菩薩地』は語の発働根拠としての自性の非存在と,言語表現を離れた 「ものそのもの」としての vastu の実在を述べている. 次の両者は,この法と律から外れていると知られるべきである.[一方の者は]色等の諸 法,[すなわち]「色」等[と言語表現された]vastu に関して,仮説たる語の[発働の根 拠としての]自性(prajñaptivādasvabhāva)を有するという自相(svalakṣaṇa)について, 非実在のものを増益することから,執着する.また,[他方の者は,世俗においては]仮 説たる語の因相としての基体(prajñaptivādanimittādhiṣṭhāna),仮説たる語の因相としての 拠り所(prajñaptivādanimittasaṃniśraya)となっており,[勝義においては]不可言なる本 質を有すること(nirabhilāpyātmakatā)という点で勝義的実在である vastu を損減しつつ, あらゆる点で一切が無であると否定する.(BBh 5.3.1) まず,ここで「仮説たる語の因相としての基体」(prajñaptivādanimittādhiṣṭhāna)と解 釈した複合語について,先に見た「仮説たる語の[発働の根拠としての]自性」 (prajñaptivādasvabhāva)と比べるとき,svabhāva が nimitta に置き換えられているよ
『菩薩地』における「余れるもの」
本 村 耐 樹
1.はじめに
瑜伽行派の主要文献の一つである『中辺分別論』(Madhyāntavibhāgabhāṣya)では, 虚妄分別(abhūtaparikalpa)とそこにおける空性(śūnyatā)の二つが「余れるもの」 (avaśiṣṭa)として実在することが述べられている.これは瑜伽行派が阿含経典の 『小空経』(Cūḷasuññatasutta)における「余れるもの」の理論を,瑜伽行派独自の空 性理論に当てはめたものであることはよく知られている.これまでの瑜伽行派に おける「余れるもの」に関する研究者の理解は,この『中辺分別論』に基づいて なされてきた. 一方,『中辺分別論』より古い成立とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)の 『菩薩地』(Bodhisattvabhūmi)においても,『小空経』を基にした「余れるもの」に 関する空性理論が展開されている1).そこでは,言語表現を離れた「ものそのも の」としての vastu の実在と,そこにおける仮説(prajñapti)の問題が扱われてお り,多くの研究者は『中辺分別論』に基づいて,『菩薩地』における「余れるも の」はこれら vastu と仮説の二つであると理解しているようである. 本論文では,この『菩薩地』における「余れるもの」の解釈について,当該箇 所に述べられる svabhāva の解釈を検討し,『菩薩地』における「余れるもの」は 「ものそのもの」としての vastu のみであり,仮説は「余れるもの」ではないとい う見解を提示する.2.
『菩薩地』における svabhāva
『菩薩地』「真実義品」では法無我について次のように述べられている. さて,その菩薩はその深く悟入した法無我に関する智によって,不可言なる自性を有す ること(nirabhilāpyasvabhāvatā)を如実に知り,いかなる法を,どのようにも分別しな い.[菩薩は]vastu そのもの(vastumātra),真如そのもの(tathatāmātra)を把握する他な拠としての]本質を有する(prajñaptivādātmaka)法は存在しない.したがってその「色」 等の名称を持つ vastu は,その「色である」というような仮説たる語の[発働の根拠とし ての]本質を有する(prajñaptivādātmaka)という点で空である.では,その「色」等の 名称を持つ vastu において余れるものとは何か.実にそれは「色である」というような仮 説たる語の拠り所(prajñaptivādāśraya)である.そしてこの二つを如実に知る.[すなわ ち]「vastu そのもの」(vastumātra)が実在であることを,また「vastu そのもの」に対す る仮説にすぎないもの(prajñaptimātra)とである.そして存在しないものを存在すると増 益しない.[また]存在するものを存在しないと損減しない.多くせず,少なくせず,取 り除かず,投げ出さない.そしてありのままの真如は,不可言なる自性を有すること (nirabhilāpyasvabhāvatā)を如実に知る.これが正しく捉えられた空性であり,正しい智 慧によってよく通達されたものであると言われる.(BBh 5.4.2) ここでは「仮説たる語の[発働の根拠としての]本質を有する」(prajñaptivādātmaka)
