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スピノザの真理論におけるdenominatioはデカルト的か? (村上勝三教授退職記念号) 利用統計を見る

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(1)

スピノザの真理論におけるdenominatioはデカルト

的か? (村上勝三教授退職記念号)

著者

大野 岳史

雑誌名

白山哲学 : 東洋大学文学部紀要 哲学科篇

49

ページ

65-85

発行年

2015-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007221/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

(2)

スピノザの真理論における己

2

5

5

宮山昨日。はデカルト的か?

はじめに 認識の観点から真理論を考えるのであれば 、ど のように真理を探究するの かだけで なく、どのような場合 に 虚偽に 陥るのかを検討することも射程に入れなければならない 。 つ ま り、真と偽の識 別 方法を明らかにする こ と は 、 真 理認 識への到達に と って避 けて 通れない過程である 。 実 際、私たちは虚偽に陥り 間 違いに気 付 かない ままであ る ことを 経 験 し て お り 、 そ の た め 、 ︿ 真 で ある ﹀ と確認する術として 真 と偽の識別方法を知ることが、 真 理探究に寄与すること は 明 らかである。 と こ ろ で 、 デカル トとスピノザに おける真偽の識別についての理路は、色合

5

S

E

a

- c

によ って整理 されることにな る 。 つまり、この概念を通して、虚偽を避けながら真一理探究を進める可能性が聞かれるのである 。 そ れ ゆ え 、 真 理探究を検討するための 一 つのファクタ ー と し て、含

5

5

Z

白色。を挙げることができるだろう。 ところが、デカル ト とスピノザによる巳

g

B

F

E

巴 C という語について、これまで 主題 化 されることはあ まりなか っ た 。 こ の語はそ れほど 多用されていないため、厳密 に 精査しないまま理解 しても問 題ない、と考えられてい たのだ ろう 。

(3)

それにもかかわらず本稿でこの語を取り上げるのは、デカルトやスピノザの真理認識の特殊性を、 スコラ哲学から受 け継いでいる概念をもとに明らかにするためである 。 おおむね号

B

E

E

t

c

は﹁内的

(

E

E

ロ 月

g

)

﹂ であるものと ﹁ 外 的

(

2

E

E

宮 内 山 ) ﹂ であるものに分けられるのだが、それぞれの号ロ。

BE

白 巴 。 の 理 解 は 哲 学 者によ っ て異なる 。 ス コ -フ 学 者たち、デカル ト 、 そしてスピノザの号 口 。

BE

c 、どのように配置することができるのか 。 そしてそのことが どのように認識論を変えていくのか 。 このことを考察する足がかりとして、本稿ではデカルトとスピノザにおける 号 ロ 。

BEE

。 の 使 用 と 真 理認識論を整理することを目的とする 。 予備的考察 具体的にデカ ル ト やスピノザにおいて、どのようにして仏ゆ ロ 。

BE

色。が用いられ るのかを見る前に、 この概念が 意 味 表示 している内容を簡単に確認しておこう 。 スピノザの邦訳では、 ﹁名称 ﹁ 命 名 ﹂ ﹁ 特徴﹂などと訳し分けられ ている 。 ﹁ 名称 ﹂ という訳は

5

5

2

にも適用されうる訳語であり、文 字 で 表 されているいわば記号を 意 味している 。 そして ﹁ 特徴 ﹂ とは、その名称が合 意 している内容を指す場 合 の訳語であろう 。 最後に、名称によ っ て何らかの内容 を指示する作用として、﹁命名 ﹂ と い う 訳 語 を 考 え る こ と が で き る 。 したが っ て 、 訳 語 か ら 推 察 す る な ら ば 、 己

B

o

g

-E

E

が認識論にお いて活用される語である ことは明 らかである 。 認識されるものを表示する記号と、認識さ れるものが有する内容、そして記号による内容の表示作用、こうしたものの連関が、円同

S O

B

-E -E

o

に集約されること になる 。 おそらく、十七世紀における号

E

EE

己 。 が 哲 学 の文脈でこれらの意味表示を含んでいると考えることは、 それほ ど的外れではない 。 つまり、これらの訳 語 が用いられることには相応の根拠がある 。 少なくとも、ゴクレ ニ ウ ス の ﹃ 折 口

(4)

で は 、 門

H S

O B

- E

t c

が﹁他のものから導き出される名称

(

5

5

8

与 丘 一 C 仏止日吉ヨこと﹁命名の作用

(

R

E

E

P

S

E

E

E

-ご と に 大 別 さ れ る 。 しかしながら、名称と作用、さらには特触をも意味表示することだけを指摘する 学辞 典 ﹂ のであれば、帰結されることは号

5

2

5

丘一。という語の意味表示範囲が広いことだけで、帝

E

B

E

丘 一

c

という語に含ま れる認識論における本質的な内容に差し迫ったことにはならない 。 しかし、山内志朗が﹁現代の人々は外的名称規定 に苦労してしまう﹂と看倣しているとおり、

P

E

E

-E

H

Z

という語の内実を厳密な仕方で理解することは、困難であ ろう 。 と り わ け 、

(

-2

0

5

E

由民。の訳語を使い分けることに慣れ、文脈毎に意味を限定することに慣れてしまっては、 あたかも別のものを同一の記号で表すような事態になってしまう 。 前述のように、

r

g

E

E

t

c

には、認識の対象を 表示する名称ないし記号 、対象の内存、そして名称によ って対象を表一不する作 用が合 意されている 。 これらが集約さ れ一体となるところに、内庁

g

E

E

g

の認識論における役割があるのではないだろうか 。 ゴクレニウスは、主語と述語、キリスト教に関わる問題としては、 さらに詳細に議論を展開するのだが、デカルト やスピノザにおいてこのような問題が焦点となることはほとんどないためここでは論じない 。 本稿の目的は、テカル トとスピノザによる門

- S

O B

- E

巴。という語の使用を整理することであり、 そのときに問題となるのが、真理探究なの である 。 デカルトにおける

a

o

コ 0 3 5 忠 一 。 ジルソンによれば、デカルトにおける号

E

B

E

白 色 。 と い う 語 の 使 用 は 、 ﹃ 省僚とにおいては﹁第六省察﹂のみで 、 ﹁ 答 弁﹂を含めるのであれば﹁第 一 答弁﹂と﹁第五答弁 ﹂ 、 ﹃ 哲学の原理 ﹄ においては第四部 二 九節のみ、﹁書簡 ﹂にお い て も 一 六四九年四月一五日のモルス宛書簡のみと、非常に限られている。これらの中でも﹁第六省察﹂と﹁第 一 答 弁 ﹂

(5)

