文化学科・哲学を志して
著者名(日)
野溝 七生
雑誌名
東洋大学史紀要
号
1
ページ
32-46
発行年
1983
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002555/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja2
、野溝七生
﹁文化学科・哲学を志して﹂
日 時 一九八二年七月十三日場所新橋第一ホテル
聞き手 田中菊次郎︵百年史編纂室︶、小野沢主計︵百周年記念事業事務局次長︶、鈴木俊光︵同主任︶野溝七生さん略歴
一八九七︵明治30︶年一月二日兵庫県姫路生まれ 一九=二︵大正2︶年 大分県立大分高女卒 一九二一︵大正10︶年 同志社大学英文科専門部予科卒 一九二四︵大正13︶ 一九二四︵大正13︶ 一九四一︵昭和17︶ 一九五一︵昭和26︶ 一九五二︵昭和27︶ 一九五六︵昭和31︶ 年二月 年九月 年七月 年五月 年九月 年四月 東洋大学専門部文化学科卒 独逸語専修学校夜間部中退 紅露独逸語学校初等科卒 東洋大学国文学科専任講師 同助教授 同教授 ︵近代文学︶一32一
一九六四︵昭和39︶年東洋大学短大講師 一九六六︵昭和42︶年退職 野溝さんの東洋大学における国文講読テキスト、森鴎外訳﹁フアウスト﹂の表紙の裏に記された自己紹介によれば、 野溝さんは東洋大学に在学中、福岡口口新聞の懸賞小説に当選し、長篇小説﹁山楯﹂︵くちなし︶が同紙に連載された。 それ以来、野溝さんは小説戯曲の創作に専念し、長短篇五十余を新聞雑誌に発表したが、一九四八︵昭和23︶年肺患の ため一時挫折した。しかし現在は八十五歳ながらお元気で、﹁野溝七生全集﹂を出版の予定と聞く。 小説は単行本四、代表作は﹁山楯し﹁女獣心理﹂﹁南天屋敷﹂﹁月影﹂などである。 ︵註︶ 単行本 ﹁山楯﹂長篇小説、春秋社、大正15年9月8日刊︵四九ニページ、2円50銭︶ ﹁南天屋敷﹂短篇集、角川書店、昭和21年3月10日刊︵一六六ページ、13円80銭︶ 野溝 お電話いただいて、舟木愛子さんとごいっしょにお話したいと思いましたが、私がちょっと怪我をしま して、病院通いがいそがしかったものですから、舟木さんと連絡とれませんでした。舟木さんは外交官と結婚さ れた方で同窓です。私より年上の方ですが、いまもよくお会いしています。 ー野溝さんの東洋大学ご入学のころは、東洋大学は男女共学で東京都下のトップを切っていました。一九一
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六︵大正5︶年から女子の入学を許可しています。東京では女子の専門学校はまだ二、三校でしたね。野溝 さんの本学に学ばれた動機はどういうことでしたか。 野溝 東洋大学に印度哲学科があったということ、それが動機です。東洋大学に私の大分高女時代の同級生の 辛島キミさんがいらして、私が同志社大学英語科専門部予科にいたとき、辛島さんから連絡を受けたのです。﹁あ なたの好きな西洋哲学、古代ギリシャ文化史もあるから、東洋大学にきたらどうか﹂というのです。 ︵註・辛島キミさんは一九二ニー1大正11‖年東洋大学第一科・印哲卒︶ 私はそのころギリシャ神話に夢中になっていました。東洋大学は無試験で入れました。専門部です。私は同志 社大学で専門部予科をすませていましたので、二年になってから専門部第三科の文化学科二年になりました。
女子学生、全学で四十数名
