『大洋の宝石』における骨の町での救済--A・ウィ
ルソンが描く一九〇〇年代の市民的自由への模索
著者
桑原 文子
雑誌名
白山英米文学
号
35
ページ
1-26
発行年
2010
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000086/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済
−A・ウィルソンが描く一九〇〇年代の市民的自由への模索
桑 原 文 子
はじめに ブロードウェイ公演まで ブロードウェイの商業演劇は近年、広告宣伝費、劇場使用 料など諸経費高騰にともない新しい舞台芸術を創造する場と いうよりは、ショーケース的性格を強めている。一九九〇年 代はじめからはとくに観光市場の開拓に力が注がれ、大きな 観客動員が見込めないストレート・プレイの上演機会は限ら れてきた。新しい出し物の数そのものが減少するなかで、リ バイバルや映画、小説、テレビのヒット作からのアダプテー ションが増加し、オリジナルな新作戯曲の上演数は減る傾向 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 にある。一九八〇年代半ばに、まったく無名の新人オーガス トーウィルソンが、﹃マーレイニーのブラックーボトム﹄ で デビューした頃とは時代が大きく変わったのである。劇作家 にとってそのような厳しい状況ではあったが、ウィルソンの 場合は初期の劇の成功ですでに主要劇作家の地位を確立して おり、﹃シドニー﹄を除いてそれまでの全作品がブロードウ ェイで上演されるという実績があった。さらに彼の十作品に よるピッツバーグーサイクルという構想はよく知られ、完成 に関心が寄せられていた。興行を成功させる鍵として、話題 性のあるテーマやスター俳優の起用が挙げられるが、ウィル ソンには、彼の作品なら観たいと思わせる劇作家としてのス 一夕1性が具わっていたと言える。必然的に九作目の﹃大洋の 宝石﹄もブロードウェイで上演されるはずであった。しかし、 じっさいには二〇〇三年四月二十八日にシカゴ、グッドマン 劇場にてマリオンーマックリントン演出で初演後、ブロード ウェイの公演までの道のりは、困難を極めた。同年七月のロ サンゼルス、マークーテイパー・フォーラム公演が済み、約 一年後の二〇〇四年九月に予定されていたボストン、ハンテ ィントン劇場の上演を目前にして、つぎつぎと問題が生じた のである。 まず八月末のリハーサル中にマックリントンが病気で入院 し、演出は初演時にシティズン役を演じたケニー・レオンが 交代した。レオンは前年に﹃日向の干しぶどう﹄で評判とな った新進演出家でもあった。結局、彼がブロードウェイ公演 も担当することになる。さらにソリー役も紆余曲折があっ た。この公演から、﹃ショー・ターナーが来て行ってしまった﹄ でヘラルドールーミスを演じてトニー賞候補となったスター 俳優デルロイーリンドがソリーを演じる予定で広告も出てい 一 一 たが、﹁創作上の飯能﹂を理由に九月十七日になって降板し てしまった。初演からソリー役を演じていたアンソニー・チ ズムは、リントの起用でイーライ役にまわされていたが、こ のような事態でまたソリー役に戻された。ウィルソンはチズ ムに小道具の杖を渡してソリー役を奪ってしまったことを詫 びながら、彼の肩で泣きだしたとチズムは語っている。演出 家、看板俳優の交代にウィルソンも頭を悩ましていたと思わ れるが、このメンバーでボストン公演を行うことができた。 ここでウィルソンは二十分程度のせりふをカットする改訂を 行った。初演時には三時間の上演時間であったが、ブロード ウェイ公演では二時間三十分となった。 いっそう重大な問題は、その後に起きた経済的な危機であ る。十一月四日からのブロードウェイでのプレビューの準備 を進めているなかで、十月になって基幹投資家が急進出資を 取りやめ、二百万ドルという穴が空いてしまったのである。 エンジェルと呼ばれる投資家を募ってのブロードウェイ興行 の資金調達は、初日を迎えるまでローラーコースターにもた
とえられるほどスリルに満ちているとされる。プロデュース 責任者のベンジャミンーモーダカイが新しい投資家を探した がみつからず、資金不足のため予定されていたプレビューを キャンセルせざるを得なくなった。公演が危ぶまれたが、結 局、プロデュースーチームが替わり、予定より約一月遅れて 十二月六日にウォルター・カー劇場で公式公演に漕ぎ着けた。 劇評もよく、売り上げも良好で満席であったが、二〇〇五年 二月六日で終演となった。次作﹃ラジオーゴルフ﹄の初演は 二〇〇五年三月である。﹃大洋の宝石﹄公演のごたごた続き のなかでも、ウィルソンが新しい戯曲の準備をしていたこと に驚かされる。 I。市民的自由への闘い オーガストーウィルソンが、順番にこだわらずにサイクル 劇の執筆を進めていったところ、最終的に一九〇〇年代と 一九九〇年、サイクルの最初と最後が残った。ブックエンド ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 のような位置の二作を、それまでの八作とつながりをもちな がら、それによってサイクル全体が有機的な統合を具えるよ うな作品に仕上げることがウィルソンの課題であった。その ような意図で書かれたため、九作目の﹃大洋の宝石﹄と十作 目の﹃ラジオーゴルフ﹄にはとくに深い関連が認められる。 二〇〇三年に書かれた﹃大洋の宝石﹄は、年代順では第一 番目、一九〇四年十月初旬に設定されている。一八六三年一 月一日に奴隷解放宣言が出されてから四十年余り、再建時代 を過ぎてなお混乱がっづいていた。黒人論の古典W・E・B・ デュボイスの﹃黒人のたましい﹄︵一九〇三年︶が刊行され た頃のことである。当時は、奴隷であった人びと、南北戦争 を闘った人びとが多数生存していた。南部の黒人たちは奴隷 の身分から解放されたとはいえ、耕すべき土地も道具もなく、 文字も読めず、土地に縛り付けられていたために農場外の世 界についての情報も不充分という、生活基盤がまったくない 無産の労働者として放り出されただけであった。彼らの四十 エーカーの土地と一頭のラバという夢は実現することはなか 一 一 一