で は 、 母 口 。

E

E

E

。が議論の枢軸を担っている 。 そこで、本稿ではとりわけこれら二箇所を注視しよう 。 ﹁ 第 六 省 察 ﹂ ﹁ 第 六 省 察 ﹂ は心身の 実 象的区別や物体の 実 在証明など、 い く つ かの 重要 な問題を 含 んでいる 。 その中で 門 戸

S O

B

-E C

C

概念は、心身合 一 体の自然 ( 本性 ) が 主 題化されている場面で用いられている 。 人間の自然は全知ではなく、何らかの限界を含んでいる 。 そのため、人聞が自らの自然にしたがうことで誤る場合、 つまり自分に害を与える場合がある 。 デカルトは、水腫病(﹃三

5

古田)に侵された人聞を例示している 。 具 体 的 に は 、 健康な人間にとって喉が渇いたときに水分を摂取することは必要なことだが 、 水分摂取によって病状が悪 化 するとい う場合である 。 健康な人間であれ、病 気 の人間であれ、デカルトにと っ て神の被造物であることに変わりはない 。 し た が っ て、水臆病の人聞が自らの自然によ っ て水分を求めるのであれば、人間は神から 与 えられた 自 然によ っ て 誤 り に 陥 っ ていることになる 。 ここでデカルトは、人聞を時計のようなある種の機械と 看 倣 し た 上 で 、 合 一 体の﹁ 自 然﹂が 二 通りの仕方で呼称さ れていることを提示する 。 一 つは、健康であろうと水腫病に侵されていようと、喉が渇いたときには水分を摂取する ように動かされるということは自然なことである、という場合である 。 このことは、時計が壊れていようと正常に時 を刻もうと、自然の法則にしたがっていることに変わりないのと同様である 内 刊 ﹀ 叶

-g

-∞ 仏 ) 。 もう 一 つは、水腫病の 人聞が ﹁ 自らの自然から逸脱している

2

5

E

E

E

白 色 色

2

R

3

)

﹂( ﹀ 吋 ・ 戸 虫 ) と考える場 合 である 。 この場合、時計 の自然は﹁時 計 の予め考えられていた用途 ( 胃

R

g

D

2

5

2

2

-。 官

5

Z

) ﹂にと っ て 有 益であるものとして、人間 の自然は﹁ 自 らの維持 ( ぢ 巴

5

8

ロ 的 巾 ﹃ ︿ 白 色 。 ) ﹂ に と っ て 有 誌であ る も の と し て 、 考 えられてい る 。 後 者 における ﹁ 自 然 ﹂

(6)

という呼称は、壊れた時計を正常な時計の観念と対比し、水腫病の人間を健康な人間の観念と対比することで可能と な る 。 この対比は﹁私﹂が行うものであり、 それゆえ、後者の﹁自然﹂という呼称は﹁私の思惟からの号

B

E

E

t

c

﹂ に他ならない 。 同 時 に 、 それは当該の事物 ( 壊れた時計と水腫病の人間) についての外的号口。

BE

色。に過ぎない 。 これに対して、前者の自然は﹁諸事物において実際に見出される何ものか﹂であり、 ﹁ ある程度は真理をもっている﹂ 0 ここで後者の﹁自然 ﹂ は、当該の事物そのものから命名されたものではなく、別のものとの対比で命名されている。 これに対して、前者の ﹁ 自然﹂は当該の 事 物そのものにおいて見出されるものを表示している 。 た だ し 、 ﹁ 純粋な 与 の 口 。 ョ 一 ECC ではなく、自然の真の誤りである﹂ 。 ここで﹁純粋な己

g

c

B

E

色 。 ﹂ とは、どのようなことを意味してい るのだろうか 。 デカルトは続けて、 ﹁ このように捉えられた自然が欺くものである﹂ことが神の 菩 性によって妨げら れないことが、探求すべきこととして残されていると語る 。 そして結局のところ、 ﹁ 神の広大無辺な善性にもかかわ らず、精神と身体から複合されているものとしての人間の自然が、時として欺くものでしかありえない﹂(﹀吋 J

∞ ∞ ) ことが導出される 。 つまり、複合体としての人聞が、その白然本性からして誤りに陥ることは、神の 善 性と矛盾 し な い 。 このことから、次のように推測することができるだろう 。 すなわち健康な人間と水腫病の人聞が喉の渇きを 感じた場合、どちらも自らの自然から水分の摂取を求めることにおいて、﹁自然﹂は単にその語が有する意味を表示 するものとして命名されているだけではなく、それによって人聞が誤りに陥ることを合意している、ということであ る つまり、誤りが属しているものとして﹁自然﹂と呼称されており、もし人聞が自然に誤りに陥ることを理解して いないのであれば、この意味での﹁自然﹂という己

g

。ヨ宮主。はありえないことになるだろう 。

(7)

﹁ 持 弟 一 公 ロ ハ 弁 ﹂ ﹁ 第 一 答 弁 ﹂ で は 、 カテルスによる反論に出てくる号

555

丘一。に関連して、観念と号

B

E

E

t

。 の 差異 が示されて い る 。 議論の焦 点は、デカルトが ﹁ 第 三 省 察 ﹂ において、観念を﹁知性のうちに対象的にあるかぎりでの思惟された 事 物 ﹂ と 看 倣していることにある 。 他 方 、 カテルスにと っ て﹁知性のうちに対象的にある﹂ことは ﹁ 知性の作用を対 象という仕方で限定することであり、単なる 外 的 門 日 B O B -口 氏 - o に 過 ぎない ﹂( ﹀什戸

5

N

)

そ の た め 、 カテルスは ﹁ 知 性のうちに対象的にある ﹂ ものは 事 物ではないと結論する 。 しかしデカルトによれば、 カテルスは思考の外部に在る 対象としての事物に注視しするあまり、デカルトが﹁知性のうちに対象的にある﹂と語っているものが﹁観念公骨白)﹂ で あ る ことを見失 っている 。 確かに、知性のうちに対象的にある観念は、観念の対象である 事 物の観点か aり す れ ば 、 外的常

g

E

s

z

c

に他ならない 。 しかしデカルトにおいて強調 されているの は、観念が ﹁知性のうちに 対象的にある ﹂ こと自体であ っ て、観念とその対象の関係について 語ら れ ているわ けではない 。 ﹁ 知 性 のうちに対象的 にあ る ﹂かぎ りでのみ、観念は﹁事物である﹂と諮られているのである 。 も し 、 カテルスが 事 物を知性 の 外で存在するものに限定しているのであれば、 ﹁ 知性のうちに対象的にある ﹂ こ と 自 体 が 、 事 物でないことを根拠 づ け る ことにな ってしまう 。 したがって、﹁知性のうちに対象的にある﹂ことのみか ら事物では ないと帰結することを、誤りであると 一 不 すこと で 、 カテルスに対する答弁は十分なものとなるだろう 。 そ のためには、知性の外部に存在する物事だけに注視すべきではなく、また観念そのものから注意を逸らすべきではな し、

