教唆の未遂
著者
今上 益雄
著者別名
M. Imagami
雑誌名
東洋法学
巻
12
号
4
ページ
47-76
発行年
1969-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006136/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja教
唆
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六五四三二一
教唆 目 次 教唆の未遂の概念と間題点 正犯と共犯︵教唆犯︶との区別の基準 教唆の未遂と共犯の従属性 教唆の未遂と共犯独立性説 教唆の未遂と共犯従属性説 む す びの未遂
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教唆の未遂の概念と問題点
轍 教唆の未遂︵≦誘瓢3伽饒艶霧鶏窪藷︶の意味するところは.必ずしも一定しない。通常、教唆の未遂が成立す ︵王︶ る場合として.次の三つの場合が挙げられている。 その第一は.教唆そのものが失敗に終った場含で.これには.教唆行為により被教唆者が全然影響を受けなかった 場合と・被教唆者がそれ以前に既に犯罪行為の決意を有していた場合とがあり. ﹁失敗に終った教唆﹂ ︵鉱禽.一轟魯、一 ︾器戴婆薦︶といわれるものである。 第二は、教唆行為により.被教唆者の犯罪実行の決意は新たに喚起し得たが.被教唆者が犯罪実行の着手にまで至 らなかった場合で.これには被教唆者が何らの行為に出なかった場合や悔予備に止まる行為をした場合.さらにはそ の行為が教唆との問に全く因果関係を有しない場合とがあるが、被教唆者が実行の着手をしなかったという点に特色 をもち、 ﹁効果のない教唆﹂︵の汰・誓︾霧藻露謎︶といわれる。そうしてこの第一と第二の教唆を包括して﹁企図せ ︵2︶ ちれた教唆﹂︵︿。塞簸器≧鱗簿弩αQ︶といわれており、狭い意味での﹁教唆の未遂しはこの﹁企図せられた教唆﹂を 指称する。 その第三は、教唆行為に基づいて被教唆者が犯罪の実行に着手したが未遂に終った場合である。 この第三の意味における教唆の未遂は、被教唆者が実行に着手した以上、概念構成の過程を別にすれば、刑法第六一条第一項と未遂に関する同第四三条、第四四条の適用の結果として、未遂が罰せられる場合には、教唆行為が可罰 的とされるのは当然で、特に問題とはならない。 そこで結局問題となるのは、狭義の教唆の未遂としての﹁企図せられた教唆﹂が、刑法第六〇条以下の共犯規定にこ れをどのように取り扱うべきかについての直接の明文の規定がないために、従来、現行刑法が共犯独立性説の見地に 立つと解するなら、刑法第四三条及び第四四条の適用を受ける限度で一般的に可罰的であるとし、もし現行刑法が共 ︵3︶ 犯従属性説の見地に立つとするならば、原則として不可罰だといわざるを得ないとして、その可罰性の有無というこ とが、いわば、 ﹁教唆の未遂﹂の問題として論ぜられており、その点に共犯従属性説の理論と独立性説の理論の根本 的且つ実際的意義が存するとされていることから、先ず﹁共犯の従属性﹂の問題と﹁教唆の未遂﹂の問題との関係を 論定することが必要であるが、論理的に、教唆の概念を明らかにする上で、これに先行して正犯と共犯の区別を明確 ︵4︶ にすることが方法論的に必要であることからーそのことが、又、不必要な概念的混同を防止する結果となるー次 に、これの基準を若干検討してみることとするが、そのさいこの問題が共犯の本質に深く関わっていることを看過し てはならないのである。 ︵1︶ 木村亀二﹁教唆の未遂﹂刑法の基本概念三二八頁以下。 ︵2︶ ﹁企図せられた教唆しの代りに、﹁効果のない教唆おホをもって第一及び第二の教唆を包括して指称する者に、 例えばω9蜜竃あ。ぼ段①び磐鍔赫霧。鼠影。ダS︸亀一●おム貸ψ一総卿 ︵3︶ 大谷英一﹁教唆の未遂﹂刑法講座四巻一二三頁、大野平吉﹁教唆の未遂]刑法雑誌九巻二号一八頁。
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︵4︶ このことを闘確に指摘するのは木村博士である。そうして従来の学説にあって、先ず正犯と共犯の区別を論じ、その 上で共犯の従属性の間題を論じた、エム・エー・マイヤーの見解は特記すべき方法論的・体系的透徹性を示していると いわれる。 木村亀二﹁犯罪論の新構造︵下とコ○頁以下、同﹁正犯と共犯﹂刑法講座四巻六五頁以下。二 正犯と共犯教唆︵犯︶との区別の基準
ところで、この正犯と共犯の区別の基準に関しては、ドイツにおける理論闘争が最も活発で.その沿革がわが国に ︵三︶ も著しい影響を興えていることから、間題解明に必要な範囲内で.少しくドイツにおける学説史を顧慮することが便 宜であろう。 ︸ 一九世紀後半における自然科学の発達に伴う実証主義的考察方法は、ドイッ刑法学にも強い影響を及ぼし、因 果論万能の思想がその頂点に達して、正犯と共犯についても先ず因果関係論による区別が間題とされた。当時の因果 関係論は条件説と原因説とであり、それらから生れた見解の一つが主観説であり、今一つが実質的客観説である。 ︵1︶ 主観説は、因果関係に関する条件説を基礎として、一切の先行事実に結果発生に対する起因力を認め、構成 要件的結果に対し条件を設定した者はすべてその結果に対し原因を与えた者であるから、正犯と共犯は因果関係の見 地からは区別が不可能であり、従って両者の区別は因果関係以外の別の観点、即ち行為者の主観にその基準を求め、 行為者が﹁自己の目的、利益のためにする意思又は自己の行為をする意思雛正犯者意思︵凝§惹蔚とをもって行為したか、 ﹁他人の目的、利益のためにする意思又は他人の行為に加担する意思騒共犯者意思︵6亀量ま簿蓋濠とをも ︵2︶ ってしたかによって区別したのである。 この共犯者意思のうち﹁教唆者意思﹂ ︵勘翼5震£密︶のある者が教唆者とされたわけである。 ︵2︶実質的客観説は、主観説が因果関係論に立脚しつつ、結果的に正犯と共犯の区別の基準を因果論の観点とは 別の、行為者の主観に求めたことに対し、純粋な意味での因果論に基礎を置く共犯論を展開したことに特色がある。 即ちこの説は、因果関係そのものの中に原因と条件を区別し、結果発生に対し一定の関係に立つ先行事実のみを﹁原 ︵3︶ 因﹂と考え、他のすべての先行事実を単なる条件として、その起因力を否定するものであって、これを根拠に、構成 要件的結果に対し原因を興えた者が正犯者であり、条件を与えたにすぎない者が共犯者であると解するものである。 ︵4︶ 従って教唆者は教唆という方法により結果に対し条件を与えたにすぎないないという点で正犯者と区別される。 これら主観説、実質的客観説に対しては、いろいろ批判が加えられ、先ず主観説に対しては、正犯者意思をもって 行為する場合を正犯となし、共犯者意思をもって行為する場合を共犯とするのであるが、そのように解することは、 既に意思の対象たる自己の行為と他人の行為とを客観的に区別せられるものとして前提されているから、主観説の徹 底は結局主観説の自己否定に至り、又実質的客観説においても、因果関係はあるかないかであり、その強弱の相違は 存在しないと解されることから、従って原因と条件との区別を根拠として正犯と共犯を区別する.﹂とも不可能である とせられるのである。 ︵5︶ 加えて、法思想史的には、新カント学派の哲学が刑法理論にも影響を与え、構成要件論を基盤とする犯罪論の構築