つた。奴隷制時代には、夜明けから日没まで無料で酷使でき た労働力に、対価を払うことを嫌がった元奴隷所有者たちは、 彼らをシェアクロッパーという新たな隷属状態に押し込めよ うとした。安い労働力である彼らが南部から逃げ出すのを暴 力で妨害した。 公教育、公共施設、交通機関など社会生活上、黒人を分離 して差別するジムークロウと呼ばれる法制度が進行した。ル イジアナ州の列車内で白人専用となっている場所に座った 黒人のホーマー・アドルフープレッシーが降りるように命 じられ、拒否したため逮捕された。この件をめぐる訴訟に、 一八九六年の連邦最高裁は、﹁隔離はしても平等∼separate but equal"であるならば差別とは言えないという合憲判決を 下した。プレッシー対ファーガソン判決と呼ばれるこの判決 は、黒人隔離を合法化した。また合衆国憲法で保障された黒 人の参政権は、事実上行使できなくされていた。 ウィルソンは当時のアフリカ系アメリカ人の状況につい て、﹁二百年余りのち、彼らは政治的便宜主義から、ほかの 四 人間の所有物である状態から自由になることが許された。つ ぎの百年間、彼らは公民権を剥奪され、家を焼かれ、木から 吊され、隔離された劣悪な家屋、学校、公共施設に押し込め られた。彼らの地位は法律上は認められていたが、事実上、 否定された﹂︵﹃キングーヘドリーニ世﹄序文、︲匹︶と記して いる。 大勢のアフリカ系アメリカ人たちが人種差別やリンチ が横行する南部を脱出して、北部へ移動しはじめたのは、 一八九〇年代からとされる。劇の中心的人物、シティズンー バーロウはこのグレイトーマイグレーションと呼ばれる大移 動で北部都市に出てきた、第一世代と設定される。シティズ ンという象徴的な名前は、奴隷制廃止後に、自由な市民とし て生まれた息子に母親が付けたものであるが、公民権運動が 高まりを見せるのはこれから半世紀以上も先である。シティ ズンに向かって年配のソリーは、﹁市民になるのはたいへん なことだ。そのためには闘わなくちゃならないだろう。な ればなったで、あまりに骨が折れてびっくりする﹂︵27−28︶
と覚悟を促している。自由と平等を期待した北部の都市で、 第一世代は雇用、住宅をはじめとしてさまざまな差別に直面 することになる。ピッツバーグの工場で仕事に就いたシティ ズンは、満足に食べられないほど安い賃金、二人に一つのベ ッドしかない下宿、働いていながら増える借金の罠に捕らえ られ、奴隷制よりひどい搾取と嘆いている。 ソリー みんなは自由になったと思っている。︵中略︶ 自由にはなったが、俺はそれがどうなんだって思う。まだ その意味を探っているんだ。自由というのは、面倒なこと ばかりだ。 イーライ 自由は自分で作るものだよ。 ソリー そのとおりだよな。自由に意味を持たせるには、 闘わなくちゃならないんだ。つまりそれは長い畝を掘り起 こさなければならないのに、鍬がないってことだ。種もな い。ラバもない。役に立つように使えない自由なら、自由 のどこが有り難い?・ 自由のために死んだ人をたくさん見 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 てきた。だが何を手に入れようとしているのか、わかっ てなかったんだな。わかっていれば考え直しただろうよ。 ︵29︶ 手にしたのは名ばかりの自由である。﹃大洋の宝石﹄で扱 うのは、この名目だけの自由に実質的な意味を持たせるため のアフリカ系アメリカ人の闘いである。敵対的なアメリカ社 会に自由な市民としての居場所を築くために、外界の抑圧と 闘う必要があることは言うまでもない。しかしそれだけでは 足りない。奴隷制度の後遺症ともいうべき自身の内面的問題 の解決という課題も抱えていた。奴隷制時代に植えつけられ た人種的劣等感、それに起因する反自己の感情、自己懐疑の 拘束を断ち切ることが必要であった。隷従によって破壊され た人間性、奪われた人間としての尊厳を回復するために、自 分は何者であるかを正しく認識することから始めなくてはな らない。それは祖先たちがどのようにしてアフリカからアメ リカに連行されたか、そして奴隷制の苦難を生きのびたか、 五
彼らの汗と血の苦役がアメリカの繁栄にどれほど大きな貢献 をしたかを知ることである。ブラックーメアリーがシティズ ンに、自分自身とよい関係を保たなければ、他人とのよい関 係は築けないと助言をするとおり、まず自己と和解して、心 の平穏、誇りを獲得することで、建設的な努力を継続できる ようになる。 シティズンは大移動で都市に来たアフリカ系アメリカ人 の、いわばエヴリマンである。本稿では﹃大洋の宝石﹄を、 シティズンのイニシエーションの儀式と捉え、苦悩に打ちひ しがれた若いシティズンが、エスターおばさんと同胞の支援 を得て、自身の存立基盤を確立した大人の男に成長し、共同 体の一員として市民的自由獲得の責務を果たすべく立ち上が るまでの過程をたどり、その舞台化の手法を検討する。 2。﹁大洋の宝石﹂ 乙 / ゝ が設定されている二十世紀のはじめ、﹁星条旗﹂が国歌と制 定される以前に準国歌としてよく歌われていた﹁コロンビア、 大洋の宝石﹂である。歌い出しは﹁おお、コロンビアー 大 洋の宝石/勇敢なる者、自由なる者たちの故国﹂である。コ ロンビアとは、アメリカ合衆国の美称であるが、﹁自由なる 者たちの故国﹂と讃えられているものの、第二級市民の地位 に据え置かれた当時のアフリカ系アメリカ人たちは、アメリ カに住みながら自由とはほど遠い状態にあった。彼らにとっ てアメリカはけっして歌詞のような故国﹁大洋の宝石﹂では なかった。 そこでウィルソンはアフリカ系アメリカ人にとっての故国 として、中間航路の海底にあるという半マイル四方の骨の町 を提示する。かつてアフリカの海岸から黒人たちは奴隷船に 荷物のようにぎっしりと積み込まれて大西洋を渡った。航海 の途中で死ねば海に捨てられた。骨の町とは犠牲になった多 くの黒人の祖先の骨が沈む海底の﹁世界最大の墓標のない墓 [大洋の宝石]というタイトルから想起されるのは、作品 場﹂︵﹃キングーヘドリ土一世﹄序文、X︶のことである。愛
国歌﹁コロンビア、大洋の宝石﹂では、戦争で国が荒廃の危 のである。 機にあるときに、勇者を乗せて自由の船、コロンビア号が嵐 のなかを進むとしているが、それに倣ってウィルソンは、骨 の町へ航海するための魔法の舟を﹁大洋の宝石﹂と名付けた。 それは祖先たちを運搬した奴隷船の再現である。 想像を絶する航海を生きのび、新大陸で待ち受けていた鎖 と鞭の奴隷制度を、強靫な肉体と精神の力で生き抜いた人び とが現在のアフリカ系アメリカ人の祖先なのである。アフリ カの文化から暴力的に切り離され、アメリカ文化へ移し替え られるという体験をした彼らが、密かに中間航路を越えて携 えてきた音楽、神話、物語、呪術などのアフリカ文化は、ア メリカの風土のなかで独自の文化を形成した。ウィルソンは ﹃私か拠って立つ基盤﹄で、南部の綿畑で築かれたこの生活 文化を﹁アフリカ系アメリカ人の精神の弾性﹂me resiliency of the African-American spirit"の証しであると強調している。 骨の町こそアフリカ系アメリカ人の﹁弾性﹂を示す栄光の歴 史の原点であり、ウィルソンは﹁世界の中心﹂︵咎と呼ぶ ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 3。民族の歴史の表象 舞台となるのは、工場の煤煙で空か覆われていた二十世紀 初頭のピッツバーグのヒル地区ワイリー・アヴェニュー。 一八三九番地にあるエスターおばさんの家の客間である。エ スターおばさんことエスター・タイラーの特性を明確にする ことからはじめよう。彼女は、はじめてヴァージニア州に奴 隷が荷揚げされたニハー九年に生まれ、約三百年間生きつづ けているとされる不思議なシャーマンである。最初に彼女の 名前が出たのは、﹃二本の列車が走っている﹄︵一九九〇年︶ で、黒人コミュニティの支柱としての彼女の託宣が伝えられ た。﹃キングーヘドリーニ世﹄ではその死が報じられる。八 作目となる﹃キングーヘドリーニ世﹄を仕上げたところでウ ィルソンは、エスターおばさんの重要性に着目し、サイクル 劇を貫く軸にすることにした。そこで彼女を第一番目﹃大洋 七