と し て svabhāva が ātman と 言 い 換 え ら れ て い る こ と か ら , こ の ātman は pravṛttinimitta を意味していることが分かる.そして「余れるもの」とは「「色で
ある」 というような仮説たる語の拠り所(prajñaptivādāśraya)」とされている.先に
見た「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)と比較すると,ここでの「余れる
もの」は vastu の世俗的側面としての因相(nimitta),すなわち自性の基体となって
「牛である」等と分別されている牛のようにも思われる.しかし『菩薩地』は続け
て「「vastu そのもの」(vastumātra)が実在であること.また 「vastu そのもの」 に対
する仮説にすぎないもの(prajñaptimātra)」を如実に知るとしている.したがって, 「余れるもの」は vastu の世俗面としての「因相」(nimitta)ではなく,自性の基体 とならない言葉を離れた勝義的側面としての vastu である. これまでの『菩薩地』の「余れるもの」は,この記述を基にして,vastu と仮説 の二つと理解されてきたようである6).しかしながら,もし仮説も「余れるもの」 として実在するのであれば,その発働の根拠である pravṛttinimitta としての svabhāva も実在してしまうことになるであろう.無自性無我の立場に立つ仏教ではそのよ うなことは決してありえない.したがって,『菩薩地』における svabhāva を「語 の発働の根拠」と理解するとき,「余れるもの」は vastu のみであり,仮説は「余 れるもの」ではないと考えられる7).
3.まとめ
以上のように,『菩薩地』における svabhāva を「語の発働の根拠」としての pravṛttinimitta と解釈するとき,『菩薩地』での「余れるもの」は「ものそのもの」 『菩薩地』における「余れるもの」(本 村) (175) うにも思える.したがって,ここでの nimitta は pravṛttinimitta を意味していると も考えられそうであるが,「摂決択分中菩薩地」において五事が述べられる中の, 因相(nimitta)と真如(tathatā)についての記述を見ると違うようでもある. 因相(nimitta)とは何かというならば,要約するなら,言語表現としての語の基体,拠り 所となっている vastu である.(ViSg 1.2.1) 真如とは何かというならば,法無我として顕現したもの,聖者の智の対象であり,一切 の言語表現としての語の基体,拠り所となっていない vastu である.(ViSg 1.2.4) 因相とは,例えば,牛性が把握され,それを根拠にして「牛」と呼ばれていると きの牛,すなわち牛性の基体となっている場合の牛である.また真如とは,牛性 が把握されず,牛性の基体となっていない牛そのものであり,もはや「牛」とは 認識されない,ものそのものとしての vastu である.すなわち vastu には二面性が あり,世俗において svabhāva の基体となっている状態のものと,勝義において vastu そのものとなっている状態のものである.そして前者が因相(nimitta)と呼 ばれるのである. この「摂決択分中菩薩地」の因相(nimitta)の記述を考慮すれば,pravṛttinimitta としての自性と,その基体となっている因相(nimitta)は別物であると考えられる ことから,「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)における nimitta は pravṛttinimitta ではなく,自性の基体となっている世俗的側面としての vastu であると思われ る5).