ー女子学生は何人くらいいましたか。 野溝私の科に六人、他のクラスと合わせて、全学で四十数人いました。それでね。女子の方がよくできるの ですよ。男子は高等学校︵註・旧制︶の試験を受けるでしょ。そちらへ行くんです。私なんか女子は、その間、 どこかで勉強しているわけですから、国文にいられた栗山津禰︵つね︶さんは首席じゃなかったですか。 ︵註・栗山津禰さんは一九二〇‖大正911年大学部第二科国文卒︶ ー栗山さんは女子学生の第一回卒業生で文検︵もんけん︶に合格しました。 ︹註・当時、師範、中学、高女の教員検定試験を文検といい、これに合格すると秀才の折紙がつけられ、全国の中等学校一34一
から迎えられた。︶ 野溝 栗山さんは東京府立五中に就職されましたね。︵卒業生名簿をみながら︶仁平本︵にひらもと︶さん、 この方はみながジンベイさんと呼んでいました。お薬の仁丹をもじったのです。みんなよくできて、すてきな方 でした。辛島さんの同級生の加藤義明さんとか、安斉大真さんもおられました。こうした人達がみな辛島さんの 家に集まって、勉強しました。 井上円了先生が哲学館を創立されたとき、先生方は東京帝大から来られたのですね。私のころは帝大哲学科を 出られた和辻哲郎、出隆、田部重治先生ら新進の人々に教えられたのです。私のことをいっていいですか。田部 先生が﹁野溝の答案を読むと、一字も消してないし、文章がきれいで、思わず一五〇点やりたくなる。これは教 授の間でも評判になっている。しかし考えてみると、野溝はちっとも出席していない﹂といわれました。そして 出先生だったか、和辻先生だったか﹁こいつは秀才だ﹂といわれたとか聞きました。 田部先生は私が授業に出ないのが、おいやだったのでしょう。女子学生は人数が少いので、すぐわかるのです。 ﹁野溝はいつも出てこない﹂といわれました。ところが私は和辻先生の古代文化史は聞き逃がさない。私は子供 のときから、そうした関係は好きでしたからね。 関東大震災︵一九二三‖大正1211年︶のときは、どうしました。 野溝 大地震で大学はお休みになりましたが、私は父のいる竹田市︵大分県︶に帰っていました。父は軍人︵註・ 京都師団長︶でそのときに退役して恩給生活でした。あたしの家は先祖代々、文と武の家柄で、祖父は陽明学の
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学者でした。江藤新平が佐賀の乱で斬られたとき、死ぬ前に、何か遺言があるかと聞かれまして﹁野溝先生によ ろしく﹂といったとのことです。 ︵註・江藤新平11一八三四∼七四11は明治初期の司法卿、民撰議院設立建白書に署名、西郷隆盛らの征韓派に属し、参議 をやめ、佐賀の乱の首謀者として処刑された。︶ 私の祖父の教育した人たちが、征韓論を唱えたのです。祖父は当代一の槍の名手でした。曽祖父は弓でした。 二人とも武士で学者。父の家の長押︵なげし︶に槍と弓が、かけてありました。 父は森鴎外と戦友でした。日清、日露そして台湾と、三度の戦争に出まして、重傷を負いました。私は九人兄 弟で、そのうち三人が女の子です。 野溝一族の話になりそうですが、野溝家は大分県竹田市の名門です。その前は摂津の茨木です。豊臣家の大名 で賎ケ岳七本槍で功をたて、のちに三木の城をもらった。そういうことは私は知らなかったのですが、父の亡く なったあと野溝釜というのがあったことを知り、いろいろわかったのです。これは秀吉が命名した釜で、桃山時 代は武士も茶道を習ったのですね。野溝の先祖は千利休に匹敵する茶道の名人でした。釜は博物館に献上しまし た。
封建制度を打ち破る
−学生時代に話をもどしますが、栗山さんが卒業されるときの記念に、﹁あけぼの会﹂というのを女子学生 を中心に結成された。これは在学生の仁平本、辛島キミ、高橋みさおと相談し、西端さかえ、それにあなた一36一