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五二 方法が支配的になるに及んで、これら因果関係論的考察方法は、二〇世紀を迎えるに至って急速に衰え、今翼ではほ とんどこれらの学説を主張する者がないといってよい。 二 構成要件論は、裁判官の恣意から個人擁護の防壁として利用しようとした法治国的国家観ないし政治的思想か ら実体刑法上の概念として登場して来たものであるが.周知の如く、べ⋮リングが一九〇六年その﹁犯罪論﹂におい て.構成要件論を創囑して以来、ドイツの刑法理論は.構成要件概念を重視して今罷に至︵、ており.わが国の通説の 採る見解でもある、 ところで構成要件論は.元来.構成要件という先験的範疇を無整理な生の社会的事実と分離し、後者の前者へのあ てはめという論理操作を用いて犯罪の認定に奉仕しようとする見解であるが.間題となるのは.例えば予備.未遂. 共犯といった刑法各本条に記載された犯罪を完全に実現したものではないが.刑法総則により可罰性を認められた行 為について、構成要件該当性を認めるべきか、認めるべきだとすると、かような総則の処罰規定と刑法各本条に記載 された構成要件とはどのような関係に立つかである。 ︵6︶ そうして、この点に関する争いとした生じて来たものが.限縮的正犯論と拡張的正犯論とである。 ︵i︶ 限縮的正犯論は、刑法各本条記載の構成要件を自ら直接実現した者のみを正犯とし、総則の規定により可罰 性の設定される共犯をこれから排除する見解をいう。従って正犯のみを罰するのが原則であり、正犯でない共犯は原 則的に不可罰的予備行為又は同時行為であるが.共犯の可罰性が認められるための特殊理論として、刑法総則に規定 された共犯規定により個疫の構成要件が修正せられ.拡張せられ、可罰性が拡充せられるから、共犯規定は構成要件の﹁修正形式﹂であるとか﹁拡張せられた構成要件﹂だとか解し、又、共犯行為即ち教唆及び讐助は刑罰拡張事由だ ︵7︶ と解しているわけである。 これらからして、構成要件を自ら直接に実現した者が正犯であり.構成要件を自ら実現しないが、共犯規定により 可罰性が認められる者が共犯とされるわけで、かような実行行為の有無という形式的、客観的な観点に正犯と共犯の 区別の基準をおくことから、形式的客観説とも称される。ところで、この限縮的正犯論は当然その可罰性を基礎づけ るものとして、共犯の従属性が前提となるが、この理論からすれば、共犯の可罰性というのは構成要件該当事実への 加功という点に立脚するから、単なる外部的行為の共同では足りず、その意味でいかなる従属形態を認めるにせよ、 共犯の成立のためには正犯の全構成要件要素の充足が前提とならなければならない。 従って、例えば故意ある道具を利用する場合には、その犯罪の成立に要請される一定の身分を欠くことにより当該 身分犯の正犯たり得ることができず、それを教唆した者は間接正犯として処罰される一方で、自ら直接に構成要件を 実現した者のみを正犯とすべきだという前提たるかような正犯概念に、右のような間接正犯概念を包摂することは、 ︵8︶ その理論的純潔性を害するといわなければならず、ここから構成要件論の内部で、次の拡張的正犯論を導いた一要因 が存したのである。 ︵2︶ 拡張的正犯論は、構成要件の実現に対し原因を与えたものはすべて﹁一般的し叉は﹁本来の﹂正犯である が、因果関係は事実的、説明的概念であることから、因果関係上同価値であるということは必らずしも直ちに、法 的.規範的に同価値であるとはいえないとしつつ、共犯概念は徹底的に実定法の所産であり、実定法は刑罰的評価に
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東洋法学 五四 おいて、たとえば教唆犯に関しては﹁正犯二準ス﹂︵第六一条︶とし、又裾助犯については﹁正犯ノ刑二照シテ減軽 ス﹂第六二条として、刑を制限しているから、実定法的意味においては、正犯とは教唆犯及び舗助犯以外において構 成要件実現に対して原因を与えた者を意味すると解し、その意昧でこの理論は.共犯規定を刑罰縮小事由として把握 ︵9︶ するのである。 拡張的正犯論は.刑法における諸概念の価値的規範的把握という二〇世紀前半の思惟傾向に沿って現われた一つの 見解であり.その最大の功績は.先の限縮的正犯論をもってしては必ずしも成功しなかった.間接正犯概念の一般的 ︵緯︶ 正犯概念への位置づけを理論づけたことにあるのであるが.しかし.拡張的正犯論は.刑罰的評価という法的効果の 相遠を根拠として.その法的効果の前提であり且つ又その対象たる正犯と共犯の区別を説明しようとする点で.法的 思惟の方法に顯倒があり.加えてこの理論によれば実行行為概念が拡張される結果、教唆.箒助も犯罪の実行とさ ︵U︶ れ、逆には共同正犯と醤助.予備と未遂の区別も不可能に至るという致命的欠陥を内包していたのである。 このようにして、拡張的正犯論を主張する者も又、今日ではほとんどないといってよいのである。 三 以上のような構成要件論による形式的、範躊的思考方法に対し、ようやく新カント学派に対する批判的風潮が 強くなるにつれ、現象学、存在論を方法論上の背景として、社会生活上の生の実体を直視する考察方法をもって登場 して来たものが、撫的的行為論︵訟麩ざ綴§黛傷謎・。箒ξ②︶である。この行為論における目的的行為概念を中核として 犯罪論体系を構成しようとする見解は、行為を単なる因果的事象としてみることなく、人の目的活動こそが、因果縫 盲農的な自然を支配し.社会生活を現実に形成し推進する力となるのであると解する点に特色をもち、このような行
