南船北馬集 : 第三編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
12
ページ
451-592
発行年
1997-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002947/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja熊本縣紀行︵蓼 二 朋治四十一年三月廿日晴、熊本牒阿蕪郁馬見原旬を溌し、円車ピ聯うて渓行すろこと 四里、上往城郁積町に着す、途申吉田郡観學と挟を分つ、阿ゑ郡内に’.、Uに已客の日に 周れしは、蛋山の順恒、猫涼の石骨、商家の竹殿竿なう、午後東中川寺に於イM川脅す、常 狭くしイ.砲衆庭を堅す、宿所は按館なう、町家過牢昨年大火にか、ら、戸ぷ、参し、頻起 者は助役井手荘準、校畏高橋直記、野ロ吾市、既畏下田武二郎話氏反各宗与肖巴力り、ぷ 書記弁手正通氏來舎せらる、 二十一n晴、渡町を出つる慮曝布あ’、千瀧と名く、肚mなり、官く仙瀧と改ぴべし、 此漢聞海布多し、四十入瀧あ‘といム、午前中下磁城郡東杖川村⇔㌻杉、ろ、己上の所吟左 の如し、 一漢曲折水況浸、路過懸鰹飛据間、仰見天迎宙斯ー8、だ4色是克※山、 此提一泊渓深く山高く,京行危陰多し、但独ひ低允り仙挽に01たるあ︶、け場は正翻寺 にしイ、住鞍甘上胞徒、け艮光江鼎波等訣氏の預娼ヘへり、 廿二n︵n曜︶碑、西砿用村に移ろ、古場己小學校.宿所は善汕寺取⑲、憩衆内外に充 (巻頭) 明治42年1月25日 刊行年月日 底本:初版 4. 発行所 5. 修身教会拡張事務所 (タテ×ヨコ) 冊数 1冊 サイズ ・ 1 2. 188×127㎜ ページ 総数:134 3. :1葉 :134
絵文
口本
明治四十二年 月廿一n印刷 明治四十二年一刀廿五日獲行 包 鶴.嘘 脅 行 者 印刷者 印刷所 登行所 ͡非頁品︹ 賓京市木堀込駒込冨十“町五†ヨ■電 井 上 回 了 東京■苧込田■ケ掃●買町一丁臼†二衡㎏ 藤 本 兼 吉 寅京痢午込匹市●律●賀町一丁町†二傍塙 “猷秀英舎第一工場 頁ぴ布本嬬正痴込寓十萌町五†三●● 修身教會援張事務所熊本県紀行︵続︶
内外に充塞す。村長原利三郎氏、住職鷲山覚明氏等の発起なり。五家山はこの村を去ることわずかに二里、山中 52 の者ここに出でて日用品を購入す。小市街あり、原町という。これより登ること三里にして、釈迦院に達す。こ 4 れを九州の高野山と称す。 二十三日 晴れ。中山村︿現在熊本県下益城郡中央町﹀に移りて開会す。柳眼鶯語、百花栄を競うの好時節となる。 会場は高等小学校にして、宿所は有志家三浦卓平氏の宅なり。中山村長成松寿七、年禰村長佃正記、豊野村長村 山修三、校長佐野小七郎、寺川大次郎諸氏の発起にかかる。 二十四日 晴れ。緑川を渡り、上益城郡甲佐町︿現在熊本県上益城郡甲佐町﹀に移りて開会す。会場は正宗寺、宿所 は渡辺敬生氏の宅なり。同氏は一家相伝の製法をもって鮎魚を貯蔵し、毎年陛下に伝献すといえるを聞きて、﹁尊 皇心不浅、累代為伝献、秘法製香魚、年々登聖膳、﹂︵皇室を尊ぶ心は深く、代をかさねて献上してきた。秘法を もって香魚︹鮎︺を精製保存し、毎年陛下の御膳にのるのである。︶の詩を賦して主人に贈る。町長は古住安氏とい い、校長は椎木太亀男氏という。 二十五日 晴れ。御船町︿現在熊本県上益城郡御船町﹀に移る。郡衙所在地にして、手島省三氏その郡長たり。郡長 の厚意により、各所へ井手郡書記をして案内せしめらる。当町会場は小学校にして、宿所は出村氏の居宅なり。 開会は町長増永正純氏、助役本田半二郎氏、校長三池親三氏等の発起にかかる。 二十六日 晴れ。高木村︿現在熊本県上益城郡御船町﹀に移りて開会す。会場および宿所は長安寺にして、主催者は 村長中村隆政氏なり。 二十七日 晴れ。六嘉村︿現在熊本県上益城郡嘉島町﹀に転じて開演す。会場は小学校の庭園なり。校舎の構造およ
三十日 雷雨。午前、西光寺において講話をなし、午後、県会議事堂において開演す。熊本市教育会および仏 54 教団の発起なり。教育会長は市長辛島格氏、副会長は三浦晟彦氏にして、河田竹生氏、渡辺熊雄氏その理事たり。 4 仏教団の方は矢毛智達氏、篠方典氏等の主唱なり。 三十一日 晴れ。午前、押川知事および事務官石川啓氏、豊島 氏を訪問す。午前、借行社に至りて開演す。 愛国婦人会、特志看護婦人会、陸海軍将校婦人会の依頼に応ずるなり。 四月一日 大雨。午後、飽詫郡大江村︿現在熊本県熊本市﹀詫摩高等小学校に至りて開演す。校長は谷川直温氏な り。郡視学元松直忠氏も出席せらる。藤村僧翼氏熊本より帰郷したれば、富田三省氏代わりて随行員となる。 二日 晴れ。午前、今川覚神氏来訪あり。午後、清水村︿現在熊本県熊本市﹀北部高等小学校に至りて開演す。校 長は蓑田猛雄氏なり。校地眺望に富む。 三日 曇り。午後、西里村︿現在熊本県熊本市﹀金剛寺に至りて開会す。主催者は菊池適氏なり。本県下巡回事務 は哲学館出身たる戸田福蔵、菊池適、平田良知の三氏に委託せるに、戸田氏は山口県師範学校へ転任し、菊池氏 は大負傷をなして病床にありしも、なお臥床のまま事務をとられたるは、ここにその労を謝するところなり。 四日 雨。金剛寺にありて一作を試む。 肥南四月雨成森、麦色柳光春已深、山寺無人門巷静、落花枝上鳥空吟、 ︵肥南の四月、雨はながあめとなり、麦の色、柳葉のかがやきにも春すでに深しの思いがある。山上の寺に は人影もなく、門もこみちも静かに、花落ちた枝の上で鳥がむなしくさえずっている。︶ 寺は丘陵の上にありて飲用水を得るに苦しむ。地偏、道狭くして車馬を通ぜず、朝雨を冒し、歩行して熊本に
る夕べ肥陽の寺院に宿泊した。ところが夜中に管絃の音が耳を聾せんばかりにおこる。真のなかに俗ありという ではないか、君よ、あやしむをやめよ。真諦と俗諦の道理たる二諦がたがいにたすけあう、これこそ仏祖の教え なのである。︶の一絶を賦して山主に示す。庭前に古藤の竜のごとく横臥するあり。 小島尋薫寺、庭前見古藤、臥竜何日起、待汝排雲騰、 ︵小島町の尋粛寺には、庭さきに古い藤の木があり、竜が横ざまにねているようにみえる。この臥竜はいつ の日に身をおこすのであろうか、なんじが雲をおしのけて天にかけのぼるのを待っていよう。︶ 八日 大風雨。腕車および汽車にて下益城郡衙所在地たる松橋町︿現在熊本県下益城郡松橋町﹀に移る。会場は明 覚寺にして、宿所は医師岡本季九郎氏の宅なり。郡長田中致知氏も出席せらる。町長黒田九力氏、大いに尽力あ り。開会発起は松橋町長の外、当尾村長宮原熊平、豊川村長豊田重蔵、豊福村長秋岡秀彦諸氏なり。郡視学藤井 敬慎氏は郡内各所開演照会の労をとられたり。会場の住職は真岡若水氏なり。午後、風雨ことにはなはだしかり しも、聴衆満堂の盛会を得たり。 九日 快晴。更に車を返して飽詫郡奥古閑村︿現在熊本県熊本市﹀に移る。歓迎最も盛んなり。 緑麦朧頭車路通、古閑村外落花風、旭旗動処人成列、嘲夙声中入梵宮、 ︵緑の麦のうねの傍らを車の走る道が通じ、古閑村の外には花びらをのせた風が吹いている。旭日旗をうち ふりながら並んで私を出迎えてくれ、噺弧︹ラッパ︺の吹奏するなかを寺院に入ったのであった。︶ 会場は真行寺にして、住職藤岡法真氏はその名、宗内に高し。開会は藤岡氏および村長渋谷郡喜、校長佐川彦 二、寺院轟雷庵等諸氏の主催にかかる。 456
