2)
著者名(日)
丹野 朝栄
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
38
号
3
ページ
67-77
発行年
2001-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002253/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja地域リーダーの形成と
その教育的基盤の変遷(その2)
The Formation of Community Leaders
and Transformations of Educational Basis(Part 2)
丹野朝栄
TANNO Tomoei
Abstract
1.This study replaces Part 1. 2. This study mainly refers to the ten Years from 1945 to 1955. 3.This study concerns Trends in Vocatiollal Education, especially in the Educational Reform Committee established after WW II. 4.Occasionally we refer to the Directors of Shonai Agricultural High School before WW II and introduce intensive surveys conducted by graduates from this institution.要 旨 本稿は、戦後教育改革、特に新制高校の発足の意味に言及した前号を継承し、より詳細に内容を 敷街したものである。以下の内容から成り立っている。 1.歴史的な流れとして戦後の教育改革から、1955年の高校の学習指導要領の改訂までの時期に限 定する。「その1」で取り上げた学校教育と農業改革の交点からするならば、農地改革、教育改革に 始まり、1955年迄の時期であり、経済白書で有名になった「もはや戦後ではない」(1956・昭和31年) の時期までも含める。 2.職業教育をめぐる動向を教育刷新委員会、教育刷新審議会の会議録を参考としながら、その特 徴を述べる。折りに触れて調査してきた庄内農業高校の卒業生との出会いを紹介する。戦後の教育 改革の重要な柱の一つである新制高校の三原則を、庄内農業高校及び盛岡農業高校の変遷を垣間見 つつ、論点を述べることにする。 3.2001年に百周年を迎える庄内農業高校の1945年以前の校長に注目し、その特徴点を析出する。 以上の3点に就いて、それぞれ紹介する。
第1節 新制高校の10年間と関連する職業教育の動向
1.新制高等学校発足までの動向
ポツダム宣言を受託したわが国は、1947年米国使節団を迎えるため、「日本側委員会」を発足させ、 諸々の検討に入った。本稿との関係では、「学校体系に関する意見」が注目される。複線的な体系の 問題点を指摘し、高等学校の名称も考慮し、検討(詳細は省略)を加えたのである。以下論じるに あたり、三一書房から出版されている「戦後日本教育史料集成」を参考にした。 (1)米国第一使節団報告書 まず、新制高等学校発足に多大なる影響を与えた「米国第一使節団報告書(1946年3月)」の概要 を紹介しよう。 「第三章、初等および中等学校の教育行政」の項で、下級中等学校の後に、上級中等学校の開設 を求めている。次のような内容である。・無月謝で誰でも入学できる4年制であり、 ・男女共学を求め、 ・この学校では「家事、農業、商業および工業教育の課程のみならず(中略)専門学校及び大学 の入学準備になる学究的な課程をふくむべきである(総合性)」 ・地方の狭いところでは、全部の課程を一つの学校に集めるといった内容のものである(少学区制)。 新制高等学校の三原則、それを支える財政は、生徒の負担のない無償であるとの考え方を提示し たのである。 (2)教育刷新委員会第17回総会決議(第1回建議、1946年) 修業年限3ヵ年の中学校(仮称)に続くべき教育機関として、3年制の高等学校(仮称)を設け る。ここには、全日制と定時制をおき、必ずしも男女共学でなくともよいとしている。