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南アジア研究 第23号 012学会近況・絵所 秀紀「共通論題 南アジア」

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Academic year: 2021

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学・会・近・況

共通論題

南アジア

─グローバリゼーションと格差─

絵所秀紀

経済のグロ-バル化が進展する中で、いまや中国と並んで世界の中で 確固たる存在感を示しはじめたインド。かつての停滞したインドを知る ものにとっては、まことに驚異としかいいようのない変貌である。しか し一度、国内に目をむけると、明らかに様々な格差が拡大しているよう に見える。またインドほどではないにせよ、似たような現象が南アジア 各国でも生じている。グロ-バル化の進展は必然的に格差の拡大をもた らすものなのか。もしそうであるとするならば、その原因はどこにある のか。格差の拡大をどのように理解し、また計測したらよいのであろう か。グローバル化の進展と格差拡大の中で、人々はどのように暮らし、 また対処しているのであろうか。インド(あるいは南アジア)に固有な 問題とはどのようなものであろうか。こうした様々な問いかけに、それ ぞれの専門の立場から議論していただくというのが、共通論題のテーマ であった。経済学、政治学、国際関係論、社会学、人類学を代表して、 黒崎卓(一橋大学)、中溝和弥(京都大学)、伊藤融(防衛大学校)、篠 田隆(大東文化大学)、関根康正(日本女子大学)の各会員にご報告を 願った。また佐藤宏氏と小田尚也氏(立命館大学)に討論者をお願いし た(以下、敬称略)。 第1報告は、黒崎卓「ミクロ家計データから見る南アジアの経済成長 と貧困・不平等」であった。黒崎報告は、1990年代以降南アジア経済の グロ-バル化が進展する中で、不平等の継続ないし拡大が、経済成長が 加速したにもかかわらず絶対的貧困指標の低下速度が鈍化しているこ とにつながっているという共通点を持つ点に焦点をあてた。ミクロ家計 データを加工して得られるさまざまな貧困指標・不平等指標の吟味を通 じて描写的に検討した。データの比較可能性を考慮して、報告は主に、 1人当たり1月の実質消費総額水準(

MPCE

)という指標を用いて貧困・

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不平等を分析した。また機会の不平等という観点からは、事後的な不平 等の指標である消費水準の不平等よりも、資産の不平等を検討すべきで あるとし、農地所有の不平等や人的資産(教育および健康)の不平等に 関する作業結果も補足的に用いた。 黒崎の分析結果は、⑴消費面での不平等は南アジア全域で近年上昇 しつつある。⑵その傾向は各国内の全階層・全地域で共通しているわけ ではなく、どちらかといえば初期水準での水準が低かった階層・地域に おいて消費水準がより低迷している傾向がある。⑶階層間格差、州間格 差、農村都市間格差よりも、階層内格差や地域内格差の方が不平等指標 への貢献度合いという点でははるかに重要である。とりわけSC

/

ST家計 内部での顕著な格差が無視できない。⑷これらの特徴は、地域間・階層 間で信用市場や経済インフラへのアクセスが構造的に異なっているこ とに着目した、不完備市場のミクロ経済モデルの理論的予測と整合的で ある。ただしミクロの所得データ、資産データが、国レベルでの代表性 を持つミクロデータとして得られないゆえに、この解釈についての厳密 な実証的検証を行うことは容易でないと論じた。詳細なデータ分析に基 づいた貴重なファクト・ファインディングスである。とりわけ、「階層間 格差、州間格差、農村都市間格差よりも、階層内格差や地域内格差の方 が不平等指標への貢献度合いという点でははるかに重要である」という 貴重な点が指摘された。 第2報告は、中溝和弥「格差と政治変動─インドの事例─」であった。 中溝報告は、「民主主義は、格差を是正するよう機能してきただろうか。 裏返せば、格差の是正を目指す動きは、民主制の下でどのような政治的 表現を取ってきただろうか」と問いかけ、インドを事例としてこの問題 を検討した。インドは、貧富の格差やカースト制度など厳しい社会経済 的格差を抱えてきた一方で、2年弱の非常事態体制期を除き民主主義体 制を維持してきた稀有な国である。民主主義が先進国の特権のように語 られてきた時代から、インドは「例外」として存在感を発揮し、数多く の途上国が民主化を経た現在、先達としての意義を持っていると論じた。 中溝報告は、60年間に及ぶインド民主制の実践のなかで、社会経済 的格差の是正を求める闘いは、しばしば大きな政治変動と結びついてき た点に着目した。⑴1960年代後半に起こった未曾有の経済危機とこれ に伴う貧困層の増大による「会議派システム」の終焉、⑵1970年代前