為概念こそが、実行行為としての正犯概念の基底をなすのであり、 ﹁目的的行為支配﹂︵浮箒↓碧富霞。 。9鋒︶が正犯 ︵12︶ 概念のメルクマールをなすのであって、従って正犯と共犯の区別もこの目的的行為支配の有無を基準として、この意 味で正犯は目的的行為支配をもつが、共犯は自己の行為と結果との間に自由に意思決定する新たな行為支配の所有者 が介在するから、行為支配をもたないという結論に到達することになる。 目的的行為支配説は、正犯概念の一般的要素としての目的的行為支配を主観鑓客観の綜合的構造をもつものとして 把握し、ここから正犯の本質及び正犯と共犯の区別を主観的要素と客観的要素とから構成される点を明瞭ならしめた ことにすぐれたものをもち、元来は、行為を主観・客観の全体構造をもつものであるとする目的的行為論の立場から展 開せられたものであるが、今日では、目的的行為の犯罪論体系をそのまま承認しない見解においても、首肯されるに ︵捻︶ 至っているのである。 ︵M︶ もっとも、この行為支配説に対しては、そのいわゆる目的的行為支配の内容が漢然としているという批判があり、 ︵焉︶ ︵路︶ 又この説の主張者の間においても、例えば客観的要素を強調する見解と、主観的要素を強調する見解とが対立し、そ の内容の把握にも差があり、果して行為支配をもって﹁現実的行為支配﹂と解するのか﹁可能的行為支配﹂と解する ︵葺︶ のか問題はなくもないが、西原教授の指摘する如く、行為支配の有無は事実的な障害の有無ということでなく、悪し ︵霜︶ き行為動機に対し、良き行為動機を形成する可能性のある者が介在するか否により決定すべきが正しいと考え、さし あたりこの行為支配説を支持したいと考える。従って、この説によれば、正犯と共犯の区別は目的的行為支配の有無 によることが明らかになったわけであるが、教唆犯の場合は、被教唆者の行為は自己独自の行為支配に基づくもので 教唆の未遂 五五
藁 洋 法 学 五六 あるから、教唆者のそれに従属するものでなく、他方教唆者は構成要件の実現については行為支配をもたないが故に 共犯ということになる。 そこでこれを前提にしで、、次には﹁教唆の未遂﹂との関係で﹁共犯の従属挫﹂ということを検討してみようと慰う。 ︵玉︶ この点に関しては斎藤金作﹁共灘理論の研究﹂五頁以下所取の論交が詳纐である.なお欝﹁共犯判例と共狙立法﹂四 二頁以下.・ ﹁前掲論文﹂五八頁以下.大塚仁﹁間接正犯の研究﹂四〇頁以下参照。 ︵2︶ 主観説もこれを厳密に分析すると.故意説と羅的説、又は利益説とに分れるが.いずれも妥覇性を有しない.︶とは明 らかである。なお.木村亀二﹁前掲論文﹂六六頁以下参照。 ︵3︶ もっとも.原霞説に基づく共犯論においても.周知の如く結果発生に対L.いかなる関係に立つ先行事実を﹁原霞﹂ と考えるかについては箆解の対立があウ.ビルクマィヤ⋮の簸有力条件説.ビンデイングの優越的条件説、オルー籍マン の最終条件説、ニム・二⋮二・イヤーの世代関係説などの主張がみられるが、いずれも原麟と条倖と〃、区別しようとす ることでは.箆解が一致している。 なお、中山研一﹁刑法における因果関係狐丙果関係所収、三八九頁以下参照。 ︵4︶ 最有力条件説を主張したビルクマイヤーは、結果に対し原因を与える行為をもって構成要件的行為となし.構成要件 的行為即ち実行行為であるとして.従って実行行為の有無にょり正犯と共犯を区別する形式的客穣説とは必ずしも対立 しないとしている。 <鱗ゲむ ﹂瞬焦門蓉哉驚﹀瀞冨び魯霧∼δ簿︵副糞縛亀躍鉱葵霧︶む 絵・Φ総轡 ︵5︶ ドイヅにおける藏的的行為論誕生に至る法思想史的背景については内藤謙﹁欝的的行為論の法思想史的考察﹂刑法雑 誌九巻一号.岡二号が詳細である。 ︵6︶ かような二つの正犯論の対立を最初に分析的に示したのはチソメルである。彼は剤法における共犯規定の要否を論じ
つつ、 ﹁,構成要件を限縮的に解,する晃解﹂ ﹁構成要件を拡張的に解する旦解﹂とに区別した。 くσQ一じ曽韓筥Φ二︸O讐留野認魯窃N軽↓Φ一ぎ鈴響①圃oぼρ浮齢≦‘じ d祭添PψG oO臣 ︵7︶ 切免ぎαq︺○霊&注σqの留ωω霞無器。節。 。。O。︾象同。ω●o o㊤8 ︵8︶ 茜原春夫﹁繭掲論文﹂一四四頁。なお又、共犯行為も修正、拡張せられたものであるが、やはり構成要件該当行為で あり、実行行為であるとする小野博士の見解﹁刑法概論﹂一九八頁以下については、根本的に、実行行為の有無により 正犯と共犯との区別の基準を求めること自体が批判されなければならぬであろう。木村亀二﹁前掲書﹂九一頁参照。 ︵9︶ 例えばドイツにあっては鍔ω9導一忌9①露葺巴竃冨↓鱗$譲。訂欝男霧藤魯①惣憎幻。蓬影&︿身舅鍔涛慧葎ざ。 O・び弩婁夷︾ご o爽㌍お8などが、又わが国では竹田直平﹁正犯概念の拡張と共犯概念の拡張﹂法と経済五巻六号など がある。 ︵l o︶ 西原春夫﹁前掲論文﹂一四五頁。 ︵11︶ 拡張的正犯論に対する批判の詳細については西原春夫憎拡張的正犯論と間接正犯﹂間接正犯の理論所収八二頁以下参 照 ︵12︶ もっとも行為支配説は、過失犯においては、客観的注意に違反した非故意の行為にレよって構成要件該当の結果を惹起 する者が正犯であるとし、ここから過失犯における正犯と共犯との区別を否定する結果、行為支配は、敵意犯における 正犯概念のメルクマールだとする。例えば福田平﹁刑法総論﹂二〇一頁 ︵13︶ 例えば西原春夫﹁前掲論文﹂一四七頁。藤木英雄﹁共謀共同正犯の根拠と要件﹂法学協会雑誌七五巻一号七五頁以下 など。 ︵懲︶ 例えば団藤重光﹁刑法綱要総論﹂二八○頁、大塚仁﹁前掲書﹂二〇頁以下、木村亀二﹁前掲論文﹂七三頁以下など ︵蔦︶ ≦黛霧γも つ葺象窪讐導も つ蜜む ウ8糞︵爵霧G O蔑箋霧3鋒N警<5ゆ斜鵠・一80 0vも O・窃轟曽堕・なお大塚仁﹁問接正犯の研究﹂九 三頁以下参照。 ︵絡︶ ≦魯Φびの讐貰象葛紆ωOの門議9窪ω貧鋤沖ooぼ幹ド︾無r一緯o Q●ψ①9
教唆の未遂
五七東 ︵17︶ ︵鰺︶
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木村博士は、行為支配をもって﹁現実的行為支配﹂と解するなら、正犯は既遂行為についてのみあり得、又﹁可能的 行為支配﹂と解するなら、過失行為についても故意行為と同様、正犯と共犯の区別が可能であり、目的的行為支配説が 強調するところの過失犯にあっては、結果を不注意に因果的に惹起した老はすべて正犯者であり、正犯老と共犯者の区 別がないという主張は根拠を失うことになるとして.正犯と共犯の区別の基準を、実行行為の決意という主観的要素の 中に求むべきであるとされるが、 ﹁現実的行為支配﹂をもつて行為支配と解することより、直ちに既遂の場合について のみありうるとの結論には疑間がある。 木村亀二﹁前掲書﹂九五頁以下.特に一〇六頁参照。 西原春夫﹁前掲論文﹂一四七頁。三 教唆の未遂と共犯の従属性