カテルスのように、﹁知性のうちに対象的にある﹂ことを外的号

E

B

E

巳 芯 と 看 倣すのであれば、観念についても、 それが 外的

P

E

E

s

t

o

に 過 ぎず 、 事 物ではありえないと 考える ことができるかもしれない 。 しかし、デカルトは ﹁ 知

(8)

性のうちに対象的にある ﹂ こ と を 、 二 通りの仕方で捉えている 。 イ〉 は カテルスと同様に、 ﹁ 知性の作用を対象と いう仕方で限定することであり、単なる外的号

5

5

5

忠 一 c に過ぎない﹂と考える場合であり、この場合にかぎれば、 カテルスの 反 論を 受 け入れるしかない 。 もう 一 つ は 、 ﹁ 知性のうちに対象的にある ﹂ が﹁知性の対象が通常ある仕方 で知性のうちにある ﹂ ことを意味する場 合 で、デカルトは観念の存在様相をこちらの意味で捉えている。例えば、﹁太 防の観念は、なるほど、太陽が空において在るように形相的にではなく、対象的に、すなわち対象が通常知性のうち にある仕方で、知性のうちに 実 在する太陽そのものである﹂(﹀

H

g

W

E

N

t

-c

ω

)

。 つまり、太陽の観念と 実 際 の 太 陽 は 、 別 の 仕方で 存 在しているのだが、太陽の観念も ﹁ まったくの無ではない﹂ ( ﹀ 叶 ・戸呂ω ) こ の 意 味で、太陽の観念は ﹁ 思 惟された 事 物 ﹂ と 言 え る の で あ る 。 以上のよ、つに、デカルトにおける号

D

O

E

-E

t

。は、﹁知性のうちに対象的にある ﹂ ことでありながらも、 主 として﹁外 的

(

2E

ロ ∞

2

E

)

﹂ なものであ っ た c そしてその 意 味表 示 していることは、知性の対象に適用される名称そのものでも 、 知性の対象に内在する特性そのものでもない 。 むしろ知性とその対象との関係を指示しており、名称や特性が合意さ れているとしても、副次的なものに過ぎないであろう 。 ま た 、 ﹁ 知性の作用を対象という仕方で限定する ﹂ という表 現はカテルスによる 反 論から取り出されたものであるとはいえ、知性の対象そのものを 表 示する思惟の様態(観念) と は 異 なると 考 えることができよう 。 ﹁ 一 答弁﹂における帝

g

ヨ吉色。は、﹁第六答弁﹂におけるほどの重要性を 有 していない 。 むしろ﹁知性のうちに 対象的にある ﹂ ことを外的母

g

E

E

z

o

として捉えることで、知性の外に 存在 する (であろう ) 何らかの 事 物 ( 知性 の対象 ) に注視することになり、デカルトの観念論から逸脱してしまうことが 一 不されている 。 逆に言えば、このこと

(9)

がデカルト哲学において ﹁ 命名 (

g

c

E

E

E

C

)

﹂ が問題とされないことを根拠づけて いるのかもし れない 。 というの も 、 ﹁ 省察 ﹄ に顕著なように、デカルトは神や物体といった ﹁ 私 の 外 ﹂ に実在するものの証明を慎 重 に行い、﹁私 ﹂ と ﹁ 私の外﹂を安易に結び 付け てはないからである 。 知 性の作用と 外的 事 物との関係、すなわち外的号

g

EE

ま が認識 の 真 理性を保証 しう ると雌証されることがないまま、観念論に外的事物を導入するのであれば、デカル ト 哲学の基盤 としての観念論はその 堅 田さを 失 うだろう 。 外的 事 物との関係を前提に用いられる外的号

gEE

吾の理説は、不確 実性を 伴うものであ るため 、 デ カ ル ト 哲学 が展開するため の基盤 になるものではない のである 。 デカルトにとって、 事物が事物として認められるためには、認識され、あるいはその認識に基づいて名称が与えられるだけでは 十分で は な い 。 むしろ、認識作用に基づく観念の対象的存在に、 ﹁ ま ったくの無 ﹂ ではないものとして、 ﹁ 事 物である ﹂ ことが 認められる 。 このことは 主 観性の哲 学 の 起点と捉えられるかもしれないが、むしろ 真理の探 求における確実性を希求 した結果と考えるべきだ ろう 。 第三節 スピノザにおける

a

o

コ O ヨ ヨ 忠 一 。 スピノザにお いても、号ロ

0

5

-E

巴 。 が 明 ら か に 主題となっている箇 所はない 。 こ こ ではいくつかの観点 に分けて 論 じ る 。 すなわち、第一に

{

U

S

E

s

t

。の存在論的身分について、第二に神認識における号ロ。邑丘一。について、最後に 真理認識における骨口。

EEg

について、順に吟味する 。

母 コ

O ヨ 525 の存在論的身分 スピノザによるデカル ト 科 学 の講義内符が記されている ﹃デカル ト の哲学の原則 ﹄ で は 、 ︻

U D

o s

- E

t c

が問 題とな

(10)

ることはまったくない 。 しかし、他の著作に限を向ければ、 スピノザがデカ ルトにおける仏

2

0

5

色 。 の 使 用 に 注意を 向けていた形跡がいくらか見受けられる 。 例 え ば 、 ﹃ 形而上学的思想 ﹂ 第 一 部第 三 章では、変状を規定するにあたり、 変状を ﹁ いかなる存在するものの変状でもない号

E

E

E

t

o

か ら分離するよう努める﹂ ( h z

FEC) と述べている 。 ス ピ ノ ザ 折 口 川 了 に お い て 、 ﹁ 変 状 ( え 貯

a

o

)

﹂ とは ﹁ 様態

(

E

C

E

) に他ならない 。 したが っ て 、 変 状 と 円 同

E

o

s

-E

巳 。 を 分けて捉えようとすることは、デカルトが ︻ ︼

E

o

s

-E

t

。 と 思 惟の様態と区別していたことと 一 致する 。 つまり、デカ ル ト と ス ピ ノ ザ は 、 と も に 仏 巾 ロ 。

55

色。が変状であることを否定している 。 デカルトによれば、母

E

B

5

o が ﹁ 知性のうちに対象的にある ﹂ のとは異なる仕方で、思惟の様態である観念が﹁知 性のうちに対象的にある﹂ 。 また観念が﹁まったくの無﹂ ではない何らかの事物であることが強調され 、 そ れ ゆ え 、 号 コ 。

B

-E

Z

c

はあたかもは介在するもののうちに分類されないかのような仕方で、議論が進められている 。 もし 1伝 而 ト 学 的思想 ﹂ に お い て も 、 ﹃ エ チ カ ﹂ の存在論を適用することができるのであれば、号