十四日 晴れ。午前、八代郡吉野村︿現在熊本県八代郡竜北町﹀養福寺にて開会す。郡視学古泉貞次氏来会せらる。 村長は荒木叢哲氏、校長は堀川義人氏なり。午後、野津村︿現在熊本県八代郡竜北町﹀勝専坊にて開会す。生徒の歓 迎あり。村長は大槻英与氏、校長は二上敬之氏なり。当日、初めて蝉吟耳に入る。 十五日 晴れ。午前、和鹿島︹村︺︿現在熊本県八代郡竜北町﹀浄立寺にて開会す。村長は伊藤精一氏、校長は永井 真俊氏なり。役場員某氏、尽力せらる。午後、鏡町︿現在熊本県八代郡鏡町﹀教法寺にて開会す。住職は高陽慶哉氏、 校長は緒方八郎氏なり。夜会あり、人群れを成す。 十六日 晴れ。午前、北部高等小学校にて開会す。校長は緒方八郎氏なり。午後、有佐村︿現在熊本県八代郡鏡町・ 宮原町﹀光沢寺にて開会す。住職は源達源氏なり。しかして村長は吉田修三氏、校長は本島勝明氏なり。当夕、光 沢楼上にて一吟す。眺望すこぶる佳なり。 春郊続屋夜清冷、麦色入楼灯影青、何処池蛙声断続、朦朧月下対山聴、 ︵春の郊外は家屋をめぐって夜も清らかに冷え、麦の緑は光沢寺の楼上に映え入り、ともしびまでが青い。 どこからか池の蛙の声が断続して、おぼろ月のもとで山をながめつつ聞いたのである。︶ 十七日 晴れ。宮原町︿現在熊本県八代郡宮原町﹀にて開会す。会場は小学校にして、宿所は村山徳美氏宅なり。 町長吉岡直平氏、校長内山直次氏等の発起にかかる。 十八日 晴れ。郡書記堀虎次氏の案内にて種子山村︿現在熊本県八代郡東陽村﹀に至る。途上、立神の懸崖あり。 会場は光林寺にして、村長は藤木静次氏、校長は沢田謙太郎氏、石川愛卿氏なり。いたるところ杜鴨花を見る。 一道晴風払彩霞、渓流尽処有人家、山村却愛春光尽、万緑叢中螂燭花、 458
ることができた。樹の下に杖をとめ、いつまでも懐古の情にひたって時を移し、いつしか散る花、流れる水 に夕日のくすんだ光が斜めにさしこんできたのであった。︶ 村長は佐伯義方氏にして、校長は秋岡元伸氏なり。当夜、八代町︿現在熊本県八代市﹀帯屋旅館に入りて泊す。 二十二日 雨。午前、官幣社八代宮に参拝し、すぐに代陽女子小学校に入りて開演す。南部教育会の発起なり。 会長は高木虎親氏にして、副会長は緒方千尋氏なり。中島仰氏等その幹事たり。みな小学校長なり。午後、劇場 蛭子座において開演す。聴衆大雨をつきて来集し、場内寸地を余さざるに至る。ついで、同所において中学校お よび高等女学校生徒に対して講話をなす。当地は郡衙所在地にして、郡長古城弥次郎氏の配意により、郡内各所 開会に郡視学古泉貞次氏、または郡書記堀虎次氏をして同行せしめられたるために、開会上大いに便宜を得たり。 また、中学校長村上俊江氏、高等女学校長宮地欣吉氏、町長守屋充次郎氏等みな尽力せられ、夜に入りて有志の 茶話会あり。 二十三日 晴れ。午前、太田郷村︿現在熊本県八代市﹀専西寺にて開会す。村長は吉永郡平氏、校長は野間新郎氏、 住職は清水昌盛氏なり。午後、松高村︿現在熊本県八代市﹀法敬寺にて開演す。住職緒方活竜氏、村長江副政喜氏、 助役大木兼紀氏、校長奥田末氏の発起なり。会後、球磨川を渡り、植柳村︿現在熊本県八代市﹀に入りて宿泊す。 二十四日 晴れ。午前、植柳勝明寺において開会す。住職は木下貫心、村長は山田漸氏、校長は緒方千尋氏な り。高田、金剛両村もこれに加わる。午後、球磨川をさかのぼるに、急流漂をなす所に舟を巻き上ぐる工夫あり。 当夕、下松求麻村︿現在熊本県八代郡坂本村﹀字今泉法讃寺に入りて宿す。住職は岩坂善海氏という。舟中の風光、 吟眸を引くに足る。 460
二十七日 晴れ。午前、市街を一覧し、社台に上りて遠望を試む。草海薩山を春煙濠々の中に見るところ、大 いによし。午後、開会す。崇徳会の主催なり。住職草部氏、幹事園田政太郎氏、助役松村又熊氏等、もっぱら尽 力せらる。 日南従古有霊泉、応永開場五百年、浴詠人連車馬到、絃歌声隔客楼伝、御前噴薬湯能験、天草擁雲山自眠、 喜我停留纏一夕、六根忽覚化神仙、 ︵日奈久の南にはいにしえより霊妙な効能ある温泉があり、応永年間に開かれてから五百年になる。ゆあみ やながめを楽しむ人が車馬を連ねてやってきて、絃歌の声は旅館のかなたから聞こえてくる。御前湯の噴き 出す薬湯は効能もあらたかに、みわたせば天草のあたりには雲がかかって、山は眠るかのようである。うれ しいことに私がここにとどまったのは、わずか一夜ではあったが、六根たちまちにして人間界からぬけ出て 神仙となったような気がしたのであった。︶ 二十八日 晴れ。朝、発起諸氏とともに鳩山に登る。海煙山霧微 中に天草一帯の山影と相対し、白帆青松の 前後に相映ずるところ、おのずから膣画館中にある心地せり。 鳩轡高処立清農、姻水霞山対晩春、麦酒三杯微酔後、悦如膣書館中人、 ︵鳩山の高みには早朝の清らかさが満ち、かすみたつ川と山はともに晩春の風景である。ビールを幾杯か傾 けて、わずかな酔いを覚えたあとは、うっとりとしてパノラマ館の中の人となった心地がした。︶ また、入浴中、肥後方言をもってつづりたる一作あり。 肥南何処試吟峨、数日山行気削多、幸浴霊泉与嘉潔、一丁傾酒一丁歌、 462
水俣会場は源光寺にして、堂宇壮大ならざるも、荘厳清美なり。発起者は役場、学校、寺院にして、村長深水 頼資氏、助役広田末熊氏、学務委員吉海度蔵氏、高等校長中山長熊氏、住職寺本証信氏をはじめとし、中村庸造、 北里小源太、深水吉澄、春野群太郎、東佐一郎、古川広喜、堀法鱗等の諸氏、みな尽力あり。 五月一日 晴れ。早朝、馬車を駆り、佐敷町にて午餐を喫し、人吉高等校長勝間田二見氏とともに、長駆して 球磨郡に入る。川上懸崖の上に車道あり、蜀の桟道を行くがごとし。途中、人吉有志者数十名、車をつらね数里 の外に出でて迎うるに会す。郡視学古閑功氏の案内にて人吉町︿現在熊本県人吉市﹀に着す。ときまさに五時なり。 この日、行程十五里に達す。宿所は林照寺なり。当寺住職茅場法照氏は哲学館出身者たりしをもって、歓迎準備 に大いに尽力あり。堂後に清流を横たえ、林轡に接し、風光閑雅の趣あり。当寺客中の作、左のごとし。 仙源解客装、林照寺中堂、山色催詩思、水声洗浴腸、聴経春睡穏、敲句夜吟長、窓下友風月、不知農事忙、 ︵仙人の住むような里に旅装を解いた。ここは林照寺の中堂なのである。山の景色は詩想をかきたて、聞こ えてくる水の声は俗塵に汚れたはらわたを洗う心持ちがする。読経の声を聞いて春のねむりもおだやかに、 詩句を推敲しつつ夜は更ける。窓辺のもとに風月を友として、農事の多忙であることも知らぬげであったの である。︶ 二日 雨。古閑視学および永根晋氏とともに車行して球磨農学校︹上村︿現在熊本県球磨郡上村﹀︺に至り、一席の 講話をなす。校長は斎藤謙吉氏なり。更に多良木︿現在熊本県球磨郡多良木町﹀高等小学校に移りて開演す。校長は市 木忠二郎氏なり。白浜旅館に宿す。 三日︵日曜︶ 雨。再び車をめぐらして多良木村より人吉町に帰る。午後、劇場永楽座にて開演す。球磨郡教育 464