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半の経済危機と反政府運動の高揚によって引き起こされた非常事態体 制、⑶社会的格差の是正を求める公務員職留保制度の中央政府レベル での導入、そして経済自由化に踏み切った1990年代以降の、下院でい ずれの政党も過半数を獲得することのない「競合的多党制」の時代、と いった推移である。これらの歴史的推移から、社会経済的格差の存在、 そしてこれを是正しようとする動きと政党政治の変化の間には、なんら かの関係性を指摘することができそうであると論じた。 つづいて中溝報告は、インドにおいてグローバリゼーションが進展し た1990年代以降の変化に注目すべきであると強調した。経済自由化の 機会を捉えて豊かになった層と取り残された層の格差の拡大は、政治の 変化とどのように関わっているだろうかという問いかけである。経済自 由化と歩調をそろえて進行したインドの政治変動を、経済的変化の視点 のみから捉えることにも無理があると指摘した。1990年代の変化を象徴 する要因として、三つのM(マンダル、マンディール、マーケット)が よく取り上げられるように、カースト・宗教アイデンティティの争点化、 そしてこれらを媒介する暴力の存在に注目すべきであり、グローバリ ゼーションの時代において、社会経済的格差の存在は、三つのMとどの ように関わり、政治変動を生み出しただろうかを議論すべきであると訴 えた。 第3報告は、伊藤融「グローバリゼーションと格差─国際政治学の視 点から─」であった。学会展望をベースに据えた報告であり、国境を越 えた領域の政治現象を対象とする国際政治学/国際関係論においては、 「グローバリゼーションと格差」というテーマは馴染みにくいと論じた。 伊藤の整理によると、グローバリゼーションをどう捉えるかについて は、ネオ・マルクス主義的な立場からの分析が多い。グローバリゼーショ ンを統合と分裂の動きを内包したものだと捉えるものや、グローバリ ゼーションが「民族間・国家間・地域間格差」を増大させているとする 議論である。このほかにも、グローバリゼーションが伝統的な地域概念 に変化をもたらしているとして、世界大の文脈で地域研究を展開する必 要性も指摘されてきた。しかし伊藤は、こうした分析や提言が、西側世 界で展開されてきた議論に比べて新味があるとは評しがたいと切って 捨てた。またインドにおける国際政治学の主流はリアリズム/ネオ・リ アリズムであり、彼らはグローバリゼーションそのものに真剣に取り組

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もうとしないと指摘した。 伊藤の整理によれば、主流派もグローバリゼーションに触れないわけ ではない。しかし主流派にとって、グローバリゼーションはもっぱらイ ンドの大国化への転換点であり、機会にほかならない。グローバル経済 への参画(=経済自由化)で潜在力を開花させたインドは、地域のみな らず、世界においても、軍事的にも政治的にも主要なプレーヤーとして の役割を演ずることができるようになってきた。その意味でインドはグ ローバリゼーションの「勝者」と認識されている。非同盟外交時代とは 異なり、いまや「経済が外交を規定」するようになったと認識されてい る。 他方、経済学等で、グローバリゼーションとの関連でしばしば指摘さ れる「格差」が国際政治学の文脈で語られることは皆無であると指摘し た。それは、伝統的な国際政治学があくまでも国境の外側の現象を対象 にするがゆえに、「国家間格差」を認識・分析の対象とすることはあって も、「国内格差」を射程の外に置いてきたことに第一義的には起因する ものであると論じた。冷戦後の国際政治学において「人間の安全保障」 概念が登場し、伝統的な「国家の安全保障」だけでは不充分だという議 論が起きているなか、南アジア/インドの現状は奇異にすら映るとし た。格差あるいはそれに関連する貧困や不平等といった構造的暴力が、 テロや戦争といった直接的暴力-まさに伝統的国際政治学の研究対象 -と連動しているといった視点がまったくないわけではない。グローバ リゼーションに伴う格差が紛争をもたらしており、「対テロ戦争」はグ ローバリゼーションにとって安全な世界を構築するものであったという 辛辣な批判を展開している研究者もいる。 しかし、そうした視点はインドの国際政治研究において全般に希薄で あると論じた。その「理由は、⑴格差と直接的暴力との連動は、対外関 係、とくにパキスタンとの関係において頻発する直接的暴力は、グロー バリゼーションに伴うインド、パキスタンそれぞれの国内格差からでは 説明がつかないという了解があるからである。パキスタンの核開発とテ ロは、国際政治学においては、印パ間のパワー格差(の拡大)から、あ るいはグローバリゼーションとの関連でいえば、グローバルなイスラー ム・ネットワークの動きから合理的に説明されてきた。⑵「台頭するイ ンド」の言説のもとでは、格差や貧困に目が向けられることはないから