ところで、いわゆる﹁共犯の従属性﹂ということの意義については必ずしも明確且つ一義的なものではない。その 故にこれと相関関係に立つところの共犯独立性説の意義もまた多義性を免れ得ないであろう。この点で参考となるの は植田教授の見解である。即ち教授は.従属性説を実行従属性.犯罪従属性.可罰従属性の三つに分って、実行性の 意味での独立性か従属性かが固有の意味での独立性、従属性の問題であり、犯罪性の意味でのそれは行為共同説か犯 ︵三︶ 罪共同説かの問題に、可罰性の意味でのそれが犯罪固有説か、犯罪借胴説かの問題に帰着されるとする。 いまこの植田教授の分類に従うとするなら、 ﹁実行性の意味での従属性﹂ということが、共犯成立のためには正犯 の行為が犯罪をして現実に行なわれたことを要するかという、 ﹁従属性の有無﹂︵︾ζ窮&。愛号の9︶の問題が、︵2︶ ︵3︶ ほぼこれに該当することになろう。そして﹁教唆の未遂﹂の問題は、 ﹁従属性の有無﹂の問題であるとするなら、そ れが従来、共犯従属性の理論と独立性説の理論の対立の中心問題として論ぜられて来たことも、また当然といわなけ ればならない。 さて、共犯独立性説は、共犯の可罰性は共犯の行為それ自体においてそなわり、共犯が犯罪として成立するために は必ずしも正犯者が犯罪の実行に着手することを要しないというのに対し、共犯従属性説は、共犯が犯罪として成立 するためには正犯者が少なくとも犯罪の実行に着手することを要する、と説くのである。そもそも共犯の概念が、正 犯の行為を予定していることはいうまでもないが、ここに共犯の従属性とは、かような﹁論理的または概念的従属 性﹂︵一。讐象①&﹂留毘①跨匿議8箒聾︶の問題をいうのでなく、共犯の可罰性に関する問題として﹁可罰的行為の現 ︵4︶ 実に存在すること﹂︵く・難紹窪&≦騨浮ゲ蚕&興終練竃覆9国餌髭毒αq︶に対する従属性の問題である。しからば、 われわれはいずれの見解を支持すべきであろうか。そのさいこの問題の解決にあたっては、何よりも現行刑法の全体 的構造と、その実定法的根拠、及びその合理性ということに求めなければならないと共に、この論争の実益が正に ﹁教唆の未遂﹂を可罰的なものと考えるかどうかの点に存することから、共犯の可罰性すなわち共犯の本質論の側面 と、教唆の未遂を認めることの可否という解釈論の側面とから行なわれなければならないのである。この点に関して 規範的責任論の是認こそが、先ず共犯従属性説の理論的基礎を提供することになるとされるのは西原教授である。 ﹁共犯は、責任能力者の故意行為に対する加功であり、この場合の正犯、したがって自己の行為の是非善悪を区別す る能力のある者に対しては、法秩序は悪しき行為動機に対する良き行為動機形成の可能性を期待し、教唆行為を受け
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たにかかわらず違法行為に出ないことを期待するのであるが、しかしこの規定は、必ずしも現実に正犯者が教唆にし たがい違法行為に出る場合のあることを排斥するものでなく、正犯者が法秩序の期待に反して違法行為に出た場合 は、その正犯者に違法行為を生じさせた者は、直接実行行為を行なった正犯者ほどの違法性の重さはないにしても、 やはり処罰に価いする反面、教唆がそれ自体に止まった場合には、一般に法秩序が教唆それ自体に対し、実行行為と 同様の違法性の重さ、危険性を認めることは、法秩序が一方において正犯者に適法行為に出ることを期待することと ︵さ︶ 相矛盾しあう﹂とされるのである。 ︵惑︶ 規範的責任論はわが国の学説が広く採るところであり、その意味で端的に規範的責任論を基礎にして共犯従属性説 を論拠づけた西原教授の見解は傾聴に価いするといわなければならぬであろう。そこで.このことの具体的な検討と して教唆犯処罰の実質的理由.それ故に教唆犯の本質は何かということと、教唆行為の意義と教唆の故意ということ をみてみるに、教唆犯の本質については.教唆犯を結果の間接惹起︵葺亀ζ窪①議鶏¢浮象禽︶として把えるものと、 犯罪の決意なき老または決意の定まらない者を犯罪の実行に誘導し、刑事責任と刑罰に陥しいれることに根拠をおく ものとが対立している。 いうまでもなく、前者は共犯独立性の理論を基本とするものであり、後者は共犯従属性の理論を基本とするもので あるが.規範的責任論を是認しつつ行為支配説に立てば.教唆により被教唆者即ち正犯者において可罰的行為、した がって実行行為にいたる動機を設定し、実行行為の決意をさせることこそ処罰に価いする理由が存在するといわねば ︵7︶ ならず、後者の見解をもって妥当としなければならない。かように教唆犯の本質を理解すると、次に問題となるのは、しからば教唆犯の行為たる教唆行為の意義をどのよう に把握するかである。このことについても、従来二つの見解が対立し、教唆行為をもって他人をして犯罪の決意をさ ︵8︶ せることをもって足るという見解と、教唆行為をもって単に正犯者たる他人をして犯罪の決意をさせたという事実が ︵9︶ あるだけでなく、さらに正犯者がその決意に基づいて実行行為に出ることを要するという見解がある。前者は従来の ︵憩︶ 共犯従属性説における通説ではあるが、同じく従属性説に立脚しつつ後者の見解を支持するものもある。 そうして、教唆犯の本質について﹁他人に可罰的行為を行なう動機を喚起する﹂点に求めつつ被教唆者の適法行為 を期待する以上、正犯者の決意と構成要件的結果を惹起させるとなす後者の見解を妥当とせねばなら識であろう。も っともこのことは滝川説の基礎とせられたところのエム・エー・マイヤーの﹁共同起因行為﹂ ︵ζ雪Φ讐審a峯謎︶の 概念即ち教唆行為と間接正犯とは因果的構造において同一であり、両者はともに﹁起因者﹂の概念の下に統一せられ ると解し、そのような因果的構造の同一性を基礎として、 ﹁行為媒介者﹂ ︵臼鶏毒琶豊簿︶に責任ある場合に教唆が ︵n︶ 成立し、責任がない場合には間接正犯が成立し、両者の代替が可能であるとの見解を必ずしも是認することを意味す るものでなく、正犯と共犯の区別について行為支配説に立脚する限り、悪しき行為動機に対し良き反対動機を形成す る可能性ある者が介在するかという因果の経過の規範的障害の有無により、教唆と間接正犯とを区別する点で本質的 な相違があるといわねばならず、右の教唆犯処罰の理由と教唆行為の意義ということからして、教唆の意思すなわち ︵鷲︶ 教唆の故意をもって、被教唆者による犯罪構成要件の実現に向けられたものでなければならぬという結論になろう、 しかし、このように教唆者においても構成要件的故意の必要を認めつつ、教唆行為には行為支配がないとする点に