朝遊海角夕山顛、北馬南船年又年、流転如斯君勿怪、吾生猶未脱塵縁、 66 ︵あしたには海辺に遊歴し、夕べには山の頂きに歩を進めて、北には馬にのり南には船にのって年を重ねた。 4 流転の生活がこのように続けられたことを奇怪なこととは思わないで欲しい、かくのごとくしてもわが生は なお俗塵の縁から脱け出せないのだから。︶ 肥陽一夜坐初更、新月朧々杜宇声、況復隣楼吹玉笛、何人不起故園情、 ︵肥後の一夜、日暮れのなかに座っていると、東の空に出た月がおぼろにかすんで、どこかでほととぎすの 声がしている。ましてや隣の家から笛の音が聞こえて、その音色はいかなる人にも故郷への思いを起こさせ るのである。︶ 勿謂鎮西人傑少、日南真是僧門表、旧盧猶見墨光新、壁上曾題三宝鳥、 ︵鎮西の地にすぐれた人物が少ないなどといってはならぬ。日南師は真に仏門の儀表である。古いいおり、 壁上にはまだ墨の輝きも新しく、以前から三宝鳥︹仏、法、僧︺に題する軸のかけられているのがみられる。︶ 六日 晴れ。八代より汽車に駕す。乗客充溢し、車窓より出入するものあり。その雑沓いうべからず。熊本市 招魂祭を拝観せんと欲してなり。松橋駅より馬車に転乗して宇土郡松合村く現在熊本県宇土郡不知火町∨に移る。会場 は光暁寺にして、住職直江秀円氏は哲学館出身なり。開会は同氏および村長西山雄平氏、校長渡辺未喜氏等の発 起にかかる。この地、海水温浴場あり。郡役所書記小山虎松氏、哲学館出身橘慶導氏の来訪あるに会す。 七日 晴れ。午前、松合より艇を海上に浮かべ、三角町字際崎船亭の内にて午餐を命じ、天草郡姫戸村︿現在熊 本県天草郡姫戸町﹀発起者にしてかつ哲学館出身たる山田鉄五郎氏︵本姓寺中︶とともに、汽船に駕して同所に向か
同森田良平氏、有志家寺中多代次氏等、みな大いに尽力せらる。夜に入りて座談会あり。 68 八日 晴れ。午後、山田鉄太郎氏とともに乗船し、牛深町︿現在熊本県牛深市﹀に至る。日すでに暮るる。波上の 4 轡影帆光、青白相映じて風光絶佳なり。 輪声転々汽煙長、一帯連山迎送忙、船入牛深天巳暮、淡雲繊月夜蒼々、 ︵船の外輪がめぐり、吐き出す煙がたなびき、かなたのひとつづきの山々は船の送迎にいそがしい。船が牛 深町に入るころは日もすでに暮れて、あわい雲に細い月がうかび、夜は青くうすぐらい。︶ 当夕、秀月庵内に宿す。住職は平野諦玄氏なり。 九日 晴れ。午後、小学校にて開会す。町長中村元彦氏、校長米加田惟昭氏、山本才太、緒方竜平、岩崎安天 郎等の諸氏、みな尽力あり。ときまさに麦刈り最中なり。牛深港は一名水字湾という。その形袋のごとく、良港 たり。ただし市街狭くして車馬を通じ難く、飲用水に乏しきを欠点とす。当夜十一時に汽船に入りて泊し、翌朝 四時、出帆す。 十日 雨。午前七時、大門に着岸し、これより車行して本渡町︿現在熊本県本渡市﹀に至る。その地全島の中央に して、郡役所あり。午後、開会す。会場は円覚寺なり。住職を椛久教尊氏という。発起者は郡視学辻村寛尭氏、 中学校長藤本友世氏、町長木山重吉氏、寺院永田鱗趾氏、海唯定氏、有馬黙庵氏、小学校長内田直次氏、後藤小 太郎氏、赤城安熊氏等なり。旅館を菊屋と名付く。当夕、円覚寺にて開催せる宗祖降誕会に出演す。 十一日 晴れ。町山口港内数十町の間、腕車にて波上を渡りて乗船し、午後二時、富岡︿現在熊本県天草郡苓北町﹀ 港に着す。港を巴湾という。地を臥竜岡という。ともに雅名なり。会場および宿所たる鎮道寺は湾内を一敵すべ
︵見わたすかぎりの青々とした山は雨にぬれてすがすがしく、臥竜山にゆっくりと吟詠の心を養った。私の 70 生活は久しく一所にとどまるわけにはいかず、ふたたび黄塵のふりつもるなかを行くのである。︶ 4 以上はみな老師の恵詩に次韻せるものなり。当日の開会は青年会の主催にして、和気氏および町長松本久太郎 氏、大いに尽力あり。助役吉尾省三氏、校長倉本岩人氏、僧侶瑞穂香雲氏、有志尾上晋氏、溝上嘉三太氏も助力 せらる。 十二日 晴れ。午後、乗船、五時、上村︿現在熊本県天草郡大矢野町﹀に着す。会場は西念寺にして、住職天津慈峰 氏は哲学館出身たり。夜に入りて開会す。聴衆、堂にあふる。天津氏および村長吉田宗徳氏、吏員渡辺福蔵氏等 尽力せらる。 十三日 晴れ。堂側に忠魂祠堂あり、その前にて撮影す。これより車に駕し、更に和船に投じ、宇土郡三角町 ︿現在熊本県宇土郡三角町﹀に移る。ときすでに十二時なり。午後、小学校において開会す。校長藤垣儀一郎氏、数年 前より修身教会を設立し、同氏の熱心にて今なお継続し、年一年より隆盛を加うという。郡長宗村敬四郎氏、郡 視学浅井虎喜氏、郡書記小山虎松氏、町長下田一己氏、みな助力せらる。当港は風光に富む。なかんずく小学校 の眺望ことによし。宿所は冬野屋旅館にして、明月山頭に懸かる。即吟一首を得たり。 東去西来漂泊身、肥州尽処養天真、草洋今夜風波穏、三角山頭月一輪、 ︵遠く東を去ってこの西の地にまできた漂泊の身は、肥後国の尽き果てるようなところで、かざらぬままの 自然の心をつちかう。天草の海に今夜吹く風も波もおだやかに、三角の山上に明月がまるい姿をみせている。︶ 十四日 晴れ。国会議員選挙のために、今明両日休会することに定む。しかるに天草郡今津村く現在熊本県天草郡
十七日 雨。朝、宇土を発し、熊本を経て菊池郡陣内村︿現在熊本県菊池郡大津町﹀に移る。熊本県より五里、人 72 車にて四時間を要す。菊池郡視学、田代喜作氏および高等校長高橋小太郎氏も同行せらる。会場は光行寺なり。 4 保々正見氏住職たり。開会は合志東部教育会の主催にかかる。高等学校長高橋氏、尋常校長江藤虎熊氏等、大い に尽力あり。当夕、大津町︿現在熊本県菊池郡大津町﹀麻生田屋に宿す。 十八日 晴れ。光尊寺にて開会す。主催は教育会なり。田代視学、高橋校長、および町長石原真一氏、尋常校 長坂本経安氏、ほか教育家諸氏の尽力すくなからず。目下養蚕最も多忙の時期にもかかわらず、多数の来聴者あ り。再び阿蘇の噴煙を対観す。 薫風一路向仙衰、黄麦青桑野色斑、到処田家農事急、客中喜我得身閑、 ︵五月のかおる風のなかを、一路俗界を離れたような地にむかった。黄色を帯びた麦と青々とした桑とがま じわって野はまだらに染めあげられている。いたるところの農家は養蚕にいまや最も忙しく、ひきかえて旅 中のわが身ののどかであることを喜んでいるのである。︶ 十九日 晴れ。合志村︿現在熊本県菊池郡合志町﹀竹迫厳照寺にて開会す。西部教育会の主催にかかる。村長は井 本源次郎氏にして、住職は山隈覚音氏なり。村内、国旗を掲げて歓迎せらる。また、緑門の設あり。校長は阪田 彦七氏なり。 二十日 晴れ。酒水村︿現在熊本県菊池郡酒水町﹀に移りて開会す。午前は教育家に対して講話をなし、午後は公 衆に対して開演をなす。会場は高等小学校にして、宿所は校長江藤祐蔵氏の寓所なり。斎藤長八氏は村長たり。 江藤氏の尽力すくなからず。各校長みな助力あり。当所は県下第一の蚕業地と称す。