本稿にとっ て注目に値するのは、学校教育法第41条の目的がみられていることである。「高等学校は普通教育並 びに専門教育を行うものとすること」(第1巻、P.337)との、かかる指摘を背景にして文部省は、 1947(昭和22)年2月に「新学校制度実施準備の案内」を文部省学校教育局から出したのである。 (3)新学校制度実施準備の案内~文部省学校教育局 新制度の中学校、高等学校に関する概要に触れ、各方面での研究をするための素材として掲示さ れたものである。 高等学校への入学者は、「中学校における学習の結果に応じて更に上級の学校に進学を希望するか、 あるいは職業に就くことを希望するかのいずれかを選んで入学する」(第2巻、P.40)ので、それぞ れの部門での教育や訓練に必要な設備を設ける必要がある。従って課程として「一般的なもの、並 びに農業・工業・商業及びその他の職業に関するものとなる」(同上)このため、大都市では専門的 な学校もあるが、その他の地方では二つの機能・課程を併置する「総合的」なものを置くこともある。 この学校は、義務制ではないが、将来的には、授業料をとらず、無償とすることが望ましいし、 さらに、男女共学について、必ずしもなくてもよいが、「日常生活並び交際についても男子と女子と が互に人格として尊重しなければならない」(傍点部筆者、同上)。この文から読みとれるように、 総合制、小学区制、無償制、男女共学制に触れているのである。 (4)教育基本法・学校教育法の公布 諸々の検討を経て1947年3月31日、この2つが公布された。高等学校の目的に関しては、「その1」 で内藤誉三郎の見解を紹介しているので、反復は避けるが、違った角度から、この法律の意味に言 及しよう。以下「別冊法学セミナーNo33、基本法コンメンタール『新版教育法』」(日本評論社、 1977・昭和52年)を紹介することにする。神田修は、高等学校の二つの目的を論じた後に、薪制の 意味を次のように説明している。|(前略)旧制度の高等学校はもちろん旧中等学校の戦後版ではな
く、これらを否定して出発した教育機関である(傍点筆者)”(P.143)と。ここに新制の意味が凝視 されている。さらに、高校三原則にも及び、実施に移されていった。この指摘に、疑問を投げかけ るのではないが、理念と現実との乖離が、高等学校の戦後史であり、原点を彩るものとして把握す る必要がある。
2.新制高等学校発足とその後
この期間、1951(昭和26)年、「産業教育振興法」が公布され、中学校・高等学校等の生徒に対し て、産業に従事するための必要な知識・技能・態度を習得させる目的であると第二条で明示してい る。法の形式からすれば国が本腰になって産業教育に力を入れ始めたと解釈できる。 しかし、現在に至っても改正されていない高等学校の目的、高校三原則の間に模をうちこみ、教 育刷新委員会で話題になった論点を曖昧にしたのではと、この点については、さらなる検討が必要 である。 また、農業教育では、米の影響もあり、「学校農業クラブ」が結成された時期である。このクラブ が、どのような役割を果たしたのか、進路調査が必要である。かくして、1955(昭和30)年、「学習 指導要領」が改定され、コース制の導入の運びとなる。この点については、「その3」で論じること にする。経済の復興、そして、成長、それを支える人材の確保、産業教育の真価と、その内実が問 われる、そんな時期を迎える。第2節 教育刷新委員会・教育刷新審議会での職業教育の審議
職業教育振興に関しては、1949(昭和24)年4月22日から(6回は教育刷新委員会)最後の1回 は教育刷新審議会で、6月3日に開かれている。担当した特別委員会は、第16委員会で8名で構成 された。氏名は、巻末に掲載した第1表の資料「日本近代教育史料研究会編『教育刷新委員会・教 育刷新審議会会議録第13巻』」(P.29-31、40、岩波書店、1998より抜粋)の通りである。会では、次 のようなことが審議された。 第1回議事速記録(4月22日/発言委員6人) 主査に淡路円治朗委員を委嘱。 議事内容~文部省係官の報告をめぐり、高校の総合化と職業教育、旧制実業教育諸学校と高校職 業科の比較、定時制高校の組織など自由討議。第2回議事速記録(4月30日/発言委員6人) 都立工業高校・商業高校・定時制・印刷工芸高校長よりヒアリングと質疑。 