8

5

吉 田きは存在するものの うちに分類されえないだろう 。 と い う の も 、 ﹃ エ チ カ ﹄ において存在するものは 実 体か様態かであり、 実 体は神以外 にありえず、また ﹃ 形而上 学 的思想 ﹄ 第 一 部第 三 章 に よ り 、 門

- g

E

E

t

。 は 様態でもありえないからである 。 しかし ながら、もし骨 ロ 。 ヨ 吉 田 己 O を ﹁ 名称 ﹂ として捉えるのであれば、 スピノザが﹁ 言 葉上の存在するもの ( 巾 ロ ∞ ︿ ゆ ﹁

σ

白 - ゆ ) ﹂ と呼ぶものに該当するかもしれない 。 スピノザが 一 言葉上の有在するものと して例 示しているものは、キマエラや 四角 い円のように知性のうちにも想像のうちにもなく、 言 葉でのみ表現されうるものである 。 すなわち、言葉上の存在す るものは、﹁存在するもの

(

g

) ﹂と呼称されるにもかかわらず、存在しない。したがって号

D

O

E

-E

t

c

が 言 葉上の存 在 す る も の で あ れ ば 、 ( 一 巾

5

5

5

E

も存在しないものと 看 倣すべきだろう 。 と こ ろ で 、 言 葉上の存在するものは、 や は り 己

g

E

S

Z

。 と 親和性が 高 く 、 例 え ば 、 言 葉

k

の存在するものの 一 つである ﹁ 不可能性

(

5

g

F

E

E

S

凹 ) ﹂ に つ い

(11)

ては、﹁存在するものの変状のうちに数え上 げること ができない﹂とされている 。 つまり、不 可 能 性 は 門

F

E

E

s

t

。 と 同様に、変状であることを 否定されているのである 。 さ ら に 、 ﹁ 可能的と偶然的﹂も 事 物の変状ではなく、﹁我々の知 性の欠陥 ﹂ と考えられる 。 再度こ こでの問題に 立ち 返るのであれば、次のようにまとめなければならない 。 すなわち、デカルトとスピノザに おける 号

525

色。は変状 ( 様 態 ) ではないばかりか、存在するものでさえない 。言 い換えれば、デカルトとスピノ ザ は 、 と も に ︻ 同

S

O

B

-E

O

に対して存在論的身分を認めなか っ た の で あ る 。 した がってスピノザとデカル トの存在 論 に お い て 、 骨

555

色 。 は 考察の対象から 外されるべ きであり、も し存 在 論 に 仏

S

O

B

-E

E

O

を持ち 出す者がいるとした ら、その人は誤謬に陥っていることだろう 。 な ぜな ら、存在しないものを存在するものと し て論じている こ と になる からである 。 こ の よ う に 牛

B

0

5

5

。 は 認識の真偽に関わるのだが 、これについては後述することになる 。 神の特性と超越的規定としての外的号コ O

O ﹃ 神、人間および人間の 幸 福に関する短論文 ﹄ では、神の属性と特性が区 別 され、神の特性は外的 号

EBE

同 氏 。 であ ( 久同三 ¥N

・ 。

-FN 吋 ) スピノザにおいて神の属性とは 無限 に多くあるのだが、人 間 には思惟と延 長 以外の属性を把握することができない 。 そして、思惟と延 長 以外に神に帰せられるものすべてが、神の特性として ると捉えられている の外的 門

F

E

E

-E

E

。 で ある 。 例えば、﹁神は自己から存在する、永遠である、唯一である、不変である﹂などが挙げら れ る 。 属性と特 性の 差異 は、神の本質を構成するかどうかの 差 異でもある 。 すなわち 、 神の特性ではなく 、神 の本質 を構成する属性によ っ てこそ、神が何であるかを認識することが可能となる 。 外的 門

- S

O B

- E

C

。 が本質ではありえな いことについては、 ﹃ 知性改 善 論 ﹄ や ﹃ 形而 上学 的思想 ﹂ でも確認することができる 。 すなわちスピノザにと っ て 、

(12)

外 的 門

r

D

O

E

S

円 一 c は ﹁ 事 物の内的本質とはまったくかけ離れている﹂(同開 H O --

- P

ω

。)ものであり、﹁修辞的にのみ 事物に与えられる﹂

(

n

z

g

ゅ の -F N品 。 ) 。 ス ピ ノ ザ は 外 的 門

F

E

E

-E

t

c

が事物そのものを表示しないことを、常に念頭に おいていたのだろう。 神の唯一性については、 ﹃ 形而上学的思想 ﹂ 第 二 巻第 二 章 で も 、 著 作家たちが﹁外的関係や

(

-S O

B

-E

色 。 か ら ﹂ 論 拠 を引き出していると考えられている 。 そ の た め 、 スピノザは神の唯 一 性を ﹁ できるだけ簡単明瞭に﹂述べるようにし て い る 。 こ の こ と か ら 、 外 的 号 ロ ヨ 一 口 問 巴 C に基づく事柄は、 スピノザにとってそれほど重要ではない、あるいは確固と した立論にならないと考えられていることは明らかである 。 また先に外的

(

-2

0

E

E

色。が﹁修辞的にのみ事物に与え 葉である 。 られる ﹂ ことを 一不したが、ここでスピノザが外的︻凶

2

0

2

5

︼ 氏 。 と し て挙げているのは、﹁ 真 ﹂ あるいは﹁偽 ﹂ という 言 つ ま り 、 ﹁ 真 ﹂ という超越的規定 ( 円

q

2

5

5

可 吉 田

2

E

S

E

-凹) で さ え 、 事 物 の 外 的 門

F

E

E

-E

晋に過ぎな いと考えられている。 ま た 、 スピノザは相対的に捉えられるものを号

525

巳芯と呼ぶことがある 。 例えば、﹁完全や不完全も、美や醜と い う

(

-B o

g

-s c

c

とほとんど同じような己

3

0

5

5

色 。 で す ﹂( 何 回

) - z

N ) と 言 われる 。 し た が っ て 、 ﹁ 形 而 上 学 的思想 ﹄ で外的号

5

5

5

即 位 。 であると看倣された神の唯 一 性についても、相対的に捉えられていると考えるべきであ ろ 、 っ 。 つまり、神の唯一性は、複数性と対比されることで 示 される 。 ﹁ エ チ カ ﹄ では、神の唯一性は第 一 部定理 一 四 系で証明されているが、この系は定理一四から直接的に導出されている。 つまり、﹁神以外に実体はありえない﹂ 円 山 H H V H 品 川 ) ということは、 ﹁ 神が唯一である ( 己

E2

回 ) ﹂ ことに他ならない 。 こ の よ う に 、 ﹃ エ チ カ ﹄ では、﹁実体が複 数ではありえない ﹂ という 否定 命題が証明され、 その上で﹁唯 一 である﹂という。