王の跡に、今や農業養蚕が説かれて、いくさが説かれることはないのだ。︶ 74 家門累代唱勤王、探得遺躍登社岡、満目美田桑麦色、英霊千載有余光、 4 ︵菊池家は代々勤王を唱えてきた家柄であり、その残された跡をたずねて神社のたつ丘に登った。みわたす かぎり美しい田と桑と麦の色にみち、すぐれたいにしえの人の霊魂が千年の後にも、恵みをもたらしている のであろう。︶ 社陵を下りて正観寺の茶話会に出席す。境内に菊池累代墳墓あり。老儒渋江晩香氏の贈詩に答えんと欲して、 その韻を歩す。 看来雲態又山容、隈府風光好洗胸、欲鼓吟情和玉鵠、詞壇塊我未成宗、 ︵雲の姿や山の形を見つつ来れば、隈府の風光は胸のうちを洗い流すのによい。吟詠の情をふるって立派な 詩をかなでようとするも、韻文の世界で私はまだまだ主だつ者となっていないことがはずかしい。︶ 当夕は広現寺に宿す。 二十五日 晴れ。鹿本郡来民町︿現在熊本県鹿本郡鹿本町﹀に移る。午前、午後、ともに大光寺において開会す。 午前は仏教青年会の主催、午後は教育会の主催なり。青年会長は野口七郎氏にして、町長は岩佐正武氏、高等校 長は堀井勇三氏、尋常校長は続清人氏なり。おのおの尽力せらる。宿坊大光寺住職内田護城氏は哲学館出身なる も不在なり。当所は団扇の店多し。銀杏の怪樹ありて一見す。 二十六日 晴れ。午前、鹿本中学校に至り、生徒に対して演説す。校長は水上浩然氏なり。午後、三玉村︿現在 熊本県山鹿市﹀万行寺に移りて開演す。住職大道憲隆氏の発起にかかる。村長淵上貞記氏、校長吉村卯一氏、桑原源
三十日 晴れ。広より山本村︿現在熊本県鹿本郡植木町﹀光勝寺に移りて開会す。教育会の主催にかかる。高等校 長三好慶次郎氏、尋常校長北野熊氏、矢住軍記氏、緒方武夫氏、佐藤万八氏、江口尚氏等、みな尽力あり。会後、 植木町上崎久八氏の宅に至りて宿す。この近傍はすべて明治十年西南︹の︺役の古戦場にして、車上一過おのずか ら今昔の感を起こさしむ。 古戦場頭一夢長、勿々三十二星霜、如今遺跡尋何処、麦熟晴郊満眼黄、 ︵西南役の古戦場では夢のごとき思いも果てしなく、なんとあわただしく三十二年の歳月を経たことよ。い ま、その遺跡をいったいどこにたずねようか、見わたすかぎり麦は熟し、晴れやかな郊外の地はすべて黄色 なのである。︶ 三十一日︵日曜︶ 晴れ。植木町︿現在熊本県鹿本郡植木町﹀金蓮寺にて開会す。住職蓮田慈善氏、町長矢野中蔵氏、 田原村長内田真照氏等、有志の発起なり。郡内開会中は郡役所の好意により、特に郡書記島田万蔵氏をして各所 に伴行せしめられたり。 六月一日。朝、植木町上崎氏の宅を辞し、汽車にて高瀬町に降車して玉名郡伊倉町︿現在熊本県玉名市﹀に移る。 会場は来光寺にして、住職は相良大携氏なり。開会は教育会の発起にかかる。会長明石史一氏、副会長大久保喜 熊氏、町長吉富幸次郎氏、有志松尾常人氏、土本才平氏等、大いに奔走の労をとらる。なかんずく相良、松尾両 氏の尽力一方ならず。目下麦刈り中にて農繁の時期にもかかわらず、盛会を見るを得たり。郡長十時参吉郎氏も 特に来会せらる。松尾氏の贈詩に次韻せるもの左のごとし。 不厭肥南行路危、愛看水好又山奇、望中探句嘆才鈍、随処揮毫喜日遅、風月清新人養気、民情淳朴徳成基、 476 ’
趣あり。晩景ことに佳なり。 78 野径探幽入寺門、風光迎我笑将言、江村暮色蒼々裏、印出山頭月一痕、 4 ︵野の小道に俗気のない静かさを求めて行き、寺院の門を入れば、風光の美が私を迎えてほほえみ、ものい わんとするがごときである。江田村の日暮れの色は青々として、印出山の上に月がかかっている。︶ 三日 晴れ。途中、菊池適氏と相別れ、午前、玉名中学校︹弥富村︿現在熊本県玉名市﹀︺に至り、生徒のために講 話をなす。校長は甲野吉蔵氏なり。午後、高瀬町︿現在熊本県玉名市﹀延久寺にて開会す。住職は永野悦導氏なり。 しかして発起は教育会にして、十時郡長、佐々木郡視学をはじめとし、高等校長阪富初太郎、警察署長藤山武雄 氏、町助役三原安蔵氏、尋常校長内田綱吉氏等、みな大いに斡旋の労をとらる。演説後、懇話会ありて、市原屋 に宿泊す。ときまさに陰暦端午に当たる。昨年は豊後西叡山下にありてこの辰を迎えり。今夕、あに一作なかる べけんや。 一路薫風端午天、翻々旗影舞軒前、未醒西叡山根夢、忽作菊池川上眠、 二路に風かおる陰暦端午の日、客亭の軒の前にはへんぽんとして旗がひるがえる。昨年の端午の日、豊後 西叡山のもとでむすんだ夢のまだ覚めないうちに、たちまち今日は菊池川のほとりで眠るのである。︶ 客亭は菊池川に向きて開き、橋上、自転車往復頻繁、ほとんど目送にいとまあらず。 一帯清流橋影長、脚車如織送迎忙、客楼偶購鮮魚得、独酌閑吟弄夕陽、 ︵帯のごとく流れる清らかな水に橋の影が長く落ち、橋上には自転車が機織りの稜︹ひ︺のように忙しく往来 している。旅館ではたまたま鮮魚を買うことができたので、これを肴にひとり酒をくみ、のどかに吟じ、夕
に逝去して、主をうしなった寺門も庭もさびしく、もの言わず座してむなしく遺愛の花をみたのであった。︶ 捌 郡書記石井雄蔵氏ここに来会せらる。 七日︵日曜︶ 晴れ。朝、南関を発し、車行して山路崎嘔の間をわたり、緑村︵現在熊本県玉名郡三加和町﹀に入る。 途中、在郷軍人団の歓迎あり。正念寺にて開会す。住職武田哲道氏の主催なり。その郷は四面めぐらすに丘山を もってす。桃花流水別天地の趣あり。隈都日円氏ここにきたりて送別せらる。 八日 晴れ。緑村より南関を経、高瀬駅にて乗車す。行程七里、これより上熊本駅に至りて降車し、白水館に て午餐を喫し、粟津大寂氏および山川正氏とともに車を連ね走ること三里、上益城郡木山町︿現在熊本県上益城郡益 城町﹀に至る。途中、小学生徒の歓迎最も盛んなり。その数、約千人と算す。会場は高等小学校にして、聴衆充溢 す。上益城郡視学松岡彪氏も来会せらる。町長佐伯鉄夫氏、高等校長山川氏および粟津氏の尽力ただならざるを 知る。近村各学校長、みな大いに奔走の労をとれり。宿所は矢野安氏の宅なり。ときに粟津氏の詩韻を歩して同 氏に贈れる一絶あり。 城北君曾結草盧、撚髭日夜楽詩書、随時又摯吟嚢去、納尽江山無所余、 ︵城北に君は以前より草ぶきのいおりを結び、ひげをひねりながら昼も夜も詩を賦し書を読むを楽しんでい る。時のままに吟詠のふくろをひっさげて行き、江山の美をことごとく納めて余すところがないのである。︶ また、九十九歳の老翁の手痕に対し、もとめに応じ﹁紙上手痕新、墨光自有神、鳴呼是何怪、九十九年人﹂︵紙 上の手痕も新たに、墨の輝きにもおのずから霊妙なおもむきがある。ああ、このことをいったいどうして怪しむ ことがあろう。なにしろ九十九歳の人の手痕なのである。︶の四句を題す。
いて感謝せざるを得ず。県庁および郡役所の周到なる配意と町村役場のすくなからざる尽力とは、これまた大い
熊本県開会一覧表︵三月十二日より六月八日まで八十九日間︶
宇同同同同同同同同同飽同同同熊
本市
土
託郡 郡 市郡