の宝石﹄に登場させた。 エスターについてウィルソンは、七十歳代はじめのありふ れた黒人女性の姿をしているが、じつは﹁アフリカの知恵と 伝統を体現するもの﹂である、と語っている。エスターとい う人物の造形には、ウィルソンが心酔した造形家ロメア・ベ アデンの影響があると思われる。ハーレムやカリブ海の島で 暮らしたベアデンは、黒人の日常生活のなかの儀式、慣習に 関心を持った。彼には、黒人の呪術信仰、オビアの儀式を描 く作品が多くある。そして直感力を具え、アフリカ伝来の魔 術や古い儀式を行うコミュニティの呪術師あるいは祈祷師の 女性像を多数描いている。それらの作品からウィルソンはエ スター像のインスピレーションを得たのであろう。 二百八十五歳という超自然の存在がどのような姿で舞台に 登場するか興味をそそられるが、神格化された霊のような存 在でも、奇怪な魔術師でもなく、普通の人間と同じような血 と肉を具え、自然な感覚や感情を示す人物として現れる。四 度結婚し、何人も子どもを生み、さらにまた六十七歳のソリ 八 1の求愛に応えようとしている。 エスターは日常性に加えて、形而上性を併せ持つ。彼女は シャーマンとしてアフリカ由来の霊的能力を所有する、慈愛 に充ちた永遠の母性として設定される。普段は長時間眠って おり、夢を見ることであらかじめつぎに起きることを知る予 知能力、静かに会話をするだけで人びとを理解し、安らぎを 与える洞察力と治癒能力を持つ。彼女の主要な精神的背景は キリスト教であり、聖書に言及しながら教えを語る。この作 品ではアフリカ的な霊的能力とキリスト教は、彼女のなかで 融和している。ちなみにつぎの一九一〇年代を扱う﹃ショー・ ターナーが来て行ってしまった﹄では、キリスト教は白人の 宗教として否定され、アフリカ的な神秘主義が強調される。 彼女はまた、アフリカ系アメリカ人の歴史のすべてを記憶 しているとされる。 わたしには強い記憶力がある。わたしには長い記憶力が ある。記憶するなんて馬鹿みたいと人は言う。でも、わた
しは恐れずに記憶する。︵中略︶わたしははるか昔からの 記憶を持ちっづけている。たくさんの人のために憶えてい る。すべての懐かしい人びと。わたしはその人たちの記憶 を保ち、自分の記憶も持ちつづけている。︵45︶ 自分の人生の記憶だけでなく、民族の歴史を記憶するとい う重責を、エスターは九歳で引き受けて今日に至るまで役目 を果たしている。その口から出るせりふには、水、星などの イメージが多く用いられ、用語は簡潔であるが、象徴性に富 み、詩情が濃い。そのような彼女が﹁わたしは水を渉った。 その両岸を見てきた﹂︵54︶と語るとき、水の意味するもの は大西洋であり、その両岸とはアフリカとアメリカを指す。 大洋を渉って﹁わたしはすべてを失った﹂︵懸とは、奴隷 にされて、本来の名前もアイデンティティも奪われ、何一つ 自分の物と言えるものがない状態になったと解釈できる。同 時に水は骨の町へつづく海とも考えられ、三百歳近い彼女は、 生者の世界と死者の世界の両方を知っていることになる。つ ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 まり彼女は二つの大陸、三百年の歳月を記憶しているアフリ カ系アメリカ人の歴史の表象である。 エスターの住所、ワイリー・アヅエニュー一八三九番地の、 その一八三九という数字は一八三九年に起きたアミスタッド 号事件を想起させる。スペインの奴隷船アミスタッド号上で アフリカから運搬された奴隷が起こした反乱は、数少ない奴 隷反乱の成功例として歴史に残っているが、ウィルソンは黒 人コミュニティの精神的な中心である彼女の家の番地に、そ の事件をとどめて置いたのであろう。この家は平和な聖域と されていて、エスターは門番のイーライと、ブラックーメア リーとともに暮らしている。ブラックーメアリーが、﹁ここ に来て、はじめて自分自身とうまく折り合いかっくようにな った﹂︵Uと語るように、エスターの家は、悩む心を鎮め てくれる救済の場所である。ここで傷ついたアフリカ系アメ リカ人を威厳、判断力、包容力で癒やし、導いてきたエスタ ーは、魂を洗う人と崇敬されている。 九
4。バケツ一杯の釘 この劇も誰かが到着する場面からはじまる。暗闇に響くド アを激しく叩く音が、二十世紀サイクル開幕の合図を告げる。 魂の汚れを洗い流すという評判のエスターの力を借りに、深 夜にせっぱ詰まったようすで訪ねて来たのはシティズンーバ ーロウで、門番に面会日の火曜日に来るようにと帰される。 その後もずっとシティズンは家の外で立つたまま待ってい る。彼がなぜこれほどエスターの助けを必要としているかは、 客間を訪れる人びとの話から次第に明らかになる。 まず、行商人ラザフォードーセリグがやって来る。荷馬車 にフライパンや灯油を積んで家々をまわるという昔ながらの 姿の行商人の登場で、舞台はたちまち二十世紀初頭の雰囲気 となる。彼はウィルソン劇に登場する数少ない白人の一人で ある。﹃ショー・ターナー﹄にも登場し、人探しをすると言 いながら、じつはあらかじめ彼が移動させた人を連れてくる 一 〇 だけとも言われ、うさんくさいところがある人物とされてい た。この劇では黒人の味方をする信頼できる白人として描か れ、彼によって白人側の情報がもたらされる。 つぎに、1 いコートを着て、杖を持ったソリーが来る。彼 はシティズンにアフリカ系アメリカ人の男としての生き方の 手本を示す人物として描かれている。現在は、革なめしや、 肥料に使われる犬の糞を拾い集める仕事をしている。犬の糞 を拾うとはいかにも悠長であるが、じつは彼の人生は人びと の自由獲得のために費やされてきた。奴隷として生まれた彼 はカナダに脱出したが、﹁ママやほかの人たちがみんなまだ 縛られている﹂︵59︶ことを思い、そのまま引き返した。地 下鉄道の車掌となり、追跡犬に何度も肉を噛み切られ、血を 流してきた。逃亡者として手配され、奴隷時代のアルフレッ ドおじさんの呼び名から、旧約聖書のダビデ王とソロモン王 を表すトゥー・キングズに名前を変えた。知恵の王であり偉 大な指導者であったソロモンにちなんでソリーと呼ばれてい るが、その名にふさわしく知恵、勇気、正義感、さらにとぼ