第3回議事速記録(5月6日/発言委員4人) 都立園芸高校長・元鉄道工場課長、学徒厚生課係官よりヒアリングと質疑。 第4回議事速記録(5月13日/発言委員4人) 港区・横浜市・八都村中学校長よりヒアリングと質疑。 第5回議事速記録(5月20日/発言委員4人) 労働省基準局監督課長より技能者養成につき報告。 審議、本特別委員会の報告課題を確認。 第6回議事速記録(5月27日/発言委員6人) 高橋委員が意見書を紹介。主査より報告書を紹介。 第7回議事速記録(6月30日/発言委員4人) 文部事務官より統計資料を紹介。本特別委員会報告案を審議、決定。 以下、特徴に就いて、気づいた点を指摘することにする。 (1)会議は7回開かれているが、2ヶ月弱の短期日の上で報告が出されている。新制高等学校の発 足が、前年の4月であり、1年間が経たあとで、論点を絞る意味でも性急すぎたのではないかとい う懸念が生じる。この懸念は、戦後の職業教育特に高校に焦点をあてるとすれば尚更である。特に 農業高校に関して主張できる。 (2)次に形式的と言えば、それまでであるが、8人の委員のうち、主査は当然のこととはいえ、毎 回助言しているが全員が発言している会が一度もない点である。折角特別委員として選ばれている のだから。 (3)委員の多くは、東京、それも大学関係者が多く、本課題の対象地である、東北地方の伝統的農 業高校関係者の意見が聴取されていないことである。この会が開かれている時期、職業教育のなか でも、庄内農業高校の入学生・卒業生は、旧制中学に匹敵すると自負していることを把捉している ので、この感が否めない。 (4)続いて議事内容について、本研究と関連する点をみることにしょう。 第1回は、8人のうち6人が発言しているので、問題意識を探ることができる。冒頭、主査より、 総会の経過が報告された。大事な論点、問題点の核心に入るので紹介する。「私共の目で見ますと常
に日本としては非常に大切な教育の一つの実業教育の面がこの頃は少し逆に力が薄くなっている」 (傍点部筆者)、この認識が端的に物語っているよう高校教育の目的の一つが軽んじられているとい う危機感の反映である。 続いて、総合制が奨励されているのに、その中の職業科は非常にむらがあり、「これを地方の実状 に即してもう少し是正」した方がよいとの検討課題を掲示した。実業教育(専門課程)をどのよう に進むべきかを検討材料にしたのである。 主査の問いかけ「従来の実業学校が高等学校になります場合には実業高等学校になるのですか」 に対して、事務官は肯定し、さらに、二点を付加している。一つは、公私立ともに職業の課程を置 く総合高等学校は、従来の普通科に職業の課程を加えたところもあり、関西方面から西の方に多い と指摘している。 委員の質問に、フリートーキングという形で、問題は多岐に亘るのであるが、一応三点にまとめ よう。第一点は、学校教育全体の中で、実業教育をどう位置づけるかである。第二点は、第一点と 関連するが、新制高等学校の一大原則としてあげられた総合制をめぐる点である。ある委員は、米 使節団の干渉により、総合高等学校方式になったと発言しているが、果たしてそれで片付くかとい う問題に対峙する必要がある。第三点は、高校教育の教養教育とも関連するが、学校教育法で明示 されている高校教育の目的をいかに実現するかということと同時に二つの目的をどう両立するかと いう要素も含んでいる。 最終会議になる第6回は、検討の土台になるので、この会での高橋委員の発言に言及しよう。 認識としては、第1回の主査の発言と共通しているのであるが、新学制では職業教育が重大な意 味を有しているという前掲のもとに「新制高等学校での職業教育が次第に悪くなっていく」ので、 この背景には、「技能者を軽く見ている」という風潮に由来している。さらに、教育の中で「職業科 の高等学校を卒業した者で(中略)大学に進学できないような誤解をしている人が極く希にいる」 と指摘し、学校教育法では双方を出た人に門が開かれているという考え方を述べる(このことは必 要に大切)。 新制高等学校では、一般教養の重視は結構であるが、その分、実習・実験が少なくなっているの で如何に調和するか、国や学校当局で試案を示すよう報告している。 続いて、総合統合の理論の正しさは、認めつつ、よく検討し、拙速に足らないよう各方面で指導 を強めるよう発言している。 この高橋委員の報告書をもとに、最終回の会議でほぼ了承され、総会で報告されるようになる。