2

0

5

古 田 氏 。 が 一不される、という論 証の順序になっている 。 したがって、定理で 一 不されているのは事柄であり、系で 一不されているのは 事 柄についての

(13)

︻ 同 巾 ロ

O

B

E

白 色 。 で あ る 。 スピノザにと っ て ﹁ 唯 一 性 ﹂ は 仏

2

0

5

5

邑 。 に 過ぎないとはいえ、論証にと っ て、あるいは理解 を容易にするためには有話であり、系として示すための十分な理由はあると 言 えよう 。 しかしながら、神の唯 一 性を 肯定的かつ積極的に主張しているというより、神の複数性を否定するという消極的な理解を先立たせていることは 、 スピノザ哲 学全 体において 重 要な意味をもちうる 。 つ まりスピノザの ﹁ 神 ﹂ 論 は 、 いくつかの箇所で否定神学の体裁 をとっている、ということである 。 もし肯定的に語られることがすべて外的色

2

5

5

5

邑。に過ぎないのであれば、積 極的な仕方で 神を理解 することができないという ことになる 。 も ち ろ ん 、 スピノザは 神 を 肯定 的な仕方で定 義 してお り、スピノザの﹁神﹂論全体が否定 神 学であるとは 言 えない 。 むしろ、神の定義で示されている肯定的な規定の内実 を把握し、外的

r

E

S

S

E

-o

に過ぎないものと区別する必要があるだろう 。 この問題は、本稿の 主 題から離れている ため、ここでは外的 ︻

H

S

O

B

-E

巴 。 に 頼 っ た ﹁ 神 ﹂論 が 、 一 見肯定的な語り方になっているとしても、否定神学の枠内 に回収されうることを指摘するに止めよう 。 真理の徴表としての内的♀ 0 コ O ヨ 一 コ 包 一 O 認識に関する議論において、スピノザは 真 理認識について語る中で、仏

g

BE

白 巴 。 と いう語を用いている 。 す な わ ち 、 スピノザは ﹃ エチカ ﹂ で﹁十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察されるかぎり、真の観念のすべて の特性 ( 胃 。 ℃ ﹁ 庁 宮 序 回 ) な い し 内 的 門 ︼

B O

B

-s z

c

を有する観念のことである ﹂( 尽 り えとと定義する 。 こ の 箇 所 は 、 チ ルンハルス宛の ﹁ 書 簡六

O

﹂ に よ っ て補足されている 。 す な わ ち 、 真 の観念と十全な観念の聞には、﹁外的関係 ( ﹁ 色 。

2

E

5

2

) を除けばどんな差異もない﹂(何

E

O

・ C

・ - ア

C ) 0 この外的関係による 差異 と は 、 ﹁ 真 ﹂とい う 言葉が 観念 と矧念の対象の 一 致を表示し、﹁十全﹂という 言 葉 が観念そのものの本性を 表示 している、ということであ る 。 そ の

(14)

た め 、 ﹁ 書 簡 六

O

﹂を典拠として、 真 の観念と十 全 な観念との関係は、 ﹁ 同 一 の観念である ﹂ 、あるいはこれらの聞に ﹁ 実 質的な差異はない﹂、などと解釈される 。 真 の観念が十 全 な観念と比較された場合、外的

(

-S

O

B

E

R

-c

ないし関係による 差異 が見出されたのだが、 ﹃ エ チ カ ﹂ では別のものが外的号口。

BZ

丘 一 。 に よ っ て 区 別 さ れ る 。 す な わ ち 、 ﹃ エ チ カ ﹄ で 外 的 号 ロ 。

B

-E

巴。によって区別される も の は 、 真 の観念と偽の観念である ( 久何

N E

ω ω

) C

さ ら に 、 真 の観念と偽の観念との関連では、 ﹃ 知性改 善 論 ﹄ が 奥 なる内容を示している 。 すなわち真の思惟と偽の思惟が内的

P

E

E

-E

巴。によって区別される 。 ﹃ エチカ﹄において真 の観念と偽の観念を区別する外的門

] B

O B

- E

巴。が具体的にどのようなことなのかは 一 ぶされていないのに対して、 ﹃ 知性 改 善 論 ﹄ では、内的

a

g

c

E

-E

E

による区別について、次のように例示される 。 ﹁もしある建築師がある建築物を秩序に基づき概念するなら、たとえそうした建築物がけっして存在しな か っ た、または 今 後も存在しないだろう場合でも、 やはりその思惟は真であり、 そしてその思惟は、建築物 が存在すると存在しないとによって変わりがない。これに反して、もし例えば、 ペテロが存在することも知 らないのにペテロが存在すると 言 う人がいるなら、そうした思惟はその人にと っ て 偽 で あ り 、 たとえベテロ が実際に存在していても真でないといってさしっかえない。そしてベテロが存在するというこの命題は、 ペ テロが存在することを確知している人にと っ てのみ 真 である o ﹂ ( 吋 胃

S

・ 。 - 一 民

)

対象を﹁秩序に基づき概念する ( 。 丘 宮 内 円 。 ロ 円

e

q

巾 ) ﹂ ことで思惟が 真 であることが認められ、無知であることにつ いて言明された場合、その思惟は偽と看倣される。したがって、 スピノザは思惟の真偽について、どちらの場合にお

(15)

い て も 、 実際 に思惟 の 対 象 が存在して い るかどうかを問題と し な い 。 真 の思惟についての 例 示 は 、 ﹁ 建築 物 ﹂という 物 の 思惟に つ いてのものだが、偽 の 思惟に つ い て は 、 ﹁ ペ テ ロ が存在 する ﹂という 事 柄 ( 命題 ) の思惟に つ いてのも の で あ り 、 比 較 と して適 切 ではないと考えら れ るかもしれない 。 し か し 、 ス ピノザは こ れらの 例 示から 、 ﹁ 観 念のう 内的号

525

色 。 は ﹁ 実 象 的なあるも の ( 白

-5

5

牛 耳 吾 川 である 。 また 、 ち に は 、 真 な る も のを偽なるから区 別 する 実 象的なあるも の が あ る ﹂ ( 叶 胃 弓 唱 。

-PN

G

)

と 帰結している 。 ﹁ 知性改 善 論 ﹄ では、思惟を観念と 言 い 換 え つ ま り 、 て い る 箇所がある ( 川 、

J

ω ・ の

-P

N

) したが っ て、思惟ないし観念のうちに 何 らかの 実 象的なものあるいは内的 号 ロ

O B

F

E

ぎ が あるこ とで、その 思 惟ない し観念 は真であり 、偽 の 思 惟と 区別 さ れ る 、 ということ に なる 。 以上 の こ と か ら 、 ﹃ エ チ カ ﹄ と ﹃ 知性改 善 論 ﹄ における ﹁ 真 の観念 ﹂ については、ある共通点を見出すことができる 。 すなわち 、 思惟ない し 観念 に おける内的 号

g

E

E

C

。とは、精神が秩序に 基 づ いて概念する こ とで形成される 実 象的な 何 も の か 、 と 言 えよう 。 第四節 観念の真偽と十全性 前節 で スピノザにおける号 ロ 。