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おいて、果して正犯と共犯の区別基準に関する行為支配説には内面的矛盾があるのではないかとの批判もないではな ︵鴛︶ いが、前述の如く行為支配の有無をもって、因果の経過の規範的障害の有無によって決定するとなすわれわれの見解 によれば、この批判は必ずしも妥当しないものと考えるのである。 そうして教唆者の故意の中に構成要件的故意を包含することの実益は、教唆の未遂と未遂の教唆の区別とを可能な ︵羅︶ らしめる点にある。未遂の教唆︵蓼糞簿蝦轟蟹簿だ婆鉱一︶とは、通常被教唆者の行為が未遂に終る魎﹂とを予め認識し て.または被教唆者の行為が既遂に至る前にそれを阻止する意思をもって、犯罪の実行を教唆する場合であるが.未 ︵蔦︶ ︵蜷︶ 遂の教唆にあっては、構成要件的結果の認識はなく、したがっで、不可罰と解すべき結論になるであろう。 ︵i︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶((
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一◎ G ない観念であるから、法律家には関係がない﹂といっている。<窪Q圃9図9。簿箆諮蒙㊦︾欝霧零慧の轡馨留村↓亀轟﹃き9 ケツペルニックは、かような共犯の概念内容の論理的意味における理論的従属性の概念は﹁法律的に何らの重要性の 野平吉﹁教唆の未遂﹂刑法雑誌九巻二号︸五頁など。 されるのは、例えば佐伯千偲﹁刑法総論﹂三一八頁以下、同﹁刑法に於ける期待可能性の思想﹂下巻四九〇頁以下、大 ﹁従属性の有無﹂の問題が﹁教唆の未遂﹂の問題で、 ﹁従属性の程度﹂の問題が﹁教唆と問接正犯﹂の問題であると 大谷英一﹁前掲論文﹂一二六頁。 植田重正﹁共犯独立性説と従属性説﹂刑事法講座三巻四三九頁以下、購﹁共犯の基本閥題﹂参照。 ON。 も o“ 一一 西原春夫﹁前掲論文﹂二二七頁以下、同﹁刑法総論﹂二二三頁以下参照。 例えば団藤重光﹁前掲書﹂一八八頁、木村亀二﹁刑法総論﹂三〇〇頁、福田平﹁前掲書﹂ニハ九頁など。︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵難︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵M︶ ︵節︶ ︵給︶ 滝川博士は、 ﹁アジヤン・プ揖ヴォガトウール﹂の問題に関連して、 ﹁いかなる理由にせよ、刑事処分を受けさすた めに、他人を犯罪に引入れる権利を有するものでない﹂とされる。滝川幸辰﹁犯罪論序説﹂二四九頁参照。 例えば団藤重光﹁前掲書﹂三〇九頁。 例えば滝川幸辰﹁前掲書﹂二四〇頁。 例えば滝用幸辰﹁前掲書﹂二四〇頁。尚、<αQ一Q蒙器あ3き一黛胃ξぎ魯伽窃︵♂舞q 。3窪ω霞無冨。霞ω﹂・切鼻 ω、ωω雪 一≦中竃3①さご角鋤薦o葺蝕濤8の鳩留露。 ・島雰馨3津のo簿”ドト象野ψQ oOピ 例えば、共犯従属性説に立脚しつつ、かように解するものとして、滝想幸辰﹁前掲書﹂二四一頁以下参照。 尚”<σQ一.≦魯卑U霧留旨ω魯Φ。 駐ω寝無容。ぼ︾o 。”餌鉱一軸ψ一8q 木村亀二﹁前掲書﹂三三五頁参照。 大野平吉﹁前掲論文﹂一頁参照。 従来、 ﹁未遂の教唆﹂が可罰的であるか、それとも不可罰的であるのかは、教唆者の故意の範囲をめぐって、共犯の 従属性説を採るのか、共犯の独立性説を採るのかの争いに根源があるかの如くに解せられて来たではないが、例えば共 犯従属性説に立脚するマウラッハ、ヴェルツニルの如きも、 ﹁未遂の教唆﹂をもって犯罪不成立だと解している点に注 意しなければならない。そうして、これが今日のドイッにおける通説であるといってよい。<αqピ≦魯魯鉾鉾9︶ ω●一8。竃㊤貫蓉ダU①無ω9塁望鍔砕gぼ︸≧茜β︾幹︾q幹ψ器o 。’尚¢馨あ魯邑貸鉾鉾○‘ω’緕癖曹ζ? 斜Φ詳図貫N−びΦぼび仁oダHvO。︾無歴ψ器8 ﹁未遂の教唆﹂の問題点と、ドイツにおける学説史の詳細については田中政義﹁未遂の教唆﹂東洋法学二巻二・三合 併号二頁以下。また囮捜査については同﹁罠理論の展望﹂法曹時報五巻三号、同﹁囮捜査に関する諸問題﹂法学新報五 九巻三号。同﹁囮捜査﹂刑事訴訟法基本問題四六講参照。
教唆の未遂
六一二東洋法学
六四 四教唆の未遂と共犯独立性説
︵王︶ 共犯独立性説は、通常犯罪は行為者の社会的危険性の表現であると解する犯罪徴表説の立場から、犯罪が他人の犯 罪に従属して成立することは意味をなさないとして、結果発生との間に法律上の因果関係を有する行為としての教唆 行為の存する限り.それを社会的危険性の徴表として認めるに充分であり.したがって教唆という行為自体に基づい て行為者に責任を認めようとするものである。共犯独立性説の理論的基礎をなすものは.大要次の二点においてであ る。 即ちその第一は、 ﹁共犯の固有責任﹂ということについてである。共犯従属性説が共犯の犯罪性と可罰性とをもっ て共犯行為に固有なものと解することなく、正犯という他人の行為の犯罪性と可罰性を借用したものと解し、共犯が 罰せられるのは正犯者たる他人の行為によるものであるとする点は.今欝の刑法の基本原理とされるところの個人責 任の原理、責任主義に反する古い集団責任と帰責理論とを是認する結果となるということである。第二は、 ﹁共犯行 為の自然的、存在論的構造﹂ということについてである。共犯従属性説が先ず規範的なものをおき、正犯者の構成要 件該当で違法且つ有責な行為という犯罪の現実存在を前提として、そこからその犯罪に加功した者としての共犯者を 決定するのは、共犯行為の自然的、存在論的構造に矛盾を含むものであるということである。 この第一点の固有責任ということを明確に指摘されるのは木村博士である。博士は、 ﹁共犯が正犯に従属しぐ、畔ての犯罪の成立を正犯のそれから取得するということはあり得ないとされ、 ︵犯罪借用説は︶、共犯者が他人の犯罪によ って責任を負うということになり、責任主義という刑法の根本主義に反し⋮⋮結局、共犯の成立するためには、正犯 行為が犯罪の成立要件を具備すると否とに関せず、共犯は自己固有の犯罪性に基づいて可罰性を得て来ることを意味 ︵2︶ し、刑法は共犯独立性の理論の上に立つものである﹂と結論されるのである、そうしてまた、犯罪徴表説の代表者で ある牧野博士も、この点に関連されつっ共犯の未遂の中心的論拠として、共犯の固有責任の理論ということを援用せ られ、 ﹁刑罰は、行為者たる個人に科せられるものであり、社会保全の必要のために個人の将来に対する適当なる処 置を全うせねばならぬという点から考へるならば、犯罪事実に対し関係する個人をその者の立場において考察せねば ならぬのである。