2.庄内農業高等学校の戦後周辺
続いて、委員会が開催されている頃の庄内農業高校の状況について簡単に紹介しておこう。 芝田隆雄著『農業高等学校~農業教育85年の歩み~』(国民教育研究会、1982)及び、庄内農業高等学校要覧を参考にして記述する。 新制高校が発足した1948(昭和23)年、庄内農業高校は、「藤島高校」(庄内農業高校の所在地は 藤島町にある)に名称変更し、2年後に「藤島農業高等学校」となり、その3年後、現在の校名と なっている。この校名は、筆者が1992年から庄内地方に入った際、お世話になった同窓会会長が、 校長に就任した時期と重なっている。この時期、校名の変更に留まらず、校章も変更されている。 この変更自体総合科の影響が色濃く出ている。東北地方でも、山形県と岩手県で名称が変更されて いる。例えば、村山農業高等学校は、1948年、「楯岡第一高等学校」→2年後に「楯岡農業高等学校」、 3年後に現在の名称に変わっている。もう少し検証しなければならないが、総合制との関連がある のではという仮説を樹てることができる。 名称変更にあたって、旧制農学校への郷愁、愛校心、誇りを背景に、それを裏付けているのが、 庄内を支えているとの自負(出身先が、地作、地自作)もあり、同窓生の協力を得て、実現したの である。 この時期、卒業した人たちの何人かと、何回かの面接を行い、快く協力していただいた。その中 から、ここでは二人を紹介することにしよう。庄内といえば、城下町としての鶴岡と、商業都市と しての酒田の二つが対比される。紹介する二人は、それぞれの出身者である。 断るもまでもないが、前節で第16特別委員会の審議状況について簡単に触れたが、そこでの問題 点は、普通学校(旧制中学)と実業学校(職業学校)との格差の問題が提示されていた。筆者は、 その際、伝統的な農学校(盛岡農業高校、三本木農業学校等を含めて)を取り上げていたら、議論 は違う様相を見せただろうと示唆した。ここでの二人は、部分的にこのことを論証することになろ う。前口上が長くなったが、それでは言及することにしょう。 一人は、1992年、庄内調査に入る際、東北大学細谷昂教授より紹介された「荘内日報」で多才な 論説を書いていた方である。庄内に入る契機は東北大学から東洋大学に移られた田原音和教授(残 念ながら還らぬ人となったが)の提案であった。課題も田原先生の示唆であった。細谷、田原、も う一人、菅野正教授の三人は、1970(昭和45)年から、庄内に調査に入り農民運動、地主、小作関 係、地域調査を毎年繰り返し、多くの業績を残している。そんな背景もあり、細谷教授を訪ね、藁 をもつかむ気持ちで、未知の地(調査に入っていないという意味)への紹介を依頼したのである。 この人は、1953(昭和28)年に卒業している。奇しくも校名変更の年である。出自は士族で、鶴 岡から藤島に通学したのである。庄内の地への想いが、旧制中学(現、鶴岡南高校)への進学では なく、農業高校への道を歩ませたといえよう。鶴岡南高校と庄内農業高校は、同じ教材を使用し、 ほぼ同等の学力を有していたと、淡々と、然も毅然としてお話ししていたのが、今でも目に焼きつ いている。少なくとも1955年段階までは、農学校の伝統が卒業生・在校生の中に、力強く根付いて いたのである。 もう一人の方は、「その1」でも紹介しているが、旧制の最後の卒業生である。激動期、波乱の時 期、わが国が手探りで、戦後の途を踏み出した時の生き証人でもある。出身は地主で、祖父の要請