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である。それらは、インド外交・安全保障にとって無関係とされ、イン ド大国化の障害と認識されることはほとんどない。世界でインドのハー ドパワーがもてはやされ、その一方で直接的暴力が蔓延するなかでは、 グローバリゼーションと格差を、安全保障の中心的なアジェンダに据え ようという機運は生まれてこないであろうと結論した。 第4報告は、篠田隆「グローバリゼーションと清掃労働者─アムダー ヴァード市自治体雇用の清掃労働者を事例として─」であった。篠田報 告は

1990

年代初頭に行ったアムダーヴァード市自治体の清掃部門およ び清掃労働者の社会経済調査結果と、

2010

年8月に行ったアムダー ヴァード市自治体関係者からの簡易聞き取り調査結果を比較し、グロー バリゼーションの影響が清掃部門政策と清掃労働者の雇用労働条件に どのような変化をもたらしたのか、またこの変化は清掃部門行政や清掃 労働者の社会経済発展の観点からどのように評価されるべきなのかを 検討したものである。篠田によれば、清掃人カーストをグローバリゼー ションとの関わりで取り上げるのは、彼らが開発や発展に取り残されや すい特質をもつ集団のひとつだからである。教育の高度化と職業の多様 化が有機的に結び付かないために、また根深い不可触民差別のために、 彼らは「伝統的」な職業から抜け出せない状況に置かれている。

2010

年に行った簡易聞き取り調査の結果、篠田は以下の諸点を確認 している。⑴清掃部門の業務の民間委託(民営化)が大規模に進行した。 ⑵清掃部門の雇用人員のスリム化が進行している。⑶清掃業務の民営化 の一環として、危険なマンホール清掃業務が5年前から民間に委託され ている。⑷労働組合運動の退潮に伴い、アムダーヴァード市自治体と労 働組合の力関係が大きく変化した。清掃労働者を組合員とする労働組合 は6組合あるが、いずれの組合も常雇枠の拡大を要求していない。労働 組合は絶対に譲れない主張である補償的雇用制度を守るのに手いっぱ いの状態である。⑸アムダーヴァード市自治体の清掃労働者の雇用労働 生活条件が変化した。道路清掃の用具や労働範囲に変化はないが、戸 別回収の開始により、道路清掃の労働量は15 ~ 20%減少した。運搬車 両やコンテイナーの更新が行われ、運搬関連労働者の労働環境は改善さ れた。⑹しかし、常雇いの月給は1万3000 ~1万5000ルピーほどにと どまっている。この水準の世帯収入では、教育費(とくに高等教育)は 重い負担となる。清掃労働者の生活条件にも目に見える改善は生じてい

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ない。常雇いの約半数は自治体の清掃人宿舎に居住している。20年前 と同様である。それ以外の常雇いと日雇いの多くはスラムに居住してい るとみられている。都市開発が加速するなか、スラム撤去と代替住居へ の移転政策にドライブがかかっており、彼らのなかからも辺鄙な箇所に 準備された代替住居へ移転せざるをえない者もでている。 グローバリゼーションのなかでアムダーヴァード市自治体は民営化、 スリム化を進めた。その民営化の手法のいくつかには批判が提出されて いる。清掃労働者は労働組合運動退潮のなか、交渉力を失っている。内 部改革の動きも見られない。いまだ社会経済発展の契機をつかめていな いのが現状である、と結論した。 第5報告は、関根康正「南アジア系移民社会に見るトランスナショナ リティとストリート・ウィズダム(「組み換えのローカリティ」)─英国と ハワイの事例を中心に─」であった。「恒常性の喪失を加速するトラン スナショナルな世界では、生き抜くためにストリート・ワイズにならな ければのたれ死ぬ」と問題の本質に鋭く切り込んだ。関根によると、「こ うした状況はネオリベラリズムの進む現代の生み出すアンダークラスの 人々にはすでに今日のただいまの現実である」。関根は、「資本なき者た ちがいかにそうした状況下でも与えられたさまざまな環境要素を資源 にして、信仰空間を確保し、自らのアイデンティティを再構築している かを示す興味深い例」として、ハワイにおける南アジア系移民世界をと りあげた。関根報告は、ストリートの知として「下からのパッケージ化」 という概念を析出した。「下からのパッケージ化」とは、ネオリベラリズ ム的なグローバル化がもたらす「上からのパッケージ化」を流用しなが ら脱パッケージ化によって自分たちの生きられる生活の場を構築する 要領のことであり、それが目指すところはローカルな文脈に応じた主体 的な再パッケージ化である。それは、いくつもの雑多な力の働いた競合 的要素を共存的なるものへと変換するような戦術的なブリコラージュの 技法を表現しており、そのような事態が展開する場所の記述分析には、 「組み換えのローカリティ」という概念が有用であることと提唱した。 えしょ ひでき ●法政大学経済学部教授

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