町村 春日町 高橋町 川尻町 小島町 大江村 清水村 池上村 西里村 奥古閑村 藤富村 宇土町寺寺寺寺小小小寺寺寺小借寺寺議
院院院院学学学院院院学行院院事会
校校校
校社
堂場
二二二二二二二二二二二二ニー二演
席席席席席席席席席席席席席席席説
聴衆 七百人 六百人 七百人 五百人 百五十人 八百人 七百人 四百人 百人 百人 百五十人 百人 七百人 九百人 一千人 主催 市教育会および仏教団体 同 寺院 愛国婦人会、将校婦人会等 郡教育会 寺院 寺院および青年会 町内有志 郡教育会 同 同 寺院 村内有志 郡教育会および寺院有志 教育懇話会 482同同同同同鹿同同同同同同同同玉同同
本 名
郡 郡
広植同同来山緑六高江弥南長伊高松三
見木 民鹿村栄道田富関洲倉瀬合角
村町 町町 村村村村町町町町村町
小寺中寺寺寺寺寺寺寺中寺寺寺寺寺小
学院学院院院院院院院学院院院院院学
校 校 校 校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
五六四三五八四一九五四六五七六九五
百百百百百百百千百百百百百百百百百
人人人人人人人人人人人人人人人人人
町村有志 村内有志 郡教育会 同 同 同 中学校 郡教育会 寺院および有志 修身教会 寺院 郡教育会 同 青年会 中学校 町内有志 郡教育会 483同同同阿同同同同同同同同同菊同同同
蘇 池
郡
郡 山本村 三玉村 千田村 隈府町 同 大津町 陣内村 合志村 酒水村 同 西合志村 田島村 加茂川村 宮地町 同 馬見原町 内牧町 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 小学校 小学校 寺院 寺院 寺院 寺院 農業学校 小学校 寺院席席席席席席席席席席席席席席席席席
五百人 四百人 五百人 四百人 七百人 六百人 四百人 六百人 百人 六百人 八百人 四百人 三百人 七百人 百五十人 一千人 七百人 郡教育会 寺院および有志 寺院および有志 郡教育会 同 同 同 村内有志 郡教育会 同 村内有志 青年会および有志 村内有志 町内有志 農業学校 町内有志 村内有志 484同 同 同 同 同 同 上益城郡 同 同 同 同 同 下益城郡 同 同 同 同 坂梨村 山田村 北小国村 同 南小国村 白水村 御船町 甲佐町 木山町 浜町村 六嘉村 高木村 松橋町 小川町 隈庄町 守富村 中山村
小小寺小寺寺小寺小寺小小小寺寺寺寺
学学院学院院学院学院学学学院院院院
校校 校 校 校 校校校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
七百人 二百五十人 五百人 二百人 三百人 一千五百人 三百人 七百人 八百人 六百人 八百人 四百人 五百人 一千五百人 一千二百人 三百人 一千人 村内有志 村内有志 四恩会 婦人会 四恩会 村内有志 町内有志 小学校同窓会 町村教育会 村内有志 村内有志 村内有志 町村有志 町村有志 町村有志 各村有志 各村有志 485同同同同同同同同同同同同同同八同同
代
郡
東砥用村 西砥用村 八代町 同 同 同 鏡町 宮原町 吉野村 野津村 同 和鹿島村 有佐村 種子山村 河俣村 竜峰村 宮地村 寺院 小学校 女子小学校 劇場 劇場 寺院 寺院 小学校 寺院 寺院 小学校 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 小学校席席席席席席席席席席席席席席席席席
六百人 一千五百人 百五十人 一千人 八百人 一千人 七百五十人 四百人 二百五十人 五百人 百人 三百人 三百五十人 七百人 六百人 三百人 四百人 村内有志 村内有志 南部教育会 町内有志 中学校および高等女学校 寺院 町内有志 町内有志 村内有志 村内有志 北部教育会 村内有志 村内有志 各村有志 村内有志 村内有志 村内有志 486同天同同同同球同同同葦同同同同同同
草 磨 北
郡 郡 郡
太田郷村 松高村 植柳村 下松求麻村 同 上松求麻村 日奈久町 佐敷町 田浦村 水俣村 人吉町 同 同 上村 多良木村 本渡町 同 寺院 寺院 寺院 寺院 寺院 小学校 寺院 寺院 寺院 寺院 劇場 寺院 劇場 農業学校 小学校 寺院 寺院席席席席席席席席席席席席席席席席席
二百人 三百五十人 三百人 三百人 三百五十人 二百人 五百人 三百人 七百人 五百人 一千人 六百人 一千二百人 二百人 五百人 五百人 三百人 村内有志 村内有志 各村有志 村内有志 村内有志 村内有志 崇徳会 町内有志 村内有志 村内有志 郡教育会 仏教団 青年会および実業倶楽部 農業学校 郡教育会 町内有志 寺院 487同同同同同
以上合計 富岡町 牛深町 姫戸村 上村 今津村 一市、十二郡、 寺院 小学校 小学校 寺院 小学校席席席席席
八十七町村、百六カ所、 三百五十人 三百人 二千人 九百人 六百人 二百二席、 町内有志 町内有志 村内有志 村内有志 村内有志 五万九千九百五十人 488福岡市紀行
つぎに、農学校に移りて演述す。校長は沢誠太郎氏なり。喫飯後、庭園内を一覧し、これより車行二里、中学修
の絶えることはなく、貝原益軒翁が残した学徳は天より伝えられたものと知るべきである。︶ 90 更に散策を進めて福岡西公園の丘上に登る。湾内の風光点々指示すべく、煙雨を隔てて碧波白帆を見るところ、 4 趣味一段深きを覚ゆ。 覇台高処試登撃、湾外有洲々外湾、帆影波光煙雨裏、風光却在澄荘間、 ︵西公園の覇台の高みに登ってみれば、湾の外に島々があり、島の外に湾があるといった様子である。白い 帆の姿やきらめく波がけぶるような雨のなかに見え、すぐれた景色というものはむしろこのような広く果て しないなかにあるのであろう。︶ 再び歩向を転じて、東公園松林中を遣遥し、元冠紀念碑および紀念館を拝観し、一方亭に入りて旧哲学館出身 者と晩餐をともにす。会するもの斎田耕陽、菊池敏彦、古田虎次郎、竜淵猷山、渡辺豪、随行隈部湛澄諸氏なり。 席上、興に乗じて駄作を試み、快談深更に及び、おのおの歓を尽くして散ず。 十二日 晴れ。午前、高等女学校生徒のために出演す。校長は中垣安太郎氏なり。演説後、ただちに帰京の途 に上る。多数の送行者あり。福岡市開会に関しては、前記の諸氏の外に新聞社長浜地禎造氏、および福本誠氏、 市学務主任宇佐元緒氏、高等小学校長島田寅次郎氏、懸視学中村能道氏等の好意をかたじけのうす。 十三日 晴れ。夜十時、帰宅。静養のために十六日より二十二日まで、日光および会津山中に客遊を試む。会 津は東山温泉新滝旅館に滞在す。二十二日夕、帰京。ただちに二十四日朝八時、新橋発にて佐賀行の途に上る。 二十五日、九州線に移るや、黒木大将と列車を同じくす。博多駅を通過するとき中村祐興氏、斎田耕陽氏、大雨 をおかして車中に来訪あり。中村氏は春秋八十に達し、なお嬰錬たり。故に左の詩を賦してこれに贈る。