けたユーモアもある。年老いた現在も、白人の暴力に苦しむ アラバマの妹を救出するために、片道八百マイルの危険な旅 に出る決心をしている。 ソリーとセリグの二人の訪問者が伝える町の話題の中心 は、バケツ一杯の釘を盗んだ疑いを掛けられたギャレットー ブラウンが、警官のシーザー・ウィルクスに追跡されて川に 飛び込み、水から上がるようにという呼びかけにもかかわら ず、自身の潔白を証明するために衆人環視の中で溺れて死ん だ事件である。工場の労働者は、ブラウンの死に抗議して仕 事をボイコットして、彼の葬儀に参列しているという。一幕 一場で、まずブラウンの死のモチーフが手際よく導入される。 5。黒人を抑圧する黒人 ブラウンを追いつめて死なせた冷酷なシーザーは、ブラッ クーメアリーの異母兄で、同胞のために献身的に生きるソリ ーと対照的に自分本位の物質主義者と設定される。奴隷制が ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 終わると彼は﹁配られた持ち札で勝負するはかない﹂︵38︶ と、黒人が社会的に不利な立場にある事実を踏まえて、資本 主義的な発想に立ち、あらゆる手段で富と権力の獲得に励ん だ。食べ物屋を手始めに、自力で警官となり、簡易宿泊所を 所有するまでになった経緯は、彼の口から得意げに語られる。 ウィルソンは彼を複雑な陰影のある悪役に仕立てる意図で、 長々と経歴を語らせたと思われる。﹃ヴェニスの商人﹄のシ ャイロックは、たんなる強欲なユダヤ人の悪党ではなく、同 情や憐惘を誘い、彼を悲劇の主役として演じることもできる ように造形がなされている。同じように、シーザーが生来の 悪人ではなく、徒手空拳で人種差別の社会で立身出世したこ とを、彼の立場から説明させ、観客の理解を得ようとしたの であろうが、その狙いは成功していない。まず、この長いせ りふが彼を充分知っているはずの妹に向かって語られている 点が不自然である。また﹁法律がすべて﹂︵38︶とする彼の 行動様式はあまりに機械的である。徹底した個人主義者であ りながら、血縁の重要性を説くあたりに人間らしさを残して 一 一
いるものの、最初は擁護していたブラックーメアリーさえも、 彼の悪行に終幕では、もう兄とは思わないと絶縁を言い渡す ことになる。 シーザーの性格をもっとも的確に評しているのはソリー で、自分がもしプランテーションを所有していたら、彼のよ うな人を雇い、自分の所有する黒人をおとなしくさせておい てもらう、と皮肉とユーモアを込めて言う。奴隷制時代に白 人たちが奴隷のなかから選んで監視役をさせた監督と同様 に、シーザーはわずかな権力を得たために、自身が黒人であ ることを忘れたかのように、積極的に同胞を迫害する、黒人 に対する黒人の抑圧者となった。ウィルソン劇には周囲に害 悪を及ぼす黒人の登場人物はいるか、いずれもどこか憎めな いところがある。警官の制服姿のシーザーは、舞台でも一人 だけ異質であり、サイクルの登場人物全七十七名中もっとも 観客の共感を集めない黒人である。 シーザーという悪役が狂言回しの役割を果たし、その造形 が単純である結果として、劇はメロドラマ的な性格を強める。 コー 彼がエスターの家をタイミングよく出入りして、ソリー、シ ティズンを追跡するという劇構造は明快で、スピーディにプ ロットが展開することになる。﹃ラジオーゴルフ﹄に登場す る成功した中産階級の黒人、ハーモンドーウィルクスが、英 雄的なソリーの孫ではなく、悪辣なシーザーの孫と設定され ていることは現実社会の縮図として考えると納得できる。シ ーザーは黒人のコミュニティを踏みつけにして、自分個人の 成功を追求することを選んだが、集団と個人の問題は﹃ラジ オーゴルフ﹄のテーマとなる。 6。真実のなかで生きる シティズンが待ちきれずに窓から侵入すると、エスターは 慈愛に充ちた態度で話を聞く。エスターについて序のト書き に、﹁彼女の存在は、即座にシティズンを落ち着かせる効果 がある﹂︵8︶とあるように、彼女は息子を遇するように温 かい包容力で、彼のために避難場所を提供するのである。
シティズンは、賃金を支払わない工場から、釘を盗んだこ とをエスターに告白する。冒頭のブラウンの死と魂の救済を 切望するシティズンの関係がここで明確になる。シティズン の行為が引き起こした無実のブラウンの死は、人間の罪を順 うキリストの死を想起させる。さらに、バケツ一杯の釘とい うイメージは、傑刑の折に手足を打ち付けた釘を連想させ、 詩人から出発したウィルソンらしい、豊かな象徴性を帯びて いる。エスターはブラウンを不当な非難を受け孤独のうちに 死んだ十字架上のキリストと対比させて、﹁嘘のなかで生き るよりも、真実のなかで死ぬこと﹂︵巴を選択したのだと 解説する。自分の名誉を守るためには死も辞さないというブ ラウンの姿勢は、﹃シドニー﹄の強姦容疑を着せられたブー スターに通じる。サイクルにはほかにも、自身の倫理観に基 づいて闘士の生き方をする人物が登場する。彼らの生き方は 必ずしも勝利や成功に結びつかないが、黒人男性として戦闘 精神を堅持して、誇り高く挑戦をつづける姿を、ウィルソン は肯定的に描いている。 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 シティズンは四週間前にアラバマの農場から逃げ出して、 北部ピッツバーグに到着したばかりである。その状況を端的 に表すものは、彼が履いている泥の付いたタロットホッパー と呼ばれる農作業用の長靴である。門番のイーライは彼を見 るなり、長靴に目を止める。さらにシーザーにも見咎められ、 都会では靴を履けと馬鹿にされる。靴はウィルソン劇では都 会と農村の対比、あるいは都会暮らしへの適応度の指標とし て用いられ、﹃マーレイニーのブラックーボトム﹄では作業 長靴で真新しい高価な靴を踏まれたことが殺人のきっかけと なる。泥の作業長靴のシティズンは、南部を離れ、北部にも 安住できていないのである。 エスターは途方に暮れたシティズンに、﹁真実のなかで生 きる方法を探さなければならない﹂︵47︶と進むべき道を示す。 魂の救済のために、彼女は骨の町へ行くことを提案し、モノ ンガヒーラ川上流に行き、一ペニー貨が二枚並んで落ちてい るのを見つけ持ち帰ることなどを命じる。落ちている硬貨を 探すという謎めいた指示は、﹃二本の列車が走っている﹄で、 一 一 一 一