ともあれここでは,仮説としての語に応じた自性が存在しないのに存在す ると増益すること,また,自性が非存在だからといってその基体である,ものそ のものとしての vastu までをも存在しないと損減することは誤った空性理解であ るの述べている.すなわち,般若経典などに説かれる空性説を虚無論であるとす ることを戒めているのである. 以上『菩薩地』の記述を見ると,そこで述べられている svabhāva は仮説として の語が発働される根拠(pravṛttinimitta)を意味していると解釈することが可能のよ うである.そして,このような svabhāva の解釈を踏まえて『菩薩地』における 「余れるもの」について見ていきたい. またさらに,正しく捉えられた空性とは何か.或るもの[A]が,或るもの[B]に存在 しない.その[B]は,その[A]の点で空であると正しく見る.そして,そこに余れる ものが存在する.そこにそ[の余れるもの]は実在すると如実に知る.これが如実にし て不顚倒なる空性へ入るものであることが言われる.それは例えば,「色」等と名付けら れ,言明された vastu において,「色である」と呼ばれるような仮説たる語の[発働の根 (174) 『菩薩地』における「余れるもの」(本 村)拠としての]本質を有する(prajñaptivādātmaka)法は存在しない.したがってその「色」 等の名称を持つ vastu は,その「色である」というような仮説たる語の[発働の根拠とし ての]本質を有する(prajñaptivādātmaka)という点で空である.では,その「色」等の 名称を持つ vastu において余れるものとは何か.実にそれは「色である」というような仮 説たる語の拠り所(prajñaptivādāśraya)である.そしてこの二つを如実に知る.[すなわ ち]「vastu そのもの」(vastumātra)が実在であることを,また「vastu そのもの」に対す る仮説にすぎないもの(prajñaptimātra)とである.そして存在しないものを存在すると増 益しない.[また]存在するものを存在しないと損減しない.多くせず,少なくせず,取 り除かず,投げ出さない.そしてありのままの真如は,不可言なる自性を有すること (nirabhilāpyasvabhāvatā)を如実に知る.これが正しく捉えられた空性であり,正しい智 慧によってよく通達されたものであると言われる.(BBh 5.4.2) ここでは「仮説たる語の[発働の根拠としての]本質を有する」(prajñaptivādātmaka)
と し て svabhāva が ātman と 言 い 換 え ら れ て い る こ と か ら , こ の ātman は pravṛttinimitta を意味していることが分かる.そして「余れるもの」とは「「色で
ある」 というような仮説たる語の拠り所(prajñaptivādāśraya)」とされている.先に
見た「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)と比較すると,ここでの「余れる
もの」は vastu の世俗的側面としての因相(nimitta),すなわち自性の基体となって
「牛である」等と分別されている牛のようにも思われる.しかし『菩薩地』は続け
て「「vastu そのもの」(vastumātra)が実在であること.また 「vastu そのもの」 に対
する仮説にすぎないもの(prajñaptimātra)」を如実に知るとしている.したがって, 「余れるもの」は vastu の世俗面としての「因相」(nimitta)ではなく,自性の基体 とならない言葉を離れた勝義的側面としての vastu である. これまでの『菩薩地』の「余れるもの」は,この記述を基にして,vastu と仮説 の二つと理解されてきたようである6).しかしながら,もし仮説も「余れるもの」 として実在するのであれば,その発働の根拠である pravṛttinimitta としての svabhāva も実在してしまうことになるであろう.無自性無我の立場に立つ仏教ではそのよ うなことは決してありえない.したがって,『菩薩地』における svabhāva を「語 の発働の根拠」と理解するとき,「余れるもの」は vastu のみであり,仮説は「余 れるもの」ではないと考えられる7).