で農業を継ぐべき庄内農業高校に入学したと笑顔で話された。本当は、大学進学を夢に見ていたの だが、夢はご子息に託され現在に至っている(対象者は還らぬ人となったが)農業への愛着の強い、 自ら腰を痛めて、農業につけないことの想いが、さらに強めていると言えよう。地域での区画整 理・耕地整理などのみならず、酒田市長のブレーンとなり、幾多の政策を作成するのに協力したの である。 逸話を三点ほど ・学生と一緒に調査で自宅を訪ねる。学生には、耳にしたり、目にしたりしたことがないことが、 聞かれる。とまどう学生に丹念に教えてゆく。農業への想いと若い人に農業について知って欲しい という要望が交錯している。 ・大学に行けなかったことが大学への期待を一層募らせていた。「先生、東洋(大学)、庄内に来て くれないですかね」と冗談と知りつつも、一大学人として、身を引き締める言葉であった。 ・この方の一つ上に、「頭がいい」、「絶対会った方がよい」と紹介され、二度ほどお会いした。印 象に残っているのは、「ライス・センター」をめぐっての乾燥をめぐる問題である。これは、今日で も議論となる省力化と自然環境に辿りつく。因みに筆者が会った人は自然乾燥を主張している。旧 制農学校、新制農業学校の卒業生ひとりつつ、紹介してきた。この点までの考慮を入れて、検討す れば、各職業高校の役割・機能へと展開できたのではと、思わずにいられない。
第3節 戦前の歴代校長が示す特徴
庄内農業高校の校長は、校名変更時の村上校長で13代目を迎え、この村上校長は、14代校長、田 宮徳治と交代するまで9年間という長い期間を勤めたのである。以下『学校要覧』と村上興市(13 代校長)同窓会会長との面接とを参照にしながら述べることとする。 第1代(関豊太郎)、第2代(野村豊常)は東京大学から農林省を経て着任している。第3代(若 林功)、第4代(池野伝吉)、第5代(柏井徳一)と北海道大学出身者が続く。村上さんの家は、 現在の学校の前にあり、4代校長(酒田市出身)や職員の生活を目のあたりにして庄内農業高校へ の憧れを強めたと、確信をもちつつ述べられた。尚、4代校長は国語(漢文)を専門にしていたと いう。第5代は篤農家であったという。 第6代(磯見八太郎)、第7代(石田恭吾)、第9代(戸田早苗)は東大出身である。第8代(大 野 励)は出身大学を聞き漏らしたが、教頭から校長に昇格している。尚、9代校長が村上さんを 1942(昭和17)年、教員として採用している。 第10代(加藤元助)は庄内農業の第一回卒業生で盛岡高等農林出身である。村上氏はこの校長の任期中(1943-1946)に教頭に昇格している。 第11代(板垣 巌)は駒場臨時教員養成所出身で、第12代(庄田真次郎)は北海道大学出身である。 第13代が村上興市である。受験勉強を重ね、千葉・松戸にある園芸(現在の園芸学部)を卒業し ている。頑丈な体で、相撲・柔道にたけており、石黒敬七と試合をしたことを淡々と話してくれた。 ここまでの歴代校長を見ると、戦前(1945年以前)の農業教育を支えてきた、東京大学、北海道 大学出身が校長として勤務していることが、旧制農学校の誇り、自負であり、それらが戦後のある 時期まで続いてきたといえよう。
第4節 「その3」以降への橋渡し
これまで述べてきたことを、1955年以降の事態を考えるにあたって、考察を要する点を整理して おこう。 (1)この期間、中華人民共和国の樹立、朝鮮戦争、「冷戦構造」が深刻化し、米の占領政策の変化、 特に教育に与えた影響は大きい。この変化が職業教育にいかなる反響をもたらしたのか、あるいは、 何の変化も及ぼさなかったのか、検討する必要ありやなしやを含めて考える必要がある。 (2)学校教育法の高等学校の目的を規定している条文は、改正されずに今日に至っている。しかし、 普通教育と専門教育をめぐる拮抗関係は強まりこそすれ、調和の方向に進んでいるとはいえない。 このことは、「その3」以降の重要なテーマになる。 (3)本稿で紹介した「産業教育振興法」の目的は、いかに生かされていったのか。私の仮説として は、第一次産業に関係する学校は、工業関係の学校に比較すると軽視されている。その時期は、い つ頃からか、何が契機となっているか、重要な課題である。 (4)この期間、「その1」で述べたように、長男は家、家業を継ぐのが当然とされていたが経済復興 (lg55年)とともに、農村の次、三男は、労働力として都市へ吸収されるのであるが、この吸収力は、 農業教育に対して、どう影響を及ぼしているか、これも検討の材料である。 (5)この期間、高校三原則は、なしくづしに揺らいできているが、この原則は、時の推移とともに いかに処遇されていったのか、この点も考慮に入れる必要がある。 参考文献 日本近代教育史料研究会編『教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録 第13巻』、岩波書店表一1 委員会名簿