エスターがお礼として二十ドルを川に流すように求めたこと と類似している。現実的な意味があるとは思えない指示であ っても、彼女のことばに無条件で従うことが求められている。 彼女が体現するのはアフリカから伝わる呪術の世界であり、 信じて実行することによって人生の知恵を授かる。指示が非 現実的であるほど、神秘性が増すのである。シティズンがこ の命令に勇んで従い、驚くほど早く硬貨を発見するのは、魂 の救済を切実に求めている証左である。 7。骨の町への航海 シティズンの救済が行われる骨の町とはどのような場所で あろうか。骨の町のイメージは、良いキリスト教徒に約束さ れた神の栄光の町、新エルサレムを賛美する、古くから伝わ るスピリチュアル﹁町への十二の門﹂と、中間航路の歴史を 結びつけて作り上げられた。航海の途中で死んだ人びとの骨 を集めて作られたこの町は、アフリカ系アメリカ人の死後の 一 四 領域である。 奴隷制度を体験していないシティズンのために、骨の町へ 行く前段階として用意されるのは、奴隷と関連の深い小道具 である。まず、ソリーからお守りとして、彼が奴隷であった 頃に足を拘束していた鎖を渡される。奴隷制度の象徴である 鎖の輪を手にすることで、シティズンは自由を奪われた奴隷 の状態を実感する。つぎにソリーは杖を見せる。杖に刻まれ た六十二の印は、彼が自由の地、北部やカナダへ導いた逃亡 奴隷の数である。イーライはソリーの仲間として地下鉄道、 南北戦争では北軍の道案内で活動した。二人は合図のフクロ ウの鳴き声などを交えながら、黒人たちの自由獲得のための 勇敢な行動を生き生きと語り聞かせる。 さらにエスターは奴隷売買の証書を折って、魔法の舟﹁大 洋の宝石﹂を作る。奴隷であった彼女を六百七ドルで売り渡 したことを記す証書は、黒人が商品として売買された史実の 証明である。このように小道具とせりふによってシティズン とともに観客も、奴隷制の実態を学んでゆき、つぎの神秘的
な航海に臨む準備が自然に整ってくる流れとなっている。 エスターが紙の舟につかまっているように言い、霊歌のリ フレインを歌いだすと、シティズンの骨の町への航海がはじ まる。エスターを補佐するソリー、ブラックーメアリー、イ ーライの手際のよい動きから、客間で何度もくり返された儀 式であることがわかる。彼らがシティズンに向かって空、風、 海の情景を語り聞かせているうちに、シティズンは実際に航 海しているように感じはじめ、客間は日常の世界を超えて他 界へと移行する。ト書きにTンティズンは立ち上がり、いき なりバランスを取る動作をする﹂︵67︶とあり、﹁動いている。 舟が動いてるI・ 動いているのがわかるI・ 陸が・・・遠ざ かる﹂︵67︶と声を発する。演劇という表現形式の特性を活 かした場面で、揺れる舟に乗っているような俳優の体の動き を目の当たりにすると、舞台が動くような感覚が生じ、観客 も彼とともに船出を体感するのである。彼は海底にある墓場 を訪れ、嵐に揉まれ、ヨーロッパ人の仮面をつけたソリーと イーライに捕らえられる。鎖で縛り、焼き印を押し、鞭打つ ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 動作が象徴的に行われる。このようにアフリカから鎖でつな がれて海を渡り、奴隷とされた黒人の苛酷な中間航路が不気 味な無言劇として舞台上で再現される。 船体に閉じこめられた無力のシティズンは胎児のように体 を縮める。すべてを奪われ奴隷とされた人間の、究極の孤独 の様相である。彼は星を探す。ここでト書きに、フンティズ ンは独りでアフリカの子守歌を歌いはじめる。それは母が彼 に教えた歌である﹂︵70︶とある。この場面はエスターが紙 の舟を折りながらシティズンに語った、彼女自身が骨の町へ 独りで航海したときの、﹁そこでわたしは歌いはじめた。か あさんが教えてくれた歌を、独りで静かに歌っていただけ﹂ ︵咎という情景をなぞるものである。さらに、一幕で罪の 告白後、安堵して眠ってしまったシティズンに、エスター が子守歌を歌い聞かせる場面とも重なる。アフリカの子守歌 は、大西洋を越えてもたらされ、母から子へと継承されてき たアフリカ文化の表象である。﹃ピアノーレッスン﹄の終幕で、 バーニースがピアノを弾き、歌いながら先祖に助けを求めた 一 五
ように、子守歌によってシティズンは祖先やアフリカと結ば れ、力を授けられたことを示唆している。 服罪と再生の儀式がつづく。エスターに﹁思う存分生き なさい。命に対して義務があるのです。さあ、生きなさい﹂ ︵71︶と励まされ、骨の町に着いたシティズンは、町の門番 が溺死したブラウンであることに気がつき驚く。釘を盗んだ ことを告白すると、罪は浄められ、門を通ることを許された シティズンは、骨の町で生まれ変わる。 再生について、ト書きに﹁人びとの一員として生まれ変わ る﹂︵73︶と記されている点は注目に値する。船倉に下り、 海底の墓場にたどりついた場面で、シティズンは﹁わたしを 忘れないで﹂︵69︶という多くの声を聞いた。この声は、中 間航路に沈んだ先祖たちの声に他ならない。彼は海底の人び との声に耳を傾け、先祖の奴隷船の歴史を学んだ。アフリカ 系アメリカ人としての自身の出自をあらためて確認して、コ ミュニティの一員として伝統を担う自覚を得たことでシティ ズンが再生したという意味になる。 一 工 骨の町への巡礼のモチーフは、﹃ショー・ターナー﹄のヘ ラルドールーミスが見る海底の骨が立ち上がる幻影を、新た な形で舞台化したものである。﹃ショー・ターナー﹄では、 骨の人びとの幻影は他の人物には見えず、ルーミスとバイナ ムだけに見えるとされ、二人の所作を。他の登場人物が眺め ている場面を、観客が見るという構造になっている。衝撃的 な幻影は、二人のコールーアンドーレスポンスによって、も っぱらせりふのもつイメージ喚起力で表現される。高い芸術 性をもつ場面である。観客の自由な想像力に委ねられる分、 劇が内包する世界は深遠さを増すこともできるが、難解さも 併せ持つ。 それに対して、﹃大洋の宝石﹄では航海の場面は、せりふ に加えて、歌や仮面を用いたパントマイムによって具象的に 舞台化される。せりふの内容も、建物、木、道路が銀色に輝 く骨でできた骨の町の描写など、﹃ショー・ターナー﹄に比 べて具体的である。エスターはバイナムと同じく先導の役割 を果たすが、エスターとシティズンだけではなく、ソリー、
イーライ、ブラックーメアリーという全員が参加して、舞台 全体が海底の情景を表現する。結果として舞台からは、より 明確な輪郭をもつ中間航路のイメージが立ち上がる。 エスターの役割は、シティズンが自身を救済するのを助け ることで、骨の町への巡礼は、本人の自発的な意志によらな ければならない。シティズンは強く望んで服罪の旅を済ませ ることで、新たな出発点に立てるようになった。儀式は一同 の祝いの歌で締めくくられる。エスターに釘を盗んだと告白 した折にシティズンは、﹁体のなかに穴があいているような 気がする﹂︵23︶と訴えたが、骨の町に行ったあとでは、﹁自 分のなかがすっかり充たされたみたいに感じる﹂︵76︶と語 る。神秘的な儀式によってシティズンの心の空洞は埋められ た。彼は先祖との絆を回復し、自分自身と正しい関係を築く ことができた。﹁人生は冒険です﹂︵45︶とシティズンを励ま し、導いたエスターの偉大なシャーマンとしての力が発揮さ れたのである。 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 8。後継者、ブラックーメアリー シティズンの救済と併行して、ブラックーメアリーの変化 も進行する。二十代後半のブラックーメアリーは、シーザー のパン屋を手伝っていたが、兄が哀れな少年を射殺して以来、 彼のもとを離れ、洗濯婦として働きながらエスターの家に住 んで家事を手伝うようになった。彼女について登場人物のリ ストには、﹁エスターの弟子で、ハウスキーパー﹂と記され ているが、弟子とはどのような意味であろうか。一幕五場冒 頭の脆いてエスターの足を洗っているブラックーメアリーの 姿が、それを視覚的に表現している。人間の体でもっとも地 面に近い汚れた足を、腰をかがめて洗う行為に、エスターヘ の深い恭順の意が窺われる。年老いてきたエスターは、むか しミスータイラーから伝授されたものを早く後継者に引き継 ぎたいが、ブラックーメアリーは引き受ける決心がつかない。 任務から逃れようとしているブラックーメアリーの行動を彼 一七