鶴髪童顔気未推、言容両圧少年来、対翁欲謝歓迎厚、為我仙節曳幾回、 ︵白髪と童顔をもって、いまだ気力もおとらえず、言葉も様子もともに年少の者たちを圧する勢いである。 この翁に対して手厚い歓迎を受けたことや、私のために仙人がつくようなみごとな杖をついて何度もでて下 さったことなどを感謝したいのである。︶ また、斎田氏が余の談片を新聞紙上に紹介せられたるを一見して、一絶を浮かぶ。 曾握教鞭東海道、今在筑陽耕紙田、吾舌錐疾君筆健、能令談片吐雲煙、 ︵かつては教鞭を東海道の地にとり、今は筑前の地で新聞に執筆している、私の談話は君の健筆を生気のな いものにしてしまったとはいえ、よくも私の談片に雲煙を吐くような力を与えたものだ。︶ 以下は佐賀県紀行に譲る。 491
佐賀県紀行
492 明治四十一年六月二十五日 雨。午後七時、佐賀︿現在佐賀県佐賀県佐賀市﹀へ着す。市長石丸勝一氏の外、熊谷 広済、蜂須賀学純、西村万次郎、住友縫之助︵県視学︶等諸氏の歓迎あり。旅館は栄徳屋なり。 二十六日 雨。午前、佐賀中学校にて講話をなす。校長鈴木券太郎氏はもと哲学館講師にして旧知たり。つぎ に、成美女学校に移りて談話をなす。校長は江頭幾三郎氏なり。午後、願正寺において開会す。佐賀県第一の巨 刹と称す。熊谷広済氏これに住す。 二十七日 雨。午前、高等女学校にて演述す。校長は横尾義勇氏なり。県庁に出頭して事務官豊島 氏に面会 す。午後、龍谷中学校にて講話をなす。校長は熊谷氏なり。哲学館出身者寺崎慈弁氏、この校にありて教鞭をと らる。ついで、劇場喜楽舎にて開演す。聴衆満場、千人と目算す。当夕、清漣亭において旧哲学館同窓会を開く。 会するもの関玄透氏、鷲崎覚音氏、梅田等氏、寺崎慈弁氏、久岡重胤氏および随行隈部湛澄氏なり。鈴木中学校 長、熊谷龍谷校長も客員として出席せらる。席上所感一首あり。 同窓一夕会清漣、隣室何人来弄絃、俗曲難傾君子耳、閑談微笑味幽玄、 ︵この夕べに同窓会を清漣亭に開いた。ところが隣の部屋に入った客が三絃をかきならしたのであった。き こえてくる俗曲はわれわれ君子の耳にはなじみがたく、閑談と微笑のうちにこそ深いおもむきがあるのであ る。︶一般有志者、約五十名相会す。
梅森欲舞暁猶昏、風払宿雲初見轍、一路秩田青十里、煙車吹笛入仙源、 ︵梅雨のけぶるような雨がはれあがりそうではあるが夜明けはなおくらく、風がようやくおおっていた雲を 吹き払って、はじめてみわたすことができた。道を行けば田植えの終わった田が青々として十里のかなたま で続くかと思われ、煙を吐く車は汽笛をならしつつ仙人の住むような地に入ったのであった。︶ 八本木より更に腕車に移り、海湾に沿って行くこと四里にして多良村︿現在佐賀県藤津郡太良町﹀に入る。会場は 哲学館出身者杉本大善氏の説教場なり。四隣の水音琴のごとく、蛙声鼓のごとし。 多良山下宿茅楼、夜気清涼夏似秋、一夢醒来灯影暗、水琴蛙鼓破閑愁、 ︵多良山のふもと、かやぶきのたかどのに宿れば、夜気は清らかに涼しく、夏よりも秋を思わせる。ひとた び夢よりさめてみれば灯影もくらく、水の音は琴のごとく、蛙の声は鼓のごとくひびいて、ひそやかなもの おもいを破るのであった。︶ 杉本氏、生来酒をたしなむ。しかしてその風骨、羅漢に似たるところあり。故に﹁酒をのむ君の姿をながむれ ば仏に近き羅漢なりけり﹂の歌を書して贈る。夜に入りて、村内鐘鼓の声競い起こる。これ、村民の田植えのお わりたるを祝するためなりという。これを方語にして浮立︹ふりゅう︺と名付く。浮き上がりて騒ぎ立つるの意な らん。 二日 晴れ。多良より八本木村︿現在佐賀県鹿島市﹀に移り、泰智寺にて開会す。住職光山覚城氏は鹿島仏教各宗 同盟会の主動者にして、今回の開会にも大いに尽力あり。郡長栗本義乗氏も来会せらる。当地には県下第一の稲 荷社あり、これを祐徳稲荷と称す。遠近より参詣するもの四時絶ゆることなし。永田佐次郎氏宮司たり。村長は 494
おさえているかのごとく、たなびいて雲の塀となり、前方の峰をかくしている。︶ 96 武雄町長は金丸要人氏にして、校長は下平忠蔵氏なり。 4 六日 雨。北方村く現在佐賀県杵島郡北方町∨に移りて開会す。会場は永源寺にして、住職は杉岡清通氏なり。当 地は郡内第一の炭坑地にして、工夫各地より輻湊し、すこぶる盛況を呈するを見る。発起者は議員藤崎熊雄氏、 校長後川理一氏、医師田中貫氏、有志家宮原清六氏等にして、なかんずく藤崎氏大いに尽力せらる。夜に入りて、 青年会のために一席の談話をなす。旅館は西田屋という。新たに岩下に客室を営む。余、これに命名して岩陰亭 となす。旧哲学館出身者谷川理尚氏︵旧名規矩丸︶、武雄より同行してここに至る。 七日 雨。白石郷福治村︿現在佐賀県杵島郡白石町﹀に移りて開会す。会場は超光寺にして、発起は各村連合なり。 住職藤永信暁氏、村長田中松太郎氏、福治校長多久島嘉八氏、六角校長大坪庄吉氏、正隆寺住職今泉鳳宣氏等、 みな尽力あり。この地方は米産地としてその名県内に高し。一反の地面に三石ないし三石五斗の収穫ありという。 また、道路泥潭に富む。歩するもの大抵みなはだしなり。 八日 雨。杵島郡より西松浦郡に移る。両三日間同行せる円田視学と途中相別れ、午後一時、伊万里町に降車 し、西松浦郡視学原田千之氏および黒川村長吉田芳吉氏と同船し、海上二里、一樟して黒川︹村︺︿現在佐賀県伊万里 市vに入る。会場は立雲寺にして、旅館は嘉登屋なり。この間の泥路の悪きは白石郷の上に出ず。都人士の到底歩 しあたわはざる所なり。 衝雨何辺到、一帆入黒川、岸頭泥没脚、村路険於船、 ︵雨のなかいずこに至るのか、帆をかけた船は黒川村に到着した。岸のあたりの泥はくるぶしの上まで埋ま
十一日 晴れ。曲川村︿現在佐賀県西松浦郡西有田町・有田町﹀浄源寺にて開会す。清風軒に満ちて、消暑によろし。 98 住職は原田量海氏なり。村長西山万蔵氏、校長石丸鷹之助氏、学務委員島田卯吉氏等の発起にかかる。 4 十二日︵日曜︶ 雨。大山村︿現在佐賀県西松浦郡西有田町﹀竜泉寺にて開会す。発起者は金原文太郎氏、浦野孫市氏 等、村内の有志なり。 十三日 晴れ。朝、西松浦郡を去り、有田、久保田両駅を経て東松浦郡鬼塚村︵現在佐賀県唐津市﹀に入る。心月 寺にて少憩の上、小学校に至りて開会す。連日の森雨のために濁水あふれて駅路に上がる。開会は村内の発起に して、村長神戸由政氏、前校長樋口敬太郎氏、学務委員寺沢融禅氏および各区長、みな大いに尽力あり。当夕、 旅館に宿す。 十四日 晴れまた雨。午前、唐津有志総代長井英山氏、佐藤林賀氏の案内にて、同︹唐津︺町く現在佐賀県唐津市∨ 金波楼に移る。清風さっとして簾を巻ききたる。しかのみならず、風光明媚なること鎮西第一と称す。ここにき たるもの一吟なかるべからず。 舞鶴城辺避暑台、軒窓偏向北漠開、披襟坐処涼如水、風自黒竜江上来、 ︵舞鶴城の近くに避暑のうてながあり、軒も窓もなべて北の海に向かっている。襟元を開いて座せば涼しさ は冷水のごとく、風はかの黒竜江より吹いてくるのである。︶ 唐津城の雅名は舞鶴城なり。午後、高等女学校に至り、生徒に対して一席の談話をなし、更に公衆に対して演 説をなす。校長は丸山置治氏なり。町長矢田進氏、各宗協同会員奥村蓋円氏、長井英山氏、佐藤林賀氏等尽力あ り。演説後、浄泰寺に移り、堂前にて撮影の後、茶話会を開く。学生援護会の主催にかかる。浄泰寺は薄浄光氏