3.まとめ
以上のように,『菩薩地』における svabhāva を「語の発働の根拠」としての pravṛttinimitta と解釈するとき,『菩薩地』での「余れるもの」は「ものそのもの」 うにも思える.したがって,ここでの nimitta は pravṛttinimitta を意味していると も考えられそうであるが,「摂決択分中菩薩地」において五事が述べられる中の, 因相(nimitta)と真如(tathatā)についての記述を見ると違うようでもある. 因相(nimitta)とは何かというならば,要約するなら,言語表現としての語の基体,拠り 所となっている vastu である.(ViSg 1.2.1) 真如とは何かというならば,法無我として顕現したもの,聖者の智の対象であり,一切 の言語表現としての語の基体,拠り所となっていない vastu である.(ViSg 1.2.4) 因相とは,例えば,牛性が把握され,それを根拠にして「牛」と呼ばれていると きの牛,すなわち牛性の基体となっている場合の牛である.また真如とは,牛性 が把握されず,牛性の基体となっていない牛そのものであり,もはや「牛」とは 認識されない,ものそのものとしての vastu である.すなわち vastu には二面性が あり,世俗において svabhāva の基体となっている状態のものと,勝義において vastu そのものとなっている状態のものである.そして前者が因相(nimitta)と呼 ばれるのである. この「摂決択分中菩薩地」の因相(nimitta)の記述を考慮すれば,pravṛttinimitta としての自性と,その基体となっている因相(nimitta)は別物であると考えられる ことから,「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)における nimitta は pravṛttinimitta ではなく,自性の基体となっている世俗的側面としての vastu であると思われ る5).ともあれここでは,仮説としての語に応じた自性が存在しないのに存在す ると増益すること,また,自性が非存在だからといってその基体である,ものそ のものとしての vastu までをも存在しないと損減することは誤った空性理解であ るの述べている.すなわち,般若経典などに説かれる空性説を虚無論であるとす ることを戒めているのである. 以上『菩薩地』の記述を見ると,そこで述べられている svabhāva は仮説として の語が発働される根拠(pravṛttinimitta)を意味していると解釈することが可能のよ うである.そして,このような svabhāva の解釈を踏まえて『菩薩地』における 「余れるもの」について見ていきたい. またさらに,正しく捉えられた空性とは何か.或るもの[A]が,或るもの[B]に存在 しない.その[B]は,その[A]の点で空であると正しく見る.そして,そこに余れる ものが存在する.そこにそ[の余れるもの]は実在すると如実に知る.これが如実にし て不顚倒なる空性へ入るものであることが言われる.それは例えば,「色」等と名付けら れ,言明された vastu において,「色である」と呼ばれるような仮説たる語の[発働の根いているところの基体としての色等という事実(vastu)には無いが,純粋事実 (vastumātra)は残っているとして,仮説を「余れるもの」とは考えていない. 8)BBh 2.2.1 や BBh 3.2 では,言語協約(saṃketa)や世間的言語習慣(saṃvṛti)によっ て諸法の自性が了解されることが述べられていることからも,「牛」等といった語に対 応した「牛性」等の自性が想定されるという考えがあったことが分かる. 〈略号〉 BBh Bodhisattvabhūmi: 高橋 2005, 83–117. ViSg Bodhisattvabhūmiviniścaya: 高橋 2005, 121–149. 〈参考文献〉 畝部俊也 2015「『般若心経』の 「空性」 ――サンスクリット文法学の観点から――」『イン ド論理学研究』8: 49–73. 佐久間秀範 2012「瑜伽行唯識思想とは何か」桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編 『シリーズ大乗仏教 7 唯識と瑜伽行』春秋社,19–72. ――― 2014「セッション No. 2 の発表に対するコメント」『日本仏教学会年報』79: 303–311. ――― 2016「唯識思想解析のための修行者の視点」『智慧のともしび アビダルマ佛教の 展開 三友健容博士古稀記念論文集』インド・東南アジア・チベット篇,山喜房佛書 林,190 (773)–169 (794). 高橋晃一 2005『『菩薩地』 「真実義品」から「摂決択分中菩薩地」への思想展開―― vastu 概 念を中心として――』インド学仏教学叢書 12,山喜房佛書林. 