E

E

t

o

の使用を、文脈にしたが っ て概観したのだが 、 とりわ け 真 偽と 門 日

2

0

5

5

丘 一

o

の 関 連については 、 いまだ整理さ れ ていない 。 む し ろ 、 ﹃ 形 而 上 学 的思想 ﹄ 、 ﹃ 知 性改善論 ﹄ 、 ﹁ エ チ カ ﹂ に お い て 、 真 の 観 念と偽の観念 、 そ し て 号 。

E

E

g

の関連は、錯綜 し ている よ うに思われる 。 それぞれの 内 容 を 整 理 し 、 スピノザに お け る真 理 の 探究と 己

g

BE

色 。 の 関 連 を 明 ら かにす る た め 、 ﹃ エ チ カ ﹄ の 真 即 日 論 を概指しているアルキエの解釈を 主 軸 と し て 、 考 察を進めてい こ う 。 ア ル キ エ に よ れ ば 、 ﹃ エ チ カ ﹄ における 真 理論に次の 三 つ の 本質 的 な 主 張 を 見出すことが で きが } 。 ( 二 真 埋 は 思惟

(16)

と事物との関係ではなく、思惟の内的帝

525

色。によって定義される 。 ( 二 )真理は 、 真の観念を 所有している 者が その真理性を疑いえないような、固有の痕跡であり 、 徴である 。

2

C

真理は 観 念と事物との 一 致 で あ る 。 このよ う に し て 、 ア ル キエは ﹃ エ チ カ ﹄ の 真 理論をこれら 三 つの主張で概括する、 つまりこれら 三 つ の 主 張 は 、 真 理の要件で あると 言 えよう 。 しかしアルキエは、 こ れら 三 つの要件がすべて同時に成 立 することは困難であると考えた 。 という のも、先行する 二 つの要件は、思惟ないし観念そのものに関わ っ ており 、 その外部を必要とすることなく成立するが、 それにもかかわらず、最後の 主 張において観念の外部に 言 及されるからであろう 。 しかしながら、 こ れ らの要件に矛 盾が合まれるとまでは考え難い 。 独立した 三 つの要件が提示されているだけで、 ( 一 ) が 成立するならば

) は 成 り立ちえない 、などと いうことはないからだ 。 と こ ろ で 、 ( 一 二 ) に つ い て は 、 ﹁ エ チ カ ﹄ 第 一 部公理六で 一 不されている 。 すなわち 、 ﹁ 真 の 観念はその対象と 一 致し なければならない ﹂( 巴﹀忌 ) こうした 真 の観念とその対象との関係を、外的 号 ロ

c

E

E

Z

C

と看倣すことができる 。 と い う の も 、 こ こ で観念と観念にと っ て外的なもの ( 対象 ) との関係が問題とな っ ているからである 。 したが っ て 、 山則 一 認 識 と ︻

] E

o s

- E

t

。 の関連について.苅ろうとするならば、内的 号

g

g

E

丘 一 。 が 用 い ら れ る ( ) と 、 外 的 斗 巾 口 。

BE

丘 一 。 を表示 し ている ( 三 ) に着

H

しなければならない 。 おそらく、( 三 ) は ﹃ エ チ カ ﹄ における真の観念と偽 の観念が外 的 ( H B O B -E E C によって区 別 される こ と と 、 直接 的 に関係している 。 つまり、真の観念と観念の 対 象との 関係は、偽の観念と観念の対象との関係は異なり、前者において観念とその対象は 一 致 し、後者では 一 致しない 。 観 念 の 外 部 に あ る 何 ら か の 対 象 が 、 観 念 と ど の よ う な 関 係 に あ る の か に よ っ て 差 異 が 生 ま れ る 。 つ ま り 外 的 号 ロ O B 一 口 出 巴 O に よ っ て区別するということは 、 関係の 差 以 ハを見出すことに 他 ならない 。 さらに 、 ﹁ 真 の観念と偽の観念 の 差 異 は 、 内 容や観念そのものの本性にはま っ たくなく、むしろこの外的 号

5

5

5

吾 に存する ﹂ とも考えられる 。

(17)

つ ま り 、 真 の観念と偽の観念が異なることにと っ て 、 その観念の内符は副次的な問題に過ぎない 。 観念とその対象の 号

5

5

-E

。 が 異なる ということは、 そ れぞれの観念 の 内 容 が 異なるこ とを 意 味するだ ろう 。 あるいはむしろ、観念 の内容が異なるからこそ、外的門

- E

o s

- s

z c

も異なる 。 もしこの点を強調するのであれば、﹃知性改善論﹂ で示された よ う に 、 真 の観念と偽の観念の 差異 は内的

(

-B O

B

-ロ由民。によって規定されたであろう 。言 い換えれば、観念されてい る内容によ っ て、それが 真 であるか偽であるかが決定される 。 しかし少なくとも、 ﹃ エチカ ﹄ ではそのような理路は 見出されない 。 観念における内的号

55E

丘一。の役割は、十全な観念であることを決定づけることにある 。 こ のことは、先述の ~司 コ ニ チ カ ﹄ における十全な観念の定義からも明らかである 。 それでは、観念の十全性を基礎づ け る 内 的 門

- B

O B

- E

o

とは 、 そもそもどのようなものであろうか 。 スピノザは十 全 な観念には、 真の 観念に 含 まれ るあらゆる 内 的 号

E

E

E

E

O

が あると 看 倣し、内的号

5

5

5

由 巳 。 を ﹁ 特性 ( 望 。 ℃ 立 巾 円 山 由 ) ﹂ と 言 い換え て いるのだが、この場合の特性はどのように理 解されるべきだろうか 。 ナドラーによれば、観念の真偽と十全性は、 それぞれ別の観点で考察されたものであり、す なわち、観念の 真 偽を 考察する場合 には観念とその対象 の 一 致が問題となり、観念の十全性を考察すると い うことは 観念そのものの ﹁ 内的特徴 ( 吉 区 日 一 三

252

)

﹂ を 考察する ことに他ならな ぺ 。 ここで ﹁ 内的特徴 ﹂ という 語に ど の ようなことが合意されているのかが明確にならないかぎり、内的門田

S O

B

-ロ由民。が何を意味するのかは不明瞭なままで ある 。 観 念 の 真 偽と十 全 性 が 、 それぞれ異なる観点に 基 づいていることが明らかにな っ ているに過ぎない 。 内的