さてかやうに考へて来ると、教唆者も誓助者も共に犯罪の完成に対して認識を有ってゐたのであ り、さうして、その教唆も籍助も共に犯罪の完成に対して関係を具有してゐるのである。さうして見ると、その認識 は要するに犯意を構成するものに非ずして何ものであらう。よし、その認識にかかる因果関係は間接的なものであら うとも、その認識に対して刑法第三八条第一項の適用あるものと為すのに異論があり得るであらうか。⋮⋮﹂とせら れて、教唆や封巾助がそれ自体独立に犯罪たるの性質を有しているものであること、独立性論においては、教唆、幕助 の責任が個人的責任の原則によらねばならぬことを説明せられて、 ﹁かやうにして、われわれは教唆と幣助とが、正 犯の実行行為を待たないで、それ自体として未遂罪を構成するのであると論じてゐるのである。いはゆる教唆の未遂 は、無罪でない。それは未遂罪である。教唆についていふときは、教唆行為は教唆者にとって犯罪の実行行為である ︵3︶ 。 犯意の遂行的表現がそこに成立してゐるので、刑法第四三条の要件が具備されてゐるのである﹂と説かれるとと
教唆の未遂 六五
東洋法学 六六
もに、第二の点にも関連されて、 ﹁犯罪アリテ後二共犯アルニ非ス。共犯二因リテ犯罪ヲ生スルナリ、従来ノ学説 ハ、先ッ一個ノ犯罪事実ヲ予定シ之力数人二依リテ犯サルルヲ共犯ト為スモ、新シキ理論二於テハ、先ッ共同現象ヲ ︵4︶ 予定シ、此ノ共同現象二因ル犯罪ノ成立ヲ論セムトスルナリ﹂と説かれるのである。 かような理論的基礎の下に、共犯独立性説は教唆、籍助行為をもそれぞれ犯罪の実行行為であると解することによ ︵5︶ って、共犯の固有責任ということが理論づけられるとされるのであるが、しかしながら、教唆者がその教唆行為によ って濁有の責任を負担することと.そこから教唆者の教唆行為をもって、直ちに刑法第四三条にいう実行行為と同一 であるとなす結論を導き出すことには.論理必然性がないといわなければならない。蓋し、教唆者の固有の責任、固 有の行為をもって.被教唆者をして犯罪を惹起せしめたこと.そのことの全体を意味するのでなく.単に抽象的に被 教唆者の行為と切断された教唆自体を意味するとなすなら.結果の惹起は常に共犯者の行為でなく、他人の行為によ るというのみならず、一般に未遂を処罰しない犯罪にあっては、教唆は理論上常に他人の行為によって罰せられる外 ︵6︶ はないという、共犯固有犯説そのものの否定に至るからである。 その故に、教唆者の固有の責任、固有の実行を認めることと、教唆行為をもって直ちに未遂の成否を断定すること とは別個の間題に属する、といわなければならないのである。 次に第二点の共犯行為の自然的、存在論的構造に反するとの批判についてである。なるほど共犯従属性説が.結果 たる正犯の存在から出発して共犯者の可罰性という法的評価を加えるという論理操作は、自然の没価値的な時間的因 果の系列と異なることは疑いもないことである。しかしそのことが、直ちにザウァーの如く、規範的なものを最後の結論において論ずることなく、最初におくとい ︵7︶ う方法論上﹁有害な欠陥﹂を含むとはなし難いといわねばならない。蓋し、教唆犯、蓄助犯は一般的にみて、正犯に 比べてその犯罪性が弱いのみならず、規範的責任論は教唆.蓄助を受けたにもかかわらず、正犯者が違法行為に出な いことを最後まで期待しているわけである。したがって、法的評価は因果の経過の規範的障害の有無ということの判 定なしには、これをすることができず、その故に規範的評価という構造と、前法律的な事実的評価とは自ずと異なら ざるを得ないからである。 ︵1︶ ︵2︶ ︵2︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 教唆 共犯独立性説は、通常新派の理論を採る者によって主張せられているが、旧派の代表者によっても支持せられてい る。<σq一。鎌O置段︸ωε象窪伽霧象導ω霞鉱誘O簿りHおOρ堕ε①出いじ ご協&ぎσq︾ご富男9彗窪儀①。 。議浮冨9角齢&窪 留三Φζ聲○興ざ窪ωω器ごお。望顔堕合’ととも、新派の理論を採る者によっても共犯従属性の理論が支持されている ことを看過してはならない。 <σQ一●碧ω計い①ぼぴ8ダ曽−旨●︾無一●ψ89 木村亀二﹁新刑法読本﹂二五〇頁以下。<αq一﹂8乞辞鉾鉾○‘ω・一8監 牧野英一﹁前掲総論﹂三六二頁以下。尚この部分の引用例は大谷英一﹁前掲論文﹂一二七頁によった。 牧野英一﹁目本刑法︵上︶﹂四一二頁。 牧野英一﹁前掲総論﹂三六四頁以下。 植田重正﹁前掲論丈﹂四五三頁以下、同﹁前掲書﹂一八二頁以下。 くσq一・ω葬①び≧ぼ①旨①ぎ⇔ω需無器3需竃窪9ω−︾象ピω●蓉O搾 の未遂 六七
東洋法学
六八五 教唆の未遂と共犯従属性説
共犯従属性説は、正犯の行為をまってはじめて共犯の成立を認めるべきだとする。 この見解の代表者である団藤教授は、定型説の立場から、共犯独立性説は﹁犯罪行為の定型を無視するところに成 り立つ﹂として.教授の見解においては. ﹁殺人を教唆または翻助する行為は、殺人そのものではない。両者は定型 を異にするのであって、殺人未遂を罰する規定は.殺人の教唆の未遂に適用されるべきではない。教唆・幕助行為を 実行行為と同一視するのは罪晒法定主義に反する﹂とせられ.進んで現行法の解釈論として.共犯独立性説が現行法 上認められるかを問題とし、その結論として﹁現行法が共犯独立性説をとるものでない﹂ことの論拠を.第一にもし 教唆が実行行為そのものであるならば、教唆を﹃正犯二準ス﹄るものとしていることは、理解されない︵六一条︶。か りにこれを注意規定だとするなら、端的に﹃正犯トス﹄るべきところである﹂とし、第二には、﹁たとえば破壊活動防止 法第三九条は政治上の主義を推進するなどの目的をもって殺人の教唆をした者は五年以下の懲役または禁鋼に処する こととしているが、これは従属性説の見地に立つと、本来教唆にとどまるものは刑法第六一条のもとではもともと不 可罰である﹂のを、とくに重大な罪に関するというので独立犯として規定したものであると解するのに対し、独立性 説の見地に立つと、 ﹁刑法第六一条の解釈として教唆にとどまるものも、教唆の未遂として処罰﹂することになるか ら、 ﹁右の行為はもともと殺人未遂の刑︵一九九条、二〇三条、四三条、六八条︶ー⋮未遂減軽を加えたとしても最低懲役一年半ーをもってのぞまるべきはず﹂となり、 ﹁特に軽い刑︵!︶を規定したということにならざるをえない﹂ ことになるが、 ﹁なぜ、このばあいをとくに軽い刑を規定したのか、説明に窮するであろう﹂という点に求められる のである。