︵かつて東京においてともに勉学にはげんだ仲であり、鎮西の地で再会してこの茅屋に酒をくみかわしてい oo る。話はおのずと三十年前の事どもであるのだが、この楽しみはいったい夢なのかあるいは現実なのかうた 5 がわしくさえなるのであった。︶ 十七日 晴れ。梅森初めてはるる。この日、東松浦郡を去りて小城郡に入り、多久村︿現在佐賀県多久市﹀にて開 会す。会場は専称寺なり。各学校連合の発起にかかる。多久村長は鳥越剛撲氏にして、校長は江口唱氏なり。郡 視学三上新氏来会せらる。演説後、孔子廟に拝詣す。規模徹然、古色蒼然、人をして崇敬の念を深からしむ。 大道今来何処求、儒林粛颯幾春秋、宣図多久村南路、聖廟撮然古色稠、 ︵儒学のいわゆる大道を今やいったいどこに求めようか、儒者の世界のさびしくおとろえて何年を経たこと であろう。ところがなんと多久村の南の道には、孔子廟が厳然と古色濃いままに建っているのである。︶ 当夕、旅館に宿す。この地は故草場船山翁の郷里にして、今なお漢学の勢力ありという。 十八日 晴れ。小城町︿現在佐賀県小城郡小城町﹀に移りて開会す。校長円城寺源次郎氏、同五郎川一郎氏等、教 育家の主催にかかる。会場は中学校講堂にして、宿所は緑屋旅館なり。演説後、公園に散策を試む。県下第一の 公園と称す。桜樹多し。 十九日︵日曜︶ 晴れ。牛津町︿現在佐賀県小城郡牛津町﹀正満寺に移り、昼夜二回開会す。当地は本県商業の中心 との評あり。住職桑戸廓然氏および医師副島武熊氏の多大なる尽力により、盛会を得たり。町長久本泰三郎氏、 校長古川栄氏および中野玄透氏、東大心氏、玉浦翠厳氏、清水文也氏、白木勝三郎氏等もまた、大いに助力せら る。すなわち開会の主動者は教育家および一般有志諸氏なり。
一水の両岸にまたがり、二橋を架してこれと連接す。水心に納涼亭を設く。すこぶる消暑によろし。これに亭名
りて開会す。途上、渓水往々かかりて飛漂をなし、水車転々声絶えず。佐賀電灯の水源もここにとる。目下、工 02
事中なり。 5
渓頭一路水声喧、送到脊振山下村、深谷怪看工事急、川源変作電灯源、 ︵谷のほとりにあるひとすじの道には水の音がかまびすしく響き、瀬音に送られるように脊振山のふもとの 村に至った。この深い谷ではなんと工事が性急にすすめられて、川の源は電灯の源に変わろうとしているの だ。︶ 会場は小学校にして、休憩所は鉱泉場なり。新築ようやく成り、本日はじめて入泉を試む。校長宮崎良輝、助 役一番ケ瀬瑳八両氏、主動者となる。当夕、夜に入りて神埼町に帰宿す。当町は素麺の産地なり。 二十三日 晴れ。神埼町︿現在佐賀県神埼郡神埼町﹀真光寺にて、午前、午後ともに開演す。午前の聴衆は講習会 員なり。当地開会は郡役所の指導と教育会の主催と宗教家の賛助とにより、郡長郡山軍助氏、視学古川氏、書記 綾部氏、校長野田魁氏の斡旋にかかる。浄光寺住職後藤智水氏の尽力またすくなからず。午時は浄光寺において 喫飯かつ休憩す。室ひろく風満ちて、暑を消するによろし。 二十四日 晴れ。午前午後開演、前日のごとし。これよりさき、旧哲学館講師東慈海氏の逝焉を聞き、弔詩を 賦してこれに贈る。 慈師留錫後、西筑仰明星、一夜暗雲度、仏天復晦冥、 ︵慈海師がこの地にとどまられてから、西筑の人々は明星を仰ぐがごとくであったが、師の遷逝は一夜にし て暗雲たれこめ、仏の道もまたくらくしてしまったようである。︶壁上に﹁去年今夜坐清涼﹂︵去年の今夜、清涼に座す。︶の詩編を掲ぐ。故にこれを詩中に入るる。また、大内 青轡氏作﹁風花雪月為維新、宇宙荘々不見人、八万四千煩悩外、更無一物与吾親﹂︵自然の風物、風花雪月もあら たに、天地四方 々として人を見ず、八万四千の煩悩の外に、さらに一物とわれと親しむものなし。︶の詩をかけ るを見て、これに次韻す。 宇宙由来万象新、誰言無法又無人、若君欲接真如境、須与風花雪月親、 ︵宇宙ではもとよりあらゆる現象も新しく、だれがいったい法もなく人もないというのであろうか。もしも あなたが真実の境地を知ろうとするならば、当然、風花雪月の自然と親しむべきである。︶ 二十八日 晴れ。麓村︿現在佐賀県鳥栖市﹀精高等小学校にて開会す。麓、旭両村の発起にして、村長日吉源三郎 氏、藤田礼作氏、校長中島良助氏、宇野正元氏等の主催にかかる。宿所は善竜寺なり。 二十九日 晴れ。中原村︿現在佐賀県三養基郡中原町﹀長善寺にて開会す。住職水智是忠氏、村長中原熊一氏、校長 阿部清一氏等の主催とす。 三十日 晴れ。北茂安村︿現在佐賀県三養基郡北茂安町﹀伝称寺にて開会す。住職護山大乗氏、村長藤永市祐氏、校 長岡村織三郎氏等の主催にかかる。 三十一日 晴れ。炎熱、日一日よりひどし。三川村︿現在佐賀県三養基郡三根町﹀光円寺にて開会す。南茂安、三川、 上峰、三村合同の発起にして、三川村長山田佐吉氏、高等校長三ケ島成一氏、尋常赤司寛作氏等、各村長および 校長の主催にかかる。当夕、郡長福地由廉氏来訪ありたれば、ともに晩酌を試む。 八月一日 晴れ。朝、三川村を発し、久留米駅にて乗車、帰京の途に上り、随行隈部湛澄氏と手を分かつ。郡 504
たのである。︶ 市郡 佐賀市 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 佐賀県開会一覧表 町村 会場 寺院 劇場 武徳会場 女学校 女学校 中学校 師範学校 中学校 商業学校 商船工業学校本校 商船工業学校分校 武徳会場 寺院
一一一一一一一一
jー一一一席
席席席席席席席席席席席席席数
聴衆 八百名 一千名 五百名 六百名 四百名 三百五十名 三百名 八百名 二百名 二百名 二百五十名 百五十名 五十名 主催 市内有志 市内有志 市内有志 成美女学校 高等女学校 龍谷中学校 師範学校 佐賀中学校 商業学校 商船工業学校 商船工業学校 婦人会 茶話会 506佐賀郡 同 藤津郡 同 同 同 同 同 杵島郡 同 同 同 西松浦郡 同 同 同 同 春日村 中川副村 多良村 八本木村 能古見村 北鹿島村 南鹿島村 同 武雄町 北方村 同 福治村 黒川村 大川村 大坪村 曲川村 大山村
寺寺寺寺寺寺旅寺小社中寺寺寺教小小
院院院院院院館院学務学院院院会学学
校所校
所校校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
二百名 二百名 六百名 五百名 七百名 五百名 四百名 百五十名 三百名 四百名 百名 五百名 三百名 六百名 七百名 七百名 二百名 教育会 教育会 村内有志 仏教団 同 同 中学校 婦人会 教育会 村内有志 青年会 各村有志 村内有志 村内有志 三村合同 村内有志 村内有志 507東松浦郡 同 同 同 同 同 小城郡 同 同 神埼郡 同 同 同 同 同 三養基郡 同
基鳥脊城同蓮同神多牛小相鬼浜同同唐
山栖振田 池 埼久津城知塚崎
津村町村村 村 町村町村村村村 町
寺寺小小寺寺寺寺寺寺中寺小寺寺女女
院院学学院院院院院院学院学院院学学