(

-S O

B

-E Z

C

に つ いては、さらなる吟味が必 要 とされて い る 。 こ こ で は 、 二 つの可能性を提示しよう 。 第 一 に、内的号ロ

o

E

E

Z

o

は個々の観念のもつ内容であ っ て、観念の十 全 性は内 容の 十 全性を合意 している、と考えてみよう 。 この場合、観念の内容は観念の対象との関連が不可欠であり、

(18)

むしろ、観念の対象と一致する内容でなければ、観念の十全性は確保されない。したがって、内的母

g

s

z

色。が観 念の表示 内 容を意 味する のであれば、十全な観念と真の観念の関係は、 より密接なものとな る で あろう 。 これに対し て 、 内 的 号

555

色 。 が 意味 し ているのは、観念そのものの特性であると考える場合、もちろん観念の特性 と内 容は ま っ たく川県関係ではないが、ここでは観念にと っ て外的なものは考臆されていない、ということになる 。 したが っ て、外 的号

E

E

E

円 一 c は観念とその外 部 ( 対象 ) との関係を説明し 、 内 的 門 同

S O

B

-E -E

C

は観 念の内部に関 し て説明するという 点で、観念ないし知性の内と外を明確に分けていることになる 。 つまり 、観 念の十全性を説 明 する場合には観念の内 部という観点から、 真 偽を説明する場合には観念の外部という観点から、考察されている 。 ど ち ら で 理 解 す べ き か 、 直接 的 に結論で き る よ う な 根 拠 は な い だ ろ う 。 も し 前 者 の 見 解 を 採 用 す る ( 内 的 号 コ

0

5

-g

t

c

を観念の内容であると考える ) ならば、内的含きヨ百三一。が具体的にどのような名称を付与しているのか、 理解しやすくなる 。 つまり 、内的号

S

E

E

まは対象の特性を 表示する名 称を付 与するので あり、特性のすべてに応 じた内的号

E

E

E

z

o

を もつのであれば、観念は十 全 なものとなる 。 しかしながら、この場合には、﹁ 真の観 念﹂と ﹁ 十 全な観念 ﹂ という表現の 差 異は 何 ら ' 意 味をもたないだ ろう 。 というのも、 真 の観念と十全な観念は、どちらも対象と の 一 致する こ と で 、 そのように 呼 ばれることになるからである 。 他 方 、後 者のように理解する 内 的 門

-2

0

5

E

色 。 を 観 念そのもの の特性であると考える )なら ば、内的号

E

B

吉 良 一 o が 具 体的にどのような 名称を 付与するのかは判然と し ないが 、 ﹁ 内 的 ﹂ と ﹁ 外的 ﹂ の 対 比がより明確なものとな る 。 というのも、十全な観念であると認められるための 要件として内 的

( ]

B O

B

-E C

O

があ るのだが 、ここでは観 念の内部が 問題とされており、外部にある対象を考慮に入れ る必要がないからである 。 また ス ピノザにと っ て 真 理の特性の 一 つである ﹁ 確 実 性 ( 円

q

z

g

号 ) ﹂ や真理そのものを﹁事 物 自身のうち に探求す る ﹂ こ と は 、 誤りである と断定されている ( 久門冨声。 -FN 当 ) こ の ことは 、 ﹁ 真 ﹂という 言

(19)

葉が外 的 号

55E

丘 一 。に過ぎないのであれば 、 当然であろう 。 というのも 、観 念を真であると命名するの は 人 間 精神 であるのだから、命名の作用や命名する人間精神そのものにこそ、 真 理探究の可能性が聞かれている、と考えられる からだ 。 もちろん、観念が 真 であるためには、結 局 、対象との 一 致が求められるため、 スピノザの 真 理探究が 事 物そ のものからま っ たく離れてしま っ たわけではない 。 しかし 真 理探究の場は 事 物そのものではなく、 事 物と観念との関 係 ( 外的号

BEE

t o

)

と、観念そのものの特性(内的号

5

5

5

色 。 ) へと、移さなければならないのである 。 おわりに 本稿では 、 ︹

-S

O

B

-E

t

o

の訳語を決定する こ となしに、論考を進めてきた。とりわけ外的(凶

S

O

B

-E

巴 。 に つ い て は 、 たとえ ﹁ 名称﹂と訳すことで理解が容易になるとしても、やはり観念の外部 と の関係が含まれている表現であるため、 おそらくは﹁命名 ﹂ や﹁名称規定﹂などのように、 ﹁ 命名する作用﹂が合意される仕方で捉えられるべきだろう 。 こ のことは、とりわけデカルトの ﹁ 第 六 省 察 ﹂ に 顕 著 である 。 そ こ で は 、 ﹁ 自然 ( 本性 ご という呼称が、同種の 異 な る も の ( 例えば、壊れた時計と正常に働いている時 計 ) の対比で付 与 されることが示されていた 。 問題は名称そのもの ではなく、なぜ同 一 の名称を付与することができるのか、ということにある 。 確かにデカル ト とスピノ ザ の外的 号

5

5

5

についての見解は同じものと ニ一 一 つまり同種の異なるものへの命名は問題とされない 。 む し ろ 、 ﹁ 短論文 ﹄ や ﹃ 形而上学的思想 ﹂ で は 、 超越論的規定 や神の特性でさえ、外的号

5

2

5

R

5

という存在しないものであ っ た 。 もちろん 、 ここで外的号

5

55

色 。は名称のみ を 表 示しているのではなく、神そのものとは異なるもの、 つまり神ないし神の観念の外部との関係から 、 名称が付与 されていることも 表示 している 。 こうして、神に固有なものは属性に限定される 。 このことは、おそらく ﹃ 短論文 ﹄

(20)

や ﹃ 形而上学的思想﹄ から﹃エチカ ﹄ へと受け継がれているだろう 。 スピノザに固有な号

E

B

E

在 。 の 使 用 は 、 十 全な観念の定義にあるだろう 。 ここでスピノザは内的号

g

E

E

t

c

に言 及するのだが、これは真の観念が有する﹁特徴﹂として捉えられている 。 しかしながら、やはりこの号

B

B

E

色 。 に も 、 命名の作用が合意されていると考えるべきだろう 。 というのも、内的号ロ

c

E

E

巴 。 は 外 的 門 田

2

0

5

E

巳 5 との 差 異に基づ いてこそ卜分に理解されうるものであるからだ 。 つまり、﹁内的﹂と﹁外的﹂という表現の 差 異は、命名の根拠が知 性の内部にあるのか、外部にあるのかを 示 しているのである 。 外的

( ]

S O

B

-ロ丘一。を命名の作用として捉えるのであれば、 内 的 円 山

S

O

B

-E

巴。についても、同じように理解する必要がある 。 それでは内的号

5

5

一 口 氏 一 c は具体的にどのような名称を付与するのか 。 これについて、 二 つの可能性を提示するこ とにとどまり、 どちらの見解を採用すべきかについては、結論にはいたら、なかった 。 内的号