女はたえず見張り、支配する。ときにはブラックーメアリー の手をぴしりと叩くなど、厳しく手順を教え込む。 骨の町への航海のあとで、エスターが料理を命じ、口うる さく指図をすると、ブラックーメアリーが言い返す。﹁あな たのやり方が一番いいとは限りません。わたしには自分のや り方があるんです。そのやり方でやってるところなんです。 ここにいる限り、わたしは自分のやり方でしますから﹂︵77︶ と、三年間黙って仕えてきた彼女は、ここでエスターの権威 に堂々と立ち向かう。彼女の変化をエスターは、﹁なんでそ んなに時間がかかったの?﹂︵77︶と平然と受け止める。こ の反応から、ブラックーメアリーの反抗を、後継者として必 要な精神的自立を遂げたものとエスターが評価したと解釈で きる。エスターはこのために厳格な指導をしていたのである。 小さな場面であるが、ブラックーメアリーの自己確立を示す 重要性をもつ。 ミスータイラーから伝授されたものは具体的に語られない が、シヤ’︲︲マンとしての役割、アフリカ系アメリカ人の歴史 一八 の記憶と考えてよいであろう。約三百歳というエスターの年 齢設定は非現実的であるが、伝授されたものを受け継いだと 語っていることから、エスター・タイラーは一人の人物では なく、数世代にわたるシャーマンの系譜を表すという合理的 な解釈が可能になる。﹃二本の列車が走っている﹄では、エ スターは間接的に動静が伝えられるだけの舞台裏の存在であ ったため、年齢設定には違和感がなかった。﹃大洋の宝石﹄ でじっさいに俳優の肉体をとおして舞台に姿を現す際に、ウ ィルソンは自然に演じられるようにこの解釈を導入したので あろう。結果的に、エスターの神話性、神秘性は減ったが、 存在感と説得力は増した。そして﹃ラジオーゴルフ﹄で、ブ ラックーメアリーという人物が後継者になったことが明らか になる。そこから遡って、﹃キングーヘドリーニ世﹄で死ん だエスターは、百歳を越えたブラックーメアリーか、あるい は彼女の後継者となる。 ブラックーメアリーとシティズンの関係も発展する。エス ターの家に住むことになったシティズンは、すぐにブラック・
メアリーに夜に自分の部屋に来るように誘う。彼女は奪うば かりで何も与える余裕のないそれまでの男性たちとの関係に うんざりしているが、結局は部屋に行くことにする。シティ ズンは彼女に、パーティーで会った忘れ難い女性の話をする。 ずっと泣いていたその女性とは一晩過ごしただけあったが、 青い服を着て扉に立つ別れ際の姿が心に深く刻まれているの である。シティズンが語る情景はプロットの展開と関係が薄 いが、ウィルソンの詩的なせりふ作りが効果を発揮し、聞き 手の脳裡にみずみずしい物語を投げかけている。そしてブラ ックーメアリーがエスターのような良い聞き手であり、適切 な助言を与える能力をもつことを示す。幕切れ近くで、危険 な旅に出るまえに、シティズンは﹁ブラックーメアリー、あ んたは自分自身といい関係かな? そうだとしたら、俺はア ラバマから帰ったら、きっとあんたのところに会いに来るつ もりだ。もしそのとき俺がまだ自分といい関係だったらだけ ど。そうしたら俺たち互いにいい関係になれるんじゃないか と思うんだ﹂︵79︶と言い、再会を約束し抱擁する。﹁男と女 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 を離しておくことなんてできないよ。互いに一緒になるよう に作られてるんだから﹂︵18︶というソリーのことばのとお り、自然に結ばれてゆく若いシティズンとブラックーメアリ ーの関係は、脇の筋として静かに進展し、この群像劇に生命 感と未来の希望を与える。骨の町で再生したシティズンが、 ソリーの危険なアラバマの旅へ同行を志願すること、またブ ラックーメアリーと﹁互いにいい関係﹂を築こうとすること は、社会や家族への責任を自覚した力強い男への進歩を示し ている。その後、二人の間に生まれた息子が﹃ラジオーゴル フ﹄にオールドージョーとして登場することになる。 9。ソリーの死 骨の町へ航海が終わると、舞台は終幕に向かって一気に進 行する。労働者を搾取してきた工場にソリーが火を放つ。シ ーザーが放火犯として逮捕しに来ると、間一髪でソリーは逃 げる。エスターがソリーを匿い、白人のセリグに放火犯捜し 一九
のために布かれた交通封鎖をくぐって彼を連れ出してくれる ように頼む。 ソリーの逃亡を幇助した罪で、シーザーが無慈悲に年老い たエスターを逮捕する。彼女が保釈されて戻ると、シティズ ンとセリグが負傷したソリーを運び込む。ウェストーヴァー ジニアまで無事にたどり着いたが、暴動で逮捕された同胞を 見捨てることはできないとソリーが言い、引き返したところ でシーザーに撃たれたのだという。エスターとブラックーメ アリーが傷の手当てをし、静かに歌ううちにソリーは息絶え る。弔いの儀式が厳粛に執り行われ、シティズンは無言でソ リーのコートを身につける。イーライが﹁さあ、生きなさい﹂ とシティズンに祝杯をあげる。これは航海の場面で骨の町へ 誘導したエスターの呼びかけと同じせりふで、﹁戦場﹂へ出 て行く若い同志への激励である。序の場面で不安にさいなま れ、混乱のなかにあったシティズンは、自らの潔白を命を懸 けて証明したブラウンから、真実に生きる道を求めることを 学び、骨の町への航海をとおして自己確立を遂げた。ソリー 二〇 の死という悲劇を乗り越えて、シティズンが解放と自由の 象徴ともいうべき六十二の刻みがついたソリーの杖を手にし て、決然と旅立つ感動的な幕切れとなる。 10 劇の空間 劇は全幕この客間で演じられるが、出入りする人びとの会 話から、劇世界は客間の外へ、すなわちピッツバーグの街へ、 またアラバマへと拡大する。すぐ近くにあるのはシティズン が働いていた工場周辺である。そこでは搾取と差別に耐えて きたアフリカ系アメリカ人たちがブラウン溺死事件に端を発 して、怒りを爆発させる。それに対して白人側は黒人排斥を 叫び、奴隷制再開のためなら戦争も厭わないと主張する。劇 の進行につれてストライキ、暴動、放火、道路の封鎖と刻々 と緊迫感を増す工場周辺の状態が、セリグ、ソリー、イーラ イによって客間に逐一報告される。さらにブラウンの死亡を 伝える新聞記事を読み上げるという手法で、客観的な情報を