校校 校 校 校校
二二二ニー二二四二二二二二ニー一二
席席席席席席席席席席席席席席席席席
四百名 二百五十名 二十五名 三百名 二百名 四百名 四百名 五百名 三百名 四百名 百五十名 五百名 二百名 四百名 五百名 四百名 四百名 町内有志 高等女学校 学生援護会 四力村合同 村内有志 村内有志 教育家 教育家 村内有志 教育会 同講習会 村内有志 青年会 二村合同 村内有志 町内有志 村内有志 508同同同同同
合計田代村
麓村
中原村
北茂安村
三川村
一市、 小学校 小学校 寺院 寺院 寺院席席席席席
三百名 五百名 四百名 五百名 四百名三村村二二
村内内村村
合有有合合
同志志同同
八郡、六町、二十七村、五十ニカ所、八十八席、二万四百七十五人 509筑後国紀行
510 明治四十一年八月十二日夜、新橋発車。十三日午前十時、京都着。哲学館大学出身松本雪城氏とともに伏見町 ︿現在京都府京都市伏見区﹀に至り、大谷派別院にて開会す。聴衆百人、なお盛会と称す。安田英之助氏、四方卯三郎 氏等とともに橋畔の旅亭にて晩餐を喫し、ただちに西向の汽車に投じ、翌十四日、糸崎駅浜吉支店に休憩し、十 五日午前十一時、福岡市に着、博多妙行寺︵菊池敏彦氏所住︶に入る。午後、西公園愛勝館において、哲学館お よび東洋大学同窓大会に出席す。遠近より来会するもの約五十人なり。 荒浪平治郎、薄浄光、杉本大善、谷川理尚、大友良照、大塚恵暢、山本祖学、江藤昇道、堺三司、渋谷智淵、 菅原義麿、大関等洋、直江秀円、隈部湛澄、山田鉄太郎、平田良知、本山知英、井上義正、十時護城、渡辺 豪、武井義信、竜淵猷山、園井清雄、堤右一郎、鶴田寧彦、中野景雄、増田円智、古田虎次郎、甘城普該、 斎田耕陽、菊池敏彦、光応照久、道永甚助、泉含章、橘慶導、上野直一、吉田文太郎、木尾真純︵以下これ を略す︶。 旧東洋大学講師石川成章氏も出席せらる。席上、筑前琵琶の余興あり。即吟一首、左のごとし。 同窓五十名、相会覇台城、懐旧三杯酒、琵琶声裏傾、 ︵同窓生が五十名、覇台の旅館にあいつどう。学生時代を懐かしみつつ数杯の酒をくみ、琵琶の音のひびく なかで傾けたのであった。︶蔵氏、校長は野田竹次郎氏なり。午後、江浦村︿現在福岡県三池郡高田町﹀光万寺にて開演す。住職は木下徳集氏、 村長は吉永政太郎氏にして、主催は江浦、岩田、開、飯江、四力村連合なり。聴衆一千余名、大堂立錐の地なき の盛会を得たり。このごろは連日の炎晴にて、暑気やくがごとし。詩をもってその実況を示す。 壇上何人講大乗、此時暑気甚於蒸、堂々説去絞心血、背腹流汗知幾升、 ︵演壇の上ではだれが解脱への説法をなすのであろうか、それは私なのだが、この時期の暑気は蒸されるよ りもひどいのである。堂々として説いて心血をしぼり、背にも腹にも流れる汗は幾升であったろうか。︶ 二十日 晴れ。三池郡より山門郡に移る。午前、瀬高町︿現在福岡県山門郡瀬高町﹀正覚寺にて開会す。聴衆満堂、 千をもって算す。主催は教育会および和同会にして、大いに歓待を受く。郡視学今村貞次郎氏および高等小学校 長高野種臣氏の尽力少なからず。町長は太田豊蔵氏なり。哲学館大学出身者十時護城氏、武藤蔓人氏、ともに来 会す。宿寺の姓は島添にして、壁上幽霊の図を掛く。よって一作を試む。 瀬高村外鉄車停、一路稲繁田色青、日暮客庭人散後、孤灯影下友幽霊、 ︵瀬高村のはずれに汽車がとまり、ひとすじの道に稲田が青々とひろがる。日も暮れて客堂の人々が去った 後は、ぽつんとともる火影のもとに、私は壁上にかけられた軸に描かれる幽霊を友として向かい合っている のである。︶ 二十一日 晴れ。午前、富原村︿現在福岡県山門郡山川町﹀山川小学校に至りて開会す。教育家および宗教家の発 起なり。その地、肥後国境に接す。当日、瀬高町に帰宿し、旧藩主立花伯私設の農園を参観す。 二十二日 晴れ。午前、柳河町︿現在福岡県柳川市﹀に移り、西方寺において開会す。郡内屈指の大堂も、聴衆を 512
み、私とともに寺院の一室に酌んだのであった。︶ これよりさき某氏の嘱に応じ、禅意の詩を賦す。 禅意吾難解、曾聞色即空、熟眠無念処、大悟在其中、 ︵禅のもつ意味は私にとっても難解であるが、かつて色即空と聞いたことがある。熟睡、無念のうちにこそ、 大いなる悟りは存するのである。︶ 昼夜ともに蚊軍来襲す。 二十六日 晴れ。午前、城島町︿現在福岡県三潴郡城島町﹀高等校にて開会す。休憩所は宇都宮正氏の宅なり。主 催は実業団体とす。当町は造酒をもってその名高し。来訪者より贈られし酒瓶積みて山をなす。宇都宮氏の名酒 をコ鶴﹂というを聞きて、詩たちまち成る。 筑後川南路、酒家来此尋、主人有多福、一鶴撞千金、 ︵筑後川の南の道に、酒家が来てたずねたならば、主人には多福があり、コ鶴﹂は千金をさらうと答えよう。︶ 午後、大善寺村く現在福岡県久留米市v小学校にて開会す。宿所は朝日寺なり。教育家および仏教家両団体の主催 にかかる。都内各所開会に関して特に尽力せられたりしは、松崎郡長をはじめとし、庶務課長中島次郎氏、視学 平位豊太郎氏、郡書記赤司百雄氏、郡吏溝田秀夫氏、小学校長塩川団氏、江頭尚令氏、山浦真氏、大城義鏡氏、 新田浄沃氏、山田元味氏、中島教隆氏、岩永志道氏等なり。なかんずく中島氏は始終案内の労をとられたるは深 謝せざるを得ず。溝田郡吏は従軍中負傷し、今なお眼底に砲丸を蔵すというを聞き、左の詩を賦して慰安す。 百戦功成国始安、皇威今日圧三韓、謝吾義勇奉公厚、眼底猶留砲一丸、 514
大石琢磨氏の主唱にかかる。氏は村治上その名高し。校長は小島竜石氏なり。途中、一作を得たり。 秋風渓上路、傍水入辺春、肥筑山連処、白雲自作隣、 ︵秋風の吹く谷ぞいの道、水にそって辺春村に入る。肥後と筑後に連なる山々には、白雲がおのずと隣り合 うようにかかっている。︶ 午後、光友村︿現在福岡県八女郡立花町﹀専勝寺に転じて開会す。聴衆、千三百人と称す。住職月足円融氏、村長 立花鎮靖氏、校長安部清見氏等尽力あり。 三十日︵日曜︶ 晴れ。黒木町︿現在福岡県八女郡黒木町﹀に移りて、専勝寺にて開会す。宿所は町長隈本勝三郎氏 の宅なり。この地、矢部川に浜し、鮎魚の産あり。故にこれを詩中に入るる。 筑南一路走軽車、遥到武陵渓上盧、満室清風満樽酒、虫声冷処酌香魚、 ︵筑後の南の一路を軽々と車を走らせて、はるばると理想郷武陵の谷川のごときほとりにたつ盧に至った。 室内には清風が満ち、樽には酒が満ちて、虫の声の涼やかに聞こえるなかで香魚を肴に酒を酌んだのである。︶ ときに秋涼草根に入りて、虫声庭に満つ。主催は町役場および小学校なり。小学校長堤右一郎氏は哲学館出身 たり。高等校長は宮園万造氏なり。 三十一日 晴れ。午後、雷雨あり。開会は木屋村︿現在福岡県八女郡黒木町﹀光善寺なり。住職を木屋久麿氏とい う。先年、老儒石門翁これに住す。今なお遺愛の幽霊図あり。余、これに題するに七絶をもってす。 石径尽頭粛寺孤、昔年曾此住鴻儒、其人錐去猶留跡、一幅幽霊遺愛図、 ︵石の多い小道の尽きるあたりに、さっぱりした感じの寺がぽつんとたつ。むかしこの寺院には碩学の儒者 516