E

E

E

巴。が具体的にど のような名称を付与するのかを考慮しないのであれば、内的号

E

E

E

吾を観念そのものの特性と考えるのが適切で あり、本稿はこの立場で締め括ろう c というのも、 真 の観念と十全な観念は外的

r

B

E

E

t

c

が異なるため、観念の 内容としては同じであって、﹁外的 ﹂ と﹁内的﹂という異なる観点から考察されているに過ぎないからである 。 つ ま り 真 の観念と十全な観念の 差 異を決定づけるのは、 ﹁ 外的﹂と ﹁ 内的 ﹂ という異なる観点からの考察に他ならず、﹁外 的 ﹂ と ﹁ 内的 ﹂ という 事 柄がより明確に区別されなければならないからである 。 そ の た め に は 、 内 的 円 山

B O

B

-E t

o

を 観念そのものの特性と考える方が、整合的なのである 。 内的母

E

E

E

苦を観念の内容として捉えた場合には、どちらも観念とその対象の 一 致が焦点となり、 ﹁ 外的﹂と ﹁ 内 的 ﹂ という観点の差異は、 ほとんど見失われてしまう、だろう。もっぱら︻︼

g

c

B

E

白色。を外的関係として捉えていたデ カルトとは異なり、 スピノザは内的号

5

2

5

t

c

を通じて十全な観念と真の観念とを結びつけ、二つの側面から真理

(21)

認識のあり方を表わしたのである 。 凡 例 スピノザのテクストからの引川は印門 E E ω 宮 口

0

8

5

の略記訟に従う 。 デカルトのテクス ト は ア ダ ン ・ タ ヌ リ版 全集から引用し、巻数(ロ l マ数字)と頁数 ( アラビア数字 ) で表記する 。 ( 1 ) Q H N

。 。 円 一

g

-5

ト R E s h u p H 雪 之 さ き

-p

g

医 己 ﹁ ニ 色 ω ¥ 玄 RE ﹃ 同 5 5 ¥ O E

己 申 ∞

0 ・U 印。印 ( 2 ) 山内志朗 ﹃ ﹁ 誤 読 ﹂ の 哲 学 史 ド ウ ル 1 ズ、フ 1 コーから中世哲 学 へ ﹂ 青 土 社 、 二 O 一 一 一 一 年 、 二 四 七 頁 (3)Q -W C 辰 吉 司

E

K

m

H

E

D

E

R

2

日 ミ 室 町 戸 ︿ ユ

P N

o g

-甘

e g

( 4 ) 村上は、水脆病の人間が水分を求める似凶として、その人間の自然が類廃していることと、身体的機能不全の 二 つが仮説として提 一 不されており、神の善性を理由に、前者が否定される、と解釈している( ﹁ デカルト研究 3 感覚する人とその物理学﹄一九 二 一 九四貰参照 ) 。 本稿では、別の可能性を見据えて議論を進めている 。 すなわち、神の善性は人間の自然が人間を欺くことと ﹁ 矛盾す ると思われる( ︿EZRB 吉 岡 gZ ) ﹂ の だが、デカルトはそこに 矛 盾がないと帰結しているのではないだろうか 。 もちろん、人間の自 然 が ﹁ 類焼している

(

g

g

﹃ ﹃ 吾 吉 田 ) ﹂ ことが帰結されているわけではない 。 と い う の も 、

2

2

吾 宮 田 は ﹁ 堕 落 ﹂ や﹁腐敗﹂なと、本 来のあり N ' H 体が変 合 作 す る か 、 欠 常 治 す る こ と を 指 す の だ が 、 デ カ ル ト が そのような場 而を想 定していないことは明らかだからである 。 したが っ て 、もし 自 然の頒廃が認め ら れるのであれば、そのような人間は、喉が渇いても水分摂取に対する欲求を抱かないだろう 。 ( 5 ) デ カ ル ト は ﹁ 知性のうちに対象的にある ﹂ 観念、すなわち ﹁ 思惟の様態(ヨ邑 = ∞

g

間 一 窓 口 告 ) ﹂ で あ っ て も 、 ﹁ まったくの無 ﹂ではな く 事物であることを示した 。 他 方、デカル トにおける﹁知性のうちに対象的にある﹂外的母

E

E

E

E

D

は事物ではないだろう。 ( 6 ) 超越 的規定とは、﹁存在するということそれ自体に具わる特性であり、それゆえいかなる存在者にも、またいかなる存在犠式にも帰 印 刷 す る も の ﹂ ( ク ラ ウ ス ・ リ l ゼ ン フ l パ 1 ﹃ 凶洋古代 ・ 中世官学史 ﹂ 平凡社 、 二 OOO 年 、 二 九八頁)を意味する 。 と り わ け ﹁ 真 ﹂ 、 ﹁ 普 ﹂ 、 ﹁ 美 ﹂ を挙げることができるが、何が超越的規定であるかについては、スコラ学者ごとに異なる 。 ﹃ 形而上学的思想 ﹂ で は 、 ﹁ 真 ﹂ 、 ﹁ 善 ﹂ 、 ﹁ こ などが 挙 げ ら れている 。 ( 7 ) Q m 一 匡 門 ︼ E b -U S さ き ﹄ 伝 達 町 民 間 川 町 、 言 。 8 ・ 司 王 ・

5

戸 司 -N 広

(22)

(8)Qm ・2 白 ( 一

-R

e

s

a

S

H

E

a

h

送片足﹃さえ

§

S

2

・ 何 回B t

( - m 巾己門戸

2

2

2

q

p

巾 Z-Nccp 司

H

部 品

(

9

)

Q

K

E

三 郎

b

v

門 戸 七 N H N ( 凶 ) 朝 合友海﹃概念と個 別 性 ス ピ ノ ザ 哲 学研究﹄東信堂、 二 O ご 一 年 、 二 一 六 三 八頁参照 ( 日 ) Z 同門=巾﹁唱。もミ?七 H E H

(

)

Q

寄 与 一

R

♀ ・ 円 同 町 ニ

1

2

1

5

( ロ ) 外 的 ( U S E -口 白 巳 Cを存在するものであるかのように捉えることで、誤謬に陥るという考え方も、デカルトとスピノザは共有 し ている 。 このように、全般的に、スピノザとデカルトにおける巳

E

G

E

S

t

-についての見解は共通している箇所が多く、そのためか、スピノザ に お け る 門 一

B E

E

-=

g

はスコラ学のものではなく、デカルトのものと同じであると考えられている(久吋

En

室 町 田 主 主 吉 町 。 語 、 日 ミ

S

H

b

M

E

S

N

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E

5

5

=

E

=

m

2

=

FE

寄 c ヲ

n

g

Z E

E

-M c

-)

0

参照

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