の名前も出ています。 野溝 ﹁あけぼの会﹂ね、覚えています。栗山さんが男子の中学校︵註・府立五中、いまの小石川高校︶に就 職されたのは、評判になって新聞にも出ました。栗山さんは実にまじめな方でした。あたしどもは、まだ女学校 から来たばかりで、女子学生の控室でガヤガヤしゃべっているだけでした。西端さんは雑誌記者ですね。講談社 に入って、それから毎日新聞にもいらっしゃいました。高橋さんは知りません。ずっと後の方でしょうか。 私ども文化学科に入ったものは、辛島さんにしても、封建制度を打ち破る、大体そういう考えだったでしょ。 一方に﹁新しい女﹂というのがありましたよ。平塚雷鳥さんの家が曙町にありました。 ︵註.雷鳥は一九二年青踏社を結成、三〇年無政府主義系の雑誌﹁婦人戦線﹂の同人、婦人政治運動に入り、第二次大 戦後は平和運動の代表的人物︶ そんな風潮がありましたね。 野溝 当時はたいていの家庭では、女子に学問はいらないといっていました。辛島さんから連絡があったとき、 父は﹁高等師範にいかないのかい﹂といったんです。目白に女子大学、それからあとで、東京女子大学ができて いました。大体、女師卒と同じ資格です。当時は家政科が女の勉強でした。私どもも卒業してから裁縫、音楽の 先生になった人が多いのです。 女子大は私立でしたから、卒業すれば女子師範と同じ資格がとれるのですが、もうとっくに女子高等師範があ りました。私は奈良女高師の試験を受けようとしましたが、受験資格の年齢条件に、私は三ヵ月足りない。来年
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回わしになるというので、同志社大学の英文科予科に入りました。私は語学が得意でした。同志社で、その方の 成績はよかったし、東洋大でもドイツ語は98点でした。長兄、次兄が幼年学校から士官学校へ行きまして、とに かくどこを敵にするのか分からないでしょう。それだけの課程を受けなくちゃならないので、兄たちもドイツ語、 フランス語、英語を習っていましたね。 同志社ではね、ミス・ベントンという生徒監がいまして、新島裏を慕って来日した人ですが、この人は愛憎の 念がヒステリックで、一つの教室で気に入った女生徒は.頭をなでる、一人は必ずいじめました。クラスメートの 目の前で噛んで吐き出すように、私なんかやられました。私は親のつくってくれた赤い袖のついたお召の着物を 着ていたのですが、ベントンからそれをとがめられたのです。キリスト者は伝道時代に迫害を受けて、質素でな くてはいけないというのでしょうか。親からは﹁学校の先生のおっしゃることは聞きなさい﹂といわれましたが、 この場合は違います。ベントンは狂信者でした。 ー服装といえば、大学時代も着物、はかまですが。 野溝 いえ洋服です。文化学科に洋服を着ているのが二、三人いました。ちゃんとした洋服です。ヘンテコリ ンなものは着ませんよ。級友に渡辺さんという聴講生がいられて、この方も洋服でした。たしかカリフォルニアか、 ハワイから日本語の勉強に来られたのでした。卒業生名簿にお名前はありませんが、これは聴講生だから卒業な さらなかった。みんな﹁アメリカさん﹂といっていました。人柄のよい方でしたが、日本語はできなかった。子 供のときからアメリカにおられたので無理でしょう。舟木愛子さんも洋服で、親切なよい人で、いまも仲よしです。
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それともう一人、国文の方と四人いる洋服姿の写真が残っています。
新聞の懸賞小説に当選