補足する。舞台の背後にあるピッツバーグの街の動乱、荷馬 車による脱出、追跡の様子が手に取るように観客に伝わって くる。 南部のアラバマについては、そこから逃げ出してきたばか りのシティズンの体験談や、窮状を訴えるソリーの妹の手紙 によってようすがわかる。手紙は、文盲のソリーのためにブ ラックーメアリーが読み上げるという形で自然に、観客に伝 えられる。ウィルソンのせりふは空間のイメージをふくらま せ、小さな客間がピッツバーグからアラバマまで広がり、歴 史絵巻のようである。ピッツバーグで起きたと同様の混乱は、 同じころ北部のほかの都市でも起きていた。男五人、女二人 という比較的少ない登場人物によって、グレイトーマイグレ ーションの時代相が舞台の背後に浮かび上がる。 さらに劇の中核となる航海の場面で、エスターの不思議な 能力によって時間と空間を遡り、客間は中間航路、またその 海底にある骨の町という神秘的な領域にも通じることにな る。精神世界と現実世界との境界を明確に区分せず、両者が ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 渾然として存在するというアフリカの世界観は、中間航路を 越えて南部の奴隷の生活で維持され、奴隷制廃止後もアフリ カ系アメリカ人の生活文化に根強く残っていた。この文化的 伝統に則ったウィルソン劇では、リアリスティックに描かれ ている日常世界に非日常世界が入り込む。この作品では、骨 の町という異次元への航海の場面が客間の延長上に舞台化さ れ、作品は大きな時空をみごとに収めている。 現在からもっとも遠い時代を描くにあたり、ウィルソンは バケツ一杯の釘、モーゼを思わせるソリーの杖、奴隷の鎖と 売買の証書などの小道具に象徴性を持たせ、寓意性に富んだ 作品に仕上げた。聖域とされるエスターの客間を舞台とする この劇は、宗教的な表現が多用され、神秘的な要素が強い。 とりわけ骨の町への航海、およびソリーの死の場面は歌が効 果をあげ、神聖な儀式の様相を呈している。ピッツバーグー サイクルの十作はそれぞれ異なった劇形式が用いられてい る。この作品は祭儀的演劇形態をとることで、﹃ショー・タ ーナー﹄ともっとも共通点が多く、リアリズム手法の﹃ラジ 一 一 一
オーゴルフ﹄と対照をなしている。 ウィルソンの他の作品と同様に﹃大洋の宝石﹄も、シティ ズンの他に、ブラックーメアリー、ソリーなど各人物にまつ わる複数のプロットが並行する群像劇である。重層的な意味 をもつモチーフが多く盛り込まれていて複雑であるが、けっ して難解ではない。劇評家クリストファー・ローソンは、﹁ウ ィルソン劇のなかで、もっとも観客に親しみやすい作品の一 つ﹂と評している。その要因としては、人物造形とプロット のわかりやすさが挙げられる。神話的存在ともいうべき三百 歳のエスターを取りまく登場人物は、悪役シーザーを含め、 個性的ではあるが、やや単純な造形となっている。プロット は骨の町への航海まで、小さな場面を巧みに配列して観客の 理解を助け、興味をかき立てながら、スピード感ある展開を する。一幕は、イーライが工場の火事を伝え、出火警報の鐘 が響くところで、緊迫感を盛り上げて力強い幕となる。二幕 は、劇中劇のような骨の町の場面を中心に、悪役シーザーが 二二 もつかせぬ進行をみせる。とくに終盤のフリーとシティズン がセリグの荷馬車で逃げる場面は、スリルに満ちている。シ ーザーが来るのが見えると、シティズンとソリーは急いで出 て行き、セリグは何食わぬ顔でテーブルに座ってシーザーを 迎える。事情を知らないシーザーは、唯一封鎖されていない ルートをセリグに教えてしまう。セリグがさりげなく立ち去 ると、エスターが時間稼ぎのためにシーザーを引き留める。 ソリーたちの脱出を知っている観客は、はらはらしながらこ の場面を見守ることになる。メロドラマ的なプロット展開を しながら舞台が軽薄でないのは、歴史の重さに裏打ちされて いるからである。メリハリの利いた場面転換で観客を舞台へ 惹きつけ、終幕までぐいぐいと引っ張ってゆく劇場性の高さ を示している。 おわりに 善良な同胞たちを執拗に追い掛けるメロドラマ的な緊張で息 イーライは、﹁ソリーは自身の自由を見つけることはでき
なかった。必ず自由を見つけるんだと、いつも信じていたん だが。︵中略︶彼は真実に生き、真実に死んだ。戦場で死ん だ﹂︵88︶と悼む。ソリーを追跡するシーザーに向かってエ スターは、﹁彼を撃つことができたって、遅かれ早かれ別の 誰かが来て彼と同じ位置に着くのです。誰かが来て、立ち上 がり、星を数えるのです﹂︵83︶と告げる。その予言どおりに、 地下鉄道の時代から血を流し、人びとの自由のために闘いつ づけたソリーの同胞愛と不屈の魂は、シティズンヘと受け継 がれた。また、エスター・タイラーというシャーマンが伝え るアフリカ系アメリカ人の歴史の記憶、知恵と癒しは、ブラ ックーメアリーという後継者を得た。この作品は、十九世紀 から二十世紀へ時代が移るまさに﹁戦場﹂のような混迷のな かで、アフリカ系アメリカ人たちの伝統的な精神と文化が世 代を超えて受け継がれてゆく過程が描かれ、サイクル劇のな かでは歴史的背景がもっとも強く意識される。ウィルソンは、 過去についての充分な理解がなければ、現在の自分自身を確 立することができず、未来への展望も開けてこない、と主張 ﹃大洋の宝石﹄における骨の町での救済 する。アフリカ系アメリカ人は残酷な自分たちの歴史を早く 忘れたがっていると思っている人に向かって、ウィルソンは ﹁私は忘れたくありません。勝利なのですから。ブラックー アメリカはとほうもない勝利なのです﹂と語ったという。ア フリカ系アメリカ人にとって奴隷制時代は忘れ去るべき忌ま わしい過去ではなく、祖先たちが苦境を生きのびた誇りにす べき歴史であると作品は説いている。 二十世紀初頭のアフリカ系アメリカ人の社会的状況を、ソ リーは水の比喩で、﹁人びとは嘆きと悲しみのなかで溺れか かっている。すごく大きな海なんだ。みんなは足に法律をく くりつけられている。泳ごうとする度に、法律が足を下へと ひっぱるんだ﹂︵62−63︶と語る。﹁長い畝を掘り起こさなけ ればならないのに、鍬がないってことだ﹂というせりふのと おり、アメリカ市民としての自由を求めるソリーやシティズ ンの闘いはつづき、彼らの懸命な努力は報われることが少な かった。一九六九年を描く﹃二本の列車が走っている﹄でも なおメンフィスは、﹁自由は重たいんだ。自由の下に自分の 二三