かような共犯独立性説に対する批判の結果、 ﹁定型説の立場では、教唆行為、封巾助行為は基本的構成要件 についての実行々為そのものではないから、教唆・封巾助の未遂は基本的構成要件についての未遂罪にはならない。し ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ たがって、教唆・辮助にとどまるものを処罰するためには、特別の規定を必要とする。特別の規定がないかぎり、正 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ペ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ペ 犯の行為があってはじめて、教唆犯、謂助犯の成立をみとめることができる。かような意味において、定型説の立場 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵王︶ は、共犯従属性にみちびく﹂ ︵傍点筆者︵1︶︶のであるとされて、その故に、共犯規定における﹁実行﹂と未遂罪規 定における﹁犯罪の実行﹂とを同一のものと観念して、教唆犯が処罰せられるためには、教唆行為が行なわれたのみ では足りず、さらに、正犯のこの意昧における実行に着手したこどを要すると論ぜられるわけである。 もっとも、この点について若干異なる見解を主張されるのは佐伯教授である。教授は、﹁教唆犯に関する刑法第六一 条の﹃犯罪ヲ実行セシメタル者﹄という場合の実行の意義をもって同第四三条の未遂犯における﹃犯罪ノ実行二著手 シ﹄とある場合の実行と同意義であると解するときは、教唆、需助行為をもって実行でないと論ずることは文理解釈 として、一応論理的である﹂とせられつつ、しかし﹁共犯規定における﹃実行﹄の語をかように厳格に解することは ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 疑いがある﹂ とせられ、 ﹁蓋し、正犯が予備の程度の行為しか行なわなかったときにも、彼を教唆した者には教唆 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 犯の規定が適用されねばならなくなくなるであろうし、又数人が共同して教唆又は幣助した場合にも共同正犯の規定 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ が適用されねばならぬからである﹂︵傍点筆者︵豆︶︶とされる。そうして﹁ごれに対し、独立性説が、教唆・轄助もまた
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それぞれ犯罪の実行であるとすることは、共犯を方法的犯罪類型とする限り当然である﹂が、 ﹁唯、広義において は、等しく犯罪の実行であるとしても、刑法はそのなかで正犯たる実行と、教唆・翻助たる実行とを区別しているこ とに注意せねばならね﹂とされ、そこで﹁正犯の実行々為を伴わなかった教唆・鞭助がなお刑法第四三条の未遂罪と なるかどうかも、かかる実定法の解釈間題なのφ、あって、実定法を超越して抽象的に決せられるべきものでない﹂と し、かような見地からみると、刑法第二〇三条、同二〇二条の自殺の教唆又は報助の未遂を処罰する規定のように、 ﹁共犯の未遂の可罰性を推論せしめるものもあるにはあるが.それは実は共犯の未遂としてでなく.むしろ独立の犯 罪類型としてその処罰が規定せられているのであって.未だ独立犯説の根拠たり得るものではない﹂とし. ﹁他面、 諸種の特別法を見るに教唆の未遂を罰する場合には特に明交を設けて特別罪とするのが通例である﹂から. ﹁これら を綜合すれば.刑法第四三条の未遂罪のなかには教唆または報助の未遂は含んでいない趣旨であるといわねばならな ︵2︶ い﹂とせられるのである。 そこで右の団藤教授と佐伯教授の見解の是非を論ずるにあたっては、次の二点が特に問題となるように思われる。 即ちその第︸点は、現行刑法における共犯従属性説の論拠を未遂罪を規定したところの第四三条に求めることが、方法 論的に妥当であるか否か。第二点は、諸種の特別刑罰法規において、教唆の未遂に関して特に処罰規定が設けられ、 教唆を独立罪として、単に教唆をなしたに止まるものを可罰的なりとする例が極めて多いが、これは果して、現行刑 ︵3︶ 法が共犯従属性説を認めることを前提としているものであるか否かである。 先づ第一点について検討するに、結論的には団藤教授の見解に重要な論理の飛躍があるといわねばならぬであろう.蓋し、刑法第四三条の未遂犯の規定は実行々為に関するものであり、教唆、耕助行為は実行々為でないから教 唆、耕助の未遂は未遂犯にならないとし、したがって教唆、轄助にとどまるものを処罰するためには特別の規定を必 要とするとしても、その結論は、そのような﹁特別の規定がないかぎり﹂教唆・轄助にとどまるものを未遂犯として 処罰するごとはでぎないというにとどまり、さらに進んで﹁正犯の行為があってはじめて教唆犯、報助犯の成立を認 めることができる﹂という結論までも導き出すことは論理的に不可能であって︵筆者傍点︵1︶参照︶むしろその反対 に、共犯従属性の見地を前提し、根拠として正犯者の実行々為をともなわず、単に教唆、蓄助にとどまる行為は刑法 ︵4︶ 第四三条の規定する未遂犯とはならぬといわなければならないからである。 したがって共犯従属性の根拠は、その前提を他に求めなければならぬわけであるが、これについては既に述べた如 ぐに、刑法第三九条以下の刑事責任能力に関する規定と、これに伴なうところの規範的責任論の是認こそが、正に共 犯従属性説の基礎に他ならず、これの結論として正犯者の実行々為をともなわない単なる教唆・耕助は未遂犯を構成 しないと考えるのである。 次に第二点について検討するに、現在、破壊活動防止法第三八条、三九条、四〇条をはじめ、爆発物取締罰則第四 条、暴力行為等処罰二関スル法律第三条、国家公務員法第二〇条第七号、第一コ条、地方公務員法第六一条第四 号う第六二条、臼米相互防衛援助協定に伴う秘密保護法第五条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保 障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法第 七条等において、、教唆﹂﹁煽動﹂ ﹁そそのかす﹂ ﹁あおる﹂ ﹁誘発﹂ ﹁挑発﹂等の行為それ自体を罰する旨を定めて
教唆の未遂 七一
東洋法学 七二