学生時代に新聞の懸賞小説に当選されて、学生作家とうたわれたということですが、いつのことですか。 野溝 関東大震災のときです。十月に開講すると通知がきましたが、私は東京へ早く帰っていました。大学は 被害はありませんでした。私はよく神保町や本郷の古本屋に行きました。とにかく本好きでした。十月に学校が 始まって、あるとき=局の煉瓦塀に﹁長篇小説募集、八月三十一日〆切﹂と書いた広告が目に入りました。そし て〆切を十二月三十一日にのばす、というのです。.歳災で応募作品は八月〆切までに不着とみなさねばならない からです。懸賞小説を募集していたのは、福岡日日という九州の名門の新聞社でした。 そのころ、長沢ふく子さんという印哲の聴講生の方が、やたら私に傾倒していました。長沢さんは、はじめは 栗山さんにくっついていましたが、私のいうことが、よほど変っていたのでしょう。控室のみんなからいうと、 私はいろいろおかしかったのでしょうか、長沢さんはよく私についてこられました。懸賞広告もこの方といっしょ に見ました。そして歩いているうちに、﹁これ書いてみようかな﹂といったら、長沢さんが﹁書きなさい﹂とい うのです。 私は辛島さんの知り合いの新宿のお寺に部屋を借りていました。お寺は朝から晩までやかましい。坊さんたち が、交わり番こに私の部屋をのぞいていく、といった状況でしたので、長沢さんが﹁それじゃ私の家へきて書ま せんか﹂ということになって、荻窪のお宅に移りまして、一生懸命に書きました。授業には出ませんでした。結局、一39一
私の小説﹁山楯︵くちなし︶﹂は入賞して、賞金千円をもらいました。 福岡日日は九州のいわば高級新聞、インテリの新聞で、主筆は黒田静男さん、この方は東京帝大英文科の第一 回卒業生でした。私はのちに都新聞︵いまの東京新聞︶の小説にも応募しました。北原白秋の奥様が、私の女学 生時代にかわいがってくれていました。 ︵註・福岡日日のことは、これを継承した現在の西日本新聞社史−創刊七十五周年記念、一九五一年刊1に詳しい。福日 は一九二三11大正12‖年元日社告に文芸と論策︵論文︶の懸賞募集を発表、賞金一万二千三百円で、当時の新聞界を驚か せた。文芸の選者は島崎藤村、徳田秋声、田山花袋の三人。長篇小説は特等五千円、一等三千円、二等二千円で、一九二 四年八月に人賞が発表された。特等は該当者なく、一、二等のほかに、選者推薦として特選二人を定め、千円ずつ贈った。 野溝七生︵筆名正尾子︶作﹁山楯﹂はその一つで、すべて福日紙上に連載、好評を博した、とある。︶ 千円といえば、当時としては大金ですが⋮⋮
シルクロードの研究
野溝あたしは一番先に父のところへ行って、入選を報告しました。父の隠居所はバラの木に月桂樹が玄関に あって、すてきなんですよ。私はそれから、その千円をもって朝鮮へ行きました。姉のいる大邸へ行ったのです。 かなり北で、間もなく京城でした。私は旅をしたかったのです。朝鮮半島はアジア大陸のギリシャみたいに日本 海に突き出ています。古代ギリシャがローマに征服されたように朝鮮は中国に征服されました。その時代からギ リシャと同じような地形をもった半島です。不思議な気がしました。一40一
日暮れがくるでしょ。長い夕暮れなんですよ。余光がいつまでも残っている。大陸の日の入りという感じ。ひじょ うに気に入りました。第二次世界大戦のあとは朝鮮から恨まれていますが、私たちは神功皇后以来親しんでいる でしょ。土で固めた家は、夏が涼しく冬が暖かい。ちょうど屋根がかぶさった形です。私は朝鮮が好きです。大 陸的なのです。これを遡っていくと、シルクロードに続きます。作家というのはそういうものですよ。自分の心 象風景をもってくるのです。 シルクロードについては、東洋大学紀要︵第十集・人文科学篇、一九五七︶に少し書きましたが、この論文は、 国訳大蔵経が東洋大学で完成したときに、佐久間鼎学長が発表されました。国訳はビルマが東洋大学に依頼した もので、完成にあたって、大使がお礼にきました。