肩を差し込まなくちゃならない。肩を差し込みながら、自分 の背中が自由を持ちこたえられるようにって願うんだ﹂︵﹃二 本の列車が走っている﹄、40︶と自由の代価の大きさを語っ ている。社会的状況の変化は遅々たるもののようにも見える 二四 かびあがる。ウィルソンはエスター・タイラーのように、ア フリカ系アメリカ人の歴史を記憶し、劇をとおして語りっづ けるのである。 が、それでもなお、ウィルソンは、アメリカが約束した自由 註 と正義をアフリカ系アメリカ人たちも享受できるようにな り、アメリカという国がいつの日にか彼らにとっても﹁大洋 の宝石﹂となることを信じている人びとの姿を描く。 エスターを演じたフィリシアーラシヤードによれば、ウィ ルソンはこの作品を﹁サイクルの宝石−全作品の母﹂と呼 んでいたという。たしかにピッツバーグーサイクルの冒頭に ﹃大洋の宝石﹄を据えることで、それぞれ独立した点のよう な存在であったそれまでの劇が、社会的自由、平等、正義を 求めるアフリカ系アメリカ人たちの二十世紀の年代記として 本稿における﹃大洋の宝石﹄からの引用はすべて、サイクル劇 の十巻木集大成版であるAugust Wilson。 August Wilson Century Cycle ︵New York: Theatre Communications Group。 2呂JのうちのGem of the Oceanに拠り、引用文の後の︵ ︶内にその頁数のみ示した。 言及したこれ以外のウィルソンの作品、Joe Turner's Come and Gone。 Ma Rainey's Black Bottom。 The Piano Lesson。 Two Trains Running。 King Hedley 11。 Radio Golfもこの版に拠る。引用は作品名 を記し、その頁数を示した。 つながり、線になったことがわかる。主流文化の担い手によ I.Christopher Rawson。 "Stage Preview: Anthony Chisholm。" つて記されてきた歴史のなかでは書かれることがなかったア Pittsburgh Post-Gazette。 8 May。 2008. フリカ系アメリカ人の歴史文化がウィルソン作品によって浮 2.ブロードウェイ公演はウォルター・カー劇場でケニー・レオ
ン演出。エスターおばさんは﹃日向の干しぶどう﹄で前シーズ ンのトニー賞に輝いた人気女優フィリシアーラシャード、ソリ ーはアンソニー・チズム。シーザーは﹃七本のギター﹄でトニ ー賞を受賞したルーベンーサンチャゴーハドソン、ブラックー メアリーは﹃ピアノーレッスン﹄でグレイス役のリサゲイーハ ミルトン、シティズンーバーロウはジョンーアールージェルクス、 ラザフォードーセリグはレイノー・シャインが演じた。衣裳デ ザインはコンスタンツアーロメロ。プレビュー十五回、レギュ ラー公演七十二回。 大方の劇評は好評であったが、ニューヨークータイムズの劇 評家ベンーブラントリーは、﹃大洋の宝石﹄はウィルソンの劇 には珍しく登場人物が生き生きと血が通っているように感じら れない、比喩的な響きを意識させ過ぎて劇の親密さが伝わりに くいとしている。 エスターを演じたフィリシアーラシャードは左手の中指と薬 指をたえず細かく動かす動作で、三百歳近いシャーマンを表現 した。息子の思い出を語っては涙を流し、骨の町への巡礼では ﹃大洋の宝石 ﹄ における骨の町での救済 よく通る力強い声で歌い、美しく気品にあふれた演技であった。 航海の場面は、天井の高い舞台を巧みに使った青い照明が縞を なして揺れ、船倉の雰囲気を醸し、神秘的な儀式が荘厳に演じ られた。ブロードウェイに初登場したジョンーアールージェル クスは、シティズンを生気に満ちた実直な若者として好演した。 幕切れで、手にしたソリーの杖で一度強く地面を打って、無言 で出立する場面は、力強く説得力があった。彼は地方劇場で﹃ピ アノーレッスン﹄のボーイーウィリーを演じているところをウ ィルソンにスカウトされた。﹃フェンス﹄でトロイを演じてト ニー賞主演男優賞を受賞したジェイムズーアールージョーンズ を尊敬して、自身のミドルーネームにアールを入れたというウ ィルクスは、次の﹃ラジオーゴルフ﹄のスターリング役でトニ ー賞助演男優賞候補となった。ウィルソン作品の公演は、アフ リカ系アメリカ人の俳優、演出家などに活躍の場を提供し、新 しいスターを生みだしている。 3.愛国歌Columbia。 the Gem of the Ocean"は、国旗を賞讃する リフレインからjhe Red。 White a乱巴ue"︵﹁赤、白、そして青﹂︶ 二五
とも呼ばれる。歌詞の冒頭は、つぎの通り。 There s three gates in the East O Columbia! th e gem of the ocean。 There's three gates in the West The home of the brave and the free. There s three gates in the North Thes町me 01 each patn ot's devotion。 There s three gates in the South A world offers homage to thee; That makes twelve gates to the city。 hallelujah" 4.August Wilson。 The Ground on Which I Stand︵New York: Theatre 7.Christopher Rawson。 Gem is good for those new to playwright Coヨヨumcations Group。 2呂︸︶ぶ’ August Wilson。" Pittsburgh Post-Gazette。 29 May。 2006. 5Maureen Dezell。 "A 10-Play〇dyssey Continues with Gem of the 8.Dezell。 256. Ocean" Boston Sunday Globe。 5 September。 2004. Rpt. in Jackson 9Phylicia Rashad。 Riding the Waves of History。" American Theatre。 R. Bryer and ]ぐlary C. Hartig。 eds ‘。 Conversations with August Wilson October 2007; 43. (Jackson: UP of Mississippi。 2006) 255. 6.旧約聖書﹁エゼキエル﹂四十八章、新約聖書﹁ヨハネの黙示録﹂ 二十一章に基づく霊歌。歌詞はいろいろあるが、よく知られて いる盲目の伝道師・ブルースーギター奏者ケアリー・デイヴィ ス師の歌詞は、つぎの通り。 "Oh Lc乱。 what a beautiful city Twelve gates to the city。 hallelujah