村上真完 2013「空性(śūnyatā,空であること)と唯事(vastu-mātra,事実のみ)――菩 薩地 真実義品第四の用語法と思考法――」『インド論理学研究』6: 1–53. 〈キーワード〉 『菩薩地』,vastu,prajñapti,仮説,余れるもの (名古屋大学非常勤講師,博士(文学)) 『菩薩地』における「余れるもの」(本 村) (177) としての vastu のみであることが明らかとなったが,仏典解釈においてどこまで サンスクリット文法学の概念を適用して解釈することができるのかという問題も ある.畝部 2015 も述べているように,仏典がサンスクリットで著されている以 上,それらを著した人々にサンスクリット文法学の知識が全くなかったというこ とはありえない.事実,仏教徒においてもそれらの概念を熟知していたことを伺 わせる資料も存在している.そして『菩薩地』が言葉の観点から空の思想を扱っ ている以上,それを言語論的観点から解釈することはさほど誤ってはいないと考 える8). 1)これに関する最近の研究として村上 2013 がある. 2)「悟入するために,悟入した」(-praveśāya praviṣṭena)の訳については高橋 2005, 155, fn. 7 参照. 3)「分別せず平等なる智によって」(nirvikalpasamena jñānena)の訳については高橋 2005, 155, fn. 8 参照. 4)仏典解釈にサンスクリット文法学をどこまで適用してよいかという問題について畝 部(2015, 52)は,5 世紀ごろの仏教徒で文法家であるチャンドラゴーミンが bhāva 接 辞の意味を「語の発働の根拠」(pravṛttinimitta)であると明言していること,また,畝 部(2015, 71, fn. 28)は 11 世紀ごろのカシミールの学僧であるジュニャーナシュリー バドラが『入楞伽経』の注釈において「語の発働の根拠」(pravṛttinimitta)としての bhāva を知っていたことなどを挙げ,大乗仏典をサンスクリットで著していた人々に とって,サンスクリット文法学の体系が基礎学となっていたことは否定できないと述 べている. 5)しかしながら,「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)における nimitta を「摂決 択分中菩薩地」の五事における因相を意味しないと考えれば,語の発働の根拠として の pravṛttinimitta を意味しているという可能性も残る.その場合の複合語解釈は「仮説 たる語の[発働の]根拠([pravṛtti]nimitta)の基体(adhiṣṭhāna)」,「仮説たる語の[発 働の]根拠([pravṛtti]nimitta)の拠り所(saṃniśraya)」となる. 6)佐久間(2014, 308–309)は修行の実践的観点から瑜伽行派の文献を捉え直し, prajñaptivādasvabhāva を「仮に言語表現したことばの本当に表すもの(svabhāva)」と し,この svabhāva は vastu や tathatā を指すものと解釈している.そして,言語表現し えない vastu や tathtā を仮に “vastu” や “tathtā” と言語表現したものであるから,『菩 薩地』においては vastu の他に prajñapti や vāda も「余れるもの」とされていると言う. このような『菩薩地』における「余れるもの」のに関する本稿との相違は,どちらが 正しいか間違っているかではなく,瑜伽行派の文献をどの視点から見るかの相違によ るものであるとも思われる.なお佐久間 2012,および佐久間 2016 において瑜伽行派の 文献を「修行者の視点」から捉え直すことの重要性が指摘されている.また,村上 2013, 50 では vastumātra とは心の中の出来事であるとしている. 7)村上 2013, 30 でも,語が意味する概念(仮説)は,「色」等という言説が依存し基づ (176) 『菩薩地』における「余れるもの」(本 村)
いているところの基体としての色等という事実(vastu)には無いが,純粋事実 (vastumātra)は残っているとして,仮説を「余れるもの」とは考えていない. 8)BBh 2.2.1 や BBh 3.2 では,言語協約(saṃketa)や世間的言語習慣(saṃvṛti)によっ て諸法の自性が了解されることが述べられていることからも,「牛」等といった語に対 応した「牛性」等の自性が想定されるという考えがあったことが分かる. 〈略号〉 BBh Bodhisattvabhūmi: 高橋 2005, 83–117. ViSg Bodhisattvabhūmiviniścaya: 高橋 2005, 121–149. 