私は大学の学術研究会でシルクロード研究をしていたのです から、個人名を出さないよう、学長に申し出ました。シルクロード研究は、これを始めたのが早かったので、他 大学からは高く評価されたと思います。副題は﹁+[事記における印欧語族︵ギリシャ︶的なもの/比較文学の一 方法による﹂としました。いまでも知人から、あなたのシルクロードはまだ完成しませんか、とよくいわれます。 小説はそれからも、どんどん書かれたのでしょう。 野溝 戦争中に結核になりまして、三年くらい患いました。そして日本は降伏したでしょ。日本は文化国家と してやっていくことになりました。大学を出た人達が復員してくる。文化とは何かを、みんなが考える。そんな ときでした。角川源義さんが家にいらして﹁私は事業として出版をやっていきたい。野溝さんのものを出したい﹂ といわれました。
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角川さんは国学院でしょ。国学院の折口信夫︵おりくちしのぶ︶さんの弟子です。どういうことだったか、私 は折口さんのところへ、リンゴをもって届けたことがあります。折口さんは、ほら何とかいう号をもってらした でしよ。 ー釈超空︵しゃくちょうくう︶ですか。古代研究ですね。 野溝 そうそう、その折口さんが果物を入れるお盆に何か書いてくれました。そのお盆をもらったのですが、 誰かが﹁これ下さいな﹂と持っていっちゃった。私もいつ死ぬかわからないでしょ。欲しいものは、みんなくれ ちゃった。
印税で復員者のために街灯を立てる
42 角川には何を書いたのですか。 野溝 ﹁南天屋敷﹂という小説です。南天屋敷の主人公のモデルに私は抱かれたことがある。その方が私を抱 いてくれたのです。奥さんが姦通したんです。私が女学校に行っていたころです。主人公は姦夫を射殺した。新 聞に出ました。この小説は敗戦直後の紙の不自由な時でしたが、角川書店は一万部も印刷し、売り切りました。 当時、私は大田区の調布嶺町︵東嶺町三四の一〇︶に住んでいました。復員した兵隊さんが、リュックを背負っ て帰ってきます。自分の家は空襲でやられて、所在がわからない。道傍に腰を降ろしているのをよくみました。 私にも軍隊にいる兄がいました。それで、角川のこの印税で、嶺町の街角に街灯を造りました。四十七本造りま した。鳶頭の長尾さんという人に相談して、電気屋さんに頼んだのでした。電気代はもちろん私が払いました。たいへんな時代でしたね。ところで話をまた戻しますが、野溝さんが在学された時代は、白山文芸運動が さかんだったと聞いています。一九二二︵大正11︶年から翌年にかけてですが、これは一九二一年に文化学 科が創設されて起こったものでしょうね。文化学科は哲学、文芸、社会問題の専攻でした。 野溝 それぞれの科が雑誌を出していましたね。文化学科では勝承夫さんとか、何人かが集まって﹁白山新聞﹂ を出そうということもありました。それもありますが、そのころ学校騒動があったの、ご存じ。
女子をデモの先頭に立てる卑劣さ
境野事件︵一九二一二年︶ですね。 野溝 その問題に、私は知らん顔をしていました。そこで、私が参加しないから﹁野溝をなぐってやろう﹂と いうのです。私がしゃくに触ったのは、三年の男子学生が、一年下の女子学生を運動の先頭に立てるのよ。女子 学生三人に、境野︵哲︶学長のところへ決議を持っていけといっている。そして野溝は反対したから、なぐって やる、という。私はなぐってくれといいました。高島米峰が、その前にいましたね。学生たちを扇動していました。 私のクラスにいられた暁島武雄さん、この人は暁島敏のオイです。これが大秀才、そのつぎが益守武雄さん、こ の人達は参加しない。