いる規定が多いが、これらはいずれも、少くともいわゆる狭義の未遂聾﹁企図せられた教唆﹂の可罰性を認めている ことには疑問がない。ところが、果してかような特別立法が現行刑法をもって共犯従属性説を前提としているのか、 それとも共犯独立性説を前提としているのかは大いなる論義を呼んでいるのであるが、この点については、既に廃止 せられてはいるが、戦時中、国防保安法第一二条、戦時刑事特別法第七条等の教唆の未遂の独立諸立法をめぐって展 開さたれ共犯従属性説と独立性説との論争が参考になるであろう。 例えば国防保安法に関して、共犯独立性説に立脚される木村博士が. ﹁教唆の独立犯の見地を明らかにして被教唆 者が実行に至らざる場合は勿論.単に誘惑、煽動しただけでも.これを罰する規定を設けたのは別に新しいものとは ︵5︶ いひ得ないまでも.主観主義刑法理論の上に立ったものとして注目に価するものである﹂となされたのに対し.共犯 従属性説に立脚される団藤教授は﹁しかし若し独立性説を認めるならば.かような規定は無用であるのみならず、む しろ不当とせられねばならぬ筈である。この規定は・−⋮従属性説に論拠を与える以外の何ものでもない﹂と断定せら れて、 ﹁教唆の未遂をかような特別罪として規定したことは、理論的には教唆の従属性に根拠を与えたことになる⋮ ⋮。何となれば、若し教唆の独立性を認めるならば、教唆の未遂は正にその犯罪自体の未遂となるので、かような特 ︵6︶ 別の規定を要しないわけだからである﹂とされるのである。 要するに団藤教授の見解は、国防保安法において教唆の未遂を罰することは、共犯独立性説の当然の結論であるか ら、現行刑法が独性説の上に立つというのならば、特別規定は不要であり、したがって特別規定を設けたことの反 面、現行刑法が従属性説を採ることを明らかにしたということにある。この団藤教授の主張に対し、木村博士は﹁成る程、共犯独立性の見地に立つなら、一般的に教唆の未遂を罰するこ とを特別に規定するのは無用であるともいい得よう。然し、国防保安法、戦時刑事特別法におけるがごとく、一般の 未遂の﹃刑﹄と異った刑を一定の教唆の未遂に対し科することは可能であり、且つかかる特別規定は場合により必要 であり、又妥当でもあり得るのである﹂とされ、﹁国防保安法、戦時刑事特別法等においてもうけられたところの狭 義の未遂に関する特別規定は、教唆の未遂に関する例外規定でなくして、狭義における教唆の未遂の﹃刑﹄に関する 特別規定なるに止まるのであって、狭義における教唆の未遂は一般的に刑法第四三条、第四四条の限度において未遂 ︵8︶ 犯として罰せられるものと解せねばならぬのである﹂と結論づけられており、さらに又最近に至り、例えば、爆発物 取締罰則第三条にあって﹁治安ヲ妨ケ﹂ることを目的とした爆発物使用罪の如き目的犯に対する教唆、せん動の規定 や、目的犯以外でも暴力行為等処罰二関スル法律第三条にあって﹁団体若ハ多衆威力ヲ示シ、団体若クハ多衆ヲ仮装 シテ威力ヲ示シ﹂という方法によって刑法第一九九条の罪を犯させる目的で教唆、耕助することを罰した規定は、そ の行為の臼的、内容、手段が漢然としていることから、濫用の危険を内包し、したがって警告規定のない場合にも 、これを防止するために一般の未遂犯の刑より、刑を制限する必要があるから、特別規定をもうけたのだとされてお ︵9︶ るのであるρ しかしながら、刑の適用上の濫用を防止するということから、この種の特別法規が単なる﹁刑﹂のみに関する特別 規定たるに止まるとするなら、この種の特別法規の存在する場合には、原則として一般法規を排除して適用されるわ けであり、もしそれが正しいとするなら、共犯独立性説の立場からは、例えば、暴力行為等処罰二関スル法律第三条
教唆の未遂 七三
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の適用ある場合、すなわち重き同法第一条第一項の方法による殺人の教唆に止まった場合は六ヶ月以下の懲役になり、 他方軽い窃盗の教唆に止まった場合は一〇年以下の懲役をもって処罰せられるという、刑適用上の濫用防止というに ︵io︶ はあまりにも刑の権衡を失した結論たらざるを得ず、かつて﹁国防保安法の如きが、何が故に、教唆の未遂を犯罪自 ︵旦︶ 体の未遂よりも遙かに軽く処罰するを必要とするか又それが何故に妥当であり得たのか﹂という草野判事の批判にも、 応えることができないであろう. 加えて共犯独立性説を主張される牧野博士が.教唆の未遂に関する特馴規定は幅 ﹁教唆の事実だけが証明せられつ つ隔その最後の意思すなわち犯罪の結果に対する認識の証明せられない場合に適用を見るものと考える﹂とせられる ︵捻︶ 見解は、共犯独立性説においてはむしろ、教唆者における﹁犯罪の結果に対する認識の証明せられない場合﹂には、 教唆の未遂が成立しないと解すべきが論理的であると考えられてから.これも疑問があるといわねばならぬであろ 船・) 以上の検討を通して、われわれは理論的にも、叉実定法の解釈として、現行刑法が共犯従属性説に立脚していると 考えることが合理的、且つ妥当な見解であることを明らかにし得たと思う。 ︵1︶ 団藤重光﹁前掲書﹂二八三頁以下、同旨、小野溝皿郎﹁前掲書﹂二〇二頁以下、福田平﹁前掲書﹂二〇二頁以下など ︵2︶ 佐伯千劔﹁前掲書﹂三二五頁以下。 ︵3︶ 佐伯教授が﹁正犯が予備の程度の行為しか行わなかったとぎにも、彼を教唆した者には教唆犯の規定が適用されねば ならないーし ︵筆老傍点狂参照︶ということにおいては、次の点について疑問がある。すなわち教授の見解では、共犯が成立をするためには正犯の行為は実行行為たることを必ずしも要せず、単なる予備でもよいとすなら、その前提と して教授が共犯は他人の単純な違法行為を利用することによっても成立するという点と矛盾しないかということであ る。 ︵4︶ このことを明確に指摘するのは木村亀二﹁前掲書﹂二〇照頁以下である。 ︵5︶ ﹁中川教授編第七六議会新法令解説﹂二九八頁参照、尚木村亀二﹁前掲基本概念﹂三三五頁参照。 ︵6︶ 団藤重光﹁国防保安法の若干の検討﹂法律時報二二巻五号四頁以下。 ︵7︶ 木村亀二﹁前掲基本概念﹂三三五頁。 ︵8︶ 木村亀二﹁前掲基本概念﹂三四九頁。 ︵9︶ 木村亀二﹁前掲新構造﹂一二五頁以下。 ︵10︶ 大谷英一﹁前掲論文﹂二二三頁以下。 ︵n︶草野豹一郎﹁刑事法学の諸間題﹂一巻一九八頁。 六 む す び 以上考察して来たことを簡単に総括してみると、次の如くになる。 ﹁教唆の未遂﹂の可罰性の問題は、 ﹁共犯の従属性﹂の問題と本質的に関わっている。その故に、 ﹁共犯の従属 性﹂という問題は、現行刑法上の全体系と、実定法上の根拠を離れて抽象的に論ずることができず、われわれはその 基礎を規範的責任論の是認ということに求めたわけである。しかもそのことは正犯と共犯の区別の基準ということに 教唆の未遂 七五