〈参考文献〉 畝部俊也 2015「『般若心経』の 「空性」 ――サンスクリット文法学の観点から――」『イン ド論理学研究』8: 49–73. 佐久間秀範 2012「瑜伽行唯識思想とは何か」桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編 『シリーズ大乗仏教 7 唯識と瑜伽行』春秋社,19–72. ――― 2014「セッション No. 2 の発表に対するコメント」『日本仏教学会年報』79: 303–311. ――― 2016「唯識思想解析のための修行者の視点」『智慧のともしび アビダルマ佛教の 展開 三友健容博士古稀記念論文集』インド・東南アジア・チベット篇,山喜房佛書 林,190 (773)–169 (794). 高橋晃一 2005『『菩薩地』 「真実義品」から「摂決択分中菩薩地」への思想展開―― vastu 概 念を中心として――』インド学仏教学叢書 12,山喜房佛書林. 村上真完 2013「空性(śūnyatā,空であること)と唯事(vastu-mātra,事実のみ)――菩 薩地 真実義品第四の用語法と思考法――」『インド論理学研究』6: 1–53. 〈キーワード〉 『菩薩地』,vastu,prajñapti,仮説,余れるもの (名古屋大学非常勤講師,博士(文学)) としての vastu のみであることが明らかとなったが,仏典解釈においてどこまで サンスクリット文法学の概念を適用して解釈することができるのかという問題も ある.畝部 2015 も述べているように,仏典がサンスクリットで著されている以 上,それらを著した人々にサンスクリット文法学の知識が全くなかったというこ とはありえない.事実,仏教徒においてもそれらの概念を熟知していたことを伺 わせる資料も存在している.そして『菩薩地』が言葉の観点から空の思想を扱っ ている以上,それを言語論的観点から解釈することはさほど誤ってはいないと考 える8). 1)これに関する最近の研究として村上 2013 がある. 2)「悟入するために,悟入した」(-praveśāya praviṣṭena)の訳については高橋 2005, 155, fn. 7 参照. 3)「分別せず平等なる智によって」(nirvikalpasamena jñānena)の訳については高橋 2005, 155, fn. 8 参照. 4)仏典解釈にサンスクリット文法学をどこまで適用してよいかという問題について畝 部(2015, 52)は,5 世紀ごろの仏教徒で文法家であるチャンドラゴーミンが bhāva 接 辞の意味を「語の発働の根拠」(pravṛttinimitta)であると明言していること,また,畝 部(2015, 71, fn. 28)は 11 世紀ごろのカシミールの学僧であるジュニャーナシュリー バドラが『入楞伽経』の注釈において「語の発働の根拠」(pravṛttinimitta)としての bhāva を知っていたことなどを挙げ,大乗仏典をサンスクリットで著していた人々に とって,サンスクリット文法学の体系が基礎学となっていたことは否定できないと述 べている. 5)しかしながら,「仮説たる語の因相」(prajñaptivādanimitta)における nimitta を「摂決 択分中菩薩地」の五事における因相を意味しないと考えれば,語の発働の根拠として の pravṛttinimitta を意味しているという可能性も残る.その場合の複合語解釈は「仮説 たる語の[発働の]根拠([pravṛtti]nimitta)の基体(adhiṣṭhāna)」,「仮説たる語の[発 働の]根拠([pravṛtti]nimitta)の拠り所(saṃniśraya)」となる. 6)佐久間(2014, 308–309)は修行の実践的観点から瑜伽行派の文献を捉え直し, prajñaptivādasvabhāva を「仮に言語表現したことばの本当に表すもの(svabhāva)」と し,この svabhāva は vastu や tathatā を指すものと解釈している.そして,言語表現し えない vastu や tathtā を仮に “vastu” や “tathtā” と言語表現したものであるから,『菩 薩地』においては vastu の他に prajñapti や vāda も「余れるもの」とされていると言う. このような『菩薩地』における「余れるもの」のに関する本稿との相違は,どちらが 正しいか間違っているかではなく,瑜伽行派の文献をどの視点から見るかの相違によ るものであるとも思われる.なお佐久間 2012,および佐久間 2016 において瑜伽行派の 文献を「修行者の視点」から捉え直すことの重要性が指摘されている.また,村上 2013, 50 では vastumātra とは心の中の出来事であるとしている. 7)村上 2013, 30 でも,語が意味する概念(仮説)は,「色」等という言説が依存し基づ