﹁ぼくらはそんな野蛮な人間じゃない﹂といっていました。決議を受けた境野さんは事情 を説明していました。学生たちは黙っている。境野さんは﹁これでいいんだな﹂といわれました。 この事件で、益守さんは大学をやめるといわれる。﹁これは学校だけのこと、この事は学生が関係したことで はない﹂と私。スジが通りません。論理がちゃんとしないと、私は負けない。潔癖でしたからね。事件がもつれて、 43学生大会のあと誰かが境野さんをなぐったのでしょう。境野さんは東洋大学出身ね。学生の方が神経質でした。 勝さんなんかも活動しました。私は柳井正夫さんと喧嘩した。﹁大学の経理のことなど、大人のけんかに子供 が口を出すな﹂といってやりました。また暴力学生処分に当たって﹁女子学生三人は退学させないで下さい、彼 女らを先頭に立てたのは、日本人の卑劣さです﹂と訴えました。 ︵註・境野事件は会計主任だった郷白厳幹事の解職が発端であった。︶ これは、安保闘争のときもそうでしょ。樺美智子さんが死にました。このときも、女子学生をデモの第一列に 並ばせて、後から男の群衆が押しかけました。 ︵註・一九六〇11昭和三十五11年六月十五日、全学連主流派が国会構内へ突入を図り、警官隊と激突した。︶ 一 44 警官隊は楯をもって並んでいます。それにぶつかっていく。私は叫びました﹁誰か手を離せ﹂。女子学生は互 に手をしっかりと、握りあっているのです。 私は証言します。誰が女子学生を殺したか。学生運動の卑劣さってない。私は東洋大学の教授でした。国会ヘ デモがあると聞いて、駈けつけたのです。この現場を二列あとからみていました。私は見ていたのです。私は弾 劾します。
1戦後はいろいろありますね。
野溝 一九六九︵昭和四四︶年に東洋大学5号館占拠事件があったでしょ。私は定年退職して、非常勤で文学 概論を教えていました。ゲーテの﹁ファウスト﹂でしたが、習いたいという学生が四、五人いました。窓に石をぶっつける音がする。外をみると平野宣紀さんや大学関係者がいた。腕っぷしの強いものに5号館を とりまかせ、彼らはナタをもって、頭からふとんをかぶってガラスをぶち破っている。学生たちは五階に閉じ篭っ た。平野先生らは手をこまぬいて、助けようとしない。 私は、ガラスを破るなどの暴行が﹁︵5号館の︶上の学生のしたことになるんだよ﹂と怒ってやりました。下 の学生たちは﹁先生、ぼくらばかり叱らないで、上の奴も叱って下さい﹂とかわいいことをいう。上からも石を 落とす。そこで上の学生に﹁石で打たれて死ぬ人間を、あなた方が見たいんだったら、投げてもいいよ﹂と叫ん だら、石が止まりました。﹁東洋大学で、私は言葉ばかり教えてきた。言葉で解決できないことはありません。 石を棄てなさい﹂といったら、みんな石を棄てた。 ﹁あなた方の意志を学校に伝えるから下りておいで﹂というが、学生たちは下りてこない。私はパイプになる つもりでした。私の動きに5号館の外側の学生たちは困った。学生たちが泣きました。上の学生たちは、まっ青 な顔をしてヘルメットをかぶっていました。しかし窓から私に手を振っている。上も下もシーンと静まりかえり ました。そんなこともありました。 ー最後に、﹁護国愛理﹂ということについて、どう考えていられますか。 野溝 いいなと思いましたよ。日本人は、理性的でない。理性で戦争をしなかったヨーロッパ哲学、とくにギ リシャ哲学のプラトンは私の先生です。 文化学科ですが、それができて始めて男女共学が実現したといえます。法政にも女子はいましたが、同級生の
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石川暁星、この人は朝日新聞の編集をやっていましたが﹁東洋の晶子生が一番頭がいい﹂といっていましたよ。